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今野委員 私は現在の
教育文化における最も重要な問題について、お伺いしたいのでありますが、時間の
関係もありますので、そのうちの
一つ、すなわち先ごろ本
会議において緊急質問をいたそうとして、
運営委員会の議を通し、時間の
関係上できなかつた問題について、質問いたいしたいと考えております。
その要旨は、この夏以来、しきりに
大学教授あるいは一般の教
職員の馘首が行われておるわけでございますが、その馘首は、たとえば
定員法の
関係とかいうような種類のものではなくして、明らかに思想弾圧、政治的な弾圧というような色彩を帯びておるものでありまして、
従つてその
理由も明確に示されない場合が多く、またそのやり方も非常に苛酷である場合が多いのであります。私が調べました
一つの例を申し上げまするならば、たとえば東京水産
大学の経済学の教授をや
つておる庄司という人が首切られた例でありますが、この場合には学長の松生義勝氏は庄司君と自分とが
教育上の意見を異にするということで、馘首をしておるのでございます。ところが、その学長の
教育上の意見というものが何であるかということを、だんだん追求して参ります途中において、松生氏が、か
つて昭和八年に在外研究員としてドイツに留学していたころの、あちらからの書簡を雑誌に寄せておられる、そういうものが手に入つたわけであります。それによりますと、こういうふうに書いてあるのであります。「最近のドイツは何とい
つてもヒトラーの天下にな
つて、人心が統一されて来ました。元来りくつの多いドイツ人が三十有余の党派にわかれてがやがやさわいでいたばかりなのが、すつかりまとめられたのです。若い連中の気魄も目ざめて来たようです。祖国愛によみがえり、ぼんやりしておれぬぞと元気になりました。焚書もその意義の現われです。ベルリン図書館も二百万の本があります。その中にマルキシスト及び性欲に関する本二万部ほど焼き捨てた、ただそれだけです。文化の逆行だなんて
日本の文士達がさわいで抗議を申し込んだと聞いて、私はふき出しました。ナチだ
つて、そんなばかではありません。神田の古本屋からお安く買つた売れ残りの本を集めて来ても、二万や三万はすぐ出ようと思います。」云々というような調子であります。明らかにナチスを礼讃し、焚書を礼讃するような書簡を寄せておるのであります。そこで私は松生氏に対して、今でもこういうような考え方に変わりはないかと申しましたところ、これは私の性質から出て来ておることであります、こういうふうに申しておるのであります。そういうふうな学長と
教育上の意見が合わないということは、民主主義的な
教育理念と持つ
教員として当然のことであります。こういうような場合には明らかに反民主的な思想弾圧であると断ぜざるを得ないわけでございます。
また小、中
学校の例で申しますると、たとえば京都市などの場合には、最近に大量の馘首が行われたのでありますが、その
理由とするところは、たとえば、二年前に組合運動のために
学校をあけることが多かつたというようなことを、言
つておるのであります。ところが、そのころはご承知でもありましようが、組合の専従者とい
つたようなものがはつきりしない、そうして市当局や校長の了解を得て、そういうような運動をや
つていた。そういう二年前の
事柄を引出して、そしてそれを馘首の
理由にしておる。その大部分は組合運動を熱心にや
つている連中であります。しかもその馘首に際しましては、非常に苛酷な條件でありまして、二十四時間以内に辞表を出せ、そうすれば依願免官ということでや
つてやるけれども、もし二十四時間以内に辞表を出さない場合は懲戒免職にする、そういうことで数名の者が懲戒免職になつたのであります。何ゆえに二十四時間という時間の間に依願免職が懲戒免職になるのか、このこともまことに解しがたいことであります。これは実に馘首が苛酷に行われておるという実例の
一つであります。
その他先ごろ日教組の大会の代表が本院に参りまして、各党に面会した際に聞き及んだところによりましても、たとえば、富山などは何にも
理由を示さない、こちらからいろいろ
理由を聞くと、一々それでもない、それでもないと言
つて、ただ総合的に
教員として不適格である、こういうようなことを申しておるのであります。しかもこれらはいずれも
定員定額の
関係とかいうものではなくして、
教員として不適格であるというようなことでや
つておるのであります。こういうようなことが現在だんだんと進行しており、
教育界においては、非常に大きな不安のあらしが巻き起
つておるのでございますが、一方において九月十七日人事院規則とい
つたようなものが制定されまして、公務員の政治活動を非常に広汎にわた
つて禁止するということが行われたことは、御承知の通りでございます。そしてその公務員の中に、国立
学校の
教員も含まれるというようなことになつたのでありまするが、この問題につきましては、さつきのような断圧が行われておる際でもございまするので、非常に大きなセンセーシヨンを巻き起した。そして
大学教授連合では十月五日、
日本学術
会議では十月六日に、それぞれそのやり方が不当であるという意味の声明を発しております。そうして翌十月七日の参議院の
文部委員会において、
文部大臣は、大体この
日本学術
会議なんかの声明には
賛成であるという言明をなされておるわけでございます。こういうような点について、
文部大臣は一体どういうふうにお考えになるか。先ほどの具体的な実例、あるいは人事院規則に対する各方面の意見に対して、今どういう風に考えておられるか、その点を明確に御返答願いたいと存じます。
次に、労働組合が非常にやかましくなつたものでありますから、十月二十二日人事院が、人事院規則の解釈というものを出して、
大学教授が専門のことについて意見を述べることはさしつかえないのだというようなことを申しております。たといそれが政治的なものであ
つても、専門のものならいいというのです。ところがこの専門のものというのは、一体何かということが相当問題なんだ。
文部省でもそれに引続いて、専門外のものはいけないということを言
つておるのでありまするが、一体
大学教授の学識の中で、何が専門であるか専門でないか、こういうことは、にわかにきめがたいものがあると思うのであります。これは他の国の
大学の歴史をたど
つてみましても、
一つの科目の専門家というふうに、必ずしもきま
つていない例がたくさんあるわけであります。それから
日本においてもそうでありますが、たとえば自然科学の例で申しますと、原子の問題の専門家である仁科博士が、戦後理研においてペニシリンの製造を始められておる。そつちの方においてもやはり専門家であるということにな
つて来ておるわけであります。そういうような点もあるわけでありまして、自然科学というような非常にきつかりとした学問でもそうであるわけです。いわんや社会のこと、芸術のこと、そういうような問題になりますると、何が専門であるかというようなことはないはずである。ことに
日本は、民主主義を打立てなければならない今日にあ
つて、自然科学を学ぶ者であれ、あるいは工学を学ぶ者であれ、だれであれ、社会の発展について深い学問的な関心を持たない者は、だれもないと思うのであります。
従つて政治上、経済上の諸問題について、いずれの専門であるを問わず、
大学教授が堂々と意見を述べることは、当然であるべきであろうと思うのであります。そういう点について
文部大臣はどう考えるか、その点を御返答願いたいと思います。
なおその際問題になるのは、憲法との
関係であります。憲法の十九條、二十一條、二十
二條等にわた
つて、思想及び良心の自由、集会、結社、言論、出版の自由、学問の自由といつた基本的な人権がはつきりと述べてあるのでありまするが、特に二十三條に学問の自由が他の自由から飛び出して特別に述べてあること、これは
日本の憲法における大きな特色の
一つであろうと私は考えておるのであります。それほど学問というものは尊重しなければならない、重大である。これを一片の人事院規則とか、そういうようなものによ
つて制限するということは、まつたく不当であると考えざるを得ないのであります。もつともその際十
五條の公務員に関する
規定が援用されて、それによ
つて制限されることもあるわけでございますけれども、しかしながら基本的人権というものは、世界の長い間の歴史によ
つて獲得された民主的な人権であり、これは何物にもまさ
つて憲法の基礎をなすものである、こういうように考えるのでありまするが、そういうものを他のものによ
つて制限するというのはいかがであろうか。特にどんな職業であ
つても公共性のないものはない、いかなる職業についても、公共性というものがあるわけです。
従つてその職業のモラルというものは、どこにもあり得るわけである。
従つてやはり
大学教授のモラルというものがあることは当然でありまして、そういう点は自発的にやるべきであ
つて、決して法令でも
つて制限すべきでない、かように考える次第でありますが、この点について
文部大臣はどう考えるか。はたしてこの基本的人権、ことに学問の自由を制限することが、
日本の学術並びに民主的な発展というものを阻害することになりはしないか、この点を明確にお答え願いたいと考えるわけであります。以上簡單でありますが、質問いたします。