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1949-11-18 第6回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第6号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十四年十一月十八日(金曜日)    午前十時五十五分開会   —————————————   本日の会議に付した事件 ○中共地区在留同胞実情調査に関す  る件(右件に関し証人証言あり) ○未復員者給與法の一部改正に関する  件 ○特別未帰還者給與法の一部改正に関  する件   —————————————
  2. 千田正

    委員長千田正君) 只今より委員会開会いたします。参議院の在外同胞引揚げ問題に関する特別委員会は、第一回国会以来、海外残留同胞引揚げ促進並びに引揚者の援護に関しまして委員各位の非常なる熱意と、不断の努力を続けて参つたのでありますが、中共地区におきまするところの我々の同胞は、場現在およそ七万有余と推定はされておりまするけれども、これらの方々引揚げ促進に関しましては、これが実現のために特別委員会といたしましては、あらゆる方面に折衝して参つたのでありますけれども、今まで何らの手掛りがつけ得なかつたのでありました。ところが幸いにもこの度山澄丸にて千七百三十四名、高砂丸にて千百二十七名、合計二千八百六十一名の同胞帰つて参りましたのですが、特別委員会といたしましては、この帰られた方々の中から、八名の方に国会にお出を願いまして、中共地区において体験されたこと、或いは未だ帰らざる同胞の動静を御報告して頂きまして、中共地区の我が同胞の実体を明らかにすると共に、一つには留守家族方々の不要の不安を除去することと同時に、他方においては特別委員会としての今後の引揚げ促進資料にすることが、本日の委員会を開催した目的でございます。証人方々もこの目的を十分理解して頂きまして、事実ありのままを率直に御報告願いたいのでございます。  これより証人宣誓を行いますから、全員の御起立をお願いいたします。    〔総員起立
  3. 千田正

    委員長千田正君) 石堂清倫君から順次宣誓をお願いいたします。    〔証人は次のように宣誓を行なつた〕    宣誓書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 石堂 清倫    宣誓書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 金子  麟    宣誓書   良心従つて真実を述べ、何事も  かくさず、又、何事もつけ加えない  ことを誓います。         証人 杉田 敏次    宣誓書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 江口 光夫    宣誓書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 江島 治平    宣誓書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 今井 かね    宣誓書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 北住 君枝
  4. 千田正

    委員長千田正君) 宣誓は終りました。御着席願います。  証人方々に一言申上げて置きまするが、本日の委員会は、先般申上げたような目的で開かれておりますので、各委員質問に対しましては、事実をありのままにお述べ下さるように、重ねてお願いいたします。  尚議院における証人宣誓及び証言等に関する法律第六條によりまして、「宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときは、三月以上十年以下の懲役に処する。」ということになつておりますから、この点は十分御注意をお願いしたいと思います。併し、民事訴訟法の第二百八十條並び刑事訴訟法第百八十六條に該当する場合は、証言を拒否できることになつておりますから、この点も併せて御注意申上げて置きます。民事訴訟法の第二百八十條、刑事訴訟法第百八十六條は、いずれも内容は同一でありまするけれども、御参考までに民事訴訟法第二百八十條を朗読いたします。   民事訴訟法第二百八十條  「証言カ証人ハ左ニ掲クル者刑事上ノ訴追又ハ処罰招ク虞アル事項ニ関スルトキハ証人ハ証言拒ムコトヲ得証言カ此等ノ者ノ恥辱ニ帰スヘキ事項ニ関スルトキ亦同シ  一、証人配偶者、四親等内ノ血族若ハ三親等内ノ姻族又ハ証人ノ家ノ戸主但シ親族ニ付テハ親族関係カ止ミタル後亦同シ  二、証人ノ後見人又ハ証人ノ後見ヲ受クル者  三、証人カ主人トシテ仕フル者」以上であります。  更に証人の方に付加えて御注意申上げておきますが、証人の方が何か御発言したいという場合には、先ず挙手をされまして、委員長発言許可を求めてから御発言を願いたいと思います。委員長許可なくして発言されますというと、この議事の運営の整理の上に非常に差支えを生じますから、予め御了承を願います。  それではこれから審議に入ることにいたしまして、先ず第一に証人石堂清倫君から、先程申上げました、あなたが中共地区におつて体験されたこと並びに現在残留されている人達の要望、或いはその点以外にも我々の参考になるような問題につきまして、御報告願いたいと思います。
  5. 岡元義人

    岡元義人君 議事進行について……。只今から証人証言を求められるわけでありますが、委員長、理事におきまして、大体午前中は一応証人から経緯その他についての参考資料を述べて頂いて、午後には委員からの質問を許して頂く、こういうことになつておりますのですが、只今すでに委員会開会が時間的に遅れまして、もうすでに十一時過ぎておりますので、午前中に各証人が十分ずつ証言して頂くといたしましても、すでにもう十二時を過ぎるということになりますから、一応この際証人に大体一人当り十分内外証言を一通りして頂くと、こういうことを予め委員長からお諮りになつて、そうしてお決めになつて置いた方がよろしいのではないかと思います。
  6. 千田正

    委員長千田正君) 只今岡元委員からの提案がありましたが、お諮りいたします。
  7. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 只今岡元委員提案に賛成いたします。
  8. 千田正

    委員長千田正君) 只今の御提案に対しまして、淺岡委員の賛成がありますが、お差支えございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  9. 千田正

    委員長千田正君) それならば証人の方に申上げますが、大体十分内外におきまして御証言願いまして、尚各委員からいろいろな御質問あると思いますから、その節十分に各委員の御質問の要点に触れて御証言願いたいと思います。
  10. 石堂清倫

    証人石堂清倫君) 簡單に申上げます。  終戰直後から約一年にかけまして、旅大地区、主に大連でございますが、大連では、従来の日本帝国主義時代支配体制が一変いたしまして、進駐いたして参りましたソヴイエト軍並びにソヴイエト軍の援助の下に成立しました中国民主政権、この両者によりまして、帝国主義的な侵略的な制度が一変され、新しく民主主義制度建設されるという、日本人にとりましては全然経験のない新らしい生活に入りました。先ずいろいろな機関並びに企業体というふうなものが、順次ソヴイエト軍司令部、或いは中国地方政権に移管乃至移譲いたされました。これまで旅大地区におきましては、日本人支配者でありましたが、この支配的地位というものが、原則といたしまして全部否認されました。従つて、そこに日本人の新事態に対する認識、又新らしく発展いたして参ります事態について行くという点につきまして、いろいろな矛盾が起つております。日本人の中の有志の者は、先ず新らしい事態に即応するためには、日本人の従来持つておりましたところの軍国主義思想ファッシズム思想侵略主義思想というものを一変いたしまして、我々自身民主化を図る、そうして民主主義の地盤に立つた上で、新らしい社会の中で新らしい生活を築いて行かなければならないという決意をいたしたのでありま事けれども、非常に困難なことでありました。今まで支配者といたしまして優越的な地位をとつておりました者が、一挙にして支配者でなくなつて、重役、支配人、社長さんが一介の従業員になつてしまうというような点から、なかなかこの一変した情勢認識識することができないというような事情が、最初の半年乃至一年間に支配的でありました。従つて、この問いろいろ日本人としては悩みが多かつた。このことをよく認識せず、又我々の非常に長い八年に亘る中国侵略戰争によつて中国人民にどのような迷惑を及ぼし、どのような損害をかけたかということを考えずに、單に敗戰によるところの不当なる圧迫、不当なる待遇、こういう不満も決して少くなかつた。併しながら、徐々に日本人も新事態というものを認識して参りまして、大体終戰より一年後には、この事態の新らしい認識に立ちまして、日本人としてはポツダム宣言の精神に基いて、自分達自身民主主義化を図る、自分達自身の非軍国主義化を図る、そうして戰争によつて與えたところの莫大な損害を返して行かなければならない。中国人民と共に、我々が曾て破壊したところの社会を今度新らしく建設しようという気持が出て参りました。  この間いろいろな企業体、或いは機関というものが徐々に支配体制が再組織されましたが、大体日本人は、経営幹部でありましようとも技術幹部でありましようとも、その間実際の鍵を握つておりましたので、相当日本人幹部は重要な仕事をして参つたと思います。非常に多数の業者が出まして、最初経験の直後におきましては、大連市の人口はおよそ十九万人でありました。それが昭和二十一年の十二月開始され、二十四年四月に終りました引揚終了までに、約二十二万近くの人が返送されておりますので、あとの約三万名は外地から大連地区に入つて来た人であるというふうに考えております。外から入つて来た人は、勿論職業はございません。又、今まで大連で働いておりました者も、殆んど全部が一時失業者になりました。その後徐々に新らしい職場の開拓をいたしましたが、一番多いときは、二十二万のうち約八万名が難民状態陷つてつたという時代がありました。この間、一方において大連鉄道工場であるとか、大連ドックであるとか、大きな企業体に数千名の日本人を送り込みまして、最も多いときで約二万二千名の労働組合員、つまり勤労生活者がおつたのでございます。これは終戰以前日本人勤労者よりも遥かに多い数字でありまして、関東庁の統計を見ても、二万数千名の労働者がおつたということはなかつたのであります。この外に多数の難民があります。この外に、或いは自分達の店舗、企業等失つた人が多いと思いますので、生活困難者は非常に殖えております。特に昭和二十二年三月政治協商会議が決裂いたしまして、国民党側共産党側との間に、一種の内乱が始まりましたので、関東地区が封鎖されまして、食糧原料輸入などが来なくなり、非常に苦しい生活を送らなければならなかつたのであります。その後だんだんと国民党側が敗退いたしまして、人民解放、当時は民主連合軍と申しておりましたが、民主連合軍が満州の地方を解放いたしました。国民党軍は大都会にのみ孤立しておりますが、殆んどすべての背後地民主連合軍、現在の人民解放軍によつて占拠されるに従いまして、主要食糧原料輸入というものが徐々に活発化して参りました。二十二年の暮から二十三年になりますと、相当にいろいろな企業が活発になつて来ています。それで日本人勤労者も、その数が最も多かつたのでありますが、昭和二十一年の暮から、二十二年の四月にかけまして、大中の日本人引揚げまして、そのときの引揚は、ソヴイエト軍が指揮いたしまして、原則として大多数の日本人が帰るということでありましたが、現地経済復興のため、一部分の、技術を持つておるところの日本人は留用するということでありまして、公安総局工業科中国経済建設学会、この二つの団体が残留を要請される人たちの選定をしたように思います。併し選定された人の過半数は、ゾヴイエト司令部許可を貰いまして、残留しないで帰つておる。恐らく三分の二以上はこの要請を断つて帰つておるという事実があるのであります。そういたしまして、大体七千五百名の者は残留いたしました。この数字は正確ではございませんから、若干のくい違いがあるかと思いますが、私の記憶では約七千五百名の者が第一次に残留いたしました。これと共に残りました日本人技術者に対する生活上の待遇が決定されまして、新らしい契約を締結いたしましたが、内戰がなかなか蔓延しておりましたので、関東地区経済経営は極めて困難でありまして、この契約が実質的に実現されなかつたという事実はあります。徐々に情勢改善伴つて契約を実現する模様になつて参りました。昭和二十三年七月、第一回の引揚がありまして、このときには船が二隻参しまして、大体四千八、九百名の者が引揚げたと思います。このときソヴイエト司令部から発表がありましたのは、原則として日本人の全部を送還するということでありました。併しながら現地建設の必要上、この送還を二つに分ける、第一次及び第二次に分けることにして、第二次になつた者、つまり一時残留を要請される者に対しては、契約によつて待遇改善するということが申渡されたのであります。いわば第一次引揚と称して、約四千八、九百名の者が帰還いたしました。後の残留者に対しましては、新たに賃金雇用契約の決定がありまして、前回に比べまして賃金が一級から十六級まで改善されたということ。又生活必需品配給につきましては、品目が極めて拡大され、又配給單価引下げられたということがありました。家賃及び税金は、日本人技術者に対しては免除するというふうなことがあります。従つてその後におきまして、建設進行に伴い、勤労者生活條件は非常に改善して参りました。極めて改善して参りましたので、今年の引揚があるだろうという前に、私共がいろいろ街の噂を聞いておりましたところでは、今回引揚がある場合に、残留希望する者は非常に多いだろうというふうな一般の空気があつたようであります。そのくらいに建設進行いたしまして、大体本年の六月末の数字を見ますと、日本が支配しておりました時代と今年の六月末の数字を比較いたしますと、大体関東地区経済は、非常に辛く見まして六〇%、私共の計算では約八〇%の回復を来しておる。来年の終までには日本時代の水準にまで到達する、部分的にはそれを超過するというふうなことがいわれておりまして、これはほぼ実現されておるだろうというふうに考えます。従つて経済建設進展に伴いまして、勤労者に対する地位の擁護、実質的な引上げということが着々として実現されております。特に二回に亘りまして、貨幣改革が行われましたので、第一回は二十二年四月、第二回は昨年二十三年十一月、おのおの一回、十分の一づつ、平価の切下げが行われましたので、物価はそれによつて戰後の一番高いときに比べまして、三分の一乃至四分の一の引下げがありましたが、賃金引下げがありませんので、いわゆる実質賃金が非常に増大して来ておるというふうなことがいえるのであります。時間がございませんから物価の一々については申上げませんけれども、大体三分の一乃至四分の一に下つておる。今年一月に比べまして今年八月末はすでに三〇%の物価引下げが二回に亘つて行われております。そうして当局者の見込みによりますと、更にこれを十分の一に切下げる予定であるというふうに言つております。こういうふうに大体今日残つております日本人技術者は、生活上の配給といたしましては、食べ物の配給が十分にある、着る物につきましてはソヴイエト経営体或いは中ソ連合経営体ではオーバー、背広、下着類、靴、靴下に至るまで廉価配給を受けることができる。中国企業体の方では特別の被服工業製品廉価配給はありませんけれども、その代りに技術者手当というものがありまして、最低五千円、看護婦さん一人で五千円の技術手当がありまして、最高技術者になりますと五万円の技術手当があります。満鉄の中央試験所の顧問をしておる丸澤常哉先生は、現在六万六千円、本俸と技術手当合せて貰つておりますので、大体被服品などもほぼ不自由なく購入することができるまでに経済が回復しております。このような調子で今年の引揚げを迎えたのでありますが、今年の引揚げに際しましては、大体今年の二月乃至三月頃にソヴイエト司令部がいろいろの直接、間接の方法を取りまして、帰国希望者の内調査をやつたように思います。これは二月から三月にかけて行なつたと思います。そうして九月の中旬に引揚げ名簿というものを発表いたしました。これによりますと千八百六十五名の人がこの名簿に載つております。昨年の引揚げ後、話が前後いたしますが、残留しました日本人は凡そ二千七百五十名であつたと思います。その後各地から大連を頼つて来た人、人口自然増加等を入れまして、今年六月の終りには二千八百三名になつたということも聞いております。大体二千七百五十名から、二千八百名の人が本年の引揚げ船に乗つてつたのでありますが、そのうち千八百五十名の帰国希望者帰国名簿に編成されたのであります。併しこれは二月、三月の調査でありますので、その後の変動があるという意味から、ソヴイエト司令部によつて約十日間に亘りまして、面会所を設け日本人希望を聞くということにいたしまして、名簿修正に対するいろいろの意見を受理したようであります。この十日間に司令部に出頭した者が約五百人に及ぶと司令部の方では申しております。中には名簿には洩れておるけれども、自分帰国希望しておるから帰国させて欲しいと願い出た人もあります。或いは帰国名簿には載つておるけれども残留したい希望であるから残留の方に入れて欲しいという人もあります。結局残留希望者が非常に多くありましたので、最終的に決定いたしましたのは、只今委員長が言われましたところの千七百四十三名であります。約百何十名が残留の方に希望によつて廻つたということになります。尚今年の引揚げにつきましては、ソヴイエト司令部から発表いたしましたのは、どこまでも人間人間として尊重しなければならん、たとえどのように建設が重大であつて建設の手段として日本人を見るということをソヴイエト司令部は言わない、こういうことを嚴重に実行しなければならない。従つて残留者は、單に口頭で希望をいうだけでなく、署名捺印をしたところの残留願書を提出したものでなければ、ソヴイエト司令部では受付けないということを発表しました。残りましたのは、約一千名前後であろうと思います。その人たち残留願書というものがソヴイエト司令部に提出されておる。中国側では、それぞれの所管の機関企業体を経由いたしまして提出したようであります。ソヴイエト側は、直接企業体から司令部に提出を求めた。そういうことが言われております。それで本年の引揚げにおきましては、大体千七百四十名のものが帰りましたから、残つております千名のうち、約二百名近くのものは、国際結婚をした婦人のように思います。これはソヴイエト司令部国際結婚者として残留許可したものが、一日二十六名、その外に帰国を恐れて引揚期間中潜伏をした、逃走をしたという婦人相当多数ある。我々の考えますところでは四五十名、或いは、それ以上ありますので、この特殊な婦人国際結婚をした婦人は、或いは二百各位おるのではないかという風に考えられます。少くとも百五十名か、二百名くらいある。これは実際は把握出来ず、引揚団長は非常に苦労しており、名簿に載つておるけれども、実際の人員が把握出来ないということは、相当多数に上つてつたということを聞いております。恐らくこの百二十六名以上に、相当の数に達しておるかと思いますが、これは正確な数字は私には分からない。大体現在そのように進行いたしまして、この四年間を見ますと、重要な企業体というものは、全部公有化されまして、銀行、金融機関も公有化されました。公有化されました企業体の上に、人民のための経済というものが建設されるという形で、建設進行は、同時に働く人間、実際の生活上の改善という形で行われて来ておるということを、我々自分の眼でしつかり見届けて帰つたのであります。従つて残つた人達も、ただ月給が高いから残つているということではなく、このように本当に勤労者のため、人民のための経営というものに、身を以て参加したいという人が多数おります。この人達は、例えば、私は先程申しました中央試験所の丸澤博士を例に上げたいと思います。  丸澤博士は非常に老齢でありまして、共産主義者でも何でもない人でありますけれども、こういうことを言つております。現存中国復興しなければならないということの、一つ條件は、日本が多年にわたつて破壊を加えたということがあつたのだ。従つて、誰が残るかという問題の外に、日本人民として中国復興に努力するという国際的な義務があるということが一つ。第二に、今後の中国の新らしい進展建設には、日本商品日本技術者というものを莫大に必要とする。今日この困難な時期に、自分達卒先残留をして、他日我々の祖国の復興に非常に重要な人口の問題、商品の問題を解決するときに踏み止つていなければならないという見地から残つておるように思います。又この人々は、民主主義国に対する理解……。従来日本人中国人に対して、どのように見られておつたか、又今後どうしたらいいかということが、段々に理解されますにつれまして、それと同時に生活が系統的に向上して参ります。特に急いで今年帰りたい、来年帰りたいということではなく、内地状態ももつと好転して、安んじて帰り得るような時期になるまでここで働く、向うが働いて欲しいと言つてもこういう気持の人も極めて多数おるように思う。第三には帰国もしたい、残留もしたい、どつちをしたものか分らないという気持で、非常に動揺している人があります。例えば御主人は残留したい、奥さんは帰りたい、子供は日本帰つて大学に入つておるが、お父さんは日本帰つて職業があるかどうか分からない、もう暫くあとでもいいじやないかと、親子が口論する、夫婦喧嘩するというようになり、決めかねて、同僚や所長の勧誘によつて最後意思表示をするという人も、これ亦少からずあるのであります。一部に強制残留という言葉がありますけれども、そういう中には、このような、自分自分気持を積極的に言い得ない、何かよそからプツシユを與えられなければ態度が決まらないという人も相当多数存在しておるのではないかと思います。但しこの帰国の問題は、それでは全然ないかと申します。と、尚依然として存在しておると思いますので、これは後程いろいろ聞いて頂きまして、私からもお答えいたしたいと思います。今年残留しまして、残留願書を提出した人の中でも、すべての人が必ずしも今後みなければならないという人でもない。この辺の客観的実情につきましても、それは企業体によつて違いまして、相当無理して必要以上に技術員達のおる企業体もあるようでありますし、比較的残留者老齢者が多いのでありまして、六十歳、七十歳という技術者が少なからずおります。この人達が万一のことがありました場合、その遺族というようなことも今後考えて上げなければならん。又現実に必要であるけれども、だんだん必要度の減じて来ることも恐らく若干存在しておるというように思います。  そういう点から残留者が我々に託しました非常に重要な問題は、ここで私からも是非日本の政界の相当方々にお願いしたいと思いますのは、これまで自分達帰国したい、帰国したいと思つたところの一番大きな原因は、内地人達の親類や故郷の人がどういうような生活をしておるか、その人達自分達をどのように心配しておるか、お互いに意思の疏通ができないという点にある。自分達帰国を熱望するより、先ず日本との間の文通ができるようにしたい。又自分達内地人達もできるならばお金を送れるようにして貰いたいと思う。この問題が解決されるならば、今日帰国問題について非常に心を傷めておる人の大部分の問題が解決するのではないか。向うでは中国政府ソヴイエト政府に対して我々三箇年を請願しておりましたが、また実現しておりません。今後除々に実現できるのではないかと思いますが、これは日本の方からも自由に手紙のやり取りができる。お金を送つたり送られたりすることができるという途を開いて頂くということが、今後における帰国問題解決の一番大きな鍵になるのではないかというふうに感じて帰つて参りました。また申述べたいことが沢山ありますけれども十分過ぎましたので、この辺で打切ります。
  11. 千田正

    委員長千田正君) 次に証人金子麟君。
  12. 金子麟

    証人(金子麟君) 証人は何分申上げたら宜しいのでありますか、十分ですか。
  13. 千田正

    委員長千田正君) 十分を原則としております。
  14. 金子麟

    証人(金子麟君) 場合によつては延びても宜しいのですか。
  15. 千田正

    委員長千田正君) 私がそういう場合に注意をする。或る程度二分か三分ぐらい大丈夫です。
  16. 金子麟

    証人(金子麟君) 大連においてソ聯進駐後の行政の体系及び社会情勢については只今石堂君がお述べになりましたから、私は再びこれを述べません。ほぼ同様であります。ただ石堂証人のおつしやつたことは大変綺麗におつしやいまして、私は野人でありまして、又私は終戰後から医者の方でございまして、社会のことは余り存じません。又私は石堂君等が組織しておられました労働組合にも、少し考えがあつて入らなかつたものでありますので、私の申上げることはやや偏狭であると思います。この点はここに御臨席の委員の方に御勘弁を願いたいと思います。  ソ聯の進駐いたしましたのは二十年の十月と思つております。当時イワノフ軍司令官は、大連の旧財閥遅雲祥、これをして大連の市長を任命したのであります。これは朗らかにソ聯が大連の者をして大連の行政をやることを承認し、又これを御命令なすつたと解して差支えないと思います。その後情勢が転換いたしまして昭和二十二年の十月だと思つておりますが、今までの行政体系を変えて旅順に関東公署というものを設置することを、ソ軍は内面的に指導されたようであります。その行政体系は即ち民衆の声によつて出来上つたところの行政体系である。ソ聯はこれを命令したのではないという形を取つておられます。その証拠にはやはり遅市長が首席になり、その下に三人の副首席がおられましたが、これは主として新民主主義或いは共産系の者であります。そこで各庁、例えば行政庁、工業庁、衛生庁、農業庁というものを設けられまして、その庁長には旧大連の知識階級、この中には知日派の方もおられます、衛生庁の揚鳳鳴のごときは元の医師会々長をやつておりまして、日本に対して非常に理解の強い方であります。又これは学位号を持つていらつしやいます。私はこの人と親交がございました。こういう人を以て町長にする、副町長はやはりこの思想方面に新らしい考えを持つていらつしやる方を以て副町長に配しておられます。この行政体形についてロシヤの考えがどうであつたかということは、私が第二回引揚日本人意思を代表しまして、ソ連の司令部に出頭して、日本人の技師、まあ医者でありますが、そういうものはもうここにいる必要はないのだ、その理由はソ連がどうせここを指導なさるのだから、ソ連の技術者、ソ連の知識を以てこれを指導なさるのが適当だと思う。尚中国には立派な先生がおられる。日本人の医師が残るということは、中国の医師の独立を阻害するものである。だからこの際日本人の医師は帰つた方がよかろう。是非帰して貰いたい、これは関東公署の主席に向つても嘆願をいたしましたし、同時に主席に向つてこれからロシアの司令部に行くのであるということも明らかに申しまして、嘆願をいたしました。当時ゲルハノフという中佐が私に面会いたしまして、彼曰く、中共の関係のことはソ連としては何にも言われません。私はそれに向つて、ソ連の進駐下にあるところの市政府があなたの管轄に、指導下にないとはどうして言えますか。これはおかしな話ではありませんか。こう申上げたところがゲルハノフ曰く、いや、それは世界に一つしかない政体である。どういう政体でございますかと聞いたところが、民衆の声によつてでき上つたところのいわゆる政体であつて、ソ連はただそれを認めているに過ぎない。従つて中共政府のやることについて指導権は自分は持ち得ない。だからあなた方を帰すとか、帰さないとかいう決定は私にはできない、こういう話であります。それから通訳は少し言い過ぎたのでありますが、それじや関東公署という政府か、日本と直接交渉ができますか。こいういうことを聞いてところが、それはできない。もう一つ帰す帰さないという問題について、それじや中共下にあるところの関東公署がこれに対して船を寄こして下さることができますか。いや、それもできない。とにかくあなた方の言うことは分つたから、いずれ御返事をするから一週間経つたら来て呉れ、こういう話でありましたから、一週間経つて参りましたら承わり置くというので突つ撥ねられてしまいました。————。  それで二十四年の三月でありましたか、雄大行政公署ができまして、このときに初めて共産党本部というものが表面に現われて参りました。各地方においては共産党公弁所というものが設けられて、そうしてその旗もそれまでは赤いところの隅に青天白日が付いておりましたのがなくなりまして、ソ連の、いわゆる青章ハーゲンとハンマーの旗が、青章が取れてハンマーとハーゲンの赤旗一色になりました。それが先ず大連におけるところの行政体形の移り変りであります。  それで日本人に対してソ連はどういう態度を取つたかと申しますと、進駐当時は日本人の組織が沢山ございました。例えば愛労奉仕団、大連奉仕団、それから私らが考えましたところの日本人居留民会の組織、これは許されませんで、日本人相互扶助協会という名前になつております。その外七八つの民主団体がございます。特にとの愛労奉仕団あたりに至りましては、これはむしろ右翼系の思想を持つている団体でありまするが、これの隊長をしておりましたのは田岡という方でございまして、元は航空隊員であります。この方は赤十字の、私赤十字におりましたが、赤十字の或る寮をお借ししましたので、私はその関係で顧問になつておりました。彼は私に会う度に資金の出所を聞いても申しませんでしたが、多額の費用をいつでも持つて参りました。その費用はどこから出るかということを聞きましたどころが、遂に彼の言つたところでは、ソ連司令部から出ておりまして、実際において多額の費用を持つておりました。そうしてこの授産所、或いは托兒所、そういうところの社会事業を随分派手にやつておりました。彼の思想は日本人難民及び日本人の将来のために図るという思想でございましたが、それはついに当時の詳しいことは覚えておりませんが、二十一年の春だと覚えております。一勢にこの日本人関係の諸団体というものは、ロシヤの解散命令を受けまして、そこででき上つたのが、ただ一つ許されたのが、石堂君が第二回の委員長をしておりました、労働組合なるものがここに許されたのであります。この労働組合は、ソ連司令部、中共政府日本人の間に立つてすべての行政的指導、思想的指導をおやりになつたのであります。このことについてはあとから申上げます。すべての日本人の権益、すべての日本人意思表示はこの労働組合を通さなければ、中共政府にも、それからソ連の方にも、この日本人の団体的行動としてはできなかつたのであります。企業体における個人の意思表示は別であります。  そうして第一回の引揚げ後のお話を申上げますが、第一回の引揚げ石堂さんのおつしやつた通りで、第二回の引揚げのときは、ほぼ市政府機関におきまして、還る、還さないの検討ができました。例えばこれを医者の方で申しますというと、検委会が引揚、或いは帰還検討委員会というものができまして、医師方面におきましては医師会長がこの会長となりまして、私ら医師会の理事はその検討委員となりまして、どういう人を還すかということをいろいろ検討いたしました。従つて第一回の引揚げにおきましては、日本人技術者の或る部分も、これは止むを得ない。或る程度はどうしても残留しなければならないのだという考えを持ちまして、比較的スムースに第一回は行つたのであります。そのときに私ら検委会の委員として政府と交渉いたしましたことは、一年間経つたら還して貰いたい。一年の間はこの中共政府建設に盡すということを明らかに私申しました。一年でよろしい。それは当時の衛生局長をしておりました王布君という方が明らかに申されたのであります。そこで第二回の引揚げが発表になりましたときに、私らは断然還ることを主張いたしました。又主張した者が多かつたのであります。ところが今申上げた通りに、ソ連司令部に出願をしても取合わない。中共政府言つても取合はない。各企業体がこれを指導するのだが、企業体はこれを圧迫するというので、まさしく石堂君は強制残留でないとおつしやいましたが、私は実際において強制残留をされておりました。私は当時関東医院の副院長でありましたが、確か八路系の副院長がもう一人殖えて参りまして、それは謙遜と申しますが、私に向つて契約を迫まりました。併しその契約書が、期間が長くなりますから、法理上、或いは道義上からいつても不利な点が多々ありましたので、私は捺しませんでした。そして他の企業体においては、押さない者を称して反動分子と称します。そしてこれに対して、契約の俸給支拂を停止し、或いは減少いたしました。即ち、生活職線を以て脅かして、そうして契約を余儀なくさせる例が沢山ございます。その例は、ここに持つておりますが、これは時間が長くなりますから、申しません。でありまするから、技術者として残された技術者は好んで残つておる方もありますが、大部分は協力の名の下に残された。その一例といたしましては、工業庁長或いは大学の、大連只今大学の学長の次席の方がおられます。この方が、随分暴言を吐いておられます。日本人は、技術者は残るのが当り前だ、日本の統治時代に関東州におけるいわゆる思想教育が不徹底であつた中国技術は劣つておる、日本人がそういう偏頗の教育をしたのだ。もう一つは、日本が破壊をやつたのだ。だからその罪亡ぼしとして君らが残るのは当り前である。遂には、お前達は捕虜じやないか、帰す帰さないの、生殺與奪の権はこつちにあるのだというようなことを敢て述べておられます。即ち、私らは雇用形式的偽装捕虜の形において残されたのであります。雇用形式的偽装捕虜、これはどなたが発明になつたお言葉ですか、非常にいいお言葉だと思います。それでソ連は私らを帰すに当りまして、第一回、二回、三回とも飽くまで友好的態度を採りました。若しソ連の力なくば、私らは絶対に帰ることはできません。そして、ソ連のいわゆる自願書とか、契約書とかがなければ、どうしても帰さなければならないという建前を採つておりますから、中共の企業者はそういうものを強いるのであります。甚しきに至つては、帰るということの決まつた人、或いはそれが帰るならば帰つてもよろしい、あなた方はそれについて、今までの感謝文を書きなさい。或いは感想を書きなさい。これをしも自願書に利用した例があります。いずれにしても、残るということをい表に現わさなければ帰さないのであります。でありまするから、或る人は今ここに残つている、大連に残つている人は、皆自願である。何も騒ぐ必要はないとおつしやいますが、これは強圧の下に書かせられた例であります。甚しきに至つては、昨年の引揚のときに、医師十名は、帰ることの運動しておつたために、中共政府が、夜突然参りまして、これを拉致いたしました。どこに拉致したかと言いますと、一部分は、普蘭店へ拉致して、一部分は法院の下に拉致いたしました。そして拉致した先において判を捺すことを迫つたのであります。これが強制残留と言わすして、何を以て強制残留と言いましようか。そうして、その人達の中で、人の名前はいずれ後に申上げますが、気の弱い方は涙を呑んで判を捺した方が沢山ございます。併しとれはソ連の知るところとなつて、丁度私の家の近くにソ連人がありました。私の家にもソ連人がおりました。その人達が飛出して来て、運転手を掴まえたために、一つは普蘭店に行つた一つは法院の下に行つて、ソ連の手によつてこれが中止されました。そう事実がございます。そこで時間が長くなりますから、あまり申上げませんが、結局中共政府のやることは、欺瞞と強圧と、これ以外の何でもないのであります。私は敢て申します。その欺瞞いうことの大なる理由を一つ申上げます。  それは終戰後の昭和二十一年五月の九日、当時市政府の衛生庁長であつた王益民が、当時は赤十字は存続いたしておりました。これも後で申上げますが、これもソ連のお力によつて存在しておりました。その西堀院長に向つて、安東の方面で、今負傷者が非常に多いから、救護事班を出して呉れ、私当時寝ておりましたら、院長が私の室に参りまして、僕は承知したから、何と事かして編成して呉れんか、こういうお話でありました。私はもう院長が決めてしまつたのだから、仕方なしに編成に着手いたしまして、ここに書いてありますところの三十六名という、三個班、一個班十二名の三十六名の基本班を編成いたしました。そうして私は出さずにおきましたところが、王布君、先程申上げた王布君が安東地方の軍医事部長として来られまして、出して呉れろ。誰が保障しますか、と言つたところが、これは医師公会、いわゆる揚鳳鳴の医師公会の依頼によつて、出して呉れという形にして呉れと、こう申しました。私は、そういうことはできません。医師公会というものは、一つの法理的の責任、山際的の責任のないもの、又軍事的責任のないものだ、そういう人が依頼しても出すことができない。あなたが軍医部長として、ここにサインをすれば私は必ず出しましようと、とうとう遂に王布君をして生命の危険は絶対にないことを保障する。三ケ月したら必ずお帰しをする、こういう保障をいたしました。当時の市政府の要人も寄つてその通りだということを証言いたしました。ところがこれが行つてしまつてから、私らの要求は赤十字であるから、総班長というものを一つ作り、すべての命令は総班長を通して三個班の指導に任じて貰いたいということを、これも承知いたした、サインしたにも拘わらず、安東へ参りましたとろが、支離滅裂にしてしまつて、とうとう只今までこれの行方が不明なんであります。何遍催促しても帰そうといたさないのであります。そうしてこの中で六名、これは許秋朴という台湾人でありまするが、これは原田清という、当時日本人の名前であります。これは私の教え子であります。これ以下六名が安東を脱出して参りまして、それはどうして脱出して来たかというと、生命の危險を冒して来た。この行つておる三十六名が実に悲惨な目に遭つておる。これを金子副院長が救出して貰いたい。私らの命はどうなつても構わない。だから救出して欲しい。併し当時の情勢はこれを市政府に突出したり、又労働組合にこれを持つてつても決して引受けては呉れません。彼ら六名をみすみす殺すばかりですから、つい乏しい財産の中からこの大名を第一回の引揚が済むまで隠して食わしておりました。これは路傍へ行つてごみを拾うことをやつたり、或いは紙貼りをしたり、そういうふうにして、私の若干の補助金と、これによつて彼らは生きておりまして、第一回の引揚に漸ぐこれは赤十字人としないで帰しました。こういう例は沢山あります。  かくのごとく、中共政府は信頼を置くことのできない政府であります。こういうところに、徒らに……、私も六万六千円の最高の俸給を貰つてつた一人であります。又私らはソ連から特別の給與を受けておりました。併し如何に高額の給與を受けようと、如何なる厚遇を受けようと、そういう不信なところにおいて勤務することは、私たちはどうしてもできない。  尚この労働組合なるものの介在は非常に不愉快でありました。これは日本人に対するのに、いわゆる日本人の利益を擁護した点もございますが、主として中共の政府と、当時の日本人の間に介在をいたしまして、そうして私らを学習と称して、赤の教育を指導いたしました。この部組織を以ちまして……、支部組織を以ちまして、そうしてその教育の悪い者は、反動分子と、私らは称されたのであります。そうして日本の再建に……。この中国の再建に従事することは即日本の再建に従事することであるという、こういう不可解な理論を携げまして、そうして私らにいわゆる学習の名の下において、この赤の教育を追つたのであります。でありますから、私は断然そういうものに入るのは厭でございますから私は入りませんでした。ところが私の入らないことを以て中共政府にこれを訴え、或いはソ連司令部に私を中傷いたしました。私はそういうことは驚きません。そういうふうでありまして、大連情勢というものは表から見ますと非常に綺麗な状態であります。併し実際問題としては強圧、欺瞞の下にやつているところの、いわゆる雇用形式的偽装捕虜に過ぎないのであります。但しその三分の一は好きで残つている者があります。この三分の一は三月革命、九月革命を予想していずれも日本が赤化する。だから自分はこちらに残つてつて、いずれ日本にお目見えする、こういう間違つた馬鹿げた考えを持つている者もあります。もう一つ生活が楽だからといつて、いわゆるオポチュニストもあります。それは三分の一、三分の一、真に帰りたい者は五分の三か、若しくは三分の一だと私は信じております。
  17. 千田正

    委員長千田正君) 時間が参りましたので、次に証人杉田敏次君。
  18. 杉田敏次

    証人(杉田敏次君) 私は高砂丸で帰つた杉田であります。終戰を第一線で迎えました私達同胞が如何に悲惨であつたかということは、すでに各先輩の引揚者によつて伝えられているところでありまして、敢て述べません。昭和二十一年の八月の十五日から、九月の十九日までに一応中共地区の大体の追送が終つた後において私は述べたいと思います。ただここで昭和二十一年の九月十九日に中共地区の遣送が終つたときに、中共政府がこれを以て日本人の追送は終つたということを発表したのでありました。そのときに私達が残されて、唖然としまして、いつ帰れるか、ますその終つた途端にいつ帰れるかという不安に囚われたのであります。そうしてそのときどのくらいの者が残つただろうかということは、北満で約一万五千名は予測されたのですが、確実なるところのハルピンで知り得た、ハルピンだけでも七千名を数えたのであります。それははつきりしているのですが、技術者としてハルピンに三千五百名、そのほかの技術者はハルピン以外の所に送られたのであります。これは技術者の中には徴用されたところの看護婦、担架隊も含んでいるのであります。これはハルピンで残したところの数字が約七千名でありました。これはすべて強制、或いは拉致され、又極く小数の者は希望して残つた者がおります。敢て申上げて置きますが、極く少数の者は希望して残つた者がおります。併し殆んどは強制されまして止むなく残つたのであります。そうして一応遣送が終つたのでありますが、連絡の不十分、救出が十分に行かなかつたために北満一体に開拓団、そうした人が多分に残つてつたのでありますが、ハルピンにおきましては九月十九日の引揚列車の最終が出た二十一日の日に通河、方正方面から二回三回に亘りまして、約百五十名の難民が漸くハルピンに辿り著いたのであります。そのときの難民の悲惨は、実に女は腰巻をまとうことができず蓆をまとうてハルピンの街に到著したのであります。それはどうしてそのようであつたか。連絡に行く者はすべで反動だということで、その連絡の十分を期することができなかつた。併しいろいろの中国人の風の便りにより、ハルピンから日本人が、引揚げておるということを聞きまして、各中国人の家庭に入つていますところの農奴式な者、水汲みとか、雑役に服しておる年寄り、根こそぎ動員があつた後で開拓民には健康な、或いは中年の男が殆んどいないようでありました。婦人と老年と子供がお互いに示し合せて或る山に集つて、そうして命からがら逃げて来たという悲惨な状態を報告したのであります。それで事実においてそういう者が来たので、どうして我々日本人がこれを救済して行くかということでいろいろ考えましたが、丁度遣送後直ぐハルピンでは日本人移民会が縛りていましたところの衣料、物資、金は一千三百万円なにがしと記憶しております。それを一切接収された後でありましたので、全く救済の方法を知らなかつたのであります。併し何とかこれを救わねばならんという日本人の有志をさがしまして、お互いにこの救済に当りましたのですが、完全を期することができなかつたため、又非常に栄養失調になつていましたので、沢山の者がその年に死んだのであります。数字ははつきり記憶しておりません。そうしてこれを救うためには何か日本人のかたまりを以てお願いしなければならないということで再三市政府にお願いしましたところ、日本人の団体的なものは遣送が終つたと称しているということからだつたと思いますが、そうした看板をかけることは容易に許しては呉れなかつたのですが、現実にこの難民を見ることによつて、では難民収容所という日本人一つの団体を許そうということで、難民收容所というものができたのであります。それから段々変りまして又日本人移民会になつて、今日も日本人移民会が継続されておるのでありますが、ではその難民が来てからどのようにして彼等は生活に立上つたか。  先ず冬を迎えておりましたので全然仕事がなかつたのですが、麻袋の修理とか、或いは雪除けとか、そうした雑役に当てることによつて漸く凌ぐことができたのでありますが、そうして年末と、年が明けるに随つて、先程強制的に留用されて行つたところの青年男女、担架隊員が病弱となり、或いは又精神的に馬鹿になつて参りまして、再びこの困難な難民收容所に流れ込んで来たのであります。これは全く使えなくなつた、使えない者を放棄してしまうのでありまして、この点人道上私達は中共政府の方針に絶対に不信を抱く者であります。そうしてそういう人達を入れまして、やりくりの難民收容所が約五百名に達したのでありまして、その人達は今言つたように中国人、ロシヤ人の家政婦とか、いろいろ内職その他の雑役に従事して生活したのでありますが、この間ハルピンで採上げて申さねばならないものは、一応強制、或いは又技術者と認めまして留用したところの家族の婦女子を徴用するという問題が出たのであります。これは昭和二十二年の四月でありました。ここで先ず日本人がこうして残つたのに、更に徴用されるという日本人の不安を起したわけであります。  その次に起きました問題としましては、昭和二十二年の十二月の初旬に日本人粛正清算闘争というものが行われたのであります。これは中共政府自体がやつたのではなくして、その陰に隠れその表面に立ちましては日本人の青年民主連盟と称するものがこの主催をなしたのであります。彼らの言う共産主義者たちであります。これはどういうようにしてこの清算闘争を行いましたかと言うと、曾てはの支配階級であつた、曾てはの財産家であつた、そうして今も尚反動的な動きをしている、思想的に進歩しない者共だという角度から、一挙に約二十五名の者を闘争にかけまして、一堂に民主裁判を開き、そうしてそこで或る者には銃殺の宣告をし、又年寄も構わずに重労働の宣告をし、最も軽い者で五万円の罰金刑を科し、而もその最後の一番困つた者は追送当時から強奪されてしまつて財産も持たなかつた者、せめて寝具と炊事道具を持つていた者のこの炊事道具に至るまで持ち去つてつたという財産沒收を行なつたのであります。ここで先程の徴用で不安を懐いていたところの日本人は、再びどん底の暗澹たる生活状態をここで眼のあたり見せられましたので、皆な不安の感情をいやが上にも高くしたのであります。そうしているうちに、而も日本人はあらゆる面で何とかして生きては来たのでありますが、昭和二十三年、そういう暗いかげの中で、これは何とかして二年にもなり三年にもなつたので帰して頂かなければならないということから、七月の下旬にソ連の領事館に知己を得た者がおりまして、実はこういう状態日本人難民、或いは解除された者、又帰らなければならない人がこのようにいるのだということを述べたところ、領事館の方では歎願書を出したらどうかという根拠を得ましたので、一部の有志がこれをハルピンに在住する、或いは又各地区に在住する同胞に諮つたところ、多数の賛意を得て歎願書を上げることにしたのですが、その歎願書の取り方は、今でも隣組の機構が非常によくできています。そういうわけで直ぐ歎願書に署名をして将に政府に歎願を合法的にお願いしようとしたところ、八月の一日未明三時を期して、一齊検挙されました。この数は約百名でありました。そうしてそれらの主謀者の一部は今尚ハルピンの監獄に投ぜられているような状態であります。結局帰るという言葉すら出せないという環境にいる同胞は、尚更帰りたいという気持をそそられて帰りたいというように願つているわけであります。  では現在ハルピンはどのような、或いは東部地区はどのような生活状態が行われているか。これは後で江島さんもおいでになつているので経済面、生活面については又お願いしたいと思うので、自分はこの点を省きたいと思います。それで残住しているところの在留の同胞の種別はどのようなものであるかということを一言述べてみたいと思います。
  19. 千田正

    委員長千田正君) 松田証人に申上げますが、大分時間が経つていますからそれを簡單に述べて下さい。又後で皆さんから附随して質問されると思います。続けて下さい。
  20. 杉田敏次

    証人(杉田敏次君) 先ず前線の戰闘員として飛行隊、或いは機関銃隊、自動車の修理或いは運転、こうした種類のものが第一線に活躍しています。次に同じく従軍して後方に或いは前線にいるんでありますが、医者と看護婦、附添婦、炊事婦こうしたものが軍の直接下におつて活動しております。それから次には中共政府、これは行政委員会、又東北民主政府といつています。そこに日僑管理委員会がありまして、日赤の共産主義者がいましてここで宣伝、政治、日本人に対する政治指導、こういうものをやつているところの機関にもいるのであります。それから地方に参りましては、省政府、市政府、これは省政府には技術者が殆んどありますが、市政府になりますと公安局、こちらで言う警察、こういうものが大体大きな都市には必ず入つているというような状況であります。第三にこの軍政府は必ず、丁度日本で言えば国営とでも言いましようか、軍政府は生産企業体を持つております。自分の使うところの靴とか衣類とか、それは軍で補うというように、政府自体が商売もし工場も経営しているのであります。そこに働く生産工場としましては、兵工廠、被服廠、染料廠、軍需廠その他製糸工場、石鹸工場いろいろの生産工場に技術者が働いています。又資源の方といたしましては炭鉱、砂金この方面で技術者が働いて、この炭鉱、砂金になりますと、技術者よりもむしろいろいろな方法で徴発し、いろいろな方法で残留せしめたところの労働者、工夫、重労働に科せられた者が多いのであります。これは特に遣送当時戰犯と称して残したところの罪人扱いにしたところの者が炭鉱に沢山従事しているのであります。それから次に鉄道、これは東北鉄道と中長鉄道、これには事務屋的なものも專門的にこの鉄道面を指導しております。中長鉄道と申しますのはソ連がこれのすべてを牛耳つているような状態であります。それから文化宣伝としましては、通信機関には御承知の新華社或いは東北日報、東北画報、こういう方で文化宣伝をやつております。次に電気或いは通信、こういうものには電信電話局、電業局、これは発電所、変電所を持つております。郵電管理局、これは郵便局と同じものであります。こういうところに技術者がおります。それから最近では農業、林業に力を注ぎまして、実験農場、農地改良或いは畜産の試験所、実験所、農大、こういうものに力を入れて、盛んにやつております。林業としましては、伐採、植林にまで力を及ぼしております。特に農業関係では停戰当時に満州国の状態から回復した程度は六〇%近く回復しておる状態であります。それから一般の製薬工業、それから又建設土建は国民党との戰争によつて破壞されたところの復旧に大童になつているような状態で、そこにもすべて日本人技術者が牛耳りながらこれをやつているんです。技術的には牛耳つておるのでありますが、精神的に、思想的には実に悲惨なものであるということを各技術者から、聞いております。それから農業としましては、向うで認めましたところの日本人の開拓民もおります。それから又若干の自由農民、止むを得ず農奴式になつてつたものが自由農民として未だにその生活をしておるものがおります。  次に一般、一般と申しますと、難民、解除、或いは病弱者であり、この難民と称しますのは、帰国の時に集結に遅れたもの、先程言いました非常な悲惨な難民、こういう人達が主体で、各所にこの難民がおりまして、こういうものが各地に都市に集結して、未だにいろいろな複雑な生活をしておるのであります。それから同じ難民で、駅頭で還送の当時、駅頭で拉致されたところの家族、主人は直ぐ帰すと言つたから帰るだろうということで残つてつたのですが、三年に至るもその消息が杳として知れないために、全く子供をかかえながら難民化しておるのであります。これを難民と考えております。それから解除したもの。先程ちよつと申しました軍とか機関で、健康なときは非常に使つて呉れるそうですけれども、併し使えなくなつたものはごみのごとく捨てられて、沢山死んで行つたものもおります。殆んど日本人同胞の迷惑になるようなものばかりを解除したところの哀れな人たちがおります。それから病弱者、これは当時還送のときに、帰せば汽車の中で死ぬだろうというので、いつそのこと残つてつたらいいということで、ようやく命をつないで生きているもの、これが病弱者として残つております。それから極く少数ではありましたが民会の職員、これは後の残務整理だとか、やれ何々せよということで、急に立つ前に直ぐ帰すからというので残したものが、未だに残されておるわけであります。個人的に強制されたのは、或る中国人との企業によつて還送当時にやつていたのですが、それが帰られると困るから、弁償せよ、何々せよということで残されたところの個人が、強制されて若干残つております。それからここで一番私たちは考えなければならないのは、この敗戰のときの周章狼狽と、そうした複雑な混乱した状態に置かれたときに、親と子、兄弟と肉親が相喰まされたところの孤児が、多数に金満至るところにおるということを、我々は忘れてはならないと思うのです。それはどのような生活をしているかと言いますと、各中国人に拾われて割合にいい生活はしておるのでありますが、日本語も忘れ、又全く日本ということも知らないであろうというような状態で、チグハグにあちらこちらに悲惨な、これは悲惨ではないと思いますが、我々から考えたときには気の毒だと思うのであります。それから最後に、三国人との結婚、同棲したものが沢山おります。これも七〇%乃至八〇%は非常に悲惨であります。特に今度帰るときなんかでも、何故自分は帰れないのだろうか、では帰すからという問題が出たときに、主人側では、四年間お前を養つて来たのだから食費を拂えば帰してやろうというようなことを言いまして、できんことを強要し、そして帰さない方法をとつて、泣いて残つたというような状態のものがおります。いずれにしても、好むと好まざるとに拘わらず残されたのでありますが、総体的に悲惨な生活を続けておるのであります。  そこで特に私は、今度引揚げました経過についてお話したいと思います。今年六月の二十七日に、朝早く市政府から手紙が参りまして、今日九時までに出頭せよ。それで何ごとならんと思いまして市政府に参集しましたところ、病人、子供、老弱者、又は曾ては反動だつたというような人間の集まりでありまして、一体何事が行われようとするのであるか、或いは又これは炭鉱へでも連れて行くのじやなかろうかという、徒らな推測をしたのでありますが、時間が来まして、外僑科長の銭さんという人がおいでになりまして、にこにこと笑つて、今日は皆さんに一ついい話をする機会を得て、自分自身が大変喜ばしい。実は中共から第一回の引揚者として皆さんをお送りすることになつた。皆さんに帰つて貰うことになつた。これはハルピンのことでありますが、約三百二十名でありました。帰つて貰うことになつた。それで午後五時までにハルピンの駅頭に集結せよ。而もこの指名を受けた者は、個人的な感情で、もう一ぺん残して呉れとか、或いは又他の者がそれと代つて行くとか、そういうことは絶対に許されない。若し逃げた者がおるならば嚴重に処罰するということで、みんなのものが慌てふためいて、取るものも取り敢ず、丁度夏でありましたので、着のみ着のままで集結して、午後十時に出発して奉天に向つたのであります。そのときには、別に指導者というものを設けませんでした。当時の民会の会長、これは共産主義者でもなければ、当時の民会の責任者として残された佐藤四郎という人でありますが、奉天まで送つて来て呉れました。それから奉天に二十八日に着いたのですが、奉天では二泊しまして、出発前の二十九日に、日僑管理委員会の副主席である趙安博氏、これは日僑管理委員会主催の下に行われたところの日本人の還送大会、この日には非常に盛大でありまして、映画などを見せて呉れましたが、特に趙安博氏は、あなた方は過去三年、敗戰して四年間、中国の共産地区建設に大なり小なりの協力をして頂いたことに深甚の謝意を表するものである。併しあなた方が帰つたならば、どのようなものが待つておるか。日本に吉田政府という反動があり、————同胞が非常に苦んでおる。それに較べて、中共はこのように立派に建設され、このように立派な政治が行われておる。だからこれを、帰つてあなた方自身が先鋒隊となつて、この日本建設に盡して貰いたいという大きな使命を持つておるということを忘れてはならない。大変御苦労さんでしたということで、盛大な大会を終りまりして、そのときに私が副大隊長に任命されまして、三十日の日に大連に向いました。そうして大連に着きましたのは七月の一日です。そこへ行つて見ると、汽車の中では、もう船が待つておるのだとか、やれどうだとかという、これは單なる話でありましたが、そうしてそのときの指揮官としましては、別に指揮官というものはおりませんでした。大隊長と副大隊長が二名、各中隊に分れまして、十一中隊までありました。趙安博氏が送つて呉れました。これが指揮官と称していいのじやないかと思います。そうして大連に着いて見ますと、全く受入れ態勢ができていなかつたのです。そういう交渉と話合いはあつたのでありますが、まさか今着くとは思つていなかつた。私が丁度皆さんの世話をしていたので、これをはつきり聞くことができました。そういう用意もしていなかつた。話はあつたけれども、していなかつた。併し来たのであるからというので、夜遅くあそこの大連埠頭の海口検疫所というところに收容されまして、その晩から……。
  21. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 どうですか、大変時間もなにしましたから、佳境には入つておりますけれども、一応ここで休憩をして頂いて、午後一時から続行して頂くよう、動議を提出いたします。
  22. 千田正

    委員長千田正君) 只今動議が出ましたが、杉田証人は、今そこで話を打切られますか。大連の埠頭のところで、一応あなたの陳述を打切られますか。
  23. 杉田敏次

    証人(杉田敏次君) また沢山あるのですが、若し何でしたら後の機会にいたします。
  24. 千田正

    委員長千田正君) 一応この辺のところで、結論を後五分くらいにお願いいたします。
  25. 杉田敏次

    証人(杉田敏次君) そうして海口検疫所で私達は保護されたのであります。それでいろいろの世話をしてくれましたのは旅大行政公署、それから大連の日僑勤労者組合がいろいろ世話をしてくれました。と同時に、当日から直ぐさまあそこの公安委員が鉄砲を持つて私達の護衛に当つてくれました。そこではもう直ぐ船が来ると思いながらいろいろな教育をさせられまして、八十二日間滯在するの余儀なきに至つたのであります。このときの生活給與は全く栄養失調になるような支給ばかりでありました。そうしてそのときの生活状態は共産党の、共産主義の普及の学習ばかりでありました。それでそういう生活をしているうちにどういうことが言われましたかというと、この船を寄越さないのは日本政府が惡いのだ、君達の帰りたい憎しみは日本政府とアメリカに愬えるべきだという学習がなされました。帰つて来て見てそうでなかつたことがはつきり分りましたんですが、そのときはそういうふうに教えられたのであります。そうして九月の十七日の晩漸く船が来るということが発表されまして、二十日の日に乗ることができたのであります。
  26. 千田正

    委員長千田正君) その程度であなたの証言を終つて頂きたいと思います。只今淺岡委員からの提案がありましたので、これで午前中の会議を打切つて休憩に入りたいと思いますが、淺岡委員の動議に御賛成でございますか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  27. 千田正

    委員長千田正君) 御異議がないものと認めまして、これから約三十五分間休憩いたしまして、午後一時から再開いたします。    午後零時二十三分休憩    —————・—————    午後一時二十四分開会
  28. 千田正

    委員長千田正君) 午前に引続きまして委員会を開催いたします。  証人の方に申上げて置きますが、十分皆様の御証言を頂きたいのでありますが、後程各委員方々が具体的に御質問申上げますので、その時分におつしやつて頂きたいということと、この皆さんの御報告を伺う委員会が今日一日だけの時間しかありませんので、十分意を盡せない点も惧れるのでありますから、どうか今まで証言された方の御証言と重複しない程度にお願いしたいと同時に、時間は先程岡元委員からの提案によりまして、十分と申上げましたけれども、十分を原則としまして、精々十五分ぐらいのところで一つおまとめ願つて、後は委員の方の御質問に対して具体的にお答えして頂きたい。御注意まで申上げて置きます。証人江口光夫君。
  29. 江口光夫

    証人(江口光夫君) 私は終戰後から東部満州地区同胞の救援の責任者をしておりました関係上、東部満州につきましてお話申上げたいと思います。昭和二十年八月九日でありますが、朝から国境線一帶につきましてソ連軍が進撃を始めて参つたのであります。従いまして牡丹江以東の者は十日から陸続としてハルピン、新京、奉天方面に難案を開始したのであります。ソ連の進撃が以外に早かつたのでありまして、十四日の日にはすでに牡丹江の側までやつて来たということで、一般難民の避難も極めて混乱の中に行われたのであります。そして又国境線一帶に守備の任に当つておりました兵隊も到る所で激戰が交えられたというような状態でありました。而して八月十日の朝から十一日十二日にかけまして、あの東満地区一帶の男子は二十歳以上殆んど根こそぎ動員にかかりまして、そのためにあの避難をする場合の混乱というものはそのために更に混雑の度を極めたわけであります。そのうち既教育の者は主として第一線に出まして交戰に当つた。未教育の者は牡丹江市内の警備に当つたというような状態であります。それに佳木斯から約三千名からの召集者がありまして、これらもこういう区分で市内の警備、実戰にというふうに分れました。私は八月十日に部隊長の命によりましてハルピンの方に後退したのでありますが、その後十四日、十五日と極めて激烈な戰闘が、牡丹江市街を中心として交えられたのであります。私はハルピンに着きまして東満地区から避難して参りますところの難民を受入れておつたのでありますが、八月十七日頃から東満地区、ハルピン間の消息というものは完全に絶たれてしまつたのであります。そのためにハルピンにおきまして非常に憂慮しておりましたときに、八月二十四日からハルピン市内におきまするところの十五歳以上、大体十五歳といつて差支ないと思いますが、男子はソ連軍のために駆り立てられまして、その数は約三万程に上りました。そして直ちに香坊、海林というところを経まして牡丹江の收容所に容れられてしまつたわけであります。何故にこういう日本人狩が始まつたかと申しますならば、これはハルピン市内において暴動が起りやしないかというような懸念の下に行われたと聞いております。ハルピンに難民救済会ができましたのは九月三日でありまして、私もその救済会の委員に選ばれましてハルピン地区の救済に当つてつたのでありますが、東満地区状態が依然として分らないというようなことがいよいよ濃厚になりまして、そのために私は選ばれまして一行十四人の団長として東満地区に向つて救援の決死行を行なつたのであります。私が出発しましたのは九月二十八日でありまして、その晩はソ連兵のため阻害されましてとうとう列車に乘ることができませんでした。それで十月三日にソ連司令部にお百度を踏んで漸く旅行許可証を受けまして、十月三日午後牡丹江に向つて出発したのであります。その時分は容易に牡丹江に着くことができたのであります。併しながら私は出発の折五万円の救済金を持つてつたのでありますが、そのうちから準備金を一万円だけいれまして四万円、その中から列車中でソ連の将校のために無理やりに金を強奪されまして、五千円程強奪されたのでありまして、実際に難民救済金として牡丹江地区に持つてつたのは三万五千円であつたのであります。そうして私共は十月四日の夕刻牡丹江に着いたのでありました。牡丹江の駅の前には約二千の日本人の男子が綿入を着たり、ムシロをかぶつたりしまして皆悲痛な顔をして坐つておりました。これらはハルピンから駆り出されました三万の中の一部分が徐々にハルピン地区に向けて帰されたわけであります。これが大体二万七千程が十月の月に帰されまして、後に三千程残りましたが、この三千は牡丹江市内の重要な工場、この施設をソ連がとるための手先として使われておつたのであります。併しながらその三千名も十一月一杯に帰して貰うことができました。さて牡丹江市を中心としますところの東満地区状態はその当時はどうであつたかといいますと、私はあの危險の中を審さに市街並びに附近の山を見て廻つたのでありますが、橋の鉄橋のたもとは勿論、山の中にも市街の中にも到る所に日本兵の無慚な戰死の姿が累々として重なり合つてつたのであります。この数は恐らく東満一帶を通じて五万を下らないと私は存じます。それにその当時牡丹江に集められました捕虜が約七万おりました。これが收容所が掖河という所と謝家溝という所と八達溝という所と拉古という四ケ所にあつたのでありますが、拉古には一部一般の難民が收容されておつたのであります。これが約七万の数に及んでおります。これらの七万の捕虜は漸次ソ連の方に送られまして、そうして病弱者と称する兵隊が僅かずつ残されて行つたのであります。それに一般の難民状態はどうなつたかと申しますと、牡丹江市内に約一千、それから拉古に約一万、それから東京城、寧安、勃利、依蘭、方正という所に大体合せまして約三万の難民がそこに集まつてつたのであります。合計十三万程度の者が東満地区にその当時残されておりました。これは汽車が杜絶いたしましたために止むを得ず残されたものでありますのと、避難する途中婦女子は子供を持つておりまして、そのために足手纏いになつてどうしても途中の部落に残らなければならんというような状態に置かれましたから、これらはすべて中国人のところに厄介になつてつたというような状態でありますのと、殊に子供を沢山持たれた方はどうしても足手纏いになるというので途中の川に投げ棄てたり、山に捨てたりして避難をしたというような悲惨な状態も見られたのであります。更に途中で病気のために行倒れとなりまして、中国人に厄介になつたというような婦人老人も多数おつたようであります。これらが合せまして大体三万という数字を掴んでおります。それでその俘虜はどうなつたかと申上げますならば、翌年の昭和二十一年でありますが、四月十五日にソ連兵は引揚の観兵式を牡丹江の市内で行われたのでありますが、それから月末までに漸次ソ連に向けて引揚げてしまつたのであります。それであとに残されたものは約三千名の俘虜が残されました。それからその月にソ連から病弱者として逆送されたものが約千名程ありました。合計四千名程度のものが残されたのでありまするのと、外の方におりました俘虜が二千名程集まりまして、大体当時は六千名程の俘虜が残されておつたのであります。そしてその最初七万おりました時分の俘虜の時代から翌年にかけまして約二万の俘虜が死んでおると、こういうふうに私は見ております。その二万の死亡者に対してはどういう処置をとつたかと申しますと、ソ連軍は十二月の初めから、これは二十年の十二月の初めから翌年の二月の末項までにかけてそれらを全部牡丹江の北方にあります山の壕内に全部埋めてしまつたのであります。私は丁度事務所が駅の前にありましたので、夜な夜なトラックで以て運搬する音を聞き、又時にはそれを盛視をして見ておつたわけであります。そうして更に難民が死亡いたしましたものは約二万程度あると思います。そうしますと約九万人になります。併しながらこの戰闘によつて戰死いたしましたところの兵隊約五万、それから俘虜收容中に死にました二万、合計七万というところになります。ソ連は当然これを発表しなければならん義務があると思います。にも拘わらず四年を経た今日まで而も私共が帰りまして、この状態を見ますときに未だに発表していないということを常に承つております。——————かようなことで翌年の追送時に立ち至つたのでありますが、その間私共の難民の救済の面におきましては、もともと東満地区は放棄された所でありましただけに非常な苦心を重ねたのであります。金とても勿論ありません。ハルピンの委員会に依頼しましても農民自体が相当難民を抱えておるというようなことで、どうしても東満地区に向けて救済の手が向けられないという状態でありましたので、私は時の市長、谷という市長でありましたが、その方と紅卍会、これは紅卍会の会長をやつております文という方にお願いいたしまして、全面的な難民救済の援助方を依頼したわけであります。これらの方々が早速有志の方と諮つて下さいまして、糧食、それから收容所の設備材料等盡く救援して下さつたのであります。殊に経費の面におきましては、私の名において中国人の有志から約七十万円に近い金を借用いたしまして、それで以て約一年間というものを救済して参つたのでありますが、これらの中国人も時代が変りまして、中共政府になりましてからお尋ね者となり、それに又詮索等も受けまして、逃げたり又殺されたりいたしまして、非常に気の毒な目に遭つておるような状態でありまして誠に気の毒に堪えないと存じております。それで遣送が起つたのが八月の二十日以後でありますが、私はその前にどうしても救済ができない、寄附がないので救済ができないというところから、ハルピンに向けて出発したのでありますが、ハルピンにいること二週間にいたしまして、漸く得ました金が三万円であつたのであります。当時これだけの金を以てしては、救済の僅かの役にしか立たないということで、どうにもならなかつたので、私は意を決しまして、あの松花江を境として中共軍、国民党軍が対峙いたしておりました中を新京に密行いたしまして、新京におりますこと四日にして、漸く捕虜対策費として百五十万円、一般難民の対策費として二百五十万円、合計四百万円の救済資金を作ることに成功したわけであります。それで四日の滯在で、松花江を川上にとりまして更に密行を重ねまして、私は七月三十一日の夕刻ハルピンに着いたのでありますが、ハルピンに着きますと同時に待つてつたのは、私を引つ張りに来ましたところの日本人の民主連盟員でありました。その当時、聞くところによりますと、牡丹江ではすでに牡丹江の委員会の役員が四名もう收監されているというような話を聞きましたので、いずれにしても、私が責任者として帰つて、これらの者を全部出して貰わなければならんというところから、欣然として牡丹江の監獄に引かれて行つたのであります。いること二ケ月、その間に四名の人は順次出して頂いたのでありますが、そのとき私共を收監いたしました理由としては、当時日本人の民主連盟を作りますために、私共がおつては邪魔になるというようなことから、私共を無理やりにぶち込みまして、そうしてその間に民主連盟を作つてしまつたのであります。私は今更申上るのも何でありますが、当時民主連盟員が私に対してそのことを一口言つて呉れたならば、私は潔ぎよく喜んで民主連盟に明け渡すことができたということを言えるのであります。  そのようにして、二ケ月後出たのでありますが、その收監中に起りましたことが一つあります。これは当時九月十八日の満州事変記念日でありますが、その日に日本人の戰犯者として民主裁判に付するという声が監獄内にも起つてつたのであります。その時分に私も入れまして五名の者を戰犯者として民主裁判に付するというようなことで、私の調書は九月十六日の晩から作られたそうでありますが、それに対しては、中国人の市民と朝鮮人の市民が真向から反対いたしましたので、これを民主連盟としては取止めることにいたしまして、あとの四人、これは日本軍の将校が三名、満州国軍の将校が一名、合計四名の者が、当日雨が降りましたために取止めまして、九月二日の日に民主裁判が開かれまして、そしてそのうち三名は即日銃殺に処せられまして、一人は池田という軍医少佐でありましたが、この方だけは助かりまして、即日変名をさせられまして、今中共軍の軍医として参加させられております。そういうようなことがあつたのであります。そうして又その間に追送が行われたのでありますが、その遣送の当時、東満地区から内地に帰されたものが約三千余と、こういうふうに後から聞いて分つたわけでありますが、私は何とかして、この遣送の事務を手伝つて一人でも多く帰したいと、こう思つておりましたけれども、如何せん獄中でありましたので、これも涙を呑んだわけでありますが、その当時ハルピンの難民会から主として貰つて参りました金が二百三十万円であつたそうでありますが、実際遣送に使われた金は約百五十万円程度でありまして、残つた八十万円は、その民主連盟の幹部が二人で着服したということを後から聞いております。  そういうことで、遣送が大体終りまして、あとに残された日本人の中で、何とかこの際遣送して欲しいということを民主連盟又は中国政府側に申出たそうでありますが、これらの人は盡く反動派として收監されたのであります。その数が約十名でありました。そういうことで、あとに残された者は、約六千の者が牡丹江地区に残されたのであります。その内訳といたしましては、牡丹江地区辺にも百、仙洞に五十、それから鳳山炭鉱に七十、難西に千三十、東安に千五十、佳木斯三百、鶴岡炭鉱千、その他千八百という、合計六千になるのでありますが、このうちの炭鉱には、先刻申しました病弱者として捕虜になりました者が、殆んど大部分が炭鉱に向けられたのでありまして、現在重労働に従事いたしております。もともと弱兵でありましたものが重労働に従事いたしましたために、大部分胸部疾患に罹りまして、今のところ非常に困つております。仕事をしなければ食えない、併し身体が惡くてやれないというので困つておる状態であります。併し、健康な者はどうやら生活をしておるというような状態でありまして、ここに残されたその他千八百名というものの中には、先刻申しました婦人子供というものが、未だに中国人の厄介になり、且つ又結婚を強いられて無理やりに結婚をさせられておるというような者も残留しておるということをお含み置き願いたいと思います。これらの結婚しております方々は、中流、上流あたりに入つておる人は極めて少いのでありまして、百姓とか馬車挽き等の極めて下層の者に嫁しておるという状態でありまして、これらの生活又極めて惡いのであります。従いまして、これらの方々は常に日本に帰ることを希望いたしております。昨年七月、先刻杉田さんからもお話がありましたが、日本に帰して呉れというように歎願をしたことがありますが、その折に牡丹江、ハルピン地区で約百名以上の人が反動派として收監されたのでありますが、そのためにラジオは聞えなくなり、帰るということすら口に出せないということになりましたので、非常に暗い気持でおつたのでありますが、今年の二月頃から漸くラジオ等も聞けるようになりまして、殊に今年の三月、四月に行われましたところの東京の引揚促進の大会並びに断食の放送、それから尋ね人によるところの放送というものが再三再四行われます度ごとに、残つておる日本人はラジオにかじりついて涙を流しながら聞いておるという状態であります。それ以来少しずつ希望が持てて来るようになつておるのであります。
  30. 千田正

    委員長千田正君) 大体その辺で、あとから又お聞きします。
  31. 江口光夫

    証人(江口光夫君) もう少しですから……。その後更に又一昨年から山の中に兵隊かまた残つておるというような話がありまして、これはその年の初め頃から、興安嶺とか、東京城の山の中にこれらの救援に行つた人があるようでありますが、これらの救援に行つた方を、更にこれを日本人のスパイということにいたしまして、連累者とみなされた者も約三十名程ハルピン、牡丹江において引つ張つてしまつたのであります。その中に私も加えられまして、約十八ケ月の監獄生活を余儀なくさせられたのでありますが、これらの中にも現在十二三名の者が未だに行方が分らないというような状態に置かれているのであります。かように日本人同士を救うことすらできないという状態に置かれているのでありまして、あとに残されましたところの皆の気持というものがどのくらい暗い気持でいるかということは御想像にお委せしたいと思います。まだお話いたしたいのでありますが、あとで……。
  32. 千田正

    委員長千田正君) 各委員から具体的に質問願いますから……。
  33. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 ちよつと注意して頂きたいのですが、今の話、終戰後のことを一部始終述べられますが、本委員会は現在の残留者の状況、それからこれを如何に引揚げを促進すべきかという問題を調査するので、終戰当時のことなどは相当いろいろな報道も聞いているので、この場で繰返されないで、成るべく最近の事情等を述べて頂きたい。ここに重点を置かれたいと思います。今の江口さんのお話では初めの十分くらいのところはそれの方が多過ぎたので、今後はそういうふうに願いたいと思います。
  34. 千田正

    委員長千田正君) 只今の星野議員からの要望もありまして、十分証人方々も愼重にお話願いたいと思います。   —————————————
  35. 千田正

    委員長千田正君) 次は江島治平証人にお願いいたします。
  36. 江島治平

    証人(江島治平君) 引揚促進に関する御研究をなります上におきまして、先ず中共地区只今の状況がどういうふうな状況であるかということをお知りになつて置くことが必要でないかと思いますから私はそれを申上げたいと思います。  私は経済人でありまして、経済以外のことは分りません。そのおつもりでお聞き願いたいと思います。日本では中共という言葉が非常にはやつておりまして、中共と申しまするのは中国共産主義の政治地域であるかのように解釈されているようであります。併し私経済人が見ますところによると、そういう意味の中共でありますならば、もはや中国には存在していないのであります。現在ではいないのであります。遠い将来は知りません。中共地区には大幅に私有財産も認められておりまするし、私有の生産手段による生産も認められております。物の購入、販売も概ね自由でありまして、一部工業薬品の外は随時時価によつてつたり買つたりすることができるのであります。土地、建物の売買も認められております。政府が民有の工場などを接收せられる場合におきましても適当と認められる代価が支拂われておるのであります。成る程昭和二十一年四月二十五日北満一帶がいわゆる中共軍の手に帰しました当時は、土地、工場、建物その他の財産の無償沒收が盛んに行われまして、政府や軍隊で強制的に接收せられたものが頗る多かつたのであります。又労働者無産階級と称する団体がふいに闖入して家財を沒收いたしました。又農民団体と称する者が武器を持ちまして、市内に遁入せる地主を追廻し、民衆裁判の名において暴行、殺害等を勝手にいたしましたる事態もありましたが、昭和二十二年の暮から同二十三年の春にかけて行われましたる日本人日本人をやつつけたこの種の裁判、財産沒收を最後として禁止となりまして、その後は前に申上げましたように大体資本主義的な自由主義的なやり方が行われておるのであります。  毛沢東主席は昨年の三月一日から人民民主主義の施行を発表しました。人民民主主義というので、私共はその青年連盟諸君から説明を受けましたところによりますと、中国の現状は共産主義に直ちに直結することは尚早である、むしろ現状の資本主義を助成しつつ人民の訓練と相俟つて共産主義政治経済に移行するという行き方が人民民主主義であるという説明を受けたのであります。而してこの施策の方針によりまして一見私闘にも似たる民衆の動きは禁止されまして、商業資本の余剩力なども農地への投資が行われて、当局の監督の下に農民と協力して、資本家と農民とが協力して国家の緊急事たる農産物の増産をするように要請されるように至つたのであります。勿論いずれの事業にいたしましても、旧来の自由主義的な独占的な暴利は許されておりません。民間の事業に対しましては相当の重税が課せられておりまして、すべての人々がこの重税を免れるためにいろいろな意を拂つておることは実によく日本と似ておるのであります。残るところは外国との貿易が国家の直営で行われるか、個々に許されるかでありますが、これは将来に徴すべき問題であります。現在は一部ユダヤ商人などが国家管理の下に必要な資材をソ連と個々に交易しておるのを知つております。共産主義的な計画経済はいつの日に顕現せられるや分りませんが、私の考えによりますると尚前途遼遠であるということを見ております。今のところでは日本の現状と大同小異であり、私はむしろ日本の方が今は同じ行き方ではあるけれども、綺麗に巧く行つておるということを感ずるのであります。例えば農地改革に対しましても、中共では農民の手で地主を打倒し、無償で国家に回收しましたが、同時に農民は仕事上のパトロンを失いまして、耕作用の牛馬に困り、農具に困る。私の知つておる農民達も土地は随分広いものを貰つたが牛馬は軍に取られてしまうし、農具も共同管理として取上げられてしまつたが、今では行方が分らなくなつた。第一金を借る地主がなくなつてどうして物ができるかというようなことをぼやいておりました。私は向うで餅や野菜の内職をやつておりましたので百姓には非常に連絡がありまして、皆から聞いておりましたがその通りであります。若い壯丁の多くが軍に徴兵されてしまいましたので、農業生産は非常に激減をいたしましたので、後に政府が率直に行き過ぎを認めまして、前に申しましたるような土地資本をも認めるに至つたのであります。供出の実情もよく日本に似ておる。供出糧穀の余つたのは適当な物品税を賦して自由な値段で売ることができるということが、むしろ向うの方が自由なんであります。私は経済上から見まして、中国を共産主義国家と見、日本を資本主義国家と見て、そうして中共などと称するのは当を得ていないと思うのであります。この二つの国家は、理想的に社会主義或いは民主主義国家を目指して進んでおるのは事実でありますが、遠き将来は知らず、現在は似たり寄つたりの国家である。ただ似たり寄つたりの民主主義を行うのに、中国共産党が領導の主力を占めまして、共産主義の理論を高揚し、その学習を民衆が歓迎し思想がよいとか惡いとか論議されており、ソ連やスターリン、レーニンのことであれば、丁度終戰前の天皇讃仰のごとく最善至高のものとしておるのは、私がどうしても腑に落ちないところでありまして、その辺はいわゆる政治上の問題であろうとも思うのでありますが、私には分らないのであります。それですべての引揚促進その他のことを御研究になります上におきまして、中共を共産主義国家であるというような見方でお進めになつたら大変な見当違いであると思うのであります。まさしく日本の現状と違うので、宣伝文が違うだけなんで、事実は一緒であるということをお認めになつて諸般の御研究を進めて頂いたらと思うのであります。長くなりますから、あとは御質問に答えます。   —————————————
  37. 千田正

    委員長千田正君) 次に証人今井かね君。特に今井証人委員方々の御希望がありますのは、御婦人の立場で、時に残された御婦人方の実情並びにそうした問題を今井証人も北住証人も申述べて頂きたいと、かように各委員からの要望がありますから、申伝えて置きます。
  38. 今井かね

    証人(今井かね君) 私が渡満しましたのは十九年でありまして、そして終戰になりましてから八路軍が入りまして、参加しました。その間終戰になるまでの間におきましては、非常に日本の軍隊が如何に軍人家族を放りぱなしにして行つたかということに、私は非常に大きな悲しみを持ちました。そして八路軍が入りましてからは、私は本当に衣食住の苦労もなく過させて頂きました。私はただ病院工作者として働いて参りました。そうして自分の立場を続けて来た、ただそれだけでございます。そして中国におきまして、終戰当時に亡くなられた家族が、栄養疾患や或いはいろいろな病気で亡くなられたその原因はどこにあつたか、それだけを私は皆さんに分つて頂きたいと思います。そして中国共産党の運動の下にあつて、如何に私達が安心した明るい生活を送つて来たか、私はそれだけより他に申上げることはありません。私は助けられたのだから、本当に私の苦しみも何にもありません。不幸にして第一線より自分は病気になりまして、後方に送られまして、病院の生活におきましても、本当に温かい慈愛の下に安心して自分は毎日を修養しておりました。そして今度の帰国のお話を組織から聞かされたのであります。帰国するか或いは残るか、意見を出して貰いたいということに意見を出しました。私は一人の父があります。他に見る者がありません。日本の状況も分りません。そのために一度帰らして頂きたいと私が意見を出しましたときに、組織から、それでは本当に御苦労様でした、そういうお年寄の方がいられるのであつて、一人しかない子供であるならば、如何に心配していられるか、お帰り下さいと命令を受けました。そして奉天に来まして、奉天の組織の衞生都総組織より、日本帰つても必ず体に無理しないように、日本建設のために明るい日本を作つて、民衆が団結して本当に日本建設して貰いたい。一人の力は大きなものであるということを、自分はしつかりと胸に抱いて日本の国に帰つて参りました。そうして国民の温かい手に迎えられて、そうして自分は毎日を、まだまだ体がすつかりよくなつておりませんから、病院通いをしながら、日本の状況を今靜かに見ておるところであります。私の状況報告といたしましては、これだけでございます。亡くなられた家族のお名前や何かは、私は分りません。  それから残つておる方々は、私共は病院として民間との交渉がありませんでしたから、私は分りません。ただ一諸に四年間生活した友達は約三十名であります。その他に、外出やなんかは、私共は軍隊には嚴しい規律がありましたから、勝手な行動はとつておりませんので、分りません。終戰当時亡くなられた方は、私が避難民の総指揮官として二百八十名でありました。その中の殆んどは亡くなられて、助かつた者は、私のハロンアルシヤンの家族として約十五名くらいだつたと思います。その後に亡くなられた方のことは、私は直ぐに参加しませんから知りません。それだけでございます。終ります。   —————————————
  39. 千田正

    委員長千田正君) 次に証人北住君枝君。
  40. 北住君枝

    証人(北住君枝君) 終戰前は保健看護婦をやつておりました。終戰と共にチチハルに避難しまして、満軍の軍医のところに厄介になつておりまして、昭和二十一年四月二十九日に中共軍に留用されました。その動機は、中共軍がチチハルに滯在したのです。そのときに私共は看護婦だということを中共軍が知りまして、一ケ月の予定で、無理に前線へ送られたのです。一ケ月したら必ず帰すという約束の下に留用されたのです。二ケ月後になつて、私達は蒙古の方に行きました。蒙古地帶の学田地という所に参りました。学田地で、九月中旬だつたと思いますけれども、第一の帰国がございました。そのときに意見を提出しましたけれども、それは聽き容れて貰えなかつたのです。そのときに、日本人が約十五名ばかりおりました。そのときの帰国者は八名でした。女が五名、男が三名。どういう者が帰国命令を受けたかといえば、子供、家族連れ、又は病人ばかりだつたのです。そうして私達が、約束が違うから帰して呉れと申出ると、中共側の方では、そんなに内地に帰りたければ、この山の中で勝手に帰るがいい、匪賊が沢山出て、どんなにされようと自分達は責任を持たないというようなことを言われました。そのために帰ることもできずして、帰国までずつと中共軍に使われておつたのです。学田地には約十ケ月ばかりおりまして、それからずつと国民党との戰闘にまじつて、転々と二十個所ばかり歩きました。それは第一線で、彈の飛んで来るようなところを行きました。前線ですから、着る物も男と同じ軍服を頂いて、そして食べるものといえば、高梁、粟、副食物は、野菜の菜葉の塩汁みたいな物をたまに食べるぐらいで、あとは大豆を煎つて塩水につかつたのを食べたり、そうして又家などに余り寝たことはありません。たまに家に寝るといえば、百姓の家に行き、百姓を追い出して、その中に寝たりするのです。盡の行軍はありません。夜行軍ばかりで、一日に十二、三里歩きます、日本里で言つて……。そして去年二十三年の八月までずつと前線を廻つておりました。そして私達がハルピンに八月に参りましたのも、日本人全部が体が弱くなつて、前線勤務につかれなくなつて、そしてハルピンに送られて、ハルピン医科大学に勤務を命ぜられたのであります。ハルピン医科大学に参りましたところ日本人が約二百名ばかりおりました。その中での勤務状態は一週間交替で十二時間勤務です。その十二時間勤務というのが重労働で、看護婦というのは名前ばかりで、治療から附添い、雑役全部自分でしなければならない。その一つの病棟には、患者が二、三十名おります。私が受持つておりましたのは、外科病棟ですから、毎日手術をする者が、四、五人は病棟におります。その四、五人の重傷患者を抱えて、又外に重傷患者がおるのです。二、三十人の患者を毎日二、三名の看護婦が看るわけなんです。そのために体が惡くなり、そしてこの度の遣送のあれになつたのですけれども、その遣送の命令を受けたのも、ハルピン医科大学では、絶対秘密で、政治部員に呼ばれ、あなた達はよいことがあるのですと言われたのです。どんなよいことかと聞けば、あなた達は、体が弱いから奉天の総衞生部に行つて転地療養をすれば必ず胸部疾患は治るからといわれたのです。どこに行つても、日本帰つて中国にいても革命をするのは同じだ。中国の革命に参加するのも、日本の革命に参加するのも、これは同じだというような意味を言われて、そして奉天まで行つて、あなた達は帰国だという命令を受けました、正式に……。そして私達ハルピン医科大学百名のうち七名が帰りました。その七名は、使いものにならない体の弱い人間ばかり帰されたのです。そうしてハルピン医科大学の生活では、いつもその勤務以外に時間があれば、必ず学習です。その学習は、共産党の学習なんです。それに参加しなければ思想が惡い。思想不良だというふうに見られて、そうして一ケ月に何回となしに検討会というものをさせられるのです。その検討会も生易しいものではありません。その検討の仕方が惡ければ一週間なり、二週間なり留置場に入るのです。日本人同士で内地に帰りたいなどと、「な」の字でも言おうものなら、必ず上級に密告されて、思想不良だと言われて、あとで辛い目に遭うのです。私達が帰るときにも内々内地に帰るということは私分つておりましたから、内々そのことを知らせましたところ、そのときお友達も早く帰りたい、あの海がなければ歩いてでも、何年かかつても帰りたい、そんなに残つておる日本人言つておりました。私達帰国命令を受けてそうして第一に自分に感じたことは、必ずあの中共地区にいる日本人日本内地に帰つたら早く呼び戻したいというような気持で一杯でありました。私達と同じようにやはり内地に一日も早く帰りたいということを口に出しては言わないでも心に必ず思つておるのです。中共軍の中では女は中国人と国際結婚はしておりません。たまに中国人と結婚をして、そうして妊娠して上級に分ると、男の方、中国人の方は別に処罰はされず、女の日本人は必ず処罰を受けて、直ぐ軍から除名され一般邦人になされるのです。そうしてこの頃盛んに日本人同士の結婚を勧めております、それはどういう目的であるかといえば、結婚して落ち着かせれば内地に帰りたいという気持はなくなるだろうというような政策で大いに結婚を皆勧めておるような状態です。どうも涙が出て言えませんので、あと質問のときに申上げます。   —————————————
  41. 千田正

    委員長千田正君) これで証人の方からの証言が一応済みましたが、これから各委員から順次発言を許しますから十分に御質問を願います。
  42. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 議事進行について……質問が錯綜するといけませんから、時間を区切つて、初め大連のことについて、次に奥地の人々のことを聞くということにしたら如何でしよう。
  43. 千田正

    委員長千田正君) 只今星野委員からお聞きの通りの提案がありましたが、よろしうございますか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  44. 千田正

    委員長千田正君) 御異議ないと認めまして、その通りにいたします。
  45. 中野重治

    ○中野重治君 坐つていて質問してよいですか。お答えする方も坐つておられて私としては結構ですが……。
  46. 千田正

    委員長千田正君) 皆さん、如何いたしますか。
  47. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それはやはり正式の証人として証言を求めて審議をいたすのでありますから、一応委員の方も起つて質問をし、又答えて頂く証人も起つて頂くということの方がはつきりすると思います。
  48. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 私はどちらでもよいが、ただ従来の慣例で起つてつてつたのですから、従来の慣例で差支ないのじやないか。
  49. 千田正

    委員長千田正君) それでは従来の慣例は立つてつたようになつておりますが、各自の自由意思にしたいと思います。
  50. 中野重治

    ○中野重治君 慣例に従つて質問いたします。大連には私の知つておる男で日本政府との直接の関係において、及び満州における健政権との直接の関係において当時の日本的な言い方によると苦力労働者を偽政権及び日本帝国主義のために使う元締の仕事をしていた宮川精一郎さんという人がいるのですが、その人が大連方面においてやつた行動と、戰争が済んで後今日の現状に至る旅大地区社会事情の変化との関係は甚だよくマツチしていたか、そうでなかつたかということと、それからその宮川君が現在どういう事情にあるか、お知りならば知りたいということと、それからもう一つはこれは民自党の北村一男君から頼まれたのでありますが、元の東洋製紙工業株式会社の常務取締役で桑田宵二さんという人がおられますが、この人は製紙工業の純粋の專門家で、この方はたしか天津に工場を作つてこれを運転され、そうして明石からパルプを作つてコストを安くして紙を作るその仕事をされていたのであるけれども、戦争のために日本へ帰られ、かつ工場は破壞されたらしい。自分としては政治的な立場ということには関係なく、とにかく特許なんかを沢山とつておられるんだそうで、年齢も六十を超えたそうで、その方面の專門の技術者として向うへ行つて天津の工場を回復してそれがうまく行くのを見て死にたい。自分はそこへ行つてただで働くわけには行かないから、そこで工業技術指導者として受けるべき俸給を受けられさえすればいいのだ。何とか行けないか、共産党で話をして呉れないかという。こういうことは国の関係でなさるべきことであつて、私共として何ともできないということは私からも北村君に言つてありますけれども、先程の旅大地区及び満州一般の事情を聞きますと、この桑田さんの希望はかなえられそうな希望だというふうに思われます。そうあることは楽観に過ぎるだろうか、御意見を伺いたいと思います。
  51. 千田正

    委員長千田正君) 中野委員に伺いますが、成るべく証人の方の指名をして頂きたいと思います。できれば旅大地区の順序に構いませんから、石堂証人か、金子証人か。
  52. 中野重治

    ○中野重治君 指名いたします。宮川精一郎君に関しては石堂さんにお答えを願いたい。桑田さんのような技術者がもう一度自分の仕事の結末を付けたいために向うへ行きたいという希望がかなえられそうであるかどうかということについては、石堂さん並びに金子さんからお話を頂ければ結構であると思います。
  53. 石堂清倫

    証人石堂清倫君) 宮川精一郎君のことからお答えいたします。個人的の関係を申しますと、宮川精一郎君は中学も高等学校も大学もずつと一緒でありまして、いわば竹馬の友であります。満州に参りましても甘粕正彦の指導を受けて仕事をしておりました。元の大東公司、これは関東軍の指導の下にありまして、北支那方面から苦力を満州へ輸入するという特許会社であります。これの大連出張所長をしておりましたが、やがて特別の関東州労務協会というものを創立いたしまして、主として天津、青島に出張所を設けて現地軍と協力いたしまして、相当無理なことをして苦力の募集をやつておりました。これは苦力募集の方法につきまして詳しく申上げる余裕がありませんが、苦力頭の縁故募集という場合の外、現地から村々郷々に割当てまして強制的に供出させるという方法を採りまして、それから苦力の送金などについても干渉をしておりました。そうしてこの労務協会の仕事は苦力募集だけではなくして、北支那方面から当時の関東軍の言葉を使いますならば、共産主義者、赤化主義者民族が潜入するのを防止する私警察の任務を持つてつたのであります。使用人は憲兵隊、並びに警察、特高機関出身者が非常に多数を占めておりました。隊長は関東州庁長官、副隊長は内務部長及び警察部長で宮川君はその常務理事をしておりました。そういう関係から関東地区労働者を皆満州十地区において働かしておる。北支那方面から非常に輸入して来たところの労働者日本帝国主義の中国人民に対する弾圧の第一の具体的な機関であるという感じを持つてつたのであります。終戦後労務強化に対する中国市民労働者の憤激が非常に激しかつたのであります。宮川君は居所を転々としてその難を免れたようであります。ところが関東地区では彼が軍人でありまして伍長であります。軍人としてソヴイエト軍の捕虜になつて大連附近に一年ぐらい生活いたしまして昭和二十一年外の捕虜の軍人と一緒に大連の港を経由いたしまして内地帰つております。捕虜になつておりましたから中国労働者の憤激を免かれることができたが、若し捕虜になつておらなかつたらどういう状況になつてつたか、当時の事情から我々としては予測することができない。それから非常に苦力の憤激がひどかつた、労務協会が苦力に非常に苛酷な労働を課し、正当の賃金の支拂を受けることができなくて、何らの政治的な権利、人間的の権利を認められないというふうに考えておりまして、その後常務理事でない職員がしばしば個々の労働者の団体、若しくは中ソ総同盟、日本の労働組合総同盟という形のものがありまして、そういうところに拉致されまして、いろいろ取調べを受けまして、日本時代にどういうことをしたかということ、捕虜に対して損害をかけておる、賠償をせよということで私財の提供を要求されたものがありましたことを聞いておりました。宮川精一郎君は今日は捕虜になつていたために無事帰国をされたようであります。その家族も私は親戚同様にしておりましたので、よく知つておりましたが、別段の被害は受けませんです。その点についてはソヴイエト軍はよく保護してやつたようなことを聞いております。日本帰つて参りましてもまだ何をしておりますか本人に合つておりませんから分りませんが、大阪地方で労働委員会か何かの役員をしておるということを聞いております。  第二の問題桑田齊二さんの問題につきましては、勿論私個人の考えでありまして、中国人民政府の考え方がどのように考えられておるかは分りませんけれども、現地では非常に技術者が足りないのであります。昨年初め技術者に対する対策條例のようなものができまして、その国籍の何たるを問わず、又思想の如何を問わず、技術を持つて建設に参加し得るものは極力優遇しなければならんということを言いまして、我々日本人に対します態度を昨年を転機といたしまして非常に変つて来たのであります。中国建設の責任者の言うことを聞きますと、大量の日本人技術者、これは兵技術者も含みまして、大量に希望しておる。満州だけでも約六万人くらいの技術者が、今後日本人が必要になつておるのが、これを補欠できないということは、一にかかつて今日の国際情勢にあると言つておるように思います。従つてそういうような政治上、外交上の難点が除去されますならば、桑田さんのように進んで中国の地において自分技術を発揮したいというような人は、先方では非常に歓迎するのではないかというように考えております。
  54. 千田正

    委員長千田正君) 金子証人
  55. 金子麟

    証人(金子麟君) 中野先生がお尋ねになりましたことについて、石堂君は幸いにも偶然かいろいろな参考書類をここにお持ちでございましたから、詳しい御説明ができたようでありますが、私は突然のお尋ねでございますから、石堂さんのような詳しい御返答はできませんが、桑田さんの問題につきまして私の感じを申上げます。  中国の工場は正に日本人技術者を要望しております。併しそれはどういう意味で要望しているか。私には不可解な点がある。これが日本人技術者の最も不可解とし、且つ心外に感ずる点であります。一例を申上ぐれば、工場の壁に、日本技術の如何に劣惡なるかを証明するような……日本人がいなくなつてから生産がかくも殖えた、これはソ連の指導下においてでき上つておるものである、日本技術者の劣惡なるを今更において知つたと、こういうスローガンが掲げてあります。真に日本人技術を敬愛されるならばです、こういう行動はあり得ないと思うのです。結局日本人を使うということは、他に何らかの目的があるのだろうと私は考えた。これは私の想像であります。日本人技術者を残せば頭で使える。ソ連の技術者が来てやれば、ソ連の技術者に圧迫される。だから日本技術者を使つた方が楽である。で六万六千円とかという高給の給料等もございました。私も六万六千円を貰つてつた高給技術者の一人であります。更に私はソ連から相当の優遇を受けておりました。併し日本技術者があそこに働くと否ということは、決して金銭上の問題ではありません。真に日本技術を礼讃をし、真に日本技術に頼るならば、それ相当な途があると考えます。でありまするから、あの方々がやることについては、そこに一つの欺瞞があると先程から申上げたのであります。尚余程の考えであれば知らぬこと、私は技術というものを移讓する上においては、二つの途があると信じております。それは量の問題と質の問題だと思います。質となるというと、こんな私みたいな、日本に帰れば路傍の犬の糞程も人が関心を持つて呉れない私のようなものにも、向うさまが好きでお残しになつたのでありますから、これは御随意であります。次は量の問題でありますが、技術者としてどれだけのことを移讓申上げたらいいのか、曾て石堂さんが労働組合委員長をお止めになりまして……、次の勤労者組合の委員長技術者会議を開かれました。それは技術者が如何に中国に協力するかという問題、これは残留問題も入つておりました。山岡君が司会者になつてつておられました。そのときに私がこの問題を提げて、この移讓ということについて、受入態勢ということが必要じやないか、受入態勢は中国にできておるかおらないか、お尋ねいたしました。まさしく受入態勢は十分にはできておりません。例えばです、或る程度のものを、まあ医者の方で申せば或る程度の者を教育いたします。それは直ぐに方々に離散いたします。常に新らしい者が変つて来ます。そういうような状況で、まあこれは医者の方でございますから、外は存じません。そういう状態でございますから、私らがいつになつた自分達の量の問題で移譲が完了するのか、これは分りません。  もう一つは使えるうちは使つて下さいます、確かに。併しこの人間の使用価値がなくなつたとしたら、弊履を捨てるようでございます。その実例と申せば、今回帰るということを言つた場合に、私が判を押したならば……、私の親友で金沢の谷村久男博士は、帰るということを主張したために私立病院にやられて、七月から俸給を貰つておりません。やはりこれは六万六千円の口でございます。そこで彼は非常に用心のいい男ですから、こういうこともあるだろうというので、金を持つてつたたために、ただ私らの少しの小遣を補充すればいい程度でございました。  次は山東の方へ参りまして、実は私も副院長に来て呉れ、院長に来て呉れと言われたのをお断りしたのですが、そのあとで唐澤準吉という、これはもう年齢七十歳に垂んとする外科の大家であります。これが中共方面に雇用されました。それで彼は、休も惡いし老齢たから帰して呉れということを再三迫つて、約八ケ月の後に到頭帰ることになつたのでありますが、それと同時に彼は全く俸給が停止になつたのであります。そうして彼は年寄の妻君と二人で、路傍で物を売つてやつと露命を繋いでおつたのであります。そこで中国人達が、唐澤大夫は実におれらの恩人である、なぜこの恩人をそんなことをするのかと民衆が騒いだために、遂に食糧の途だけ得られたという例もあります。次に又和平病院におりました私の友人の脇屋君、これは晝夜兼行で和平病院で働きました。和平病院というのは向うのいわゆる公安隊、日本で言えば軍隊のようなものの病院であります。その公安隊の病院で内科医者として働いておりまして、遂に肺臓を惡くして寝ました。寝ると半年は何とかして呉れましたが、それから後は俸給は不渡りであります。仕方がないから私達は皆献金をいたしまして、そうして病院に彼をお見舞い申上げました。尚ここに技術者にもいろいろな例がございますが、これはちよつと勤労者組合の惡口を言うようになつて甚だ相済みませんが、第一回の引揚に鋼鉄工場におりました下野哲志という方は、これはやはり中共にいた技術者であります。一回の引揚に是非帰るということを懇請して、ソ連は許したのでありますが、遂に中共地区ではこれをお許しになりませんでした。それで九月にやはり勤務のために肺結核になりました。中共の工場側は勤続年数の短かいという故を以て給料を支給いたしません。友人どもの醵金によつて辛うじて親子五人が食い繋いで、陳情数回に及びまして、遂にこれは施療患者として、これは多分赤十字社へ入つたと思います。翌年二月入院いたしました。勤労者組合はこの間栗の配給を少量したばかりで、何らの手を下だしませんでした。本人は遂に二十三年七月、病床のまま中共と労働組合に怨みの手紙を残して、そうして帰国されました。又大連機械と申しますところにおります増田忠義という者は、最近のものでありますが、彼も技師で非常にまじめな男でありますから、余り働いたために肺病になりまして、私のところに診療を受けに来ました。私の友達でありまして、彼は結核性の盲腸炎、併しこれは混合伝染をしておるのでありますから、ペニシリンを注射したかつたのであります。それでペニシリンを打つことを要求したのでありますが、帰ることを希望している人間だからというので、ペニシリンを射すことができませんでした。私は当時帰ることを許されておりましたので、私の持つている書籍を全部職工病院へ寄附いたしました。院長のいるところへ行つて、私の寄付した本を返して下さい、私は寄付を止めたと言つた。どういうわけですかと言うから、増田の治療に対してペニシリンを打ちたいと思うが、彼は帰る故を以てペニシリンを工場は許さない、証明をしないので打つことができない、憤懣に堪えない、私は日本人だ、私の友達だから私がペニシリンを買つて打つから、本を返して下さいと頼んだ。院長はいい人であつて、それは金子さん済まなかつた、怒らないで下さい、私の限りにおいてペニシリンを射つからと言つて即時ペニシリンを六本射して呉れました。これもいい例でありますが、かくのごとく日本技術者は、使えるときは使われ、使えなくなつたら弊履のごとく捨てられるのでありますから、まあ少し先の見えた方はどうでございますか。好んで大連にお残りになるのでございますか。私は疑問でございます。併し他に何らか目的のある、思想上に目的のある方だつたらこれは別問題だと思います。私らみたいな思想の古い人間、そうして私らの努力することは日本建設に努力することが真に日本建設に努力することである。中国建設に努力することが、即日本建設に努力することか否やという理念のよく分らない人間は或いはお残りになる方もあると思います。先程のお話で、その人の受入れはどうかということは、喜んで受入れることは受入れると思います。だがその人の将来に対してどれだけ中国が保障するか、それは私の申す限りではないと思います。
  56. 中野重治

    ○中野重治君 金子さんに質問した人間として、又重ねて質問するのですが、私として希望いたしたいことがありますから、一言言います。それは、参議院は本日の証人を、道端の犬の糞のようなものとして呼んでいるのではありませんから、どうかそういうようなみずから卑しめる立場に立たないで、簡単に答えて頂きたい。こう思います。それで只今金子さんのお答えによれば、桑田さんが行きたいと言えば向うは喜ぶであろう。併しながら中国政府は欺瞞と強圧を方針としているのであるから、いいかどうかは保証はできない。そこは要心なさつた方がよろしい。そういう忠告であろうと思います。それは私のお尋ねしたことではない。そこで金子さんはそういうふうにおつしやつて、それがあちらの現状であるように言われておるのですが、即ち中国の再建は日本の再建であるというふうな馬鹿なことを吹込もうというような言葉が先程もありまして、そのことと、石堂さんの報告なさつたところに大体においては賛成であるというお言葉と食違うことがあつたのはげせんですが、これはいろいろ考え方の問題にもなりますから、そのことは別としまして、そういう欺楠と強圧の上に立つているというわけでありますと、桑田さんにしろどなたにしろ二の足をふまなければならんと思いますが、この前の十月十四日の懇談会では、百金子さんが向うに残りたいと考えている者は一五%だというお話がありましたが、先程のお話では、利益のあり方で違う。つまり残る方が工合がよければ残ろう。それから日本へ行つた方がよければ日本へ帰ろう。併し日本も大変だし、ここにいれば飯が食えるという、あなたの名付け方によればオポチユニストですね。それが三分の一。共産主義者、或いはそういうように考えている人間が三分の一……。
  57. 金子麟

    証人(金子麟君) 一五%です。三分の一と申しましたか。
  58. 中野重治

    ○中野重治君 三分の一です。それから前者が三分の一、合計で三分の二になりますが、そうしますと、十月十四日から今日までの間にちよつと、ちよつとではない、残留希望者が可なり殖えているようですが、やはり欺瞞と強圧との上に立つ現状において、この短かい期間内に残留希望者がそれ程急激に殖えているということは我々はどういうふうに考えたらいいでしようか。
  59. 金子麟

    証人(金子麟君) 三分の一と一五%と申上げたのであります。
  60. 中野重治

    ○中野重治君 十月十四日には一五%とおつしやつた。今日はオポチユニストが三分の一、コンミニストが三分の一、合計三分の二と言いました。
  61. 金子麟

    証人(金子麟君) そのときに、オポチユニストというのは私の感情の、主観的な問題です。
  62. 中野重治

    ○中野重治君 それは勿論結構です。分つています。
  63. 金子麟

    証人(金子麟君) 強制残留でない。喜んで残留した方は約十五%であろうということは、これは今でも数字の上ではそう思つております。併しこれを思想上果して本当の共産主義的思想において残つておられるかどうかということは分りませんので、概数をそういうふうにお答えいたしましたので、やはり申上げたことについては変りないと思います。
  64. 中野重治

    ○中野重治君 こういうことですよ。私の説明が下手だつたと思いますが、こういうことです。つまり引揚げの問題を進める。又こつちから向うへ行きたいという人もうまく行けばこれを交流させたい。あなたは中国の再建は日本の再建だと。それと足並みを揃えて行くということは馬鹿げた考えだとおつしやつたけれども……。
  65. 金子麟

    証人(金子麟君) 私はそうは言いません。
  66. 中野重治

    ○中野重治君 それは記録に載つておりますから、あとで訂正なさるならなさればいいので、私はそれは馬鹿げた考とは思つていない。併しそういうことは皆の考えを聞いて、我々は現状を調べて、うまく行くようにやりたいと、こう考えている。だからあなた方に来て貰つた。ところがあなたのおつしやるのでは、中国の新らしい政権は欺瞞と強圧の上に立つている。ソヴイエト軍は非常によくやつて呉れたけれども、これは欺瞞と強圧の上に立つている。併し一方最初石堂君によつて報道された全体のよき変革ですね。それはあなたも認められているけれども、欺瞞と強圧の上において中国はよくなつたということになるわけですか。
  67. 金子麟

    証人(金子麟君) 大体において石堂君の言われたことについては……。
  68. 千田正

    委員長千田正君) ちよつと金子証人に注意しますが、一応委員長許可を得てから発言して下さい。
  69. 中野重治

    ○中野重治君 私のお尋ねしたのはこういうわけなんです。つまり欺瞞と強圧の上に立つてどんどん惡くなつている。それから折角人が行つても後になれば放つたらかしてしまうから少し用心した方がいいだろうというような事情であるなら、残留者が一五%であつたものが、どうして六〇%にも殖えるのか、併しこれは六〇%というのは数字は変つてもいいでしよう。いいでしようが、とにかく向うが、若しあなたが数字を訂正なさるならなさつて結構ですが、欺瞞と強圧の上に立つて非常に惡いのにそういうことになるのか、それともそうでないのか。
  70. 金子麟

    証人(金子麟君) 分りました。只今申上げます。数字について私の不用意で間違つた点がございましたから、ここに改めて訂正をいたします。本当に中国の再建に努力するのがいいことだと信じて残つている思想上の方は約一五%ぐらいだろうと思います。十月の幾日かに私の申上げたことを再認識したいと思います。それから私の見たところで大部分のことを申上げたので、小部分の或るところでは、私は最後に労働組合の職工総会の病院の顧問として赴任いたしましたときに帰ることについて話しまたときに、職工総会の幹部にお目にかかりました。そのときの幹部の言い分は明らかに文明的でありました。そうして私に対する態度も非常に紳士的でありました。私は赴任するときに條件として、新らしく船が来たら帰して呉れ、それから自分は臨床の仕事には参加しない。指導階級でいいか。その通りでいい。老齢であるから朝の九時から午後三時までの勤務で差支えないか。これも差支えない。それで向うは最近の船が来ましたら、私の方の言うことを聞いて働いて呉れれば埠頭まで自動車で以て送る。そのときにあなたは老齢で帰られたのだから、若し帰られて日本との国交がうまく行つた場合には日本の若い先生はこちらへ来て下さるだろうか、こういう話がありましたから、私はそれに向つてこちらが紳士的な待遇を下さるならば喜んで参りましよう。そのときには私もお手伝いをいたしましよう、こう申上げました。だから私の申上げた全部が強圧と欺瞞とであるということは、これは私の主観であります。少数にはそういうのがありました。但しその少数の例はたつた一回でありまして、四年間のうちに一回でありまして、従つて私は数字の上から言つて大局のところから言うと私の前申上げたことを主張したいと思うのであります。
  71. 中野重治

    ○中野重治君 再び金子さんにお答え願いたいのですが、成るべく私の質問を簡明にしますから、簡単にお答えして頂きたいと思います。二つだけ。一つは金子さんのお話にありました金子さん自身がその顧問をされておつた愛労奉仕団ですか、それは田岡という航空大尉がやつてつて、それは人間が右翼的であり、団体も右翼的であつた。ところがその費用はソ連司令部が出した。このソ連司令部が出したということは金子さんはどういう手続で証明なさるか、それが一つです。
  72. 金子麟

    証人(金子麟君) 私はそれについて証明の実績を持つておりません。ただ田岡の言葉を申しただけでありまして、私の言葉の、田岡の私に言つたということの事実であるということを証明する者はおります。
  73. 中野重治

    ○中野重治君 次は金子さんのいわゆる欺瞞と強圧に基く政策ということで、新らしい言葉が言われまして、雇用形式における擬装捕虜、この言葉が出て笑い声も出たようでありますが、このことは日本中国とが現に未だ戰争状態にあるところから解放されていないということを御承知の上での言葉だろうと思います。それでそのことを御承知で言われているのか、知らずに言われておるのかということと、今日引揚げの問題を我々が真剣に取上げている上において、相当長く向うにおられて、陸軍との関係もあり、年齢的にもいろいろ経験を経られて来た方が、こういう形でここで証言をなされることが、引揚げの問題を円滑に運ぶ上においてそれが正しく且つ有利であると、こうお考えであるか。この二つのことをお尋ねいたします。
  74. 金子麟

    証人(金子麟君) 只今の御質問について申上げます。戰争状態にあるということはよく存じております。かるが故に、私の向うに対して言つたことでありますが、捕虜でありますならば私共は何をも申上げない。つまり私は職工総会の病院へ顧問にやらせられるときに私は同意しなかつた。衞生副庁長林鏡生にお目にかかつて、今戰争状態にあるのだから私らが捕虜であるというお考えの下にお取扱いになるのならば私は何事も申上げない、こう言つたら、いいえ、国はどうあろうとも、技術者は捕虜として取扱わない、こういうことを明らかにおつしやいました。従つておつしやつたこととそれからやられることが違つておりますので、私は雇用形式的擬装捕虜というどなたかの言葉を拝借したわけであります。
  75. 千田正

    委員長千田正君) もう一つ引揚げに対して影響を及ぼすか及ぼさんかという点。
  76. 金子麟

    証人(金子麟君) それは私は今申上げたことが引揚げに対してどういう結果を来すかということについては、甚だ軽卒でありましたが、深く考えておりません。私の考えはあちらにおるところの実相を述べろと委員長からお話がありましたから、私は実相を述べたのであります。私の言葉が引揚げに対する効果如何と言えば又外に方法がございます。
  77. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 金子さんに二つ石堂さんに二つ伺います。金子さんは六万六千円だか月給を取つていたということを幾度も言われましたが、それが現在の日本物価にすると何万何千円くらいになるのかということ、それから一五%は思想的な残留希聖者、三分の一は金子さんのいわゆるオポチユニスト、つまりこれは健全な、何と言うのですか、社会常識家というような人達とも解せるので、これはまあ聽かないことにして残る引揚げ希望しておる主観的に引揚げ希望しておる人達生活状態石堂さんからの報告ではさして窮迫はしていないようですが、実際上窮迫はしていないのか、どの程度か、それからその人達の家族との関係、例えば夫が行つていて妻がこつちにおる、これはまあ一緒におるべき者が離れておる、それから扶養すべき親がこつちにおるとか、それから教育すべき子供と別れておるとか、そういうような事情を持つておる者はどのくらいの割合を持つておるか、この二つを金子さんに伺います。  それから石堂さんには、先程金子さんの話によると、医師の方々が三十何名だか安東に派遣された、それが逃亡して来た人があつたが、その外の者は不明であるという報告がありましたが、これは金子さんのお話では労働組合などに話したら却つて工合が惡いと言つて話されなかつたようですが、それにしても全般を管轄されていた石堂さんのお耳にはこのことも分つていたのじやないかと思いますし、こういう者に対してどういう処置をされたか、又若し金子さんからこういうことが打明けられたらば解決の途があつたかどうか、それが先ず第一。それからもう一つは、向う技術をもつて残留してもいいというような人々で、若し家族がこつちにおるという場合に、これを送つた場合に向うは受入れるかどうか、これは石堂さんのお話では技術者は大いに受入れる、こういうお話でしたが、技術は持つていないが、技術者の子供だとか奥さんだとか、そういう者がこつちから若し渡航許可を得て行つたらば、向うでは受入れられるかどうか、受入れてその技術者の家族を扶養して生活ができるかどうか、この点を伺います。
  78. 金子麟

    証人(金子麟君) 六万六千円がさてどのくらいになりますですか、十分の一と言う方もありますし、六分の一と言う方もありますし、物によつて大変違うのでございます。一概には申されないと思いますが、六万六千円の金で、私が自分一人が食べて行くのには約一万七八千円で十分でございました。私は独り者になりまして、五人がお婆さん一人を雇いまして、それで独身生活をしておりまして、月に二万円ずつ出しておりました。一万七八千円あれば十分だと思います。
  79. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 食べるだけですな。
  80. 金子麟

    証人(金子麟君) 食べるだけでございます。
  81. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 衣服は入れないのですね。
  82. 金子麟

    証人(金子麟君) 衣服は入れません。衣服は非常に高うございます。ソ連の給與は二ケ年間受けまして、あとはもう受けませんでございました。
  83. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 それじや今度帰りたい人々の希望者の生活程度ですね。あなたは最高給だと言われたが。
  84. 金子麟

    証人(金子麟君) 丁度私が収容所へ入りました五日目か六日目に私のところに報告がございまして、中共政府日本人残留者の俸給を半分に下げた、石堂さんお聞きだつたかどうか知りませんが、そういう報告を受けました。丁度半分としますというと関東公署の級等が一級から八級まであります。八級は本俸が九千円で技術加俸が一番下は一万五千円で、この技術加俸なんかは工場によつて大変自由に掛酌できるものです。例えば思想が惡かつた、勤務のしようが惡かつたというので、この技術加俸というものは、いわゆる民主裁判みたいなように、みんなで協議があつてグレードが決まりまして、下がることもあります。これは先ず固定級ということはどうかと思いますが、併しまあ固定級とされております。これが半分になつたとすると、それが事実とすればでございますよ、これは私はただ聞いただけでございますから、四千五百円に七千五百円でございますね、そうすれば家族の四、五人を持つている者は、決して裕福な生活とは私には思えません。現在の物価から行けば……。
  85. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 それで八級と一級とどつちが高いのですか。
  86. 金子麟

    証人(金子麟君) 一級が高くて八級が低いのであります。(笑声)一級が本俸一万六千円に技術加俸五万円、六万六千円、技術加俸の方がみんな多いのであります。
  87. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 それから質問の答えがまだある筈ですが、家族との関係ですね。
  88. 金子麟

    証人(金子麟君) 家族の関係で私らの経験を申しますと、昨年の二回の引揚げから後、医師五名は家族を帰しました。その家族を帰した理由を申しますと、家族を帰さなければ帰れないのであります。私は六十三の老齢にして家族を帰しました。それは家族を帰さなければ帰れないのであります。何故帰れないかというと、帰るということを主張すれば、反動分子としてどういう俸給のストップを食いますか、或いはどういう目に遭いますか分りません。その場合に、家族に憂目を見せるのは可哀想ですから、私らは單身残つた、そうして家族を帰したのであります。故意的に家族を帰している者もあります。或いは偶然にして家族と別れている方も相当あると存じます。ただここで一番憐れを止めたのは建新公司の伊藤君であります。今回帰るについて、ソ連側はこれを許したのでありますが、中共の工場の方で遂に帰ることを許さなかつたために、奥さんは船に乘つて旦那様は船の下まで来て夫婦泣き別れという例もございます。だからこういう例も或いはあるかも知れません。詳しいことは私は存じません。
  89. 石堂清倫

    証人石堂清倫君) 第一の質問、赤十字病院の救護班三十数名が連れて行かれたことについて私は金子証人から何ら正式に労働組合としての通牒を受けたことはないのであります。又労組の支部というものもあります。通常このような支部員を外地に派遣させる場合には必ず支部が立会います。その間に必ず取決めをすることになつております。ところが正式にそれがなかつた。且つ又、正式に支部としても個人としても組合に対して、とのような実例があるから善処して欲しいという申入れを一度も聞いたことがない。但し私は個人的にこのような救護班が連れて行かれたということは聞いております。それが非常に年限が経ちますので、関東公署に対して、この責任者として我々も非常に心配でありまして、どういうふうになつているか、いつ帰して貰えるかということは再三交渉しております。但しこれは金子証人のは、医療支部というのがありましたが、その支部の方からの申出によるものであります。独自に組合として交渉しておりません。これは関東公署として非常に責任を感じ、何とかして本人達がどこにいるかを確めて帰れるようにしたいと言つておりますが、私が帰つて来ますまでには、何も具体的な通知がなかつたのであります。組合としては組合員であろうとなかろうと、こういう問題について判明した場合に、何時でも対策を取つております。  それから技術者の家族の問題についてお話がありましたが、これは私も個人としての考えを申上げるだけでありますけれども、技術を持たない家族が向うに旅行するというふうなことについて、どうするかという御趣旨だと思いますが、勿論これは歓迎するだろうと思います。何もその間に故障はないことだというふうに思つております。何故かと申しますと、今回の引揚げを見ましても、昨年の引揚げを見ましても、家族が内地におつて別れておるというと、これは殆んど全部帰国許可しております。家族が一緒におるということについては、中国側のあれも考えておるようですから、内地から本人の家族を連れて行くということを拒否する理由はちよつと考えられないというふうに思つております。
  90. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 家族を抱えで生活できるか、どうか。
  91. 石堂清倫

    証人石堂清倫君) 生活の問題でございますが、生活の程度にもよりますけれども、大体今日の中国労働者は平均いたしまして一万一千円前後收入があるようであります。これは昔の昌光ガラス工場、現在は遠東電業破璃工廠になつておりますが、ここの労働者の平均收入を最近調べましたところが、五二%は九千円から一万四千円の間を取つておるという数字が出ておりますので、これは定額の外に歩増しが大変付きますので、計画の超過生産をやりますと、それだけ何%か付きますから、大体労働者が、そういうふうでありますから、中国労働者も十分生活をしております。日本人の場合は、金子証人が勤務しておられたのは関東医院でありますが、大体平均いたしまして、本俸、技術俸を加えまして、平均四万円くらいになると思うのであります。四万円ありましたならば、家族四人くらいは十分生活できるだろうと思つております。尚物価のことについて私は資料を持つておりますが、只今速記課の方で持つてつておりますので、若し御必要ならば、お取返えしを頂いて、最近の八月末日の物価を御報告申上げます。そうすればこちらとの比較ができるのじやないかと思います。
  92. 北條秀一

    ○北條秀一君 関連して。今、石堂証人が言われました日本人の給料問題について、金子証人の見解を聞いて置きたい。
  93. 千田正

    委員長千田正君) 今、石堂証人のお話の、お答えの問題につきましては……。
  94. 北條秀一

    ○北條秀一君 只今石堂証人中国労働者の平均の給料は、月大体一万一千円くらいである。日本人の労務者の給料は、平均四万円程度であつて従つて中国労務者はそれで中国人並の生活をしておるし、日本人は家族四人程度ならば、それで飯を食つて行ける。こういう話でありましたが、あなたは、石堂証人の申述べられましたことを、そうだというふうにお考えになりますか。
  95. 金子麟

    証人(金子麟君) 私は反対の意見であります。四万四千円という日本人の労務者、労務者という意味は勤労者ですか、労働者ですか、労務者をどう解釈してよろしいか分りませんが、高級の、いわゆる労務者、高級労務者の平均価格は四万四千円になつておりましようが、日本の低級労務者の方は、決してそんな俸給を貰つておりません。
  96. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 議事進行について……。委員長、この各委員質問に対しましてですね、一つ、一項ずつの質問をして頂いた方が結局議事が早く進行するのじやないかと思います。ですから各委員一つ一つに対して御質問を願い、それが証人によつて答えられる、そういうふうに一つ進行を頂きたいと思います。
  97. 千田正

    委員長千田正君) 淺岡委員の動議に……。    〔「賛成」と呼ぶ者あり〕
  98. 中野重治

    ○中野重治君 全体として賛成ですが、どういう手続をとるのですか。項目項目ということを決めるのですか。
  99. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 一つ一つ、例えば今、星野君が質問をされたのですが、金子証人に対して二つ石堂証人に対して二つ、こういうふうにありますが、それを一つずつやつて頂いた方が結局早い。そうでないと繰返して、又繰返して質問をしなければなりませんから、一項ずつの質問をするようにしたらどうでしよう。質問は自由ですから……。
  100. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 石堂さんに伺いたいと思いますが、大連労働組合についての発生なり、組織なり、活動なり、資金なりという点について、委員長をしておいでになりましたから、最もよく御存知だと存じます。又引揚げていらつしやるときに、その事務を次の人にお引き讓りになりますについての今後の問題というような点について、いわゆる大連労働組合ということについて成るべく一つ詳細に伺いたい。
  101. 石堂清倫

    証人石堂清倫君) 大連の労働組合につきまして、実は、二十二年の七月の末日から二十三年の七月末日まで約一年間の間、責任者をいたしておりました。それでその間の事情を、最も責任を以てお答えできます。昨年の七月以降は仕事をやつておりませんから、一組合員として、外部から見ていた程度のことしかお答えできないと思います。  大連労働組合ができましたのは、終戰の翌年の初めであります。昭和二十一年の一月二十日であつたと思います。これは、先日も議員連盟で川村丙午君が報告しました通りに、このときに、日本人難民の救済を行うこと、職場を離れて困窮しておる一般勤労者生活を維持すること、この二つ目的を以て労働組合が成立いたしました。その後労働組合の第一に着手いたしましたのは、当時先程私が申上げました通り、北満から約二、三万人の人が、これは必ずしも北満とは限りませんが、昔の関東地区から入つておりました。筒従来大連に住んでおりました人で、職場を離れて非常に窮乏化しておる人が多くて、即時救済しなければならないという人が二十二万人のうち、約八万人あつた。ところが一方その中で最もひどい人が六千名あります。これは主として彌栄村の集団移民の人達で、何物も持たないで、遠い北満から大連へ入つて来ました。縁故者がない。個人的に援助を受ける見込も全然ない人。このような人が六千名前後おりましたが、どんどん栄養失調のために死亡する人も出て来るので、いつまでも、これを看過することは到底できない。それまでは、いろいろ部分的な救済運動をやつておりましたが、緊急に食糧を上げなければ、直ぐにも死ぬかも知れない。何らかの而も基本的対策を立てなければならない。この八万の人を今後どういうふうにして養つていくかということは、重大な問題でありました。これはそのとき労働組合が第一に行いましたのは、緊急食糧獲得運動ということであります。市民有志の間から寄付を得て、この寄付によつて難民の救済を図り、応急の食糧配給を行うと共に、継続的に救済ができますように、第一に消費組合を作ろうという、この二つ目的を以て緊急食糧獲得運動というものを行いました。それで当面の餓死者を救うというようなことが漸くできたのでありますが、その後ソヴイエト同盟軍司令部から前後二回に亘りまして、一千五百トンの食糧配給を受けました。これによつて難民のそれ以上の増大ということを漸く食い止めることができました。併しこのときの基金がどれだけ集まつたかということは覚えておりませんが、到底それで永続的に養うということはできませんので、引続き非常食糧獲得運動ということをやり、合計二回基金募集を行なつております。他方におきまして、組合が最も重要視いたしましたのは、企業の再開のための活動でありまして、非常に工場が荒廃いたしました。大小の工場のものが、貴重なる生産の道具である工場の在庫品を持ち出すというふうな形で、非常に工場が荒廃いたしました。このまま捨てて置きましたならば、何年後か海は、全滅するだろうという点から、意識的にこの工場の防衞をやらなければならない。こういうことで日本人の先覚者、中国人の先覚者が相集まつて工場を守ろう、企業を一日も早く再開しようという運動を起しました。これによつて工場の甚だしい破壞というものを大体食い止めることができたのではないか、その後いろいろ外部的な事情がありまして、故障が多かつたのでありますが、その後生産が再開されるためには、そういつた工場を守ろうという運動が大きな役割を果しておると思います。  その次に行いました運動は日本人の思想の民主化のための運動であります。特に軍国主義、フアシズムの思想、これは我々日本人は長い間教育されておりましたので、自分達がそのように批判されなければならないところの思想を持つておるというようなことはなかなかお互いに自覚ができなかつたのであります。従つてこの思想の学習のための運動は長期に亘りましたし、尚且つ非常に各方面の抵抗を受けておるのであります。このことを、單に敗戰によるところの迎合であるというように曲解した人もあつたようであります。そうではなくて、我々が、敗戰がたとえなくても本来持たなければならないところの正しい思想、民主主義というものを持たないためにこういう状態が促進されたということが全部の日本人に理解されるには非常な時間を要する到底一朝一夕でこのような思想の学習の運動というものは成果を挙げることはできない。これを今日も尚引続き行なつておるというふうに思います。併し年を逐いましてこの思想改造の運動は具体的に成果を挙げておる。最初のうちは労働組合に対する反感は圧倒的でありましたけれども、段々に民主主義というものを進んで研究しなければならんという空気が出て来ております。例えて申しますと、昭和二十二年の夏八月十五日から九月十五日にかけまして約一ケ月間帝国主義反対、戰争反対の学習運動というものを組織いたしました。当時の労働組合の公称組合員数は二千五百名でありますが、延べにいたしまして約七千五百名の人が参加をしておる。こういう趣旨から見まして、これは何ら強要したものではないのであります。何らか自分の頭で新事態認識しなければならないというまじめな空気が出て来ておつたというふうに思います。昨年の第二回の引揚ソヴイエトではこれを第一次引揚と称しておりますが、そのときには大体二十万の日本人が帰りまして、いわゆる労働者階級の人は大半おらなくなつたのであります。残留者の六〇%以上が專門以上の教育を受けたところの技術者であります。外の人もおりますが、大体高等工業を出た、大学の工科を出たという人が大多数であります。尤も一部分労働者はおります。例えば病院の看護婦さんであるとか、これは小学校しか出ていない、中学校しか出ていない人があります。鉄道関係の汽車の運転手というような人の中にも労働者出身が若干おります。大体六〇%以上が專門の技術教育を受けたところの人であります。従つて今までのように労働階級出身の人が圧倒的多数を持つてつた労働組合の行き方と根本的に行き方を変えなければならないという点が一昨年の昭和二十一年の引揚完了後約三ケ月間いろいろと評議いたしまして、その後日僑勤労者組合というふうに改名をいたしました。つまり組合の勢力が労働者階級ではなくて、中産階級出身である。知識階級出身者が多い。労働者とは別の言葉を以て、別の説明の仕方を以て新らしい世界観を闘い取つて行かなければならないという方針から労働者も勿論おりますけれども、新たに多数参加し、数におきまして圧倒的に多数を占めたところの知識階級出身の人達を中心の組合を結成して行く。この組合の基本任務は三つありました。第一は外地における日本人として特に講和会議を控え、最も大切なる問題は我々自身民主主義化であるということ、これは逆に申しますと、今まで意識して、或いは無意識のうちに持つておりますところの侵略思想、侵略を是認するような思想、中国におりまして特に民族的優越感、民族的偏見というものは、生活の利益と結び付いておりましたので、非常に強硬であります。これを自主的に、自発的に反省しなければならない。そうしてこれまでの軍国主義活動、フアシスト主義活動は国際的に、国内的にどういう惡い結果を作り出したかということを十分考えまして、新らしい民主主義の方向に我々の生活を切替えて行こう、これが第一の問題であります。言い換えますと、民主主義的な自己教育ということを第一の眼目としなければならない。  第二には我々在留しておる技術用員の一番大きな任務は、中国における経済建設を促進させる。我々の技術を以てこの建設を一日も早く成功させてやることであるということが第二であります。第三には組合員の経済上の利益を守り、物質上、文化上の福祉というものを向上させる。この三つが大体そのとき決定されました中心の任務であります。その後段々と経済状態改善され、契約によりまして一応日本人勤労者生活が安定して参りましたが、たまたま中国の各企業におきましても、今までの企業のその日暮し的な状態から計画的な生産に入ろうという空気が出て参りましたので、二十二年の秋から二回に亘りまして数ケ月間の建設運動をやりました。その当時の建設運動と申しますのは、例えば増産節約運動というような名前で出ておりますように、外地から大量に機械設備とか、原料輸入することはできませんので、あるところの荒れ果てた機械でこれを活用して現在の生産を盛り立てようというために我々自身頭を働かせ積極的に努力をすることによつて、生産を上げよう。今までのように伝票一つですべてのものが自由に入つて来たという方法を一変して、技術者労働者も一緒になつて職場の中に真黒になつてやろうじやないかというので約二回に亘つて行いまして。それが昭和二十二年の引揚げ後の中心の活動でありました。ところが、この二回目の運動につきましては、非常に期間が長くなつたということと、折角日本人が振起して生産活動が進行して来ましたけれども、地区全体の建設の状況がこれに従つて急速に進展するというところがありませんでしたので、非常に大きな成果というものは收めなかつたのでありますが、併しこのために日本人の中にも新らしい世界に対処するところの心構ができまして、新らしい労働態度、労働規律というものが確立いたしました。これを以て二回目の生産運動というのが一応終了いたしました。その後まもなく、近く引揚げが始まるということが我々耳に入りました。その後の中心の活動は、専らそれらを準備する活動を行いました。例えばそのときに勤労者組合といたしましては、責任者でありますところのソヴイエト司令部に対して、日本人生活状況を詳細に報告いたしまして、第二は引揚げについて日本人がどのような希望を、どのような感じを持つているかということを一々具体的に報告をいたしました。第三にはこのような希望條件をできるならば一〇〇%に実現して欲しいということを数回陳情いたしました。第四回には引揚げ後荷一部残留する日本人ができる場合には、この生活條件改善して頂きたいという運動をいたしました。これが非常に……。
  102. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 発言中ですが、そういう点は成るべく簡單に願います。
  103. 石堂清倫

    証人石堂清倫君) 従つて七月の終りに引揚げが行われますまでは組合としては約三ケ月間引揚関係の仕事を中心に活動しておりました。従つて引揚げが終りましてからその後は私は病気をしておりましてずつと休みましたので、殆んど組合運動には参加しておりません。従つて局外者としてしか申上げられませんので、いろいろ不正確な点があるかと思います。それをお含みの上で聞いて頂きたい。今まで二千五百名の組合員がおりましたのが、今度は七百五十名ぐらいに減少いたしまして、ますます技術者のパーセンテージも多くなりましたので、今後どういうふうに組合を運営するか、又今までの組合運動のいろいろの優点、劣点というものを自己批判いたしまして、今後の持つて行き方について各方面の意見を聴取するというようなことをやつておりました。その結果、第一に行いましたのは、従来の組合活動のうちで学習だけが強化されて、文化、娯楽活動が非常に低調であつた従つて部分的には学習自身が十分に成功しておらないところがあります。中には何のために学習しておるのか分らないという人も入つておる。これを全部の人によく自覚させるということを中心の問題にしまして、昨年の九月、十月から本年の三月頃までは労働組合は教育活動よりも文化活動を非常に盛んにやつております。これと並行いたしまして、組合員だけでなく家族の慰安、娯楽運動も盛んにやりましで、組合員は勿論、その家族、子供連まで劇場で或いは芝居をやり、或いは音楽会をやるというような運動を盛んにやるようになりました。今年の三月から約一ケ月半に亘りまして平和日本再建学習連動というものを労働組合で組織しておりました。学習運動の任務といたしましては、これは組合が組織、指導をしたということより、むしろ組合員の非常に要求があつたように聞いております。というのは日本の総選挙で今までにない変化が起つた。例えば共産主義というものは非常に遠い遠いものだと思つてつたところ、国会にも多数の共産党の議員が出て来たというようなこと、それから中国人民革命が非常に急速に成果を収めたということが、すべての人が共産主義というものに対して非常に大きな期待を持つて来た。これは目の前に日常急激な大変化が起つておりまして、自分で共産主義というものを系統的に一つ検討して見ようという気が強くなつて来たのであります。この機運に乗じて組合は文化、娯楽だけでなく、もつと基礎的な社会観、世界観を掴め得られるような運動を起そうというので、平和日本の再建、どうしたら日本民主化できるかということについて、いろいろ研究発表をやつたというふうに聞いております。この終了と同時に今回の引揚げを迎えたのであります。
  104. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 組合そのものは今のお話のように変つたようですが、資金は一般邦人から募つておやりになつたのか、その募り方に対してトラブルは起らなかつたか、この点について伺います。
  105. 石堂清倫

    証人石堂清倫君) 組合運動本来の資金は組合費で賄つております。それから難民救済、引揚げのための費用、こういうものは一般市民から募集しております。私は今日数字を持つて来ませんでしたが、この原則でやつておると思います。それから勿論それだけでは足りないのであります。組合費の收入は六、七〇%でありまして、全員が組合費を納められるわけでなく納められない人もあるのであります。組合としては消費組合を別に指導しておりまして、それに投資しておりましたので、その投資利益としまして毎月その金額は私覚えておりませんけれども、消費組合から労働組合に納入しております。それから昭和二十二年の引揚後の主たる組合の財源は組合員の有志が集まつて経営して来ましたところの華星工廠という工場、これは印刷、インクを生産しておりましたが、この経営が非常にうまく行きまして、これでいろいろ文化、娯楽運動の経費に充るというようなことができました。
  106. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 この組合は或る程度、他の日本人に対する一種の司法権を與えられておられたかどうか、その点を簡單に一つ……。
  107. 石堂清倫

    証人石堂清倫君) 労働組合或いは勤労者組合自体には、行政権乃至司法権に類するものは全然持たなかつたということであります。
  108. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 今の石堂証人の御答弁に対しまして、この組合に対する、一般人としての金子証人のお知りになつていることがおありになつたら……。
  109. 金子麟

    証人(金子麟君) 私は組合に入つておりませんから、組合の内部の組織は分りませんので外見的に申上げますと、日本人意思を発表する総合機関として、及び救助機関として、組合の存在は相当有意義なものであつたと第一に肯定いたします。併し組合に対する一般邦人の怨嗟の声も相当強いと存じます。特に第一回引揚げの当時におきまするところの、市政府の名における寄附金の募集でありますが、資産階級及び知識階級なるが故に、一人に少いのは五万円、多いのは十五万円、二十万円、三十万円、六十万円と名儀は、中国建設資金とおつしやいましたか、そういうものを課せられた。それは組合がこの仲介の労をお取りになりました。私も赤十字の副院長なるが故に十五万円の支出を命ぜられました、組合から。私はそういう金はございません。そこで私は先程申上げました王布君衞生局長に向つて、私は公務員であるにも拘わらず何が故に十五万円の支出する必要がありますか、私金がありませんので関東公署で出して下さい。市政府で出して下さいということを申しましたら、市政府はとんでもない、あなた方は技術者として残したのであるから、そういうものを出す必要はないということでした。そこで曾て石堂さんが私のところにお出でになり、いろんな組合の御説明がありましたときに、私は石堂さんにその事を質しました。石堂さん、あなたは組合の名においておやりになつたのか、市政府の命令によつておやりになつたかということを尋ねたら、石堂さんの御回答はそれは組合は何ら関知することではない、市政府の命令でやつたということでありますが、私に関する限りは、市政府はそういう意図は持つておりません。組合が勝手に私に命令したものと私は只今でも解釈しております。こういうことが誤解の原因になつてこういう類以のことが誤解の因になつて勤労者組合に対する一般邦人の怨嗟の声も強かつたと思います。私は今回の引揚げに関して梯団長になりましたが、初めから梯団長ではありません。
  110. 千田正

    委員長千田正君) それは御質問の範囲でなければ……。
  111. 金子麟

    証人(金子麟君) 関係しております。それで組合の一方的に命じた幹部が皆団長以下になつてつたのですが、乗つておりました総人員はこれを不服といたしまして、大連引揚るときは赤一色に引揚げて参りました。労働歌を歌いスターリン万歳を唱え、勿論ロシアにお世話になつたのでありますから当然のことであります。労働組合の任命した幹部に対してあきたらないのがみんなの総意でありまして、そこで乗りましたのが二十八日でありますが、三十日に総選挙が行われまして、全部組合の幹部が代りました。そして不肖私らが梯団長になり、そして以下幹部が決まつたのであります。こういうところから見ると何らか組合に対する邦人のあきたらないものがあつたんだろうと私は第三者として考えております。
  112. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 只今草葉委員の御質問に対しましてはいろいろと御答弁になつたと思いますが、この大連の組合の問題につきましてはすでに委員会には請願が出ておりまして、それによつていろいろと又審議されると思うのですが、今日のこの七名の証人をお喚びしたということは、一体中共地区にどれだけの人が今残つておるか、或いはその人達をどうしたら早く帰せるかということが根本の問題だと思います。そうした点に一つ質問を展開して行きたいと思います。そこで私は証人の方に簡單でよろしうございますが一つお尋ねいたしたいことは、現在この旧満州、今中共地区言つておりますが、その附近に、例えば大連地区にどれくらい残つておるか、或いは奉天地区或いはハルピン地区、或いは東満地区にというような点を、この七名の御証人のうちで、簡單でよろしうございます。自分のいた地区においてはどのくらいと思うというような点を一応お答え頂きたいと思います。一つ簡單にお答え頂きたい。
  113. 中野重治

    ○中野重治君 議事進行に関して。
  114. 千田正

    委員長千田正君) 中野君。
  115. 中野重治

    ○中野重治君 今淺岡さんの質問が出ましたが、問題を正確にするために中共地区というのは何のことかということを或る程度概念を規定して進めて頂きたいと思います。私自身中共地区という言葉は十分了解し難い。これは必ずしも学問的であることは望ましいけれども、そうでなくともよろしいと思いますが、大体において決めて行くようにして頂きたいと思います。
  116. 千田正

    委員長千田正君) これは先程からこの問題を、委員からの質問の際に旅大地区北満地区二つに分けて御質問したらということになつておりますので、それで旅大地区においては旅大地区におられた方々から御存じの分だけ、旅大地区残留の邦人の数字お分りであつたならば只今淺岡委員質問に対してお答え願いたい。北満地区におきましては例えばハルピン或いはその他の地区において証人方々が分つておる点についてお話を願いたい。こういうことで差支ないと思いますが如何でしようか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  117. 中野重治

    ○中野重治君 旅大地区並びに北満地区という規定は行政的或いは地理的な規定だろうと思います。それで非常に明瞭である。併し旅大地区及び北満地区が即ち中共地区であるというのであればこれはそこに疑念があると思います。中共地区という言葉を一応この場合廃棄して旅大地区並びに北満地区というのであつたらばそれで問題は了解されて行くと思います。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  118. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 その程度の数でありましたら、すでに先程おのおの御報告があつたのじやないですか。
  119. 天田勝正

    ○天田勝正君 先ず石堂さんに伺います。
  120. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 いや、私に対するお答え頂きたいと思います。
  121. 天田勝正

    ○天田勝正君 一つも聞かんのに議事進行があるからこの際言つて置かないといかんから……。
  122. 千田正

    委員長千田正君) ちよつと天田委員つて下さい。淺岡委員は先程から簡單に旅大地区、北満地区からの証人達が知つているだけのことを簡單に数を述べて貰いたいと、先程証人方々からは申出がありましたけれども重ねて淺岡委員の御質問がありましたから、族大地区、北浦地区、皆さんの曾ておられた地区において知れる範囲の程度で、数だけのことでありますから明瞭にお答えを願いたいと思います。
  123. 石堂清倫

    証人石堂清倫君) 大体本年六月に旅大の、旅順は殆んど日本人がおりません。一名ぐらいしかおらない筈でありますから、先ず大連たけです。大連市内は二千八百三名おつたという最近の報告がございます。今度千七百四十三名帰りましたので大体計算いたしますと千六十人残つている、約一千六十名ということになります。併しこれ以降の数は当つて見ないと分りません。大体一千名前後というふうに私は考えております。
  124. 金子麟

    証人(金子麟君) 概数において石堂さんのおつしやつたことが当つていると思います。それで詳しいことは私そこへ書類でお出しした例もあります。外務省で私に調査を命ぜられた書類がお手許に行つている筈でございます。
  125. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 いや、ここで一つお答えをして頂きたい。外務省のは外務省、ここはここで……。
  126. 金子麟

    証人(金子麟君) そこに書類で出ております。
  127. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 これは金子一証人は書類まで出されて用意周到でありますけれども、この委員会の席においてあなた御自身から一つお述べ頂きたい
  128. 金子麟

    証人(金子麟君) ここでそれを読上げますと時間がかかつて大変でございますから。
  129. 千田正

    委員長千田正君) 総数だけで結構です。
  130. 金子麟

    証人(金子麟君) 総数で約千名でございます。その中で一番問題の多い甘井子の残留者のことを申上げますれば、約四百名ということでございます。甘井子の工場地帯で、これが一番問題の地帯であります。
  131. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 その四百名は、一千名の中に含まれておりますか。
  132. 金子麟

    証人(金子麟君) 含まれております。
  133. 杉田敏次

    証人(杉田敏次君) ハルピン市内には約三千二百おります。それから旧浜江省、今松江省と言つております。そこの周辺には約六百名おります。
  134. 江口光夫

    証人(江口光夫君) 先刻申上げましたけれども、もう一回繰返して申します。牡丹江省及びその周辺に七百、それから仙洞五十、鳳山炭鉱これは七十、それから難西淡鉱千三十、東安これは附近も含みまして千五十、佳木斯三百、鶴岡炭鉱千、その他八百で、以上は概ねであります。合計して六千であります。
  135. 千田正

    委員長千田正君) 江島証人、若し前にすでにお答えの分にあつたならば、その一日を……。
  136. 江島治平

    証人(江島治平君) 江口、杉田両証人の話したこと以外に記憶ありません。
  137. 今井かね

    証人(今井かね君) ちよつとお尋ねしたいのでございますけれども、地区と軍隊と区別しての数でよいのでございますか。地区の方は、私全然分らないのでございます。
  138. 千田正

    委員長千田正君) あなたの御存じの範囲の程度でよろしうございます。
  139. 今井かね

    証人(今井かね君) 私達野戰病院だつたものでございますから、私のところの野戰病院には一所、二所、三所とございまして、その全員の数を集めて約百五十名だと思います。
  140. 千田正

    委員長千田正君) 今の今井証人のお答えになつた分は、今までの証人方々のお答えになつた概数の中に入つておりますか、どうですか。
  141. 今井かね

    証人(今井かね君) 私達おりました軍隊は、野戰病院が八、七、九とこうあるのでございます。その中の九師というのだけで、これだけの日本人残留部隊だと思います。
  142. 北住君枝

    証人(北住君枝君) 私はハルピン医科大学の者です、けれども、男子三十名ぐらい、女子七十名ぐらい、約百名くらいだと思います。
  143. 千田正

    委員長千田正君) 杉田証人にお尋ねいたしますが、只今北住証人が、ハルピンの医科大学に残留しておつた邦人の数を述べておりますが、あなたの先程のお答えの中に、今の北住証人の数が入つておりますかどうか。
  144. 杉田敏次

    証人(杉田敏次君) 入つておりません。
  145. 千田正

    委員長千田正君) 石堂証人何か……。
  146. 石堂清倫

    証人石堂清倫君) 一つ証人にお尋ね願いたいのでありますが、この中に石硯のパルプ工場の勤務員が入つておるかおらないかということをお聞き願いたいと思います。
  147. 千田正

    委員長千田正君) 今石堂証人から、石硯の残留邦人の数が入つておるかどうかということを聞いて貰いたいというお話しですが、江口証人
  148. 江口光夫

    証人(江口光夫君) 石硯は間島地区に入つておりませんので、私はよく存じておりません。
  149. 石堂清倫

    証人石堂清倫君) それでは、石硯に約七十名、約であります。医師及びその家族が住んでおるということを聞いております。
  150. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 大体今各証人の言われました数字を総合しますと、一万前後の数字が出て来るわけであります。そこで重ねて各証人にお尋ねいたしたいと思いますことは、この地区全般において、まあ先程中野委員から、中共ということに対しては反対だということがありましたけれども、私はそれはもうどちらでもよいのです。いわゆる中共地区とこう言うものですから、更にもつと分り易く言えば、旧満州地区とこ、いうことで、まあ大体そうした数字に対しましては、私共が集めた資料に上りますと、六万から七万、或いは十万という、三つの線があります。更に又的確な数ということでは、四万二、三千が的確だと、山澄丸、或いは高砂丸等で帰つて来た、いろいろな点を総合いたしますと、四万二千という数字が出て来るわけでありますが、そこで各証人は、現在旧満州地区に、或いは北鮮も入れて頂いて結構でありますが、どの程度の人員が残つているかということが、お分りであつたならばお聞かせ願いたいと思います。
  151. 江口光夫

    証人(江口光夫君) 私共高砂丸で上陸いたしましてから、舞鶴におきまして、一応各地区の主だつた方に、残留邦人が約どのくらい残つておるかということをお尋ねしたことがあります。とりまとめましてそれを舞鶴援護局の方に御報告いたしましたので、その写した数字を申上げて、そうして私共のどのくらいであるというような予想をそれに附加えて申上げたいと思います。延吉四百六十、渾春六百四十、和龍二十、汪清三十、個們四十、嫩江三十、龍井六十、開山屯三十、朝陽川十、明月溝三、藩陽五千九百二十三、撫順四百三十、本渓湖五、鞍山七百、遼陽十、長春千二百七十、吉林千二百、蛟河百五十、佳木斯三百、鶴岡千、旅大これは当時三千になつておりますが、只今お話がありましたから千ということにいたします。安東二千八百五十、牡丹江七百穆稜、これは只今申上げました鳳山炭鉱であります。鳳山炭鉱七十、仙洞五十、東安千五十、鶏西千三十、次に佳木斯と鶴岡を加えましたその他でありますが千八百、その次に通化百五、二道溝百二十五、林口八十、大栗子溝百、鉄廠子三十、ハルピン三千二百七十二、五常五十、賓州五十、佳木斯三百、これで大体二万六千くらいになります。はつきり未だ算盤とつておりませんが、その外に先刻私が御報告の時分に申上げました、中国人の家庭の中に入つている婦人とか、中国人に貰われている子供、その他この中に含まれていない田舎におられる方録を大体二万程度みまして、四万六千くらいではなかろうかというように私共は見ているわけであります。以上であります。
  152. 中野重治

    ○中野重治君 最初の二万六千の中には、朝鮮は入つていますか。それからあとの二万の中にも入つていますかどうか。その四万六千の中にさつき浅岡君からちよつとお話があつたような朝鮮関係の人と場所が入つているかどうか。
  153. 江口光夫

    証人(江口光夫君) 朝鮮関係は入つていません。先刻申忘れましたが旅大地区の三千が千になりましたので二万四千ぐらいだとこう思います。訂正いたします。
  154. 天田勝正

    ○天田勝正君 それは他の証人が言つたのを別の証人が訂正されておつたのでは一向証人にならんと思う。やはり自分がそう思うならば思う通りに言うて貰わなければ混乱して来る。
  155. 千田正

    委員長千田正君) 江口証人に伺いますが、それは今の数は飽くまであなたが仮説しているところの推定数量であるということをはつきり申述べておかないと誤解を招く畏れがありますから……。
  156. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 今の数字の中に軍隊関係が入つておりますか、又入つておりませんと大体このくらいたろうという推計でもしておられるか、そういう点……。
  157. 江口光夫

    証人(江口光夫君) この中には軍隊関係は全面的に分りませんが、一部入つたのもあるということを御承知置き願いたいと思います。
  158. 中野重治

    ○中野重治君 二万六千以外の二万人の推定数ですね、これについて推定の基準は、つまり何を目安にしてこの数字が出たかということを一つお伺いしたい。それからもう一つ中国人と結婚した人というものをやはり残留同胞として数えていられるかどうか、この二つ……。
  159. 江口光夫

    証人(江口光夫君) この推定は、大体田舎の部落に婦女子が残つておりますのが一番多いのは東満地区、束満州地区であります。それから北満州地区、それから各都市に相当数おります。そういうものとその他各部落に、都市の周辺におりますところの婦女子というものが大半であります。そういうものを大体地域的に見ましてこのくらいじやなかろうかということで推定したわけであります。
  160. 中野重治

    ○中野重治君 その目安、標準は……。
  161. 江口光夫

    証人(江口光夫君) その標準は持つておりませんが、当初二万ぐらいじやなかろうかというのは婦女子が約一万ぐらい、そのくらいの子供がそれの半分ぐらいになるのじやなかろうか、あとの五千程度はこの数字に漏れたものが五千ぐらいあるのじやなかろうかというような想像であります。
  162. 中野重治

    ○中野重治君 もう一つ、結婚した人は残留日本人としてこの中に数え込んでおるかどうか。
  163. 江口光夫

    証人(江口光夫君) それは一緒に査定いたしております、日本人として……。
  164. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 ちよつと江口証人にお尋ねいたしますが、先程中野委員のお言葉に朝鮮関係は入つておるかというあれがありましたが、あなたは入つていないという御返事でございましたが、これは朝鮮の土地並びにそこにいる人は入つていないという意味だと思うのですが、終戰後間島辺りから朝鮮に非常に沢山の人が送られまして、それがまた可なり残つておると思います。それはあなたのお調べの中に入つておるものと思いますが、そう思つてよろしうございますか。
  165. 江口光夫

    証人(江口光夫君) 私が見ましたところでは朝鮮から逆に満州地区に入りました方はないと言つてもよかろうと思います。併し僅かの人は問を縫うて入つた人があるかも知れませんが、それは私は分りません。
  166. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 終戰後延吉に軍人並びに一般人が随分沢山送られたのです。そうして極く一部分がその年の十二月三十一日に千六百名ばかり解放されました。それは朝鮮まで辿り着いた人もあり、途中で死んだ人もありますが、この外にも大分行つていたのです。軍人は或いはシベリア方面へ送られた人もございますが、その外で大分そこで農地の起耕などで、シベリアに送られるでもなし間島地区に残つた人が大分ある筈なんです。とすると私はあなたのお調べの中の炭坑や付かに入つておる中にそれが含まれておるのじやないかと伺つてつたのですが。
  167. 江口光夫

    証人(江口光夫君) 恐らくそういうものもあるかも知れませんが、そういうものもあるといたしましても、僅かの数ではなかろうかと思うのです。私の推定では延吉には四百六十残つておるということを先刻申上げましたが、それらの人も入つてつたかも知れません。   —————————————
  168. 千田正

    委員長千田正君) お諮りいたします。只今政府当局、矢野厚生政務次官からソ連地区からの引揚に関する広報の発表をしたいという申入れがありましたがお諮りいたします。差支ありませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  169. 矢野酉雄

    政府委員(矢野酉雄君) 只今私達が待ちに待つておりましたソ連地区からの引揚げの通告に接しましたので、一瞬も早くお耳に入れたいと思つて御報告申上げます。ちなみに十一月三日総司令部発表の只今までの本年度の引揚げの実数を御参考まてにその事前に申上げて置きます。大連地区からは二千八百六十一名、千島、樺太地区からは四千七百十名、シベリア地区からは七万七千四百二名、総計八万四千九百七十三名であります。シベリアの方だけは今申上げましたように七万七千四百二名。第六回配船通告が本日参つたのによりますというと、二十日に高砂丸、これが出発いたしましてナホトカに二十二日入ることになつております。第二船山澄丸がその翌日二十一日出発いたしまして、ナホトカ著が二十四日であります。第三船の恵山丸が二十三日出帆いたしまして、二十六日にナホトカに入港します。栄豊丸は二十六日出帆し、ナホトカ入二十九日であります。信洋丸は二十七日出帆、三十日著、以上の五つの引揚船が総計一万名を乗船せしめて日本に帰ることになつております。日本に到著いたしまする日時につきましては後程又更に本委員会を通じてお知らせすることにいたします。以上御報告申上げて置きます。
  170. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 矢野政務次官にお尋ねいたしますが、この数字によりますると九万四千九百七十三名ということになりまするが、私共が承知いたしております数は九万五千といわれておりましたし、又大連地区は、これは全然違うように私共は了承しておりますし、又樺太とか千島方面は、これはシベリアというふうに了承いたしております。これは、ただ私は留守家族の一員といたしまして、六月の二十一日にソ連大使館に参りました時に、コテニコフというあそこの人が、捕虜を九万五千送還するんだ、だから一般邦人は入つていないというふうに了承していいかということを言われましたときに、そういうふうに了承していいと言われたのでありまするが、こうした今の約九万五千というものから考えて行きますと非常にこの点が不可解になつて来るのでありまするが、そうした点について政府関係において若し知つておられる点があるならば、この機会に一つ御発表願いたいと思います。
  171. 矢野酉雄

    政府委員(矢野酉雄君) 政府只今の段階におきましては、実はソ連地区のみから九万五千人送還するという司令部を通じてのソ連の発表がそのように解釈すべきであるとすれば、七万七千四百二名に今回の一万名を加えました八万七千四百二名となりますけれども、今の淺岡委員の御質疑につきましては、ここに詳細なる御返答を申上げるところのまだ厚生省自体としての態度を決定しておりませんので、いずれよく相談の上、発表すべき事情にありますれば早急に発表いたすことにいたします。以上御了承願います。
  172. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 その問題に対しましては、特に私政府に申上げておきたいと思いますことは、この引揚の問題は非常な重大な段階に入つて来ております。恐らく今日この委員会政府から発表されました第六船団の五船の船、一万名送還ということに対しましては、少くともこれは全国民があつと驚嘆の眼を以て見るのじやなかろうかと思います。誠に心痛止むなきものがあります。でありまするから、どうか政府におきましては、早急に発表さるべき段階に到達するよう一段と一つお力添えを頂きたいと強く私要請する次第であります。
  173. 矢野酉雄

    政府委員(矢野酉雄君) 淺岡委員の御要望に対しては、十分政府委員といたしまして御精神を体して善処したいと思つております。  更にこの五つの船を通してソ連地区から送還をして頂きまする一万名というものは、これが最後の本年度の打切りであるとか何とかいう何らの條件なき報告でございまするから、この点も誤解のないようにして頂きたいと思います。
  174. 天田勝正

    ○天田勝正君 ちよつと質問いたしまする前に、委員長に伺いますが、先程、旅大地区と北満地区と分けて質問する……今他の委員諸君の質問を聞いておりますると、全般に亘つて聴いておるわけですが、そういう方向でよろしいかどうか。
  175. 千田正

    委員長千田正君) 只今天田委員から、最初の申合せは族大地区と北満地区と分けて質問しろというのであつたが、数の問題につきまして、淺岡委員からの質問が、全部に亘つて質問つたが、それがどうも申合せと違うというのでありますが、これは数の関係上止むを得なかつたのでありまして、数の関係にしても、今後は旅大地区と北満地区と分けて重点的に質問して頂きたいと思います。
  176. 天田勝正

    ○天田勝正君 では石堂さんに伺います。尤もこのことは後程飯島さんにもお答え願いたい点でございます。この際雄大地区として石堂さんに伺うわけであります。それは最も基本的な問題の一つといたしまして在留民が帰国希望されておるか否かという問題であります。勿論私共が考えまするには、帰国希望されない理屈はないと思うのでありますけれども、幾度かの証人喚問の際に繰返して申される点には、時によつてむしろ帰国を要望されておらないというふうにさえ聞える向きが実はあるのでございます。待遇が非常によいとか、或いは暖い手によつて保護されておつたとか、こういうようなことを言われておるわけであります。勿論どこへ参りましてもその待遇をよくするというところの根拠が奈辺にあるかということが問題でありまして、豚を食うためにその豚に一生懸命御馳走を食わせる、こういう行き方の可愛がるという向きもなきにしもあらず。そこで問題は必要なる技術者、或いは必要なる要員というものに対して如何に丁重に扱つてくれましても、さてそれが失業したという場合、或いは職業の安定がなかつたという場合、或いは病気になつたという場合、こういう時の措置が結局帰還を熱望するか否かの鍵になつて参るだろうと思うのでありますが、そこで私は質問の要点といたしまして、職業等に関しましては、つまり向うの要望する技術者は勿論必要でありましよう。併しそれ以外に職に困つているという場合に、一体職業安定所のごとき処置があるや否や。次には失業保険等に或いは類似した点があるや否や。第三に先程石堂さんは、自分も病気をして二月ばかり休んだということを申しでおりましたが、その場合におけるあなたの医療並びに生活の保障が與えられておつたかどうか。又それに関連いたしまして、あなたは労組の幹部としてその保障がなされたのであつて、他の人にはそうした保障がなされておつたのかどうか、こういう点。更にもう一点は、先程のお答の中に、奥地に日本人が送られるという場合には、民主的政府と民主的な団体との中で話合がある筈である。それを先程金子さんの言つた点については、あなたは何ら報告も受けておらない、こういうお話でございましたが、そこで、然らばその民主的団体に対しましてどういう権限、さつき司法権の問題まで出ましたが、それ程でないにしても必ず話合がある筈である。というのは、何かそうした條約……と申せば大げさでありますけれども、そうした取決め、どうしてもこちらのあなたの主催されておりまする労働組合に対して向うが話をしなければならないというような取決めがなされておつたかどうか、そうした権限を與えられておつたかどうかという点、この四点についてお伺いいたします。  更に一つでありますから金子さんにも伺いますが、先程あなたは寄付の強制が石堂さんの主催されておる労働団体によつてなされておるということを申されましたが、その強制というのは、一体徴税令書のごときものによつてなされておるか、又それを出さなかつたならば処罰がどこから来るか、こういう点について御証言願いたいと思います。
  177. 石堂清倫

    証人石堂清倫君) 第一の問題、技術者職業安定の問題と伺いましたが、そうですか。
  178. 中野重治

    ○中野重治君 技術者でなくてもよろしい。
  179. 石堂清倫

    証人石堂清倫君) あそこには職業安定所というような施設はないのであります。職業は各企業体毎に勤労者の募集をやる、或いは各労働組合がやります、産業別に……。そこで労働者の傭入れ、或いは失業者の就職の世話をしております。日本人の場合には大体企業体に話をすることによつて得られておりますけれども、従来完全な意味の労働保險というものはできておりませんから、過去においては、病気になつたために僅か三ケ月しか給料を貰わない、あとは生活が非常に因るというような例が出て来ております。現在東北人民政府が確立しまして、労働保險條例というものができまして、これに基いたところの規定が、雄大地区では各企業体毎に今年の六月から団体契約というものをやつております。この団体契約の中で、失業した場合はどうするか、その後の生活の保障はどうするかということを定めてあります。企業体としては、責任を持つのは三ケ月であります。それ以上になりますと、今度は労働保險を適用するということになつておるのであります。ところが私たちが来ます時にはまだ労働保險の適用は開始しておりませんので、具体的の内容はよく分らないのでありますが、これに対して大連の従来の我々の組合としましては、縁故者のない在外技術者という日本人が病気若しくは失業した場合の家族の保障は、個々に司令部に要求するという方法を採つて参りました。それから失業保險はそのようでありますが、失業保險としてはありませんで、労働保險の中に含まれて、これは多分十月頃から実施されているのではないかと思います。但し企業体の中でやつております。団体契約、これは六月から開始しております。この中に失業に対する保障があるわけであります。それから個人の病気の場合、これは団体契約によりまして、平素企業体が大病院と契約をしております。そして疾病乃入院に対する基金というものを企業体が積み立てておりますから、それの所属の従業員が病気した場合に、入院することができる、こういう規定があります。但し私の場合は昨年病気をしましたとき罷めておりまして、勤めておりません。こういう場合は誰一人救済しないので、私は自分の持つている書物などを売却するという方法で自分で入院しました。併し企業体で働いている人にはその保障があるわけであります。それから奥地に送られる保障、これはこういう意味でありますから、誤解のないように聞いて頂きたいと思います。大体奥地へ行くということは皆非常に不安を持つております。従つて赤十字の病院において、どこへ送られるかにつきまして、どういう條件で、どういう期間で行くのかということについて皆聴きたい。個人として聽いたのでは力が乏しい。従つて組合があるところでは組合として正式な機関と交渉をする、そしてその個人の外に組合が立会つて約束をして、貰う、こういうことを皆やりたがる。我々としてもそれをやらなければならないと思つております。その後その実行を迫る場合も、個人として実行を迫るのではなく、団体としても実行を迫らなければならない。こういうことを必要と考えていた。こういう意味であります。但し別に労働組合だからといつて権限があるという意味ではない。併し当然皆の最も大きな関心を持つていることについて又強い発言をしても差支えないというふうに私たち考えております。ソ連司令部でも、又関東公署でも、労働組合が組合の利益を代表して何によらず発言をするということについては尊重して頂きた。ということを私たちは希望しておりまして、向うでも尊重している。これは特別の法律による、若しくはその他慣習による権限という意味ではないのであります。  それから寄付の強制云々ということがありましたが、これは市政建設公債を日本人に対して引揚げの直前に当時の市政府民生長、首席の両者から要請がありまして、日本人全体で六千万円に達する市政建設公債を買つて欲しい。ところがその後更に倍加されまして、一億二千万円になりました。これは労働組合に対する要求乃至命令ではないのでありまして、当時引揚げの遠行をするために組合だけではなく、全市的に引受団体協議会というものが組織されておりました。組合の代表は勿論引受団体協議会の一員として参加しております。又市井の有力者の参加を求めて、公債募集委員会というようなものを作りまして、ここで各業態別に、例えば飲食業としては幾らぐらい引受けて欲しい、金融業としては幾らぐらい引受けて欲しい、開業医としては幾らぐらい引受けて欲しい、或いは満鉄その他の企業体の中堅幹部以下の者はこれだけ引受けて欲しい、又在郷軍人会の会長というような、社会的な高位にある人はこのくらい引受けて欲しいということを公債引受委員会が算定して要請した、強制したというようなことは間違いであります。我々もそのような強制がないということを期待しておりましたが、末端においてどのようなことが行われたかということについて、まま強制がましいことをやつているところがある。又その人の能力を超えた割当がやられる場合も多々ある。これは大体以前の所得税の納入額を基にして、公債管理委員会が決定されているのでありますが、戰後でありますので、收入が激変して公債を買う余力がないという人ができております。そのような人は委員会に申出ることによりまして、修正若しくは免除して貰う人が沢山おります。強制をして、若しそれに応じなかつた場合には何らかの報復手段に出るというようなことは全然なかつたと思います。
  180. 金子麟

    証人(金子麟君) 最後の一点の寄付のことでございますが、概ね今石堂君が言われたことを肯定いたします。私もこれに対しては、罰権その他そういう司法権とかいうものはないと思うのであります。ただこれに附随した事件として、つまりその寄付金に応じなかつた者は家具家財を以て代償する、それは労働組合の支部の地区委員がおやりになつた、家具家財を以つてこれを代償する。そうしてこれは少し行き過ぎであると思うことは清算委員会というものがそれに加担をして、そうしてそれの持つている家具家財を評価して、そうしてその額が納められるかどうかという、そこまでいつておられたようであります。幸い私は納めませんでしたけれども、地区の五十嵐英吉という方が非常にいい方で同情しております。
  181. 千田正

    委員長千田正君) それではお諮りいたしますが、時間が相当食うので、旅大地区を一応これで打切つて北満地区の方に質問を展開して頂きたいと思いますが……。
  182. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 北満地区におきましては、殊におのおのの証人から、帰りたい人が何かしら帰るというようなことを言い出したり、いろいろなそういうふうな模様でも見せると密告されたり、或いは現に粛清劇争というようなことで投獄されたりして、尚現在帰つておらないというような御発言相当多数ありましたが、これはその地区における何か一種の組織でもあつて、その組織がそういうふうにいたしているのですか。日本人同士でむしろ阻止している、中共なり或いはソ連なりが帰そうとしている場合においても阻止しているというごとき御発言があつたようですが、こういう点につきまして江口証人、杉田証人等からお話を伺いたい。
  183. 江口光夫

    証人(江口光夫君) 昭和二十二年八月におきます東満地区の遣送の問題について申上げます。当時日本人民主連盟の手によつて、これは命令は東北自衛軍の方から参りまして、そうして日本人民主連盟の手によつて帰る人の人選等を行つたわけであります。それでその人選に漏れました方は相当多数おりました。先刻申上げましたように、弱兵として残された者の中で、公安局並びに公安署の関係機関におりました方はへ殆んど帰して頂きましたが、それ以外の機関、即ち軍関係又は日本人民主連盟の指導下にあるところの軍公団等におりました者は、殆んど日本人民主連盟の手によつて強制的に残されたわけであります。その当時軍公団等に属してなかつた一部の弱兵の者は按汾河とか、それからその他の輸送機関に積込み労働のために行つてつたのでありますが、これらの人々も或いは上司に、或いは又日本人の民主連盟委員に、是非この際帰して欲しいということを申し出たのでありますが、それらが悉く不可能になつた。それから殊にこの僻地の方から牡丹江の遣送に間に合うようにというふうに出て来たのでありますが、これは丁度遣送の翌日とか、その次の日とかに出て参りました者が相当多数あります。恐らくこれは四、五百名に上るのじやないかとこう思つております。
  184. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 内容はさつき伺つたのと同じですから、それでダブらないように、もつと具体的に申しますと、例えばハルピン地区におきましては、中小路静雄、或いは吉田それがしなどというような人達が公安委員という資格を持つたり、或いは日本人の籍を持つて相当司法権まで持つておる。殊に牡丹江等においてはやつておる。こういうお話がありまするので、そういう具体的な現地の模様を一つ承りたい。
  185. 江口光夫

    証人(江口光夫君) 分りました。そういうことで一応この遣送は阻止されたわけであります。殊にその当時この日本人、牡丹江における日本人民主連盟には、日本人に対するところの司法権を政府から委ねられてあつたわけであります。そういう関係で、そういう申し出をした人々は約十名程度ありまするが、全部その司法権の発動によつて、公安署の方に投獄されたというような事実があつたわけであります。これは公安署の方では、その日本人民主連盟に司法権を委ねましたがために、お預りしたというような形であつたのであります。私共も従つてお預けになつたわけでありまして、民主連盟の手によつてまた出されたというような状態であります
  186. 杉田敏次

    証人(杉田敏次君) 中共地区の第一回の遣送につきましては、中国と国民党と共産兄とそれから米国との調停によつて帰されたことは御承知の通りです。それからその次に国民党地区のものは飛行機で南下させられて帰されたことも車夫でございます。それで中共地区におきましては、何ら帰る術がなかつたのであります。これでいろいろこの中共の政府と、又そこに日本人の共産主義有として指導している人々の関係、これから来るところの私達の引揚の問題につきましては、昨年の八月の一日に、先程言いました一齊検挙が、合法的にやろうとしたにも拘わらず、これは治安を撹乱するものであると言うて、民主連盟、而も日本人の指導者でなくして、政府の公安局が直接この検挙に当つた事実があります。だからこれは、日本人を帰すことを敢えて好んでいないということが言えると思います。この時には、勿論公安局の、いわゆる日本人の指導者もこの任には当つておりましたのですが、公安局の中共の警察官がこの直接の任に当つておりました。  尚ここでお話して置きたいのは、先程希望、或いは又希望しないという問題が出ましたので、これは証人として質問していいのか悪いのか分らないが、質問してよろしうございますか。
  187. 千田正

    委員長千田正君) 只今証人からの御要望がありましたが、許可してよろしうございますか。(「異議なし」「賛成」と呼ぶ者あり)
  188. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 時間がないじやないか。
  189. 北條秀一

    ○北條秀君 簡單に質問したらどうです。
  190. 千田正

    委員長千田正君) 簡単に、それならば差支えありません。
  191. 杉田敏次

    証人(杉田敏次君) 希望して帰国するとか、又は希望しないでいるという状況はたしかにあります。併し停戰四年になりまして、若しこの人共が黙つているとするならば、又私が引揚者として、又家族の者として、残つている者の気持からしてこれを取上げるに際しましては、黙つてつたものとした場合に、政府なら政府は、この態勢にそのまま放つて置くのであろうか。だからこの四年間に至るまでの人、これは連合国の関係もありましようが、どのように取扱わなければならんかという一つの大きな問題があるのではないかと、好むと好まざるとに拘らず、解決せられなければならない問題じやないかと私は思います。これが一つ、それからこの間の議会で、これは帰つて来る者の問題になると思いますが、国民党の軍に参加した、それは罰するとか云々がありましたが、現在日本が戦争を放棄しましてすでに四年、而も中共軍の方に参軍して、これは主義思想に生きる人は、心からやつているとも思いますが、又一方には引きずられながら、余儀なくされて参軍している人もいると思います。そうした人が帰つて来る場合に、やはりこの内職の戰う者としての軍人扱いにされて、帰つて来た場合に、どのように扱われるものであるかという一つの疑念を持つております。これは先の質問と少し違いましたが、帰る者の気持からこういう質問をいたしたのであります。
  192. 北條秀一

    ○北條秀一君 只今の杉田証人の御質問は、この委員会におきましては、御質問を聞き置く……と言うと語弊がありますが、その程度で進めたらいいと思います。
  193. 千田正

    委員長千田正君) 只今杉田証人の要望につきましては、こちらの方で十分愼重に考えて、又いずれ申上げることもあると思います。
  194. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 証人にお尋ねいたしたいのは、北住証人と今井証人でありますが、三つあります。それでその一つの問題は、つまり外地に、あなた方の先程の御証言を聞きますと、今井証人は、そう帰るということに対しては強い希望を持たなかつたということを言われたのであります。それから北住証人は、非常に帰りたいと、又周囲におつた自分達の同僚は、これ亦非常に帰りたいと、併し帰るということを言うことそれ自体又できないのであるということでありましたが、そこで私お尋ねいたしたいのは、海外の同胞がですね、自分達みずからの力によつて帰るということが、そういうような又運動を起すということができたかできないかと、簡單でよろしうございますから、これを一つお答え頂きます。
  195. 今井かね

    証人(今井かね君) 私は帰国ということに対して、大して希望していなかつたというのではありません。やはり私も祖国を持つた人間ですから、帰りたいということは希望しておりました。しておりましたけれども、あちらにおりまして、自分が学んでいることが、大変中共の日常の学者というものに、非常に私は興味を持ちました。初めは興味でした。併しだんだん自分が学習して行きますのに、本当にいいことである、本当に正しいことである、私は感じました。なぜならば、自分が若し日本の軍隊に七月から八月までの間ですね……。
  196. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 証人にそこまで私は聞いておるのじやない。帰りたいというその意思を持つたか持たないかということをお尋ねしておる。
  197. 今井かね

    証人(今井かね君) 私に一言言わして貰いたいのですけれども、その当時のことが……。
  198. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それは私は証人にお尋ねしてない。それは余計なことだから、別の時に又聞かして貰いたい。時間がないから、あなたが帰りたい希望を強くお持ちになつたかどうかということです
  199. 今井かね

    証人(今井かね君) 自分は学びたいと望むだけを学んで、正しいことを学んで、帰る時が来れば必ず中共軍は帰して呉れる思つておりました。
  200. 北住君枝

    証人(北住君枝君) 私は非常に帰りたいと思いました。一日も忘れたことはありませんでした。併し、だけれども運動を起せば後が怖いから運動を起せないのです。私の上には指導格の日本人が、指導員がおりますから、その人達は我々の動向を、進歩分子を動かしていろいろの思想を、私達の思想を一々指導員に密告するのです。そのために毎日の工作、そして又日々生活するのに、嫌な思いをしない時はないのです。私達は睨まれているのだという暗い気持になるのです。そのために、帰りたいとも言えないし、又その運動を起すような力は私達にありませんでした。
  201. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 重ねてちよつと関連して、北住証人にお尋ねいたします。簡單でよろしいから、そういう事実があつたかどうか、又はそういう事実をお聞きになつていたかどうかということです。実は、看護婦諸君が、帰るということすらも表現できない、そこで又夜になりますか、或いは朝か、そいつはわかりませんけれども、とに角帰るという意思を、帰るということが言えないから、お母さん、お母さんということを帰るという言葉に表現して叫んだというようなことを、私帰つて来た人から実際に聞いたのですが、そういうようなことを証人はお聞きになつたことがあるかどうか、そういうことをお尋ねします。
  202. 北住君枝

    証人(北住君枝君) 両親のある者は、やはりお母さん恋しさに、これは言います。言いますけれども、親友しか話しません。信用できない人には絶対、日本人でありながらも言いません。そしてもう一つ、去年の八月に、帰国問題がハルピンで起りまして、その時に私達の中に林という東京出身の男の方がおりました。その人は地方に出て、ハルピンの街に出て帰国運動の話を聞かれて、病院に帰つて、吹聴されたのです。そのためにいろいろ検討会、担白会なんかありまして、その担白会の怖さに、担白会が済んで闘争会に掛けるという事実を聞いて、林さんは逃亡されたのです。逃亡されて、松花江あたりをうろうろして、そして逃げるに逃げられず、又総衞生部に帰つて来られました。そして自首して帰つて来られて、十月初め頃だつたと思います。いよいよ闘争会に掛けられました。それは、闘争会はハルピンの医科大学でありました。そのときにいろいろ問題が出まして、被告が帰りたいために運動を起しかけたというようなことを言われまして、そうして皆民主裁判の結果、銃殺というようになりました。その銃殺を決定されたときに、日本人が銃殺と言つて皆賛成したのです。そうして中共側の幹部がいらつしやつていまして、その中共側も異議なしで黙つていられましたのですけれども、そのとき、日本人が銃殺は日本人の手でやらしてくれというようなことを言いました。だけれども、総衞生部から来られた中共側の幹部は、そこまでは自分達の方に委してくれ、それだけで結論は付かずに、林さんという方は総衞生部に引取られて、その後は銃殺はされないで、新京あたりにいられるというような話もありました。これは帰国運動の一つの……。  そうして私達が今年帰るについてハルピン街から八名になつてつたのです。九名……先生方御夫婦いられたのです。六十になる先生だつたのです。その先生は心臓が弱くていつ倒れるか分らないというような弱いお方なんです。そうして一緒に帰れると思つて喜んで荷造りまでしたところに、私共の李院長が来まして、もう少し、あと一二年中国革命のために残つてほしいと無理々々に残されたのです。    〔中野重治君発言許可を求む〕
  203. 千田正

    委員長千田正君) ちよつと、紅露委員からさつき発言を求められておりますから、紅露委員
  204. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 杉田証人に伺いたいと思いますが、先程ハルピンの難民收容所に駆け込んだ婦女子が、農奴のような状態に置かれておつた人たちで、殆んど半裸と言いますか、全裸に等しいような様子で駆け込んで来たというようなお話を伺つたのでございますけれども、その農家で働かされております時には、まさかそんな風で働いておつたとは思えませんけれども、どうしてそんな状態になつて、この收容所に駆け込んで来たかということも伺いたいと思うし、それから收容所に入りましてから、どうしてこの人達が普通の衣服をまとい、ここに暮すようになつたか、その先も伺いたいと思います。それから孤児の問題でございますが、これは私共こちらにおります者も、一昨年この問題が相当大きく私共の耳に巷間から入りましたもので、大変心配したのでございますが、先程のお話では、それぞれ中国人の家庭に養われたというように伺つたのでございますが、それはどういうような意味で中国人たちが養つておられるか。先程天田委員からも言われましたように、豚をよく肥らせて、そうして食べようとするために御馳走を先ず與えるというような可愛がり方もあるというようなお話もございましたが、ちよつとここに引用いたしますのですが、どういうような工合に、中国人の家庭に養われておりますでしようか。子供のないような方が好んで育てて呉れるか、或いは外に何らかの考があつて、そうしてその子供らと同じように、家庭の子供らと同じように扱われているか、どういう立場に置かれているのかということを一つ伺いたい。  それからもう一つでございますが、第三国人との結婚をしております日本婦人でございますが、これが先程のお話でも、大体において下層の人たちと結婚しているというふうに伺つたのでございますが、尚その結婚の仕方が、そういう下層の階級でございましたら経済的にも大概想像がつきますので、やはりそう何号というような生活ではなかろうと思いますけれども、果して一夫一婦の結婚がなされておりますかどうか、そういうことも伺いたいと存じます。長くなりますから……その農奴式に働いておつた人が難民所に駆け込んだとき、その後の状態、それから孤児の問題、それから第三国人との結婚生活、その三点について伺いたいと思います。あとでこの点については石堂証人からもちよつと伺いたいと思つておりますが、先ずそれだけを……。
  205. 杉田敏次

    証人(杉田敏次君) 今の悲惨な難民の問題でありますが、どうしてそんな悲惨な状態で流れ込んで来たか。これは遣送に遅れた人。どうしてそんなに遅れたか。停戰と同時に夫とか又丈夫な人たちが兵隊に行つてしまつたので、又田舎におつたために停戰すら知らなかつたので、漸く停戰ということを知つて流れ出して、それが鉄道を利用することができない。すべて徒歩でハルピンに逃げて流れて来た。それが先程言いました通河、方正附近ですつかり捕まつちやつて、而ももう帰つたつて駄目なんだということから、強制的に農家の手伝をする、又生きるために止むを得ず妾同様になつた。そうして雑役に服する。そうしておつた時は、だからそんなに悲惨ではなかつたでしよう。又なかつた言つていますが、極端に使役され、又望郷の念のために帰る気持は山々であつたので、そういうよそ行きの恰好では到底逃げられないということから同志が課し合せまして、一つの所に集つて、そうして集り集つたそうした人達が、着のみ着のままで来ました。その途中やはり追つかけられ、いろいろ妨害を受けたり、悲惨な恰好でハルピンに到着した。それがやはり間に合わないで終に難民收容所に入つた。そうしてこの人達はどうして更生したか。勿論市政府にも若干の日本人が残して行つたところの衣類がありました。それをお百度参りをしまして、極く一番惡いもの……良いものは軍の方に廻されたと聞いておりますが、極く惡いもの、私がその衝に当つておりましたが、倉庫に行つて受取つて来ました。それは継ぎをしなければ着れないものばかりでございました。そういうものを少し貰いまして、先ず最初の手当をいたしました。同時に免ずハルピンに在住しておる人達に呼び掛けまして、先ず着ることと食うことの処置を講じた。ただいつまでもそういうことをしておるわけにも行かんので、又どうにも食べて行けません。それを皆が、自分で生きなければならないという恨強さから好んで街に出て、いわゆる、先程も申しました麻袋の修理とか、或は家政婦とか女工とかいうようなことで、達者な人は自分から進んで出る。弱つた人達自身もお互いに助け合う。又働いておる者と街の者との相互扶助によつてこの人達が生産小業に従事して誕生して行きました。現在は非常によいようになつております。どうしても駄目だつた病弱で使いものにどうしてもならないというが今度百名ばかり帰りました。これはすでに大連の收容所におるときに十名死にました。この中でハルピンの難民であつた者は殆んど半分以下で、それは今度帰つたわけであります。  それから孤兒の問題ですが、孤兒はああいう周章狼狽して兎に角何とかして逃げ出さなければならないということから部落の暴民に襲われ、或いは又追つかけられまして声を出したりするために絞め殺され、或いは拠つてしまつたという子供が完全に死んでいなかつたりして、或いは又どんどん後から追われて逃げるので、それを手放してしまつた見失つてしまつた。それから又追送の状態のときに家を離れていたためにちぐはぐになつてしまつた。それから又遣送後主人が拉致されまして、そうしてその後におきまして主人は勿論帰つて来ない。奥さんは病気で倒れるというようなことで、こういう人達は大体日本人に養われておるのであります。又先にも申しましたように、孤兒は中国人に養われておる。これは中国人は喜んで養つておるということが言い得る。というのは例えば、街でちよつと喧嘩していましても、何か強そうな奴がやつておるなと見ておりますと、それを聽いて見ますと、あれは実は日本人の子供だというような工合で、非常に頭も鋭敏であり、将来自分の後継にするなりしたらよかろう。これは中国人は御承知の通り非常に打算的なことが多いのですが、必ずしも惡い意味でこれを養育しておるとは考えられません。そうして養つておるのは曾ては親日派であつたのではないかと私は考えます。そういうような状態で、又この孤兒の問題につきましては、非常に日本人自身は手を伸べて残つておる者は養護しておりますが、各日本人同士で養護しておりますが、中共の幹部であげましたが、田舎で人、やはりそういう孤兒を拾いまして、そうして育てていまして、全く中国語のみよりしやべれなくなつておりました。ところがやはりどうもすくすくと伸びておりましたが、これは日本人だから日本人に渡した方がいいだろうという結論を得まして、ハルピンに来てから実はこうこうこういうわけで、一つ君の方に引取つて日本人らしく育てて貰いたいということで、日本人に渡された孤兒もあります。そういう点から言つて、孤兒に対する観測は必ずしも楽観ではありませんが、田舎にいるところの孤兒というものは大体悲惨な百姓の手伝いをさせられなければならないという環境にいるのではないか、こういうふうに二つに分けられます。それから中国人との結婚問題ですが、御承知のようにこの結婚のいきさつは非常に不純が多いのです。純粋でないのが多い。そういう点からしまして、これは勿論自分が生きるために、食うためにということは考えられるのでありますが、先ず田舎から流れ込んで来まして、食う物もなく、或いは又日本人の世話にはなりたくないというエゴイステイツクな気持もあつたのでありましようが、中国人の世話になつた。そういうものが多いのですが、田舎で中国人の世話になつたものは概して無理にという強奪的に妻にさせられている。町で中国人の世話になつたものは、いろいろ中国人に世話になつたその義理に絡まれて結婚生活に入つた。それから又純粋な新しい愛情を求めて結婚したものが極く少数ですがおります。そうして先程申しましたように、七〇%から八〇%は極く悲惨であるが、二〇%或いは一〇%については円満な幸福な生活をしておるのであります。それでこの結婚が一夫一婦かというと必ずしも一夫一婦ではありません。これはやはり妾……又中共はこのあれについては完全な手を打つていないようであります。それでこの中国人との関係については、自分の夫が……ここではちよつと考えられない話ですが、シベリヤに行つただろうと思い、而も死んだのじやないかというようなことから二重的な気持を抱きながら結婚し、すでに子供を一人も二人も挙げているというような状態である。この人達が特に帰りたがつている。居らなければならない母性愛に燃えていながら、帰りたい。併し帰るにはこのざまでどうしようという人が相当数、三年四年も経つたために子供を持つた人の悩みというものは非常に多いのであります。そうしてこれが娘よりもダブル結婚と思われるのが非常に多いということで、この人達帰つて来た場合のことを考えると、必ずしもその人のみの罪を問うことはできないということを私は皆さんにお願いしたいと思います。これはいろいろな理由によつてそうした状態になつたということから、温い手を以てこれを何らかの方法で迎えるということを皆さん夢共に考えて行かなければならない。この結婚の問題にはもつともつと深刻なものがあるでしようが、離婚問題とか、そうした結婚の手続はどのようになつておるかということもあるのですが、若し何でしたらあとで又附け加えてお答えしたいと思います。
  206. 千田正

    委員長千田正君) 只今岡元委員から一分間だけ未復員者給與法案、それから特別未帰還者給與法案に対するその筋との交渉の経過報告をしたいということですが、お諮りします。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  207. 千田正

    委員長千田正君) それでは岡元委員から、未復員者給與法案並びに特別未帰還者給與法案の一部改正の問題について経過報告を簡單にして頂きます。ちよつと速記を止めて。    〔速記中止〕
  208. 千田正

    委員長千田正君) それでは速記を始めて下さい。北満地区の問題について。
  209. 中野重治

    ○中野重治君 これは北満の方のことについて江口並びに杉田さんにお尋ねしたいのですが、皆さんがいろいろ日本に帰ること又帰すことに努力されたようですが、江口さんは中国の人から七十万円金を借りられたのを何に幾ら使われたか。それから七十万円を返されたかどうか。その次に四百万円集められたそうですが、要れば何に幾らお使いになつたか。
  210. 江口光夫

    証人(江口光夫君) 最初の七十万円を借りた金につきまして申上げますが、これは主として糧服を購入したわけであります。これらは難民に給與するところの糧食、これが主体であります。それから収容所の設備等が主体になつております。  次にその金を返したかどうかということにつきましては、一応遣送前にハルピンの委員会からこれを貰いまして、そうして返済いたしましたが、まだ十万円程残つてつたのであります。そのうち六万円は市政府の方から借りておつたのでありますが、これは工場を接收いたしましたためにそれは相殺されました。残りの四万円は私がハルピンに出まして、ハルピンで丁度ゴム靴の工場を、私は工場長として中国人に協力してやつておりましたので、その方の收入がありましたので、それから四万円を返しております。それで全部一応済んだことになります。  それから新京で調印をいたしましたところの四百万円、これは私が新京からハルピジに帰り著きましたところを、民主連盟の方で私を逮捕しまして投獄いたしました関係上、この金はハルピン委員会の方から民主連盟の方に貰うことができなかつたのでそのままになつております。
  211. 中野重治

    ○中野重治君 皆さんのいろいろ努力されたやり方の中に、主観的にはそうでなかつたけれども実はまずかつたことがあつたのじやないかと私は思われる点がありますからお尋ねしますが、例えば、あなたの場合、日本兵が山の中に逃込んでおる。これは日本人として救いたい。これを交渉に行つたという話ですね。連絡に行こうとしたら取つつかまつた。それでさつきのお話では日本兵が日本兵としたまま山に入つておる。これを日本人が救い出そうとして連絡を取るという仕方は、戰争状態では当然一定の目的を持つておると見られますね。これは日本人として、気持はそうでなくとも実際はそうなる。こういうようなことがいろいろな事柄で相当知らず知らずあつたと思われますが、その結果本人は、そういう場合陰謀的に通ずるというつもりはなかつたけれども、向う側からそう見られた、さような場合があつちこつちとあつたと思われますかどうか。
  212. 江口光夫

    証人(江口光夫君) 只今の問題は、これは私がやつた、関係したということでなくて、そういうことがあつたということを称して、私共もそれによつて投獄されたということでありまして、私の主観としては、日本人日本人を救出するということですらもそういう状態に置かれたというようなことであります。
  213. 中野重治

    ○中野重治君 分りましたが、それでつまり日本人日本人を救い出すということすらも、罪を受けたりした。その場合、その前提である、日本人日本人を救うということすらも、こう日本人現地において考えていたけれども、その考を実際に移す手続の中には、さつき私が言つたようなことがしばしばあつて、思わぬ結果を招いたことがあつたと思われるか思われないかということです、私のお尋ねするのは。
  214. 江口光夫

    証人(江口光夫君) 戰争状態下におきましてはかくあり得るかも知れません。その点は私は別にこれに対する批判は申上げません。
  215. 中野重治

    ○中野重治君 簡單に言いますが、その前に先程淺岡委員が二人の婦人証人証言を求めておる際に、一方に対しては日本に帰りたいと非常に思つたことがあるかという問を出されて、それに対して、当時の心境を語りつつ答えようとされたのに対しては、これを制限して、あつたかなかつたか、事実を語れば宜しい。他方の方には向う日本へ帰りたいということを言う代わりに、それが妨害を受けるから合言葉としてお母さんということを発言したという話を聞いたことがあるか、そういうことがあなたの場合、経験したのであつたかなかつたかという問が出されて、あつたともなかつたとも答はなくて、非常に長い答が述べられて、そうしてどこかで銃殺されることになつて、どこかに連れて行かれたというようなことになつてしまつた。私は淺岡君が問に対して答えよとこう要求するのは当然だと思います。私もそれを要求したい。併しながら他方に対してはそれを極端に狭めて要求し、他方は野放しにするということは、我々はそれはできない心私としては全体としてやはりお尋ねしたことに答えて頂きたい。併しその場合いろいろ事情を説明するのは仕方がないけれども、こう思うわけです。私のお尋ねしたのは、つまりあなたの批判とか何とかいうことじやないのです。私の問が分りますか。分らなければ……これはどうしようか。(笑声)併しながらこれは非常に大事なことだと思う。全体に対して日本人だからという、この日本人だからというのは、皆さんの中には二十五年もあちらで仕事をされておる方もある。その気持でずつと戰争後もやつておられて、自分ではそのつもりでやられておつても、それが実は形勢逆転されておる、こういうことがしばしばあるわけですね。ですから私が繰返しておるのは、諄いようだけれども、日本人日本人を救うのだ、それさえも妨害された、その前提となつた日本人日本人を助け合うという、そのことを手続上過つてそのために一口に言うと損をしたことがあるとあなたは思われるか思われないかということなんです。そういうことがなかつたと思われますか。
  216. 江口光夫

    証人(江口光夫君) 只今の問題は私はあの場合先方の打つ手としては止むを得なかつた、こういうふうに考えております。
  217. 中野重治

    ○中野重治君 私は、先方のことをあなたが御存じである筈がないのだから、それはお尋ねしないのです。日本人として見て日本人がお互いに悪いつもりでやつたのではないけれども、向うから誤解されて損をしたようなことがなかつたと思われるか、あつたと思われるかということなんです。
  218. 江口光夫

    証人(江口光夫君) 誤解せられて損をしたことはあつたかなかつたかという御質問につきましては私としてはあつたわけです。関係のない人が多数投獄されたということは、やはりあつたということに考えられます。
  219. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 最近総司令部から中国新政権地区と交通が許可されて、非常に希望を持つておるのですが、これについて向う地区の、何といいますか、受入態勢を伺いたいのですが、江島さん、江口さんに向う地区で以てお互いの郵便はどうなつておるか、例えば牡丹江から奉天の知合いに出したいという場合にそれが出せたか、それは又円滑に配達されていたかどうか、この点江口さんと江島さんに伺います。
  220. 江口光夫

    証人(江口光夫君) これは杉田証人一つお願いしたいと思います。私も少々分りますが、杉田証人にお願いしたいと思います。
  221. 杉田敏次

    証人(杉田敏次君) 郵便物につきましては、これは品物をやつたり送つたりすることはできなく、葉書、手紙、これは完全に行われるようになつております。併し昭和二十一年、二十二年頃まではこの手紙の文通につきましては全く行われなかつた。その後において行われた。又日本からの……、今のは向うだけですね。
  222. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 そうです。ですから今迄は日本から出せなかつたのですが、出せるようになつたので、向うはお互い往来していれば、日本から出せるようになれば、配達ができるとこう考えるのですが、そう見ていいですか。
  223. 杉田敏次

    証人(杉田敏次君) それは住所が移動しておるので容易だとは思われません。ただ出す方法として考えられますのは、東北では民主政府があつて、そこに日僑管理委員会というのがあります。ここに宛てて書くと、大体日本人の文法をよく知つております。又ハルピンとか長春とか、そういうような大きな都市については日本人民会、或いは外僑課というものが、はつきりした日本人の動静を掴んでおります。そこを気付にしてやるならば、大体容易にやられるだろうと思います。そうして日本人の隣組もよく強化しておりますから、そういう点は向うにやつても何とか尋ねて行けるというように考えております。
  224. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 この問題に対して江島さんは何か違う考があれば述べて頂くし、同じであれば同じと一言……。
  225. 江島治平

    証人(江島治平君) 私は今の杉田さんと反対の意見を持つております。日僑委員会経由でやつたら却つて着かないという証拠をまざまざと大連で見て参つております。由来どうも日本人の共産党員の方であるとか、又その子会社であります青年連盟の連中とかいう人々は、日本人相手に何か面倒臭いことを製造しなければ、自分達の手柄が上らないように見える態度があります。大連でも、詳しくは言いませんが、我々全体が日僑委員会経由で出したものがハルピンには着いていない、こういう例があります。ところが今の杉田さんのお話の通り向う同志の文通は先ずできているようであります。ですから、向うの方まで中共の通信を司る方面で受入れて呉れるということがありますと、むしろその方が尋常でいいのではないか、なまじ日本人方々のお偉い方の手に入ると、何か事が面倒臭くなつて、いけない、私の私見ではありますけれどもこう考えます。ちなみに申上げて置きますが、最前から皆さんのおつしやることを伺つております中共に対するところの我々が心良く思つていない事件そのものが、最近においては、それが中共政府意思であるかどうか分らんのですが、分らないことを兎にも角にも日本人の共産党であるとかその手伝いであるところの青年連盟の諸君によつてやられることが多いということは、原則的に私は御了承願いたいということを考えております。ですから通信問題に関しましても、成るたけそういうお偉い方々の手を通じない方が却つて行くのではないか、芸が細かくなつてつて面倒臭くなるというような感じがいたします。終り。
  226. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 今民間の方から伺いましたが、今度は軍関係の方を伺いたいのですが、今井さんにこの点伺いたいのですが、軍関係の方じや、やはり違う病院勤務、違う隊に勤務をしておる看護婦さん同士の通信等がついておつたかどうか。先程のお話に私不審な点、非常に至れり盡せりの歓待を受けたというお話をされましたが、そのうち非常に軍紀が厳正で外出ができないということを言われておりますが、軍隊は如何に規律が嚴重でもやはり休みの日というものがあるので、そういう時には自由に市街に出るようなこともあると思うのでありますが、そういうことは日本人だけが出られないのか、軍隊の兵隊さん、看護婦中国人、皆出られないのか、お互いに他の看護婦さんとの文通がついておつたか。これらをお伺いいたします。
  227. 今井かね

    証人(今井かね君) 軍隊内におきましての文通は許されておりました。
  228. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 許されておる……。
  229. 今井かね

    証人(今井かね君) はあ。各部隊から部隊へです。そうして、さつき優待を受けたと言いましたのは、病気になりました入院した際におきましても技術者手当もちやんと頂きまして、すべての点につきまして、やはり一つの組織というものがありまして、それに自分の不満とするところの意見を出せば解決がつく、一つの困難もなかつたというところを私は申上げたのであります。
  230. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 いや、それで関連して、休みの日などには自由に外出ができたと思うのですが、これが非常に優待もされ、それに対してあなたも非常に感謝しておる。お互いに信じ合つておるのですから、休みの日なんか街に買物に行くとか、街へ見物に行くということは御自由であつたのじやないかと思うのでありますが、その点が余りなかつたようにも思うので、その点に疑問があるから伺つたのであります。
  231. 今井かね

    証人(今井かね君) 日曜には外出がございました。そうして勤務者、やはり病院でございますから交替々々でございます。今度の日曜日には誰が外出するということになりましてその順番が決まつておりまして、その時には一人の外出は決して許されておりません。やはり軍隊であり、その女の兵隊でありますから団体行動でありまして、一緒に外出いたします。それぞれ班長、婦士長というものがちやんと附添つております。それから班には班の組織がありますから、それの命令に従つて順序よくなされておるのであります。  それから一日の計画のうちに一時から三時までに昼寝の時間を、そういう時間もちやんと與えられでおるのであります。そういうふうにしたから、私としては別に不満ということは感じておりませんでした。
  232. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 今のにもう少し関連して伺いたいのでありますが、そうすると班長を設けて団体的に出られる。併しその街に、時に知合いの人があつて、そこに寄りたいというようなことは許されるか。又班長というものは必ず中国人であるのか、又日本人同士で班長が決まつておるのか。その点はどうか。
  233. 今井かね

    証人(今井かね君) それは日本人の班長もおりますし、中国人の班長もおりますし、朝鮮人の班長もおります。それは各思想上のうちにおきます民族観念のないところだと思います。
  234. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 それで知合いの家は訪ねられたのですか。
  235. 今井かね

    証人(今井かね君) 知合の家に行きますときには、班長の一応の承諾を得て、班長の命令があつたときに寄ります。
  236. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 大体それは承諾されるのですか。それからもう一つ伺いたいのは、そういうふうに外出が自由であつたとすれば、あなたも当然この軍隊外部の日本人で、まだ住んでいる人があつて、その人達の状況はどんなものであるかということが人間として関心を持たれると思うのですが、そういうところの事情を聞いて見たり、調べて見たりするお気持は全然起らなかつたわけでありますか。
  237. 今井かね

    証人(今井かね君) 私達軍隊生活をしておりまして、外出した場合には日本人に遭つたときには非常に親しい感じを持ちます。持ちますけれども、民間の方は何か私達の態度を、途中で遭つて見たときにも、言葉をこつちで掛けようとしても先がすつとしてよけて行つてしまいます。そのために口をきくというような親しい感じをこちらがいくら持つておりましても、なかなかそういう機会を與えられなかつたのであります。そうして私達は農村にばかり暮しておりましたから、比較的町の人で日系の多い所という所にはあまり行つたことがないのでございます。それで耕作地におきましては、一日にやはり残したお仕事なりしておりますと、出たい時にも出られないとか、そういうような方面からあまり民間の日系の方と接近する率が少うございました。そういう点で何か隔てられているような感じを受けておりました。
  238. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 今井さんにもう一つお尋ねいたすのですが、今井さんあまり広い範囲を御存じないようですが、兎も角三十人ばかり同じ所へ看護婦さんがおられて、その人達は知つておられるようですが、後三隊ばかりあつて百五十人おられた。それについてあまり御存知ないようですが、今井さんの言うところによると、その人達は非常に優待されたということを聞いて安心しているのですが、今井さんも親御さんがおありになつてお帰りになるという事情になつたのです。そのあなたの知つておられる範囲の方々が或いは親御さんがこちらにあつてそれが心配だとか、或いは結婚の適齢期になつておるが、年が少し殖え過ぎている、そういうような悩みを持つている人が多いのですか。そういう点を感じていない人が多いのですか。どつちですか。
  239. 今井かね

    証人(今井かね君) 私が毎日一つの病院で勤務している友達は皆団結しておりますものですから、何事も隠さずに何事も言い合うということが私達の原則であつたのですが、そうして皆本当に明るくなごやかにやつておりましたけれども、結婚の適齢期に参りまして、本当に組織が認め、或いは各その団体の人達が認めた場合には、現在は結婚も許されます。そうして日本人と日系同士の恋愛であれば、それが正しい恋愛であれば必ず結婚が許されているのでございます。そうして私達の部隊は非常にそういうことも組織の命令に何事従つてつておりましたものですから、皆な祕密ということがなくしておるのですけれども……。
  240. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 私の伺つたのは、その結婚の問題は、今井さんに伺うと、そう日本人の男の衛生兵の方々とも接触する人数が多くないですね。あなたは女だけでも三十人よりあまり知らないようですね。従つて男の人というのもそういう接触される数があまり多くないと思うのです。その中から配偶者を選ぶということはなかなかむずかしいことですね。ですからやはり結婚の時期ということが心配になれば、一応帰つて社会に出て結婚の相手を求めたいということが自然に出て来ると思うのですね。そういうことは悩んでおられる方はお見かけにならなかつたですか。
  241. 千田正

    委員長千田正君) あなたの感情だけでよろしいですから、分らない点は分らないでよろしい。今の星野委員質問の要点は分りますか。
  242. 今井かね

    証人(今井かね君) 私達の中には、結婚適齢期が来ていても、果してその人達も恋人を作りたいのであるか、作りたくないのか、そんなことは分らないです。自分自身は主人がおりましたものですから、停戰で分らなくなつちやつたのですけれども、どつかにいるだろうという気持でおりましたから、結婚問題に関しましてもあまり関心を持つておりませんでした。(「議事進行」と呼ぶ者あり)
  243. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 今井証人に伺いたいのですが、いろいろ伺いたいのですが、時間の都合もありますので、極く簡單に伺いたいのですが、初めから看護婦さんとしてあちらに渡満されたのじやないのでございますか。それからここには在満の期間がどなたも書いてあるようですが、今井証人は書いてありませんが、どのくらいあちらにおりまして、看護婦としてどのくらい期間がおありになつたのか、これを伺いたいと思います。これから北住証人も初めから看護婦として渡満されたのかどうか。その点簡單に一つ伺いたいと思います。
  244. 今井かね

    証人(今井かね君) 私は八・一五停戰後の看護婦なんでございます。その看護婦も、一番最初看護婦でなくて見習というようなものでありました。けれども、一ケ月の間に、私は知らないけれども、組織が認めまして、看護婦として正式に進級したのでございます。そうして一九四六年ですか、今度護士長に任官されたのでございます。けれども、それがどういう方面によつて進級して行くのか、初めは自分で知らなかつたのです。そうだつたのですけれども、何か思想上の学習が非常に、人民の上に労働者としての立場を非常によく認識して働くというところに、私が進級さして頂きましたと思つたのです。……少し、体の具合が悪くて休んでおりましたので、頭がとても苦しいのです。失礼します。
  245. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 北住証人に伺いましたが、初めからあなたは看護婦として渡満されましたか。
  246. 北住君枝

    証人(北住君枝君) 初めから看護婦として参りました。
  247. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 これは山澄丸並びに高砂丸の、金子証人は、山澄丸の梯団長でありますし、それから高砂丸の副梯団長格の杉田証人にお伺いしたいのですが、今度中共……。
  248. 千田正

    委員長千田正君) ちよつと待つて下さい。今、旅大の……。北満地区ですか。
  249. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 簡單に、その問題でなく別の問題で伺いたい。
  250. 千田正

    委員長千田正君) じや、ちよつと待つて下さい。
  251. 岡元義人

    岡元義人君 議事進行について、ちよつと委員長にお尋ねしますが、すでに時間が五時二十何分になつておりますが、何時までお続けになるつもりでありますか。
  252. 千田正

    委員長千田正君) 私は最後の結論を、皆さんとして、お伺いしたいのは、どうしたならば一日も早く希望の人が帰れるか、同時に、どういう方法によつて、或いは通信なら通信というものが、一番今のところ残留人達希望の第一條件なら第一條件であるというようなことにつきまして、証人の皆さんから、どうしたならば今後の問題が解決できるかという、その目安を聽きたい。その結論だけで終りたいと思いますが……。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  253. 岡元義人

    岡元義人君 議事進行について、そうしますともう質問は全部打切られるのですか。
  254. 千田正

    委員長千田正君) ただ、先程北満地区と旅大地区と分けてやつて話を聽いておつて、最後に一括した問題として質問をする人がないかということを申上げようと思いましたが、先程から北條委員から北満地区が終つて一括した問題があれば、簡單に二つの項目だけ伺いたいという要望がありますが、その点だけをお伺いしようと思つております。
  255. 岡元義人

    岡元義人君 議事進行の点につきましてはよく分りましたのですが、私は二三分間でいいのですけれども、一番最後の今の特別未帰還者給與法の問題と関連した大事な問題を二三点だけ、一番最後で結構でありますから、質問をお許し願いたいと思います。
  256. 千田正

    委員長千田正君) 承知しました。
  257. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 議事進行について……今井証人でございますが、先程も大分気分がお惡かつたようですが、今もお苦しいようなんであります。時間も間もないことと思いますが、都合でお帰りになつて頂くようにしたら如何でしようか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  258. 千田正

    委員長千田正君) 皆さんにお諮りいたしますが、紅露委員提案に……。    〔「賛成」と呼ぶ者あり〕
  259. 千田正

    委員長千田正君) 皆さん、賛成ということであります。今井証人、工合が惡かつたら、どうぞお引取り下さい。
  260. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 北満はもう打切つて頂いて、全体として質問を……。
  261. 千田正

    委員長千田正君) 一応北満の問題はこれで打切りまして、全体としてのあれをあと十分ぐらいの間に、簡單にして頂きたいと思うのですが、如何でございましようか。    〔中野重治君発言許可を求む〕
  262. 千田正

    委員長千田正君) 先程からこの……全部の問題ですか。
  263. 中野重治

    ○中野重治君 全部の問題です。引揚の問題を……。
  264. 千田正

    委員長千田正君) それでしたら、北條委員も先程から……どうも今井証人、誠にお気の毒で、わざわざ有難うございました。どうぞお大事に……。    〔証人今井かね君退席〕
  265. 北條秀一

    ○北條秀一君 終戦後長春ではコワレフスキー大将の布告第一号は、日本人の生命財産を保障するという布告が出、第二号は信教の自由を認めるという布告が出たというふうに私は聞いておりますし、奉天では九月になつて日本人の生命に危害を加えた場合には直ちにこれを銃殺するというスタンケビツチ少将の布告が出た。翌年中共政府の張学思主席から、東北銀行券と旧満洲国中央銀行券を十対一の比率で替える、こういう重要な布告が出たのでありますが、こういうふうな重要な日本人の生命財産又は引揚に関する布告が、牡丹江、ハルピン、大連地区において出たか。それについて御記憶があれば、その点を述べて頂きたいのです。
  266. 千田正

    委員長千田正君) 只今の北條委員質問に対しまして、本日御出席の証人方々で、今の北條委員質問したような布告を御存じの方は、手を挙げて頂きます。    〔証人江島治平君挙手〕
  267. 江島治平

    証人(江島治平君) 文句ははつきり記憶しておりませんが、同様の布告はハルピンでも出ました。私はロシア文字は見えませんから分りませんけれども、そういうようなはつきりした記憶があります。併しそれが実行されたかどうかは又別問題であります。
  268. 江口光夫

    証人(江口光夫君) 牡丹江でもそういう布告を、これはソ連ではありませんが、中共軍から出したのを見たことがあります。
  269. 千田正

    委員長千田正君) 旅大地区はありますか。石堂証人、御存じありませんか。
  270. 石堂清倫

    しろ○証人石堂清倫君) 私もはつきりした言葉は覚えておりませんけれども、生命財産、信教の自由を保障するということははつきり言われております。尚引揚に関連いたしましては、日本銀行券、朝鮮銀行券の携行を認める。それが軍票では出ておりましたところの東北銀行券は認めない。尚第一回引揚のときは携行の荷物は百キロくらいな達しがありましたけれども、実際には皆それを無視して、適当に持つて来ております。今度はその点について特に問い質しましたところ、家屋を壞さないという程度で一切のものを持つて帰つて宜しい。従つて一番大きく荷物を持つて帰りました者は、約七十五個の大きな荷物を持つて帰つておる。その他持帰りについては何らの制限をしておりません。但し国際條約に基いて禁止されておるもの、例えばラジオ機械、麻薬、こういうものは禁止するということでありました。尚大連市内におきまする寺院仏閣については、日本人の感情を刺戟しないということを以ちまして、保護を加えております。
  271. 金子麟

    証人(金子麟君) 石堂証人のおつしやつたことと同様でございます。ただ現実問題で、寺院を保護云々とおつしやいましたけれども、それは事実の当らん点がございます。
  272. 北條秀一

    ○北條秀一君 関連いたしまして、今石堂証人日本向うの銀行券を持つて帰つて宜しいという布告が出たということでありますが、それには制限が加えられたと思いますが、その制限があつたかどうか、その点を伺いたい。
  273. 石堂清倫

    証人石堂清倫君) 一千円という制限だつたと思います。
  274. 中野重治

    ○中野重治君 その点に関連してですが、布告に関してではなく、布告その他に基いて引揚げて来た場合、舞鶴において私の友人は、その許可を得て持つてつたところの、国際法規等々に衝突しないところのその持物を取られておりますが、実はその友達にその後会つていないものですから、それが日本のどういう役人がどういう職責においてその品物を取つたのか、又その際預り証なんかを出さなかつたというのですが、出したか出さなかつたか、又は沒收したというのであれば、それを弁償したかしなかつたか、そういうことについて、私の取られた友人は山澄丸の方の人でしたが、その他の船でもそういうことがあつたかどうか、それを伺いたい。
  275. 金子麟

    証人(金子麟君) 私は山澄丸の梯団長としてお答えいたします。没収されましたものは書籍と麻薬でありました。麻薬はこれは国際法上いけないからと言つて没収されました。書籍は一時預かる。その中で返して下されなかつたのは地図でございました。私も取られました。日本地図を取られました。これは返して貰えませんでした……間違いました。日本地図を取られたのはソ連であります。こちらでは麻薬です。
  276. 中野重治

    ○中野重治君 それは誰が如何なる職責において取つたか、その預り証、目録等を渡したかどうか、お伺いしたい。
  277. 金子麟

    証人(金子麟君) 別に預り証は寄越しませんで、税関吏の名において取りました。
  278. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 議事進行について……時間がないようですから、一つ本論の結論に入つて頂きたいと思います。    〔「賛成」と呼ぶ者あり〕
  279. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 一つ証人にお尋ねいたしますが、御存じの証人があつたらお答え頂きたい。今度の凡そ二千の引揚げ命令はどこが出したかという点について、お知りの点があつたらお答え願いたい。
  280. 金子麟

    証人(金子麟君) 私らが帰ることの命令はソ連がお出しになりました。
  281. 杉田敏次

    証人(杉田敏次君) 私達の高砂丸で帰つたときに、ハルピンの市政府でありましたが、日僑管理委員会からこの命令が出ております。
  282. 北住君枝

    証人(北住君枝君) 軍関係は奉天の総衛生部から命令を受けました。
  283. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 証人にお伺いいたしますが、自願書の内容は大体一年になつておりますか、或いはまちまちでありますか。その年限の程度を伺いたい。
  284. 金子麟

    証人(金子麟君) 第二回引揚の、これは自願書ではありません。契約書であります。これは一年でございました。最近の自願書というのは、実に傲慢無礼な自願書でございます。先程卑下してはいかんというお話がありましたが、このことは後で中野先生にお尋ねいたしますが、私は極めてつまらない人間でございまするか、中国建設のために協力いたしたいと思いますから、このことを自願いたしますというのが自願書であります。
  285. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 その年限はどのくらいですか。
  286. 石堂清倫

    証人石堂清倫君) その年限は自願書には書いてなかつたと私は記憶しております。
  287. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 自分で書くのでしようから……。
  288. 石堂清倫

    証人石堂清倫君) 私は本年は引揚の責任者ではありませんけれども、引揚関係について非常に関心を持つておりまして、それでソ連の自願書を管理するところの将校に、一度全部日本人に見せて欲しいということを希望いたしました。それは他人が書いたものがあるかも知れない、書いてない自願書があつてはいけないというので、私が非公式に見たところによりますと、まちまちであります。年限を書いたものは何もありません。今金子証人が申されたようなのもありますが、大体は、自分中国経済建設に参加するためにこの自願書を出したというふうな簡單なものが非常に多かつた。中には、残ろうとするのか帰ろうとするのか、何を言つておるのか分らないのがあります。そういうのが十数通ありまして、これは司令部で更めて本人を呼び出して確かめたように記憶いたしております。
  289. 千田正

    委員長千田正君) 草葉委員質問に対して、他にございますか。なければ淺岡委員
  290. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 その二千の人員の選定は誰が当られたのですか。
  291. 千田正

    委員長千田正君) 今の質問に対して……。
  292. 金子麟

    証人(金子麟君) ソ連は、先程石堂証人のおつしやつた通り、全面的に帰すという方針を取られました。企業体で止むを得ないものはこれは残す。その残す人員についての折衝が非常に困難下あつたようであります。当時の中国幹部はソ連に向つて、中ソ友好條約をどうするのか、こんなに日本人を帰してそれでもいいのかという激論まであつたように私は記憶いたしております。それで七月の半ばでございましたか、関東公署において、凡そ帰る人員の選定をやつたようでございます。
  293. 千田正

    委員長千田正君) 今の淺岡委員質問に対して、族大地区からのお答えがありましたが、杉田証人簡單に……。
  294. 杉田敏次

    証人(杉田敏次君) ハルピンでは、命令として政府から出たのでありますが、日本人を扱つておるのは外僑科でありますが、これは民会の職員から聞いたのでありますが、民会長は、これをオブザーバーで見ておりまして、いわゆる日僑と称する方の、或いはその下で働いておるところの民主連盟なるものが、この日本人を帰す選定に当つたということをはつきり聞いております。
  295. 千田正

    委員長千田正君) 他にありませんか。
  296. 岡元義人

    岡元義人君 二三点先程お許しを得ました質問をば、各証人にお伺いしたいと思います。簡單に答えて頂いて結構です。  先ず第一番に私は、昨年来この委員会の諸君が努力されまして、特別未帰還者給與法というものができたのであります。ところが、これはシベリア地区の一般邦人だけの留守家族に対して適用したのであります。と申しますのは、今日皆さんが御証言なさいましたように、非常に重要な問題でありますから、はつきりお答が願いたいのでありますが、自分意思によつて満州に残つておられる家族の方と、本当に帰りたいと思われる方々が、はつきり区別できないので、中共地区は今年この一年間留守家族に給與さえ支給することができないのであります。本当に帰りたくないのか、本当に自分希望で残つておられるかということは、国会の立法上非常な今まで問題となつて来ておるのであります。先程来時間をつぶしまして簡単に中間報告をいたしましたが、問題はこの立法の問題であります。そこで各証人から、本当に帰りたくないという人、自分意思によつて残りたいということがはつきりできるかできないか、本当は帰りたいのだが、帰れないのだという人。この点を各証人から、イエス・ノーの程度の簡單な答えで結構ですから、お答が願いたいと思います。
  297. 千田正

    委員長千田正君) 今の岡本委員質問に対して各証人から……。
  298. 石堂清倫

    証人石堂清倫君) 全体から申しますと、誰が具体的に本当に帰りたいか本当に帰りたくないかは、非常に確かめにくいのであります。概数を申しますと、一部分の人は非常に帰りたがつておるということは言えると思います。私がこう申上げた理由を申上げますと、こういうわけなんです。私共に向つては帰る帰ると言う。本当に司令部で帰るように手続をとみと、非常に困つておる、ぜひ残りたい、そういう気持がある。帰ると言わないと仲間外れになるような気がする。帰るその日まで、引場が始まるその日まで帰る帰ると言つておるけれども、実際は残してほしい、というような人もありますから、それだけでは分らないのですから、私は誰々が必ず帰りたいということはちよつと申上げにくいと思います。
  299. 金子麟

    証人(金子麟君) 私は医者に関する限りは比較的明瞭に申し上げ得ると存じます。医療関係者、医師及び高級技術者、合せて十八名かります。この中で帰りたいと思つて帰れない人は四名、あとは希望残留であります。特に大連病院の外科の西内巌夫、佐々木守夫、荒木元秋、及び看護婦十三名、これは進んでも残りたい、面この方々相当なことを申しておりますが、これは証言の限りでありませんから申上げません。
  300. 江口光夫

    証人(江口光夫君) 私は東満地区、ハルピン地区におりました関係上、向う状態を申上げますならば、大部分が帰りたいという気持を持つております。帰りたくない人というのは極めた少部分だということを申し上げます。
  301. 江島治平

    証人(江島治平君) 最前岡元委員からお尋ねになりましたことは誠に当然の御質問でありますけれども、実際に向うにおりまする者としては、その辺がはつきりわからない連中、答弁ができないというような人間相当おると思います。何救ならば、感情の上からは大体みんな帰りたい、併し帰つてどうするかというような考を持ちますと、向うの方じや技術とか技術家というようなことで威張つておられましても、日本帰つてそれが果してできるかどうか、私が率直に御遠慮なしに申しますというと、少し心細い連中が相当おる。こういう人は帰りたいには帰りたいのだけれども、さりとて帰つてどうするか、ここにおれればおつてもいいけれども、ただ文通だけはさせてほしいということです。こういうことを今の岡元さんの分類にするということはかなり困難なんです。ただ今の……。
  302. 千田正

    委員長千田正君) 江島証人のおつしやることは、態度不明な人が大多数であるということですか。
  303. 江島治平

    証人(江島治平君) 態度不明ということを言えないのです。それならそういうふうにして、態度不明であるからこつちの方の援助を見合せると言われては困る。この留まりたいというような者は、これは帰りたくないことはないのです。ですけれども、かれこれと日本の内情を聞くにつけましても、帰つてどうするかということが考えられるから、日本の本当の便りを聞きながらおられればおつてもいいというようなことなんですから、ここは一つ御同情の何を以て一つ御詮議願いたいと思うのです。
  304. 北住君枝

    証人(北住君枝君) 百名ばかりおりますが、帰りたくないという人は四五名しかおりません。その帰りたくないという人は政治指導の人ばかりです。
  305. 杉田敏次

    証人(杉田敏次君) 帰りたくないという人を未だ曾て聞きません。又共産政治を指導していた人達も自ら自分も帰りたいと言つております。
  306. 岡元義人

    岡元義人君 これは江口証人にお答え願つていいと思いますが、沢山の死亡者があつた、終戦当時軍隊の数万の死亡者があつたという証言があつたのでありますが、その死体を将来において誰と誰というようなふうの確認ができるような状態にあるのか、この点を明かにして頂きたいと思う。と申しますのは、ソ連地区について、今までこの委員会が得られました資料の中では、ハバロフスク等は病院等に残つておる台帳に番号が打つてつて、その番号と引合せれば、誰々の遺骨、これは墓であるということが分る、而も将官以上は名前まで書いて保存されておるという証言を得ておるのであります。併しあなたの今日のお話の中の死体等は、あなたの地区だけで結構ですから、全般的に考えますと、果して将来確認できるような状況に整理されておるのかどうか、この点を一点伺つて置きたい。
  307. 江口光夫

    証人(江口光夫君) 先刻お話申上げました交戰して亡くなりました兵隊は全然確認ができません。山中に放置されております。それから街の郊外で亡くなりました兵隊も確認ができません。これは二十一年の四月頃から公安局の手によつて牡丹江の西部墓地に葬られたのでありますが、つつ込みで葬つてしまつたということで確認はできません。
  308. 岡元義人

    岡元義人君 名前もわからないですか。
  309. 江口光夫

    証人(江口光夫君) 名前もわかりません。それから俘虜收容所の中で死にました者も一括してトラツクに積みまして牡丹江の北方の壕の中に埋めてしまいましたので、確認ができません。
  310. 岡元義人

    岡元義人君 これも江口証人に伺つて置きたい。牡丹江地区は非常に終戦当時混乱の状態にあつたようでありますが、実は在外公館借入金の確認という法律が当委員会も非常に問題にいたしまして通過いたした次第であります。そこで、牡丹江の資料が非常に乏しいということを我々は承つておるのですが、この点について簡單で宜しうございます。こちらへ帰つて見えまして、それは集められるか、資料として提出されるものがあるかないか、お答え願いたい。
  311. 江口光夫

    証人(江口光夫君) 牡丹江の現地におきましては、先刻申上げました私の金で四万円の借金を拂つたということだけでありまして、外には現実にはございません。
  312. 岡元義人

    岡元義人君 これは金子証人と北住証人に伺いたいと思うのですが、昨年一番最終船で大連から帰つて来ました千歳丸の方々、殆んど婦人が大多数でありました。その時舞鶴に参りましていろいろ私承つたのですが、その時の状況で、大連地区にありましては、たとえそれが中国人であろうとソ連人の二号さんであろうと三号さんであろうと、兎に角日本へ帰れという指令がソ連側から出て、大連の近郊、普蘭店附近まで、兎に角大連に集結せしめられて帰つて来た、こういうお話があつたのであります。今年になりましてもそういう方法が事実採られておるのかどうか、あなた方お帰りになつた後も逐次集結しつつあるのか、この点を一つお答を願いたい。  それからついでですから、これは北住証人から答えて頂きます。江島証人かどちらか、お答えを願いたいと思います。これはこの委員会でも証言に基いていろいろ調査いたしておるのでありますが、北鮮の元山とハルピンとの間に、緊密にいろいろ通信通話ができて、連絡が取られておるか、この点を明らかにして置いて頂きたいと思います。以上であります。
  313. 金子麟

    証人(金子麟君) 私に対するお尋ねですが、これはソ連司令部は、これがソ連の妾であろうと、中国人の妾であろうと、又中国人と結婚しておる者であろうとに拘らず、皆還る前には調べ上げまして、一ケ所にみんな集めております。馬欒屯でありますか、馬欒屯に集めておつたのであります。そのところを改造所という名前をつけて……頭を改造するという……改造所という名前をつけておつたと思います。それに集めまして、そして還すことに努力しておつたのです。今回還りますので山澄丸に各班長というものが決まりました。その班長のところに、ソ連から指名されたところの女子さんの名前がずつと載つております。これが中国人の細君であつたり、ソ連人の細君であつた者がおるのです。班長としては責任において、これを捜し歩いた。でありますから、捜し出して還すということにソ連が努力しておるということは事実であります。
  314. 岡元義人

    岡元義人君 現在も……。
  315. 金子麟

    証人(金子麟君) 現在のことは存じません。
  316. 岡元義人

    岡元義人君 あなた方が帰るとき続けられておつたのですか。
  317. 金子麟

    証人(金子麟君) それは帰る前だけのことでございまして、帰つてから後のことはいつもやつておりません。船の出る前のことであります。
  318. 岡元義人

    岡元義人君 継続的にずつとやつておるのでありますか。
  319. 金子麟

    証人(金子麟君) 継続的にやつておりません。つまり帰る人員をソ連で発表してからの話であります。
  320. 江島治平

    証人(江島治平君) 元山と満州との通信は順調に往復いたしております。
  321. 岡元義人

    岡元義人君 電話はどうですか。
  322. 江口光夫

    証人(江口光夫君) 朝鮮について、私から申上げます。朝鮮に満州の通信は現在全然行われておりません。但し朝鮮人の手を経て別途の意味で特に頼みまして通信するものが、個人の関係で手紙は届いておる。その程度です。
  323. 北住君枝

    証人(北住君枝君) 私その点軍隊ですから分りません。
  324. 千田正

    委員長千田正君) ちよつと今最後の……
  325. 岡元義人

    岡元義人君 私軍隊だから分らない……前にこの委員会証言がありましたのですが、現在のことは病院等は、特に看護婦ですね、病院等は電話で常に連絡が取れるという、こういう証言があつたのです。その点を御存じですか。
  326. 北住君枝

    証人(北住君枝君) 存じません。
  327. 中野重治

    ○中野重治君 関連して江口さんにお尋ねしますが、朝鮮と満州との間には通信連絡はないということはどうしてお分りになるのです。
  328. 江口光夫

    証人(江口光夫君) 私先刻申し忘れましたが、これは日本人の通信であります。そういうことにお聞き願いたいと思います。
  329. 中野重治

    ○中野重治君 江口さんのおつしやる日本人のというのは、日本人だけのという、こういう意味ですか。
  330. 江口光夫

    証人(江口光夫君) そうです。
  331. 千田正

    委員長千田正君) 大分時間が過ぎて参りましたので……。
  332. 中野重治

    ○中野重治君 委員長一つだけ、私簡單にここでお尋ねしたいのです。
  333. 千田正

    委員長千田正君) 簡單に……。
  334. 中野重治

    ○中野重治君 金子さんにちよつとお尋ねします。金子さんは外務省で調査を命ぜられ書類を出されたという話ですが、それはいつ頃なんです。調査を命ぜられたのは。
  335. 金子麟

    証人(金子麟君) 私が梯団長をしております時に、外務省の調査課の方がお出でになりまして、残つておる人員でありますね、大連に残つていらつしやる人員はどのくらいあるか、各企業体に分つたら調べて貰いたいと、こういう御要求でありました。
  336. 中野重治

    ○中野重治君 外務省が命じたわけではないのですね。
  337. 金子麟

    証人(金子麟君) お願いするということです。
  338. 中野重治

    ○中野重治君 いつ頃ですか。
  339. 金子麟

    証人(金子麟君) それは、そこへ入りましたのが四日に着いたんですから、六日頃ですか、もう五日頃から始終来ておられました。お名前も分つております。これは命令ではございません。頼まれたんです。
  340. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 これも証人のうちで知つておられる方がありましたら一つお答え頂きたいのでありますが、実は十年九月十二日にモスクワにおいて、日本人の捕虜五十九万四千名のうち、百二十八名は将校以上であると発表があつたのです。それから四年の歳月を経ました今年の五月の二十日にモスクワのタス通信から、やはり同じ数字の五十九万四千名を捕虜としたということを発表されたのであります。そこで証人にお尋ねいたしたいのは、この二十年の八月八日に宣戦が布告されて、そしてソ連国境を越えて来たうちで、中共地区、昔の満州です、満州地区にいた日本人が、シベリア地区にいつ頃からいつ頃までの間に送られたかということを知つておられれば、それをお答え頂きたいと思います。例えばですね、その十月、中共地区からどんどんシベリアに送られて行つたとか、或いは十一月とか、或いは十二月、更に二十一年を越えて一月二月にもどんどんシベリア鉄道で向うへ送つたのであります、つまり捕虜として……。そういうふうな点を御存じであつたならば、それを一つ証言願いたいと思います。
  341. 金子麟

    証人(金子麟君) 大連の宗教関係、警察関係、そういうものは知つております。それは終戦の年の暮と終戦翌年の春に掛けて行つたと思います。今西という方がおいでになりました。
  342. 千田正

    委員長千田正君) 各証人、に知つている方がありましたら手を挙げて下さい、今の淺岡委員質問に対して。
  343. 北住君枝

    証人(北住君枝君) 大連においては昭和二十年の十一月に捕虜として連れて行かれました。
  344. 江口光夫

    証人(江口光夫君) 牡丹江地区からは、終戰直後から漸次向うに移動されましたので、果して誰が行つたか……。
  345. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 果して誰がいつどこに行つたという問題ではないのです。いつ頃から始まつていつ頃まで継続されておつたかということです。
  346. 江口光夫

    証人(江口光夫君) 大体八月の二十日頃から、翌年の四月の末までと思います。
  347. 石堂清倫

    証人石堂清倫君) 私はその当時、終戦当時ハルピンで兵隊でありました。八月十七日除隊になりまして、大連に還るとき旅費を支給するということでありましたので、八月十八日部隊へ旅費を貰いに行つたところが、もうすでに武装を解除されてどつかへ行つてしまつた。いつまで続いたということは分りません。
  348. 千田正

    委員長千田正君) 外にありませんか。それですと、大体時間は過ぎましたが、皆さん委員としましても、非常に質問したい事項がたくさんありますし、又証人方々も述べたいという点も相当あると思いますけれども、限られた時間の間で十分な時間を取つておりませんので、残念でありますが、ただ一言委員長からお伺いしたい点は、今日御臨席の証人方々のうちで、全部にお聽きしますが、一体一番今残留しておる人達希望は何か、何をやつて欲しいのかという点です。例えば通信であるとか、或いは配船、船の手続をして呉れとか、いろいろあると思いますが、その点お気付きの点だけを一、二点だけ順にお答え願いたいと思います。石堂証人お願いいたします。
  349. 石堂清倫

    証人石堂清倫君) 私は第一に通信を強化して貰いたいと思います。第二には日本の代表者を、公式非公式を問わず、いわゆる中共地区へ、ここへ派遣して頂きたい、こういうことであります。
  350. 金子麟

    証人(金子麟君) 委員長にお尋ねいたしますが、私の考えでございますか、向うの人の考えでございますか。
  351. 千田正

    委員長千田正君) あなたの考えで宜しうございます。向う人たち希望はあなたにも反映しておると思いますから、あなたの立場からおつしやつて頂きたいと思います。
  352. 金子麟

    証人(金子麟君) 私共の見た範囲内においては大部分が帰りたいということであります。
  353. 千田正

    委員長千田正君) ですからどうしたらば帰られるかという方法です。
  354. 金子麟

    証人(金子麟君) それはむづかしい問題でございまして、私の考としては、やはり内地同胞の方が今回のように熱心に声を挙げて頂いて、社会問題化する場合に帰り得る方策があろうかと思つております。次は通信の問題だと思います。
  355. 千田正

    委員長千田正君) 通信にもいろいろあるのでありますが、ラジオのような問題は、そういう点はどうですか。
  356. 金子麟

    証人(金子麟君) 私は日本の状勢をお知らせになるにはラジオが一番よいと思います。あれが私の一番頼みでございます。次に国際赤十字を利用下されば帰還はあり得る問題だと思います。今度の通信にも大連は省かれておりまして、国際通信を利用したならば、これはでき得る問題だと考えております。
  357. 杉田敏次

    証人(杉田敏次君) 私はまず第一に配船して欲しいというふうに思います。それには今までのあらゆる団体、政府の努力されておる方針を尚強化されることと、又個人々々がそれにより以上熱を持つて貰いたいこと、それからこの配船に対しては非常に至難だと思われますが、若し中国建設技術者を必要とするならば、何らかの方法でこの交替制でも採れないものであろうかということが自分で考えられて来るのであります。その次に通信、ラジオのことですが、先程江島証人からああいうところに当てたら最も危険だということですが、私はさようには考えません。ああいうところであればこそ、私達はそこにどのようであるかということを、如何にしてその消息を知りたいかということを、ああいうところを通ずることによつて政府の方に分つて頂けるのではないかと思います。なぜあそこを選ばなければならないか、非常に移動をしております。そういう関係でそうした日本人の動静を知つておるところにやることが正しいと思うので、この手紙は、ただ江島さんの心配されるのは、不必要な、或いは又一方的に言論とか文筆の自由でない点を挙げて手紙に書くならば着かないことがある、向うの都合でそういうことがあるかも知れませんが、我々も人間的な正しい欲求であるとか、元気であるとか、どうであるとかというような人間的な愛情についてのものは決してそういうようなことが起らない。
  358. 千田正

    委員長千田正君) ですから、何を一番あなたの立場から我々にやつて貰いたいかという希望をおつしやつて頂きたいと思います。
  359. 杉田敏次

    証人(杉田敏次君) 配船、それから手紙、又ラジオでできるだけ頻繁に日本情勢を知らせるということ。それからこれは至難ですが、今向うで死んだり、又どういう工合に分布しているか分らないから、田舎に散在している者を何らかの方法で、調査団の入国をされることによつて確実な調査をすることと、それによつて完全なる引揚についてのことが実現されるものと考えられます。
  360. 江口光夫

    証人(江口光夫君) 私は杉田証人と同感であります。
  361. 江島治平

    証人(江島治平君) 現在の情勢では、只今の流れの如く引揚促進に努力して頂かなければなりません。この引揚というものはなかなか難物でありと存知まするから、差当りはやはり早く文通ができるようにして頂きたい。この文通も相当の期日が要るのじやないかと思われます。そうしますと、ラジオの番組の一定の、ただ十分間か十五分間の時間でも、只今の尋ね人のような時間をお取り願つて、こちらの方から向うに安否を知らせるというような方法を採つて頂いたならはこれが一番で、向うの方が差当り待望していること……帰る帰らないというよりも、達者であるかないか、それを早く聴きたいということが皆の願いである。差当り直ぐできることはラジオである。それがために十分か十五分なり取つてつて頂くと非常に仕合せだと思います。
  362. 北住君枝

    証人(北住君枝君) 残留者内地留守家族の安否をわずらつて、そうして帰りたいと言つているのです。だからここで文通ができれば落着くのではないかと思います。文通が第一だと思います。
  363. 千田正

    委員長千田正君) 大体皆さんから非常に有益な御証言を頂きましたので、我々としましても、これからの委員会を皆さんの御期待に副うような方法にどうやつてつて行くかという目安もどうやらついたようであります。お蔭様で我々としましは非常に参考になりましたので、今後当委員会としましては万全を期してあらゆる手を打ちまして、皆さんの御期待に副うような方法を探りたいと思いますから、証人の皆様も今後とも十分に当委員会のある意義を御認識願いまして、御連絡を願いたいと思います。  街委員会としましては、今日の証人証言一つ参考としまして、国内の問題もありますし、あらゆる方法によつて一日も早くこの委員会目的の北満地区、露満地区、その他の地区における残留邦人との間の連絡が取れるような方向に向つて邁進して行きたいと思いますので、今日はこれを以て散会にいたしたいと思いますが、如何でございますか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  364. 千田正

    委員長千田正君) それならばこれを以て散会にいたします。    午後六時八分散会  出席者は左の通り。    委員長     千田  正君    理事            天田 勝正君            淺岡 信夫君            紅露 みつ君            岡元 義人君    委員            草葉 隆圓君            水久保甚作君            北條 秀一君            穗積眞六郎君            中野 重治君            星野 芳樹君   政府委員    厚生政務次官  矢野 酉雄君   証人            石堂 清倫君            金子  麟君            杉田 敏次君            江口 光夫君            江島 治平君            今井 かね君            北住 君枝君