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1949-05-12 第5回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第24号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十四年五月十二日(木曜日)    午前十一時二十三分開会   —————————————   本日の会議に付した事件人民裁判に関する件  (右件に関し証人証言あり)   —————————————
  2. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今から昨日に引続き委員会を開会いたします。本日はいわゆる人民裁判審議を続行するわけでありますが、本委員会がこの審議をいたすことになりました目的は、世界の歴史には戰爭の終了と共に、人民裁判に、類似したものがあつたことは散見するのでありますが、ナホトカにおけるいわゆる人民裁判のごときは、未だその例を見ないものでありまして、かかる措置がなんらの調査も行われず不問に付されるならば、かかる行為は合法的措置として將來に残ることになるわけであります。内地にあつて終戰と同時に、旧軍隊所有物が最も不公平に荒され、これに対して隠匿物養摘発委員会が構成され、嚴密にその不当の処置に対して批判が加えられたのであります。引揚問題処置に当つております当委員会は、当然未だ四千七万の同胞を海外に残しておる現在において、留守家族等の身に思いを馳せ、その眞相を究明し、旧軍隊における階級による帰還遅延の責任を判明せしめ、通称吉村隊、或いは英彦丸暴行事件等を未然に防止すると共に、その妥当なるかを究明し、以て本年度帰還完了を実現するために連合軍の理解に縋り、証人証言に基き委員会は更に愼重に審議し、收容所状態残留者の状況を把握して、今後の輸送又給與等に対する立法処置参考資料にもなし必要に應じて措置すべき点は緊急に措置を講ずるため証人の出席を要請した次第であります。では只今から証人宣誓をお願いいたします。先ず小針証人、次に津村証人、四國証人の順序でお願いいたします。皆さん起立を願います。    〔総員起立証人は次のように宣誓行つた〕    宣 誓 書  良心從つて眞実を述べ、何事もかくさず、又何事もつけ加えないことを誓います。         証人 小針延次郎    宣 誓 書  良心從つて眞実を述べ、何事もかくさず、玉何事もつけ加えないことを誓います。         証人 津村 謙二    宣 誓 書  良心從つて眞実を述べ、何事もかくさず、又何事もつけ加えないことを誓います。         証人 四國 五郎
  3. 岡元義人

    理事岡元義人君) 御著席願います。    〔総員著席〕
  4. 岡元義人

    理事岡元義人君) 証人の方に一應御注意申上げておきたいと思いますが、虚僞証言があつた場合は議院における証人宣誓及び証言等に関する法律第六條によりまして三月以上十年以下の懲役に処することになつておりますから御注意をお願いいたします。尚議院における証人宣誓及び証言等に関する法律第四條によりまして、民事訴訟法第二百八十條但し第三号の場合を除く。及び第二百八十一條但し第一項第一号及び第三号の場合を除く。の規定に該当する場合に限り、宣誓又は証言若しくは書類の提出を拒むことができます。第二百八十條は「證言カ證人又ハ左ニ掲ル者刊事上ノ訴追又ハ處罰招ク虞アル事項ニ關スルトキハ證人ハ證言拒ムコトヲ得證言カ此等ノ者ノ恥辱ニ歸スヘキ事項ニ關スルトキ亦同シ 一 證人配偶者、四親等内ノ血族若ハ三親等内ノ姻族又ハ證人ノ家ノ戸主但シ親族ニ付テハ親族關係カ止ミタル後亦同シ 二 證人ノ後見人又ハ證人ノ後見ヲ受クル者 三 「証人カ主人トシテ仕フル者」第二百八十一條の場合は、 一 第二百七十二條乃至第二百七十四條ノ場合 二 醫師、齒科醫師、藥剤師、藥種商、産婆、辯護士、辯理士、辯護人、公證人、宗教又ハ祷祀ノ職ニル者ハ此等職ニリタル者カ職務知リタル事實ニシテ默祕スヘキモノニ付訊問受クルトキ」  以上であります。  尚本日は公聽会とは違いますので、各委員よりの質問に対しましては主観を交えないで事実ありのままに率直に本旨を逸脱することなきよう証言いたすようにお願いします。
  5. 千田正

    千田正君 只今法律に附加えまして私は質問したいと思います。今朝のいわゆる僞証罪に関するところに法律が誤り得えられておる点があるのでありまして、國会法規定されたところの僞証罪の告発の法律についてはつきり読んで頂きたいと思います。
  6. 岡元義人

    理事岡元義人君) 先程申述べました議院における証人宣誓及び証言等に関する法律の第八條に、「各議院若しくは委員会又は両議院合同審査会証人が前二條の罪」……。前二條は第六條、第七條に記載してありますが、証人に読上げます。第六條「この法律により宣誓した証人虚僞の陳述をしたときは三月以上十年以下の懲役に処する。  前項の罪を犯した者が当該議院若しくは委員会又は両議院合同審査会審査又は調査の終る行であつて、且つ犯罪の発覚する前に自白したときは、その刑を減軽又は免除することができる。」第七條  「正当の理由がなくて、証人が出頭せず、若しくは要求された書類を提出しないとき又は出頭した証人宣誓若しくは証言を拒むだときは、一年以下の禁錮又は一万円以下の罰金に処する。前項の罪を犯した者には情状により禁錮及び罰金を併科することができる。」そうして第八條に「各議院若しくは委員会又は両議院合同審査会は、証人が前二條の副を犯したものを認めたときは、告発しなければならない。但し、虚僞証言をした者が当該議院若しくは委員会又は合同審査会審査又は調査の終る前であつて、且つ犯罪の発覚する前に自白したときは、当該議院は告発しないことを議決することができる。合同審査会における事件は両議院の議決を要する」 以上となつております。  同証人の方に申上げて置きますが、本委員会の運営上、発言委員長の指名があつてから必ず発言をされるように前以て御注意申上げて置きます。この際お諮りいたしますが、昨日の質問がまだ残つておりますので、出席されております証人の中から小針証人津村証人、四國証人松澤証人を、一應控室に退席を願うことに御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  7. 細川嘉六

    細川嘉六君 退席させないでそのまま置いて証言をされるように……
  8. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 只今細川委員の言われたように、そういうふうに御処置あらんことを要望します。
  9. 岡元義人

    理事岡元義人君) では只今細川委員発言につきまして、淺岡委員から動議発言がありましたので、そういうように処置いたします。
  10. 天田勝正

    天田勝正君 先き委員長が諮られたことに異議なしという声もあるんです、そこで改めてここに一つの提議がなされたんでありまして、これはお諮りになつてから決定されなければいけないと思います。
  11. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今委員長の申上げましたことを一應取消します。細川委員発言に対しまして、淺岡委員から更に賛成の御発言がございました、これを取上げることに御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  12. 岡元義人

    理事岡元義人君) ではお諮りいたします。
  13. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 大分時間を経ちましたし、それから先の打合会では、一應昨の経過を先にやつて残りをやるということでありましたが、もうすでに午前中は僅かな時間でありますから、この際残つて貰つて、そして昨日の残りも、本日も一緒議事を進行して頂く方が進捗いたすのではないかということを考えるのでありまするから、先程細川委員動議のようにこれを決定されることを賛成いたす次第であります。    〔「請成」と呼ぶ者あり〕
  14. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今草葉委員から賛成の御意見がございましたが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  15. 岡元義人

    理事岡元義人君) ではさようにいたします。
  16. 細川嘉六

    細川嘉六君 私は細川証人に対しまして質問したいのであります。五つあります、それを一問一答でやつてよろしうございますか。
  17. 岡元義人

    理事岡元義人君) 予め各委員にできますならば連続質問の場合は五分間程度でお願いしたいと思うのです。如何ですか。これもお諮りしたいと思うのですが、
  18. 天田勝正

    天田勝正君 ちよつと細川委員発言最中に申訳ありませんが、昨日私共は何一つ聞いておりません、今日になりまして、又再び五分間という制限を受けますると、到底その意を盡すことができません、私は昨日の残り証人に対しましても、おのおの五問宛の質問を持つております。そういうことからいたしまして到底五分という制限には承服しがたいことをこの際申上げて置きます。
  19. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 時間の制限はなさらんようにして、成るべく各自委員が自粛的に質問をするようにして簡且つ核心に触れる問題を各自の自粛によつてやるということでお進めを願いたいと思います。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  20. 岡元義人

    理事岡元義人君) では了承いたしました。細川
  21. 細川嘉六

    細川嘉六君 先日細川証人上申書司令部に出したと言われたが、その下申書内容を承われたいと思います。簡單でいいです。
  22. 細川龍法

    証人細川龍法君) お答えいたします。昨日ながながと御説明申上げておりますが、先ず第一に反動ということをどういう尺度によりまして、誰が決定して、そうして思想が違つたら残すという権限をロシアで持つておるかどうか、そうして日本人がそれを行使しておるか、日本人にその権限を與えておるかどうか、こういう質問を第一條項に書きました、次は民主グループ連中らはすでに御承知かも知れません。お聞きになつておるだろうと思いますが、一般の還つて來部隊と、ナホトカ民主グループの食べ物というものはおのずから違つた立場で調理されておりまして、そうして還つて來部隊にその食事の分配を見られては困るからというので、別に蓋付き食罐を準備いたしまして、それによつて持ち運んだ事実がございます。こういうようなことが民主グループなるが故に給與が別にされるということが、これへ捕虜規定規定されておるかどうか、こういうことが第二問です。  次にはここで思想教育をやつておることが、果してここだけの教育であるのか、それとも日本帰還後においてこの運動を延長するものとすれば、凡そ無意味でなかろうか、なぜならば昨日も各証人から証言がありましたように、実に陰惨極まる実態でありまして、かような見地からあそこに來まして、ああいう喚びかけをされたことによつて、我が同志になりますということがいわゆる疑裝民主でありまして、還るための手段として、仮面で面通りするものである。これが逆に上陸した場合に敵を構成することではなかろうか。これによつてソ軍側國民思想教育なり、民主運動というものが正しい行き方であるかどうかということについて私が質問申上げました。大要点は以上であります。
  23. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 ちよつと議事進行について……、細川委員発言中でございますが、時間の制限を止めて頂く代りに、重復した質問はこの際ダブりますから、今のような質問は昨日すでに出ておりますから、この点各委員で自粛すると同時に、委員長からもさようお取計らいを願いたいと思います。
  24. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今草葉委員から御発言がありましたが、昨日一應終りました質問は重復しないように各員において御注意を願いたいと思います。
  25. 細川嘉六

    細川嘉六君 それは承知しております。このことは重要だと考えたので更に質問したわけであります。それからこの上申書司令部へ出されたというが誰に出されたか、あなたもそこには長くおられたのだから、誰に出されたかを覚えておられるでしよう。
  26. 細川龍法

    細川龍法証人 この問題につきましては、今委員の方もお話がありましたが、昨日申上げてあります。名前が分らないがソ軍大尉に直接私が司令部に参りまして、大尉に手交いたしました。
  27. 細川嘉六

    細川嘉六君 名前が分らないというのが不思議なんです。あなたは長くあそこにおられたのだから、それはよろしい、その次には三千人余りの者が、奥地に送り帰されたとか、それから又二百人ですか、くらいのものは民主グループ動きによつて残されたとか送られたとか言われておるが、先ず三千人の人達が送り還されたということは何によつて分るのですか、何によつてあなたは証言なさいますか。
  28. 細川龍法

    細川龍法証人 御承知のように長い期間、私はおりましたので、ナホトカへ來る部隊一般に帰國するために來た部隊と判定いたします。それが、あの船に乘るのだと言つて船を見ながら逆送されて行く姿を目のあたり見て來ました。それにつきましては昨日も証言しておきましたが、ソ軍側から必要によつて何百名かを、健康者だけを、診断の結果作業隊に編成するという事実がありました。それと或いは民主運動が徹底しないという廉によつて返送されたということを聞いても参りました。
  29. 細川嘉六

    細川嘉六君 そこで民主運動が徹底しないからということを聞かれたというが、それは誰から聞かれたのですか。あなたの考えですか。
  30. 細川龍法

    細川龍法証人 一々名前を覚えておりませんが、その証言につきまして、確たる資料等によりまして御説明申上げてもいいと思います。
  31. 細川嘉六

    細川嘉六君 いや資料はよろしいですが、沢山いるのですから、どういう人達からそういうことを聞かれたか、名前ぐらい分るでしよう。
  32. 細川龍法

    細川龍法証人 分りません。
  33. 細川嘉六

    細川嘉六君 分らん、そうすると大体あなたの推察だとみていいのですね。
  34. 細川龍法

    細川龍法証人 違います。
  35. 細川嘉六

    細川嘉六君 誰かいるでしよう。
  36. 細川龍法

    細川龍法証人 それは全然分らない。部隊が到着いたしまして、そうしてどうして行くのだと言えば、いや、我々のところは実は民主運動をやつていなかつたのだ、そのために我々が帰されるのだそうだ、ということを不用意に洩らして逆送されて行く部隊が相当ありました。
  37. 細川嘉六

    細川嘉六君 それは二百人の人達民主グループ運動のために残されたという推察なんですが、その根拠はどこにあるのですか。
  38. 細川龍法

    細川龍法証人 その根拠は大体二百名とうのは概算でございまして、分つております人名を必要とあれば御報告いたします。
  39. 細川嘉六

    細川嘉六君 人名よりも、民主グループ動きによつて、それが留められたとか、送り返されたとかいうことができたということをどうして証言なさるかということです。
  40. 細川龍法

    細川龍法証人 それは、かのナホトカの地におきまして、あれは反動だというような反動呼ばわりをされて、お互いが苦しんでおりましたので、その事実は反動なるが故に残されたという事実はれつきとしております。
  41. 細川嘉六

    細川嘉六君 併し二百名の人達が送り返されるには、ソ連側がどういうことを言うたとか或いは民主グループがどういうことを主張したということがなければならないでしよう。それについて御存じですか。又あなたの推察ですか。
  42. 細川龍法

    細川龍法証人 一例を申しまいと、昨日申上げました森脇竹市及び河野繁美、こういつた人達がいい対象になると思います。こんな人達が昨日も申上げましたように入墨をした、こういうのは反動だ、これがために我々は残したのだ、帰さないと言う。こういう結論から我々と一緒にスーチャン地区に返送をされた実例がございます。
  43. 細川嘉六

    細川嘉六君 まあそういうようなあなたの身辺の一、二の例によつて二百人の人が民主グループのために送り返されたということをお考えになつたわけですね。
  44. 細川龍法

    細川龍法証人 そうです。
  45. 細川嘉六

    細川嘉六君 そうすると大量ですからね、一番確かなのは民主グループがどういう場合にどうした、どういうことを言つてソ連側に交渉した、或いはそれに対してソ連側はどういうことを言つた、どう取上げたかということがあるというと、その全体多量な人達の取扱いがはつきりすると思うのですが……
  46. 細川龍法

    細川龍法証人 それは私が、御承知のように反動として残されておりますので、民主グループ人達ソ連側とどういうような交渉をしているかということは、到底私はその点については知り得ることができないのであります。    〔理事岡元義人退席理事草葉隆圓委員長席に著く〕 同時に昨日も申上げましたが、北海道の鬼島管理部長以下十二名の者が、一行最後まで踏止まつておりたいと出発前日まで言つてつたにも拘わらず、津村達動きによりまして突如として帰された実例がございます。かような意味からしまして、ナホトカ民主グループの権力というものが、それだけ認められていたということは何人も否定できないと思うのであります。
  47. 細川嘉六

    細川嘉六君 この点はこれだけにして置きましよう。  あなたは岩手日報で、反共連盟ナホトカで組織しておつたということを言われたということが報道されておりますが、その反共連盟内容は何であるか、それに参加した人達はどんな人達であるか、お答えを願いたい。
  48. 細川龍法

    細川龍法証人 お答えいたします。これは新聞社の誤報でありまして、反共連盟を組織したのではありません。実は昨日申上げましたように、私が管理部から品田忠之君と二人轉属を命ぜられますときに、新聞社特派員であります宗像肇吉良金之助、それに通訳一名がおりました部屋に呼びつけられたのでございます。そうして中隊將校中心とした反動中隊である、お前達は反動中隊であるという宣言を受けて、我々は轉属を命ぜられたのであります。その後我々が六月九日の乘船を間際にして私だけが一名削られまして、品田忠之君だけが帰つて参りました。そうして、昨日私が申上げましたように、勤務隊という名前の、將校中心とした勤務隊が、人事係及び中隊長その他が六月九日の船で帰つて参りまして、人事その他のものが全然ごつた返しをしているというので、そこで我々は自主的なものを作ろう、最後ナホトカの地におきまして日本人としての有終の美を飾ろう、そういう自主行な会であります。
  49. 細川嘉六

    細川嘉六君 それではお聽きしますが、日本人である、日本人としての有終の美を上げようということは、具体的に言えばどういうことですか。
  50. 細川龍法

    細川龍法証人 それは私の主観かも分りませんが、何も第三者から干渉されて、思想教育その他において干渉される何ものもあり得ない。私は、民主グループ人達も、日本新聞社人達も、お互い日本人同士じやないか、こういう見地から、強制されて、疲労困憊して骨と皮だけの俘虜生活をして、精神的にもぼけかかつているお互いが、思想が違うからと言つてなぜ無理強いに思想を押しつけられるかということについて、義憤を感じたのであります。
  51. 細川嘉六

    細川嘉六君 それでは民主グループの者があなたのような人達を圧迫したということは、具体的にはどういうことですか。
  52. 細川龍法

    細川龍法証人 圧迫した具体的なこと……
  53. 細川嘉六

    細川嘉六君 具体的にはつきりしないと……
  54. 草葉隆圓

    理事草葉隆圓君) 細川委員、成るべく要点を時間を短かくしてお聽きになるようにお願い申上げたいと思います。
  55. 細川嘉六

    細川嘉六君 これは重要なことでありますからお聽きします。具体的に言つてどんなことをしたか、どういうことをされたか。
  56. 細川龍法

    細川龍法証人 民主グループ連中らは專門にそういつた思想教育を重点的にやつている。反動と目される連中らに対しては、極く詰まらないような仕事を持出して來る。或いは無理な作業を要求して來る、或いは今日これだけの作業人員を要求されたときに、患者がこれだけあるので、これに應じ得ない、こういうことを言えば、その民主規律が徹底していないために、不用意に患者を出している、こういうようなことを暴言を以て強要された場合もございます。
  57. 細川嘉六

    細川嘉六君 思想的に圧迫するというのは、その場合の民主グループの持出した要求というものは、具体的に言えばどういうことですか。
  58. 細川龍法

    細川龍法証人 それは昨日も各証言もありましたように、先ず天皇性批判から、窮極の目的としては、我々は赤旗の下に結集し、日本共産党を前衞として鬪わなければならない、これをモットーとして教育しておつたのであります。
  59. 細川嘉六

    細川嘉六君 それは日常に、非常に大きなことを蔽いかぶされたように言われるが、実際の生活においてどういうことを要求しておつたか。
  60. 細川龍法

    細川龍法証人 実際の生活におきましては、先ず天皇性批判解剖、それから今度の終戰までの経過天皇性及び軍財閥のあり方、そして結論として唯物史観に基く共産党こそは人類の永遠の、究極の目的共産主義に移行されるものである。こういう結論から「歩前進して、ここで我々の思想に共鳴して貰いたいと……
  61. 細川嘉六

    細川嘉六君 分りました。それをあなた方はいやだと言つても無理矢理に引張り出してやらせたというわけですね。
  62. 細川龍法

    細川龍法証人 そうです。
  63. 細川嘉六

    細川嘉六君 それから一、二点……、あなたがさつきの証言でも、民主グループの者は肥つておる、そしてあたりの者は痩せておる。民主グループの者は特別食を食べておると言われたが、それは事実ですか。
  64. 細川龍法

    細川龍法証人 事実であります。
  65. 細川嘉六

    細川嘉六君 皆肥つて栄養物を自由に食べておつたというわけですね。
  66. 細川龍法

    細川龍法証人 肥つておるとか痩せておるとかいうことは、これは体質もあると思いますが、大体において給與別食を食べておりました。
  67. 細川嘉六

    細川嘉六君 それでよろしい。その次は昨日もお話になつたが、婦人連中は食糧を自分の部屋に沢山持つてつて、隱匿しておつたということを言われたが、それは事実ですか。
  68. 細川龍法

    細川龍法証人 事実であります。
  69. 細川嘉六

    細川嘉六君 あなたは長くおられたから、婦人人達に限つて自炊してよろしいと、許しを受けてやつておるということを御存じないですか。
  70. 細川龍法

    細川龍法証人 その内容を聞きました。
  71. 細川嘉六

    細川嘉六君 それは許しを受けて、いろいろの配給品貰つて、そこで自炊しておつたということになると、隱匿物資にならないでしよう。
  72. 細川龍法

    細川龍法証人 自炊しておつた実例は見ません。
  73. 細川嘉六

    細川嘉六君 自炊を許されておつたということをあなたは御存じありませんか。
  74. 細川龍法

    細川龍法証人 いや、聞きました。
  75. 細川嘉六

    細川嘉六君 聞いた……
  76. 細川龍法

    細川龍法証人 聞きましたが、日に三度という持運び民主グループの男の人達が運んで食べさせておりました。
  77. 草葉隆圓

    理事草葉隆圓君) 細川委員に申上げますが、先の五分も過ぎたようですが……
  78. 細川嘉六

    細川嘉六君 もう一つ……、津村証人を告発するとあなたは言つておられるそうだが、告発する事由ですね、それを簡單挙げて下さい。それで終ります。
  79. 細川龍法

    細川龍法証人 私は法律家でありませんので、刑法に該当するかどうか分りませんが……
  80. 細川嘉六

    細川嘉六君 それは構いません。あなたの思うままで簡潔に……
  81. 細川龍法

    細川龍法証人 私の調べましたところによりますると、私法の監禁したか、そういうような処分が見受けられるのでありまするが、こういうようなことが実証によつて外地であつた場合に、この問題が構成されるかどうかという問題と、それから昨日申上げました千田豊紀少佐などの人民裁判などにおける実相などからいつても、完全に名誉毀損であるというような実証挙げられると思います。かような見地から実例を以ちまして、法的に根拠ある分部だけを取調べまして、以上のように……
  82. 細川嘉六

    細川嘉六君 それを例を断げて要項を第一、第二、第三と何かあるのですか。ただ名誉毀損ということだけですか。
  83. 細川龍法

    細川龍法証人 今申上げる何ものもありません。
  84. 細川嘉六

    細川嘉六君 それでよろしい。それで終ります。
  85. 天田勝正

    天田勝正君 委員長並びに委員諸君に御了承願いたいのでありますが、私は本日本会議におきまして、本委員会請願陳情の報告をいたすことになつております。それは昨日の日程に出ておりましたのが今日に持越されておるのであります。そういう関係からいたしまして、いつ呼びに來るか分りませんので、それで誠に申訳ありませんが、一問一答式で細川証人増渕証人阿部証人中村証人、以上四君に対して続いて質問いたしたいと存じます。項目は簡潔に申上げますが、証人の方におきましても簡潔にお答え頂ければ幸いだと思います。  では先ず阿部証人に伺います。第一に啓蒙教育の問題でありますが、この啓蒙教育強制されたという例がありましたらお挙げを願いたいと存じます。
  86. 阿部齋

    証人阿部齊君) お答えいたします。強制された例がございます。
  87. 天田勝正

    天田勝正君 誰に……
  88. 阿部齋

    阿部証人 初期においてはソ軍政治部將校の方に強制されました。その初期と申しまするのは、大体私が朝鮮におりました当時でありまして、昭和二十一年の秋頃であります。尚一番熾烈に受けたのは昭和二十二年一月六日から三月の二十二日までに、その間私は病院の庶務課長をしておりました。この当時において最も熾烈にこれを強制されました。これがソ軍將校からの強制状態。二といたしましてはナホトカにおける教育強制、これについて申上げます。先ず起床から赤旗を歌い、晝食つて又歌練習。夕食後は批判会。そうしてこれを研究しましたか、しませんかというようなことを言われた例があります。これは医務室民主グループがそういうような態度を以て我々に臨んで参つたのであります。
  89. 天田勝正

    天田勝正君 あなたは桑原某なる者を御存じでありますか。
  90. 阿部齋

    阿部証人 知つております。
  91. 天田勝正

    天田勝正君 その方が強制したという事実はございませんか。
  92. 阿部齋

    阿部証人 あります。
  93. 天田勝正

    天田勝正君 それは、強制とはそれを守らないことによつと何か処罰される、或いは処罰に準じて不利な取扱を受ける。こういうことが強制であろうと存じますが、今強制であるとおつしやつたのは、さようなことを守らなければ不利な取扱を受けましたか。
  94. 阿部齋

    阿部証人 その点に対しまして申上げます。桑原氏と自分と一緒になりましたのは昭和二十二年一月六日だと思いますが、興南の朝鮮における最終集結において一緒になりました。この地におきまして桑原氏が、これだけの人員を非教育者として名簿を出せというのを持つて参りました。その中に看護婦が入つてつたのであります。我々といたしまして看護婦の保護のためには相当苦しい思いをやつて來たわけであります。今又ここにおいて看護婦をそういう席上に出し、万一これに影響を及してはという懸念から看護婦の知識、徳操がそこまで上達していないという表面上の理由を以てこれを拒否しました。然るに、ソ側の命令であるということを楯に、又こうしなければ延いてはあなた方が帰れないのだというふうに言つて來まして、極力これを出すように言つて來ました。最後とどのつまりにおいて万一ということを固守いたしまして、絶対出さんというので三日間程これを固守いたしました。最後の手段としては名前だけを書いて、只今看護婦は忙しくて行かれないという形を以てそれを逃げていた次第であります。
  95. 天田勝正

    天田勝正君 質問の第二点は、この民主グループの方々が舞鶴上陸に際しまして、その幹部であつたということの発覚を恐れた、こういうことも言われておるのでありますが、その恐れた事実を御存じでございますかどうか。
  96. 阿部齋

    阿部証人 今はつきりした記憶を持つておりません。
  97. 天田勝正

    天田勝正君 では質問の第三。同様にこのアクティヴの人達が隠れて上陸されたという実例御存じでございまとたらお挙げ願いたいと存じます。
  98. 阿部齋

    阿部証人 その例は、隠れて上陸は、向うからいたしますと、隠れて乘船の形になると思いますが、よろしうございますか。
  99. 天田勝正

    天田勝正君 よろしうございます。
  100. 阿部齋

    阿部証人 隠れて乘船はあります。これはナホトカの五十三收容所に桑原と共に思想運動をやつておりましたのに加藤と申す方がございます。この方がナホトカにおきまして五十三收容所民主運動の指導者として盛んにやつておりましたが、急に命令を貰つてハバロフスクに轉居するからと、この言つてナホトカの五十三收容所を出ましたが、間もなくそれが五十三收容所からハバロフスクの方に行つたのでなく、帰國したのだということが分りました。又桑原の帰國も部隊と共に行動しておりません。要するに大きな部隊として動いておりません。一人二人というふうな形でくぐつてつております。又堀という、これは五十三收容所の第一大隊の指導員をしておるのと五十三隊の青行隊をしておる方、今この方の名前は忘れましたが、この二人が、ナホトカの医務室で勤務しておりますときに、私の側に参りまして、先生お陰様が実は今度帰れるようになりました、そう言つてつた二人きりだけ帰つて行きました。これなども部隊と別に分れて乘船した組だと思います。
  101. 天田勝正

    天田勝正君 質問の第四、日本人アクチブが行いまする教育、講演会、座談会、討論会、この指導監督をソ連政治部員が担当した、このような事実がありますかどうか。
  102. 阿部齋

    阿部証人 これには政治部員が指導監督しております。
  103. 天田勝正

    天田勝正君 質問の第五、民主運動者が特に優遇された。この点についてはお聞きの通り先程細川証人も食事の点でおつしやつております。この食事以外の点で優遇されたという事実がありましたらお挙げを願いたいと思います。
  104. 阿部齋

    阿部証人 先ず向うではペスカンボイと申しますが、自由に営門を通過し得ます。尚これはナホトカの例ではありませんが、スーチャンにおいては明らかに俸給を貰つておる、営内勤務者として確か百ルーブルであつたと思います。
  105. 天田勝正

    天田勝正君 そうするとこうした俸給を貰うということは收容者でなくして、逆に要するに向うの役人としての待遇を受けておつたと、こういうふうに考えてよろしいですか。
  106. 阿部齋

    阿部証人 そこのところは直ちにそう言えるかどうかということは私には分りません。ただいわゆる報酬としては確かに貰つてつたということだけに申上げます。
  107. 天田勝正

    天田勝正君 最後はあなたは昨日の証言で青行隊の発会式云々と、こう申されておりますが、この青行隊に入る基準、思想の点は勿論でありましようが、年齢とか、その他そうした制限がありますか、又あなたの收容所において発会式と言いますから、恐らく数名以上あつたと思うのですが、何人ぐらいそれに該当する人がおりましたか。
  108. 阿部齋

    阿部証人 この青行隊の基準に、私は申上げましたのに少し補足を加えなければならんことがあるのでございます。それは医務室の青行隊と、医務室を入れて頂きたい。必然的にナホトカの第一分所における青行隊とは違いまして、医務室の青行隊であります。年齢は三十歳以下と、こうして青行隊の発会式をやつたと覚えております。
  109. 天田勝正

    天田勝正君 何人ぐらいおりましたか。
  110. 阿部齋

    阿部証人 十八、九名であります。
  111. 天田勝正

    天田勝正君 それからこれは極く簡單なことですが、第四收容所、これは普通今まで各証人お話になりましたのは第一、第二、第三とこう段階を踏みまして第三收容所から帰つて來る。事実は第四收容所がある。この第四收容所というのは第一收容所と同じような役割で、この第四收容所を出て今度第二、第三と、こういうふうに行くというふうに理解していいですか。
  112. 阿部齋

    阿部証人 それで宜しいと思います。ただこの第四收容所は、初期におきましては、私達が参りました当時においては白系露人の引揚所でありました。白系露人の引揚がなくなりましてから、それが第一收容所と同じような役割をしておりました。
  113. 天田勝正

    天田勝正君 阿部証人は結構でございます。次は増渕証人に伺います。まず質問の第一点は、生産闘爭、この中には突撃隊とかいろいろあろうと思います。青行隊、ナホトカにおいての青行隊は別でありますけれども、他の收容所ではこの青行隊が率先してこの生産闘爭をやつた、こういうような例もあろうかと存じますので、これらを含めて生産闘爭の実例についてあなたが目で見られた点はどういう例があつたか、その点を伺います。
  114. 増渕俊一

    証人(増渕俊一君) お答えいたします。昨日も申上げましたように、直接積極的な労働もやつて参りませんので詳しい内容は申上げられませんが、自分の知つておる範囲内で申上げますと、二十一年の秋頃にいわゆる突撃隊、ウダルニツキ運動というものが日本新聞社一派から指令されたようであります。これがいわゆる生産意欲の昂揚ということに対する呼びかけの第一歩であつたと思います。そのスローガンは、天皇制の打倒、ソ連の積極的富の増大、民族民主戰線の結成、この三つでありまして、これに協力する者は加入せよ。そうして一般の俘虜よりも約六割方多い食糧を給與します。ノルマは大体一般の要員よりも四五割程度突破するというような條件でこれを結成して参りました。自分の当時おりましたマルシャンスクの元將校收容所におきましても、海和という元満州國軍の中校であつた人がこれを組織いたしまして突撃隊ができ、又その後約半年を経まして荻原少佐の組織する突撃隊ができました。これは当時明瞭に帰國の際には優先的に名簿を出すということをアンチフアシスト・スタルシーと默約があつたのであります。これは隊員がはつきりとそう申しております。そうして猛烈にノルマを上げました。一般の俘虜将校はできるだけ体を休めて健全な姿を父母兄弟に見せたい、とにかく生きて帰ればいいのだという考えが強かつたのでありますが、こういう突撃隊を組織した方々、この中には相当老齢の佐官階級の人もおられましたが、先に帰れるということ、それから腹がへつてかなわないから、兎に角うんと食わして貰いたいということ、それから手当もできれば多く貰いたいというようなことで、大分これに入つて行きました。このため非常に一般が苦しみました。というのは自分もその体験者の一人であります。凡そ百坪程のドーマの中に突撃隊と、そうでない一般の者とが居住しておりましたけれども、朝、晝、晩一方では飯盒にあり余る程の飯に近い粥を食べる。そういうときに、一方は飯盒に三分の一くらいのスープしかとれない。これは事実であります。同じ同胞でありながら、どうしてああいうことができるか、我我は帰つたらもうあいつらと絶交だというような感情を皆持つておりました。といいますのは、突撃隊に與られる糧秣というものは、必ず一般他の俘虜の上前をはねておつたのであります。特別に來ておらんのであります。これは当時の経理を担当しておつた者をお呼びになればよく分るのであります。まあ突撃隊につきましてはそういうふうであります。
  115. 天田勝正

    天田勝正君 分りました。質問の第二、あなたはホルモリン地区から引揚げて参りまして、十月二十三日より信陽丸に乘りました丸山政治、野見山雄治、石垣鑄見、志賀芳夫、椎野計重、酒井俊雄、藪中信、これらの人達を知つておられますかどうか。
  116. 増渕俊一

    増渕証人 知つております。
  117. 天田勝正

    天田勝正君 それではこれらの人達が舞鶴上陸に際しまして、いわゆる過去の民主グループの覇絆と申しまするか、そういうことを清算したという事実を御存じでありますか。
  118. 増渕俊一

    増渕証人 知つております。
  119. 天田勝正

    天田勝正君 質問の第三、あなたはマルシャンスクにおられまして、先程の証言の中に、反フアシスト委員会の点にも触れましたが、この結成は先程証言された生産闘爭と結びついての結成でありますか、又阿部証人が言われました政治教育の指導によつて、できたのでありますか。その構成がどういうことになつてつたか、お知らせ願いたいと思います。
  120. 増渕俊一

    増渕証人 反フアシスト委員会の結成につきまして、自分はこれを二度体験いたしました。最初は昭和二十一年のやはり中頃だつたと思います。それからもう一度は昭和二十三年の三月頃であります。これはナホトカにおいて……
  121. 天田勝正

    天田勝正君 さつきのはマルシャンスクでありますか。
  122. 増渕俊一

    増渕証人 マルシャンスクであります。当時の状況を申上げます。最初マルシャンスクにおいて二十一年アンチフアシスト委員というものができました。その経過簡單に申上げますと、二十年の十二月二十五日にマルシャンスクに到着いたしまして、自分達旧関東軍將校約四千、旧ドイツ軍將校約四千、それからハンガリヤ、イタリヤ、オーストラリヤ等の將校が同じ柵の中に收容されたのであります。その年の正月の元日は東方を遥拜いたしまして、君が代を歌いました。当日は雪が霏々として降つておりましたが、皆万感胸に迫つて涙を禁じ得ませんでした。でそんな状況でありまして、当時は民主運動等というものは、全然知らなかつたのであります。二十年の多分春頃だつたと思いますが、ソ側の方から新聞を発行せよということを言われました。これは全体の回報に出ました。ソ側の言付けで新聞を出すことになりました。ついては適当な人を選んで呉れという話がありまして、結局新聞と言えばやはり経験者がよかろう。ついては中に藝術、文化方面のことも必要だろうということで、結局今朝日新聞におられるとか聞く石川雅男氏、元中尉、それから松本少尉、田辺中尉そういうような方、それから薬剤の某中佐、これは文化方面を担当することになりました。そうして一應顔ぶれができたのでありまして、そうしますと新聞を出せ、結局いわゆる壁新聞なるものが初めて発行されたのであります。併しソ側の方は、そんなものは壁新聞ではない。もう原稿がてんでなつておらん、全然改められまして、文化部なるものは廃止され、結局非常にこの原稿の檢閲がうるさいというので、大分因つたようでありましたが、しまいには言うの政治部員の方から原稿を送つて呉れるというような状況でありました。そうしてその新聞部が結局はいわゆる民主運動の源泉ということになつたのであります。そうして先程申上げました二十一年の中頃石川雅男氏が、アンチ・フアシスト・スタルシーに任命されたのであります。そうして、一般にアンチ・フアシストとして加盟せよということになつたわけであります。その当時はいわゆる友の会運動初期民主運動であるところの友の会運動が併行して行われておりました。それから同志会というものが作られておりました。それでアンチ・フアシスト委員というのは、委員長は石川雅男氏でありますが、委員は各ラーゲルごとに一人ずつおりまして、マルシャンスクから離れた伐採地にビュンスクという場所がある。そのビュンスクには京都大学を出た田中元少尉がアンチ・フアシスト委員をやり、北川元中尉が労働部長、内務部長というようなことでやつておりました。併し実際その後ナホトカその他で皆の受けた印象から申しますと、やはりマルシャンスクの自分達の生活は極めて朗かなものでありました。それからもう一つ……
  123. 天田勝正

    天田勝正君 分りました。こちらでも調べてあるの、その確認をするためにお聽きしておるのでありますから、結構であります。質問の第四、反米宣傳ということがたびたび言われておりますが、その反米宣傳というものは、実際には一体どういうことなんですか。つまり壁新聞に書くという程度のものでありますか。    〔理事草葉隆圓退席理事岡元義人委員長席に著く〕
  124. 増渕俊一

    増渕証人 反米宣傳は、決して單に壁新聞に書いたりする程度のものではありません。昨日も申上げましたが、ジュダノフの國際連合における報告演説、これは明らかにソ同盟の指示によつてナホトカのアクチヴが全員に講義をしております。教材は全部向うから出ておる。それから日本新聞がタス通信を基礎にして、まああらゆる報道をこれに一本槍で押進めておるのであります。それから「日本にいるアメリカ人」というロシヤのイズベスチヤか何かの記者の書いた戰後の日本の紀行文があります。これとか、それからまあ抽象的に申上げますと、要するにマーシヤル計画、トルーマン主義、これらは徹底的に世界の植民地政策である、こういう結論を敷衍するために、あらゆる角度から共産主義的な論調を以て、モスクワの外國語図書出版部から発行された無数の多種多樣のパンフレット、並びに赤軍機関紙のカラフトにおける新生命、それから日本新聞等によつて熟烈に教育されております。尚附加えておきますが、先程阿部証人から言われましたように、朝晝晩ナホトカではアジプロがあつたのでありますが、朝食後必ず政治情報という時間がありまして、これを聞くことを強要されております。
  125. 天田勝正

    天田勝正君 質問の第五は、民主グループとソ連当局との関係でありますが、これは沢山ございますので外の証人にも聞く点がありますので、あなたにお聞きする点は次の二点でありまして、民主グループの結成をソ連側から要求、勧告された、或はこれを許可をされた、こういう事実があるかということと、その指導幹部の選挙を要求、或は指名をされた、こういう事実があるか、これだけお聞きします。
  126. 増渕俊一

    増渕証人 御答えいたします。いわゆる民主グループという言葉は、昭和二十二年の中頃以後、秋頃私は耳にいたしました。その前は友の会員或は同志会員というような名前は聞いておりましたが、民主グループという言葉は比較的後の頃聞いたのであります。始めは友の会員、いわゆる友の会に入れ、そうして各隊ごとに友の会の役員を出せというようなことは、これは明らかに指示がありました。それから民主グループになつてからのいわゆる民主委員ということも、明らかに上から必ず各隊ごとに設けるようにというような指示があります。
  127. 天田勝正

    天田勝正君 その選挙は誰々というふうに指名をされたという事実を御存じですか。
  128. 増渕俊一

    増渕証人 申上げます。その点につきましては例えば一般行政部面を担当する中隊長、大隊長、或は経理部長というような役と同樣でありますが、やはりソ側において一應認識した人でなければ絶対に指名することは有り得ないのでありまして、今まで民主運動と称する傾向の言動をしておらないものを突然ソ側が指名するということはありません。
  129. 天田勝正

    天田勝正君 その指名がAならAという候補者を出して、これに対するイエスかノーかというやり方の選挙をやりましたか。こういうことを聞いております。
  130. 増渕俊一

    増渕証人 分りました。この点について申上げます。これは実に奇妙きてれつでありまして、皆樣お聞きになつても冗談だとお考えになるかも知れませんが、事実はそういうことがあつたのであります。それはナホトカにおきまして中隊長を選挙せよ……、選挙ということは我々の観念では皆とにかく候補者を何人か立てて、そうしてそれに好きな投票をするというのが建前なんでありますが、そのときもそのつもりで一應各隊ごとに立候補者と称すべきものを推薦いたしまして、そうしてそれを持寄つて、そのうちの何人かを立てて総員の投票に俟とうということにしたのであります。ところが自分もそのときにまあ選挙管理委員と申しますか、そういう仕事を頼まれてやつてつたのでありますが、指導部の……、当時まだ組織部と言つてつたと思います。あとで指導部になつたようでありますが、組織部の大井武君、その他が必らずそういう会合に出て参りまして、そうして曰く、そんな選挙はブルジェアの選挙である、我々の選挙はそんなものではないので、眞の民主主義者でなかつたら大体位候補する資格がないということが一つ、それから必らずそれはただ一人でなければいけない、そうして選挙管理委員会において徹底的な檢討を加えた上に一人を残せ、そうしてそれに対して全員がイエスかノーを投ずる、結局候補者を嚴選することになるのであります。これがソヴィエトの最も模範的な世界一の選挙法なんである、こういう話でありまして、随分これには反対して、何故組織部がそういうことを我々の自治的な内部組織、行政面における中隊長の選挙にいたすのかということを言うたのでありますが、そういう意見を言うた者は私共と一緒にやはり後送させられました。で結局指導部、組織部において最も民主的なりと称する者一人を立てることを強制された事実があります。
  131. 天田勝正

    天田勝正君 質問の第六は、私がこれから機構を申上げますので、若し違つておりましたら、その違つておる点だけ御指摘願いたいと存じます。  ナホトカにおきまして組織部と指導部、こういう二つのものによつて民主グループが構成された。但しその組織部というのは当初は指導部と言つてつた。それから管理部の方は最初は民主グループと何ら関係なしに、無関係で作られておつて、この仕事はいわゆる旅館勤務、宿屋の泊り場所の世話をするとか、衣服の世話をするものである、こういうこと。それから組織部の下部機関といたしまして文化、調査、宣傳、講演、アジプロ等、こういうものがある。それから管理部の方では作業、営繕、宿舎、給與、糧秣、被服それから日直、こういうものがある。そこでこれらの管理部の方の最初の部長は鬼島という部長でありました。それが今度は次には駒場という中尉になつた。その後任が小山という軍曹になつて來た。こういうふうに私共は考えておるのであります。それからこの民主グループ人達がソ連人事局に出入りしておつて、こことつまり連絡があつた。この通りに了解して宜しいかどうか。
  132. 増渕俊一

    増渕証人 お答えいたします。その人名の点につきましては自分ははつきりしたお答えをすることはできませんが、組織の模樣につきましては大体自分もそのように承知しております。ただ組織部という名前で呼ばれたのが先であつたか、或いは後であつたかという点は、自分の記憶では組織部が先であつたのじやないかというような氣がするのでありますが、間違いかも知れません。それからもう一点は管理部、いわゆる旅館業務をする管理部というものは、少くとも第二分所におきましては、その業務は昭和二十三年の二月頃から後は、そこに從來おりました勤務員の手を離れて、そこにお世話になつている我々將校の中から入つてつて、そこの仕事を引継ぎましたが、いわゆる指導部の、民主運動の総元締の方は、やはりいわゆる日本新聞派の若い、主として元兵士諸君が握つて、そこに直接ソ連の政治部員が出入しておりました。
  133. 天田勝正

    天田勝正君 つまり管理部と組織部は並列であつたけれども、段々管理部は結局組織部の指導下に置かれるようになつた、こういうわけでありますか。
  134. 増渕俊一

    増渕証人 そうであります。
  135. 天田勝正

    天田勝正君 尚これについての細かい点をここにおられます証人の中、どなたが一番よく知つておられますか、あなたは御存じですか。私はあなたが一番詳しいものと思つて実はお聞きしたのですが、今お聞きした項目についてあなたは、例えば名前はどういうふうになつたか分らんとかいうわけで、それ以上にあなた以上に知つておられる人があれば、お聞きしておいてあとで聞きたいと思います。
  136. 増渕俊一

    増渕証人 お答えいたします。その点につきましては阿部証人細川証人いずれも自分よりよく知つておられるかと思います。
  137. 天田勝正

    天田勝正君 質問最後昭和二十三年の一月に、モスクワからナホトカ收容所を檢閲に参りまして、そこでそこに行なわれておりますいわゆる民主運動、天皇制の問題につきましても、一言であえばあくどいビラを貼つてある。又階級章を、実はスーチャンなんかでは着けても一向差支えなかつたものが、着けていけない、こういうようなことを、いわばやり過ぎておつたということを指摘されて、当時の民主運動の幹部が替えられた、こういうことを本員は聞及んでおるのでございますが、そうした事実をあなたは御存じでありますか。
  138. 増渕俊一

    増渕証人 お答えいたします。知つております。昨日もちよつとその点に触れましたが、昭和二十一年の春頃から同年の暮にかけて、ナホトカで行なわれておりました、いわゆる民主運動というものが、奧地の方の民主運動と大分形態が違う、行き過ぎであるというようなことから、二十三年の一月頃にそこに勤務しておりました民主グループの大部分がその地位を去り、收容所のいろいろな施設裝師、そういうようなものが一変した。非常によくなつて、明るくなつて來たということは事実であります。尚その点につきまして、四月の十三日に自分がスーチャンに参りました際、そこにおられた長命元中佐、それから又津守元中佐、こういう方から次のような事実を聞きました。  ナホトカにおける日本新聞社一派の民主運動というものは、これはソ連の指示かどうか知らないが、とに角非常に偏行、行き過ぎである。例えば外蒙から引揚げた部隊に対する例の大衆カンパ、あれのごときは誠に人道上許すべからずるものである。同胞としてのみならず人道上許すべからざるものである。で自分達はこのことを詳細に文書に認めて司令部に提出した。その結果長命中佐以下が司令部に喚ばれまして、詳細取調べを受け、その結果としてモスクワから調査員が派遣されたという事実を聞き及んでおります。  尚それに一言附け加えて申上げたいと思いますが、そのときに從來自分の知つておりました範囲で第二分所の組織部におりました大井武、熊本、日本新聞社の吉良、宗像、そういう人達は相前後してナホトカを去りました。同年の五月末頃でありました。大井武、小山、兒玉、この三名がスーチャンに現われました。この際元將校達の方で要求いたしまして、この三名と対決をいたしまして、從來ナホトカにおいて行なわれている民主運動の具体的な事例についてそれを思想的でなしに人道上、これは世界どこに行つても通ずるところのいわゆる人間と人間の問題として談合したことがあります。その際の景況は詳しく申上げませんが、結論として出ました二つの点だけを申上げて置きます。第一番にその三名の指導者はカンパというものは決して我々が企画したものではない。あれは自然発生的に行なわれたものである。むしろ自分達は身の安全を保護するために夜警までしてやつたくらいであるという弁解をしております。これは自分は全然承服しないところであります。その点につきましての論証は別に讓ります。それから第二番といたしましては、自分らはやはり最後まで反共的分子は帰國を阻止する。絶対に帰國阻止運動は止めないということを言明しております。これは阿部証人も列席しておられましたから御承知の筈であります。この帰國阻止につきまして右の三名がそれを言明した以外に民主グループにまで帰國を阻止した。少くともそういうことを與つていたという事例は、自分達が一緒ナホトカで越多しました六百名が昨年の五月三日出帆の第一船で帰つて來ました船上で、増渕外十八名を何故お前達は残して來たかと責められたときに、齊藤勳その外、これは俄かにナホトカに來て民主運動を始めた連中でありますが、そういう連中が悪かつた、俺達があれを残したということを言つていたそうであります。まあ雜然としたことでありますが……。
  139. 天田勝正

    天田勝正君 委員長、大変長い時間を委員長許しを頂きまして申訳ありませんでしたが、実はまだ細川中村証人にまだ五点質問いたしたいと思いますが、時間が遅れましたので午後に又一應お聞きします。
  140. 岡元義人

    ○岡元理事 この際お諮りいたしますが、時間も経過いたしておりますので休憩いたしたいと思いますが御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  141. 岡元義人

    理事岡元義人君) それでは一時半から再開いたすことにいたします。    午後零時三十九分休憩    —————・—————    午後一時四十八分開会
  142. 岡元義人

    理事岡元義人君) それでは午前中に引続き委員会を再開いたします。    〔証人眞渕眞一君発言の許可を求む〕
  143. 岡元義人

    理事岡元義人君) 増渕証人に申上げますが、証人発言委員会にお諮りしなければ許可を與えられませんので、御了承願います。又その時間は後程特に御発言のある場合の時間を作ります。先程來いろいろ新聞紙上等によつて承知だと思いますが、この際先日当委員会証人として出頭いたしました、渡邊廣太郎証人から当委員会宛に五月十日附で文書が参つておりますから只今御報告いたします。  「私ハ同居ノ者ガ居ツタカト聞カレタ時、外ニ渡邊義雄ト云フ者ガ居ツタト申上ゲタノミ。渡邊義雄ダトカ、ウンノント云フ事ハ申上ゲナセンデシタ。今朝ノラジオノニユースデ聞イテ驚キマシタ。渡邊廣太郎。在外同胞委員長殿」
  144. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 その手紙は渡邊廣太郎が自身で書いたものであるという確証があるものですか。或いは外の者が書いたかも知れないという可能性が残つておるのですか。
  145. 岡元義人

    ○岡元理事 只今まではその点まだ調査をいたしておりません。この際当委員会がいろいろ通称吉村隊、いわゆる人民裁判等取上げますについて、その目的が当初においてすでに明らかにしておるのでありますが、ここに改めて一應委員会の取上げました目的を明らかにして置きたいと思うのであります。通称吉村隊、いわゆる人民裁判を本委員会が取上げるに際しては、その目的が明らかにしてあるごとく、犯罪的黒白を調査するのではなく、廣く残留同胞の実体を把握し、一ときも早く無事帰還完了を最大の目的として、資料蒐集をしてそれに対処する処置を講ぜんとするものであり、併せて國民の疑惑に対して、その眞相をそのまま知らしむるためであり、ただ委員会といたしましては僞証の点があつた場合は、議院における証人の宜誓及び証言等に関する法律八條によりまして、僞証の場合は告発せねばならない規定に基いてのみ取上げられるのであります。証人酒井一郎、池田重善、笠原金三郎、渡邊廣太郎君等の証言に食違がありますが、去る九日の委員会においては、その檢討を保留し、十日の委員会においても尚速記録ができ上つていないので未だ判定を下し得なかつたのであります。從つて委員会としては、僞証の確認も告発の手続も未だしておらないことを改めてここに明らかにして置きます。尚次に本朝委員長の出席に対して御発言がありましたが、只今事務当局に対して理由を附して届けが出されましたから御報告いたして置きます。  この際議事の進行についてお諮りいたしますが、各議員から質問に対しましては、連続質問される場合には、大体五分間程度で質問されて頂きまして、尚その質問が一應終つてから更に質問されるのはちつとも構わないのでありますが、一應委員の方々は五分間程度で連続質問を打切つて頂くということを再度お諮りいたします。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  146. 岡元義人

    ○岡元理事 さようにいたします。
  147. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 小針証人にお伺いしたいと存じます。第一は日本新聞を発刊された発刊の動機なり方針なりにつていお伺い申上げます。尚委員長にお願いしますが、この日本新聞関係につきまして二三項連続して質問を申上げたいと思います。
  148. 岡元義人

    ○岡元理事 草葉委員ちよつと委員長からお諮りしたいと思うのでありますが、一應まだ天田委員質問も午前中のを午後に留保されておりますけれども一應、委員長から昨日以來引続き前の証人に対して昨日の証言等の中で一、二点質しておきたいことを質しまして、そののちに今の質問を続行するように……
  149. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 了承いたしました。
  150. 岡元義人

    ○岡元理事 では委員長から一應昨日より今朝の午前中に至りますところの証言中に二、三はつきりしておいて頂きたい点をば証言を求めて置きます。  先ず細川証人にお伺いいたしますが、昨日帰還名簿の中から名前が削除されていたという証言がございましたが、これは誰が削除されたのか簡單に知らないなら知らないとお答え下されば結構であります。
  151. 細川龍法

    細川龍法証人 お答えいたします。昨日も御報告申上げて置きましたが、後日昭和二十二年の九月の中旬私がソ軍側の方に意見を提出いたしまして、数日後に津村が我々のおりました部屋に参りまして、当日残したものは私であるということを断言しましたので、私は津村が残したものと信じております。
  152. 岡元義人

    ○岡元理事 私が今お聞きいたしましたのは、名前を帰還名簿から削除した人を聞いておるのですが、今の津村証人とこういうに工合お考えになつておるという御証言ですが、誰がその名前を削除しておるのですか。
  153. 細川龍法

    細川龍法証人 津村が進言したと思いますソ軍側の方へ……
  154. 岡元義人

    ○岡元理事 第二点は、五十九名がスーチヤンに行つた、ところが向う側では、收容所の方では、そういうことは知らないというので、又ナホトカに引返されたという御証言がありましたが、その際に、これは一体誰の命令で向うに行くようになつたのか、その点等について多少まだはつきりしておらないのでありますが、その点述べて頂きます。
  155. 細川龍法

    細川龍法証人 お答えをいたします。当日、前日ですか、六月の二十九日の出発いたしましたから、二十八日だと思います。二十八日頃、明日將校と下士官、兵のこれだけの者が、スーチヤンに轉属するという予告を受けたのであります。そうして当日出発に際しましてはソ軍側の少佐の方と日本新聞社の宗像、高山及び民主グループの津村、かかる人達が立会まして、そうして送られたのであります。この命名と申しますのは、ソ軍側の方から連れて來て、スーチヤン地区までロシヤ側の少佐の方が引率して参りました。
  156. 岡元義人

    ○岡元理事 その次に、下士官、兵が混つておられたということになつておりますが、その点について昨日証言もありましたが、下士官、兵も、一應前の御証言の中に、將校は帰されないという点について、下士官兵が混つてつたということは、一体これはどういう原因であるかというような点について、そのときどのようにお感じになつたのですか、その点もう少しはつきりして置いて頂きたい。
  157. 細川龍法

    細川龍法証人 將校は当分帰さないということは聞きましたし、事実、され以降二十二年の五月頃からナホトカへ到着いたします部隊の中で、將校という旧身分を持つた者は残されて参りました。そして旧將校は当分帰さないということを聞いておつたし、その中に事実反動として摘発された、摘発されたと申しますか、摘発されて轉属を命ぜられた、私もおりましたし、且つ又森脇竹市河野繁美、それに加えまして松坂忠一郎、中羽壽美男、こういう兵隊が入つております。当分將校が帰らないということを予告をされておりますグループと行動を一緒にさせられるということは、兵隊に対しても將校同様に当分帰國を阻むものであるという証拠であると私は信じております。
  158. 岡元義人

    ○岡元理事 それからもう一つこの際簡單にお答えを願えれば結構です。あなたは五十九名の人とスーチャンに行かれた、そのときはまだ津村、ここに見えておる津村証人がおられたわけですね。
  159. 細川龍法

    細川龍法証人 おられました。
  160. 岡元義人

    ○岡元理事 それから昨日の証言の中では、相当数の人が奥地におられたというようなことになつておるのでありますが、先日津村証人から、当委員会におきまして、自分がそのカンパによつて残したのは五十九名だという数字が証言されておるのであります。その外にもあつた、五十九名だけではないということを細川証人はお認めになりますか。
  161. 細川龍法

    細川龍法証人 それは津村氏が策動して残されたものと、或は不用意で乘船名簿がミス・プリントされて残つたという場合もあると思います。併し我々から見た場合に、これは観点の相違かも知せませんが、それじや何かお前が元の收容所において何かなかつただろうかということを問い質しますと、こういうこともあつた、それじや誰かがお前を残すようにという投げ文でもしたのだろうか、そういう結論において残されただろうということをお互に言いあつて慰めあつた事実がございます。かような見地から残されたということは、將校或いは下士官は別として、兵隊などで残つた場合は、いわゆる反動的な者と目されたことによつてつたのだろうと、こう信じていたのであります。
  162. 岡元義人

    ○岡元理事 著席願います。  次に増渕証人に二点程お伺いいたします。昨日の御証言の中にありましたように、二十名くらいの者が残されたという御証言があつた。それは只今細川証人の五十九名の外でありますか。
  163. 増渕俊一

    増渕証人 お答えいたします。自分を含めてこれは十八名でございます。これは期日を正確に言いますと、二十三年の四月十三日であります。尚ちよつと今十八名と申上げましたが、実際はこれは二十名でありました。その中には從來そこで人事係として働いておつた西村久宜中尉、それからもう一人は高山助教授事件の嫌疑者として行方不明になつた小山内某少尉の二名が一緒に……。
  164. 岡元義人

    ○岡元理事 ちよつと証人に御注意しますが、私があなたにお聞きしておるのは、昨日細川証人が御証言されました、スーチャンに行つた五十九名とは別でありますかということを聞いております。
  165. 増渕俊一

    増渕証人 でありますから、私は期日だけはつきり申上げまして、細川証人が果してその期日のものを含んでおつたかどうかを御判断願いたいと思います。尚昨日十八名と申しましたのは、実際行つたのは二十九名で、後の二名は別の隊から來たということを……
  166. 岡元義人

    ○岡元理事 次に阿部証人に伺つておきます。二、三点一緒に申上げますから続けてお答え願います。從來カンパを受けて奥地にやられたということは未だお述べになつておらないようであります。あなた自身はその点はあつたのですか、なかつたのですか、それから佐官以上はまだ帰れないというような指令が出ておつたことはないのですか。この点か明らかにしておいて頂きたいと思います。それからもう一つ收容所でラーゲルを出るときに、佐官以上の取扱いはどうなつておるか、收容所です。それからその次に二十三年六月津村証人が病氣になつて仕事で継続できないので、日本に帰つて來られたという御証言が前にあつたのですが、その時分の状況をば、例えば行き過ぎであるというような点から、組織の変更を命ぜられたというようなことがあつたかなかつたか、その点を明らかにして頂きたい思います。
  167. 阿部齋

    阿部証人 お答えいたします。阿部個人に関するカンパ、これは民主グループから一度カンパを受けました。但しこのカンパによつて自分は後ろに逆行したものであるとは信じておりません。カンパは受けております。  二、佐官以上が止まる理由と申しますか、指令でございますが、指令は直接こういう指令が來ているから帰さないんだ、こういうふうに向うのソ側將校からの話は聞いたことはありません。誤まりました。ソ側軍医の大尉の方に佐官はまだ帰すことになつていないと言われた事実があります。  それから佐官の取扱い、これに関して申上げます。ナホトカからスーチヤンに行く間における佐官の取扱いは非常に鄭重でありました。スーチヤンにおける佐官は別に佐官だからという取扱いは受けておりません。全部特殊收容所の中に、一般將校一緒に取扱われております。  それから二十三年六月の津村君の疾患のことについて申上げます。私がナホトカを去りましたのは、二十三年二月の二日であります。二十三年の一月の三十一日か、三十日と憶えておりますが、津村証人が熱を出して医務室に入室して参りました。この熱は当時内科の主任をしておりました加藤裕久軍医少佐、この方の診断では胸部疾患によるものである、こう申しております。尚それ以前に私個人で津村氏との話のときに、津村氏自身が、私は胸の既往症がある、ときどき熱が出るという既往症について私に対して申述べたことがありますので、私は加藤少佐の申したこの胸部症患というものは間違いないものと信じております。  尚組織の変更があつたかなかつたかという点について申上げます。二十三年一月の中頃、第三分所においてナホトカにおける民主グループの総会が実施され、それに対して政治部隊員の方から痛烈に批判を受けたという話を聞いたことがあります。その際に現在のナホトカ民主グルプーのやり方は行過ぎであつたという注意を受けた。こういうことに関して当時第三分所の医務室の主任をしておりました佐藤軍医大尉から私のところへそういう話を申述べたことがあります。  尚スーチヤンに参りましてから、ナホトカにおける民主グループの変更ということにつきまして、長命中佐以下ナホトカから帰りました佐官全員が当時の状況を建白書として書いてソ側に提出してあります。このソ側の中佐の方はモスクワから來られた方、こう申しておりますが、その方にナホトカ民主グループの変更ということを書いて建白書を出しております。その建白書を出したときでありまするが、やはり取調べを受けた方の中に有田浩吉軍医少佐……、この方は有田外務大臣のお息子さんでありますが、この方が呼ばれましてやはり取調べを受けた。そのときに、シベリヤにおける民主運動は皆赤大根だよ、全部一皮剥けば皆白くなるのだとその少佐の方が言つておられたというようなことから、我々の建白書というものが相局向うに効果的に響いたのじやないか、それによつて又一部組織の変更があつたのじやないかということを想像しております。何故ならばその後管理部長に推されておつた加藤正幸大尉が我々收容所に後から入つて参りました。尚嵐田萬壽夫少尉、これは第三分所のアクティヴの責任者として私らがナホトカを去るまでは、ナホトカを二月の二日に去るときまでアクティヴの責任者として残つてつたのであります。この方も我々と同じように收容所に入つたということ、それからアクティヴの中に中野という兵隊の方がおりますが、この方もやはりスーチヤンの收容所にいたということ、これから判断しまして、組織の中に何かメスを入れられたのじやないかということを思つております。
  168. 岡元義人

    ○岡元理事 もう一点、二十三年の六月頃から、いわゆるカンパの方法が段段変つて來たのではないかと考えられますがその点について……
  169. 阿部齋

    阿部証人 二十三年の六月には私ナホトカにおりませんのでその工合はよく分りません。
  170. 岡元義人

    ○岡元理事 次に中村証人に二三点お伺いして置きますが、少林証人証言から、いろいろ委員会で述べられたことがあるのでありますが、カンパは禁ぜられているために、歩哨に分らないような建物と建物の間において、そうして皆へ集めてやつた。こういうふうなことが事実でありましたか。この点中村証人証言を求めます。
  171. 中村良光

    証人(中村良光君) お答えいたします。やつた場所は建物と建物の間でやつたことは確かであります。
  172. 岡元義人

    ○岡元理事 もう一点、その際に青年行動隊は便所等に來るのを持つてつて、そうして阿部証人証言もありましたが、帽子をひきちぎつたり、そういうような暴行があつた、こういう状態であります。
  173. 中村良光

    中村証人 便所へ行く途中に立つていて、カンパから逃れる者を逃れられないようにしたということを聞きました。
  174. 岡元義人

    ○岡元理事 その際に政治部長、証言にもありました日本語のよく分る政治部長のところに知らせに行つたとこういう状態ではなかつたのですか。
  175. 中村良光

    中村証人 その小林証人の帰つたときの……、ナホトカにおいて、第一回目ですか、それとも第二回目ですか。
  176. 岡元義人

    ○岡元理事 第二回目のときですね。
  177. 中村良光

    中村証人 第二回目でありましたら自分は帰つております。
  178. 岡元義人

    ○岡元理事 分りました。もう一点阿部証人に求めて置きたいのは、ラーゲルを出られるときには、いわゆる帰還名簿というものはそこで編成されて、いわゆる帰還は許可になつたものと、こういう工合にお考えになつているのか、それとなナホトカで決まるのか、どちらが正しいか、その点どう考えておられますか。
  179. 阿部齋

    阿部証人 最初のラーゲルを出るときの帰還名簿は作られておると信じております。
  180. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 先刻申上げましたように、小針証人に、実は日本新聞はソヴィエトにおける在留同胞、抑留同胞のあらゆる任務の、強い一つのものになつているようであります。或いは民主教育の指針であり、或いは連絡であり、いろいろな意味においての中心一つの機関紙のようでありますが、小針証人は最初からこれに関連しておられたと聞及んでおりますけれども、いつからいつまで御関係になつてつたか。從つて最初創設者の一人であるといたしましたならば、創設の目的、或いは動機、或いは方針ということについて伺いたいと思います。且つおいでになりました間に、日本新聞の発刊の編集等の方針、その他の変遷等がありましたら、それも併せて御証言願います。
  181. 小針延次郎

    証人小針延次郎君) お答えいたします。日本新聞の発刊は昭和二十年の九月一日であります。当時私はまだ新聞社に入つておりません。その後九月二十八日、そのときにはじめて私が朝日新聞の記者であつたという理由の下に、ハバロフスクの極東軍情報部、そこに連れて行かれました。そこでソ連の政治部長の命によりまして私が新聞の日本人側の編集の責任者であります。当時ソ連の新聞記者十三名、日本人の新聞記者は私一人、その外に宗像肇、淺原正基、ソヴィエトの名前は諸戸文雄というようであります。相川四郎、吉良金之助、間山清太郎、これが当時のいわゆる編集人であります。この外に工務局のいわゆる印刷屋、ここにおりますが名前は省きます。そうして発刊の目的はソ連政府の指示によりまして、ソヴィエトの國家機構、特にコルホーズ問題、ソホーズ問題、更にいわゆるソヴィエト圏内に入る蒙古、ソヴィエトの占領下にあるドイツ、それから日本の終戰後の状況、これらは全部私達がラヂオによつてキヤッチしまして、それをいわゆる新聞記事に書換えたのでありますが、その書換えた記事の殆んど大部分がソヴィエト人の手によつて直されております。從つて私の書いた記事というものは全く半分以上はソヴィエト人の手によつて直されておるのであります。目的はこの新聞によつて在留將兵、これに対しいわゆる働く人々の國家を作る。ソヴィエトに見習え、当時は幣原内閣でありますが、幣原、吉田、これを日本に帰つたら倒せ、そのための基礎教育というのがその頃の目的であります。併しこれはその後大分変りまして、昭和二十一年の四月になりまして、淺原、諸戸文夫ですが、彼がコンミユニストであるが故に非常な勢力を持つて私と連日眞正面から喧嘩しておりました。というのは、小針の編集客針は朝日新聞型でいかん、これでは働く人々の新聞、機関紙として非常に面白くないものである。よつて君は編集を退陳してくれ、こういう要求が來たのが四月であります。その後二ケ月間淺原、小針の対立のままに経過しました。そして六月十日私はカナダより入つてラジオの放送によつて、アメリカの日本に対する政策を取上げました。これがいわゆるアンチソヴィエトである、君は親米派であるという理由の下に私は営倉に二晩入りました。そしてその営倉が済むと同時に、私は第十六号の第二号收容所に移されて重労働二週間夜間の鉄運をやりました。その頃に初めて民主運動、つまり將校の階級章を取つて一対一で行こうじやないか、我々は共に日本人じやないか、將校が白い飯を食つて兵隊が働くというのはどういうことか、そういう声になつて、私達收容所に入つて初めて第一回の演説会が開いたのが六月十三日であります。そのとき私と一緒新聞社を追出された男、斎藤裕君、これは東京の元の産業経済新聞の記者であります。彼と二人六月十三日の晩に收容所の庭で、とに角これから帰る日までお互いに手を繋いで行こう。そのためには將校も明日から出て働いて貰いたいということを私達が要求しました。当時兵隊がざつて八百名、將校がざつと百四十名ばかりおりました。非常に理解のある將校でそれを聞いてくれましてその日からお互いに働きました。そこでその頃の友の会で、私が民友クラブの執行委員長になりまして、反対にに將校作業上のいろいろの差図を私自身がやりました。尚その間において日本新聞より再三政治部長の將校が参りまして、小針は一時アンチ・ソヴィエトだつたが、最近はよくやつておる。早く君を帰してやるから、もう少しソ連の國家機構を説明するために毎晩講演会を開けというので原稿を作りました。その原稿は勿論その頃の日本新聞に載つてつた淺原君の新聞記事でありますが、私が各中隊ごとに廻つて話をしました。三日に一編政治部長が來ていろいろ私の話を聞きました。日本新聞の発刊、これは只今申上げたところであります。
  182. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 その後小針さんは更に日本新聞にお帰りになつたか、或いはそのまま御関係にならなかつたか、それが一つと、それから最初の間はやはり一日おき程度の発行であつたのでありまして、最終までそういう行き方であつたかという点をお伺いします。
  183. 小針延次郎

    小針証人 お答え申上げます。私は昭和二十一年六月十日新聞社を出まして、営倉に入つたのがつまりソヴィエトにおける第二の出発でありまして、その後新聞社に帰つておりません。第新の質問でありますが、ちよつと呑込めませんがもう一回……
  184. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 最初から隔日或いは三日目に一編の発刊でございましたか。
  185. 小針延次郎

    小針証人 一週に二回の発刊であります。部数は十五万部。
  186. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 その経費は一体どのくらい掛つておりますか。
  187. 小針延次郎

    小針証人 経費のことについては我我日本人には全然教えてくれません。ただ淺原君が政治部長から金を貰つて淺原君が持つておりました。新聞記者は全部一人百ルーブルの賞與がありました。
  188. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 それは賞與でございますか、月給ではないのですか。
  189. 小針延次郎

    小針証人 賞與と称しておりました。
  190. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 それから日本新聞の編集並びに活動の機構を御存じの点を……
  191. 小針延次郎

    小針証人 日本新聞の中に政治部、宣傳部、情報部の三つがあります。情報部長はいわゆる極東軍情報の最高主脳部であります。それから宣傳部も共産党直系の將校であります。情報部、これも同じであります。皆いずれも政治部員であつて、その面の最も日本語の巧みなものであつて、非常に日本のことを知つておる人が各部の部長であります。
  192. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 部長の名前と、日本側の組織の方の名前も分つてつたら……
  193. 小針延次郎

    小針証人 その前に委員の方々に御質問申上げます。現在占領下の國民でありまして、連合軍の今のソヴィエトの情報関係の將校名前をここで申上げても差支えありませんか。若しこれによつて今後何か問題があつて委員会が責任を負つて下さるならば私全部申上げます。
  194. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 それは証人においてこれは特に機密にして御発表にならない方がいいと思う、そういう意味でこれは発表しても差支えないという点は御発表願います。なお特にこれは機密である、発表しない方がいいと思われる場合におきましては、他に書面等でお出しによる方法もあろうと思います。
  195. 岡元義人

    ○岡元理事 只今の問題でありますが、事実ありのままをば証人において述べて頂くことでありますならば、差支えないと委員長考えますから述べて頂きます。
  196. 小針延次郎

    小針証人 それでは申上げます。
  197. 千田正

    千田正君 議事進行についてですが、誠に委員が不揃いのようでありますから、後で又前の質問を繰返すようであつては運営上面白くありませんから出席を促して頂きたいと思います。
  198. 岡元義人

    ○岡元理事 承知しました。小針証人証言を続けて下さい。
  199. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 私が今申上げましたのは、特にこの席上において國際的に考えて、小針証人が良識的に考えてこの点はむしろ遠慮した方がいいという場合においては、私は書面の方が結構じやないかと申上げた次第であります。その点を委員長においても御諒承願いたいと思います。
  200. 小針延次郎

    小針証人 私の申上げたのは、私が機密であるとか、秘密であるとか、そんな個人的の問題でなく、ただそういつた公の席においてソ連人の名前を出すことが、果していいか、出したために、その後なんらかの形において委員会なり或いは私個人に問題が起つて場合にどうなるかということを私考えたからであります。從いまして委員会がその場合に國会の名において責任を持つなら、政治郎の内容を私は全部知つております。ここで申上げます。
  201. 千田正

    千田正君 委員会において必要と認め、委員発言があつた場合申述べても差支えないと思う。なぜならば我々はソ連の領國でもなく、勿論ソ連の管轄下でもありません。占領國内において関係諸國の重要なる人達名前を申述べていけないというようなことは、我々は制限を受けておらないと思います。堂々と我々が要求することを述べて差支えないと思います。(「異議なし」と呼ぶ者あり)
  202. 岡元義人

    ○岡元理事 各委員にこの際お諮りして置きます。只今の千田委員の御発言、御尤もだと思いますが、場合によつては秘密会にするかもしれないかという点があると思いますが、これは各委員に一應お諮りして、そういう場合においては秘密会にするというような場合も考えられますから、この点、各委員にお諮りいたします。暫時休憩いたします。    午後二時二十九分休憩    —————・—————    午後二時三十七分開会
  203. 岡元義人

    理事岡元義人君) 休憩前に引続き委員会を再開いたします。
  204. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 ソヴィエトの機構並びに日本の機構、日本人の機構ソ連側の機構ということについて、証人が知つておられる範囲の最も正確なる詳細なことを御発表願います。
  205. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 只今の問題について千田委員は、連合國の機構をですね、これを発表するの何ら制限を受けてない、これを認めます。併し占領國というのに、これは占領國というのは連合國の占領國である。一つではないということもはつきりして置く必要があると思うのであります。
  206. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 私が申上げましたのは、そのソ連側日本人側との機構と、それに対するソ連側などが日本人側に対する日本新聞を通じてなしておる実際の状態、そういう点も一つ併せて御発表願いたい。
  207. 岡元義人

    ○岡元理事 ちよつと草葉委員に今の御質問内容について、收容所等に関して、收容所等における日本人と日本新聞との関係においてのいわゆる証言、こういう工合に解釈してよろしうございますか。
  208. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 收容所の方面におきます民主運動中心は日本新聞にあつたと思うのであります。從つて日本新聞の実際の状態をよく把握することが、收容所等における一般思想を啓発、或いは民主運動、或いはナホトカのいわゆるいうところの人民裁判の根だ、だから日本新聞の状態を掴み得なんだら、本当にナホトカ人民裁判等に及ぼしておる影響は、分らない。そういう意味において私は申上げたのであります。
  209. 岡元義人

    ○岡元理事 小針証人、今の質問内容は分りましたか。
  210. 小針延次郎

    証人小針延次郎君) 分りました。
  211. 岡元義人

    ○岡元理事 (小針証人)の証言を求めます。
  212. 小針延次郎

    小針証人 日本新聞は各收容所に大体最初五人に一部の率で配付しました。ところが当時日本新聞というものは、これは共産党の機関紙であつて、賣國奴がやるべきものであるという名の下に、私達日本新聞社におつた者は浴場に行きますと、日本の兵隊から、來た來た。あれは犬だ、と指さされました。併しこれはソヴィエト政府の命令でありますから、私達はどこまでも発行しなければならんというので、非常に内心日本人に対して済まないという感じも当時はありました。成程あの新聞の最初の記事は天皇の解剖問題であります。次に日本の軍閥、財閥の縁、腐れ縁とその頃称しておりました。こういう内面の暴露であります。從つて書く私自身が非常に苦しい。こういうわけでなかなか書けない。書けないと言うと、何故君は書かんが。君はソヴィエト政府の命令に背く、と言つて叱られる、叱られるだけならよいのですが、どうしても書かなければ君は收容所に廻してやる。その代り特殊ラーゲルに廻すという宣告は再三來ております。新聞を通じて日本の兵隊にソヴィエト國家の機構を吹込む、これは各收容所にスパイを置きます。このスパイというのはソヴィエト側の情報部の部長がその收容所の政治部の部員に対しまして、お前の所に誰かいわゆる非常な親ソ分子がいないか。いたら二、三名出せと言つて出させます。そうすると私達日本新聞社におつた者がそこに行つてその男に会います。この男ならば絶対に信用できるとソ連側が認める場合にはその者にスパイの命令を下します。これはつまり日本人はどんなことを話しておるか。彼は何を言つておるかということを一々彼が聞いてラーゲルの政治部の將校に傳えて、私新聞社に行きます。そうして材料が全部集ります。そうしますと、ハバロフスクの第二十までラーゲルがあります。第十六というのは番号でありまして、ナンバー・ワンから二十三まであります。そうして第二十收容所が、これが特殊ラーゲル、つまり絶対に帰さないという人間をそこに入れます。絶対に帰さない人間というのはどういう者かというと、これは新聞社の政治部長の話では憲兵、特別志願將校、ハルピン学院の通訳、これは皆日本のスパイで軍國主義者の最も代表的な者だ、これは帰さん。こういうようなことが新聞社の方に命令がありました。私達はそのことは聞いております。その收容所に全部その新聞を配りまして、そうして最も親ソ分子といわれる人がその新聞を読んで解説をする。いろいろ読書会等も設けました。併し実際は成績が挙つておりませんでした。ただ私達が新聞社におつたのが丁度九ケ月であります。追出されて收容所に行つて見て初めて分つたのでありますが、誰も新聞を信用する者はなかつたのです。あの新聞はデマ新聞である、あれはただ日本の國を賣る新聞だ。こう言つてとにかく私達が收容所に行つて見ても、私自身もその新聞を読む氣がしなかつた程であります。内容を知れば知る程にその新聞を信用しなかつたのは誰しもその当時のすべて共通な心境です。最初の発刊当時の目的、それは先程申上げましたように、大体五人に一部新聞を配つて、その新聞によつて日本の事情を知らせる。ところが実際は読んでおらなかつたために、新聞社の方では焦つたが、結局二年、私達がナホトカ收容所に移つてから大体二年です。昭和二十二年になつて初めて抑留者が新聞を待つておるというような心境になつたそうでありますが、これは果してどこまでか、これは証言できません。それから新聞の情報というものは、今の收容所の情報はスパイを使つてやりました。それからタス通信から入るのが、これはロシア人の新聞記者が持つて來るのでありまして、私達には分りません。ただ私が不思議に思つてつたのはアカハタであります。アカハタは私もあすこで二三回見ております。これはどういうふうにして來るか、これは全然見当がつきませんし、ただ雜誌なんかは引揚船が行つた場合に、宗像肇、それから高山正雄、この両名がナホトカに來まして船を探します。船の中に必ず雜誌があります。この雜誌はいわゆる労働の機関誌であります。これは必ず入つて來まして、それはいつも四部か五部持つて参りました。これらの新聞の資料が日本の事情を傳えるために非常に役立つたのであります。私の今申上げるのはこれは新聞社におる時分の話でありまして、いの後出てから新聞社内容が相当変つておりまして、編集長、つまり私に代つた編集長が今の淺原正基君、今の向うの名前の諸戸文雄、情報の責任者が宗像肇、宣傳部の責任者、これはマイクを以てスピーカーで自動車で歩いた間山清太郎、この三人がその方の責任者であります。その他又各收容所を廻つて講演をするのが相川次郎君、これがやつております。それからソヴィエトの政府の方から常に命令が來るのは、最近の日本人状態はどうか。どんな思想に向いておるか、輿論調査であります。これはここにいらつしやる方皆さんよく御存じの筈ですが、ときどき紙を廻わして輿論調査をします。何政党を支持するか。それからソヴィエトに対する最近の考え、ブルジヨア民主主義それからプロレタリアイズム、双方に対する意見の聽取であります。そういつたことについて大体三月に一回、ハバロフスクの近所の收容所は殆んで毎月一回であります。こうして輿論調査をします。そうしてここは最近社会党支持が殖えた。共産党支持が殖えた。あの收容所は相当民主化された。ダモイだ。この次はあすこの收容所にしようじやないか。これは日本の新聞社で大体見当をつけておるようであります。大体淺原君などが作つておりました。ここまででよろしうございますか。
  213. 岡元義人

    ○岡元理事 ずつと続けて外に述べられることがあるならば、述べて下さい。
  214. 小針延次郎

    小針証人 それで、私はこの機会に一言申上げたいのは、ナホトカ人民裁判、或いは吉村隊の池田氏の問題、これは結果論だけを委員会で取上げて騒いでおりますが、私現在新聞記者でありますが、私の考えとしては、むしろ結果論よりも、何故にこういう事件が起るかということを究明するのが必要じやないかと思います。
  215. 岡元義人

    ○岡元理事 ちよつと小針証人に申上げますが……
  216. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 日本新聞の日本側の機構は今のお話のありました三部でございますか。もつと外に部はございませんか。それからこれに対するソ連側の指導並びに機構という点を、御承知の点を御証言願いたい。
  217. 小針延次郎

    小針証人 今の部は三部は部であります。尤も工務部というのがありますが、これは印刷部でありまして、外部とはタッチしておりません。内部で印刷の方をやつておるのがおります。これは福村金吾というのがその指揮者でありますが、これは活版工でありますから、ソ連側の指導というのは……とにかく新聞記者の寢起しておる場所、これは同じ建物であります。私達はこの部屋日本人側新聞記者、その頃日本人五名、支那人七名が一緒におりましたが、直ぐ隣りの部屋にロシア人の新聞記者がおりました。情報部長、これは官舍がありまして官舍に帰りますが、その外の新聞記者は殆んど新聞社におりますから、朝から夜晝までお互いに話合つております。そこで明日はこういう仕組で以てある收容所一つつてつてやろう。どうもあの收容所は非常に反動性が強い、將校は階級章を付けて碁をやつて遊んでおつた、こういう情報がスパイによつてつて來ます。そうしますと、そこへお前は行つて來い、そこで宗像肇、淺原正基、この両名は常に保証なしでどこでも歩いておりました。ライチハー、ホール、スーチヤン、ナホトカ、コムソモリスク、この五地区には常に彼は單独の旅行を許されました。ソヴィエト人の指導方法というのは日本人の輿論調査、それから今のスパイから來る情報、それを基礎にその都度指導をやりましたけれども、ただここで申上げたいのは、反米運動、先程どなたか申しましたけれども、これは確かに新聞社からも、日本新聞社を基準としてやつているのであります。日本新聞は常に反米鬪爭を進めるべく編案しております。漫画入のニュース、アメリカのシルク・ハツトを被り、モーニングを着て釣竿を下げて、釣竿もやはりアメリカのものであります。そうして魚は中國、朝鮮、日本であります。魚籃の中に入つているのはフィリピンであります。これが日本新聞の日本人を指導して行く上の宣傳の内分けであります。その内幕であります。この線に沿つて進んでおります。日本はこのままで行けばフィリピンのようにこの魚籃の中に入つて行くのだ。今朝鮮は釣られている。中國も釣られている。こういう方針で新聞は進んでおります。この方針を指示する人間、これが極東の情報部の政治部長であります。その政治部長はモスコーからの指令によつていろいろモスコーの指示によつてこの方針を立てておるのでありますが、モスコーの指示の内容は全然日本人には分りません。ただ時折電報が來ましたと言つて、今日は直ぐこれからどこどこの收容所へ行つて座談会を開く。いわゆる親ソ分子ができたか調べて來い、こういう指令があります。そこで直接最も日本人と関係のあつた、いわゆるソ連の新聞記者政治部長コバレンコ少佐、これは現在日本新聞の裏に書いてございますこれがソ連人の編集長であります。と同時に極東軍の情報部の、ここの最高の人間です。勿論この下に大佐も少佐もおりますが、共産党の直系でありますからこれが一番上であります。それから情報部の部長はバゼレス大尉であります。宣傳部の部長、これはワードル少佐、これは日本人が父親であります。それから又話が戻ります。
  218. 岡元義人

    ○岡元理事 ちよつと今の証言中にコバレンコという名前が出ておりましたが、一部これはあなたのことをおつしやつたのかどうか知りませんが、コバレンコというのは小針延次郎だという……
  219. 小針延次郎

    小針証人 そういうデマが沢山飛んでおります。私は新聞は片仮名でコバリエンジロウと書いておりました。それが多分コバレンコと言われたという話は私も聞いております。私じやないのであります。これはソ連の少佐であります。それからコバレンコ少佐の下におるのがモンゼール少佐、これは前の大学の教授、それから新聞記者でツリコフ少佐、女の中尉で新聞記者でエリナ、グリンバー少尉、新聞記者であつて全部軍人です。バゼレス大尉の下におつた情報部の次席の名前は私知りません。それからこの宣傳部のワードル少佐の次におつた。つまり次席はヒヨードル大尉、これに最も有力なラーゲルの將校は、つまりラーゲルにおつて情報を提供するアニシモフ中尉、これはハバロフスクの第十六の第二收容所の政治部員であります。同じく、ナホトカにおいて情報を提供しておる政治部の將校はゴルフコー中尉であります。以上だけが私直接附合つた將校でありまして、その人達の挙動は一應全部知つております。以上であります。
  220. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 御証言によりますと、向うの方、つまりソ連方面において日本新聞の編集長が今のようなわけですが、それらの者と日本新聞記者との関係はどうですか。
  221. 小針延次郎

    小針証人 申上げます。最初の編集長は私でありました。それは最初は、ただ当分の間いわゆるソ連の新聞記者で政治部長コバレンコ少佐、これは日本新聞の現在裏に書いてございます。これが最初は当分の間日本兵が日本新聞を求めるまで、それにはいろいろ時間も必要だろうから、ブルジヨア新聞の編集でもよろしいというので、私は大阪、東京、ハワイ、朝鮮、モスクワ、その地方から入るラジオによつて私は全部それを速記しまして、そうして東京放送何々、こういう方針であります。そのときのあちらの編集長の話ではまあ暫くそれでやつて行こう、併しながらそれは大体最初の二ケ月であります。直ぐに今度はこのラジオによつて一つ論文を書け、從いまして私の論文はこの日本新聞に、こちらにあれば載つておりますが、軍國主義、或いは財閥に関する感想を書けというので私も書きました。そのときの名前が片仮名でコバリと書いております。それが今のコバレンコと間違つたのであろうと思います。それからそれらとの関係と申しますと、とにかく朝から晩まで私は殆んどコバレンコ少佐のところに呼ばれて、今日は君こういう問題を取上げろ、こういう指令を受けます。そうして原稿を作つて最後にコバレンコ少佐の檢閲を受けます。そこでこの新聞では非常にいかん。これは俺が書き換えると言つて非常に大分赤インクで訂正されます。関係と申しますと、結局ただあちらの指令によつて私達が動くだけでありまして、別にこちらから註文はありませんでした。その後現在の編集方針はよく分りませんが、ただ非常に小針あたりの説はブルジヨア式であつていかんから改めるといつて諸戸文夫君に代つたから、今の新聞は殆んど全部論説であります。社会主義の解説であります。関係というのはそれ以上分りません。
  222. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 もう二点あります。ナホトカ民主グループと日本新聞との関係、この点について……
  223. 小針延次郎

    小針証人 申上げます。先程申上げましたように、スパイによつて大体その收容所の親ソ分子を発見します。そうしてスパイというのは、殆んどスパイになつておる人は非常に氣持の小さい男でびくびく者が多いというので、民主グループを作る場合にはその人を使いません。そういう人はいわゆる指導力に欠けております。そういうふうに見ておりました。それでそのスパイにいろいろ聞いたことを資料にしまして、ああいう男は抱擁力を持つておる。何人かの乾分を持つておる。こういう男を選んでそれに始終新聞社から行つて連絡しまして、こういうことをやれ、その代り後のことは心配するな、後で問題が起つた場合には直ぐ連絡する、こういう程度であります。
  224. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 小針証人質問しますが、小針証人は新聞を編集したとき良心が苦しかつた……
  225. 岡元義人

    ○岡元理事 ちよつと星野委員に御注意しますが、大きな声で……
  226. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 心が苦しかつたとそう証言されたわけですね。その中の理由として、新聞が天皇制廃止、財閥解体を述べて、あなたは心が苦しかつた。そうしますと、小針証人は天皇制護持論者であり、財閥保存論者である、こういうことになりますが、そういうわけではありませんか。それからもう一つ、帰さん……、これは重要な資料ですから……。もう一つは帰さん收容所があるということを聞いたと言いましたが、如何なるとき、何処から聞いたということを具体的に述べて頂きたい。それからその收容所に対してそれでは如何なる方針を取つておるか。或は如何なる教育をしておるか。それから情勢の変化においてもそれぞれあなたは永久に帰らんと判断しておるかどうかその点をお伺いします。
  227. 小針延次郎

    小針証人 申上げます。天皇制問題、財閥解体問題、これはその当時日本人としまして初めての試練でありまして、これは宗像肇そのものもそうでありますが、非常に書き難くかつた問題であります。私はこれは率直に認めます。と言つて私は決して現在財閥の擁護論者ではありません。これはその当時の心境であります。それからもう一つは帰さん……。
  228. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 天皇制をはつきり……
  229. 小針延次郎

    小針証人 天皇制の問題もそうであります。その当時天皇制問題を日本新聞に書いたのはただ一人高野忠興君であります。彼は愛宕中学の教授であります。
  230. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 いや簡單に……
  231. 小針延次郎

    小針証人 天皇制問題については、私は天皇制の擁護者であります。天皇制はあつても差支えないと思つております。それから帰さん收容所の問題であります。これは永久に帰らないのではありません。ただこれは今年中に……、これは今初めから申上げますが、引揚げの状況であります。コバレンコ少佐の話によりますと、昭和二十年の話でありまして、君達新聞社はシベリア地区の引揚が済んでから帰るのだ、君達は昭和二十四年の十一月まではどうしてもいなければいかんとこういうことをはつきり言いました。それからもう一つ特別志願將校、憲兵、或は玉ハルピン学院出身の前のスパイ行動をやつた者は再教育をして帰す、これもはつきり申しておりました。以上申上げます。
  232. 細川嘉六

    細川嘉六君 津村証人にお伺いします。この日本新聞について述べることがあつたら、最初に述べて頂いて、それから証人を告発すると言つておる細川証人について知つておることがあつたら述べて欲しいのであります。
  233. 岡元義人

    理事岡元義人君) この際ちよつと細川委員に申しますが、二人証人がまだ御発言がないのですから、証言が終つてから、津村証人は一應前の大体の概況は述べて頂いておりますから、御了解ができたなら後の二人から一應証言を願いまして、後に細川委員質問から始めることにして如何ですか。
  234. 細川嘉六

    細川嘉六君 今私が申しましたようにやつて頂きたいのでありますが、後の二人は又別のことでお話になればいいと思いますが、どうぞそのように取計らい願いたいと思います。
  235. 岡元義人

    理事岡元義人君) 先程申合せいたしましたように、一應証言を一通り終りましてから質問に入りますと、議事の進行が円滑に行くと考えられますのですが、只今細川委員の御発言がありましたが、この点について他の委員から御発言はございませんか。
  236. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 申合せ通り御進行願います。
  237. 岡元義人

    理事岡元義人君) 了承できますか。    〔「了承々々」と呼ぶ者あり〕
  238. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 いろいろそうやつて揉み合つていると長くなりますので、初めの申合せ通りお二人に簡單に願いまして、それから細川さんの質問から始めて頂いたらいいかと思います。
  239. 岡元義人

    理事岡元義人君) 申合せ通り議事を進めます。先ず松澤証人証言を求めますが、証人が関係しておられたナホトカにおけるところの青行隊の組織等について御証言を願いたいと思います。
  240. 松澤清勝

    証人(松澤清勝君) 申上げます。私がナホトカに残留したのは二十二年の五月でした。何故ナホトカに残つたかということを、これについて青行隊の問題についても関連しますから申上げます。私は入ソ当時から三回も收容所が変つております。最初はチタ地区のカクイスキ、次にバレーというところの鉱山、その先にノバヤというところの製材所に変つております。そもそも私がナホトカに残つたというところのものは、入ソした当時からの体驗がそうされたのであります。入ソ当時、先程からの証言もありましたが、全く軍隊制機構そのままを持つて行つた。そうして將校達は何を言うたかと言いますと、我々將校は兵隊達を無事に祖國に帰す責任がある、一日も早く帰つて來ることを持つておる父母、妻子、或いは兄弟というような人達に元氣な姿で皆で帰らなきやならん、そのために我々はますます軍隊気律というものを維持して、元氣旺盛、そうして帰らなきや駄目だということを言われました。併しながら表面は非常にいい民主的な言葉でありますけれども、旧軍隊制の紀律というものを維持したらどうなるかということは、すでにあの暗黒軍隊制を知つておらける委員諸公にはお分りのことと思いますけれども、その兵隊達の無権利状態、こんぺい糖みたいな階級章一つで徹底的な差別がある。而も食事関係から言つたならば、これはここで食事関係を申すのはどうかと思いますけれども、古年兵の飯は初年兵の飯より一匙多い。兵長の飯は上等兵の飯より一匙多い。下士官の飯は將校の飯より少い。これが旧軍隊制であります。それでそうした旧軍隊制をますます嚴正に実施されたために、ぱたぱたと初年兵、補充兵は死んで行つた。あの敗戰当初、半年乃至一年間というものは死んで行つたものは將校は一人も死んでいなかつた。皆死んだのは我々初年兵の同志であり、又二十年五月或いは六月に入隊した補充兵であつた。而も彼ら將校は、そう言うけれども、そんな非常にいい言葉で我々を騙しておつたけれども、彼らは傲然と將校室に閉じ籠つて、朝から晩まで碁、將棋、麻雀をしながら、我々の食糧の上前をはねて、特別食を十七種類も作つてつていた。このことを我々が將校に言えば、いや食糧の少しのはソ側のせいだ。而も労働のきついのは、我々は捕虜だから仕方がないというふうにして、我々は泣寝入りで過して來た。併しながら隣の戰友が死んで行き、次にその隣戰の友が死に、そうしていつ我々の生命も死んで行くか分らないというようなところにまで追込められて來たときに、もう階級章もへつたくれも要らないということになつて、自然発生的に友の会というような組織に纒まつてつて、反幹部鬪爭これが起きた。私共の收容所では大体二次の、二次といいますのは五月、六月と入隊した、私の入隊は二十年の二月でした。それで二次というのは五月、六月の間に入つた補充兵のことです。この人達は若干学校もふんでおり、自由主義時代の地の中を見て來ているという関係上、率先してこの運動に参画して來ました。そうしてこの軍隊制機構を打破しなければ、我々はもう生命を維持して行くことができないというところまで來たのであります。そこでこのことはあとから私はナホトカに残つてから分つたのでありますけれども、これはシベリア全地区收容所において、こうしたところの形態の鬪爭が行なわれたという事実であります。即ちこうしたところのもので、友の会で以て、いわゆる今問題になつているところの兵士大会、これが行なわれました。でありますからして、兵士大会というたところのものは絶対にナホトカだけの特殊な事情の下において行なわれたものではないということであります。そうして、その兵士大会において我々は先ず階級章の撤廃を叫び、そうして食事の公平分配、完全なるノルマの分配、而も將校達の不正摘発というふうな、こうしたスローガンを掲げて我々は鬪いました。そうしてこのときはソ側の收容所長或いはその他に関係の人から、お前達は將校がいなくなつたらどうするのだ、誰が統制をとるのだということを言いました。併しながら我々は、いや必ず將校がいなくても、我々が今まで以上に作業のノルマも上げるし、又收容所の設備についてもよくやるというふうなことを誓つて將校を追放したのであります。それでこのこうした一般的なあれが私としてはカクイスキーではでき兼ねました。そうしてカクイスキーを発つたのは翌年の二十二年四月十日頃です。そうしてバレーという金山の鉱山町に行つたわけです。ここでもやはりカクイスクー同樣に大隊長に敬礼をやつて毎朝点呼したり、一月一日は拔刀までして皇居を遥拜したということを聞いております。そこで階級章の撤廃等や何かをやり、その後十月に私はノバヤに移轉になつたのであります。
  241. 岡元義人

    ○岡元理事 ちよつと証人に申上げますが、今の証言中の地名がはつきり分らなかつたそうでありますから、はつきり分るように、今申された点について……
  242. 天田勝正

    天田勝正君 どこへ移轉したという地名、場所を……
  243. 松澤清勝

    松澤証人 ノバヤです。ノバヤでは原田中尉、清瀬少尉、その外もう一人少尉の方がおりましたけれども、ここでは非常に民主化されまして、久米という兵長の人が民主グループ、元の友の会の委員長になりまして、いろいろと日本新聞の研究会或いは收容所をどうして行つたらいいかというふうなことについて大衆討議をし、そうして着々と民主的な收容所生活を築いて行つたのであります。そうしてノバヤを発つたのは二十二年の四月でした。いよいよ帰るというので、私達は非常に喜び、大きな抱負を抱いてナホトカまで來たのであります。その当時ナホトカは各地区收容所から輸送される人達で数万の人が殆んど設備が不完全なために野宿したり、或いはぎりぎりに詰められて、兵舎に入れられて罐詰のようになつてつたのでありますが、そこで働いている、ここにおられる津村証人達の働きに私は感激しました。本当にもう一刻も早く帰いたいという氣持を抑えて、同志同胞六十万の輸送完遂を目指して何ら報いられざるところの自己犠牲、この精神一点張りでやつておられる。その姿を見て私も、よし俺もそれなら引揚の捨て石となろう、この決意でそこで私達は中隊から五名の残留希望者が出たのであります。そうして私は当時組織的なそうしたものは全然分りません。段々時日が経つにつれて收容所の性格、或いはその他のことについて樣子も分つて來るに從つて只今委員長証言を求められたように、青行隊の隊員として、又青行隊長として活躍したのであります。この青行隊の性格というのは、いわゆるこれは各通過部隊人達、この人達の中に入つて共にこの人達作業においては働き、又いろいろと國内或いは國際情勢、又私達復員者がどうして行つたら過ちなくこれから生きて行くことができるかというようなことについてこもごも語り合つたものであります。或るときは兵舎の中に共に寢ていろいろ話したこともあります。又ここのナホトカ民主グループの推進力ともなつて、若い本当に愛國の至情に燃える若い青年のみがこの青行隊員となつてつたのであります。青行隊の機構としては、一、二、三分所、これが各分所に青行隊があり、その上にそれを指揮する青行隊長というものがありました。それだけです。
  244. 岡元義人

    ○岡元理事 続いて四國証人証言を求めますが、ナホトカにおいていろいろ宣傳等の仕事をしておられたと承わつておるのでありますが、あなたのやつておられた仕事の範囲を述べて頂きたい。
  245. 四國五郎

    証人(四國五郎君) それでは質問にお答えします。私が集結地においてやつておりました仕事を述べるために、集結豊に残つたところの動機、これも併せて述べます。  私は二十年の十月ソ同盟の第五收容所に收容されました。入所当時は各收容所において同じであつたように、私達も戰爭後の癡呆と、それから軍国主義的な反動的な幹部、これの悪辣な兵達に対する圧迫、これによつて非常に悲惨な状態に落ち込んでおりました。私的制裁ということは、元の軍隊において我々は十分経験して來ましたけれども、これが特に敗戰と同時にソ同盟に入つてから最も兇暴な形で現れて來まして、そうしてちよつとでも反動的な將校の意向に反した場合非常に悲惨なところの制裁が加えられました。特に自分隊のおりました部隊は、補充兵として召集された四十或いは五十近い、相当年輩の方も沢山おられましたけれども、それらの人達がやはり同じように星の数が多いというだけの理由で以て非常に残酷な制裁を受けておりました。そうしてその私的制裁はただ暴力的なものだけでなくて、絶食或いは過重な労働を課す、そういつたことによつて我々兵隊が肉体的な衰弱と共に段々病人になる者が殖えて裁りました。そうして私自身も病氣になりまして、第五收容所のゴーリン病院に入院いたしました。私のおりました二つ隣りの收容所、二〇八收容所と呼んでおりましたが、その收容所におきます例をとりますと、兵隊、特に初年兵、こうした者が段々病氣になつて、入院して、そうして後に残つた者は殆んどが將校と下士官の一部であつた、こういう事実もあります。そうして私は病院に入つて回復して、その病院でやはり働きましたけれども、そこで私のやつておりましたのは、自分の元の收容所と同じように、そこの反動的な幹部、この独裁的な方法によつて常にこき使われておりました。それでどうしても自分達が生きて日本に帰るためには、こうした階級制度、これを撤廃しなければならない、こういうことに氣がつきまして、段々仲間が集つて参りまして、そうしていわゆる集会を持つたわけであります。その集会が段々数を重ね大きくなりまして、そうしてその反動的な幹部、これを退けさせ、そうして我々が選挙で本当に人間として立派な人、これを代表に選んで、そうして日常の生活をやつて行くようになりました。そうしたことによつて毎日曜には演藝会をやるとか、或いは仕事の休みのときには野球をやつて樂しむとか、或いは日本に帰つてのいろいろなことについて本当に建設的な意見を述べ合つて過すとか、そういつたように段々自分達の生活というものが明るく自由になつて参りました。それによつて私は本当に自分達が自由な樂しい生活をするためには、民主主義的な方法でなければ絶対にならないというところの確信を持つたわけであります。それは第五收容所の殆んどの分所に亘つてもそうした状況が展開されまして、段々民主的な收容所となつて行つたのであります。勿論その幹部の將校或いは下士官としましても、本当に人間として立派な方、これは早くから階級章を外して、そうして皆と同じ人間として、日本人としての立場に立つてつて行つたために、非常にそうした明るい生活というものを早く勝取つたところの分所もありました。併し最も兇暴な幹部、これのおる收容所、このような幹部こそいつまでも階級章をくつつけて、そうしていつまでも兵隊の上に君臨して、兵隊の糧秣のピンを刎ねて、あらゆる使役に初年兵、兵隊、これを使いまして、いつまでも非常に苦しい生活を続けておつたのであります。大体その頃が二十二年の夏でありますが、帰國の命令が來まして、二十二年の九月一日に私は一個の梯團の中に入つてナホトカに参りました。そうしてナホトカに着いたのでありますが、そこで私が感じたことは、非常に帰つて行く我々に対して温かい態度で以ててきぱきと接してくれるナホトカ人達の印象であります。そうしてナホトカへ入つていろいろ事情を聞いて見て、それでナホトカの状況というものは、私が参りました二十二年の九月、この非常にナホトカ民主グループの人員というものが不足しておりました。毎日日夜詰めかけて來る梯團を迎えて、夜となく晝となくいろいろな業務をやつておるナホトカ民主グループ人達、これはその過労、そうしてことから段々と病人が殖えて参りまして、そうして、人手が不足しておるということを聞きました。それで私としましては、このソ同盟に止まつておる六十万の日本人を無事に日本に送り帰すためには、どうしてもナホトカの業務、ナホトカにおるところの日本人というものはどうしても必要である、そういうことを痛感しました。それと同時に今までナホトカにおいて働いていて非常に帰りたい氣持のそうした日本人を無事に送り帰すために、集結地に踏み止まつてつておるところの集結地の人達に対する大きい感謝、これが私の決意になりまして、集結地に残留することを志望しました。そうして第一分所に残留したわけであります。それで私の第一分所でやりました仕事といいますのは、私は特に業として画を描くことを知つておりますので、いろいろ分所内の美化、美化というのはいろいろな花壇を設けたり、或いはアーチとか、いろいろな裝飾を作り、或いはクラブを作り、ポスター、壁新聞、こういうものを製作する、こういつた仕事をやつております。ポスターとか壁新聞、こういつたものの内容を申しますと、当時書いておりましたものは、先ず戰爭に対する徹底的な反対、軍國主義的な仕組み或いはそうしたものに対する反対、これを特に取上げて書いておりました。ソ同盟におる日本人の我々こそ本当に戰爭によつて蒙むつたところの最も大きな被害者の最たるものである、だから二度とこういうことを繰返さないために、又日本が二度とこうした悲惨な状態に陷ることを救うために、戰爭に対して、或いは軍國主義に対して徹底的な反対を、ポスターとかスローガン、壁新聞、こういうものに盛り込んで描いておりました。勿論戰爭反対のポスターを描きます場合には、戰爭によつて沢山死んだ我々の同胞達、こうしたものも描きました。それから軍國主義的な日本の軍隊において、過去において自分達がさんざんに將校から制裁を受けておる、そうしたところも描きました。それから自分達が直接身を以て経驗して來たことによりまして、本当に自分達をこのように苦しめたもの、これは階級章である。階級章が、一つでも星が多いために、自分達はいわゆる幹部の命令というものを、天皇の命令だという名の下に絶対服從をさせられて、このように悲惨な目に遭つた。だから我々はこうした仕組に反動する、こういう意味で以て天皇制を倒して、そうして民主的な日本を作る、こうしたことをスローガンには特に書きました。このような内容は、大部分がやはり通過して帰つて行く中隊人達の中から投稿されたもの、或いはこのようなものを書いて欲しいと言つてつて來られた原稿、このようなものを民主グループで以て檢討しまして、そうして壁新聞なり、スローガンなりにして掲示したのであります。  そのようにしてやつておりまして、翌二十三年の一月末になりまして、いよいよ二十三年度の輸送が始まるということになりまして、私は二分所の方へ轉属になりました。それは雪が降つたために、非常に分所が荒れており、輸送再開に備えて新らしく分所を整備するための任務を持つて私は参りました。そうして雪解けと共に分所の美化を始めまして、ソ同盟から日本に帰つて行く人達に少しでもよい感じのする分所にすること、そうして少しでも不備をなくして、円滑に輸送業務ができて、何ら停滯する混乱なんかのないようにして日本に送り還す、こういうことのために、私はいろいろと分所内の美化、或いは綺麗なポスター、このようなものを作つて分所内に掲示しました。民主グループの人員というものが非常に少いために、輸送が間近に迫りまして、いろいろと整備するための煩雜な仕事に毎日を追われておりました。そうして二十三年の五月五日第一回の輸送が始まり、輸送が始まりましてからは、各通過して帰つて行く部隊の方から、沢山の新聞の原稿、或いはスローガンの原稿、そうしたものをどんどん出して呉れるようになつておりましたから、それによつて発行して行きましたが、例を取つて申しますと、壁新聞にしますと、その通過して行く人達から出て來る原稿というものは、一ケ月に千枚を突破するようなことがございました。そうして二十三年の十一月輸送終了が間近になつた頃、私は帰つて参りました。当時一分所が、やはり日本人收容のために使用されておりましたが、今度は朝鮮人の收容のためにそれを使用することになりまして、そこを引揚げることになりましたので、一分所の人員が二分所に入つて來たこと、それと共に私は身体をこわしておりまして、そうしてグループの全員から、是非この際帰るようにということによつて、私は帰つて來たのであります。それで私が考えますのに、あの集結地において日本人がいなかつたならば、絶対にあの輸送業務というものは円滑には捗らないだろうと私は考えます。輸送業務を最も円滑にするために、ソ同盟側との意思の疏通を図つて、そうして少しも停滯のない円滑な輸送、これを行うためには、どうしてもあすこに日本人が必要であります。そうしてその任務に基いて、帰るべく集結して來た人達の中から敢然と残つてつておるのが、ナホトカの集結地の民主グループであります。これで私が集結地においてやつておりました業務のお答えを終ります。
  246. 岡元義人

    理事岡元義人君) この際各委員にお諮りしたいと思いますが、只今三時三十五分を過ぎておりますが、十五分間休憩いたしたいと思いますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  247. 岡元義人

    理事岡元義人君) それでは四時まで休憩いたしまして、四時に再開いたすことにいたします。暫時休憩いたします。    午後三時三十七分休憩    —————・—————    午後四時六分開会
  248. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今から休憩前に引続き委員会を再会いたします。  この際各委員に報告いたして置きますが、当委員会で先程來修正案を立案中でありました特別未帰還者給與法が只今オー・ケーが参りましたから、この点御報告いたして置きます。但し最後の修正の点については前の修正案でオー・ケーが來ておりますために、穗積委員の申出の分が欠けたのでありますが、これはこの次の委員会で更に審議いたしまして、その方を処置することにいたしたいと思います。
  249. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 あとの修正案は出してあるのでございますか。
  250. 岡元義人

    ○岡元理事 只今穗積委員の御発言の問題は、先日決論に到達せずにまだ審議中であります。ただ会期の関係がありまして、当初の分が取敢ず出してあるわけであります。この点御了解願います。勿論更に審議いたしまして、修正のところがあるならば、会期と睨合せて処置する余裕があるのじやないかと思います。
  251. 細川嘉六

    細川嘉六君 先程の約束に從つて発言許して下さい。
  252. 岡元義人

    ○岡元理事 どうぞ。
  253. 細川嘉六

    細川嘉六君 津村証人にお伺いしますが、あなたは小針証人阿部証人細川証人について御存じのことを御証言願います。
  254. 津村謙二

    証人(津村謙二君) それではお答えいたします。小針君に関しましては、彼は昭和二十二年の一月にナホトカに参つております。その際に私はナホトカにおりまして、第一回の昭和二十二年の一月に船が出て行つたあとナホトカに残つてつたのであります。こうして小針君一行の部隊をあのナホトカのその第三百八十收容所にお迎えをいたしました。それから私達、元からあのナホトカにおつたところの大隊は、第一次大隊といたしまして、民主同盟という民主グループを作り、小針君の第二大隊も民主グループを作つて、二つの民主グループ一つ收容所の中にあつたまま、ずつと輸送再開まで続いております。なぜこの二つの民主グループ一つ收容所の中にあつたかと、こう申しますと、大体小針君は最初に日本新聞社におりましたけれども、いろいろな事情、先開申述べましたけれども、あの点に関しましては私が、昭和二十二年の八月、日本新聞社に参りまして、いろいろ具体的に調べた結果とは相当相違しております。そうしてそれは後で述べたいと思いますけれども、小針君のナホトカの第三百八十收容所におけるところのいろいろの生活、こう申しますのは日本新聞社に曾ておつたということを以て、兵士大衆を常にその膝下に据えておつたというのが現状であります。その具体的な実例といたしましては、我々が第一大隊の民主同盟がこうした事務所に兵隊が訪ねて來る際においても、靴を脱いでそうしてどこかお上品な家に入るような恰好でそつと皆入つて來る。で我々としてはそういうことをする必要はない、靴を履いてずつと入つて來て悠々と話していいのだ、こう我々は話すのでありますけれども、これが民友クラブの状態であります。又炊事場に一度糧秣を掻拂いに入つて來た兵隊を我々が詰問いたしました際においても、四十数歳の中年の召集兵の人が声を立てて、大声で泣きわめいて、どうか小針にだけは知らせないでくれ、こう言つて我々にしがみついて來た。こういう現状であります。で私達といたしましては、当時民主同盟の委員長である田中敏という当時二十四歳の若い青年でありました。私は民主グループに入つたのは、先日のこの委員会においても申述べました通り、別に民主主義の何たるかも心得たわけでもない、我我兵隊が正に明日死ぬかという状態まで叩き込まれたときに、我々の心の中に如何に……、泥棒をして道に落ちておるものを拾つて喰べるという状態にまで叩き込まれても、尚自分の心の中に残つておるところの日本人としての意識、人間としての考えが初めて……、こうしたもののそこに蔽われておる眞実を我々は求めまして、民主グループというものを作つておる、小針君は曾ては日本新聞社におつて如何なる思想、如何なるものを持つてつたか知らないけれども、彼等が一月にナホトカに参りまして、そうして四月にナホトカの第一船に民主グループ委員長として乘込んで行つたそのときまでの期間、彼が兵隊に與えたことろの影響というものは、先に申述べましたところの二つ、そしてこの二つに関しましては、日本に帰つて來ていろいろ当時のいわゆる大和連隊、こう言われておるところの人達を尋ねることによつてもこれは実証されております。それで小針君は日本新聞社に対して個人的な恨みを持たれておるということは私もよく分る。併しながら彼の只今証言なされたことに対しては、いろいろ人名その他についても、例えば淺原、ペンネーム諸戸文夫という人も、昭和二十一年の六月、吉良金之助も当時日本新聞社に参つておる。小針君と相前後して、ほんの短かい期間においてここにおいて入れ代つておる。又最初において宗像肇、これは「はじむ」こういうのが本当でありますけれども、こうした人達が今ハバロフスクにおいて日本新聞を最初に発刊した昭和二十年九月一日、この際におきましても、ソヴィエト側のコバレンコ・マイヨール、コバレンコ少佐、これといろいろ協議して、そうして日本人の捕虜に対して内地の状況や世界の状況を傳える。そうして暗黒の、又郷愁を覚える淋しい氣持をそうしたところにおいて慰さめるということが一番最初であつたけれども、入ソしたところの我々日本人の捕虜の状態というものが曾ての軍隊制度の下において、そうしたものに振向くというような余裕もなく、朝から晩まで我々びんたを加えられて、そうして曾て日本軍隊が健在であつたとき以上の残酷さを以て我々の生活は律せられて行つたという、そうした状態の下において、独り日本新聞がのんびりとした、いわゆる我々に対するところの慰安とか、そういうことでは納まらないというのが現状であつたのです。こうしたところから日本新聞は自然に我々の悲惨な状態、こうしたことの原因がどこにあるか、それをずつと遡つて行つたところに始めて天皇制の問題も究極のところにおいてこれは出て來るし、又全世界を蔽つたところのフアシズムなるものが如何なるものであつたかという点も、これを突き止めるという段階まで至り、その当時においては決してこれは宗像、諸戸、吉良、高山、こうした諸氏の独裁とか、これはソヴィエト側とくつついて自分らの自由自在でやつていたということではもうすでになくなつて、その当時はもう小針君は日本に帰つておりますけれども、各收容所の代表者がハバロフスクに行つていろいろ檢討して、日本新聞の行き方はそうしたものに対しても徹底的にお互い批判会を開き、シベリアに抑留せられておるところの六十万の関東軍、朝鮮軍、樺太軍、千島軍、こうしたものの人達、これの殆んど何%かの大部分、こう推定されるのでありますけれども、そうした趣意に基いてあの新聞は編集せられ、運営せられて行くという結果に次第に移行して行つたのであります。そうして小針君が……、話が又元に戻りますけれども、小針君が四月の三日最初の船によつて帰る際においても、あの男に誰か日本人が残つてくれ、こういうことになつたときに、民友クラブの委員長であつた小針君、民主同盟の委員長であつた田中君を始めとして、私はそうした一月以來の彼らの生活態度、そうしたものからしてこれはえせ民主主義者、民主主義の名の下において、意識するとしないとに拘わらず、兵隊にただ單なる精神的な圧迫のみではなくて、帰さないというたところのものを感ぜしめて苦しめたという、こうしたえせ民主主義者達が、その実証として一番先の船で帰つておる。而もその一大隊、二大隊の人達が全員帰つてか、こう言えば、まだ二、三百名の人達があすこに残つておる。そのときに長であつたところの者が一足先に帰るということ一事を以ても彼等の状態はお分りになると思う。私は決して自分から進んで残りたい……、本当の心を言うと私も帰りたかつた。併しながらそこに残つて、そうして日本人のためにやるということが、私の心の中にあるところの人間、即ち日本人としての氣持がそうさせた。ところが小針君田帰る際においても、俺は社会党に日本に帰つてから入る、四月の総選挙において代議士に立候補しなければならない、だから俺は早く帰りたいということをソヴィエト側のさつき言つたゴロフニン中尉、こうした人にも洩らし、そうしたものが小針君や、その他の人達が帰つて後においても、ソヴィエト側のいわゆる笑いの種になつておるということにおいて、同じく小針君の部隊から残つた北川昇君、これは先日の細川証人証言にもありました、当時連隊長としておつたとこう言つております北川昇君、この人は小針君を信頼して、そうして彼の下において民主運動をやつて來たのであるけれども、そうしたすべての事実を北川君が知つたときに、自分も同じようにして無意識のうちに兵隊を苦しめたことを彼は後悔し、俺を奥地に送つてつてくれ、俺はこういうところに残つておられる人間ではない。無意識であるけれども、小針君の下において兵隊をいじめた、奥地に帰してくれと言つて我々のところに彼はやつて來ておる。そうして非常に苦んでおる、我々民主グループは彼が日本に帰つて、そうして日本の現実はあなた自身のそうしたいわゆる後悔などをして弱い氣持になつておるものを直してくれるだろう、こう言つて彼を帰しておる。これは先日の証言にも言及いたしますから、これからお話したいと思いますが、その直後北川昇君は、舞鶴においてナホトカ民主グループの責任者をやつてつたということを以て殺されたというデマがハバロフスクはおろか、あの附近一体にこれはどこからともなく拡がつて來たのであります。そうして次から次へと体を悪くして帰つて行くしころの集結地の民主グループは皆舞鶴においてやられるというデマが、これは全くデマであろうと私は思います。デマが民主運動をやつておる者の間にこれが傳つて來る、そうして杉田茂君が昨日の証言において政治部員組織部長の津村何某、これは恐らく私だろうと思いますけれども、私の大衆カンパによつて精神異常を來し、船から落ちてそうして死んだということが舞鶴の復員官から奥さんの許にこれが傳えられて、そうして新聞にもそれが書き立てられておるということにおいても、全くこれは杉田君の事情を全然知らない、そうして意識的にこれをこぢつけようとしておるところのものであるとしか私は考えられない。その証拠と申しますのは、私は杉田君が昭和二十二年十一月にナホトカに残された際、この際においてもナホトカの医務室は大体二百名前後の勤務員を絶対に必要とする、併しながら医務室関係の人達は十分御承知だろうと思いますが、入ソ以來、最も樂な生活をしたのは医務室関係で、医務室において我々兵隊を診断し、ただ藥を盛るという程度でずつとソヴィエトにおける浮虜生活というものを終つて來ておる。彼らに自分から進んでナホトカに残つてくれというのも無理であるし、彼ら自身から又自分達から残るということを言つて來るのは当然で、そうしたところから無理である。我々は止むを得ない、又ソヴィエト側としても止むを得ないので、そうしてこうした人達にいろいろ事情を話をして、二三ケ月とにかく残つて日本人の人のためにやつてくれと言つてつて貰うのがこれは普通でありました。そうして細田君が昭和二十二年十一月に最も民主運動が盛んであると、こう言われておるハバロフスクから杉田君が梯團長としてナホトカに來ておるから、立派な民主主義者である、そうして彼は医務室に入つてつた際において、医務室の人達が非常に官僚的で万人に対して、もう自分達は残された、だから帰る時期が來るまでのこれは單なる仕事なのだ、こういうような状態で兵隊に臨んでおる。こういうものは我々のグループのところにも通過部隊の投書として沢山に來ておる。これを杉田さんは、それを一番先に言い出しました。私のところに見えまして、医務室の方達は帰つて行く兵隊に対して、幾ら集結他の民主グループから頑張つてくれと言われてもそばからそれを崩して行く。私はハバロフスクにおいて民主運動をやつて來たし、又こうした状態は非常によくない、何とかして自分はこういう態度を改善したい、こういうふうなことを私のところに相談して來た。私は杉田君に対して、一つそれは非常にいいことだし頑張つてくれ、こう言つて彼を私は帰しております。それから昨日阿部証人が言われたように、杉田君の医務室において本当に素つ裸になつて患者だ、医者だという態度を捨てて、同じ日本人として内地に帰る海を見ながら、病床に横わつておる仲間を一つ看護して行こうじやないか。ところがそれと前後いたしまして、阿部さんが私のところに参りましてそうして北鮮時代のいろいろな話、又五十三收容所において如何に阿部証人が民主主義者として振まつて來たかということを、私にいろいろ話をし、私も立派な人だ、こう思つておりました。杉田君という人が医務室において頑張つておる。一つ阿部さんも協力して頑張つて呉れないか。こういうふうな話で進んで行つたのであります。そうして十一月の末の頃医務室から阿部さんが來られまして、直ぐその後で杉田君も來られて医務室に青行隊を作り、医療部とそれから指導部というふうな組織も作つた。お蔭樣で医務室の民主グループはこのように結成されたし、その結成式に一つ來て呉れないか、こういうような話でありましたので、我々民主グループといたしましても非常に喜んで、そうして只今ここに來ております松澤証人が、当時青行隊の隊長でありましたけれども、民主グループの青行隊行も一斉にそこに出て参つて私共民主グループの青行隊の交歓会をその場でやり、その席においては阿部証人は、私は医務室の委員長としてという前置を以て、その際において彼は訓辞をしておる。ところがそれから第四分所に移つたのは次の年、昭和二十三年の一月に第四分所の医務室に全員が集つております。そうして新聞にも一月の二十日に私が医務室に行つて大衆カンパをやつた。こう麗々しく書き、又先日もかように傳えられておつたようでありますけれども、当時第一分所の民主グループが第四分所に移つたのは一月の二十六日、そうして第三分所の民主グループ、第二分所の一部、輸送再開を目前に控えまして各分所に拡張整備する、そうして第四分所を基地として收容所の整備改善に務めるというところの意見をソヴィエト側と我々の間で持たれまして、そうして我々は全部第四分所に移つて來ておる、だから一月の二十日に大衆カンパを持つたということは全くこれは根拠がありません。私たちが二十六日に第一分所に移つた際に、鈴木元海軍の軍医大尉であつた、こう思いますけれども、いろいろお話して、そうして輸輸再開も間近いことであるし、一つ医務室の民主グループと、集結地の民主グループと懇談会を開こうではないか、イロイロ問題もあるし、帰還会の形式を以てこれをやつて行こう、こういうふうに協議をいたしまして、そうしてこれは持たれております。これは一月の二十七日に医務室側の日直を除くところの全員と、集結地の民主グループといわれておるところの私と飯田兄弟と興梠安則、内田晃、藤山龍馬、山本吉廣、河本義男、小山亨、この九名で行つております。そうしていろいろそこで協議したのは集結地の民主グループと、医務室の民主グループとは、どうして差別しなければならないか。そうして輸送再開を控えて現在その体制を整えなければならないというけれども、いつ帰れるか。医務室としてはいつ交賛さして呉れるかというふうな話でありました。そしてこの輸送態勢を迎えるということにおいて、阿部委員長を初めとするところの医務室の民主グループというものが、ではどういうふうな輸送再開に対して対策を立てているかという檢討が始つたときに、杉田茂君が医務室の民主グループの指導部に都築軍医大尉、こうした人達一緒に編成されておりましたけれども、結局何にもやつておらない、これではどうして輸送再開が迎えられるか、又そのときにおいては、患者からの投書として二通の投書を我々は持つてつております。それは医務室の勤務者がいろいろ日本に帰る準備を、自分達だけでやつている、町に出て行つて煙草を買つている、これも併しいいことである。併しながら医務室の患者達が、碁や將棋を打つて、そうして、自分達で樂しんでいる、これは入所した当時医務室が特権階級としてやつていた頃と何ら変りがないではないか、そうして、看護に來ても、中には昨日は何時まで麻雀をやり碁をやつたので、とても今日は眠くて堪らないというようなことを患者の前に來て言つておる、こういうふうな投書が我々のところへ参りまして、我々はそれを持つてつてこれも読んでいる。そうしたところから杉田君が直接最初に阿部委員長と共に民主運動を始めた人として、仲間として私は批判をいたしました。だからこれは大衆カンパいわゆる人民裁判なんかとして、頻りに日本では文藝春秋に出たのが一番最初だと私は記憶しておりますけれども、それが出てからちよつと何かやつてもすべては、これは人民裁判である、大衆カンパである。こういうふうにこぢ付ける人があちこちに出て來ておるようでありますけれども、我々の言うところの兵士大会というものは、そう簡單ちよつとした人の創意でぽかぽか持たれるものではこれは絶対にない、もつと眞に兵士大衆が一丸となつて持つところの、もつとこれは権威あるところのものである、決して医務室におけるところのものは、大衆カンパとか、杉田君のそれを決定的に責めるとか、こういうふうなものはなかつた、そうして私は熱発いたしまして、直ぐその後で二月の一日から二月の五日まで私は入室しております。このときにはさつき外の軍医の名前阿部証人は言われましたけれども、堀元の見習士官、これは満洲において、地方人の医者として、戰爭が始つてから召集されて、そうして見習士官となつていた中年の立派なこれは医者です。この人に私は診て貰いました。そうして、医務室に入室いたしました。その後医務室から私が出て來て、二月の七日に再び輸送態勢のことについて医務室と懇談会を持つております、この際に懇談会を終つて出て來ようとしたら杉田君が私の後を追つかけて來て、いろいろ当初からの医務室の民主運動について、共に話し、その最後に彼はこういうことを私に言つておる。このナホトカ民主運動をやることについて、舞鶴において殺されるということが言われておるけれども、これは事実かどうか、で私としては、勿論これはデマであつて、日本は終戰後、民主國家としてできている筈であるからして、決してそのような昔の特攻的なものは絶対にない筈だ、絶対に心配することはない、こういうことを私は彼に話しました。ところがそれから、彼が二月の九日に、それから一週間から十日に亘つて入室しておりますけれども、それまでに至る間、外來の都築元軍医大尉、彼が、外來の主任をやつておりました。その下で杉田君は医務室勤務をやつておりました。直ぐその隣りが民主グループのこれは事務所でありました。そこに杉田君は夜になると私の所を訪ずれて來て、いろいろいつも話しておつた、その中にいつも出るのは舞鶴におけるところの集結地に対するいろんな問題のデマの根拠、事実かどうかということを、いつも私に聞いております。こうして杉田君田非常にそのことを苦に病んだ、こういうふうに皆言つております。カンパのために氣が狂つたというておりますけれども、杉田君はカンパのために氣が狂つたのではない。又彼が絶対に氣が狂つておらなかつたということを私ははつきりと申上げたい、これは医務室から帰つて來ておるところの都築、堀、その他の軍医、稲垣大尉、瀧野少尉、瀧野元少尉は隔離のこれは主任でありましたけれども、杉田君は隔離に約一週間から十日の間入室して体を休めております。絶対に精神に異常が來ておるということは認められない、だから私の言いたいのは、舞鶴において、集結地民主グループなるが故に、死とまでは行かなくとも、いろんないわゆるリンチが加えられておるのではないかというふうな船説が、どこから出て來たか知れないけれども、こうしたものが出て來て、そうして杉田君が帰る際において精神異常というふうに思われるようになつて、彼は帰つて行つたということを思い併せて御覧になつたならば、彼がナホトカにおいて民主運動をやり、そうして帰つて行つたということを較べて見たならば、お分りになると思います。そうして杉田君が帰る際においても医務室からはこの際に大井というドクトル、これは「だに」膿症のために隔離病室におりましたけれども、頭が少しぼんやりしておつた人です。それと浦田証人——昨日出て來ておりましたけれども——浦田証人、この二人が杉田君に附添となつて、そうして帰つてつております。ところが帰る日においても杉田君は裏山に行つて云々ということは、先日の浦田証言の通り、そうして第三分所に三日の午後に遅刻のために移動し、七日の復員式に備えたのでありますけれども、その夜中の二時頃稲垣軍医が不寢番をしておつたときに、夜中の二時頃ですね、帰つて來て、そうして稲垣さんに問い質されて、スプーンを取りに來たと、こう表面は言つたけれども、帰りたくない、俺は最後までナホトカにおいてやつて行くということを常々私に言つてつた通りのことをそこまで言つて、そうして彼は残ることをここで欲しておる、ただその原因が舞鶴においてリンチがあるとのみ考えているから、そんな馬鹿なことはないから、奥さんも子供さんもおるし、元氣で帰つてくれということで、次の朝点呼前に、その看護兵のサクチヨクという人の特別の計いで、誰にも知られないうちに三分所に連れられて行つております。そうして帰つてつておる、これによつて杉田君がどういた人間であつて、どうして日本に帰りたくなかつたかということはお分りになつたと思いますけれども、私がそれについてもつとお話しいたしたいのは、杉田君が帰つたその同じ月の九月の二十九日に私はナホトカから乘船いたしまして、そうして帰つて來ております。私としてはこの際において、私の目で見て來たところのものを、そのまま船に乘つて、そうして日本に上陸するまで、私の家に着くまでの間のことを、お話しいたしたいと思いますけれども……
  255. 岡元義人

    ○岡元理事 尚これは証人にいろいろ質問があると思いますから、その都度述べて頂きたいと思います。
  256. 津村謙二

    津村証人 今のところで止めるのですか。
  257. 岡元義人

    ○岡元理事 ええ。
  258. 津村謙二

    津村証人 今止めたら変ではありませんか。
  259. 岡元義人

    ○岡元理事 後程まだ質問がありますから……
  260. 津村謙二

    津村証人 では杉田君のことについて……
  261. 岡元義人

    ○岡元理事 では杉田君のことだけどうぞ続けで……
  262. 津村謙二

    津村証人 私が五月の二十九日にナホトカから乘船いたしました。ところが船に乘つてから各中隊の幹部が全部集められまして、民主運動を向うでやつて來た者の名前を知らせろということを言われました。そうして私の所属しておつたところの最後尾の中隊中隊長は私のところに飛んで参つて、そうして聞かれて止むを得ずあなたの名前言つてしまつた。こういうふうに私のところに言つて來ております。それで私は船宝の立派なところに連れて行かれまして、いろいろ御丁寧なるところの御挨拶を受けて、その中で暫くいろいろなことを聞かれ、調べられました。そうして舞鶴に私は着いております。六月の一日に舞鶴に上陸いたしました。さつきの小針証人証言にもありましたけれども、いろいろ私としても差支えがあるのではないかとこう考えられるし、小針君の証言の際においてはつきりしておるかも知れませんけれども、重ねて舞鶴に上陸後の私の杉田君に関するこれらの証言について、委員会の責任をとつて頂くことをここでお願いいたじたいと思います。
  263. 天田勝正

    天田勝正君 何ですか……
  264. 岡元義人

    ○岡元理事 事実をそのまま述べて頂きます。
  265. 天田勝正

    天田勝正君 事実をそのまま委員長から述べさして頂けばいいのです。
  266. 津村謙二

    津村証人 事実をそのままですね。——それで私がこれから述べます。私は舞鶴に着きまして、そうしていろいろ四日間に亘つて徹底的な取調べを受けました。最後の日、私は調べられた際に、杉田君という名前を知つておるかということを私は聞かれております。でその節においても、杉田君は非常に君のことを悪く言つてつた。杉田君はナホトカにおつて氣狂いの眞似をしておつたそうだ。こういうことを私に言い、そうして私のことに関しては、いろいろ私を個人的に憎んでおるところの人達、これは向うで兵士大会や、その他にかかつた人達が恐らく大部分であると思いますけれども、そうした人達が、いろいろ私の箸の上げ下ろしからのいろいろの情報をあの場に提供しております。そうした私の証言一緒に杉田君が特にナホトカにおつて、いろいろなことに対して非常に悪く言つてつたという、そういう事実、そうして氣狂いのふりをしておつたというとことのものを、帳面に書いたところのものを私の目の前に置いております。それで私といたしましては、その場において裸になつて、全部檢査せられて、その結果肺炎を悪くし、壊血病のために顎から血が出ておる。脚氣、そうして栄養失調という診断、これは舞鶴の復員局の人に聞かれたらお分りになることと思います。そうして私は使いものにならない射として、私はあの舞鶴から出ております。だから私は、それから杉田証人は、絶対にこれは死んでおらないと思う。彼がナホトカでいろいろ夜中に話し合つたことからして、彼は日本に帰つておるけれども、そうしてあのときの話から、私の悪口を言つて家に帰つておると、こう私は考えてずつと暮して参りましたけれども、初めてあの新聞で、彼が投身自殺したという事実を知つたのであります。
  267. 岡元義人

    ○岡元理事 ちよつと証人に——、発言中ですが。
  268. 津村謙二

    津村証人 で私はこの話の途中で申上げたいのは、委員人達で笑つておられる人達もあられるようでありますけれども、私は非常に眞劍な氣持で話しておる。そんな笑われるようなものであつたならば、人を喚び出して人が死んだ生きたということを私に聞かれる必要はないと思います。
  269. 岡元義人

    ○岡元理事 津村証人委員長からちよつと御注意申上げて置きますが、ただ発言中に非常に漠然といたしておるところがあるようです。で誰がそういう杉田さんの手紙をあなたに見せたのか。そういう点を明らかにしておいて頂きたい。尚委員会に対する批判はできるだけ避けて頂くようにお願いいたします。
  270. 天田勝正

    天田勝正君 できるだけというのはどういうわけですかな。これは私は聞いておきたいと思う。できるだけという話はありません。我々議員は、自分個人でなしに、多くの人の投票を受けて参つております。そのために議院におけるところの私共の発言というものは、國会外において責任を取ることの必要はないのであります。只今証人の言葉の中に「委員会の責任を取れ」云云という言葉があります。これは速記録にちやんと書いてある筈であります。その責任を取れというのは一体どういうことか、この際聞いて置きたいと思います。
  271. 岡元義人

    ○岡元理事 天田委員に先程の証言から……
  272. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 それはいかん。
  273. 天田勝正

    天田勝正君 議事進行ですよ。そんなことはないですよ。委員長
  274. 岡元義人

    ○岡元理事 では津村証人に、今の天田委員質問に対して証言を願います。
  275. 津村謙二

    津村証人 責任をとれと、こう私が言うたということに対しては、ちよつと速記録に書いてあるところを読んで見て下さい。
  276. 天田勝正

    天田勝正君 何だ。
  277. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 津村証人は少しどうかしておられると思いますが、そんな証人から速記録に書いてあるところを読んで呉れということは、委員長に或いは要求されるのは別でありますけれども、速記録者におつしやつたことは、それは筋違いであります。むしろ今天田委員からの御質問に対してお答えになつた方がよくはないかと、かように考えます。
  278. 岡元義人

    ○岡元理事 津村証人委員長から申上げますが、速記録の点は後程調べますけれども、只今申されたばかりでありますから、あなたも知つておられると思いますが、天田委員委員会は責任を取れというような御発言に対して、どういう意味でありますかということを聞いておられるのでありまして、その点について御証言を願えればいいのです。
  279. 津村謙二

    津村証人 委員会が責任を取れということに対して、私はちよつと今、証人私として眞劍な問題を私は話したつもりであるのです。そうしたときに笑つておられるので、ただそのことに対して私は言うたのであります。その責任を取れということまでは言つたかどうかということは私ちよつと今感じを……
  280. 天田勝正

    天田勝正君 誰が笑つたか私は知りませんが、併し委員会という言葉は笑つておらない私共もその中へ入つておる。而も笑つておる云々というのは責任を取れと言つた後であります。そういうことから、私はむしろ、これは善意に私が解釈した場合に、たしかにその言葉を使われたことは他の委員承知なんでありますから、簡單に私はこのことを証人が取消されたら一番いいと思うのですが……
  281. 細川嘉六

    細川嘉六君 先程津村証人が責任をとるように、委員会が責任をとるようにという言葉を使われたが、あのときに小針証人の場合と比較して、他に國際的の関係においての懸念があつてのことじやないかと私は推測しておるのでありますが、その点津村証人証言を願います。
  282. 天田勝正

  283. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 今質問を間違えて言つてつたのです。
  284. 岡元義人

    ○岡元理事 ちよつと星野委員に御注意いたしますが……
  285. 天田勝正

    天田勝正君 それなら、そういうことをおつしやるならば、どういう責任だか、はつきりして貰いましよう。僕はとにかく善意に解釈して、こう申上げている。それを何か憶測で、その発言のときに、國際的云々とか何とか、それは細川委員の想像なんです。そういうことではなく、責任を取れと言つたことはこれは事実なんです。でどういう責任かということを私はお聽きしているんでありますが、併しこれは証人がたまたま誤られたのではなかろうかと、こういうように善意に解釈しておるのです。だから簡單にこれは取消されたらどうか、と言うのですが、外の委員諸君がそうおつしやるなら、これは私は飽くまでその責任とは如何なることを指しておつしやつたのか伺つて置きたいと思います。
  286. 岡元義人

    ○岡元理事 ちよつと議事の進行上星野委員に……。先程の議事を円滑に運営するために、先程御発言がありましたが、細川委員発言が切れまして、議事進行という天田委員から発言があつたので、天田委員にその発言許したのでありますから、その点は御了承願いたいと思います。    〔星野芳樹君発言の許可を求む〕
  287. 岡元義人

    ○岡元理事 今のに関言してですか。
  288. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 ええ……。今のは天田委員質問を、津村証人は誤解しておるのです。笑つた云々に関しては、そこのところで責任を求めると言つたのではないかと思つて、そこのところは言わないようだしというので誤解した。ところが天田証人は(「天田証人……」と呼ぶ者あり)笑つて云々に、前に小針証人が、先程責任を求めたと同じように委員諸君が求められたといつた、ここを天田証人質問したわけなんです。これが誤解だつたから、これを了解したから津村さんの返事は違うわけであります。それで細川さんの説明で、その誤解が解けたわけだから更めて津村さんに私、前のところを言うてから……
  289. 岡元義人

    ○岡元理事 この際津村証人発言許しますから、先程の証言に対して若し訂正される箇所がありましたら発言を願います。
  290. 津村謙二

    津村証人 さつきの天田委員質問に対して、私確かに聞き違いいたしました。それで笑つたということにおいて、責任を取れというように私感じまして、全然その記憶がなかつたためにさつきのような返答をいたしました。責任を取れということに関しましては、前に小針証人が言われたと同じようにその意味で私はお話いたしました。
  291. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 貴重な時間をこういうことで費すのは甚だ恐縮ですが、いずれ速記録の中にはつきり載つておると存じますが、今津村証人の御発言中にありましたのは、大体委員会はこの責任を取る考えであるかというような意味において、舞鶴に上陸した後において、相当先に津村証人が上陸後のいろいろなことを取調べを受けたという点についての委員会は責任を取れという意味ではなかつたが、というふうに感ぜられたときに責任をという言葉が出て來た。從つてこの笑う問題とか距離が数里離れておるわけです。そういう意味で國際問題などというものは、全然これはそのときの話題の中には出て來る筋合でないから、そこで天田委員は、それは何かの語、呂の勢いから來た言葉だろうから、それはお取消になるというようなつもりじやないかという言葉であつたと存じます。でこれは早くこの事件の核心に触れまするために、こういう派生的な問題は、速かに解決して核心に触れられるように御進行を願いたい。この点について特に委員長津村証人にこのことを御注意願いたいと思います。
  292. 岡元義人

    ○岡元理事 津村証人委員長から御注意申上げますが、只今の御発言の通りであれば、前の御発言を一應お取消になつて置く必要があろうと思います。尚併せて各証人にも申上げて置きますが、先程天田委員から委員長注意がありましたが、できるだけという言葉が出しましたのは、これは一應取消します。
  293. 津村謙二

    津村証人 そういう意味において、委員会に責任を取れということは、これは取消します。
  294. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 今の津村君の証言中に明らかにして置きたい点があるから質問したいと思います。  その一つは、道に落ちておるような食物に類したものでも拾つて食べるように、非常に饑餓の状態にあつた。今日死ぬか、明日死ぬかというような食糧不足に陷つたという最前の言葉がおありでしたが、それは何のためにそういうような食糧が不足したということを意味するのですか、お答え願います。
  295. 津村謙二

    津村証人 お答えいたします。入所した当初において、先日の通称吉村隊事件においてもこれが出て來ましたように、ソヴィエト側から定量配給されておるのでありますけれども、日本軍隊の機構そのままでいたために、將校は、下士官は、という工合で、その給與一般の兵隊に対しては非常に少い。我々のごときは飯盒の蓋に半分どろどろの汁を我々は食つて、そうして伐採作業をやつた経驗もあります。
  296. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 よし、一問一答を続けます。然らば、その食糧の配給されたる全量、それは員数によつて勿論違うが、この收容所の員数と、食糧の配給される総量、それから誰が一体責任を持つてこれを取り、且食糧のいわゆる炊事は誰がその收容所においてやりますか。
  297. 津村謙二

    津村証人 食糧の炊事は、日本軍の曾ての経理部の將校、又はその他の炊事係の將校というものがこの人事をやる。全然兵隊にはこのことは知らされておりませんでした。そうして炊事係というのは、そうした將校達の縁故のあるところの人達、こういつた者のみを選んで、自由放題に作つては食べて、その余りを兵隊に寄越すというぐらいのこれは状態でありました。
  298. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 続けます。そういうようなことは当然いわゆる食糧の規格、それをあなたが知つて、そうして当然我々にはこれだけの食糧が配給せられなければならないという推定ができる筈である。そうすると、その食糧配給の規格総量については、あなた御自身はよく了承しておられたわけですか。
  299. 津村謙二

    津村証人 その点に関しましては、我々は、ソヴィエトは赤の國で、魔の國で恐らしい國であるという心一ぱいで、而も日本軍において曾て外國の捕虜を扱つたところのものを我々は見ておりました。捕虜というものはすべてこのように扱われるものと考えて、そうして、そうした氣持が、全然そうしたものを知ろうとするどころではなくて、將校の言うことは御無理御尤も、將校を通して我々はソヴィエトを見、ソヴィエトのものを知るという状態で、本当に最後のところに至るまで全然そうしたものを知りませんでした。
  300. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 分りました。その食糧問題については、いわゆる事実に附加えず、或いは逆にマイナスをせず、眞実をお語りになつておると了承してよろしうございますか。
  301. 津村謙二

    津村証人 よろしいです。
  302. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 それから、その次には殆んどびんたを打たれる、或いは殴られるというように、いわゆる入ソ後も随分そこに暴行が軍隊内においてずつと行われておつたという意味ですか。最前あなたの御証言に随分あなたの收容所でも、それらの暴行等が平氣で行われていたような御証言があつたのですが……
  303. 津村謙二

    津村証人 勿論日本軍隊と同じように、いやそれ以上にそれは行われております。
  304. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 入ソ後もですか。
  305. 津村謙二

    津村証人 そうです。
  306. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 それはあなたの大体收容所だけですか。
  307. 津村謙二

    津村証人 私の言つておりますのは、私はナホトカにおりまして、あそこから十三万近くの日本人を見送りいたしました、決して私個人の問題ばかりで私は話しておるのではありません。
  308. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 それから最前非常に杉田君に対して、あなたは友愛の情を以ていろいろと話をしておられたわけですが、結果においてはこの杉田君は初めに発狂は決してしていないというふうに言つておられたようですが、氣狂いのようになつてつたというような御証言があつたのですが、それ程あなたが友情を以て示されていろいろとお話になつたのに、そういう病的状態が起つたというのはどこに原因があると御推察になつておりますか。
  309. 津村謙二

    津村証人 それはその当時シベリアで言われておりました。舞鶴には日本の曾ての軍隊の幹部、特攻の人達、こういう人達が、舞鶴に勤務しているということが、噂としてお聽きしておりました。そうしたものに対して我々は口では大きく言つておりましたけれども、自分としてもやはり若干のそういつたものを恐怖、それに対するところの必要以上の氣持さえも我々は持つていたことは事実であります。そういつたときに杉田君がこれに対して私よりも、我々以上の恐怖を持たれておつたということは彼の私に対して言つたことの話で事実であると思います。
  310. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 他のあなたの属しない民主グループのやり方を見ると、麻雀をやつたり將棋をやつたり、そういうような遊戯の道具が自由に購入され、或いは設備されておりましたか。
  311. 津村謙二

    津村証人 これは全部曾ての軍隊から將校の人たちや兵隊の人たちが持つてつて、それがそのまま使われておりました。そうしてそれはその当時においては医務室においてやられておつた外においては、誰もやつておらなかつたというのでありますけれども、昨年の夏以後においては全シベリアの收容所が私が先程申しましたような経過を辿つて來て、朗らかに愉快な收容所になつたナホトカにおいても碁や將棋が行われております。
  312. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 それから最前他の数名の証人諸君から、いわゆる民主グループの諸君が食糧或いは醤油にしても、味噌にしても、或いは砂糖ですか、そういうような食料品を自由に民主グループの幹部諸君は持つて來て、そうして民主グループに属する看護婦等にも自由に分け與えて、そうして血色等においてもその諸君は非常によかつた。それに反する諸君は非常に食糧上不平等な待遇を受けておつたというような御証言があつたのですが、それについての民主グループの有力なるメンバーとしてこの証言に対してどういう御意見をお持ちですか、ナホトカにおいて……
  313. 津村謙二

    津村証人 ナホトカにおいて民主グループ一般部隊の食糧を「いんちき」いたして我々が沢山食べておつたというこの証言に対しまして、私は非常に歪曲されたこれは証言であると考えます。その根拠と申しますのは昭和二十二年の四月この前後におきまして、ナホトカに何万の人が集つておられたかということは、昨日証言された細川証人もよく御承知だろうと思います。この人達に飯を食わせるために、先日の証言でも申しました通り一万名に足らないところの、ナホトカの人口で五万人以上の日本人をそこのところに收容いたしまして、どのような状態があそこに釀し出されたか、我々が飯を焚くために五万人の日本人に飯を食わせるために、どれほど苦労したかということは先日の証言にも私ははつきり申上げております。
  314. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 話の途中ですが、それでよろしい。があなたはソ連の人でも何でもない捕虜であるあなたが、五万人の食糧を自分で蒐集しこれを配給するというような権限を與えられ、その責任があなた自身にどういう系統で任されておつたのですか。
  315. 津村謙二

    津村証人 それは炊事の糧秣係のところにソヴィエト側から渡されてからは飯を食わせるまで自分がやつておるからそういつておるのであります。そうしてそのようにして、食べさせておるのが二ケ月から三ケ月に及んでおります。そうしたところに民主グループの中で鶴田智君という人が過労と、そうした食糧が二、三日で帰つて行く人は、ただ我々が釜が一つで雜穀を食べさせられて、全部の人がこれ程飯も食わせられないという状態のあつた中において粉を食べさせ、それによつて二ケ月、三ケ月朝から晩まで駈廻つて民主グループが働いた結果鶴田智君はあそこで死んだ。
  316. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 よろしうございます。私のお尋ねした焦点に触れておりませんので、別なことをお尋ね申上げますが、五万人の人をそこに集結されるについては、ソ連の方々は必らずや科学的な計画の下に、そうして一切の食糧、或いは住まうべき住所、或いはこれを炊事すべき設備その他については万遺漏なき取扱いを、これは戰時國際公法の立場から考えてもやつて頂いておる筈だと、私は本当に信頼しておりますが、あなた御自身がそれだけ御苦労なさらなければ、その小さい握り飯でも食べられない。粉食でもなかなかむつかしい、そんな不完全極まる設備ですか、それらの責任はあなたが負わなければならなかつたのですか。
  317. 津村謙二

    津村証人 その質問最後から答えて行きます。私は責任を負う必要はありません。先日の私の証言ではつきり申上げました通り、昭和二十二年の三月の二十日船が來る、こういうので、ナホトカに集結をする態勢を整えたということを私は申上げております。その際においては小針証人もその時分おりました。三月二十日それに対して我我は準備いたしました。ところが二十日に船が來ないために、毎日々々來ておるところの日本人がそこに溢れて五万人以上結果においてなつたのであつて、私達としてはせいぜい一万人足らず……、私達というのはちよつと間違いましたけれどもも、ソヴィエト側といたしましては一万人足らずの人が、このナホトカで滯在し、次々船に乘つて帰るという計算でこれはやられております。ところが三月二十日船が來ない。十三日までに來る船が計画よりも、これはこちらの方でどうなつたか知りませんが、遅れたために五万人の人があそこに溢れたのです。
  318. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 分りました。そうすると今の御証言中に、日本から十三日までに來るべき船が非常にそこに技術的に喰い違つた。そうするとあなたが非常に首を長くして待つておる。船をやらないのは、結局は日本政府の責任だというようなふうに、非常にそこのやり方に対して不平不満を持たれる向きが非常に多かつただろうと思いますが、それについてはあなたの御感想は如何ですか。
  319. 津村謙二

    津村証人 非常な不平を持ちました。
  320. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 お帰りになつてから、万全を期してその船を配船する準備ができておつたということについては、新たな御認識をお持ちになることはできなかつたですか。
  321. 津村謙二

    津村証人 私が一年間ナホトカにおつて、絶対にあそこに船が來て明日乘せないということは一回もなかつたということにおいて、大勢あそこに日本人がおつて、そうして反動分子は民主グループが後送した、逆送したといつておりますけれども、これは事実はあのナホトカ收容所において船が來なくて、沢山の人をあそこで養うということが困難なために、他の收容所の方に行つて労働をやつて貰うというのが、ソヴィエト側の眞実のこれは状況であつたのです。これは或る人が見たならば反動分子だから、民主運動をやらないから、こういうふうに思われるかも知れませんけれども、私達としては條件が余りにも困難な場合においては、むしろ民主運動をやつてつたところの優秀な人達に事情をお話して、そうして不平不満を言うて絶対に聽かないところの人達を先に帰えすということさえ、ソヴィエト側の協議の下にやつたこともあります。
  322. 岡元義人

    ○岡元理事 ちよつと先程委員長から津村証人証言内容について、はつきりしてない点を、はつきりして置いて貰いたいということを求めたのですが、まだ解答がなかつたのです。それは舞鶴で杉田氏の手紙を見た、その手紙は一体誰が……。名前はちつとも言わず抽象的におつしやつたから、誰がそういうことを言われたのかその点を明らかにして頂きたいということを先程要望して置いたのであります。
  323. 津村謙二

    津村証人 お答えいたします。その点に関しましては手紙、こう委員長は申されておりますけれども手紙ではなくして、いわゆる一つ証言と申しますか……
  324. 岡元義人

    ○岡元理事 机の上に置いてあつたのか何ですか。
  325. 津村謙二

    津村証人 各人の聽取書のようなものですね。これがその人の言うたところの津村君のことを非常に悪く言つていたということを出されておるというのを、私は新聞が出るまで杉田君が死んだということを知つておらなかつたということを証言いたしたのであります。
  326. 岡元義人

    ○岡元理事 先程來午前中に天田委員から質問が留保してございましたので、天田委員発言許します。
  327. 天田勝正

    天田勝正君 簡單に申します。先ず第一に増渕証人に伺います。梯團の役員の決定、これも勿論シベリア地区におけるところの汽車輸送の場合、それから船の輸送の場合もそうでありますが、そのときはその梯團の中の上級者が任命される。各副梯団長というのは、或はアクティヴから任命されるというようなことを私共は聞いておるのでありますが、その通りでありますかどうか。
  328. 増渕俊一

    増渕証人 その通りであります。
  329. 天田勝正

    天田勝正君 次は小針証人に伺います。一問一答で参ります。  第一に入ソ当時、軍隊的な組織がそのまま維持された部隊があつたということは各証人から言われております。この時代におきましては階級によつて労働的な或いは食糧的な差別待遇を、むしろソ連側から強制すると言つては少し強過ぎますが、却つて指示された。將校は労働にも、或いは食糧的にもいい生活ができるように指示された。それに從わない隊長は処罰された、こういうことも聞いておるのでありますが、そういうことがあつたかどうか。
  330. 小針延次郎

    小針証人 お答えします。將校作業問題について、たびたび政治部將校から、將校は國際の捕虜規定によつて労働しなくてもよろしい、だから將校の労働は認めないのだ。併しそれによつて若し將校が労働した場合に処罰するかということは、私の知つておる範囲ではありません。
  331. 天田勝正

    天田勝正君 質問の第二、將校中心とする反ソ的なグループ、これには北鬪会とか一心会とか國民会とか、こういうものがあつたということを聽いておるのでありますが、証人はそうした事実を御承知であり、且つそれらの会があつたということを御承知でありますか。
  332. 小針延次郎

    小針証人 それは全然聽いておりません。
  333. 天田勝正

    天田勝正君 質問の第三は、反軍闘爭の遅れたラーゲルの摘発を日本新聞でやつたかどうか。分りますか。反軍闘爭の遅れておりまする收容所の摘発を日本新聞によつてつたかどうか。特にこれは計画的にやつたかどうかということを聽いております。
  334. 小針延次郎

    小針証人 私が新聞社におつたのは、昭和二十一年の六月十日まででありまして、その間にはそういうことはありませんでした。
  335. 天田勝正

    天田勝正君 日本新聞の購読者の友の会、これは何回も出て來ておりますが、この結成普及は勿論ソ連側が公認したのでありましようが、これを積極的に援助してそういうことをやられたのでありますか。
  336. 小針延次郎

    小針証人 そうであります。これは一番最初の出発では友の会という名前ではありませんでしたが、ともかく民主グループを作るために読書会を作ろう、最初の話は読書会という名前でありました。それは日本人側のその当時の新聞社の人々と相談をした結果、読書会ではどうもその非常に堅苦しくていけない。友の会の方が柔かくて感じがいいというので、それは日本人側が決めたのであります。
  337. 天田勝正

    天田勝正君 質問の第四、特別教育機関、特にアクティヴの養成とか、そういうことを私は指してお聽するのでありますが、或いは党員の獲得、こういうことを指してお聽きします。それは先程ライチハーとかハバロフスク、こういう言葉がございましたが、その他にイズヴェスト、モスコー、チタ、ハルボン、アヤカフカ、こうした所にすべてそうした特別教育機関が設置されまして、アクティヴの養成、或いは党員の獲得、こういうことをやつたかどうか。
  338. 小針延次郎

    小針証人 私の知つておるのは、先程申しました五地区のコムツモリスク、ホール、スーチャン、ライチハーナホトカ、それにハバロフスク、この六地区であります。それ以外は知りません。
  339. 天田勝正

    天田勝正君 質問の第五、これらアクティヴの養成の経路が、日本新聞を頂点といたしまして、その下に管区本部がある。その下に地区本部がある。その下に各收容所があるという工合で、この收容所の選拔いたしました者を地区本部で必要なる教育をする。更にその選拔した者を管区本部に送つて教育する、このような状態になつておりましたか。違つておれば違つておる点を……
  340. 小針延次郎

    小針証人 それは私の引揚後の情勢だろうと思います。私のおる時分にはそれは知りません。
  341. 天田勝正

    天田勝正君 ここにおられる証人の中で、それを最もよく知つておられるという方はどなたでございましよう。
  342. 小針延次郎

    小針証人 津村君が一番遅く帰つたから一番詳しいと思いますが……
  343. 天田勝正

    天田勝正君 それでは分りました。  次に細川証人に伺います。帰還基準のことが先程來言われて、その権限がいずれにありやを言われておりまするが、これは非常に、先ず第一に收容所、それから中間收容所、それからナホトカ、こういうことになろうかと思います。そこで初めは、これは收容所ごとに違いますからいろいろでありましようが、私共の聞いておるのでは、病弱者とか、作業成績のいい者を先ず最初に帰した。ときによつてはアルフアベット順に無造作に帰したこともある。或いは又民主運動をした幹部を頼つて或る基準に從つて決められたということもある。或いは重労働に服しておつた者は帰さない、こういうこともあつたとか、これは收容所の問題であります。こうしたことが中間集積地に参りましてやはり同樣なことがあり、それからナホトカに來て過日來言われておりましたような経過を経て帰つて來る、こういうことになると思うのでありますが、このあなたが知つておられる帰還の基準ということを一体どういう機関で決められて、これはいろいろ民主グループによつて決められておるという面も可成りあるように見受けます。併し正式にはどういう基準に從つてどういう機関で決められるということになりますか、御承知でありましたら伺いたいと思います。
  344. 細川龍法

    細川龍法証人 お答えいたします。昨日來申上げておりますが、私が昭和二十二年の四月十二日からナホトカにおりまして、当時堀という人事係りの方がおられました。この方がおりました当時大体奧地から眞直ぐに参りまして、ナホトカで二、三日おつてそのまま内地へ引揚げて來るというような場合は、ナホトカに到着いたしまして、先ず最初に滅菌消毒、その他いたしまして、患者の診断がございます。診断によりまして、この部隊と行動を共にでき得ないという者は、軍医の方から入院及び入室いたさせまして、これを患者として後日の病院船に予定して、残留せしめるのでございます。その場合は、軍医が診断をいたしました結果を、人事係の方へ通報いたします。第何中隊の某はかような病氣のために入院させる、或いは入室される、部隊一緒に行動ができない、後日に讓るのである、こういうようなことを医務室から通報いたします。すると人事係の方で、その指定された部隊のその人名を調べまして、それを日本人人事係の方からソ連側司令部の方に通報いたすのでございます。そうしてその者は患者だからと言つて、名簿から、乘船名簿から削除して頂くことに進言いたします。
  345. 天田勝正

    天田勝正君 発言中ですが、そうしますと、それは病氣の場合ですが、その外の場合も、要するに日本人側の人事係からソ連の人事係へ削除なり、何なりをすればできるとこういうことになりますか。
  346. 細川龍法

    細川龍法証人 さようでございます。
  347. 天田勝正

    天田勝正君 それじやそれでよろしうございます。四國証人にお伺いします。あなたは残留の希望を出された、そうして残つたのですが、これは松澤証人も同樣でございますが、あなたにも聞きます。この残留するとか、なんとか希望して誰が許可するのですか。
  348. 四國五郎

    ○四國証人 お答えします。私がナホトカ残りましたときは、非常にナホトカの勤務者、或いはアクチィヴが不足しておりまして、ソ同盟側の方からも残る希望者があつたら残留させるようにというお話しがあつたところだつたと思います。それで私が残留を希望しましたら、私と同時に十名ばかり残留しましたけれども、それらの者が残留することを許可されたわけであります。
  349. 天田勝正

    天田勝正君 誰が許可するのですか。
  350. 四國五郎

    ○四國証人 ソ同盟の方だと思います。
  351. 天田勝正

    天田勝正君 するとあなたが直接に申出られるのか、どなたにどういう機関に申出られましたか。
  352. 四國五郎

    ○四國証人 それは日本人管理部の係へ申し入れます。
  353. 天田勝正

    天田勝正君 勿論人事係ですね。
  354. 四國五郎

    ○四國証人 そうです。
  355. 天田勝正

    天田勝正君 それから上申されたかどうかは直接でないから分らない、こういうことですね。
  356. 四國五郎

    ○四國証人 分りません。
  357. 千田正

    千田正君 津村証人に一應お伺いしますが、さつきあなたの証言の中に、小針証人がやつておられた民友クラブというものは、津村証人がやつておるところの民主同盟とは非常に、非常にじやない、生温いというか、はつきりしない態度である、誠に僞民主主義らしい点があつたというようなことを言つておられたのでありますが、この点については具体的に言えばどういうことでありますか。
  358. 津村謙二

    津村証人 お答えします。生温いというのではありませんでした。やつておることは同じなんです。ただそのやつておることが、結局事務所の中に入つて來るにも、靴を脱いでおどおどしながら入つて來るというのと、私の方はがたがたしながら入つて來るというのと違うという点を私は申上げたのであります。
  359. 千田正

    千田正君 ただその程度の違いでありますか。
  360. 津村謙二

    津村証人 そうであります。
  361. 千田正

    千田正君 小針証人にお伺いしますが、今津村証人がさつきからあなたに対しても、小針証人のやつたことは述べられた言葉の中に十分に納得行かない点もあるようなふうに我々が聞いておるんですが、現在津村証人から只今のようなまあ話があつた。確かにそういうような差異があつたか、あなたがやつてつた友の会、民友クラブというものと、津村証人達がやつてつた民主同盟との間にどういう差異があつて最後はどういうようになつたか。そういう点についてはつきりお答えを願いたい。
  362. 小針延次郎

    小針証人 お答え申上げます。別に差異というものは殆んどないと思つております。ただ私の方の民友クラブは全部ハバロフスク出身であります。ハバロフスクにおいては、日本新聞が近くにあつた関係上、非常に兵隊の動作が日本新聞を恐れるのが、恐れる傾向がありました。從いまして私が参りますと、私は日本新聞を出て來る場合にも宗像肇君は、君がこういう罰則が付くことを默つておる、そういうことを、はつきり言われて、私がどういう失敗をしたか、アンチソヴィエトになつたかということがソヴェエトの將校だけでありました。知つてる者は、そのために私の仕事はやりよかつたであります。それははつきり認めます。
  363. 千田正

    千田正君 続いてお伺いしますが、小針証人に伺います。先般からいろいろナホトカにおける大衆カンパ、その他によつて残される人達、そうして更に別な方面に轉属されて行く、誰が一体こういう命令を下すのですか。この点が甚だはつきりしてないのであります。誰がナホトカまで來て、いよいよ帰ろうとする時、大衆カンパにおいて残さなければならんのか。残すということをどつから命令が來ておるのか。或いと大衆カンパだけでお互に日本人同士を残すべきであるということを決定してそのまま残すようになつておるのか。一体命令の系統がどういうようになつておるか。あなたが知つてる範囲をお答え願いたい。
  364. 小針延次郎

    小針証人 私のナホトカ生活は一月十八日から四月三日までで、大衆カンパはその間にありませんでした。お答えいたします。
  365. 千田正

    千田正君 それじやあなたのおつた頃には、そういうことによつて後送されたり、或いはそのまま残されて労役に服すということはなかつたわけですね。
  366. 小針延次郎

    小針証人 その当時の実情を申上げます。大衆カンパという言葉も、勿論人民裁判も、そんなことは今度初めて聞いたのでありまして、ただいよいよ引揚げが始まると帰還名簿ができます。名簿の中から拔くこともあります。拔くというのは、その場合、丁度その頃は、勿論民友クラブの方は私が委員長でありまして、民主同盟は田中敏君が委員長でありました。それでゴルフニー中尉から、この中で反動分子は誰かということを聞かれます。いわゆる反動分子というものは、ソヴィエトに対して非常な悪感を持つておる、或いは感じを持つておるというのを称して言うのか、或いは又、作業怠慢を言うのか、このことは殆んどゴルフニー中尉すらも、このことについてははつきり私達に申しておりません。そしてただその当時、私の部隊では、私は第一中隊長、第二中隊長を兼務しておりました。その外副連隊長をしておりました。そのときに、第一、第二中隊から高橋栄次郎君、これは北海道の出身であります。彼は最も熱心な民主主義者でありました。私なんか非常に彼に学んでおつたのでありますが、彼が突如名簿から拔かれておりました。そこで司令部の方に行つて收容所長に会つてその事情を聞いたのでありますが、これは間違つて落ちたのだから、この次に機会に帰すからというので、そのままになつてしまつた。高橋君が、その後帰たつかどうか分りませんが、この機会にもう一つ附加えますが、私が帰る場合に、ゴルフニー中尉は、君は妻も子供も滿洲に置いたままだ。それでソヴィエトからわざわざエリナ中尉という女の新聞の記者が、新京まで行つてくれた。宗像肇君の妻と、私の妻と子供の消息を確めてくれたので分つておりましたが、実際は子供は死んでおりましたが、いろいろ話がありまして、小針は帰つてもいいが、後任者がなければ困る。そこに北川昇君の話が出たのであります。彼はロシヤ語が非常に達者で、年は二十六歳であります。そこで彼は、小針君が行くならば、自分は残りたくないが、私のために彼は残ると言つて残りました。
  367. 千田正

    千田正君 その点は重要ですから津村証人に一應その点をはつきりお答えを願います。津村証人に伺いますが、ナホトカにおける大衆カンパ若しくばそれに類似したことによつて反動であるとレッテルの張つた者を一應次の船で還すとか、或いは何週間後に還すというような方法を採つたのは、あなた方自体のいわゆる民主グループによつて決定したことで、そういうふうに残したのか、或いはスーチャンその他に後送したのか、それともこういう事情であるから、こういう人達は残して欲しいと言うて、ソ連の司令部にそのことを申し入れて残したのか、それとも全然それとは別に、こうこうこういう者は残せというソ連側の命令によつて残したのか、その点をはつきりして頂かないと、いつまで経つてもこの結論は出ません。そこでこれはソ側の指示によつて残したのか、或いは日本人同士で残した方がよいという意味で残したことによつて、こういうような問題が起きたのか、この点についてはつきりあなたの御証言を頂きたいと思うのであります。
  368. 津村謙二

    津村証人 お答えいたします。さつき四國証人が申されましたように、民主グループとして、又勤務者として帰らないことを希望せられた際におきましては、私達の方でソヴィエト側にお願いに参ります。これによつてつて頂いております。兵士大会、大衆カンパ、こういうふうに言われておるものによつてあすこで残されたという者に関しましては、これは明らかに、戰犯として残された者だけでありまして、それ以外に直接兵士大会、それのみによつて残されたことはないということは、私は先日の証言でも五十名内外ということをお答えしております。それで細川証人の場合のようにソヴィエト側が……、我々があすこに残るのは、自分から欲した以外の者は、やはりそこの利己的なものが出て、帰りたい人達はどんなことしても先に帰りたいという人達の心理を利用いたしまして、いろいろな問題も起る。自分から進んでそこに残るという者以外は幾ら人数が少なくても、やはり我々はやつて行かなければならないということを言つて、我々が次第に身体が悪くなつて行くのを見るに見かねて、細川証人のような人をソヴィエト側で直接これを調べて残すというような場合もありました。
  369. 千田正

    千田正君 分りました。増渕証人に伺いますが、今の津村証人の御証言によると、兵士大会においてこういう人達は残さなければならないというようなことで残したことはない。あなたの場合は十八名の人達が残されて、そうしてスーチャンに行かれた。スーチャンの独立部隊轉属或いは轉入をしなければならなかつたということは誰の命令によつてあなた方が残されて、どういうわけでスーチャンまで行かなければならなかつたか、あなた方はソ側の命令を直接受けたのであるか、それとも何らかの兵士大会の結果においてあなた方はそれを甘んじて受けて轉送されたのであるか、その点をはつきりお述べ願います。
  370. 増渕俊一

    増渕証人 お答え申上げます、先程戰犯の者しか後送はされておらん、こういうふうにおつしやられましたが、あれは全然嘘であります。自分は戰犯ではありません。なぜならば、ここにおります阿部証人もそうでありますが、スーチャン、アルチャンにおいて殆んど取調べというものを受けておりません。又自分は戰時國際法規に触れるような犯罪は絶対に犯しておりません。  それから先程津村証人は兵士大会によると條件をつけられました。自分は前々から申上げておりますように、今回当委員会におきまして審理の御対象に定められておりますものは、必ずしも兵士大会でなくとも、そのグルッペが將校だけで結成されておる場合にアクティブが來て、さくらを使つて情勢を釀してわつと一挙に結論に持つて行くというやり方においては、これはやはり津村証人のいわゆる兵士大会と同樣であろうと思います。結局俗に言う吊し上げ乃至はカンパというふうに廣く解釈いたしますと、自分などは戰犯でも何でもなく、いわゆる民主グループの意向に逆つたものという意味で後送されたのであります。他の十八名も同樣であります。これを誰が決定したかということは、直接命令を下した者は勿論ソ連であります。お前達は直ちに後一時間の間に荷作りをしてここへ集合せよ、これは極めて突然であります。夕食を済ませ、そうして一時間以内に荷作りをして、ここに集合せよ、行先は言わない。そういうやり方をするのは、勿論直接にはソ連でありますが、併し前々から申上げております通り、又本日もスーチャンのあの將校隊と大井その他アクティブの対決において明らかに先方が言うたと証言いたしましたが、要するに自分のおつたナホトカのアクティブ達は必らずあらゆることに、帰國措置ということを一つの條件として恫喝しております。尚先程申上げましたが、自分らと一緒ナホトカに越冬をして二十三年の第一船で帰つた將校六百名の中に、私達の極く親しくしておつた者達から、増渕外十八名の者を何故残したか、何故あれを一緒に帰さなかつたか、そういうふうに難詰された際に、悪かつた、自分達に責任がある、自分達が悪かつたということをはつきり言うておつた、いわゆる民主グループに入つた若い將校もありましたし、それから我々と一緒に残つた淺田と言う少尉がおりましたが、これを密告した者は自分であるということをはつきり言うた赤星という少尉がいます。それから総合いたしまして明瞭にこれは……  それからもう一点は前々から申上げております通り、我々はソ軍將校と殆んど接したことはないのでありまして、我々個人の行動、兵士の言動というようなものをソ連側が知るとすれば、これは非常にソ側と接近しておる日本人を通じて知るより方法がないのであります。さまざまの点から総合しまして明瞭にあそこの指導部、我々のいわゆる民主運動を一切指導しており、人事を握つておるところの、そういう日本人がやることに間違いないということを証言いたします。
  371. 細川嘉六

    細川嘉六君 続けてやります。津村証人にお伺いしますが、今問題になつておる増渕証人なんか、十八名か二十名後送されたという場合に、それはそれが戰犯であるから後送されたのかどうかということがここに問題になつて來ておりますが、戰犯でなくとも戰犯の疑いがある者、そういう者が慣例上後送されたか、疑いのあるもの、その他これに類した疑のあるものは後送された、そういう例があるのですか、そういうことを聞いておられるかどうか、殊に増渕証人の場合のことについて知つておられるなら、それを具体的に言つて下さい。
  372. 津村謙二

    津村証人 お答えします。増渕証人は法務中尉であられまして、又同じ行つたのにナホトカ民主グループにおつた西村久宣中尉、それかの中野、木村二人の通訳、大宮忠一兵隊、こうしたものも一緒に戰犯容疑としてスーチャンに連られて行つております。ここにおいて調べる調べないは、スーチャンに佐官以上の人は、これは戰犯容疑として挙げられております。そこで調べられる調べられないは順序によつて必要のない者は調べないし、そうして容疑のはれたものは次ぎ次ぎに帰つて來るというのが私の見ている現状であります。
  373. 細川嘉六

    細川嘉六君 委員長、続いて……
  374. 岡元義人

    ○岡元理事 細川委員
  375. 細川嘉六

    細川嘉六君 この二十名近くの者が送られた。そのことについて民主グループの者の責任なのか、何か策動があるのかないのか、その点をはつきりして下さい。
  376. 津村謙二

    津村証人 民主グループの二十名の者に対する策動というものは、全然ありません。
  377. 細川嘉六

    細川嘉六君 増渕証人民主グループの者の進言があつたというふうに言つているのだが、津村証人はそういうことはないと断定するのでありますか。
  378. 津村謙二

    津村証人 そうであります。
  379. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 今津村君と、それから増渕君の証言は、これは明らかなる全く対蹠的な証言であつて、若しも一方が白であるとすれば、片方は黒である。これは展開次第ではどちらかが、増渕さんか或いは津村さんの方が、どつちかが僞証という立場になつてしまう。だがらこういうことが、我々はこの委員会で誰一人罪人を作ろうという氣持は全然ない、早く帰す、その態勢を整えたいという以外の理由は何もない。そういうような立場から私は御両所に対して今までの御証言で御訂正、御修正になるような点はないかどうかを、先ず津村証人並びに増渕証人に対して御発表願いたいと思います。
  380. 岡元義人

    ○岡元理事 只今矢野委員から発言がございましたが、津村証人増渕証人において発言の意思がありましたら発言を許可いたします。
  381. 津村謙二

    津村証人 発言いたします。
  382. 岡元義人

    ○岡元理事 あるかないか。
  383. 津村謙二

    津村証人 これに関しましては増渕証人証言というもの、これは彼は將校でありまして、特にソヴィエトに抑留せられておつたところの六十数万といわれる我々の仲間、兵隊と將校……
  384. 岡元義人

    ○岡元理事 津村証人、矢野委員が聽いておりますのは訂正する点があるかないか……
  385. 津村謙二

    津村証人 それについて……
  386. 岡元義人

    ○岡元理事 理由はいらない。
  387. 津村謙二

    津村証人 理由を説明しなければ……
  388. 岡元義人

    ○岡元理事 それは混同されますから……、質問要点は訂正することがあるかないか。
  389. 津村謙二

    津村証人 ものの両面を、二方を見ているのであつて、この点において私は訂正……
  390. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 そういうことを聽いているのじやない。私は私の立場から是非この際はつきり眞相を掴みたいので、若しも今までの御証言の中で、あなたとして御訂正する点があるかどうかという点をお尋ねしております。増渕君がいいとか、あなたが悪いとか、そういう先入感は更にないのであります。だから私のお尋ね申上げたことだけに限定して御答弁願います。増渕君に対して亦然り。
  391. 津村謙二

    津村証人 訂正を認めません。
  392. 岡元義人

    ○岡元理事 増渕証人発言をされますか。
  393. 増渕俊一

    増渕証人 発言をいたします。私も只今矢野委員殿から御注意があります前にひそかに反省しておつたのであります。と申しますは確かに只今の私の……
  394. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 これも簡單に答えて下さい。違いがあつたかないか、証言に違いがあつたかないか。
  395. 増渕俊一

    増渕証人 先程の言葉で最後証言すると申しましたが、と判断するというように訂正を願います。尚その点につきましては自分の態度を後程申上げたいと思います。
  396. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 私は津村証人増渕証人に伺いますが、今までの証言が恰も食い違つておるようでありますから、矢野委員が言われたように、どちらかが僞証罪ということが、解釈のしようではなり得るのですが、これを矛盾しないという解釈の仕方をお持ちであるかどうか。この点について津村氏と増渕氏にお伺いいたします。
  397. 岡元義人

    ○岡元理事 星野委員、両名から証言を求めるのですか。
  398. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 ええ。
  399. 岡元義人

    ○岡元理事 先ず津村証人
  400. 津村謙二

    津村証人 私は矛盾していないとこう考えております。
  401. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 どうして矛盾していないか。
  402. 津村謙二

    津村証人 その理由と申しますのは、ソヴィエトに抑留せられておるところの我々の生活そのものが、如何なることかはいろいろの説明においてお分りかと思いますが、兵隊と將校というこの階級的な立場が、一つのものに対しても一つの違つた考えを以てこれを見るというふうな具合に発展させて行つたことから、私は決して私と増渕証人言つておることにおいては矛盾はないと思います。ただ我々兵隊の方が、ソヴィエトに入つたところの後においてパーセンテージにおいて非常に多く、そうして苦しんだ期間も我々の方が多かつたという点において、私がどちらが正しいというのではありませんけれども、その点だけ追加しておきたいと思います。
  403. 岡元義人

    ○岡元理事 増渕証人
  404. 増渕俊一

    増渕証人 お答えいたします。津村証人証言と、自分の先程申しました、証言すると、こういうふうに断定いたしまた両方の結論は、相矛盾すると思います。
  405. 千田正

    千田正君 私は阿部証人にお伺いいたします。今まであなたが聞かれておられたと思いますが、津村証人の話した言葉、いわゆる帰還を……、そこで残されたという者は命令であつたかどうか、或いは民主グループにおいて反動とみなして、そこに残したというふうに考えられるかどうかという点について、増渕証人のそう思うという判断と、それから津村証人の判断と、食い違いがあるかどうか。その点においてあなたの判断を聽かして頂きたいと思います。
  406. 阿部齋

    阿部証人 発言いたします。只今の件に関しましては、両人がその帰された時、及びその時期にどの收容所におつたかということを聽かれるのが一番よいと思います。何故ならば津村はこの時期は恐らく第四分所におつたのではないかと思います。尚増渕証人はこの当時おつたのは第三分所におつたのではないかと思います。でありますから、増渕証人民主グループによるというのは第二分所民主グループによるというこの言葉を付け加えればこのことははつきりするのではないかと思います。
  407. 天田勝正

    天田勝正君 先程千田委員が指摘されましたように、どの機関で決定するかということが実に重要でありますので、私は言葉を換えて伺つて見たいと思いますが、先ず津村証人に伺います。あなた方は残留するという場合に、これをソ連側にお願いするということを申されております。そこでこのお願いするということは、個人々々の日本人がお願いして残留するなり、或いは又さつきあなたがおつしやつたように、どうしても聞かないで帰るという者があつて云々ということを言われましたが、どうしても言うことを聞かず帰るということが一体願い出でられるものかどうか、この残留或いは留船ということの希望はあなた方民主グループだけがそうした機関にお願いできるのかどうか、この点を一つ証言を願いたいと存じます。
  408. 津村謙二

    津村証人 これは私達民主グループの者にのみ與えられておる特権ではありません。一般の兵士大衆でも残りたいことが正当な理由であつて申出る際においてはこれは取上げられます。又帰りたいことが正当な場合においては今までしばしば勤務者として残つておりましても、ソ連側に直接いろいろな家庭の事情で履らなければならんから帰して呉れと、こう言つてお願いして帰つた人達も沢山におります。
  409. 天田勝正

    天田勝正君 細川証人に伺います。只今私が証言を求めた点につきまして、今津村証人のおつしやつた通り解釈してよろしうございますか。
  410. 細川龍法

    細川龍法証人 お答えいたします。そういう例もあり得たと思いますが、それが全体であるということは早計過ぎると思います。それには残された場合と、残ると言つて残して貰う場合もすべてが管理部なり指導部に申出まして、これは残される場合です。残りたいといつて希望した場合に、管理部及び指導部に申出まして、それが一應日本人側の人事部に行くのでございます。そうしてこういう人達が残るということを、当時の民主グループ連中達が全部承知の上で、それを更にソ軍側に通報するのであります。そうして残されるのであります。併し逆に今度は帰りたいけれども残されるというような場合がございます。その場合はいわゆるお互いのうちから民主グループに対して御氣嫌をとつて、そうして行こうというような賣名行爲をする同胞もおりましたので、この者は残して呉れといつて投げ文をして、それを見てこれはこういう投書があるからこれを帰しちやいけないということで早速人事係の方に連絡をいたしましてそれを印しをいたしまして、そうして人事部の方からソ軍側に進言をしておつたというのが事実でございます。
  411. 天田勝正

    天田勝正君 もう一点松澤証人に伺います。あなたは先程の御証言で、兵士大会は自然発生的に起きたものであつて、敢てナホトカのみに起きたものではない、各收容所でこれと同樣なものがあつたということをおつしやつております。このことは誠に重要でありまして、これは各收容所においてさようなことが起き、更に中間の集結地においてもさようなことが起きて残留させられたと、こう解釈してよろしいですか。
  412. 松澤清勝

    松澤証人 兵士大会の解釈のあれでありますけれども、最初兵士大会が生れたというところのものは、そうした軍隊幹部に対する反感が盛り上つて、自然発生的に各地区、各收容所において時期の差はありますけれども、起きて行つた……
  413. 天田勝正

    天田勝正君 発言中ですが、その点は先程お聞きしたんですから、その結果として兵士大会を持たれて、そのためにそこで残留させられるとか、中間の集結地において返されるとか、つまりナホトカ同樣そういうことがあつたと了解してよろしいかと、こう聞いているんです。
  414. 松澤清勝

    松澤証人 分りました。それは例を申しますならば、私の收容所でその將校を追装する場合に、ソ側立会いの下に兵士大会をやつて、そうしてその將校を必要としないということをそのまま認めますと、その將校等はどこへ行つたか、連れて行かれました。
  415. 岡元義人

    ○岡元理事 ちよつと先程問題になりました津村証人発言の速記ができて参りましたから、一應ここを簡單に読んで置きます。
  416. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 それはすでに取消されたから必要がないですよ。
  417. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 その問題はすでに解決済みだ、敢えて委員会の問題にしないように御勧告を申上げます。
  418. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 核心に触れつつ尚ぼつとしておりますので、一、二の点につきまして津村証人に伺いたいと存じまするのは、先程の御証言の中にさような大衆カンパというようなものによつて返した者はなかつたというお言葉もあり、五十名内外は返したというお言葉もあつたと、両方記憶いたしまするが、長村証人の御発言はどちらが本当であつたか、この前も五十名内外は返したというような御証言があつたように私は記憶いたしておりますので、この点について御証言を願います。
  419. 津村謙二

    津村証人 お答えいたします。この件に関しましてはいろいろな残虐事件、これは先日も申上げましたように高山助教授の僕殺事件、愛琿の残虐、興安嶺の悲劇とか、それから吉村部隊のようなこうした残虐事件、これはナホトカにおいて兵士大会をやらなくても、勿論ソヴィエト側として当然こうしたものは取調べなければならないということにおいて五十名内外の者がそうした被疑者としてあそこほ残された。このことに関しまして、増渕証人が申されました小山、河本、もう一人…、名前は忘れましたが、スーチャンに後で現われたのは高山助教授僕殺事件の小山内元少尉、これの証言のためにナホトカ民主グループの方からスーチャンに行つたのであります。
  420. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 そうしますと、結局大衆カンパ或いは室内カンパ、その形式の如何はこれは別であります。別でありまするが、俗に言いまする吊し上げによつて奥地に送り返されたということは事実でありますね。
  421. 津村謙二

    津村証人 それは焦士大会にかかつたこれは津田少佐とか、その他の人達もかかつております。この人達が戰犯容疑として佐官級全部スーチャンに行つたということは、これは勿論事実であります。
  422. 岡元義人

    ○岡元理事 津村証人注意しますが、質問内容だけをよく聽かれてお答え願います。
  423. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 では今の御証言によりまして、その大衆カンパ或いはその形茨は別として、とにかく俗に言う吊し上げによつて奥地に返したということは事実であつて、その原因は或いは戰犯とかいろいろなことが言われておりまするが、とにかく日本人の大衆カンパの形式によつて、吊し上げによつて何人かは返された、そうしますると津村証人は、その数は五十名そこそこであつたというお話をされた。ところが昨日來細川証人、これは相当多数が返されたという証言をなさつておりまするから、帰されたということは事実になりましたので、大体どのくらいの数が帰されたかという点につきまして細川証人の方から証言を求めます。
  424. 細川龍法

    細川龍法証人 お答えいろします。この問題は昨日も御報告申上げておりましたが、尚詳しくはここに資料もありますので、その人達の私に宛てた手紙を御紹介申上げたいと思います。
  425. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 時間の関係もありまするから、詳細承わることができると結構でありまするけれども、併しそれは後で証拠書類として御提出を願つて、大体の御記憶になつておる確実な数がありましたら、その数だけで結構であります。
  426. 岡元義人

    ○岡元理事 只今草葉委員発言がございましたように、そういう必要な書類でございましたら、後程御提出願うことにいたしまして、御記憶のある点をお述べ頂きます。
  427. 細川龍法

    細川龍法証人 ナホトカにおりました期間が七ケ月もおりましたので、その間一ケ月二ケ月ぐらいで逐次一部は残されても、或いは凝裝民主であつても赤い大根でもだんだん皮を剥げば眞白くなるように、一時凝裝したものが帰つて來るというのが状況でございます。それがために全体を通じて長く私と行動したというものも余り少ないものでございますので、その詳細が分りませんが、大体將校は別として下士官兵において残されておるというのは、患者として中隊と行動ができなかつたもの、そうして残されて我々と同じに行動したものもあれば、或いは反動と目されて私は残されたと言つて自称して來ておりますものとの私の記憶を辿りますると、昨日申上げましたように、二百名内外はあると記憶しております。
  428. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 もう一点について証人証言を伺いたいと存じます。それは杉田さんの精神異常の問題について先程來且つ昨日來証言を承つておりますと、昨日は或いは浦田証人、或いは阿部証人からは、全くいわゆる大衆カンパの動機によつて精神衰弱並びに精神異常を來した。今日津村証人はそれは僞精神病者であつて、それはむしろ舞鶴における旧軍國主義的な圧迫を恐れて精神病を裝つておるかのような御証言でありましたが、どうもこの点が舞鶴における旧軍國主義的な圧迫を恐れて精神病を裝つておるということについて、私委員としてその証言がはつきりいたさないのであります。從つてこの点につきまして阿部証人が医学者としての立場において、精神異常並びにその動機等について、先程津村証人証言をお聞きになつてつたのでありますから、この点を更に阿部証人から一應伺つておきたいと思います。
  429. 阿部齋

    阿部証人 尚一層詳しく大体この前のところの説明を抜きにして、固持するところを捕えて申上げます。先ず杉田兵長の人となりということについて申上げます。非常に小心な方でございました。一たんナホトカの勤務者と残されて、又直ぐ残されたといつたのは大体十月の上旬でありますが、昨日ここが飛んだのでお分りかねると思います。一たん残されたときは、約三十名程医務室の勤務者交代要員として残されたのであります。ソ連側から軍医八、衞生兵十五でよろしいという範囲を限定された人員が残されたのであります。それで十一月の末日直ぐ乘船するようにという命令を受けまして、出ようとしたときの例でありますが、誰が行つて誰が残れということは、私としても申しかねますので、くじで決めることになり全部くじを作りまして、それをこのうちから取れといつて頭数を数えたときに一人おらないのであります。それは杉田兵長でありました。皆が一生懸命になつておるのにどうしたのかと調べて見ますと、外に出て一生懸命になつて拜んでおりました。この情況は本人が帰りたいという内心からそれをされたものであると私は思います。そしてくじを引いて本人は実際帰れるようになりました。それで棧橋に行きましたら船が來ないというので、又戻つて参りました。と同時に今まで医務室の民主グループなんかと言つていないのに、医務室の民主グループとこう出て來たのであります。  次はカンパの状況について申上げます。要は杉田兵長は非常に小心であつて、又帰ることを望んでおつたことは誰にも負けない程だつたと私は思います。医務室にカンパに参りましたときに、医務室の瀧野軍医少尉というのが起ち上りまして、反動は帰さない或いは奥地に逆送するという話を聞いておるが、これは事実なりやという質問をしております。この席上において津村とともに來た小山は反動は帰すべきでない、又我々はかようなものは帰さないように努力すべきであるということをはつきり申しております。以上のことから本人は非常に帰りたがつてつた。而もカンパを受けたその場において、瀧野少尉から反動は帰さないかという質問に対して、我々は帰さんように努力するとこう言われております。これが大きなシヨックになつて杉田兵長の心に響いたということは想像に難くないのであります。なお後は昨日申上げましたように、食事のときの箒というようなことがあります。
  430. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 阿部証人に医者としてのお立場から、これを医学的に御診断になつたり、又は医学的の立場から精神異常ということを御証言できますか、その点……
  431. 阿部齋

    阿部証人 私と杉田兵長と一緒におつたのは短いので、私は二月二日にそこを出発しております。カンパを受けたのは一月二十二日と覚えておりますから、大体一週間ぐらいですから、直ちにそうとは言い兼ねますが、後で小野英憲氏に私が杉田君はどうかということに対して、阿部君、杉田の神経衰弱は相当過ぎておる、死ぬかも知れないという言葉からも大体間違いないと思います。
  432. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 津村証人にお尋ねします。先程の津村証人証言の中に、杉田元兵長は舞津には軍隊組織がそのまま残されておる、或いは特高が残されておる。そうしたものにいじめられるというようなことで、舞鶴ということについて非常に恐れておつたというような御証言もあつたと思いますが、それはそういうふうな舞鶴の一切のいろいろの情勢、或いはそこに特高の人間がおるとか、或いは旧軍隊組織が残つておるのだというようなことは、ナホトカにおいでになつてよくお分りになつてつたのですか、その点を御証言して頂きたい……
  433. 津村謙二

    津村証人 それはソヴィエトで民主運動をやつたものは一應に証言なされると思いますが、これはハバロフスクに行つて、それまでは私は全然そういうことは考えておりませんでしたけれども、昭和二十二年八月にハバロフスクに行つてそれを聞いてびつくりしたというような状態であります。これは恐らくデマだろうと思います。
  434. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それからもう一つお尋ねしますが、杉田さんが新聞に出るまでは、内地のどこかにおるであろう、新聞に出たことによつて初めて亡くなられたというようなことを知つた、こういうように証言があつたのでありまするが、その新聞に出てから後にあなたが、いやあれはどこかに生きているのだ、或いはどこか内地にいるのだというようなことを申されたことがありますかどうか。
  435. 津村謙二

    津村証人 お答えいたします。私は彼が生きているということを言つたことはありません。
  436. 岡元義人

    ○岡元理事 ちよつとこの際、先程私が申上げました通りに、一應速記ができておりますから、これを読み上げますから、資料にして頂きたいと思うのでありますが、先程津村証人は……(「済んだよ」と呼ぶ者あり)いや問題が非常に重要でありますから……「私が五月の二十九日にナホトカから乘船いたしました。ところが船に乘つてから各中隊の幹部が全部集められまして、民主運動を向うでやつて來た者の名前を知らせろということを言われました。そうして私の所属しておつたところの最後尾の中隊中隊長は私のところに飛んで参つて、そうして聞かれて止むを得ずあなたの名前言つてしまつた。こういうふうに私のところに言つて來ております。それで私は船室の立派な所に連れて行かれまして、いろいろ御丁寧なところの御挨拶を受けて、その中で暫くいろいろなことを聞かれ調べられました。そうして舞鶴に私は着いております。六月の一日に舞鶴に上陸いたしました。さつきの小針証人証言にもありましたけれども、いろいろ私としても差支えがあるのではないかとこう考えられるし、小針君の証言の際においてはつきりしておるかも知れませんけれども、重ねて舞鶴に上陸後の私の杉田君に関するこれらの証言について、委員会の責任をとつて頂くことをここでお願いいたしたいと思います。」そこで「事実をそのまま述べて頂きます。」と委員長から申したのでありますが、「事実をそのままですね。——それで私がこれから述べます。私は舞鶴に着きまして、そうしていろいろ四日間に亘つて徹底的な取調べを受けました。最後の日、私は調べられた際に、杉田君という名前を知つておるかということを私は聞かれております。でその節においても杉田君は非常に君のことを悪く言つてつた。杉田君はナホトカにおつて氣狂いの眞似をしておつたそうだ。こういうことを私に言い、そうして私のことに関しては、いろいろ私を個人的に憎んでおるところの人達、これは向うで兵士大会やその他にかかつた人達が恐らく大部分であると思いますけれども、そうした人達がいろいろ私の箸の上げ下ろしからいろいろの情報をあの場に提供しております。そうした私の証言一緒に杉田君が特にナホトカにおつて、いろいろなことに対して非常に悪く言つてつたという、そういう事実、そうして氣狂いのふりをしておつたというところのものを、帳面に書いたところのものを私の目の前に置いてあります。それで私といたしましては、その場において裸になつて、全部檢査せられて、その結果肺炎を悪くし、壊血病のために顎から血が出ておる。脚氣、そうして栄養失調という診断、これは舞鶴の復員局の人に聞かれたらお分りになることと思います。そうして私は使いものにならない躰として、私はあの舞鶴から出ております。だから私は、それから杉田証人は、絶対にこれは死んでおらないと思う。彼がナホトカでいろいろ夜中に話し合つたことからして、彼は日本に帰つておるけれども、そうしてあのときの話から、私の悪口を言つて家に帰つておると、こう私は考えてずつと暮しておりましたけれども、初めてあの新聞で、彼が投身自殺したという事実を知つたのであります。」こういう工合に述べているのであります。ここで委員長は、非常に抽象的であるからどこの場所で誰にそういうことを言われたかということをば津村証人証言を求めたのです。併しながらまだこれははつきりしたことが先程の証言には出ておらないのであります。後程聞こうと思つた次第であります。  お諮りいたしますが、時間の関係上三十分間休憩いたしたいと思いますが御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  437. 岡元義人

    ○岡元理事 では三十分間休憩いたします。    午後六時十五分休憩    —————・—————    午後七時八分開会
  438. 岡元義人

    理事岡元義人君) それでは休憩前に引続いて、委員会を開会いたします。
  439. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 阿部証人の杉田さんに関する証言が、どうも理路が私腑に落ちないので、再び伺いますが、阿部証人証言によると、杉田さんはいわゆるカンパ批判を受けてから非常に精神上に変つたようだと、そうしますと、阿部証人証言によりますと、こうした民主グループ批判を受けて、その受けた人が最も恐れることは、結局日本に帰れなくなりはしないか、帰るのが遅れはしないかということが一番の恐怖になるということも、阿部さんの証言から窺われるのであります。そうした場合、この動機で杉田氏が精神が非常に錯乱した人としますと、その動機は、帰れないという恐怖が動機となつておると思うのであります。ところが、外の証人証言にもありました通り、杉田氏が最後に乘船されたときの兆候は、いよいよ乘船しようとすると、拔け出て山の上にぽかんとされていたというように、その点を見ても、どうも帰りたくないという意思表示であるように取れるのであります。そうしますと、これは醉つぱらいましても、意識が不明になつても、大体こうしたいということと、こうしたくないということが逆になるということは余りないのですし、神経衰弱が相当ひどくてもそれはないわけなんで、この場合には全くこれはひつくり返つておることになる。そうしますと、これは杉田氏は神経衰弱、ですからこれは帰れるようになつたらば、帰れないという恐怖から始つたのですから、帰る船に乘ることになつたからその恐怖が解消するわけなんで、それで何ら恐怖がないわけなんです。そうなると全く思考までひつくり返つたというと、非常に強度の発狂と見ざるを得ないので、そうなるとそれ程強度の発狂があると認めるとすると、恐らく杉田氏の血統などを洗つて見て精神異常というようなことがあつたらなば、まあそういうこともあるかと見受けられる程度で、甚だ常識的に考えられないのですが、この点如何ですか。
  440. 阿部齋

    阿部証人 お答えいたします。今までの状態で、直接患者を私は長時間見てないということは、これは御了承願えると思います。
  441. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 併しあなたの推定の理路がどういう理路か……
  442. 阿部齋

    阿部証人 先ずそれを申上げます。シヨックを受けたときの状態と推定されることについて申上げます。
  443. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 それは分つております。シヨックを受けたときと、批判を受けたときと、時間的に一致しておるという点はあなたの証言なんですね。これだけなんですね。ところがそのシヨックは帰れないという恐怖なんですね。ところが患者が乘船間際の発作は帰りたくないという発作なんですね。
  444. 阿部齋

    阿部証人 それは全く逆であります。それは発作が激しくなつてつた当時私は見ておりませんが、医者としての判断を以つて行きますと、すでに附添をつけておつた、仮に入院さしておつた、而も附添人を付けて乘船させ、船長に申出て別室に入れて鍵をかけるということは、すでに私は発病状態にあつたものとこれは推定できます。
  445. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 併し病氣が非常に激しかつたとしても、一方の津村証人のように、帰ることが恐怖だという発狂でしたらそれは甚だよく理路は通るが、
  446. 阿部齋

    阿部証人 発病状態に入りました患者の言葉の責任は取れないと思います。それがすでに病人の状態であります。私は氣狂じやない、氣狂じやないと言つても、物を壊したつてそれは壊したこと自体が氣狂の状態であります。
  447. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 それとちよつと違いますが、議論は時間を取りますから、これで閉じます。あなたのはただ時間的に批判を受けたのと、病氣になつたのと相関連するという根拠だけですね。それ以外の根拠はないのですね。
  448. 阿部齋

    阿部証人 質問の意味が……
  449. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 ですから、あなたは時間的に批判を受けた、それから症状がおかしくなつたとこれだけり理由ですね。どうも意味が分らないのかも知れませんけれども、それ以外の根拠は……
  450. 阿部齋

    阿部証人 分りません。
  451. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 どもう意味が分らないようですから、打切ります。
  452. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 津村証人に伺いますが、細川証人証言の中に、細川証人が帰れなくなつたときに、あなたが細川証人外随分沢山入らつしやる所に行かれて、細川さんは私が残したんだとこう言われたと、こういう証言があるのであります。そういうことがございましたか。
  453. 津村謙二

    津村証人 それに対してお答えいたします。昨日細川証人が申されましたように、九月の上旬に野外演藝場の裏にあつた宿舎、ここが勤務中隊が入つてつた所であります。ところが私が民主グループの事務所におりました際に、ソヴィエト軍の將校から呼ばれまして、行つて見たならば、ソヴィエト軍の將校は私につの紙片を渡しまして、こういうような投書が來ておる。而もこの投書は政治部長の机の上に默つて置いてあつた、誰が置いたのか分らない。署名は何とか書いてありませんか、こう私が聞いたところが、何も書いておらないで、その内容と申しますのは、先程細川証人が確認された外に、ナホトカ民主グループは日本に帰つても皆飯も食えない貧乏人の子供達ばかりである。だから彼らは日本に帰るよりこのナホトカにおつて、食いたいものを食つて、そうして威張つておればいいのだ。こういうふうな者に大事なナホトカの事務を任せるのはよろしくない。こういうことも書いてあります。それで私といたしましては、こうした投書をする者はソヴィエト軍の司令部に自由に入れる者、これはナホトカにおけるところの勤務者で、これ以外にありません。それで民主グループにこうした投書をした者がおるか、こういうことを私聞きましたが、勿論こういう者はおりません。それで私は勤務中隊に行きまして、それに私が書き留めて行つたところのその内容を述べました。こうしてこうした投書がソヴィエト軍の司令部に出されておる。そうしてソヴィエト軍もこれに対して、誰が出したのか、そうしてその事実が果してあるかどうかということを聞かれておりますし、若しこの勤務中隊の中に、我々がこうした投書の内容にあるようなことが若し塵程でもあるならば、皆さんから一つ御意見を聞きたい、こういうことを私は申したのであります。そうしたら、そこにおつたところの矢島元少佐、中山元大尉、それから津田元少佐、こうした人達が一斉に発言いたしまして、それは細川だ、入つて行くときに、細川証人は昨日も申しましたように、碁か將棋かを打つておりました。ところが片隅の方に一人離れて彼は住んでおります。勤務中隊人達から出たものが、これは細川だという言葉でありました。細川君はその当時におきまして、非常に日本に帰りたいという氣持が強くあつたと思いますけれども……
  454. 岡元義人

    ○岡元理事 発言中でございますけれども、今穗積委員がお聞きになつたのは、昨日細川証人証言された通り、津村証人が俺が残したんだということの証言があつたわけです。それに対してそうなのかと、俺が残したと言われたのかということを聞いているので、その点だけお答え願えればよいのです。今証言なすつたことは、証人細川証人の言う通りだと、あなたがお認めになるかどうか、重複するけれども、その質問された点だけ、議事の進行の都合もありますからその点だけ……
  455. 津村謙二

    津村証人 ただ私が、この細川証人言つたことを、一つ一つそれはない、これはあると言つただけでは恐らくお分りにならないだろうと思いますし、私としてはその実情を説明しておるわけなんです。
  456. 岡元義人

    ○岡元理事 分らないときは、又続けて開かれる筈ですから、質問の点だけ説明して頂きたいと思います。
  457. 津村謙二

    津村証人 それで細川がそれをやつたのは勤務中隊の声でありました。そこで私は細川証人へ、細川君は津村が残したということにおいて、こうしたことを言つたであろうということを私ははつきりとそこで述べております。
  458. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 細川証人は、あなたが、細川さんは、私が残したと言われたと、こういう証言であつたのでございますが、今のあなたのお言葉とはちよつと言い方が違うのでございますが、どういうのですか。あなたは何んと言われたのですか。
  459. 津村謙二

    津村証人 私は只今申しましたように、細川君は津村が残したと、こう考えられて、このようなことを言つたろうということを私申しました。
  460. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 それでは進んで伺いますが、あなたはそのことに対して監督側に、何か細川さんを残すことについて上申でもされたというようなことがありますか。
  461. 津村謙二

    津村証人 そういうことはありません。そのことについて……。
  462. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 ちよと伺いますが、そこで細川さんがこういう具申をしたということが分つたときに、あなたはどうなさいましたか。
  463. 津村謙二

    津村証人 そのときに、全部の中隊人達にこうした事実がグループの中にあるかどうかということを、私は全部に聞きました、そうしたら……
  464. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 いやそれはよろしいです。そうしてソヴィエト側に対してその報告をなすつたのでしようか。
  465. 津村謙二

    津村証人 やりました。
  466. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 そうしてその結果、細川さんが残るようなことになつたのですか。
  467. 津村謙二

    津村証人 細川君はそのままずつと続けて、帰るまで残つてつたわけです。
  468. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 そうして、その後であなたはいらして、私が残したとか何とか言われたように昨日は伺つたのですが、そうではなかつたのですか。
  469. 津村謙二

    津村証人 そういうことはありません。
  470. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 細川証人に伺いますが、今津村君が言われているところに間違いありませんか。
  471. 細川龍法

    細川龍法証人 間違いがあります。ソ軍側に提出いたしました書類におきましては、元第十四地区第十分收所、元副官元陸軍曹長細川龍法と署名して出しております。次、矢島少佐及び津田少佐、宮坂少佐云々と言つておりますが、当時佐官は矢島勇少佐一人であります。それと最初來ましたときに、細川君いるか、そう言つて上衣を脱いだまま出て参りまして、いろいろとソ軍側の方にこういう進言をしている。こういうものは反動として鬪わなければならない、もともと細川を残したのは私であるということを断言いたしました。その当時居合せました人の氏名を申上げますから、お控えの上、御照会を願いたいと思います。岩手縣の盛岡市大通り三丁目、大沼誠、盛岡市大沢河原に姫神燃料という会社がございますがここに福岡清という方がおります。
  472. 岡元義人

    ○岡元理事 今の名前、聞き取れませんでした。
  473. 細川龍法

    細川龍法証人 福岡清でございます。
  474. 北條秀一

    ○北條秀一君 大勢ならば資料を出して貰つたらどうですか。
  475. 細川龍法

    細川龍法証人 もう二、三人だけです。兵庫縣名可郡黒田庄村、森脇竹市、以上申上げますが、勤務省として相当の者がそこに起居しておりましたので、この人達を手蔓として証言を求めましたならば、もつと廣範囲に確証が在られると思います。
  476. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 津村証人にもう一言だけ伺つて置きます。今のように細川証人は、あなたが自分が残したのだと言われた、こういうことを言つておられます。あなたは、細川氏が自分が残したのだろうと思うだろうな、それでこう言つたのだと言われますが、今あなたの言われた通りだつたのでございますか。
  477. 津村謙二

    津村証人 私が言つた通りであります。そうしてさつき細川証人が言いましたけれども、津田道雄少佐がそのときにおりました。現在福岡において土方をやつております。
  478. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 一應これで……
  479. 天田勝正

    天田勝正君 私は増渕証人並びに中村証人に伺います。それは私共は、本來ナホトカまで各部隊が來る。來るということはソ連側から引揚命令によつて來たというふうにもうてつぺんから考えております。それでこれから帰されたのはどういう理由にいたしましても逆送ではないか。こういう観点からいろいろお聞きしておる。ところがその根拠でありまする帰還命令というものがなしに、どこか轉送するという命令であればこれは話が違つて來るのであります。こういうことを先に申上げて置きまして、あなた達お二人はマルシャンスク或いはウランバートルという工合に、いずれも非常に遠いところから帰つて來ております。そこで私がお聞きするところは、そのマルシャンスク並びにウランバートルを出まするときに、お前達は日本に帰すというはつきりした帰還命令でお帰りになつたかどうか。更に途中の中間收容所においてか、或いは汽車の中でか、お前達は帰さないのだ、こういうことをはつきり聞かれたかどうか。その途中依然としてナホトカまで來る間中帰還命令というものは聞かずして、日本に帰すということで帰つて來たのかどうか。もう一つ増渕証人は、佐官以上だから帰さないということを、昨日並びに今日に亘つて申されております。が、それは單なる噂であつて、少くともマルシャンスクからあれだけの長い道中をナホトカまで、あの計画経済のソ連がただ面白ずくに送つたとは私共には考えられない。でありますから、そうした佐官以上の人を帰さない計画なら、初めからもう帰さない筈でありますし、他の收容所に移すなら初めから移しそうなものだ。それからあなたがナホトカへ來て感じたことは、佐官以上は帰さないのだという噂のように思います。帰さないということの命令をナホトカへ來てからはつきり受けられましたかどうか。この二つの点について中村証人並びに増渕証人証言を求めます。
  480. 増渕俊一

    増渕証人 お答えいたします。マルシャンスクが一番目に將校を出発させましたのは、二十二年の十月でありまして、いずれも帰國を宣告せられております。  尚自分達は十一月三日に出発したのでありますが、私は当時三十キロ程入つたヴォルガの支流のチェナという流れに沿つた森林の中におりました。そこへお前達は帰るのだとはつきりした命令を持つた傳令が馬で駆けつけて参りました。それから一日かかつてマルシャンスクへ行車いたしました。万事準備整えて、そうして出発したのであります。出発に当りましては、所長は、もう諸君は俘虜ではないのである。日本の自由なる市民であり、我々の方とも友達である、もう今日からはここに附けておりますベーペー、即ち俘虜の略字、このマークは全部外して呉れ、そうして諸君は我々のタワリシチである、もう内務省の管轄を離れて外務省の管轄に入る、御機嫌よろしう、非常にやさしい言葉で送られたのであります。  もう一点、佐官以上は帰さないということは増渕の証言の範囲内ではなかつたように記憶しております。どなたか外の方と思います。尚その点につきまして、自分ははつきりした命令は全然聞いたことがありません。
  481. 中村良光

    中村証人 先ず一番目の帰國の命令は受けておりません。が向うにおる收容所長がひそかに私を呼びました。向うは非常に秘密の國家であります。それで個人的に、帰るんだということを私は聞きました。それから移動のため或いは收容所が変るための目的であつたならば、名簿というのは今まで作つておりません。私は丁度部隊の副官をしておりまして、殆んど一週間徹夜で名簿作成に努めました。名簿作成と部隊が出発するのと殆んど同じというような工合でありました。で第二番目の少佐以上帰すか帰さないかというこういう命令は聞いておりませんが、噂として帰さないんだということは一般に流布されておりました。終ります。
  482. 北條秀一

    ○北條秀一君 増渕証人は昨日、日本人新聞はソ連の機関紙だという証言がありましたが、それは間違いありませんか。
  483. 増渕俊一

    増渕証人 お答えいたします。新京におりましたときに、その第一号を受取りました。
  484. 北條秀一

    ○北條秀一君 いや、一号、二号じやありません。
  485. 増渕俊一

    増渕証人 これは自分は新命生並びに日本新聞は赤軍の在ソ日本人のための機関紙であるということは聞いております。尚新生級にはそれは明瞭に謳つてあります。
  486. 北條秀一

    ○北條秀一君 それではこの問題について、小針証人にお伺いしますが、小針証人も今の通り日本人新聞は赤軍の機関紙だというようにお考えになつておりますか。
  487. 小針延次郎

    小針証人 お答えいたします。日本新聞は政治局の機関紙と承つておりました。
  488. 北條秀一

    ○北條秀一君 続けてお伺いしますが、日本人新聞に出た記事……
  489. 岡元義人

    ○岡元理事 北條委員ちよつと……日本新聞です。
  490. 北條秀一

    ○北條秀一君 ああ……。日本新聞に出た記事は政治局の記事として権威あるものと考えておりましたか。
  491. 小針延次郎

    小針証人 これは日本人が記事を書いた場合でもすべて政治局の……政治局はモスククであります。極東の政治部であります。私の言つておるのは……。政治部の部長が一切これを檢査いたしまして、そこで一切が許可になるのであります。私は政治部の絶対権力だと思つております。
  492. 北條秀一

    ○北條秀一君 それではあなたがお帰りになるまで、新聞はそういうふうにして編集されておつたのでありますか。
  493. 小針延次郎

    小針証人 それは昭和二十一年の六月以降であります。二月までは、私達が編集をやつておる時分には、ただ單なる日本のラジオの放送によつて、日本のこと、或いは経済問題、選挙の模樣等を載せたのであります。
  494. 北條秀一

    ○北條秀一君 増渕証人に……。あなたはナホトカから後送されたということを述べておられますが、その後送された期間はどれくらいの間後送されておりましたか。
  495. 増渕俊一

    増渕証人 これは自分は一番最初に大体経過を申上げてあるのでありますが、二十三年、昨年の四月十三日に後送されまして、結局帰されましたのは十月十六日の命令されております。
  496. 北條秀一

    ○北條秀一君 それでは細川証人にお伺いしますが、細川証人証言によると、二百人内外の人が後送されたということでありますが、あなたは向うに七ケ月ばからおられておる間に、それだけの人が後送されたわけですか。その後送された期間は大体どれくらいのものであつたか、記憶はありませんか。
  497. 細川龍法

    細川龍法証人 お答えいたします。後送された者と、それから暫くナホトカに残留された者とございます。後送された者でその二百名くらいというのは、スーチヤン地区に約五十名程森林伐採のために後送された事実を目撃しております。それから河野繁美という男が、佐賀縣の方ですが、この方が作業隊に編成されまして、約二十名ばかし奥地のコルホーズの方へ参りました。
  498. 北條秀一

    ○北條秀一君 細川証人にお伺いしますが、一つ一つの描写はいいですから、大体の見当で後送された人は概ね三ケ月くらい残されたとか、或いは四ケ月くらい残されたとかいうことだけでいいんです。誰がどうした、こうしたはもういいです。
  499. 岡元義人

    ○岡元理事 北條委員に申上げますが、昨日も述べられておるし……
  500. 北條秀一

    ○北條秀一君 では私が聞きましたところで若し重複しておりましたら、委員長から御注意下さい。
  501. 岡元義人

    ○岡元理事 先程のことも実は述べられたのです。
  502. 北條秀一

    ○北條秀一君 それでは私は備に抑留同胞の引揚についての米ソ協定について……これは昨日質問が出たでしようか。
  503. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 出ない。これからやろうと思うのです。
  504. 北條秀一

    ○北條秀一君 それでは残留同胞の引揚について、アメリカとソ連側の責任者の間に協定ができておりまして、月に平均五万人還すということになつております。但し残りたい人は残つてよろしいという協定になつておるのであります。この協定を各証人は知つておられたかということでありますが、津村証人はこの協定を知つておりましたか。
  505. 岡元義人

    ○岡元理事 北條委員に……。津村証人証言ならば前の時にすでに会議録に残つておりますが、外の証人にはまだ聞いておりません。
  506. 北條秀一

    ○北條秀一君 津村証人は知つておりましたか。
  507. 岡元義人

    ○岡元理事 それは会議録に出ております。
  508. 北條秀一

    ○北條秀一君 それでは細川証人
  509. 細川龍法

    細川龍法証人 はつきりした数字は分りませんが、大体この程度に還すのだということは聞いておりました。
  510. 北條秀一

    ○北條秀一君 では増渕証人にお伺いしますが、この残りたい人は残つてよろしいということについての米ソの協定は、日本新聞に出たことがありましようか。
  511. 増渕俊一

    増渕証人 お答えいたします。自分はその点につきましては全然読んでおりません。尚月五万の約束というのは、二十一年の六月頃に何か輸送が始つて、すでに十二万還しておるというような記事が日本新聞に出ただけでありまして、月五万というような協定は日本新聞には出ておらなかつたように記憶しております。
  512. 北條秀一

    ○北條秀一君 小針証人はそれについて記憶がありましたら、御証言願いたいと思います。
  513. 小針延次郎

    小針証人 申上げます。只今申上げました十二万すでに引揚開始した、現在引揚げつつあるという記事は私も見ております。それはハバロフスクの第二收容所にいたときでありますから、二十一年の暮、十一月か十二月であります。
  514. 北條秀一

    ○北條秀一君 それでは津村証人に伺いますが、今朝程津村証人は、自分もやはり日本に帰りたかつたということを言われておりましたが、津村証人並びに民主グループの諸君はすべての人が一刻も早く日本に帰りたいという精神状態であつたのでありましようか。
  515. 津村謙二

    津村証人 お答えします。私も日本人であります。日本に帰りたいのは人一倍帰りたかつたであります。併しながらその帰りたいという氣持、この氣持は私一人だけではない。日本人全部の氣持であつて、誰かがあそこに、帰りたいところの一人がやはり残らなれれどならないということを考えて、我我はあそこで仕事をして参りました。
  516. 北條秀一

    ○北條秀一君 それではそれに附随してもう一つお聞きしますが、尚あとに残つておる日本人達は、あなたと同じように一刻も早く日本に帰りたいという氣持でおることは想像できますか。
  517. 津村謙二

    津村証人 皆帰りたいことは全部だとこう思つております。
  518. 北條秀一

    ○北條秀一君 関連しますが、四國証人にお伺いしますが、あなたは先程任務のための自分ら以下十名が特に残つたということを言われましたが、その際に他のあなた外十名の人達は帰りたくてしようがないんだけれども、万止ねを得ず残つたというのか、それとも大いに使命を感じて残つたのか、そのどちらでしようか。
  519. 四國五郎

    ○四國証人 お答えします。私と一緒に十名残りましたのは、やはり私と同じように集結地の業務、これに日本人が残ることがどうしても必要だということを感じて残つたのであります。強制で残された者はありません。
  520. 北條秀一

    ○北條秀一君 それは日本人を帰すためにあなた達が残つた方がよいということを考えたのですか。
  521. 四國五郎

    ○四國証人 そのときは集結地は非常に日本人が不足して、集結地に日本人がいないということを想像すると、その仕事をやることは困難だということが想像されましたので……
  522. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 四國証人にお尋ねしますが、先程御証言の中で、残酷な制裁或いは過剩ノルマ、或いは減食というようなことを証言されて、私は聞いたのでありまするが、簡單でよろしうございますから、残酷な制裁というのはどういうのでしようか、具体的に一つ……
  523. 四國五郎

    ○四國証人 お答えします。残酷な制裁と言いますのは、軍隊において行われておりましたのは、いわゆるびんたというので殴る、これが最も行われておりましたけれども、ソ同盟に入つてその初期のときにおけるもの、これには勿論びんたもありますが、特にその者に対して過重な労働を強いる、例えば薪割なでがあつた場合に、夕食後更に薪割を続行させる。そういうふうな制裁のための作業、或いは減食する、そのようなことが行われました。
  524. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 残酷な制裁をあなた自身もお受けになられたことがありますか。
  525. 四國五郎

    ○四國証人 私も経驗あります。
  526. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 何回ぐらいありましたか。
  527. 四國五郎

    ○四國証人 私の場合何といいますか、腎臓の病氣になりまして、非常に労働ができなくなつたときであります。その場合作業を休んでおりました。それをそのときの食事の分配方法、そうしたものが非常に悪かつたという、そういう理由の下に殴られて、その翌日は作業に出ることを命ぜられました。
  528. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 あなたに残酷な制裁を加えた人の名前は。將校の元の階級は分りますか。
  529. 四國五郎

    ○四國証人 階級は元准尉。
  530. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 名前は分りますか。
  531. 四國五郎

    ○四國証人 名前は山上。
  532. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それではよろしうございます。松澤証人にお尋ねいたしますが、先程松澤証人の御証言のうちに、二十二年の四月、自分はナホトカに着いた、二十二年の九月ですか、ナホトカに着いたそうですが、間違いありませんか。
  533. 松澤清勝

    松澤証人 四月であります。
  534. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうすると、先程からあなたの御証言のうちに、在ソ六十万の人を帰さなければ、それまで自分達はその仕事をして、一つ入手も足りないし、みがからもまあ思案をして、そうしてその任に進んで当ろうということだつたのですね。その在ソ当時、六十万というようなことはどこからお知りになつたのですか。
  535. 松澤清勝

    松澤証人 日本新聞であります。
  536. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと、帰られた数を逆算して参りますと、今どのくらいの数が残つておられるかということはお分りになりませんか。
  537. 松澤清勝

    松澤証人 大体想像ですが、三十四、五万だと思います。
  538. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 三十四、五、そうですか、よろしうございます。津村証人にお尋ねいたしますが、あなたはこの前の御証言の中に、ソヴィエト地区の輸送が開始せられたのは昭和一十一年の十二月、そうして次の船は翌年の一月にナホトカを出発しておりましたということを申されておりましたのですが、二十二年の一月に船はどこに向つて出発したのですか。舞鶴ですか、函館ですか。
  539. 津村謙二

    津村証人 舞鶴であるか、函館であるか分りません。
  540. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 その船名はお分りになりませんか。
  541. 津村謙二

    津村証人 分りません。
  542. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうすると、その船は舞鶴か函館に向つたことは間違いないのですか。
  543. 津村謙二

    津村証人 日本に帰るというので出て行つたことは間違いありません。
  544. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 二十二年の一月ですね。そうすると、その日にちはいつ頃でございましようか。
  545. 津村謙二

    津村証人 二十二年一月四日と記憶しております。それはその時に帰つて來た友達もおりますから、日本に確かに着いております。
  546. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それから続いてお尋ねいたしますが、この前のあなたの御証言の中に、ちよつと読んで見ますが、重ねてこういうふうに言つておられますが、「ナホトカにおける準備をいたしておりました。そうして奧地からはどんどん日本の捕虜が沢山に集結地に集まつて参りました。ところが三月二十日になりましても、日本からの船は來ません。その二十日の日に我々はすでに第一回の梯團の編成をはつきり終りました。そうして分所から直ぐ港に行ける態勢を整えて置く。そうしてナホトカの收容施設も順調に船が來ることを計画に入れまして、そうして一万名收容できる程の收容施設を完備いたしました。ところがそれが四月の確か二日か三日、これまでの日本の船は入つて來ませんでした。そのために人口一万足らずのナホトカの町でありますけれども、五万人からの日本の俘虜が溢れてしまいました。云々。」それから又再度私の質問に対して、「ソヴィエトはいわゆる計画経済の國でありまして、五ケ年計画のために、輸送は、全能力をそれに力を入れております。そうしたときに、五万人もあすこに溢れて、一万人足らずの人口しかないナホトカで、その食べさせるパンも、汽車で以てツーチヤンとかそういう遠く離れた所から持つて來なければならない。そういう馬鹿なことはソヴィエトはやらないと、これは私が長くソヴィエトで俘虜生活をやつて來たところからそう感ずるのであります。それで五万人があすこに溢れたということは、私は收容所のソヴィエト側と一緒に毎日あの港に出て行つて、今日も船が入つて來ない、津村困つたなあと言つて收容所のソヴィエトの將校一緒に港へ毎日行つたり來たりした経驗を持つております。」このそういうふうに港に始終行かれたという將校は大抵決まつた人ですか。その都度変つておりましたか。
  547. 津村謙二

    津村証人 ゴロフニン中尉であります。
  548. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 常にその人だつたのですね。
  549. 津村謙二

    津村証人 そうです。
  550. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと、この五万人の人が一万足らずのナホトカの行つて溢れておる。この五万人を奧地からナホトカまでどんどん送つて來るということに対しては、これはこの前私質問いたしましたが、計画経済の國であるソ連として、これはナホトカの地にこの頃に船が來るというようなことは、ソ連当局としては、そういうふうなことをやつておられるのではないかと、私は思つておるのですが、これは私の思つておることですか……。ところが現実に五万人の人がそこにおる。一万人の町で五万人溢れておるという状態に対して日本から一向船が來ない。それで將校からそういう質問を受ける。ところがナホトカにおいて民主グループの少くとも大幹部として、この問題に対してソ連の將校なり或いは司令部なり、例えばこういうふうにどんどん來られると、送つて來てもナホトカではどうにもなりませんから、これに対して日本側から船をよこすような、或いは連合軍司令部、マッカーサー司令部なり、そういう方面に要請する、お願いをするというようなことをなされたことがありますか。
  551. 津村謙二

    津村証人 ソヴィエト側に対して……
  552. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そういうことをお願いしたことがありますか。
  553. 津村謙二

    津村証人 お願いしたことはありません。
  554. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 ただ、今の中尉の人と一緒に港に行つて、そうしてただ日本から船が來ないのだ、船が來ないのだということで帰つて來られたわけですね。
  555. 津村謙二

    津村証人 そうです。
  556. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それに対してあなたは願つたことはないと言われましたけれども、自分自身でこれはおかしいということはお考えになつたことはありませんか。
  557. 津村謙二

    津村証人 考えました。
  558. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 考えた。それはどういうふうにお考えになりましたか。
  559. 津村謙二

    津村証人 日本の政府が我々ソヴィエトから帰るところの復員者を余り歓迎しておらないだろうということを私は考えました。
  560. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それはあなたの御想像ですか、或いは何かによつてはつきりとそれを認識されたのですか。
  561. 津村謙二

    津村証人 これは想像であります。その根拠と申しますのは、私がどうしてそういうことを考えたかということは、私達が日本に曾ておつたときに、ソヴィエト同盟というものを日本の政府は非常に歪曲いたしまして、我々に生れたときからずつと教育して來ておる、ところがソヴィエトの現実というものは、今まで二十何年に亘つて私が学校その他において教育され、教え込まれたものとは全然異るというところにおいて、それと同時に日本のいわゆる軍閥が始めたところの戰爭なるものの本質、なぜ負けたかということを考えて來た。この二つを思い合せて見たときに、余り我々ソヴィエトに一年、二年と暮して帰つて行く者を歓迎しないであろうということは考えられました。
  562. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 分りました。ちよつと小針証人にお尋ねいたしますが、先程北條委員からもお話が出ておりましたが、日本新聞を担当されておりましたときに、日本の留守家族或いは肉親の人がその捕虜となつておる日本人を一刻も早く帰して貰いたいというようないろいろな運動なり、そういうふうな声が内地に溢れておるのだというようなことを新聞の編集をしておりまして、ラジオなり或いはその他でキヤッチされたことがありましよか、或いは……
  563. 小針延次郎

    小針証人 ラヂオで私現実に聞いております。これは上野で開かれた帰還促進大会であります。
  564. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 ウイノ……
  565. 小針延次郎

    小針証人 上野です。私はその時ラヂオを聞いておりました。併しその記事は、新聞に発表できませんでした。
  566. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それは一應あなたがラヂオで以てキヤッチされて、そうして原稿なら原稿をそのまま速記されたやつをソ側の責任者に見せたのですか。或いは又……
  567. 小針延次郎

    小針証人 そうであります。その時記事を書いたのは高橋晃君であります。それは神戸出身であります。まだ帰つて來ません。それが書いたのでありますが、この記事はまだ早い、載せる必要はない……
  568. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それは年数にしていつ頃でしよう。
  569. 小針延次郎

    小針証人 昭和二十年の、ちよつと月日は忘れました。
  570. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 若し後でその記憶を呼び起されましたら、一つ委員会までお知らせ頂きたいと思います。それからあなたの帰られるまでに、ただ上野のそうした大会のことを一回聞かれただけですか。
  571. 小針延次郎

    小針証人 その外に未亡人の留守家族の同盟ですか、未亡人連盟が結成して、そうしてお互いに助かつているという話も聽きました。
  572. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 あなたが舞鶴にお着きなつたのはいつですか。
  573. 小針延次郎

    小針証人 四月八日。
  574. 淺岡信夫

    淺岡信夫君  二十一年ですか。
  575. 小針延次郎

    小針証人 二十二年の四月八日です。
  576. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと、未亡人のと、上野と二度だけですね。
  577. 小針延次郎

    小針証人 それは新聞社にいるうちは聞いておりました、ラヂオの部屋は三人入りますから、全部聞いておりました。
  578. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 津村証人に重ねてお聞きしますが、その人口一万足らずのナホトカの町に五万人からおりましたところの收容された日本の捕虜の人達は、その五万人はずつと引揚が再開されて船が來るまで五万人の人がおられたのですか。或いはいつまで待つても船が來ないので、こうした人達をここへ置くわけにいかんというので、方々の收容所に後送されたことはありませんか。
  579. 津村謙二

    津村証人 五万人が溢れましたのは、大体小針証人がここにおりますし、小針証人がおつた頃はすでに大体一万名を突破しておりました。そうしてそれから第一船が帰つたけれども、二日に一回三日に一回ほつぼつ船が來るだけで、ところが毎日々々奥地からの復員者はどんどんやつて來る。これは松澤証人の残られたときにおいては、まだその五万人がずつと残つておりました。そのために奥地に、奥地にという言葉は非常に変に取れると思いますけれども、直ぐ近くの、これは待期收容所、ここにおつて普通の労働をする。こうしたところに行つた者もあります。
  580. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 分りました。そうすると、その五万人の人が一体ナホトカの町にそのままおつたということはあつたのですか。
  581. 津村謙二

    津村証人 あります。五万数千おりました。
  582. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 五万数千の人が幾月ぐらいおりましたでしようか。
  583. 津村謙二

    津村証人 長い者は一ケ月から一ケ月半であります。
  584. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 もう一遍お尋ねいたしますが、五万数千の人間が、一ケ月乃至一ケ月半ぐらいずつとおつたわけですか。
  585. 津村謙二

    津村証人 同じ人間がおつたわけではありません。
  586. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうすると、入れ代り立ち代り……
  587. 津村謙二

    津村証人 そうです。
  588. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうすると、五万人の人が入れ代り立ち代り來る。ところがそのときには船が五日に一遍、或いは四月に一遍とかいうふうですか。
  589. 津村謙二

    津村証人 確か三日に一遍であります。
  590. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうですか。そうすると三日に一遍ぐらい、その当時は船が千五百名乘せて廻船をして……
  591. 津村謙二

    津村証人 二千名でした。
  592. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 二千名で、月に仮に五回來ても一万名、そうすると五万円の人は月々補充して來るから始終五万人おつたのですか。
  593. 津村謙二

    津村証人 始終五万人おつたのじやありません。だから私がさつきお話いたしましたように、その中から……近くに待期の收容所もありし、こういうことを話しました。
  594. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうすると、その隊から又近くの收容所に行くということは、これは後送じやないのですね。ただ單にノルマの関係で行くということなのですか。
  595. 津村謙二

    津村証人 ノルマ、要するに帰る船が少いし、ナホトカ收容所においてそれ程の沢山の人々をあそこで養うということは不可能であります。近くの待期の收容所に漸次整理をされて行くまでそこにおいて労働に從事するというのがその状態であります。
  596. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 小針証人に重ねてお尋ねいたしますが、あなたは二十二年の四月八日にお帰りになつておる。ところが二十一年の十月の二十九日第四十四回対日理事会において、米ソ協定において、その前年の十月二十九日の米ソ協定によつて月々五万人ずつ帰すという協定になつておるのですが、この二十一年十月の二十九日の第四十四回対日理事会におきましては、月々十六万人の配給の準備をするから、それに應じて頂きたいということを対日理事会のシーボルト議長からソ連の代表者に申入れた。更に冬期結氷期に対して碎氷船三ばいを提供をするという申入をしたことを向うにおいでになつてお聞きになつたことがありますか。
  597. 小針延次郎

    小針証人 聞いたことはございません。
  598. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 聞いたことはございません……。それではちよつと阿部証人如何でございましようか。
  599. 阿部齋

    阿部証人 只今の碎氷船の……。
  600. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 十六万人引揚をさせるような配船の準備をさせるというようなお話をお聞きになつたことがありますか。
  601. 阿部齋

    阿部証人 ありません。ただ先程ありました五万人の噂は朝鮮において聞いたことがあります。それから残りたい者は残つていいという話は聞いたことはありません。
  602. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それから細川証人はそのことはお聞きになつたことはありませんか。
  603. 細川龍法

    細川龍法証人 書いた物等によつてはつきりした記憶はありませんが、大体その程度に帰るというようなことは聞きました。それについて少しここでお話をさせて頂きたいと思いますが……
  604. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それは長いですか……
  605. 細川龍法

    細川龍法証人 少しでございます。二十二年の四月、今津村証人お話がありました当時から私はおりました。確かに五万幾らというだけの者がおつたこともございます。それが非常にアジプロに有利に利用されたのでございます。ソ連側では帰す誠意を以てこれだけの人間を集結しておるにも拘わらず、日本政府には誠意がないのだ。こういうようなことを以て盛んに宣傳材料に使つておりました。それともう一つは私が帰つて來るときが、二十二年十一月二十四日、この日に乘船いたしましたが、そのとき船員に聞きましたら、実は二千名なり、二千五百名という人間を收容して來いというので準備をしておるにも拘わらず定員まで乘せたことはない、こういう事実を船員が指摘しておりました。若し津村氏の言うように、誠意があつてそれだけ送つて來ておるものならば、定員だけ、收容し得るだけの人員を待機させておりますので、その数だけはたとえ是が非であつても乘せてよこすだけの誠意があつてよかろうということ、こういうことを私は考えます。それから現在岩手縣の学生同盟の中に、曾て引揚船に乘つたという船員がございます。その人の証言によりますと、引揚船に私が乘船しておりました。で彼のお話によりますと、樺太から北海道への引揚船に乘船していたその場合に、はつきりした数字を忘れましたが、何千から準備をして樺太へ参りました。ところが百七十六名とかしか乘せてよこさなかつたそうであります。こういつたことが非常に当時の民主運動者や、津村氏達からは日本政府に対する非常に反感的な宣傳材料に使われていたのは事実であります。
  606. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 増渕証人、あなたはそのことをお聞きになつたことがございますか。
  607. 増渕俊一

    増渕証人 十六万の準備をして申入をしたというお話は、昨年の十月に信洋丸に乘つて初めて聞きました。日本新聞には全然出ておりませんでした。ただ二十三年の一、二月頃に日本新聞の一面の右の隅の方かにアメリカは碎氷船を出してやるからというようなことを言つているが、シベリアの陸を碎氷船では通れまい、要するに輸送が遅れておるのは嚴寒のためであるという婉曲な揶揄的に書いた記事を読んだ記憶があります。  それから只今細川証人が言われましたあの五万名の問題でありますが、あれは日本新聞にも大々的に宣傳しておりました。尚アクティヴも盛んに宣傳しておりました。それに関連して、天田委員殿からいつかお尋ねがありました、信洋丸の船上で、昨年の十月の末に初めて日本の同胞が、みんなの帰つて來るのを心待ちにして待つているのだ、そうして又日本に政府の方でも万全の手を盡しているのだということを聞かされて、飜然と悔いると申しますか、自分達が間違つてつた、自分達は日本新聞を唯一の指導者として、唯一の報道機関として信用しておつたのである。それであるのに、事実は違つてつたというようなことから、今尚ソ連の、殊にシベリア地区におつて民主運動に血みちを上げておるアクティヴ達に対して、実はこういうふうに違うのだという謝罪と声明とを書いた文章を作つて、これは舞鶴に上陸した時に、CICに出したのでありまして、その写しを持つております。これは極めて何も拘束のない、自由意思の下に書かれたものでありまして、このトップに署名しております新潟縣の丸山政治君、この人のごときは非常に純眞でありまして、自分はただ一種のヒロイズム的な派手にやるというような氣持でやつてつたのだ、申訳ない、海に飛込んで死ぬとさえ言つてつたのであります。尚丸山政治君の言葉によりますと、第三分所を帰還のために出発する際、あそこにおりました指導部長の熊木という人から、ひそかにアクティヴ二十何名が呼ばれまして、君達は内地に帰つて民主運動をやつてつた、政治活動をやつたということを絶対に言つてはならない、それから途中の船の中は然るべく連絡してやつて下さい、帰つたら青山へ連絡しろ、こういうふうに申渡された。何を連絡しろと言われたか。いや具体的のことは何もない、ただ指示を受けろという意味だろう。ということを皆の前で言われておりました。これは後程その船中におりました千五百名の殆んど全部の有志が書きました抗議文の写しと共に、御参考までに提出いたしたいと思います。
  608. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 増渕証人の今のは、二十三年十月二十三日の信洋丸のことでありますが、そうするというと、これはアクティヴ二十三主云々という、このことでございますね。
  609. 増渕俊一

    増渕証人 そうでございます。
  610. 岡元義人

    理事岡元義人君) ちよつと各委員にお諮りいたしますが、質問を留保しておられる方が、天田委員、千田委員、北條委員、穗積委員とあるのでありますが、非常に時間も経過いたしておりますので、一應大体五分以内で質問をして頂きまして、その後昨日からの証言を、一應証言の補足を願うところをいずれ委員長から補足をいたしまして、更に質問を補足する意味において、質問を各委員からいたして頂いて、本日の委員会を終らしたいとこう思うのでありますが、お諮りいたしますが、御異議ございませんか。
  611. 北條秀一

    ○北條秀一君 本日の委員会でありますか、委員会を又明日続けてやるということでありますか。
  612. 岡元義人

    理事岡元義人君) いいえ。
  613. 北條秀一

    ○北條秀一君 この証人喚問の委員会をやられるというのですね。
  614. 岡元義人

    理事岡元義人君) 御異議ございませんか。
  615. 細川嘉六

    細川嘉六君 異議あります。先程から私質問を要求しているのだが、未だ與えられていない。これは五分間でやるわけには到底参りません。それで私は第一に、引揚促進を民主クラブが果して阻害しておるかどうか、その点は先程からいろいろ話があつたのでありますけれども、まだはつきりしたものは出ていないと、私は思います。それですから、これは重大な本委員会の問題でありますから、この五分間で私はこの問題に相應な証言を得ることはできないと思います。でありますから、明日の日まで延ばすということに取計らつて頂きたいのであります。
  616. 岡元義人

    理事岡元義人君) 細川委員に申上げますが、本日運営の都合上、委員長からお諮りいたしまして、できるだけ連続質問の際は五分間以内に止めるということをお諮りいたしたのでありますが、その点は皆さんの方で否決されたのであります。それで今からこの質問を留保されておられる方を五分間ずつといたしましても、答弁を併せましても九時になります。そういう状態でありますから、できるだけ本日で終ろうといたしますならば、先程お諮りしたような運営をするより外方法がないのでありますから……
  617. 細川嘉六

    細川嘉六君 それは先程五分間に区切ろう。そうして成るべく早く終えようということは決定しましたが、その後の運営は相当一人の人の質問というのは何倍に、十倍ぐらいになつておるでしよう。それでありますから、こういうことでは状態が変つて來ております。それですからあんたの言われることは一般事実に合つていません。
  618. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今細川委員から発言がありましたが、別に動議ではありませんけれども、細川委員発言では、本日の委員会は更に明日に持ち越してもやつて頂きたいという御発言でございますが、委員長から各委員にお諮りいたします。
  619. 北條秀一

    ○北條秀一君 先程済みました。先程済んだ問題だ。
  620. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 それはね、やはりただ軽卒にピリオッドを打つわけに行かないし、この前も証人の中には、途中で御氣分が悪くなつた方があつたくらいで、最前から話を聞いておると、津村君のごときは、敦賀で肺血症、その他の非常に身体の悪に診断を受けられたくらいであるから、無理に長いこと、相当時間から言つても長時間でありますから、それらのこともよく御事情を承つた上で、そしていよいよ結論を出しにくいとするならば、細川君の言われたように、明日でもこれを進めるというふうにしなければいかん。よし最前決定しておつても、事情が随分変つて來ておるので、急いで結論を出そう。勿論今晩結論を出すというのでなく、それぞれの材料を集めて、よせ集めて我々は愼重に世の誤解も相当あるといいますか、その誤解を解くことも協議せんならんので、或いは私は明日まで延ばす方がよかろうかと思うのであります。これは各委員の最も自由な、又謙虚な氣持で御意見をお聞きになつたかよかろうと思います。
  621. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今矢野委員の御発言もございますが、参考までは委員長として申上げて置きたいのは、先程この証人喚問に対しましては、一日の予定を、念のためにもう一日だけ延ばしてということで、その際に一應二日で行くということで二日間にしたのであります。
  622. 千田正

    千田正君 こうやつて論爭している間に(「その通り」と呼ぶ者あり)細川委員質問を受けた方がまだましでありまして、希くは後一時間ぐらいの間にこの問題を解決することにして、細川委員に御発言を願つて、至急議事を進められんことを希望いたします。
  623. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 実際上ですね、今五人だかの質問がありますが、五分と言つても五分では済みません。(千田正君「私は質問を取消します」と呼ぶ)岡元君のあれがあります。これが終つて來る項には十時半ぐらいになる。それでも終るかどうかも疑問であります。それで十分な結論が出ない、これを考えるとやはり本問題を重大に考えるので、明日に延ばした方がよぐはないか。僕は元來この調査をしないことを勧めたのであるが、それは外に委員会がすることが沢山ある。併し始めたから止むを得ないと思います。
  624. 細川嘉六

    細川嘉六君 重ねてお願いしますが、矢野委員も言われておるように、実際さつきから見ておるのに、津村証人は相当弱つておる。発言の際にも十分なものは出ていません。それで私が若し強いてこうやるとすれば、五分間でということになると、これはもう急いだ結未をつけてしまつて、あと腐れが残るというものになります。それで岡元君もこの間の僞証やなんかの問題でなかなか急いだことをやつておられるようだが、再びこういうことを繰返すということはお互いに愼しむべきことであるし、この問題は相当重大な問題です。ですから私は先程からの例えば増渕証人津村証人との喰い違い、これは重大なものが未定になつております。それから津村証人阿部証人との杉田氏に関するものも未決になつております。その他重要なものが、ここに私の前には相当吟味されなければならないものが沢山あります。だから私は委員の責任としていい加減なことでこの調査を終ることはできません。どうか一つ明日に延ばして、そしてこれを十分審議して欲しいのであります。
  625. 岡元義人

    理事岡元義人君) ちよつと速記を止めて頂きます。    〔速記中止〕
  626. 岡元義人

    理事岡元義人君) では速記を始めて下さい。
  627. 細川嘉六

    細川嘉六君 津村証人に伺いますが、民主グループが、君達のやつてつた民主グループが引揚を阻碍しておるか、していないか、これは先程からはつきりしております。それで民主グループがカンパとか、いろいろやつて將校その他の功罪を明らかにした、そういうことから直ちにソ連に抑留を継続されるということが起きたのか、そういうことがあつて、それも材料になつてソ連側で抑留を継続されるということになつたのか、そのあたりをはつきりして下さい。
  628. 津村謙二

    津村証人 お答えいたします。民主グループが引揚促進を遅らしておるということは絶対にないと私は申上げます。又兵士大会において、それによつてその人間がソヴィエト側に抑留される期間が長くなるということも、これも私はないと申上げます。何故ならば集結地の民主グループ、これが引揚促進を遅らしておるということを、この兵士大会というものにおいてこぢつけられて現在傳えられておるようでありますけれども、兵士大会において挙げられたところのものは、先日の吉村隊の池田重善氏その他、又はそのような残虐事件を以て我々の仲間をあのソヴィエトの地において殺したり、又えせ民主グループ的な立場で、民主グループの中において兵隊を苦しめたところの者、こうした者の実際の姿を兵士大衆がすべてよくこれを檢討して、そこにさらけ出すというところにあるのであつて、それによつて一体誰が引揚を促進を遅らされたか。飽くまでも兵士大会、そうして戰犯嫌疑を以で残されたところの佐官の人達、而もその人達は三月か四月おいて帰つている。長い者で半年で帰つて來ておる。而もその部下は果して全員すでに日本に帰つて來ておるかどうかということを考えたならば、部下はまだ向うに残つておるところの人が沢山にある筈である。そうするとこの兵士大会、これを飽くまでもそのような佐官又は法務中尉、そういうふうな戰犯容疑者、こういうふうな者が二、三ケ月ソヴィエトの軍法会議においてこれを調査するということを以て残つたというのとこじつけて行こうとするのであつたならば、日本の引揚促進そのものはこうした戰犯容疑者という者のための引揚促進をやつているのか。彼らがソヴィエト側の戰犯容疑者として残ることによつて兵隊が一人その分、船に乘つて帰るとすれば、ソヴィエトに抑留せられたところの軍人の九〇%以上を占めるところの兵隊、而も入ソ当時においては非常に一部の將校に苦しめられた、こうした人達がその代りに帰つて來ておる。何もここでは引揚促進を遅らせておることは、特定の戰犯容疑者は若干長くソヴィエトに残るということはあるだろうけれども、絶対に引揚促進が遅らせられておる根拠はないとこういうことを私は申上げます(「委員長の方で整理して頂きたいな。」「靜粛に」「質問中じやないか。」その他発言する者多し)
  629. 岡元義人

    理事岡元義人君) 一應発言は切れております。津村証人証言が終つたところで……
  630. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 併し協約な細川君に思うだけの質問をさぜるということになつたんだから、さつきは淺岡君が随分長く質問されたので我慢に我慢をしていたんだ。
  631. 岡元義人

    理事岡元義人君) 星野委員に申上げますが、議事進行として発言があつた場合には、とにかく津村証人証言が終つた場合に、切れておるのでまりますから、その間に委員から議事進行を求めて発言があつた場には……
  632. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 では明日になつたら、その責任はそちらに……
  633. 細川嘉六

    細川嘉六君 津村証人にその点を具体的にして欲しいということを今言つた途端にあなたは矢野君に……(「成規の手続を経たんだ。」「それは間違つておる。」「靜粛に。」その他発言する者多し)
  634. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今津村証人証言が終りましてから、細川委員は改めて委員長発言を求められませんでした。委員長は許可はしておりません。
  635. 細川嘉六

    細川嘉六君 証言を具体的にして呉れと質問が続いて……
  636. 岡元義人

    理事岡元義人君) 議事進行発言を許可いたします。
  637. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 只今の津村君の御証言をお聞きしておりますというと、これは一つの率直に言えば、いわゆる委員会会を鬪爭形式のように段々動かしておることを私は確認します。故に若し折角あの細川君の立派な質問に対しての御答弁が、いわゆる証言がありましたように運ばれるとするならば、折角時間を各委員が節約して細川君に対してこれを割愛しておる趣旨も沒却されて、結局本日の予定のごとく終結を見ることは不可能であると思いますので、委員長は然るべく証言内容が自分の意見の陳述であり、又委員会に対する何かの御註文のような向があります場合にはよく御整理なされまして、細川君の御質問になつておるその諸点に対して要点のみで答えるというふうに運営をお進め願いたいと私は要望する次第であります。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  638. 岡元義人

    理事岡元義人君) 承知いたしました。ちよつと津村証人に、只今矢野委員発言もありましたが、証人の方々は先程から委員会にお図りしてあるように限られた時間の中で運営して行こうといたしておりますから、その点十分お含みして頂いて、主観を交えないで要点だけ答えて頂くようにこの委員長から御注意申上げます。
  639. 細川嘉六

    細川嘉六君 増渕、それから中村、細川、阿部、小針証人、この方々が具体的には先程からの証言から察すると、引揚を遅らさせられた被害者のように見えるが、それについて具体的に言つて下さい。例えば小針証人がそうであつたか、なかつたらそれでよろしい。
  640. 津村謙二

    津村証人 小針証人は帰ることを遅した事実はありません。細川龍法の件につきまして、細川君はソヴィエト側からの指示によつて彼の証言にもありましたように、ソヴィエト側の指示によつて彼は残されております。これは、彼が増て民主グループ委員長であつた、こういう触れ込みがあり、そうして又服装が他の兵隊に比べて非常に立派であつた、又坊主出身であつて衆生済度に最も適任である。ナホトカにおけるところの日本人のために残つて仕事をするということには、宗教家出身でありますから、これは適任であろうというソヴィエト側の考えによつて残されてから、私達の方にこういう立派な人が残つて手傳つて呉れる。頑張つて呉れるというような話で彼は残つたのであります。そうして彼は千名から入る第九宿舎の杯舎係になりましたけれども、その際において、一分一秒も自分は早く帰つて、そうして日本の民主化のために必要な自分は人間である、こう言つて新聞社の宗像君のところへ來て話をしております。又彼が第九宿舎係として勤務をしている中に牢名主と通過部隊からあだ名されておつて……
  641. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 具体的にはどういうのか。
  642. 津村謙二

    津村証人 具体的には、その件に関しましては、宿舎の一室を彼が占領いたしまして、そうして帰つて來るところの通過部隊のところに出て行つて、宿舎の掃除をさせる、この一事においても、この掃除がうまく行かない、そうして民主グループの者に若し機嫌を損ねたならば残されるぞというような言葉を吐いて、彼は兵隊を脅迫し、長靴その他の貢物を貰つて……
  643. 細川嘉六

    細川嘉六君 どういうようなものか、実際のものはどういうことでありますか。
  644. 津村謙二

    津村証人 長靴とか、被服、そうした物を通過部隊の中の将校が特に自分自身で心配して、そうしてそういう物を細川龍法のところに持つて來た。そういうところから牢名主という名前がつけられたので、我々がつけたのではない。第三分所を出て行くときに、民主グループにはもう関係はない、もう船に乘つて改るばかりで自由だから、誰にも制約されることはない。通過部隊人達の一梯團が第三分所を出ると、四十センチ程の厚さになる投書というものが民主グループのところに全部持つて來られました。これは見たときに、第九宿舎の牢名主という言葉が沢山に入つておる。こうしたところから我々は、細川君が非常に間違つた行爲をしておる、そうして彼はやはり駄目だつたと……、自分から希望しないところの人はこうした結果になるのか、帰つて貰おうじやないか、こう言つてソ連側と話しておりました。ところが木島君一派の人達がウラジオストックからやつて参りまして、第二分所の管理部をやつておりましたが、この人達は非常に極端な人達でありまして、彼らは非常にまじめに管理部をやりましたけれども、それが通過部隊に対して、具体的に申上げますならば、外にまだ沢山残つておる、お前達ばかりが先に帰る、そんなのんびりした氣持であつてはならないということを再三再四言われまして、作業その他においても非常に強圧的なところが多く、これも亦通過部隊の非難の的になつておりました。こうしたところから……
  645. 岡元義人

    ○岡元理事 津村証人に申上げます。具体的とは何と何と、これで遅らしたのだ、遅らしたのじやないと、具体的にということを細川委員は聞いております。それで箇條書でよいから……
  646. 津村謙二

    津村証人 私はこの点に関しまして、昨日非常に十分なる時間を以ちましてて、細川君、阿部君、その他の証人が十分に話されて、而もすべて私は攻撃されておる。
  647. 岡元義人

    ○岡元理事 津村証人に申上げますが、あなたには先日も当委員会においてすでに証言を求めてありますので、いろいろ勘案して時間の割振を考えておるのであります。そういう点まで津村証人からここに御発言があるのは私は非常に不穏当だと思います。で委員長が求めた範囲において御証言を願います。
  648. 細川嘉六

    細川嘉六君 今細川証人のことについて津村証人に聞いておるのでありますが、津村証人が先程細川証人司令部に投書した。その場合に他のその書面をめぐつてグループの人達と相談をやつた。その相談の結果はどういうことになるのですか。
  649. 津村謙二

    津村証人 細川君がソヴィエト側に対して投書したという、そういう内容について民主グループも檢討いたしましたし、又勤務中隊も檢討いたしましたけれども、この内容については全くことは事実無根であつたということをはつきりと確認いたしまして、ソヴィエト側にこれを報告いたしました。
  650. 細川嘉六

    細川嘉六君 ソヴィエト側はそれを受けてどういうような処置に出ましたか。
  651. 津村謙二

    津村証人 ソヴィエト側は笑つてこけを受けました。その理由と申しますのは。
  652. 岡元義人

    ○岡元理事 いやそこまでいいのです。そうすさと具体的に一つ一つ細川委員の方から聞いて行きますから。
  653. 細川嘉六

    細川嘉六君 どういうように言いました。そしてどういう処置を取つたか、取らないか。
  654. 津村謙二

    津村証人 ただ笑つて受けただけで、こういう面白い人間もおると、こう言われただけであります。
  655. 細川嘉六

    細川嘉六君 それでその書面のために細川証人が残されたということに結局においてなつたのですか、ならないのですか。
  656. 津村謙二

    津村証人 これは事実を調べる……。で細川君の投書が九月にたつた一回あつただけというところに、このあれがあるのじやないかとこう思うのです。細川君の投書は六月にも一回ありました。前後三回あります。その際にも全部これは無記名で出されております。その調査のために細川君は残つておるし、その調べるためにその……
  657. 岡元義人

    ○岡元理事 先程から数回注意をいたしておるのでありますが、今細川委員から一点ずつ聞いておられますから、その点だけ……。したのかないのか。ないならないと。あとずつと続けて細川委員から御質問があると思います。
  658. 細川嘉六

    細川嘉六君 数回続けられておつた。その内容は……
  659. 津村謙二

    津村証人 内容は全部三回とも同じ内容であります。
  660. 細川嘉六

    細川嘉六君 民主グループを非難した項目なり意味が含まれた内容ですか。
  661. 津村謙二

    津村証人 全部そこであります。
  662. 細川嘉六

    細川嘉六君 それでそういう書面が連続して司令部へ入り、それが司令部にどういう影響を與えたか、與えないか。その点……
  663. 津村謙二

    津村証人 司令部に対しては何らの影響を與えておりません。ただ司令部といたしましては、細川君が事実そうした根拠をどこに求めたかという点を全部我々の方に來て調べました。
  664. 細川嘉六

    細川嘉六君 それで細川証人が遅れた。乘船が遅れたのは、そういう調べがあつたために遅れたのか。
  665. 津村謙二

    津村証人 そうであります。
  666. 細川嘉六

    細川嘉六君 そうすると、細川証人自身はその投書によつて自分が乘船が遅れるというような機会を、起因を作つたということになりますか。
  667. 津村謙二

    津村証人 そうであります。
  668. 細川嘉六

    細川嘉六君 それでは他の阿部証人についてはどうですか。
  669. 津村謙二

    津村証人 阿部証人に関しては、これは佐官がその当時全部残つておりましたので、決して阿部証人一個人があすこに残されたと、こういうのではありませんでした。
  670. 細川嘉六

    細川嘉六君 民主グループ運動阿部証人委員長としてもやられたということは先程述べられたが、阿部証人の行動が、先程千田君も注意されたが、余り民主グループ員として十分でなかつたというようにも聞えるのですが、そういうようなことは伺つたのですが。そういうような場合に阿部証人は帰還を遅らされたということになつたと思いますか、思わんですか。
  671. 津村謙二

    津村証人 そういうことによつて阿部証人が帰ることを遅らされたということはありません。
  672. 細川嘉六

    細川嘉六君 そうすると佐官であるという理由が主なんですね。
  673. 津村謙二

    津村証人 佐官であるという点が主であります。
  674. 細川嘉六

    細川嘉六君 グループの運動とは関係ないということになりますね。
  675. 津村謙二

    津村証人 全然そうであります。
  676. 細川嘉六

    細川嘉六君 それから増渕証人についてはどうでありますか。
  677. 津村謙二

    津村証人 増渕証人については具体的に詳しいことは知りませんけれども、さつき阿部証人が話されましたが、彼らは二分所におつて、私は一分所におつた、或いは四分所におつたとこう思しておりますけれども、各分所におけるところのいろいろな状況につきましては我々は全部協議しておりますし、各分所からの報告も参つております。それによつて見ましても、大井君とも、我々はこの將校梯團、越冬したところの將校梯團については、いろいろの点において具体的に檢討いたしましたけれども、増渕君その他の人達がカンパによつて残るということは絶対にありません。
  678. 細川嘉六

    細川嘉六君 中村証人についてはどうですか。
  679. 津村謙二

    津村証人 中村証人についてはそのまま一緒に帰つております。
  680. 細川嘉六

    細川嘉六君 カンパにかかつた人じやないですか。
  681. 津村謙二

    津村証人 カンパにかかつた兵士大衆の前に出た……
  682. 細川嘉六

    細川嘉六君 このことから帰還が遅れたということはない……
  683. 津村謙二

    津村証人 帰還は全然遅れておりません。
  684. 細川嘉六

    細川嘉六君 そうすると、これは先程問題になつたのだが、マルシヤンスクから帰つて來る、輸送されて來る。その場合に捕虜でなく帰還者として帰るのだとマルシヤンスクの当局から言われて來たという話であつて、それがナホトカに來て意外にも引き止められることになつたという、先程までの話がそうなりますね。そこであなたは長くナホトカにおつてマルシヤンスクやモスクワの方面から輸送されて來る人達の中で、やはり同じく何ケ月かナホトカに止められたという人がありましたか。例えば佐官であるとか、或いは憲兵であつたとか、特務機関に働いておつたとか何とかいう理由でナホトカに來て初めて帰還を止められたという例はありましたか。
  685. 津村謙二

    津村証人 それはあります。
  686. 細川嘉六

    細川嘉六君 例えば一つの例を挙げて下さい。
  687. 津村謙二

    津村証人 一つの例を申上げますと、さつきのどなたかの証言で、調書が全然附いて來ないということを申しておりますけれども、特に將校のものについては調書が全部附いて來ております。それがナホトカにおいてソヴィエト側において檢討いたしまして、そうしてその中からいわゆる戰犯容疑者というような者は残されるということはしばしばあります。その外に阿部、細川証人が二百名云々ということを申されておりますけれども、名簿洩れということにおいてあそこに残される人も多々あります。
  688. 細川嘉六

    細川嘉六君 その名簿洩れということは先程もちよつと誰かの問答の中に出ておりましたが、名簿洩れについてちよつと説明して呉れませんか。
  689. 津村謙二

    津村証人 これは主として日本側の人達とソヴィエト側が協同して大概この名簿は作つて参ります。ところが旧軍隊制度そのままのところは非常にこの名簿の作り方が不明確であります。ところがこれに関して司令部人事部で朝から晩までこの名簿作りをやつているのでありますが、タイプに全部これを打ち直して、そうして乘船名簿を作るのであります。その際その不明確な名簿からして脱落するという場合がございます。これが一個梯團で一人、又は二個梯團で一人、こういう工合になつても、数になると相当多くなります。併しながらこれは次の名簿のでき次第直ちにこれは帰つております。
  690. 細川嘉六

    細川嘉六君 例えばウランバートル、ああいう所で兵隊の名簿ができていない、そういう例があつたか、或いは一部分の名簿ができたが他の部分はできていなかつた、そのままで輸送されて來たということがあるのですか。
  691. 津村謙二

    津村証人 もう一度……
  692. 細川嘉六

    細川嘉六君 奧地から輸送されて來る部隊の名簿が作られてなかつた、半分だけ作つてつて他の部分ができていなかつた。何かそういうようなことがナホトカに來てから発見された。そのためにその名簿を作るためにいろいろな手続をとつたことがありますか。
  693. 津村謙二

    津村証人 あります。
  694. 細川嘉六

    細川嘉六君 そういうような場合なら相当の日数を経ると思うが……
  695. 津村謙二

    津村証人 これは大体長くて半月もかかつたものもあります。
  696. 細川嘉六

    細川嘉六君 それが五人、十人でなくて、何十人という名簿洩れがありましたか、どうですか。
  697. 津村謙二

    津村証人 大体多くて百五十名おりました。
  698. 細川嘉六

    細川嘉六君 相当数の者が相当長い間その名簿の作成されるまで待つていなければならんということが起きたわけですね。
  699. 津村謙二

    津村証人 それはあります。
  700. 細川嘉六

    細川嘉六君 それで増渕証人が先程話に出たが、二十人程スーチャンの方へ廻された、あのときのことをもつと詳しく言つて呉れませんか。あれは民主グループの何かの釣合いということがあつて起きたのか、他の理由があつて起きたのか、他の理由があればどういうのか、もつとはつきり言つて下さい。
  701. 津村謙二

    津村証人 それは昭和二十三年の一月からずつとあの沿海洲の各地から佐官とかその他の戰犯容疑者、憲兵とかその他の人達が殆どスーチャン地区に集結せられました。その際において越冬したところの数個梯團の中から相当容疑者としていろいろな調書その他において、ソヴィエトが恐らく調べたことだと思いますけれども、増渕証人以下二十名の人達があり、又その中には我々のグループの者も入つております。
  702. 細川嘉六

    細川嘉六君 それはどういうことで分りましたか、それを説明して呉れませんか。
  703. 津村謙二

    津村証人 それについては全然ソヴィエト側の戰犯容疑というものについては増渕君は法務中尉で軍法会議の法務官と、こう普通考えられるところのものであつた。こういう点において戰犯容疑者であろう、こういうことは想像されますけれども、他の將校も亦……
  704. 細川嘉六

    細川嘉六君 それでは民主グループの中からそこに來られた者があるというが、その場合民主グループのことについてはあなたも御存じであろうが、それはどういう理由でした。
  705. 津村謙二

    津村証人 これはハルピン学院の卒業生でありまして、これは恐らく何かの証人として呼ばれたのではないかということは考えられます。その一例といたしましては、高山助教授殺害事件の小山内元少尉、こうした者が証人として、さつきお話した通り三人のグループ員が証人に呼ばれております。
  706. 細川嘉六

    細川嘉六君 それで民主グループの策動される事件というものは絶対にないとあなたは言うのですか。
  707. 津村謙二

    津村証人 そう言います。
  708. 細川嘉六

    細川嘉六君 それでは更に続いてお尋ねしますが、津村証人は五十数名の者があなたのナホトカにおられたときに残されたと言うが、それはどういう理由で……
  709. 津村謙二

    津村証人 五十数名の人がナホトカに残された、こういうふうに申しますのは……
  710. 岡元義人

    理事岡元義人君) ちよつと靜かに願います。発言中でありますが、津村証人著席願います。細川委員ちよつと発言中でありますが、議場非常に混乱に陷つても困りますので、一應伺いますが、ちよつと速記を止めて。    〔速記中止〕
  711. 岡元義人

    理事岡元義人君) では速記をとつて下さい。委員長議事の進行上秩序を維持するために細川委員の祕書以外の方は退場して頂きます。
  712. 千田正

    千田正君 それは退場は語弊があるから、傍聽席において傍聽を許して貰いたい。
  713. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今の千田委員発言の通り訂正いたします。傍聽席に位置を変えて頂きます。細川委員の祕書の方だけそこにおられて……
  714. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 見受けるところ皆バツジをつけておるから外の議員の祕書なんですね。外の議員の祕書であれば、ここの席はこれだけあつて祕書のために設けられてあるのだから、外の祕書もおるのだから、淺岡さんの祕書もおるのだから……
  715. 岡元義人

    理事岡元義人君) 星野委員注意いたします。こちらは議員席になつております。
  716. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 それじや祕書はみんな向うへ行つて貰います。
  717. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 全部行つて貰います。
  718. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 一人でいいでしよう。
  719. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 いなくていい。
  720. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 それは自由意思だ。いなくていいというのは自由意思だ。あなたは……
  721. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 議員席は議員席、祕書は祕書……
  722. 岡元義人

    理事岡元義人君) ちよつと星野委員に御注意いたします。祕書の方はお残りになつていいから、それ以上の御指図はないように願います。
  723. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 祕書はいいでしよう。
  724. 岡元義人

    理事岡元義人君) どうぞ。細川委員
  725. 細川嘉六

    細川嘉六君 この問題については私がロボットのようなことを言つているが、絶対にそんなことはない。
  726. 岡元義人

    理事岡元義人君) 細川委員質問を続けて下さい。
  727. 細川嘉六

    細川嘉六君 後で問題にいたします。津村証人に伺います。この点ははつきりして置きたいと思います。津村証人は前回の証言でも、今度の証言でも、五十数名の者が後に残された。併しながらそれが間もなくみんな帰つているということであつた。そこで更にこの五十数名の人達はどういう理由で残されたか、それについては民主グループが関係があるのかないのか、その点をはつきりして下さい。
  728. 津村謙二

    津村証人 お答えします。その点に関しましては、民主グループとしては関係ありません。
  729. 細川嘉六

    細川嘉六君 民主グループの何かの、例えば吊し上げだとか何とかいうことが元になつて、間接的にもソ連側の独自の判断で留められたということがあるんじやないですか。
  730. 津村謙二

    津村証人 その点に関しましては、吊し上げとかしうことはなされませんけれども、ソヴィエト側がいろいろな状況をそこから聽取して、そうしてソヴィエト側がそのような容疑者として残すという者が五十数名あつて、それが全部帰つたということをこの前言つたのであります。
  731. 細川嘉六

    細川嘉六君 容疑者ということはどういうことについて疑いを持たれたのか、その点を分るならば説明して頂きたい。
  732. 津村謙二

    津村証人 例えば森脇君という人が頻りに細川証人から出ておりますけれども、この森脇君は血盟團のこれは理論的な指導者、こういうふうなことを言われました。先日の証人喚問の際にも私が申しました通り、指を切つた團長、血盟團の團長こういうものが我々のところへ言つて來て、そうしてソ連側も立会でそれを全部開いて、この森脇君を元の收容所、中央アジアのバルナウルであつたと私は聞いておりますけれども、バルナウルにおるところの佐藤大佐、この方面の調査て並行して、森脇君は暫くナホトカに約四、五ケ月だと思いますけれども、ナホトカに残つたということ、こうした例であります。
  733. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 私ちよつと質問しますが……
  734. 細川嘉六

    細川嘉六君 今発言中であります。議事進行ですか。
  735. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 いや議事進行じやない、質問です。
  736. 細川嘉六

    細川嘉六君 なぜ妨げをやるんですか、発言中です。
  737. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 細川委員には連続質問許しておるんですか。
  738. 岡元義人

    理事岡元義人君) 細川委員連続質問として許してないですが、ずつと今まで他に発言もないので延ばして來たんですから……
  739. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 先つきから私は言つておる。
  740. 細川嘉六

    細川嘉六君 そうでない、私が発言しておるんだから……
  741. 岡元義人

    理事岡元義人君) 今の進行上は間違いないですが、時間も大分経つておりますから、外の委員も留保されておるのは御承知だと思いますけれども、一應発言が切れたと思いますから、淺岡委員発言許します。
  742. 細川嘉六

    細川嘉六君 よく発言が切れたといいますね、質問の時間は私に與えておるんじやないですか。
  743. 岡元義人

    理事岡元義人君) 細川委員、後で質問していいのでありますから、外の皆にもしていいのでありますから、その点は讓つて頂きたいと思います。
  744. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 委員長にお尋ねしますが、大体今日のこの日は何時までおやりになるんですか、それに対してこちらのいろいろのあれもありますから……
  745. 岡元義人

    理事岡元義人君) 細川委員発言も終りますれば、後は先程の予定からすれば、三十分あればいいんじやないか、それから纒めますのに二十分程度、それから最後のそれに対する補足質問を入れて、大体十時十分ぐらいまでと考えておるのでありますが……
  746. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 大体細川委員質問が、先程から四十四五分に及んでおりますがね、併し今のような状態委員長の方から細川委員に対して三十分ということになれば、これは一時間になるか、一時間半になるか、二時間になるか分りません、ああいうふうになれば……。これは一つ委員長からお諮り願つて、そうして時間を決めて、それを嚴守してやつて行くということを一つお諮り願いたいと思います。
  747. 千田正

    千田正君 私は動議を出します。というのは証人も非常に疲労の色が見えます。速記の人達も相当疲労の色が見えます。これ以上時間を続けるということは、正確なる答を得るに、或る場合においては明確を欠く虞がありますので、でき得れば明日午前中この部屋を借入を申込んで、そうして明日続行して頂くような方法をとつて頂いて、明日続行の動議を私は出しますが……
  748. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 その動議はまだ採決に入らないで……細川君に尋ねたいと思いますが、今津村君にお尋ねになつておるから、又同じ問題について阿部君、細川君、中村君、増渕君にも当然お聞きになる予定ですか。
  749. 細川嘉六

    細川嘉六君 そうです。その予定です。
  750. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 そうすると、凡そどのくらいかかりますか。片方ばかり聞かれてこつちをお聞きにならんというと、公正を欠くから、当然こちらにお聞きになるだろうと思いますが、そうすると、一体どのくらいかかりますか。
  751. 細川嘉六

    細川嘉六君 四五十分かかります。
  752. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 それはやはり常識問題で……
  753. 岡元義人

    理事岡元義人君) 矢野委員の御発言中でありますが、この際各委員にお諮りいたします。打合せのため五分間休憩いたしたいと思います。御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  754. 岡元義人

    理事岡元義人君) では五分間休憩いたします。    午後九時二分休憩    —————・—————    午後九時九分開会
  755. 岡元義人

    理事岡元義人君) では休憩前に引続き委員会を開会いたします。
  756. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 委員会だけの質問に止めて、そうしてこの委員会を終ることにいたしたいと思います。その動議を提出いたします。
  757. 天田勝正

    天田勝正君 淺岡君の動議賛成いたします。    〔「賛成」と呼ぶ者あり〕
  758. 千田正

    千田正君 さつきの私の動議に対して何ら聞いておりませんけれども……
  759. 岡元義人

    理事岡元義人君) 千田委員に申上げますが、さつきのは動議になつておりません。
  760. 千田正

    千田正君 改めて動議を提出いたします。明日まで延長の動議を提出いたします。
  761. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 私の動議には天田委員賛成しておる。それをお諮り願いたい。
  762. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今淺岡委員から出されました動議を取上げることに御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  763. 岡元義人

    理事岡元義人君) では淺岡委員動議は後質問委員長だけにして打切ると、こういう動議でありますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」「異議あり」「議論もしないでいきなり採決には異議あり」「議事進行」「反対の理由も聞かずに……」と呼ぶ者あり〕
  764. 岡元義人

    理事岡元義人君) 動議が成立しておるのですから……    〔「異議ありませんかというから異議ありと言つたのです」と呼ぶ者あり〕
  765. 岡元義人

    理事岡元義人君) 小数であります。    〔「多数か少数か採決はまだ採つておりませんから」「異議なし」「異議あり」と呼ぶ者あり〕
  766. 岡元義人

    理事岡元義人君) では賛成の方挙手を願います。    〔「どつちに賛成の方ですか」と呼ぶ者あり〕
  767. 岡元義人

    理事岡元義人君) いわゆる質問委員長だけの質問で打切るということに賛成の方は挙手を願います。
  768. 千田正

    千田正君 本日で終りにするのですか。
  769. 岡元義人

    理事岡元義人君) 本日で打切りにするのです。    〔挙手者多数〕    〔「過半数だ」「過半数じやありません」「四対四だ委員長採決」「過半数」と呼ぶ者あり」
  770. 岡元義人

    理事岡元義人君) もう一回挙手願います。    〔挙手者多数〕
  771. 岡元義人

    理事岡元義人君) 過半数であります。    〔「過半数じやない」「過半数じやないと言つている」と呼ぶ者あり〕
  772. 岡元義人

    理事岡元義人君) 過半数であります。——では先程よりの証言を一應纏めて参りたいと思います。委員長から各証人に対してお尋ねいたすことをばできるだけ簡單要点だけお答していつて頂きます。先ず四國証人に伺います。いろいろな貼紙を出されておつた、貼紙を取れというようなソ連側注意によつて取られたことがあつたかなかつたか。四國証人
  773. 四國五郎

    ○四國証人 お答します。掲示されたいろいろなポスター、スローガン、そういつたものが例えば色が落ちて参りまして、そういうふうなものを指摘されまして、取りに行かされたことがありますか、その内容において取り去れと言われたことはございません。
  774. 岡元義人

    ○岡元理事 反動摘発委員会というようなものがあるということを知つておりましたか。
  775. 四國五郎

    ○四國証人 全然存じません。
  776. 岡元義人

    ○岡元理事 その次、松澤証人に伺います。あなたは食事の点について、各階級によるところの食事の点について御証言があつたのでありますが、ソ連の收容所内においてのいわゆる規定將校、下士官とおのおの、例えばパンは下士官、兵三五〇、將校は三〇〇、米は下士官が三〇〇、將校は三五〇、炊事にこういつたような規定が決められておるということは知つてつたのでありますか、知つておらなかつたのでありますか。松澤証人
  777. 松澤清勝

    松澤証人 お答します。私達が入所した当時はそのことについては全然知りませんでした。バレーに來て始めてそのことを知つたようなわけです。
  778. 岡元義人

    ○岡元理事 もう一点、軍隊組織は、捕虜收容所作業等に維持するようにというような指令がソ連当局からあつたのではなかつたのですか、この点。
  779. 松澤清勝

    松澤証人 この点については存じません。
  780. 岡元義人

    ○岡元理事 簡單でよろしうございますから、先程松澤証人証言の中にたびたび出て参りました。民主化という意味はどういう意味でありますか。
  781. 松澤清勝

    松澤証人 いわゆる階級章一つ作業にも出ない、將校室に閉じ籠つて当番兵をつけて、そして旧軍隊制そのままを維持したこと、このことを打破する、いわゆる民幹部闘爭を以て民主化と言つておりました。
  782. 岡元義人

    ○岡元理事 はい、よろしうございます。  次に小針証人にお尋ねいたします。ダモイを決定しておるのは日本新聞だと御証言がありましたが、その日本新聞が決定した通りにダモイは決定されて行つたのでありますか。
  783. 小針延次郎

    小針証人 お答えします。日本新聞が決定した通りに決定されておりません。
  784. 岡元義人

    ○岡元理事 もう一点、反動摘発委員会というのは知つておられましたか。
  785. 小針延次郎

    小針証人 それは私のいる時分はありませんでした。
  786. 岡元義人

    ○岡元理事 もう一点、三八〇收容所とはどういう所でありますか。
  787. 小針延次郎

    小針証人 三八〇收容所は、知りません。分りませんです。
  788. 岡元義人

    ○岡元理事 小針証人にもう一点、これは阿部証人にも昨日尋ねてありますが、收容所を出るときの帰還名簿は、帰還を許可されたものと、こう思つていいのですか、この点伺います。
  789. 小針延次郎

    小針証人 そう思つております。
  790. 岡元義人

    ○岡元理事 阿部証人証言を求めます。阿部証人証言では、杉田氏がカンパを受けるときには、その前に明日カンパをやるという通知を受けたという御証言があつたのでありますが、先程津村証人からは、そういうことはないという御証言がありましたが、この点について更にお尋ねいたして置きます。
  791. 阿部齋

    阿部証人 この点訂正いたします。明日でなく、夕食後と私は申上げたつもりでありましたが、でなければ、夕食後カンパに行くと、こういうふうに訂正いたします。
  792. 岡元義人

    ○岡元理事 今の点津村証人に念のためにお聞きいたして置きますが、そういうことはありません。懇談に行つたのだというような先程お話でありましたが、そうでありますか。
  793. 津村謙二

    津村証人 それに間違いありません。
  794. 岡元義人

    ○岡元理事 そこでもう一点各証人順次にお聞きして行きます。  樺太地区から元警官であつたというような方々が約八百名程、留守家族が非常に心配しておられるのでありまするが、一人も帰つて見えないのであります。この点について知つておられる方がありましたならば、知つておると、或いは知らないと、こういう工合にお答え願います。
  795. 小針延次郎

    小針証人 申上げます。ハバロフスク第十六の二十收容所に、何名か人数は分りませんが、警官がおりました。樺太の警官、満洲から廻つた警官がおりました。
  796. 津村謙二

    津村証人 知りません。
  797. 四國五郎

    ○四國証人 知りません。
  798. 松澤清勝

    松澤証人 存じません。
  799. 阿部齋

    阿部証人 知つております。桂樺太元警部、これはナホトカにおいて残されました。後農場作業に出たことは知つておりまするが、どうなつたか、あと自分はナホトカを去つたので、あとの樣子は分りません。二、アルチヨーム收容所に、樺太警視保安課長、名前は忘れました。この方外十名近くの警視の方、或いは警部、警視の方がアルチヨーム特殊收容所に入つたことを見ております。
  800. 岡元義人

    ○岡元理事 特殊收容所ですね。
  801. 阿部齋

    阿部証人 アルチヨンの自分らが入つておりました特殊收容所であります。
  802. 細川龍法

    細川龍法証人 シベリアに入つたということは聞きました。併し、どこにおるかは分りません。私は樺太部隊に所属しておりましたが、私達が終戰後抑留されましたのが八月の二十五日でありますが、その後に兵隊方で逃亡共がございました。それの補助要員として警察官が連れ込まれまして、我々と行動を一緒にした実例がございます。
  803. 中村良光

    中村証人 知りません。
  804. 増渕俊一

    増渕証人 アルチヨンの長命隊、只今阿部証人からお話がありました長命隊に樺太の警察官の方が確かに数名おりました。その中に名前は忘れましたが、碁の非常に上手な人が一人おります。昨年の十月末まで皆健在であります。
  805. 岡元義人

    ○岡元理事 次の質問に対して各証人から簡單に思うとか、思わないという工合で結構でありますが、お答え願います。人民裁判日本人さえ……いわゆる人民裁判でありますが、日本人さえやらなかつたならば、いわゆる民主グループの人がやらなかつたならば、これは止るのだ、こういうことはなくなるのだということをお思いになりますか。
  806. 小針延次郎

    小針証人 なくなると思います。
  807. 津村謙二

    津村証人 なくなります。又すでに現在はありません。
  808. 四國五郎

    ○四國証人 シベリア全地区において相当民主化されております現在、そのようなカンパは行われておりません。
  809. 岡元義人

    ○岡元理事 四國証人の行われておりませんという意味は、どういう意味でありますか。
  810. 四國五郎

    ○四國証人 私の聞いておる範囲では行われていないという意味であります。
  811. 岡元義人

    ○岡元理事 あなたはナホトカ收容所にいらしたのですか。
  812. 四國五郎

    ○四國証人 そうでございます。
  813. 岡元義人

    ○岡元理事 カンパは一回も御覽にならなかつたのですか。
  814. 四國五郎

    ○四國証人 ナホトカ收容所においても、私の帰る前においては段々なくなつております。殆んで行かれておりません。(「了解」と呼ぶ者あり)
  815. 岡元義人

    ○岡元理事 二十三年の六月から二十三年の十月までの今までの証言ではそういうものは段々形が変つて來た。テントの中で、或いは兵舎の中で行われておるのだという点も聞いておりますが、あなたは全然ないという意味でありますか。
  816. 四國五郎

    ○四國証人 在ソ中日本人はすべての行動、或いは一つの行動を決する場合に、すべて集会を以て、全員の意見を以てやつております。このようなものも兵士大会というならそれは行われております。
  817. 松澤清勝

    松澤証人 只今國証人が言われましたように、普通收容所内の設備その他のことに関して建設的な意見を述べ合う兵士大会これはあると思います。併しながらここで問題になつておりますような裁判のようなものはなくなると思います。
  818. 岡元義人

    ○岡元理事 なくなると思いますか。
  819. 松澤清勝

    松澤証人 なくなつていると思います。
  820. 岡元義人

    ○岡元理事 これは私が質問したのは、そういう民主グループ人達がやりさえしなければ全然なくなるとこういう工合にお考えになるのでありますか。
  821. 松澤清勝

    松澤証人 必要なくなると思います。(「それでいい」と呼ぶ者あり)
  822. 阿部齋

    阿部証人 なくなると思います。
  823. 細川龍法

    細川龍法証人 なくなると思います。
  824. 中村良光

    中村証人 なくなります。
  825. 増渕俊一

    増渕証人 なくなると思います。又なくならなければなりません。自由意思の発表のできる場合、又密告者のいない場合にはそういうことは行われておりませんでした。これは実例が沢山あります。
  826. 岡元義人

    ○岡元理事 それからもう一点伺います。本年は帰還ができると、実際に残つておるものは全部完了ができると、船さえ順調に廻しますならば、帰還ができる状態にあるとお考えになりますか。この点……
  827. 小針延次郎

    小針証人 お答え申上げます。一般のシベリア地区におる將兵はこれは帰しておられます。併しながら特別收容所に現在おります憲兵出身、ハルビン学院の出身者、特別志願將校、これは再教育を施すと、日本新聞におる時分に聞いております。
  828. 津村謙二

    津村証人 船さえ解決したならば、必ず帰ると思います。又特殊憲兵、警察その他の方々も続々帰つておりますから、小針証人の言われたようなことは私はないと思います。
  829. 岡元義人

    ○岡元理事 ちよつと今の小針証人の言われたような点とはどういう意味ですか。
  830. 津村謙二

    津村証人 憲兵、ハルビン学院卒業者、こういう人達も続々と現在帰つております。ですから、そういう人達を絶対帰さないというようなことはないと、こう思います。
  831. 岡元義人

    ○岡元理事 津村証人に重ねてこの点についてお聞きしたいのでありますが、船の準備がすでにできておるということは、津村証人は御承知しておられますか。
  832. 津村謙二

    津村証人 船は十二、三隻舞鶴に用意されておるということは新聞によつて、政府の発表によつてつております。
  833. 岡元義人

    ○岡元理事 御存じでありますか。
  834. 四國五郎

    ○四國証人 船さえ解決つけば、本年中に完了すると思います。
  835. 岡元義人

    ○岡元理事 四國証人に伺いますが、船は前からすでに準備して、本年度はできておるとは御承知ですか。
  836. 四國五郎

    ○四國証人 昨年廻航したと同じ率で以て廻航したならば、足りないのではないかと思います。
  837. 岡元義人

    ○岡元理事 その点について、昨年廻航した船が足りないと、どのくらいあれば足りますか。
  838. 四國五郎

    ○四國証人 正確な数字的なことは分りませんけれども、昨年大体一日置き、或いはひどいときは三日置き、又相当の期間、船が杜絶えておるときがあります。これが連続して参つたならば、あと残留しておる三十数万の人は帰れると思います。
  839. 岡元義人

    ○岡元理事 四國証人に誤解があつてはいけませんから、私から申上げて置きますが、当委員会は、すでに本年度も調査を完了して、原簿を見て來ておりますが、又昨年度も私も行つて見ましたが、二ケ月に一回しか出航ができずに待機しておつた状態であります、船が、これは参考のために委員長から申上げて置きます。
  840. 松澤清勝

    松澤証人 完了すると思います。
  841. 阿部齋

    阿部証人 帰還できないと思います。
  842. 岡元義人

    ○岡元理事 その理由は。
  843. 阿部齋

    阿部証人 はい、問題はソ連の誠意如何にかかる問題になつて参ります。若し本当に帰す意思があるならば、すでに実施しなければならんじやなかろうかという推察と、この前にお話がありました、五万の協定をソ連がどこまでも持つて來るのじやないか。然るときに、船が準備してあつても、五万の協定をどこまでも向うが維持するのではないかと、こういたしますと、四十万残つてつて、五万で行くと、約八ケ月かかる。それで來年に持ち越すという意見であります。
  844. 細川龍法

    細川龍法証人 お答えいたします。帰えないのではなく、帰さないだろうと推定いたします。理由といたしましては、昭和二十二年の四年、私が参りまして間もなくでございましたが、將校人達一緒に兵隊と帰つたのでございます。たまたま、名前を忘れましたが、某中尉が共産党の徳田氏か野坂氏に対して暴行を加えたという、デマかなんか、そういうものが入つて参りました。かようなことから、將校を帰してやると、我々の同志の迫害を加える。いわゆる反動が強化されるということから、ソ軍では、將校の帰國を見合せているということと聞いて参りました。そのことと思い合せまして、先般來問題になりました吉村隊事件の問題、更に本次の問題等を睨み合せて参りますときに、御承知のように、本日の証人席におります津村氏などいうように、ナホトカにおいて要職にあつて、いわゆる親ソ派として見られて來たということはすでに御承知のことと思います。かかる人の今度の問題を、相当ソ側としても重要視しているのではなかろうかということを考えます。この問題が解決ついた曉において、いろいろと又それに対する対策が講じられる。かような見地から今阿部証人も申されましたが、時期的に見ましても、一昨年は四月三日から輸送しておりますのにも拘らず、今月は、五月十日が過ぎてもまだその通知さえもない。こういう事情から見まして当然帰れないと思います。
  845. 中村良光

    中村証人 今年中には帰れないと思います。理由といたしまして、これは私の考えでありますが、日本に帰つた同胞、日本人が今日同じ私達がここに証人として呼ばれておりますが、こういうものが向うに問題になつて一時保留されておるのではないかと思つております。
  846. 増渕俊一

    増渕証人 非常に疑問だと考えます。理由は最初四万の日本人俘虜を引入れます場合、嚴寒期に六ケ月で済んだのであります。これが出せない筈はないのであります。それからもう一つは二十三年、昨年の一月頃ナホトカの港へ上海附近から白系露人の強制移任民を乘せた堂々たる客船が二、三杯続けて入つて参りましたので……
  847. 岡元義人

    ○岡元理事 いつ頃ですか。
  848. 増渕俊一

    増渕証人 一、二月頃であります。自分らが荷役に行つて親しく彼らといろいろちやんぽん語で話をしたりなどした経驗があります。あそこの港は全然冬季間使えない筈はないのでありまして、毎日船が入つております。それからもう一つの理由といたしまして、昨年十月二十三日舞鶴に我々を運んで呉れました信洋丸は南方、中國その他の地域から同胞を抑えます際には、五、六千も乘せた船でありまして、当日も二千五百名の一週間分の食糧を積んでおつたのであります。然るに僅か二晝夜ちよつとの航海に千五百名しか乘せない。而も一箇大隊も生木を割くようにして、兵隊に一部を残してその千五百に削つて帰した事実があります。
  849. 岡元義人

    ○岡元理事 では次に、これも簡單にお答え願います。津村証人から、先日の証言、前の証人に出られましたときに、残つております残留同胞は共産教育を強要されたことはないと思うという御証言がありましたが、この点について小針証人
  850. 小針延次郎

    小針証人 お答え申上げます。強要はしておりません。
  851. 四國五郎

    ○四國証人 強要はされておりません。
  852. 松澤清勝

    松澤証人 強要はされておりません。
  853. 阿部齋

    阿部証人 強要されております。
  854. 細川龍法

    細川龍法証人 強要されております。
  855. 中村良光

    中村証人 強要されておりませんが、民主員によつて強要されたことはあります。
  856. 増渕俊一

    増渕証人 強要されております。
  857. 岡元義人

    ○岡元理事 もう一点、津村証人に、先程淺岡委員からの質問に対しまして、二十二年の一月四日に船が出て行つた、それは何処に行つたか分らないのだ、こういう御証言がありながら。あとの方に、それは着いておる。自分の知つておる者が帰つて來ておる。こういう工合に御証言なすつたのでありますが、非常に証言が曖昧のようでありますから、この点もう一遍はつきりして置いて頂きたい。
  858. 津村謙二

    津村証人 お答えします。ナホトカの港からは日本の船が出て行つたのであつて、それが当時におきまして、私が何処へ行つたかということは、これは臆測であります。それで私は分らない、こう言つたのであります。帰つて來て私が確かめたところで、これが帰つて來たということを日本において私は知つたのであります。
  859. 岡元義人

    ○岡元理事 その船の名前は。
  860. 津村謙二

    津村証人 さつき忘れましたと、こう申しました。
  861. 岡元義人

    ○岡元理事 それから誰ですか、あなたの知つておられる人は。
  862. 津村謙二

    津村証人 今ちよつと思い出せませんから、後で提出します。
  863. 岡元義人

    ○岡元理事 名前と、住所も分つておりますか。
  864. 津村謙二

    津村証人 分つております。
  865. 岡元義人

    ○岡元理事 ではそれを提出願います。それからもう一点津村証人にお伺いして置きますが、先程問題になりました杉田証人が生きていると自分は考えておつた、こういう証言が出ておりますが、現在ではどうお考えになつているのでありますか、その点明らかにして頂きたいと思います。津村証人のその点に対する証言を求めます。
  866. 津村謙二

    津村証人 実際に死んだ、投身自殺したその姿を誰も見ておらない。こういうところから死んだとは確認できない。若し言うなら行衞不明と言うのが妥当ではないかと思います。
  867. 岡元義人

    ○岡元理事 日本に帰つて來ているということは考えておられませんね。
  868. 津村謙二

    津村証人 行衞不明であると、こう思つております。
  869. 岡元義人

    ○岡元理事 もう一点伺つて置きますが、その裸にされたと御証言がありましたが、誰が裸にしたのですか。
  870. 津村謙二

    津村証人 日本の医者です。
  871. 岡元義人

    ○岡元理事 名前は分りませんか。
  872. 津村謙二

    津村証人 あそこには同じ津村という名札がありましたけれども、誰かその附近の人だと思いますけれども、実はやつた当人は私知りません。
  873. 岡元義人

    ○岡元理事 裸にしたというのは、被服の著替のための裸とは違いますか。
  874. 津村謙二

    津村証人 素裸になつて診察したのであります。
  875. 岡元義人

    ○岡元理事 名前は津村……。分らないというのですね。それでは尚もう一点聞いて置きますが、昨日細川証人から、五十九名更に奧地へやられて、又ナホトカに帰つて來た。この五十九名もカンパの結果行つたということになつているのでありますが、これは津村証人が述べられました先の証言の五十名とは関係は全然別個でありますか。
  876. 津村謙二

    津村証人 全然別個であります。
  877. 岡元義人

    ○岡元理事 ではこの際改めて、実際にそれはカンパではないと、こう言われるわけですか。
  878. 津村謙二

    津村証人 カンパではありません。
  879. 岡元義人

    ○岡元理事 細川証人の五十九名……
  880. 津村謙二

    津村証人 カンパではありません。
  881. 岡元義人

    ○岡元理事 その中に下士官と兵が入つてつた、これは戰犯容疑者ですか。
  882. 津村謙二

    津村証人 さつき申しましたように、森脇は血盟團の理論的な指導者としてソヴィエト側から調べられております。又中尾准尉、これは汽車に乘つてナホトカに著く際において、兵士大衆の前において再びシベリアの原野に日本軍が怒濤のごとく攻め寄せて來ることをここにおいてはつきりと言うというふうなことを言うていることがソヴィエト側に聞えまして、そういう点で中尾准尉、こうした人達は残されております。
  883. 岡元義人

    ○岡元理事 その点について更に細川証人にもう少しはつきりしておいて頂きたいと思います。細川証人
  884. 細川龍法

    細川龍法証人 お答えいたします。今の五十九名は、昨日も私はカンパのためとは申上げておきませんでしたが、若し書いておられますならば、御訂正願いたいと思います。その人達將校五十二名、准士官二名、下士官三名、兵二名でございます。そうして昨日も申上げて置きましたが、当時將校は帰れないということを聞いておりました。そうしてその將校の中に、帰れないということを前以て指令を受けておりました中に我々が加えられて参りましたので、我々に対しては当然当分帰國見込がないという宣言を受けたごとく我我が考えて行動したのでございます。その中に、兵隊一名の内一名は秋田、一名は東京、こう報告してありますが、その通りであります。
  885. 岡元義人

    ○岡元理事 もう一点津村証人にお尋ねして置きますが、戰犯容疑者になつている者を、更にすでに送り帰さなければならないものを知つておりながらカンパにかけたという事実がありますか。津村証人
  886. 津村謙二

    津村証人 知つておりながらかけたということはありません。
  887. 岡元義人

    ○岡元理事 津村証人証言を求めますが、帰還部隊が、特に民主グループナホトカについてから乘船のとき、今まで教育に使つてつたところの赤旗、日本新聞、共産党紙、パンフレツトを持ち帰ることを禁止したことがありますか。
  888. 津村謙二

    津村証人 特にこれを禁止したことはありません。みんな持つてつても舞鶴の所に随分積まれているそうですから、みんな持つてつているだろうと思います。
  889. 岡元義人

    ○岡元理事 禁止していないわけですね……  それではもう一点津村氏にお尋ねしますが、佐官以上は帰さないと証言しておられますが、この事実はソ連側からあなたの方に対して命令か、正式通告があつたのですか。
  890. 津村謙二

    津村証人 正式の通告はありません。佐官は全部ソヴィエト側で名簿を削つて待機させておきました。
  891. 天田勝正

    天田勝正君 大変それはおかしいと思う。片一方は命令して寄越しているでしよう。その点はつきり聞いて貰わないと。委員会にお任せしてあるのだから……
  892. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今の点天田委員の特に発言許します。一應分るように御質問願います。
  893. 天田勝正

    天田勝正君 どうも動議賛成した方で申訳がありませんが……
  894. 岡元義人

    理事岡元義人君) 補足を特に天田委員から言つて頂きます。
  895. 天田勝正

    天田勝正君 今委員長がお聞きした点に関連して津村証人にお伺いします。それは一方はもうすでにラーゲルを出るときに命令されて來ているのですね、帰國なら帰國と言うことを……ところが一方ナホトカに來るというと、佐官以上は帰えさんのだ、こういうことで帰えされない、ここは非常に私は同じソ連の機関でありながら喰違いがある。こう思うのです。そこで帰さないということは、私は民主グループであるあなた方に何か指示がなければならないのじやないか、こういうふうにまあ考えられるわけです。これはまあ私の考えでありますから、違うというなら仕方がありませんが、そうだとすれば、今度は第二のこういう点が出て來ます。ソ連機関はあれだけ計画的にというふうに世界中に知られている國で、一方の機関で決めたことが一方の機関じや一向守られない、そういうようなことが外の事例でもあるのでありますか、その点をお伺いいたします。
  896. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 一應決定したのをどういうわけでこういう混乱をするのですか。委員長だけの質問に止めるという採決をした。採決をしてその場合に私は修正案を出そうと思つた細川氏の質問を二十分に止めて貰うという協約をして、それは質疑應答合せて二十分という制限をした。それから委員長質問だけで終ろう。こういう修正案を出そうと思つたが非常に横暴な態度でそれを押し切つて動議だ、多数決だで止めた。而もみずから破つて今度は外の委員質問をさせる。こういうことをやつていいのか。
  897. 岡元義人

    理事岡元義人君) 星野委員にお答えいたしますが、私が質問したのは、質問したことが十分でなかつたので、この質問は前から天田委員からの要求があつたものであり、天田委員に補足をして頂いたわけなんです。(「了承了承」と呼ぶ者あり)
  898. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 先程強圧的に決で押したという点に瘤がある。今後委員長は嚴重な反省をお願いします。
  899. 岡元義人

    理事岡元義人君) 御了承を願います。    〔「了解」と呼ぶ者あり〕    〔星野芳樹君「了解せんですよ」と述ぶ〕    〔「それは君だけだよ」と呼ぶ者あり〕
  900. 岡元義人

    理事岡元義人君) 大体最後にいろいろ証人の……(「あの返事は」と呼ぶ者あり)津村証人、今の……
  901. 津村謙二

    津村証人 お答えします。ソヴィエトの各收容所から還すためにナホトカに参つても、先程から私が御説明いたしましたように、ナホトカに溢れるということでありまして、船は決つた日にちにおいてやつて來る。こうなれば、勢いそこに余らざるを得ない。こうしたときにおいて、帰國の順位が佐官の人達が残るということは止むを得ないのではないか、こう私は考えるのでありまして、ここにおいてやはり最後のそうしたことは、船が來るか來ないかということにおいて決まる。船が十分にナホトカに來たところの復員者を收容し、帰國せしめることができない場合には、やはりここに帰國順位というものができる。そうした場合において、佐官その他の人達がやはり残されて行くというのは止むを得ないことではないか、こう私は考えるだけでありまして、ソヴィエト側のすることが矛盾しておるということは私考えられません。
  902. 岡元義人

    ○岡元理事 では最後に、各証人証言等によりまして、次のようなことが考えられるのでありますが、この点について各証人から簡單にイエス、ノーでお答えして頂きたいと思います。  すべての残留者は帰國を希望しておるんだ。この点次々に小針証人からお答えを願いたいと思います。
  903. 小針延次郎

    小針証人 お答え申上げます。希望しております。
  904. 津村謙二

    津村証人 希望しております。
  905. 岡元義人

    ○岡元理事 次々に名前言つて頂きまして……
  906. 四國五郎

    ○四國証人 希望しております。
  907. 松澤清勝

    松澤証人 希望しております。
  908. 阿部齋

    阿部証人 熱望しております。
  909. 細川龍法

    細川龍法証人 希望しております。
  910. 中村良光

    中村証人 希望しております。
  911. 増渕俊一

    増渕証人 渇望しております。
  912. 岡元義人

    ○岡元理事 その次は希望者は残留していいということが公示はされていない……。この点小針証人から……
  913. 小針延次郎

    小針証人 お答え申上げます。希望者は残留してもいいということは言つておりません。
  914. 岡元義人

    ○岡元理事 次々に名前言つて頂きまして……
  915. 津村謙二

    津村証人 聞いておりません。
  916. 四國五郎

    ○四國証人 聞いておりません。
  917. 松澤清勝

    松澤証人 聞いておりません。
  918. 阿部齋

    阿部証人 聞いておりません。
  919. 細川龍法

    細川龍法証人 聞いておりません。
  920. 中村良光

    中村証人 聞いておりません。
  921. 増渕俊一

    増渕証人 聞いておりません。
  922. 岡元義人

    ○岡元理事 次に、年間又は月間の計画はいずれもソ連側権限である。で、二十三年及び今年の引揚げの遅れておる理由もソ連側にある、責任にある……。この点について小針証人
  923. 小針延次郎

    小針証人 申上げます。ソ連側の責任だと思います。
  924. 津村謙二

    津村証人 分りません。
  925. 四國五郎

    ○四國証人 分りません。
  926. 松澤清勝

    松澤証人 分りません。
  927. 阿部齋

    阿部証人 ソ連であると思います。
  928. 細川龍法

    細川龍法証人 ソ連側だと思います。
  929. 中村良光

    中村証人 ソ連側だと思います。
  930. 増渕俊一

    増渕証人 抑えておる者、ソ連則だと思います。
  931. 岡元義人

    ○岡元理事 大体以上の点において本日の審議は終了いたしたいと思うのでありますが、この際各証人の方々で、特に当委員会目的は本日にも、又昨日も申上げてありますが、この目的に副う意味におきまして、当委員会に特に申上げて置きたいと思われる方があつたならば、発言許しますから申出を願います。できるだけ、時間も経つておりますから、要点だけ簡單にお願いします。
  932. 阿部齋

    阿部証人 結論を申上げます。これは人民裁判並びにソ連における我々抑留者のその当時の心境というもの、並びに津村氏が行なつた人民裁判等における私の結論的私見を述べさせて頂きたいと思います。短く申上げます。帰りたい、早く帰つて來て下さい、これは日本人の血の叫びであります。本当に日本人を愛するならば、この心持がナホトカでひしひしと氣が付くところであります。又津村君が本当にナホトカにおける責任者であるならば、その業務において必ずや被服とか、給與、給水、或いは住所のバラック、これに対する防寒、防雨、排水、採光、こういうことを考え、更に労働に從事する同胞のためには、労働の種類、労働の時間、労働賃金、こういうことを考えなければなりません。更にその人員の受授に関しては特に氣を付けなければならん。又必要上残留された方々の氏名、或いは病院の取扱、死亡者に対するその遺骨の整理等に関して、責任者としてもつと取らねばならん仕事が沢山あつたのではないかと思います。然るにその思想運動の一手段であるところの反幹部鬪爭、階級鬪爭に身を投じて、全般に対して目を通じ得なかつたということは、ナホトカにおける責任者として、私は責任者にあらずして無能者なりという謗りを言つて過言ではないと思うのであります。若し彼の吉村が蒙古指揮官と結び付いて力を以て同胞を苦しみに陥れたのであると言うならば、津村君は思想運動にかこつけてソ側將校に取り入り、頼むべからざる力を頼んで、帰國という餌で、或いは反動という言葉の鞭を以て同胞を苦境に陥れたものであると私は思います。そうして同胞に対するひどいそのやり方は吉村よりも一層知的であつた。理智的に行われたという点において、私は彼に対する憎しみがより一層大なのであります。併しながらその行われた、彼が最も得意としておつた大衆カンパにおきましても、決してソ連の眞意ではありません。ソ連政治部は我々にこれは日本の一兵士の過ちであるからと我々の前に詑びた次第であります。一個人の誤りが國際関係に対して迷惑を及し、之は同胞の引揚に大なる影響を及しておるという点について……
  933. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 ちよつと発言中でありますが、本委員会に対して何かお願いがあればという言でありまするから、御意見は成るべく差控えて頂きたい。そういうふうに委員長は須く調整をせられたい。
  934. 岡元義人

    ○岡元理事 只今矢野委員から御注意がありましたが、阿部証人に、我々委員会が今後仕事をいたす上において何か特にこれだけ申上げて置いたら参考になるという点について申述べて頂きたいと思います。
  935. 阿部齋

    阿部証人 在留邦人は帰國を本当に熱望しております。何とぞ今まで御努力されていることは十分承知しておりますが、尚一層の御配慮あらんことをお願いたします。
  936. 千田正

    千田正君 私は、かくも遅くなつたのに、各証人の皆さんが熱心に希望する点はいいと思いますけれども、むしろ明日この委員会が開かれる、こういう場合に、参考として意見をはつきりせられた方がむしろこの際いいのではないかと考えます。(「賛成」「今後の委員会に」と呼ぶ者あり)
  937. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 僕は千田君の意見であるか動議ゐあるか存じませんが、賛成します。何となれば、この委員会は黒白を爭うとか、判決をするとかいうのではなくて、今熱望されたごとく、一日も早く國内態勢を調和して、そうしてお迎えしたいという唯一の眼目の下にやつているのでありまするので、今御希望があれば、この時間の切圧した際よりも、或いは文書を通し、或いは口頭を以て、具さに、率直に御意見を我々委員会に御提出頂けば、我々は最も良心的にその御意見を受けて、委員会がこれを協議して、その御希望に副うように努力すべきであると思いますので、千田君の意見は私は動議として賛成しますから、その通り委員長は然るべくお取計らいを願います。    〔「賛成」と呼ぶ者あり〕
  938. 岡元義人

    理事岡元義人君) 動議は成立しておりますから採上げることをお諮りいたしますが、ただ一点参考のために申上げて置きたいのは、本日十一時、十二時の汽車でお帰りになる証人の方があるのであります。それで皆さん少しの時間だけでもと思いまして……
  939. 北條秀一

    ○北條秀一君 そういうものは時間を五分なら五分と切つて下さい。三分なら三分と……
  940. 岡元義人

    理事岡元義人君) 動議が成立しておりますから、動議を採上げることに御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  941. 岡元義人

    理事岡元義人君) これは他日の委員会において陳情その他で、御意見又は書面で以て委員会に述べて頂くように、只今発言があつたのでありますが、これに各委員は御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  942. 岡元義人

    理事岡元義人君) では長時間に亘りまして、各委員におかれましても、又証人におかれましても、熱心に審議が昨日から本日まで続けられたのでありますが、今までの証言に基きまして、委員会は更に愼重に審議いたしまして、その結果において更に証人を喚問しなければならないというようなときには、又喚問することにいたしまして、本日はこれにて散会いたしたいと思います。御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  943. 岡元義人

    理事岡元義人君) ではこれにて散会いたします。尚証人の方々には誠に長い間御苦労さまでございました。有難うございました。(拍手)    午後九時五十八分散会  出席者は左の通り。    理事            天田 勝正君            草葉 隆圓君            岡元 義人君            星野 芳樹君            鈴木 憲一君    委員            木下 源吾君            淺岡 信夫君            水久保甚作君            伊東 隆治君            木内キヤウ君            岩本 月洲君            北條 秀一君            穗積眞六郎君            矢野 酉雄君            細川 嘉六君            千田  正君   証人            小針延次郎君            津村 謙二君            四國 五郎君            松澤 清勝君            阿部  齊君            細川 龍法君            中村 良光君            増渕 俊一君