○菅家
委員 私もその婦人朝日を読んだのであります。それで
新聞雑誌等に
永井博士の
著書に関する批評等もことごとく出ておりまして、それらを一応検討しておく必要があると思いましたので、その記事を照し合せてみたのでありますが、かくのごとき記事は載
つておりません。これは「
孤兒に仕える」という題目の文の中にありましたことを曲解して、ことさらにこの雑誌に掲載にな
つておると私は思う。この一文を速記に残しておく必要があると思いますので、短い文章でありますから、全文を読み上げてみまして、全
委員諸君の御参考に供したいと思います。
「
孤兒に仕える」という
一つの項目があります。「天主に仕える心——それがそのまま
孤兒に接する者の心でなければならない。「なんじ等が我がこの最小き兄弟の一人に為したるところは、ことごとにすなわち我に為ししなり。……なんじ等がこの最小き者の一人に為さざりしところは、ことごとにすなわち我に為さざりしなりしとは天主の
言葉である。
孤兒収容所は慈善
事業場ではない。神に仕える祈りの宮殿である。寝小便する
孤兒を真夜中に起こし、おんぶして冷い廊下を便所に通うのは、神の御前に仕えて祈りをすることと同じい。
孤兒の前に講義をするのは神の前に座
つて祈り文をとなえるのと同じい。町に浮浪兒を探してついに見つけたる喜びは、聖母マリアがエルザレムからの帰り途の混難に幼きイエズスを見失い、探し探して三日目に神殿で見つけたときの歓びでなければならぬ。
孤兒院の受付へ職員志願者が来て、「私は哀れな孤児の救済に一生をささげたいと思います」と言う。も
つての外の
言葉である。
職員が
孤兒より上の位にあり、
孤兒を救う能力を有
つているとは、何を証拠に言うのであろうか?——果してそれだけの自信があれば、わざわざ他人の経営している
孤兒園へ就職を求めて来なくても、
自分の家で
自分の力でりつぱにやれるはずである。
こんな連中に限
つて、現代
社会では生活不能の弱虫で、夢のような理想だけを鼻にかけている、
自分を救うことが出来ずにいて、他人を救おうとは何事ぞ。
大臣になれとすすめられれば
大臣にな
つてりつぱに責任を果す。百万の富が必要なら実業界に入
つて巨万の冨を握ることも出来る。学問に身を入れれば博士になり、土木界で働くなら大きなダムを作る。そのくらいの能力を有
つておるなら、
孤兒を救助します、と言
つてもまあよかろう。
孤兒の中から
大臣も出る、長者も出る、博士も育つ、大芸術家も現われるにちがいない。その貴い将来を、中学校を出たか出ぬかの失業者が、救済します、とはおこがましい。
たとい偉大な人物であ
つても、
孤兒の前に大威張りで臨む権利はない。なるほど
孤兒はぼろをまとい、あかにまみれ、哀れなざまをしているから、憐れみ、さげすみ、下に見るにふさわしいようであるけれ
ども、この哀れなざまにな
つたのは、大人のルンペンと違
つて、自己の過失によ
つて招いたのではない。あの一発の爆彈が家と
両親を滅ぼすまでは、りつぱな
家庭にあ
つたのだ。おそらく、今の收容所の職員よりも上級の遺伝質を有つ子弟が多かろう。
教授の孫もおるだろう。発明家の子もおるだろう、芸術家の弟もあるだろう。運命の一夜を以て家なき
孤兒と
なつたもの、その本質はいささかも低められてはいない。犬の子とはちがう。」
それからあとがありますが、この文章以外に、
大臣とか実業家とか何とか書いた記事は、この本の中にはいかなるページからも探し求めることができないのであります。これを歪曲して、
一つの雑誌に批評が載
つておつたからと申し、
一つの
新聞にこれらの
著書に対する批評があつたからとい
つて、その
著書を検討せずして、
委員会にその批評そのものをも
つて質問したことが速記に残ることは、本
考査委員会の
審査上
一つの悪い例を残すと私は思うのでありますので、あえてその文章を速記したのであります。しかもそれらの証例を引かれて
質問されるならば、少くとも原本を持
つて来て、何ページにかくのごときことが書いてあるということを基礎として御
質問にならなかつたならば、議事進行の上においてはなはだ支障を来す。しかもこれらの問題は日ごろの不正事件の取調べとは違います。
日本再建に貢献のあつた人々を
表彰するという本
委員会の
審査は、まことに愼重でなければならないのでありまして、しかもその批評された雑誌を基礎とするところの審理、尋問の
方法というものは、私は賛成することができないのであります。これらの問題に対しましては、なお後
日本委員会として適当なる処置をとりたいと思う。一応私はこれだけを申し上げておきます。