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証人(
江口泰助君) 私は十数年
教育の
現場におりまして、実際の面で私の
周りに発生したところのいろいろな事柄から
考えまして、特に具体的に申しますと、いわゆる我々は
教員仲間が卑屈な因循な氣持を持つように
なつた最大の原因は、封建的な
支配制度、封建的な
教育行政制度の中において
教員がそういうふうに歪められてお
つたということは爭えない事実なんであります。私は私の
周りの
現実に幾多のそういうふうな事例を知
つております。その風習その感じは、今
戰爭がすんで、
民主主義だといわれる今でさえ、やはり
教員の心の中には強い
一つの
支配力とな
つて残
つておるわけであります。そういう観点から見たときに、私は希望的な観測で以て、この
法律を是とするわけには行かない点があるわけなんであります。でその点につきまして私申上げます。
今言いましたような現状から申上げまして私は先ず第十
一條を上げて見たいと思うのであります。この十
一條は
免許状を有する者が、
法令の
規定に違反し、そこまではともかくとしまして、「
教育職員たるにふさわしくない
非行があ
つて、その
情状が重いと認められたときは……
免許状を取り上げることができる。」とこうな
つておりますが、それからその次には、現に職にある者については、
懲戒免職の
処分を受け、その
情状が重いと認められるときに取上げる、こうな
つておりますけれども、私はこの点につきましては、非常に異議があるわけなんであります。で私が今申しましたように、視学或いは
教育行政官という者に対して、もつと手近かでいいますと
学校長というような者に対して、
教員がその
自主性を
失つて隷属感を持
つて接しておるときに、今でも現にそれはあるわけなんです、その中で私はこういうふうなその
判断の
しようによ
つてはどうでも取れるような
語句を以て、
法律の中で
規定しておるということがうなずけないのであります。これは
教員の
道徳性に任せて、或いは
監督者の
考えに任せてやるような
一般の
処分とはこれは違うわけであります。
法律の中に明らかに
はつきりと
規定して、而もそれに対しては
免許状を取上げる、
免許状の取上げ
規定ということは、これは
教員の正に致命傷に当るわけなんです。
教員は
免許状を持
つてをればこそ、生存して行くんです。その生存して行くのは
免許状に頼
つておる。その
生存権まで奪うところの
免許状褫奪のその
條件の中に、
如何ようにでも
解釈できるよう
語句を抽象的に入れておるということは、私共
現場に十数年生活して來まして、私の身の
周りにあるところの
現実のいろいろな問題を思い浮べて見たときに、こういうふうな
語句があ
つたがために、一方的な
解釈によ
つて処断された者が
沢山あるわけなんです。で
現実に私は
経驗した点から見て、この点は考慮して頂かなければならない、全然削除すべきであるとは申しませんけれども曖昧な、
判断するところの権限を持
つた人の
判断の
しようによ
つては、どうでも取れるようなところに入れて貰いたくない。今
石山先生のお話にもありましたけれども、これはときの
権力者の
判断、日本が
軍國時代にあ
つたときには、軍閥の
判断によ
つて治安維持法や、
警察犯処罰令が惡用されたわけです。この
現実は、いつ如何なる場合にも惡用される。
教育に自由を與え、自治を與えるというようなことは、教権を確立するということは、
はつきりと誰でも
考えておることでありながら、こういう
法文の中に入れるときには、その点を思い浮べずして、ときの
権力者に自由が蹂躙されるような曖昧な
語句を入れるということは、私はとても納得できません。これは取
つても
差支えないことなんだ。取
つても
差支ないことであるならば、こういうような曖昧なことは私は削除すべきであると
考えております。
それからそれに関連いたしまして、十
二條に、
授與権者が
免許状を有する者に対して
処分を行うときには、
説明書を交付したり、
口頭審査をするようにな
つておりますけれども、これは実におかしな形であると私は
考えております。例えば
教育委員会が私の
免許状を褫奪
しようとするときには、一ケ月前に私に対して
説明書を交附する。その
説明書の作成は
教育委員会が持
つておるわけであります。
教育委員会又はその下にあり
事務局の
人達の
判断によ
つて、私から褫奪
しようというところの
理由書を作るわけなんであります。ところがそれに対して
反証を出した場合、その
反証の判定並びに
説明書、
反証つき混ぜたところの最後的判定を、その
説明書を作るところの
教育委員会、
授與権者に與えておるということは民主的でないと
考えておる。この点につきましては、国家
公務員法によるああいうなうな審査の仕方も
考えられま
しようが、これは事前審査を
規定しておる。この事前審査には賛成します、非常に賛成でありますが、その審査権者を
授與権者にしておるところに、もう少し考慮を要するところがあるはしないかと
考えております。
それからその次に、第十四條に参りまして、
教育職員が第
五條第一項第三号、第四号若しくは第六号、ここまではどうにか、若し第三号、第四号、第六号があるとするならば、そこまではうなずけるわけですが、先刻十
一條について私が述べましたように、十
一條の中に、曖昧な
教職員としてふさわしくない
非行があ
つた場合、こう書いておるわけであります。そのふさわしくない
非行があ
つた場合に、所轄廳が、これを
授與権者に報告しなければならないということ、そうするとこれは
教職員としての
非行の範囲が曖昧であります。その曖昧な判定に基いて、それを一々
授與権者に報告するということは、私は正に
教職員に対する憲兵
制度の
非行であるとしか
考えられない。私はこの立案者のお考の中には、どういう基本的な
考えがあるかも知れませんが、とにかくもう少し一應
教育も人間にならして頂きたい。人間性を失
つたところの、初めから型に嵌
つたところの、いわゆる霞を喰
つて生きておる人間だという印判を、人間性を忘却してそういうふうなタイプを與えるというところに、私は
教育の破壞の悲劇があ
つたわけだと思う。それでそういうふうな基本的な
考えからい
つて、もう少し人間性を
教員にも與えて頂きたい。私々日常に所轄廳に睨まれ、
非行があ
つたならば報告するぞという
法律に
規定された脅迫を以て我々は迫られなければならない。我々もやはり酒を呑みたいわ、酒を呑んで醉ぱら
つて道端に轉が
つてお
つた場合、これは
教員として
非行であるとい
つて判定されて
免許状を剥奪されたのでは、これは
生存権を脅されることになる。そういう曖昧な
語句のことを基にしたこういうことについては、私は賛成できません。
それから所轄廳とありますけれども、この所轄廳というものの
解釈は、どういうようなものであるかということは、所轄廳は、一番初めの第
二條でもたかにありましたけれども、この所轄廳の
解釈が非常に、又幅がある。これは一應市町村の
教育委員会かとも思われますけれども、今御承知の通り、労働組合法の第
二條によ
つて、校長も
教員と同じような組合に入ることができないというようなことが、若し
將來できたとしますならば、正に校長は使用者の利益を代表するところの
行政権の一部を付託されたものになる。そのときに我々の校長までも我々を憲兵的に監視する役目と
なつたならば我々としては安んじて
教育に携
つて行くことはできません。そういうふうなところが残らないような形に、何らかの処置を講じて頂きたい、こう
考えております。
それから最後に
一つ申上げますが、
石山先生もお述べにな
つておられたようでありますが、校長の
免許状は普通
一級免許状を取
つた上に校長
免許を取れば校長
免許状を與えられるわけであります。この校長
免許状には小、中、高の
差別はないわけであります。ところがその校長の
免許状を貰うまでの間の
普通免許状には明らかに
小学校、中
学校、
高等学校の
差別がある。そうしますと
小学校の
教員を二十年間して校長の
免許を取
つた場合に、その校長は免状は
高等学校や中
学校の校長になれるけれども、形においては……。
現実において
小学校の校長にしかなれないというような
現実が生れて來ることは明らかである。そうするというと、校長の
免許状は
理想的には小、中、高を通じておるに拘わらず、
現実にはやはりどうしても今まで
自分が生活していたところの
学校の校長だけにしかなれないというようなことが、私は生ずるのじやないかと
考えているわけであります。そういう点から
考えまして、折角立派な校長の
融通性を設けているのでしたならば、私は
小学校でございますけれども、せめて
小学校、中
学校、或いは中
学校と
高等学校、或いは
小学校と幼稚園というようなところには、
融通つくような
資格を取るような、
大学における学習の
單位制度を技術的に操作できないものであろうかということは、これは非常に立案者は專門的な
立場から
考えてどうしても
單位の
融通をおつけになれなか
つたかと思いますが、もう少しやはり幅をつけて頂く方が、私はいわゆる
從來の
教員の臭味、
小学校、中
学校、
高等学校の
先生のタイプ、師範
学校の
先生のタイプ、臭味というようなものがとれて、幅廣い数養ができるのじやないか、こう
考えております。その点の
融通性を考慮して頂けないものだろうかと思います。
その次に今度は
免許状に関連しまして、
免許状に
一級、二級、仮、臨時とありますけれども、私はこれは
國家が
事務的な都合でとおつしやられていたようでありますけれども、私はこれは
現場にお
つた人から
考えますというと、重大でないということはありません。これは昔は下駄箱までも
先生の俸給順によるところの序列が設けられてお
つたわけであります。そうして生徒は高学年になると下駄箱の序列を見て誰
先生は誰
先生より月給が高い、誰
先生より下だというようなことが
現実にあ
つた。それは観念的に美しい師弟の間の
教育愛を思い浮べて、或いはそういうふうな希望的な観測、希望的な判定で以て割切
つて行
つたならば、そういうことは
考えられないけれども、やはり物心のつくところの高学年とか今の新制中学の生徒になりますと、確かにそれはあります。特にそれを持ち帰
つたときに父兄が、今度來たところの
先生は二級の
先生じやないかというようなことも言いま
しようし、一学級は
一級の
先生が持
つている、二学級は仮
免許の
先生が持
つている、だから家の子供は二学級にはやらない。一学級の
先生に何とかということは
現実にある。その父兄の話が子供に傳わ
つてみた場合に、子供の心理にいかなる影響を及ぼすかということを
考えて頂きたい。これは
現実にある問題であります。それから今は成る程ありませんが、
教員の序列の中には、あの俸級表でも何でも頭から校長から教頭から順をと
つております。それが
教員の中においてさえもそういうふうな感じがあ
つたわけなんです。年取
つた檢定上りの
先生が若い師範
学校出の
先生や
大学出の
先生から見て俸給が安い。而も序列が下に書かれているとこれは非常に不満である。やはり
教員も人間なんですからね。
教員の中でさえそういうような感じは可なりある。今ではそういうようなことはさつぱり取除かれております。大分取除かれているだろうと思う。私がタツチする限りは俸給順とか序列順というものは
小学校では
考えておりません。これは学年担当順は
考えられております。そういうようなことは私は非常にいい傾向だと思います。これは旧來の弊を
教員自身が察知しまして、感じまして、一切そういう弊を取除いて、今では私
自身でそういう
差別をつけないように、つとめて努力しているわけであります。そういう点から先刻もお話が出ておりました
將來の
職階制ということから
考えて、果して
教員に
職階制が妥当であるかどうか、この点はまだ未解決の問題で、恐らく文部省当局のお方でも
教員に如何なる形で
職階制を設けるべきかということは、相手が生きた人間を取扱うところの
教育者に対するそういうような段階制というものは、非常にこれを苦慮されていると思う。そういう点から
考えても私は今早急に
一級、二級、仮というような段階を設けるということには肯けないものがある。けれども
大学一年卒業した者、二年卒業した者、或いは檢定の者を段階を追
つて與えて行かなければならんとおつしやるならばそれは何とか他に
方法がある。私は
將來そういうような
大学一年、二年でもいいというような
一つの抜け道を講じておくことはこれを切換えをする施行法の場合だ
つたら肯けるかも知れませんが、この根本法の、本則法に頭からそういう
一つの抜け道を、「たが」を緩めておいて
規定しておくということが私はどうしても納得が行きません。だから何とか移行措置とか或いは施行規則の上ではそういう途はあるとしても、
將來立派な
教員養成制度の上から養成されたるところの
教員だけは普通一本で大きく打出して、
教員の素質の
向上と、どうしてもぎりぎりここまで行かなければ
教育はさせないというようなところまで持
つて行
つて頂けないだろうかということを
考えております。以上わざわざ申すに当らないことを申上げましたが、それだけ申上げたおきます。