○
島津政府委員 菊池
委員の御
質問に
お答えをいたします。
過日の御
質問に対しまして、ソ連がことさら講和條約を遅らしておるという資料はないという御
答弁を申し上げたのでありますが、その際米ソ間に講和條約の手続について対立と申しますか、
意見が合
つていないのは事実であるということも、あわせて申し上げたつもりであります。御
承知の
通り外務省といたしましては、出先の機関も持ちません
関係上、そういうような正確な情勢判断をする基礎資料がないのでございます。大体外電を総合して見るほかはないような
状況でございます。ただいまの
お話で、できる限り講和問題に関するソ連の態度というものも、外電を
もとにいたしまして調べてみたのでございますが、その結果を二、三拾いまして申し上げてみたいと思います。
手続問題の対立はそもそもの極東
委員会とか、対日
理事会ができます当時からあるのでありまして、その後極東
委員会ができましていろいろな
日本関係の問題が討議をされたのでございますが、その後講和問題が現実の問題になりましたのは、一九四七年七月十一日に米国
政府が対日平和予備
会議の招集を提案しておるのであります。その際のアメリカの提案の内容は、期日は暫定的に一九四七年八月十九日とする。会場はサンフランシスコまたはワシントンとする。
会議は極東
委員会とは別個に、極東
委員会構成十一箇国で構成をする。決定は三分の二の多数決として、米英ソ華の拒否権を放棄する、こういう提案が七月二十二日に
関係の十箇国に送付されております。これに対しまして、一九四七年七月二十二日のソ連の回答は次のようなものであります。この招請問題がアメリカだけで一方的に決定されることは同意しない。外相
理事会は無視されてはならぬ。対日平和を審議する外相
会議開催の時期は、米国駐在の英ソ華大使が米国外相とともに決定すべきであるという見解を明らかにしておるのであります。その後応酬がありまして、その当時から今日までこの手続の対立は解けないのであります。その間中国から妥協案なども出ておりますが、これも事態を
解決することにはな
つていないのであります。なおその間講和問題に関連のある事項で、ソ連の態度が察知されるようないろいろな声明ないし主張があるのであります。これも一々あげる煩を避けまして、ただソ連の主張するところは、講和を促進するということはたびたび出て参ります。しかもその内容については一向はつきりいたしておりません。
日本の再軍備を可能ならしめるような産業はいかぬけれども、平和産業は全部自由としなければならぬというような主張も出て参るのであります。しかしながらどの程度のものが平和産業であるということは、全然示されておらないのであります。従いましてどの程度の産業を
日本に許すかというような点も判明いたしません。なおまた
日本人の
海外派遣につきまして、米国
政府から提案がありまして、極東
委員会で決定になりまして、現在はマツカーサー司令官が、
日本人の
海外渡航に関する許否の
権限を持
つておる形にな
つておるのであります。この決定の際にソ連のみが反対をいたしております。その決定になりましたときは、おそらくは棄権をしたのではないかというふうに
考えられるのであります。最近になりましても
日本人の国際
会議の参加、あるいは
日本政府の在外事務所というようなものの設置について、極東
委員会で討議が続けられておるのであります。こういうことに対しても、講和
会議までは
日本が国際社会に復帰するような暫定的
措置は、一切認むべきではないというのがソ連の主張のようであります。そういうようなわけで、講和問題に対してことさら講和の遅延をはか
つておるかどうかということは、われわれとして明確に申し上げかねるのであります。対立が解けないということは、以上の外電によります資料によりまして確実であろうかと
考えるのであります。
なおこの際簡單に対独及び対墺平和條約に対するソ連の態度を御紹介申し上げますと、対独及び対墺平和條約締結の準備は、一九四五年八月二日のポツダム協定に基きまして、外相
理事会の仕事とされております。従いましてこれらの條約については、ただいま申し述べましたような対日講和の場合のように、手続問題の各国間の根本的対立はないのであります。この外相
理事会は一九四七年三月及び四月モスクワで、また一九四七年十一月及び十二月にロンドンで、また一九四九年五月及び六月にパリで開催されました。このたびたびの
会議におきましても、條約の内容となる事項、たとえばドイツにつきましては賠償問題及び
統一問題、オーストリアにつきましては国境問題及び対ソ連賠償問題、そういうものについて米英仏三国側とソ連側とに
意見の根本的対立がございまして、容易に
意見が一致しません。現在に至りましてもまだこれらの平和條約の成立を見ていない
状況であります。ドイツにつきましてはその後一九四九年九月二十一日、米英仏三国の占領地域いわゆる西ドイツに
統一的なドイツ連邦共和国が生れました。これに対しましてソ連の占領
地区には一九四九年十月四日にドイツ民主共和国が生れております。この両
地区はま
つたく別の行政が行われておるような
状況であります。