○
今村(忠)
委員 長い
間委員会を欠席するやむなき次第でありましたが、その間
アメリカに行きまして私
たちが各地を視察しましたうち、
建設委員会と多少
関連のあることをお話申し上げまして、
皆様方の御
参考にしていただきたいと思います。大体今回われわれが減米視察いたしました
使命は、
民主主義下における立法諸制度、並びにこれが
運営を研究することにあ
つたのでありまして、特に
建設関係のものを
調査研究するという時間はま
つたくなか
つたのであります。
テネッシー流域工事監督局の開発のごときは、ひとり私が希望しただけではなく、参りました議員は全員これを希望いたしたのでありますけれ
ども、すでに二箇月の
計画は一切ワシントンにおいてはできておりまして、どうしても一日といえ
ども割くことのできない
実情でありました。
従つて建設関係の特別の
視察研究というようなことの
報告は、一切申し上げられないのでありまして、ただ見たままをお話して御
参考にしていただきたいと思うのであります。
第一は
道路に関してでありますが、今回私としては二十七年目で
アメリカに再び参
つたのでありますが、ま
つたく
交通上の大革命が行われつつあるということであります。もう一つ具体的に申しますと、
汽車と
電車がいらなくなりつつある。いわゆる
飛行機と
自動車に置きかえられつつあるという事実であります。
飛行機の数等煩わしいことは申し上げませんが、たとえば大きな
都市の
飛行場においては、たいがい五分間に一台ずつの
飛行機が発着しておると
飛行場の
主任者が説明しておるくらいでありまして、たとえて言えば蜂の巣から蜂が出たり入
つたりするというような感じを、私
たちは目のあたりに見てそう感じたのであります。実際われわれの
旅行は
汽車を利用しないで、全部
飛行機とあとは
自動車でこれを
補つたという
旅行でもありました。また
アメリカの急ぐ人、経済的に余裕のある人は、今日おそらくさような
旅行をされておるものと思うのであります。その結果
交通上のほとんど主要な
使命を持
つた汽車と
電車が、順次不要になりつつあるという
現実があるのでありまして、ボストン市のごときは大体
市内電車を全部廃止しております。郊外にはまだ残
つておりますが、旧市街で
町幅が狹い、それに
自動車がふえて
電車の利用が少くな
つて来て、経営の上にも赤字が続く、それへ地下鉄ができたということが、多少大きな原因の一つにはな
つておると思いますけれ
ども、とに
かく大
部分自動車が利用されるように
なつた。そこで
線路をきめて、拔き差しならぬ
電車の
交通というものは、少くともかような
都市でははなはだ不便なものと
なつた。そこで
市内電車のとりはずしというようなことが始ま
つておるのです。ニューヨークなどにおきましても、われわれ見受けるものは、
電車の数が
減つただけではなく、つまり軌道の上を走る
電車をやめまして、自在に動く車を、鉄をゴムにかえて、
電気自動車にひとしい
電気電車とでも言える、
線路の上を走らないで町の中を自由に
交通できる
電車にかえられております。結局これらは
自動車の数が多くな
つて来た結果だと思うのであります。
そこで
道路についてわれわれの感じたところを言いますと、今
国家が大きな力をも
つて国道建設に当
つております。縦横十文字に
国道の
ナンバー、奇数は縦、偶数は横と記憶するのでありますが、とに
かくナンバーをつけて、
大西洋岸から順次着手いたしております。詳しい
計画に基いた
報告を聞いたわけではありませんが、見たままで申しますと、大体片道三線、つまり昔の言い方で言うと複々々線であります。つまり一方の
交通だけに三つの
速力の
違つた車を通す
計画を立てられておる。一方復りの方の側も同様にな
つておるということでありまして、大体二十マイルを單位として、二十マイル以下の
自動車が一番右を走る。次に四十マイルのものが次の線中を走る。それから以上は
左線の中を走る。しかも左の最もスピードを必要とするといいますか、のためにつくられておる線の中は、六十マイル以下で走れば罰金をとられる。それ以上でなければいかぬというぐあいにして、つまり
自動車の線の中に秩序を立てておるのであります。大体
国道は、さような
片側のものが中途で横切ることのできない
程度の、
計画的なものと思いますが、多少
草地帶と言いますか、
緑樹街を、緑の
道路をはさんだ
簡單な、妙な
言葉で言えば
土堤に等しいものをつく
つておる。つまり
数字や何かではどうしても
法律規則を破
つて右左に行くおそれがあるから、かようなものをつくられておるものと考えるのであります。そしてまた交叉する場所は、かような
国道の場合においては高架線と言いますか、つまり両方の
道路が
平面で交叉するのでなく、立体的に交叉するようにみな
計画を立てられておる。一方が下を
通り一方が上を
通つて、
交叉線でストップする必要がない。それには勢い
片側に
方向をかえるときには、
簡單な
言葉で言えば八の字なりのかつこうで上へ道をかえるというような、多少見様によ
つては従来の
平面交叉のときに
方向をかえるような
簡單なわけにいかないものもあります。けれ
どもストップのないことは非常に
速力の上において違うということは同時に考えられます。
そこでかような意味に、
自動車が
飛行機とともに
交通上大きな
使命を持
つて来たとなりますと、いろいろな
施設ができるのでありまして、これが
都市計画の上にも考えられなければならぬ点であるので、むしろ御
参考までに申し上げるのであります。たとえばほとんど小さな市は、町の中で
自動車をとめておかれたのでは、他の
交通に支障を来します。
従つてノー・パーキンギ、つまり
自動車をとめておくことを許しておりません。そうなりますと、商売によ
つては商売することができなくなる。一例を申し上げますと台所の食料を売
つておるような、一口に
言つてグローサリーというような店は、どうしても奧さん方が買出しに来て、
自動車をとめておいて、比較的目方のかかるじやがいもであるとか、野菜であるとか肉であるとかを買
つて運ぶ。それが今言う
通り、
自動車をとめることができぬとなりますと、
婦人連はさような店に買いに来ない。みな
自動車を持
つておるのでありますから、郊外に、かりに十町、二十町、いな一里ぐらいは遠くても、
自動車に乘り出してから十分か十五分すれば到着できのでありますから、
自動車を置くことのできる設備のあるマーケットでなければ買物に行かない。これがいわゆるドライブ・イン・マーケットであります。私は
簡單に乘込市場と訳しておりますが、まあ
簡單に言えば乘込んで行くことができなければ、
自動車を持
つておる人
たちは買いに行かない。あのかかとの高い靴をはいておる
婦人連中が、
自動車をとめておいて一町も二町も歩いて、かりにも一貫目、二貫目の目方のかかるものを買いに行くことはしないのであります。ちようど学校を思ひ出すような広場を持
つた、かぎの字型につくられたマーケット、そこへ行けば肉もパンも野菜も果物も一緒に買
つて帰れる。すぐ目の前に
自動車が置いてありますから自分で運ばなくても、配達する制度を持たない
アメリカでも、この
程度なら売
つた店の店員なりが届けてくれる。つまり
自動車の中にまで入れてくれる。こういうことができるような、いわゆる乘込市場でなければ買物に行かない。またそれが非常におそろしく今日各地にできております。だから見様によ
つては、デパートでありますとか、こういうマーケットの類が、郊外へ郊外へと
道路の都合のいいところを見て広が
つておるということであります。これは
都市計画の上にも、よほど今後、日本あたりでも、将来の
交通改革というか革命というものを考えてやらなければならぬ点じやないかと思います。
それに附随したというか、似たものは、映画場も
自動車に乘
つたままで映画を見られるようなものが郊外にどんどんできております。つまりドライブ・イン・シアターというような、乘込んで見える映画場、これはなかなかいろいろな意味があるのでありまして、広い場所に映寫場をつくり立てて、乘込んで来た
自動車がちやんとある形をも
つて同じ
方向に見えるようにしております。しかも見ておる人がゆつくりと見られるようにするために、波型に
自動車を置けば前の方が上
つてうしろに寄りかか
つて見ることができるというぐあいに、
自動車の置場がちやんと波型にな
つておる。そうしてこれは屋外でありますからトーキーで映画を映しましても、一つの拡声機から出る音では聞こえませんから、
自動車一台一台にそのトーキーが放送されると言いますか、拡声機が一つずつついておる。それはただ拡声機がついておるだけではない。必ずエアー・コンデイシヨン、空気によ
つて室内と言いますか、その
自動車の中の温度を調節するための用意ができておる。冬はあたたかい空気が送られ、夏は冷い空気を送る。これは後に建築のところで申し上げますが、今日
アメリカでは、室内は六十度から七十度まで保てるような裝置ができておりますが、それを
自動車の中で映画を見ておるものにも行くようにしてあります。入場料というものは入口でとる向きもありますが、概して機械を、
簡單に自動的に二十五セント入れると運動を始める、というと変な言い方でありますが、使えるようになるということで、入場料を拂
つたという形式になるようにな
つておりますから、もう一つ言いかえますと都合のいい所にとま
つて、二十五セント入れて、その機械を
自動車の中にとりつけると同時にいわゆる拡声機で録音、映画の説明と言いますか、音楽もともに入
つて来るし、空気の調節できるものも同時に入
つて来て、そうして
電気を消して若夫婦なり、彼氏と彼女がこの中で映画を見ることができるというようなぐあいにな
つておる。こういう映写場が郊外にできる。またそういうようにしなければ先ほど言う
通り、おそろしく大きく
なつた
都市の映画場で映画を見に行くということは、もはや非常に困難な仕事にな
つておるということであります。
もう一つそれに
関連してホテルでありますが、
自動車を持
つての
旅行が非常に多くなりましたから、町の中の大きなホテへ
自動車を持ち込んで来たあとの始末というものはたいへんなことになる。大体かような
自動車を持
つての
旅行者のためにというので、これまた郊外にモテルというものができた。大体もとはキャビンとい
つたそうで、ニューヨークその他いわゆる東部の方におきましては、こういうような
自動車ぐるみとまることのできる裝置と言いますか、設備のある旅館は、キヤビンと道のはたに書いてありますが、これが太平洋岸西部
地方でありますと、モーター・カーを持
つてとまれるホテルというのでHとMを置きかえて、ホテルがモテルにな
つておる。これがサンフランシスコ、ロサンゼルスの郊外には実にたくさんありまして、
自動車で
旅行しておる人
たちに一目でわかるように、しかもなるべくネオンでも
つて設備してある。これが
自動車に乘
つて旅行しておる人にと
つて、どんなに便利であるかということも想像されますし、町から逆に若夫婦がとまりに出て来るということもまた考えられると思います。
自動車を持
つておる人のための一つの新しい宿泊所の現われであります。そうな
つて来ますと、
都市計画と言いますか、市役所がこれが
管理にあたるのであるが、非常に苦心をしておるのでありまして、サンフランシスコやロサンゼルスの例を言いますと、公園の下はまずも
つて全部ガレージにつくり上げるというか、つくり込まれるというようにな
つております。公園の下をたいがい五階くらいのガレージにしてある。だから上へ行
つて見れば普通の公園でありますが、その下に五階のガレージがあるとなれば、
自動車の数千台は入る。これは見ようによ
つては、
交通上必要な
自動車を処分するために市が努力したいといいますか、これがたいがい一時間三十セントくらいで預かるようにな
つておりますから、むしろ見ようによ
つては市が財源を得るために設備しておるようであります。
自動車を運転した者は、入口まで行
つて、かぎを渡して切符をもら
つて来るのであります。切符には預り証と言うか、番号が書いてあります。それには何時に預か
つたという時間が書いてありまして、用事を済まして行きますと、その預り証に書いてある時間と照し合せて、一時間半で幾ら——つまり一時間について三十セントくらいの割で料金をとるのであります。そうすると、向うでは適当な番号のところの
自動車を、ちやんと入口のところまで運転して来てくれます。つまり預かる方で、
自動車をちやんと処置してくれまして、欲しいときにまた向うがそこまで出して来てくれるということにな
つておる。それが実に便利であるとともに、市の財源としてもなかなか大きいのであります。もう一つ、市の方で財源を得るために、都合のつく場所に市が指定をして、市営の駐車場をつく
つております。つまり市の方で、ここへはとめてよろしいという場所をきめると同時に、これが有料にしてある。ただではとめない。どういうものがあるかと申しますと、これも先ほど映画のときにお話したように、
簡單に言えば、一つの時計台のような、まるいものが立
つておる。これに、市でや
つておる場合にはたいがい一時間十セント、小さい市でありますと、五セントを入れますと、六十分の針がこちらに来ておりまして、これが時計のように六十分きざんで来る。六十分すなわち一時間十セントないし五セントで駐車することを認めて、これには広い地域を監視して歩く者がついておりまして、時間を越すと罰金をとる。つまり一時間十セントくらいのところでも、時間を経過してなお駐車しておるときには、二ドルないし三ドルとる。これは州によ
つて一ドルのところもございます。だから一時間できちつと帰
つて来れば、十セントないし五セントで済むものを、時間が超過すれば、ただちにその超過罰金というものがかかる。それはどうするかと言いますと、
簡單でありまして、
自動車の番号を控えておいて、これに罰金の額を紙に書いたものを窓にはさんでおくだけでありまして、つまり時間を超過したから二ドルをどこそこに拂いなさいということが書いてあるわけであります。そうして時間を超過した者は、それを持
つて納めるところへ二ドルなり三ドルなりを——ただちにというわけではありませんが、届けに行くというようにな
つております。一例をサウス・カルロイナ州のコロンビヤ市にとりますと、
人口わずか六万のところでありますが、ここでその
自動車駐車場というようなものが、市の收入のうちどのくらいの
割合を占めるかと言いますと、相当な部分を——
簡單に言えば二割近くを占めておるということであります。
自動車がふえて来るとともに、これが処置ということが非常に大きな問題にな
つておるのであります。日本などの
都市計画の上に、かようなことが今後盛り込まれて来ないと、先ほど来申す
電車を不要にするというような問題も起きるのではないかとさえ考えるのでありまして、まあ
簡單に言いますと、
交通上においては、順次
アメリカの例を見て来ましても、一大変化があるのではないかという感じを與えたのであります。
次に建物の点でありますが、
簡單に申しまして、都会と申しますか、市街は上に伸びつつあると言えると思うのであります。二十七年前に行
つたときに、
アメリカで一番高い建物は、ニューヨークのウルワース・ビルディング五十八階建でありました。今回参りまして、一番高い建物は、タムスクェーアの百二階のエムパイヤ・ステート・ビルディングでありまして、階数において大体倍の高さにな
つております。エムパイヤ・ステート・ビルディングの收容人員はどのくらいかと言いますと、八万ぐらいだと言います。この八万というのは、見物に入
つた人を入れるという意味でなくて、部屋その他の場所において普通働いている、常時入
つている数を言うのでありまして、一つ建物に八万も入るんだということをお考え下さ
つたならば、日本で言うところの
都市というものが、一つ建物の中に入る。これがやはり
交通との関係を持
つておるのでありますから、仮に
自動車のことを一例にと
つてみても、実に建物が空に伸びるとともに、
交通関係を考えて行かなければならぬものがあると思うのであります。地震の多い日本におきまして、建築
技術の進んだと申しましても、かようなものが
都市に現れて来るとは考えられませんけれ
ども、とに
かく現実の
アメリカがかように科学化しつつあるということを申し上げるのであります。
建物そのものになりますと、これはわれわれ各地の族館にとま
つてすぐ感じたことでありますが、窓というものが必要がなくなりつつあるということであります。われわれ日本人の考えでは、建物の窓の役割は、光線をとるところであり、新鮮な空気を入れるものであ
つて、窓のつけ方こそ、建築上における最も考慮しなければならぬものと考えてお
つたのであります。ところが今回
アメリカに参りまして、窓はま
つたく不要になりつつある。建築界においていわゆる一大革命が起きつつあるということを申し上げたいのであります。それはどういうことかと申しますと、先ほどちよつと触れました部屋の気温といいますか、空気はエア・コンディションによ
つて調節されておる。これが旅館などの入口のガラス窓に書いてあります。エア・コンディションと書いてある。空気を調節されておる部屋を持
つておるということを示してあるのでありまして、大体窓が昔はあいてお
つたに違いありませんけれ
ども、それをペンキで塗りかえるときに、閉めたままでペンキで塗りつぶして、開かぬようにな
つておる。そうしてこの部屋はエア・コンディションであるから、窓を開けてくれるなとい
つた、印刷したものが、ちようど手のかぎのかかるようなところに張りつけてあります。それでは部屋の中はどうして調節するかと言いますと、目のつきやすいところに、ちやんと寒暖計といいますか、気温計があ
つて、今部屋が何度にな
つておるかがわかるようにな
つておる。その横手の右左に目盛があ
つて、多少の違いがありますが、七十度から六十度までを動かせるようにな
つております。言いかえれば、部屋の気温が年中六十度ないし七十度に、任意に変更させることができるという仕組みにな
つております。これが大部分いわゆるエアで来るのでありまして、寒いときには、それを動かすことによ
つて、温い空気が入
つて来て、六十度から七十度の調節するようにな
つておる。熱いときには同様に六十度から七十度までの間は下げることができるので、順次つめたい空気が入
つて来るようにな
つておる。でありますからその建物の室内においては、六十度から七十度が、今言う空気によ
つて保たれておる。これはもとより新鮮な空気を持
つて来ておりますから、部屋の中のよごれた空気を窓によ
つてかえる必要がないようにな
つておる。もう一つは明りでありまして、今日部屋の明りを窓から入れるということは、もう行われておらない。学校などの例をと
つてもそうでありまして、日本などでは、文部省では窓のつけ方と光線ということをよほどやかましく言
つておりますが、
アメリカではその必要がない。現にもう古い建物では、窓がついておるにいたしましても、どうしても窓側と窓から離れた場所とは光線が一様に行きませんから。かようなところにも、ちやんとよく誘蛾燈などに使
つておるような、ネオンのような電燈がつけられておる。つまり牛乳色の光を出す
電気がついておる。そのつけ方が窓ぎわに一本つけて、概して暗いときには三本つける、五本つけるというようにして、光線の調節用としてつけてある。もう一つ徹底したのは、そういうものの下に、ちようど碁盤の目のようにした真白い、いわゆるその高さと距離によ
つてわけるのだそうでありますが、つまり碁盤の目のようにした薄い白くぬ
つたものを明りの下におきまして、分光作用によ
つて部屋中を一律に明るくする。具体的に言いますれば、ペンなり筆を持
つて字を書くにしても、どつちからも影ができない。そういう光線を部屋中一律に與えるというか、得られるように、今日これは学校のあるところはもとよりでありますが、人の多く集まるようなところはそうな
つております。国際連合などの
会議においても、どこへ行
つても一様の光線が得られるようにな
つております。ことに驚いたのは、ミネアポリスのノースウエスト・エアー・ラインの修繕工場を見に参りまして、五千名ばかりの人々が働いておる工場を見たのでありますが、ここの工場には窓がない。日本あたりだ
つたら、労働基準法とか工場法とかで大問題になるのでありますが、今言うエアー・コンヴァーションによ
つて、どこの部屋でも、タバコでむんむんするとか、暗いとかいうことは一つもない。大陽の光線といえ
ども、完全に平等に全部人に與えることはできないと思われるほど、どこの片隅にお
つても暗いことのないようにな
つておる。私はこれを見て、なるほど建築界に一大改革が行われつつある。最もわれわれが心配する太陽の光線を入れるということは、まずこれで大体不要になるのではないかという感じまでするほど行き届いたものである。こういうことが建築界というか、
都市などに考えられるのだとすれば、
都市計画というものも、また一段と今後改めて行く方がよいのではないかという感じがいたしたのであります。
次に限られた時間でありますから、先ほど
道路のことは申しましたから、
河川のことを申し上げたいと思います。われわれ
建設委員は、雨が降る、暴風があると
河川は氾濫する。つく
つた堤防は流れる。一体
アメリカはこれをどうしているだろうか。これを
飛行機の上から見たわけでありますが、
簡單に言
つてアメリカの
河川は原始
河川である。堤防などをつく
つている
河川は、町の近くや、中にはありますけれ
ども、大体ない。それはどういうわけかといえば、
河川が少々氾濫するようなことは、まず耕作地に影響を與えておらぬ。それだけ広いものを持
つておるのでありますから、水が多くな
つてそこらの岸をどうするというようなことは、そう問題ではない。第二には
飛行機で見て実に驚くことは、至るところダムをつく
つておる。これの最も徹底したものがテネシー溪谷の開発となり、何というか基礎的なダムであろうと思うのでありますが、これはひとりテネシー州だけではない。つまり
河川の氾濫を防ぐのはダムをつくることにあろうと思う。支那の洞庭湖が揚子江の天然にできておる遊水池であるということを、冬
旅行に行
つて洞庭湖を見た私は痛感したのであります。地図の上には洞庭湖という大きな湖があるはずだが、冬行
つてみれば、一本川があるだけであります。それが夏は漫々と水をたたえるのであります。これによ
つて自然に夏季の氾濫がとめられておるのではないかと思
つたことがありますが、それを
アメリカが人為的にや
つているといえば言えるのでございまして、川の氾濫を防ぐとともに、これが原子爆彈までつくるところの原動力と
なつたということを忘れてはならぬと思うのであります。原子爆彈製造に厖大な
電気が必要であ
つた、それがたまたまテネシー溪谷の開発によ
つて得られたのだとも言われております。もとよりかようなことは具体的に知
つて申し上げるわけではありません。ただ一応の話でありますが、ダムはし細に注意して見れば、皆発電所を伴
つております。これは
河川対策の上に非常な示唆を與えるものでありまして、幸か不幸か山の多い日本でございますから、むしろこの際利用する意味において、大きいダムを山嶽地帶につく
つて、一面には渇水期の水の調節に充てるとともに、燃料を得なければ、九州炭田地帶の鉱害のごとく、石炭を掘れば当然伴うところの被害を防ぐ必要がある。その根本対策としては、やはり何かに原動力を得ることにあるのではないかと思う。工業の基礎的原料である石炭、あるいは石油の十分ない日本としては、どうしても
電気にまつところが多いわけではないかと思うのであります。われわれ
建設委員会に総合開発的な
委員会ができて研究いたしておりますが、この点は徹底的にや
つて参らなければならぬことを痛感いたしたのであります。
建設面に関してはほんとうに見たままの以上のことを御
報告する
程度で、われわれの今回視察に参
つたことは、非常に限られたものでありますが、この際
委員会の
運営ということについて一言だけ触れさしてもらいたいと思います。これはわれわれ
建設委員会においても、またどの
委員会を問わず、
参考になることと思うのであります。
アメリカの立法の基礎とでもいいますか、その中心をなすものは
委員会であります。そこでちよつと背景を説明してみますと、
アメリカでは立法と
行政がはつきりわかれております。法律というものは議会がつくる、しかもその各專門
委員会がつくるのであります。そこで日本では、大体大部分のものは、
簡單に言えば官庁で用意されたものが
政府の提案とな
つて出て来るのでありますが、
アメリカでは、議会みずから、しかも各專門
委員会がつくるわけであります。それでどういうようにしてこれらが基礎的な準備ができるかといいますと、一つは何と言
つても日本にもあります專門員であります。各
委員会の專門員というものは、
アメリカへ行
つて実際の
運営の状況を見たのですが、
簡單に言えば、この道の権威が集
つておると言いたいのであります。
委員会のつくり方を申しますと、こんなぐあいにな
つておらない。
委員はちようど裁判所の裁判官みたいに一段高いところに半円を描いて、こういうぐあいに前に伺
つて場所を占めておりますが、中央にもとより
委員長がおります。そこで立方に関しての
参考といたしまして、一切公聽会の制度をと
つております。その公聽人はいわゆる役所の人であり、また民間の人であるという形であります。
政府委員という形で日本では出ておるが、かような場所で説明する者は、
アメリカでは、
簡單な
言葉で言えば、裁判官の前で被告人が公述台に立たされたというかつこうで公述するのであります。国務長官アチソンの欧州経済援助に関する公聽会も
実情を見ましたけれ
ども、共同
委員会でありましたが、上下両院の
委員が席を占めまして、その前に大概專門員が席を占めております。それから二、三問離れたところに一人離れて机を置いてある。これが公述する台でありまして、ここでアチソン国務長官が公述するのであります。それが終
つてから大体
委員長みずから質問に当るのであります。そのあとを各
委員から質問する。それが、済んだあと專門員の質問が始ま
つて来ます。日本では認められておらぬ專門員の公述人に対する質問が許されておるわけであります。これらのことは一切公開の場所で行われるのでありまして、建て方もそうな
つておりますが、好きなおもしろい
委員会には、もうげたでがらがら入
つて来られるという感じのするようにできた建物の中で、
委員会は開かれておるのであります。
もう一つ説明しておきますと、大体議員会館と
委員会室とがくつついております。しかも
委員長と專門員が近くに、ちやんと設備の上から一体とな
つております。具体的に説明しますと、
委員長の部屋があ
つて、その
委員会に付属する專門員の部屋があ
つて、
委員会の
会議室へ裏から——裏からではなく、正面からかもしれませんが、ちようど
会議室の裏からちやんと出て来て席に着けるというぐあいにな
つております。だから
委員長と專門員とは一体にくつついた
事務所におるということであります。そうしてその周囲に各議員の、
簡單に言いますれば
事務室がある。これには下院でみな二名ずつの祕書を持
つていたしております。話をわかりやすくするために申しますが、日本の祕書みたいにぶらぶらしておりません。全部忙しくタイプを打つか、速記をするかしておりまして、私
たちが見
つてまたく八時間でございません。もう議会の開かれておるうちは、みな專念に、ほんとうにものも言わずに仕事をするくらい忙しく祕書が働いております。徹夜の議会がございました。これらの説明は詳しくいたしませんが、五回投票してどうしても票数が同じで繰返して、徹夜に
なつたのでありましたが、さような場合に祕書並びに
事務員というものは、遅くな
つて困るのではないか、これに特別手当というものが支給されるやいなやと、衆参両院の
事務総長から質問がありましたが、一切手当はございません。それなら何か問題が起らないかというと、議会というものはさようなものと
承知の上でみな勤務いたしておりますという答えでありました。私
たち何かしらぬものを大いに教えられたのであります。それほど議員の祕書
たちは忙しくといいますか、立法の上に、見ようによ
つては努力するという
言葉が当るかもしれませんが、努力しておると言えると思うのであります。そこで專門員がさようなぐあいに実権を持
つて、いわゆる公開の席上で質問できるのでございますから、專門員たる者は非常な力を持
つておらなければ、第一みずからやめてしまわなければはずかしくてやれないというような者が自然にできております。大体にが手は專門員の質問だと議員が言
つておりました。何と言
つても政治家は大まかであります。專門員が食い下
つて質問に入ると、たいがい長官連中以下ふるえ上るというくらい、実に食い下
つてびしびし言いますし、專門員からも要求して、明日の午後三時までに関係資料を届けることができますかという質問をされておるのを聞きました。一切要求する資料が出て来なければ、公述したものを立証することができないことになる。民間の側から出て来て公述する者に
至つては、実に驚くべきでありまして、たいがい一名の公述人に数名の
補助者がついております。何でこんなに大げさなのかと聞いてみますと、これは日本に見られないロビスター法によ
つて、ロビスター制度というものができておる。つまり議会の立法にあたりまして、日本と違
つて役所への陳情が一つもない。なぜかと言いますと、
予算など議会できちんときめたものが役所にまわ
つてそれだけしか役所はできないのでありますから、役所に陳情に行
つてもびた一文の金も出ない。だから役所に陳情に行く意味がない。そこでどういうようにな
つておるかというと、利害関係を持つ団体、たとえば労働組合を初め、中小工業組合であるとか、酒で言えば酒組合であるとか、いろいろな組合がありますと、その代表——というよりも全権を握
つておるような者がワシントンに駐在しておる。それを議会に登録してロビスターになる。つまり立法にあた
つて、賛成、反対、修正等のことを專門に利害関係を代表して議会に当るのであります。でありますからこれらはいかに権威ある研究と用意がされておるかということが想像できます。一例をあげれば、この税法ができたならば、酒組合はやられてしまうんだ、商売上には大きな打撃を受けるとなると、あらゆることを常時研究しておる者が説明に当る。御
承知の
通り、日本では宣言決議なんというものを突きつけて、
簡單に言えば一片の紙を持
つて来て、大きく声をあげて、何とかしてくれと言
つて帰
つて行きますが、向うでは立法のこまかいところにまで触れて、しかも世界各国のあらゆるものを
参考に引いて、こうかえることが当然ではないかと言
つて議員に訴えるだけではなく、口ビスターは全国の新聞に呼びかけたりして輿論を起す。また反対側の議員を全部招待して食事もする。われわれの考えはこうだと言
つて説明する。このような食事まで伴
つて説明を聞くくらいのものは、日本でいう饗応には当
つていません。それは日本のように芸者をはべらして恐しい深酒をして、一人当り恐しい金をかけますようなことは、
アメリカには常識的にない。
簡單に言えば弁当式なもの、定食のようなもので、かようなものに対しては、ロビスターがどんなにそんなことを繰返しても、饗応というようなことにはならない。ロビスターというものは登録するとともに、年四回の会計
報告をさせられておる。それは議会の公報に載ります。昨年の医学会のロビスターは百五十万ドルという厖大なものを使
つておる。ちようどその日の公報に出ておるから見てくれと言
つて見せてくれましたが、だからロビスターは相当の金まで使
つていたします。つまり議員の側にいたしますと、これが一つ法律となるとするならば、
政府の側、役所ではどうであるか、民間の側ではどうであるか、しかも民間の側で利害関係相反するものかどうであるかということが、このロビスターを呼んで説明を聞けばよい。実際は呼ばなくでも先に説明に来るくらいでありますから、議員の方は官民両方の
意見、また利害相対立する両方の
意見がはつきりロビスターを通してわか
つておるということであります。その上に国会図書館というものがありまして、ちようど專門
委員百六十名と同じくらいな、立法考査局には各專門
委員会ごとに三、四名ずつの権威者が用意されておる。たとえばタフト・ハートレー法というような労働法を存続すべきか廃止すべきかということが、今日
アメリカで大きな問題にな
つておりますが、これに対しては、ハーバート大学の労働法の権威何々博士はこういう
意見を持
つており、コロンビア大学で労働法を講義しておる何々博士はこういう
意見を持
つてお
つて、
意見が違
つておる。こうなりますと、国会図書館はその二人を嘱託にちやんとつれて来ておる。なぜ来るかというと、ここが実に
アメリカのよい点でありますし、
簡單な
言葉でいえば、金で
解決しておるといえば言えないことはないのですが、議員は年額一万二千五百ドルと二千五百ドル、合せて一万五千ドルの手当を得ておるのでありますが、これらの大学から臨時に嘱託を受けて来ておる立法考査局の人
たちは、年額二万ドルに値するくらいのものが拂われているということであります。そのかわり臨時であります。この労働法が
解決するまでということで来ておる。それでは学校の教授がどうして来るかといえば、半年大学で講義して、半年議会があるときだけ嘱託として来ておる。そうなりますと、大学の先生などが著述をして收入をはかるよりは、図書館へ行
つて、しかも
アメリカ第一の図書館で研究しつつ、国会の要求を満せるというので、どの学者も喜んで来るのであります。つまり経済的にも有利なこともあるというので、どの人でも喜んで来る。こういうような人が寄
つた立法考査局があ
つて、百六十名の人が常に用意されておるのでありますから、議会の討論というものが、もう新聞、雑誌の批評する余地のないものがあらかじめ用意されてあそこで法律となり、あるいは廃止される、修正されるということであるなら、
国民は納得できるというのが、すでにあると思う。
そこでこれらの
運営の背後となるところの政党の話を一口触れておかなければなりませんが、
アメリカでは、政党に総裁がなくて、党則がなくて、除名がないということを申し上げておきたい。総裁がなくて、党則がなくて、除名がないとい
つたら、一体われわれ自分らの議員生活から比較して、どういうことが考えられますか、実に自由であります。党の方針に従わずに反対投票しても、除名されることはない。ことごとく議員それぞれの信念によ
つていたすのであります。そんなにばらばらなことをしたら困りはしないか、そんな党則を乱すようなことがあ
つた場合に、どういうふうにして処分せられるかといえば、選挙できまりますと言う。党則に反するようなことを平気でや
つておれば、二年ごとに行われる選挙でそんな者は当選しませんよと言う。これが私は民主主義だと思う。つまり議員というものは選挙した
国民に
責任を負
つておるだけである。大臣になれず、次官になれず、自分の行動で除名されるということがない
アメリカの議員は、ただ法律をつくる以外に何もない。それで党内の役員はどうかといえば、院内の党と外の方が別別でありまして、役員というものは院内にはリーダーが一人おるだけである。それを日本では筆頭総務と訳しておりましたから、岩本副議長な
ども質問したのでありますが、筆頭総務があるなら総務は何人いるのかと言
つたら、笑
つてお
つた。リーダーは一人で終り、副リーダーみたいなものがあるかというたらないと言う。ただこれを
補助するのに幹事役みたいなものは、党によ
つてきめております、リーダーはリーダーで、議会の制度の上で現われておるのはリーダー一人、その人がぐあいが悪い場合には、指名によ
つてかわるだけですと言う。そこで私
たちは、いろいろリーダーの働きといいますか、いろいろの点を見て感じたことは、日本でたとえたなら、学校の級長みたいな仕事をしておるとお考えくださ
つていいのであります。ところがなかなか院内では非常な強い力を持
つておるのでありまして、演説最中にリーダーが立
つてとめてしまう。中途で演説をやめてしまう。どうも
アメリカのリーダーというものは大したものだと思う。何でやめたかわれわれ日本人にはふしぎでなりません。やめた議員に私は質問した。あなたは演説最中にリーダーにとめられて、不平な顔もせずにちやんとやめてしま
つたのは、あれは一体どういうわけなんですかというと、リーダーにとめられんじやないというのです。われわれはリーダーに院内の秩序をませてお
つて、私がその秩序を乱すというか、予定の時間を越えたので、リーダーに注意されて私はびつくりして自分でやめたんだ、それは見ようによ
つて、あなた方から見ればリーダーがとめたように見えましようが、注意を言われたのは確かにリーダーですけれ
ども、私みずからがやめたのだ。リーダーに力があるのではありません。リーダーの言うことを聞くということをわれわれが守
つてや
つておるのですと言う。これが私は民主主義の根底だと思う。日本でこんなことがあ
つたらどうでございましようか。
そこで、そういう中で同じ党に属してお
つて何があるといえば、た
つた一つ
委員長が党内から出るということ。つまり與党から
委員長が各專門
委員会で出ている。大体いろいろ聞いてみますと当選以来
委員は一度きまりますと、終生と言
つていいほど
委員はかわらないそうであります。
旅行中にあるいはまた欠席中に、はなはだしきはそうでない場合に、どんどん
委員がとりかえられる——というと変な言い方でありますが、かわる日本とは違いまして、
アメリカでは一度
委員になると、ほとんど修生その
委員である。
委員長はどうかというと、形式は選定ということにな
つておるかと思いますが、実質は與党側の古参の人が
委員長につくのだそうです。古参というと年齢ではありません。当選回数だということであります。そこでよくよく健康その他でやめない限り、與党の古参の人が
委員長につくのだそうであります。そうだとすれば、これから皆様お考えにな
つても、わかる
通り、
委員長を競争してとるということもありませんし、また
委員長を彈劾するというか非難するということもないわけであります。私はこういう形の中で、
委員会が中心にな
つて立法されて行くというこのやり口、しかも議会闘争の形式で不信任と彈劾と解散というものがない
アメリカでは、二年ではありますけれ
ども、皆專念してりつぱに当られるということを痛感したのであります。先ほど言うような
委員会の非常な行き届いた、しかも
施設の上から制度の上から、実に完全なものがありまして、ああいうかつこうにな
つておるなら、安心してゆつくり立法に当られるということを痛感いたしたのであります。これは多少つけ添えた話でありますが、今後
委員会を
運営して行く上において、もとより制度を改めなければできぬこともありますが、ある
程度は、その心組みで行きますれば、かなり取入れるべき面もあるのではないかと思うのであります。たとえば机の置き方なんかも、研究してかえたらいいのではないか、また発言する形式な
どもかえたらいいのではないかと思います。ことに多少落したのでありますが、
委員会の
会議は、公聽会を除いては、
簡單に言えば祕密会であります。傍聽ができないようにな
つておる。これは私は必要なことだと思う。つまり傍聽人がおるから
委員の考え方がかわるというようなことがありとするなら、やはり私は傍聽のないところで、ほんとうに
委員としての相談というものがあるのではないかというように感ずるのであります。私は一つは、
会議というものはどこまでも
国民の前に公開されたものでなければなりませんが、同時に
委員は
委員として信念的な立場で、決定を見るときには、やはり
委員だけ寄
つて相談するということが與えられてこそ、專門
委員の意義があるということを、私は非常に強く感じたのであります。これらの点も憲法をかえるまでもなくできる点ではないかと思うのであります。
まことにとりとめのないことになりましたが、お與えくださいました時間も多少過ぎましたので、以上見たままを御
報告して、皆さんの御
参考にしていただきたいと思います。(拍手)