○
河野正夫君
只今來馬氏より
大変興味のある(笑声)
服裝の
お話があつたのでありまするが、私はこの
自由討議の
機会に際しまして、
自由討議ということ自体を問題に供して見たいと思うのであります。
先程
來馬氏の
お話にありましたように、
軍國主義時代に
國民服が強制せられたが、その別の
意味において
種々の
理由から新たに
國民服を
制定したら如何かということがございましたが、私はこれに対して反対であります。或る
意味におきまして、経済上或いは
國民の
生活の
個々の点におきまして、二重
生活の
不便その他のおきまして、
國民服というようなものを
制定するということの
理由は分らないことはございません。けれども、そういうような
服裝を
制定するということは、如何なる
理由の下にそれを行うのであるか、
個人個人が自覚的に自然にそういう風習が生じ、そういう
服裝が行われるということであれば、これは論外であります。けれども、そうでなくして、これを或る種の強権的な乃至は
法律的な
措置によりまして
國民服を行わしめるというような観念があるとするならば、これは甚だ当を得ない。やはり
軍國主義時代と同じような一種の
考え方に基いていようかと思うのであります。私は何故、
自由討議のことを論題とするときに、これを申上げたかと申しますと、
戰後幾多の
日本における改革が、恰かも、
軍國主義時代ではないけれども、別な先程來馬さんの仰せられたような
意味かも知れぬけれども、
種々の
理由による一つの新しい
國民服の
制定であります。而も
國民各自の
個々の
事情と
趣味とに合致しない面が多い。ここに幾多の問題が起
つている。こう思うからであります。(「
そり通りだ」と呼ぶ者あり)
自由討議という
國会における
制度も亦その一たるを免れないというのが私の
考え方であります。
國会法又は
参議院規則によりまして
自由討議という
制度が定められております。私はこの
制度の設けられた
趣旨というものを審らかにしておりませんけれども、新らしい議会の
運営におきましては、昔のように三読会、本
会議中心主議というようなことがなくなりまして、
常任委員会本位の
審議になりました
関係上、本
会議における議員の
発言の
機会を多く與えようというところに、この
制度の目的があつたかと伺
つております。成るほど第一回
國会以來、
自由討議に参加せられた
諸君の非常に優れた御討論が、我々拜聽しておる者を啓蒙して下すつたことも事実でありました。併しながら
國会も第五回と回を重ねるに從いまして、各党各派におきましても、この
自由討議の参加
希望者というものが逐次減少して参りました。又只今ここで見られまするように聽者も極めて寥々でありまして、(
拍手)やかましく申しますならば定数を欠くという
実情にな
つておるのであります。各会派共に、議案に対する
賛成反対の意見を述べる
希望者を募るならば、立ちどころに十指も屈して集まるでありましよう。或いは又政府に対する質問ということになりましても、多くの
希望者が出て参るのであります。けれども、
自由討議、極めて自由に論題を選べるところのこの討議が、かくのごとく不評判であるというのは、一体どういうわけでございましようか。私は初めに
自由討議という言葉から、これは自由な討論である、言い換えるならば論題を固定させないで、自由に各自が論ずると言うか、乃至は討論者を予め予定しないで置いて、自由に活溌な議場内における
発言が許される討議であろうかと思
つておりました。ところが事実はこれに反しまして、数名の人々が予め予定せられており、而もそれらの人々が各々異
なつた論題の下に一定の時間演説を続ける、聽者は止むを得ずこれを聽くところの義務を負うというのであります。討議はどこにもないのでありまするし、どこにも自由はないのであります。不自由不討議であると私は信ずるものであります。討議は必ずしも賛否両論に分れる必要はございませんけれども、討議の過程におきましては、少くとも次第にその論点が整理せられ、分析せられ、問題の解決に対して一歩前進するという方向に向けられて行くのでなければ、討議というものの効果はないのであります。こういう討議でありまするならば、聽者も、たとえ
発言する
機会がないといたしましても、そこに何程か討議に参加したところの價値を見出すことができる。然るに甲はAの問題を論じ、乙はBの問題を論じ、以下かくのごとくであ
つて、聽者はこの間にあ
つて、ただ何時間かひたすらに拜聽をするというのであるならば、これは全く討議の價値というものは零であります。
これに比較いたしますると、本院においてすでに経驗済でありまするが、一つの共通の問題を捉えて、何人かの人が何程かの討議を行うというのは、これは
自由討議らしくはな
つて参ります。併しながら、これはすでに本院においても廃止したことが示しまするように、実際におきましては、甲はAならAという点を強調する。そうして反対する。乙はBならBという点を強調して
賛成する。そこに甲が乙を、乙が甲を反駁するというような
機会を與えておらないのでありまして、そういう点におきましては、やはり討議にな
つておりません。これは最初に申上げました只今行な
つている
自由討議の方法と五十歩百歩なのであります。このように効果の挙らない不評判なこの
自由討議は、一体尚存続する價値があるのでありましようか。或いはそういうことについて研究をしたことがあるのでございましようか。或る人々によりますると、成程
自由討議というものは、余り價値はない、けれども、いろいろな
方面の
関係上、形式的には存続することは止むを得ないというような説を聽くのであります。私はこういうような説を聽く度に肌に粟を生ずる思いをするのでございます。誤解しないで頂きたい。我々の置かれておる環境を私は恐れて肌に粟を生ずるというのではありません。むしろ、何事もいたし方がない、止むを得ないというような
考え方で以て、正しいことをも貫かず、不正なることをもそのままに許して置こうというがごときその心的態度、その正しいものに対する勇氣を欠いている、こういう卑怯さというものに対して、大いなる憂憤の情禁ずる能わざるものがあるのであります。(
拍手)若しも
趣旨と理想が正しいのでありますならば、何故熱情を以てその実施の上に
改善工夫を積まれないのでありますか。若しも又それが効果がなく、價値がなく、存続の必要がないということでありますならば、何故堂々と理論を展開し
実情を訴えて、廃止の方向に向
つて進まないのでありますか。無関心に、諦めと、乃至はごまかし、かくのごときが実に
自由討議に対しても見られるところの一つの態度ではないか。而もこれが民主主義の最も恐るべき敵であるところの心的態度でありまして、問題は極めて小さい
自由討議のことでありまするけれども、その中に含まれておるところのものは正に相当深刻な
日本人の心構えの問題に帰着するのではなかろうかと思うのであります。今、
自由討議の
制度を続けるといたしましても、尚いろいろの工夫が可能ではないかと思うのであります。すでに一種のマンネリズムに陷
つておるがごときあの放送討論会の形式を眞似よというのではありません。そうではなくても、例えば一名の討論者、又は問題提起者とでも言うべき者を指名し、その人たちの演説のあとで、多数の者に対して自由な即座の
発言を許す、こういうような
自由討議の仕方もあり得るのであります。又数名の予め予定せられたる
発言者の演説を聽いて、次には第二次にこれらの人々が更に
登壇して、
発言した人々の意見を参考にして第二次の
発言を行う。こういう方法もあり得るのであります。或いは又
議長自身でもよろしければ、討論整理者とでも言うべき者を予め決めて置きまして、第一次の
自由討議が済んだあとで、その問題を分析し、整理し、整頓して、第二次の
発言を求めるという方法も可能なのであります。こういうことによりまして、
発言者も聽者もこの討議に参加して、一つの何らかの方向を決め、打出するということに協力する。ここにこそ本当に
自由討議が活溌に行われるのでなかろうかと思うのであります。問題の選定ということが可なり困難になりまするけれども、これも賢明なる議員
諸君がベストを盡すならば、可なりに適当な問題を見出すことが不可能ではないのではないかと思うのであります。例えば討論が具体的な結論に到達いたしませんでも、このように行われる討論でありまするならば、輿論を刺戟し、或いは更に深い関心と研究心とを喚び起すというようなことがあり得るのでありまして、こういう場合には、討論は一つの目的を達し得たと言い得るだろうと思うのであります。
以上は私の一私案、一つの思い付きに過ぎませんけれども、とにかく我々は
自由討議の
制度そのものに対して十分の努力をしなければならぬということを主張するものであります。若し一切の努力を重ねても効果がないというのでありまするならば、我々は進んでこれが廃止に努力をしなければならぬ。こう私は信ずるものであります。廃止することが正しい道理を持
つておるというのでありまするならば、かくのごとき議会の
自由討議というような
制度は、その影響するところ多
方面に亘るが故に、当然この所期の目的を達することは不可能ではないかと私は信ずるものであります。一体
自由討議をどうしたらよいか。第一回
國会以來、
運営委員会の議にもしばしば上
つておるのでありましよう。併し最近におきましては、この
運営の工夫をなされたということも、又は廃止が問題と
なつたということも、不幸にして聞かないのであります。何故にそうであるか、折角有意義だと信じて作つたところの
制度でありまするならば、その
運営の
改善に最大の努力を拂うべきが当然であります。別段に努力し
改善する價値がないというのでありまするならば、何故断乎として廃止に向
つて進まないのであるか。この廃止にせよ、
改善の工夫にせよ、いずれも院内における我々の力でできることであります。このできることを敢えてせず、現実に眼を蔽うて、ただ徒らに惰性に引摺られて、不精不精に形式を整えることによ
つて一時を糊塗し去ろうとするがごときは、これこそ本当に物事そのことに対する一つの無関心、自分を欺くところの不誠実、乃至は合理的なものを追求せんとするところの熱情の欠如といつたようなことを示すのではなかろうかと思うのであります。このような不徳こそ
日本を戰爭に引摺り込んだところの反民主主義的な精神態度でありまして、これを
國会から眞つ先に切り去
つてしまわなければならない。それだけの忠実さを持たなければならぬということを、私は声を大きくして叫びたいのであります。
時間が参りましたので止めますが、戰後、新憲法下におきまして、幾多の
制度改革が行われましたが、その変革が急であつたがために、乃至は又内的な切実な要求が伴
つていなかつたために、とかく今日において、これらの
制度は血肉化しておらないのであります。さればこそ、その理想を若しも信ずるのであるならば、我々はこれらの諸
制度の血肉化、具体化ということに向
つて全力を傾けるべきであります。然るにそれを形式的な改革に終らせて、無関心と不誠実とを以て一時を糊塗し去らんとする態度は、嚴に戒めなければなりません。
國会が率先してその衝に当
つて、
國会の名誉を回復し、
國民の民主化の先頭に立つべきであると私は信ずるのであります。
諸君の御考慮を煩わしたいと思うのであります。(
拍手)
〔宇都宮登君
発言者指名の
許可を求む〕