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1949-05-11 第5回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第23号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十四年五月十一日(水曜日)    午前十時四十六分開会   —————————————   本日の会議に付した事件遺族並びに未亡人援護に関する決議  案の件 ○人民裁判に関する件  (右件に関し証人証言あり)   —————————————
  2. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今より委員会開会します。
  3. 天田勝正

    天田勝正君 本会議に出席した後、委員会を継続されるよう動議提出いたします。
  4. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 天田委員動議に賛成します。
  5. 岡元義人

    理事岡元義人君) では十一時より始めることに御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  6. 岡元義人

    理事岡元義人君) ではさよう決定いたします。    午前十時四十七分休憩    ——————————    午前十一時十二分開会
  7. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今から休憩前に引続き委員会を再開いたします。
  8. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 本日の議題に入りまする前に、一應委員長を通じて御相談を願いたいと存じますのは、実は平素この委員会遺族の問題につきまして、或いは関係方面との折衝、或いは遺族弔慰法立案等をいたして参つたわけでありまするが、衆議院におきましても、近くこの遺族問題についての本会議における決議案を上程する。從つてできるならば、この参議院も同樣な方法をとつて行きたいと存じまするから、遺族並びに未亡人援護に関する決議案というものを、本委員会委員全部の提案によりまして、御承解を願えるならば、いろいろの関係厚生委員会委員諸君共同提案もお願いして、成るべく衆議院と同日及びその前後最も近い機会に本会議において議決をして、廣く國民にこのことを訴えたいと存ずる次第でございまして、その内容等につきましては、後刻お配りを申上げますから御了承を願いたいということの御提案を願いたいと思います。
  9. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今草葉委員から御発言のございました案件に関しましては、当委員会はすでに遺族並びに未亡人等の問題についても十分対策を考慮して來たわけでありますので、只今草葉委員の御発言に対して、できますならば、各委員の御了解を得たいと思いますが、お諮りいたします。御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  10. 岡元義人

    理事岡元義人君) ではさよう処置することにいたします。   —————————————
  11. 岡元義人

    理事岡元義人君) では本日はいわゆる人民裁判と言われております問題の審議をいたすわけでありますが、先日お手許にも配付いたしてあります通りに、世界の歴史には戰爭の終了と共に、人民裁判に、いわゆる人民裁判と言われておりまするところのものに類似したことがあつたことは散見するのでありますが、ナホトカにおけるいわゆる人民裁判のごときは未だその例を見ないものでありまして、かかる措置が何らの調査も行われず、不問に付されるならば、かかる行爲合法的措置として將來に残るわけであります。内地にありましては、終戰と同時に旧軍隊所有物等が最も不公平に荒されまして、これに対して隠匿物資摘発委員会等が構成され、嚴密にその不当の処置に対して批判が加えられたのでありますが、引揚問題の処理に当つております当委員会といたしましては、当然未だ四十七万の同胞を海外に残しておる現在におきまして、留守家族等の身の上に思いを馳せ、その眞相を究明し、旧軍隊における階級による帰還遅延責任を判明せしめ、吉村隊、これは通称呼ばれております吉村隊でありますが、その吉村隊英彦丸暴行事件等を未然に防止すると共に、その妥当なるかを究明し、以て本年度帰還完了を実現するために連合軍の理解に縋り、証人証言に基き委員会は更に愼重に審議し、收容所状態残留者状況を把握して、今後の輸送又給與等に対する立法処置参考資料にもなし、必要に應じ措置すべき点は緊急に措置すべきため、証人の出席を要請した次第であります。先ず証人宣誓をお願いいたします。一同起立願います。    〔総員起立証人は次のよう宣誓を行なつた〕    宣 誓 書  良心從つて眞実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 阿部  齋    宣 誓 書  良心從つて眞実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 細川 龍法    宣 誓 書  良心從つて眞実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 中村 良光    宣 誓 書  良心從つて眞実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 増渕 俊一    宣 誓 書  良心從つて眞実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないとを誓います。         証人 福富 春雄    宣 誓 書  良心從つて眞実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 杉田 たず    宣 誓 書  良心從つて眞実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 浦田 孝之
  12. 岡元義人

    理事岡元義人君) 御着席願います。   —————————————
  13. 岡元義人

    理事岡元義人君) この際、証人に御注意申上げておきますが、虚僞証言があつた場合は、議院における証人宣誓及び証言等に関する法律第六條によりまして三月以上十年以下の懲役に処することになつておりますから、御注意して頂きたいと思うのであります。又本日は公聽会とは違いますので、各委員よりの質問に対しましては、主観を交えず、事実ありのままを率直に本旨を逸脱せんよう証言なされるようにお願いいたして置きます。尚又本委員会の運営上、発言委員長の指名があつてから必らず発言されるよう前以て御注意申上げて置きます。先ず最初杉田証人証言を求めます。杉田証人の御主人でありますところの元杉田兵長について、どのようにしてあなたの下に死亡の通知がありましたか、その点に関して知つておられる範囲において御証言を求めます。杉田証人
  14. 杉田たず

    証人杉田たず君) 申上げます。これは舞鶴復員官よりお聞きしました書類を写したものでございます。「行方不明者発生に関する報告信濃丸艦乘員杉村義一。一、行方不明者所属部隊及氏名。満洲第六百四十七部隊陸軍衞兵長杉田茂收容所ハバロフスク收容所ナホトカ第四分科医務室本籍地三重縣鈴鹿市汲川原町。現住所右に及じ。二、行方不明の月、日時。昭和二十三年五月八日五時〇分頃。三、場所、北緯四〇度五五分。東径一三三度三〇分。日本海海上信濃丸。四、理由精神異状による自殺疑い大なり。 五、詳細なる状況。 1、本人ハバロフスクにおいて民主グループに属し(帰國の目的を以て昨年十一月十四日千名に梯團長になつてナホトカに至る)、 2、ナホトカにおいて民主グループに入り衞生兵の故を以て医務室に勤務し、それまで医務室民主運動の旋風より比較的遠ざかつていたのを、本人が勤務してより急に民主化を促進した。 3、然るに本人及び医務室民主化を偵察すべく配属せられたる看護婦(日本人にして帰國を欲せず)の報告するところにより、本人民主化は表面熱心であるが、内面保身術でありとして、昭和二十三年一月二十日の第四分科にて民主グループ政治部員組織部長津村某より突如大衆カンパを受けた。 4、保身術及び帰國の手段として民主運動カンパにより帰國不能となり、その際受けたシヨツクで遂に精神異状を來したために、カンパ直後一週間の患あり。 5、その後精神衰弱氣味はますます増加して來た。併し平素他人に語るときはよく他人言葉も理解し得心し発言もよくできた。 6、平素戰友達語つた言葉の端を挙げると、 イ、俺は正氣の氣違いだ俺のよう病氣は又とない。 ロ、俺は帰りたくない。こんな姿を家内に見せたくない。たとえ帰つて舞鶴より家までは大分時間があるから何とかする。 7、併し本人を愍れねむ余り上官戰友帰國さへすれば、必ず直るに違いないとの親心より、たまたま医務室より帰國者を出すに当り本人を選び帰國させることにした。 8、帰國編成に載るも大人は喜ばざるのみならず、乘船待機位置、第三分科において乘船前夜脱柵、第四分科医務室に帰つた。そのことにつき乘船後戰友浦田軍属に、俺はあの柵を起し得たならば、今まで越えた者がソ連兵により銃殺されたことをよく知つている。それで銃殺されなかつたのだと語つたという。 9、本人乘船前(当日の朝)ソ連兵に連行されて帰隊した。それで無理七日乘船した。 10、本人がそのよう自殺の惧れあることの概要は、乘船後船医報告され、船医意見具申により船長附添者二名を附し二等船室に隔離を命ず。 11、附添者左の如し、山形縣飽海郡松嶺町、軍医中尉大井恒夫熊本縣宇土郡不知火村一五九、軍属浦田孝之。右はいずれもナホトカ第四分科医務室勤務者である。 12、附添者は極力本人を元氣づけ、家へは一緒に附いて行つてやるから心配するなと諭し、尚心配そうな顏をするので共に歌を唱い就寢させた。 13、附添一名は起き、一名は同室にて仮眠して本人を監視していたが、浦田軍属より部屋の鍵を出させたので十分に目を覚したことと思い、又本人行方不明者)も寢ていた樣子であつたので安心して鍵をせずに出た。数分の後帰室するや、本人不在発見直ちに船医及び当直者報告船内を捜索するも発見するに至らず。 14、船橋当直者の言によれば、そのとき白い襦袢を着た人が下から上つて來て、船橋を覗いていたが直ぐ降りたとのことで、本人に非ずやと考えた。 15、その後船長は船員に命じ、各倉庫、ボート、石炭置場を捜索するも発見に至らず。 16、以上の如く、甲板より飛込んだことは起床直前であり、僅かに東天の白むを見る刻限であつたため、確認する者なきも自殺疑い大なる行方不明者を認め、内地に無電を以て報告す。 六、爾後の処置、 1、船側として行方不明の報告海運局提出の上、認証を得て援護局支局提出す。 2、本人遺留品は目録を附し支局提出する。 3、留守家族への遺留品の送附は支局にて行う。 4、支局に対する細部の報告復員官において行う。  以上でございますが、私としましては主人の最後を見たわけでもありませんし、舞鶴書類を信じておりますが、この書類では満足することができないのであります。以上でございます。
  15. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 委員長何か予定がありますか。
  16. 岡元義人

    岡元理事 どうぞ構いません。
  17. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 杉田さんにお尋ねしますが、その書類舞鶴復員事務をしておるお役所から貰らわれたのですか。
  18. 杉田たず

    杉田証人 はい。復員官に読んで貰つて写して來たものでございます。舞鶴にあつたものを三重縣世話課の方に送つて頂いたように聞いております。
  19. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 一問一答に進みます。それ以外にあなたの御主人樣ナホトカにおいて、或いは船中において交際していらつしやつた方々から何かお聞きになつたことがありますか、只今までのうちにそれがあれば、どこのどういう方のどういうお話であつたということをよく分り易いようにお答を願いたいと思います。成るべく物を見ないで、あなたの印象に残つておることだけで結構ですから、全部書物を見てその通りおつしやらなくて……
  20. 岡元義人

    岡元理事 矢野委員に申上げますが、いろいろ手紙内容とか、住所とか、そういう点等があるだろうと思いますが、その点は御承解願いたいと思います。  証人に申上げますが、必要なものは全部読下しではなくて、矢野委員の御質問は、記録を見ても結構ですから、要点だけをお答えを頂くように……
  21. 星野芳樹

    星野芳樹君 矢野委員からの注意はこういうわけなんです。こういう証人の喚問などというようなときは、原則として書いてある物を見ないで、記憶にあるものを言うというのが原則なんです。そうでないと書いた物を作つて來たとかいろいろな疑いを生ぜられる。だが問題が複雜ですから、あなたは書いた物を見ないと分らないものが沢山あると思います。それから成るべくできる範囲記憶されて、それで分らないところを書いて物に頼る、こういう方法をとつて下さい、こういうわけです。
  22. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 今矢野委員星野委員から御注意があつたのですが、併し杉田さん自信の直接御存じない御主人戰友の方が多いと思います。そうした戰友方々帰つて來られて、そうしてあなたの御主人がこういうようなことをなさつてつた、或いはこういうようなとろこで私はお目にかかつたというようなことを親切に書面、或いは文書等によつてお出しになつた方々があつたと思う。そういうものであるならば、その書面なりお手紙なりをはつきりと読んで頂いた方が証言としてははつきりするのではないか、こう思います。
  23. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 それは必要の場合には、証拠書類として委員会権限によつて提出願つてよろしいのですから、只今私が與えられた権限においてお尋ねしたいのは、最もあなたに印象深く、例えば矢野という者が御主人と御一緒になつてつて、そうしてこういうお話矢野から聞きましたというふうにあなた御自身に強く印象付けられておるということで結構ですから、その他沢山何か材料がありますならば、こういうふうな材料がありますということをお答え下されば結構です。
  24. 岡元義人

    岡元理事 淺岡委員よろしゆうございますか……  それでは杉田証人
  25. 杉田たず

    杉田証人 これは鳥取縣の西伯郡の渡村の渡辺美登志さんというお方からお知らせ頂いた便りでございます。主人ナホトカまで出て來ておるということは再三帰國せられたお方から、健在だから近いうちには帰られるだろうという健在のお手紙を再三頂いておつたものですから安心しておつたんです。この美登志さんからのお手紙主人ハバロフスクの奧地から出て來たときに、美登志さんは体が悪いそうで病院へ入院せられまして、医務室看護を交代する時期になつておりまして、主人がその美登志さんの看護に当つたのであります。その看護の仕方が身にしみて有難かつたことが書いてございます。
  26. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 形を変えてお尋ねします。あなたの御主人が折角ナホトカまで出られているのに、そのナホトカから直ぐ迎えに來た船に乘らないで、そこに留め置かれた理由を、今までの中にあなた自身でお聞きになつたり、或いはお手紙を頂かれた中ではつきりと何か分ることがございますか。
  27. 杉田たず

    杉田証人 舞鶴で聞きまして初めて分つたんです。それまでは全然分りません。
  28. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 それじや分つたというのが、何故に帰されないで、そこに留め置かれたかというわけを、奥さんはどういうふうにお聞きになつておりますか。
  29. 杉田たず

    杉田証人 この渡邊さんや外の二、三の方からは、冬越要員として医務室看護に残されることになつたので、再開するまでは還られんので、再開するまで元氣で待つてつて呉れていうお便りは二、三頂きましたが、
  30. 天田勝正

    天田勝正君 先程あなたが証言なさつた事項の、あなたの手許へ知らされたのは昭和二十三年の五月九日付であろうと存じます。從つてその当時におきましては、すでに抑留者から留守宅手紙が参つておる人もある筈であります。尚且つあなたの御主人は、今お読みになつた……摘発以前におきましては、相当むしろ民主グループに属しておる部隊でありますから、形式は他の人よりも多少自由な立場に置かれておつたと思います。そういうことから、何かあなたが手紙でこのよう生活をしておるというような知らせが参つたかどうか、その点を先ずお伺いいたします。
  31. 杉田たず

    杉田証人 ただ健在であるから安心して呉れというお便りばかりでございました。
  32. 天田勝正

    天田勝正君 あなたの御主人がお世話なさつて、先に帰つた人も相当あると思います。  そこで自分としては勿論いろいろな関係上、そう詳しく手紙には書けないので、ただ丈夫であるということを書いたのでございましようが、それらの世話をして先に帰つた人々が頼まれるか何かして、あなたの許へ手紙或いは生分生活状態のことを知らせた、こういうような事実はありませんか。
  33. 杉田たず

    杉田証人 いろいろと兄弟のようにして頂いたと言つて、各所から喜んで喜んで頂いた点は多々あります。
  34. 天田勝正

    天田勝正君 形を変えていろいろお尋ねをします。それはいろいろ感謝された手紙もありましよう。今私がお聞きしておるのは、それらの手紙の中で当人が寄越した手紙違つて、実はこういう状態に置かれておる、こういう生活をしておるというようなその生活状態抑留者状態、こういつたものにつきまして、お知らせがございましたかをお聞きしておるのです。
  35. 杉田たず

    杉田証人 別にそんな詳しいことはお聞してありませんが。
  36. 岡元義人

    岡元理事 それではちよつと……。今質問は皆さんございますと思いますが、一應この点留保いたしまして、附添つて來られました浦田証人証言を求めては如何かと思いますが、如何でございましようか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  37. 岡元義人

    岡元理事 ではそのようにいたします。浦田証人証言を求めますが、ナホトカから元杉田兵長に附添つて帰られるその船の中の状況並びに病氣になられたときの経過等について、知つておられる範囲において証言を求めます。
  38. 浦田孝之

    証人浦田孝之君) はつきりした日にち記憶に残つておりませんから……
  39. 岡元義人

    岡元理事 できるだけ記憶にあることを述べて頂きます。
  40. 浦田孝之

    浦田証人 先ずカンパの方から申上げます。丁度カンパのあつたときに杉田氏が宣傳部長の方をやつておられました。宣傳部長をやつておられたことに対して、津村氏の方から結局まだ医務室の方の民主運動が不活溌があるというような点からカンパを受けた次第でありますが、そのことに関して杉田氏が非常に自分が結局責任と言いますか、責任を感じた。自分ではそういうふうなことを言つておりましたが、責任を感じておる、済まなかつたというふうに言つておりまして、それから少しずつ、結局責任と口で言つた責任感の方からずつと來たのではないかと自分では思つておる次第であります、そうして段々悪くなつて参りましたので結局ここにおいでになる阿部さん、この方達が心配なさつて無理に仕事をさせてはいかん、樂にさして呉れということで休ませていました。そうしてどうもうまい工合に行きませんので、隔離室の方へ一週間か二週間だつたかはつきり記憶にありませんが、入室をさせました、そうして入室をさせてもなかなか都合よく行きませんので、結局本人氣持に任して出してやりまして、そのまま仕事もさせずぶらぶら日日の送つていたわけです。そうしてまあ人と話をするときにはどうも氣が違つておるというふうな点は一つも見えませんでした。常々杉田氏の口にしておる言葉は、とにかく帰りたくない、さだこういうふうな状態において家に帰つても、ただ家内一同心配をかけるばかりだから、こういう状態なら帰りたくない、俺は死にたい。これは常日頃言つておりました。そうしてみんな心配して、とにかくそういう死にたい、死にたいとそんな変なことを言わずに、もう少し氣持を大きく持つて、今までのことはすべて忘れて新らしく立ち上つて呉れていうふうなことを言つてつたのですが、本人としては一向直りませんでした。そうしてやがて帰國命令が出て、五月の七日か八日か、はつきりした日にち記憶はありませんが、とにかく帰國命令が出て三分所の方に移ることになつたのです。そのときいざ移るときになつて杉田さんが突然どこにいるか見えなくなつた。だから医務室の人が心配じてあちこち探したが、どうしても見当らないから、ソ側の方に頼んで柵外の方の捜索をお願いしたわけです。そうして柵外の方を捜索したところ、裏の方に小高い山がありまして、そうして山の方に行つて見たら海の方をぼうつと眺めて坐つております。そういうところを見付けてとにかく杉田さんを直ぐ連れて來て、帰國命令が出ておるから早く準備をしなければいかんというわけで、皆が寄つてたかつて準備をやつたわけです。そうして三分所の所に……そのとき私ともう一人の大江さんと二人が一緒帰國することになつたから、とにかくよろしく頼む、家まで届けてやつて呉れと、そのときに身近の方々から頼まれましたので、とにかく自分のできるだけのことはやりましよう言つて出て來たわけです。そうして三分所に入つて休んで、明る朝になつた杉田さんがどこに行つたか見えなくなつたのです。そしてそこで直ぐ歩哨の方え連絡を取つて見たところ、柵外の方え出て又四分所の方の医務室の方え帰つていたようです。そうしてこういうことを大つぴらにしたら困る事柄だというので、内分に頼んで、こちらへ來てわけを聞いて見ますと、とにかく門を越すと歩哨から撃たれる、だから自分は撃たれて死にたかつたのだ、やはりこれだけです。それでそんな氣の弱いとこでどうするんだと、日本の土を踏んだらそういう病氣は吹つ飛んでしまうんだからという話をして船に乘せて來よつた次第です。最初は皆と一緒にいたんですが、都合が悪いもんですから、向うの方から早く便宜を図つていたので、別室に三人入つたような次第です。そうして入つてどうしても氣が晴れ晴れせぬものですから、歌でも歌つたら氣でも晴れるだろうとか、いろいろな話でもしようというふうにして話をしたり、一緒に歌つたりしてずつと來ておつたのですが、あのとき……
  41. 岡元義人

    岡元理事 浦田証人、分らないところは分らないでよいんですから、できるだけそこら辺で話さずに、あなたの知つておられる範囲でお述べを願います。
  42. 浦田孝之

    浦田証人 ああそうでありますか。八月の末期、そのとき私は寝ておりました。そして大江氏の方から便所へ行くから鍵を貸して呉れ、そのとき私が鍵を持つていたわけです。便所を行くから鍵を貸して呉れということなので、鍵を渡してそのまま私横になつていたんです。そうしてそのままうとうとしていたような次第です。そうして大江氏が便所行つて帰つてから、私を急に搖り起すものですから、びつくりして起きた次第です。そうしたら杉田氏が見えなくなつた、知らないか、向うでこう言つて來たので、それは大変だ。自分は鍵は渡したけれども、うとうとしていて、何もそういうふうな物音もしなかつたし、杉田さんは寢ておるものと思つてそのままにしておつた自分は……そのときは言いました。向う本人は、杉田さんのところを便所に行く前に眺めたらすやすやと眠つていたよう思つたから、鍵を締めずに行つた、こう言つておりました。そこで自分たちの中隊の責任者と船の方と連絡を取つて直ぐ捜索したのですが、遂にとうとう見当らなかつた、でそのままになつたような次第であります。
  43. 岡元義人

    岡元理事 発言中ですが、その時間は分りません。
  44. 浦田孝之

    浦田証人 時間は起床ちよつと前だつたようですが、船内は薄明るくなつておりました。はつきりした時刻は分りません。
  45. 星野芳樹

    星野芳樹君 今の浦田証人ですね。この杉田さんが死にたい、死にたいということを幾度も言われたということをあなたは言われるが、その死にたいというのには、こうだからこういう理由があるから死にたい、こういう事情があつたからというよう理由を、私想像するのに相当言われていやしないかと思うのですが、長い間杉田氏とあなたは附合つていたのだから、それを掘下げて言つて頂きたいのです。
  46. 浦田孝之

    浦田証人 あの言葉が一番出るのは、結局家へこういうふうな半氣違い帰つても、家の者に迷惑をかけるばかり、ますます心配をかけるばかりだから自分は帰らん。死にたいというばかりでした。だからそれ以外にないと思います。
  47. 星野芳樹

    星野芳樹君 半氣違いだから顏を見せられないと……。何故半氣違いになつたかというようなことは言わなかつたのですか。
  48. 浦田孝之

    浦田証人 それは言いませんでした。
  49. 星野芳樹

    星野芳樹君 どういう事件が印象されて、こういう半氣違いになつたのか、それは言わないでも、言動から想像される、何かヒントになる、あなたの推測より、杉田さん自身言葉でそういうことを推察する、何かヒントになるよう言葉記憶から喚び起して頂きたい。
  50. 浦田孝之

    浦田証人 一番の原因津村氏から受けたカンパ、あれば原因だと思います。
  51. 星野芳樹

    星野芳樹君 あなたの思いますでは困るので、あなたの判断ですから、それを津村氏の人民裁判かどう響いたかを現わす杉田さん自身言葉がある筈です。何かそういう言葉があるとか、動作があつたからあなたはそういう判断をするわけですね。その動作や言葉言つて頂かないと私達はあなたの判断に盲從するわけに行かない。そのあなたの判断するに至つた材料言つて頂かないと困るのです。併し、あなたが第一に津村氏から受けた人民裁判が問題だろうというからには、何か根拠がある筈ですね。お聞きしてすぐ出て來ないというのはちよつと意外です。そうなるとあなたが主観的にそう言つているように考えられるから……。何かあつた筈ですが。
  52. 浦田孝之

    浦田証人 杉田氏の態度、言語、そういう方面からは掴めなかつたのですが、カンパ以前は非常に愉快にやつておりました。併しそのカンパがあつてから急に態度が変つたものですから……今まで見たいに愉快に歌を歌うわけでない。むつつりとして、済まん済まんと、俺は死にたいということを急に言い出したから、カンパが一番原因になつている……
  53. 星野芳樹

    星野芳樹君 済まんのは何が済まんのかそれは言わなかつたのですか。
  54. 浦田孝之

    浦田証人 それは別に……
  55. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 浦田証人ちよつと伺いたいのでありますが、杉田さんが津村氏からカンパを受けたときに、あなたはそこにおいでになりましたか。
  56. 浦田孝之

    浦田証人 いました。
  57. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 おいでになりましたら、そのときの模様を具体的に一つここで(「賛成、そこをはつきりと」と呼ぶ者あり)はつきり、こういうふうに、どの部屋でどういうふうに言つて、誰と誰がおつて、こういう話があつたというようなことを一つありのままにお話願いたい。
  58. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 ちよつとお話の糸口がないようですが、どういう場所であつたのですか。夜でしたか、朝でしたか。又人数はどれくらいの集まりでやつたのか。たつた津村さん一人と杉田さん一人で、あなた達は傍聽しておつたという形か。そういうことを皆私達がそこに行つて成る程というように、分り易いよう草葉委員が尋ねているわけですが、どうぞそのつもりで……
  59. 浦田孝之

    浦田証人 まず部屋の方から……部屋は自分達の勤務者、医務室の勤務者が休んでおつたところです。その部屋に向う津村氏外七、八名がやつて來ました。
  60. 岡元義人

    岡元理事 ちよつと証人、名前の分つている人はその名前を言つて下さい。
  61. 浦田孝之

    浦田証人 分つている範囲だけで、興梠木という方、それから飯田、これは確か兄弟でおりました。その外はちよつと記憶ありません。それに対して医務室の方は日直者以下全員参加しておりました。
  62. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 その医務室津村外七、八名の人達が何か前触れでもあつて來ましたか。今日お前の方に行くから……。それともこちらが何も知らないときにぼつと來ましたか。
  63. 浦田孝之

    浦田証人 前触れはなかつたよう記憶しておりますが。
  64. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 そのときには浦田証人なり杉田さんは普通の勤務をしておつたのですか。普通の仕事をしておりましたか。
  65. 浦田孝之

    浦田証人 勤務というと医務室の勤務ですか。
  66. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 ええ。
  67. 浦田孝之

    浦田証人 医務室の……
  68. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 医務室仕事をしているときに七、八名が……
  69. 浦田孝之

    浦田証人 医務室仕事をしているときでなくて夜です。全部終つてからです。
  70. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 何時頃ですか。食事が済んで……
  71. 浦田孝之

    浦田証人 ええ、食事後です。
  72. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 そこへ七、八人やつて來た。そこのところで杉田君を呼んで、そうしてどういうふうに……
  73. 浦田孝之

    浦田証人 杉田さん一人ではないのです。
  74. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 医務室全部の中で、呼んだのは杉田さんだけですか。
  75. 浦田孝之

    浦田証人 違います。幹部の方におられた三、四名が向うから指名見たいにされました。
  76. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 誰と誰ですか。杉田……
  77. 浦田孝之

    浦田証人 杉田、山岡、瀧野……
  78. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 その程度ですね。
  79. 浦田孝之

    浦田証人 外にあつたように思いますが、名前は記憶にありません。
  80. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 その人達にどういうふうなことを言いましたか。津村君外の人達が言いましたことは……
  81. 浦田孝之

    浦田証人 一番問題になつたの医務室の発展がない。発展がないというのは指導部の人達の運動が足りないというふうなところからでありました。
  82. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 医務室が発展していない、それは指導部の民主化が不十分だ……
  83. 浦田孝之

    浦田証人 そういうふうなところからです。
  84. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 それでそういう原因のためにどうするというのです。そういう原因で、それまでは杉田君は何の仕事をしておられましたか。
  85. 浦田孝之

    浦田証人 民主グループの方では宣傳部長をしておりました。
  86. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 宣傳部の仕事が不活溌であるから、宣傳部長を止めさせるとそこへ行つたのですか。
  87. 浦田孝之

    浦田証人 そうでないのです。そのときはとにかく指導格の人達四、五名に対してカンパつたのです。
  88. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 全体一緒に……
  89. 浦田孝之

    浦田証人 ええ。
  90. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 そうすると四、五名の人は杉田君が宣傳部長で、他の人達はその宣傳部長の下にあつて從つて宣傳をしておつたのですか。
  91. 浦田孝之

    浦田証人 宣傳部長の外に青行隊長、これが今言いました瀧野さんです。それから山岡さんが文化部長をやつておりました。はつきり記憶にありませんが。
  92. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 青年行動隊の青行隊長も止めさせられた……
  93. 浦田孝之

    浦田証人 止めろと向うが言つたわけじやないのですが、こちらがそういうふうだつたから、カンパを受けた本人として、これだけ言われた以上続けてやりにくい。とにかく止めさせて貰いたいということから、それから直ぐ編成替えをしたのです。
  94. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 相当強い言葉を以て言われましたか。
  95. 浦田孝之

    浦田証人 相当強く聞いております。
  96. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 それから杉田君の態度が変つたのですね。
  97. 浦田孝之

    浦田証人 そうです。
  98. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 そうすると、あなたは直接杉田君の精神異常になつた原因は、この津村カンパの結果であるとはつきり認識されたのですね。
  99. 浦田孝之

    浦田証人 私は認識します。
  100. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 その問題については一應この程度で他の問題に移りますから、私はこれで打切ります。
  101. 天田勝正

    天田勝正君 浦田証人に私から申上げたいと思いますが、一問一答でない場合には、私の話を切りまして、それから委員長浦田証人と呼ばれてからお答え願います。この際委員長の許可を頂きまして一問一答で数点伺いたいと思います。先ず、先程杉田証人が文書を読上げられたのでありますが、そのお話によりますと、杉田兵長は先ずハバロフスク民主グループに入つたと、こう言われております。あなたはこのハバロフスクの時代には杉田兵長一緒におられたか、おらないかどうか。
  102. 浦田孝之

    浦田証人 その時は別でした。
  103. 天田勝正

    天田勝正君 次は、ではあなたがナホトカにおいて杉田氏と一緒におられた期間はいつからいつまでで、どのくらいの時期だつたか。
  104. 浦田孝之

    浦田証人 二十二年の十一月二十五日頃でした。はつきりした記憶はありませんが。
  105. 天田勝正

    天田勝正君 不明瞭ならいいのです。
  106. 浦田孝之

    浦田証人 それから二十三年の五月八日までです。
  107. 天田勝正

    天田勝正君 先程のお話に、医務室では民主化運動の施風から比較的に遠ざかつていた。ところが当人が勤務してから、つまりこの場合は杉田兵長でありますが、杉田兵長が勤務してから急に民主化が促進した、こう言われております。要するにその急にというのは比較の問題で、その前の後でどういう変りがありましたか。
  108. 浦田孝之

    浦田証人 その前の方は自分はおらなかつた関係上分りません。
  109. 天田勝正

    天田勝正君 それから次に、杉田氏が民主グループによつて、いわゆるカンパを得られた、こういうことの原因は、民主化を偵察するために配属された看護婦、勿論日本人ですが、杉田氏が実は仮面を被つていたのだというような意味の報告民主グループにしたために、そこで表面では熱心に見えたけれども、内心は不眞実の民主運動である、こういうことから摘発された、こう言われております。その看護婦というのは何という人達であつて、そうした人達はしよつ中おるのであるかどうか、証人が知つておられたら願いたいと思います。
  110. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 双方とももう少し声高にお願いしたいと思います。
  111. 浦田孝之

    浦田証人 それは看護婦の人達は、はつきりした記憶はありませんが、相当日にちが経つてから自分達の勤務に來たわけです。
  112. 天田勝正

    天田勝正君 名前は分りますか。
  113. 浦田孝之

    浦田証人 名前は中村……
  114. 岡元義人

    岡元理事 分らなければ分らないとお答え下さい。
  115. 浦田孝之

    浦田証人 記憶ありません。
  116. 天田勝正

    天田勝正君 中村だけは分つておりますね。
  117. 浦田孝之

    浦田証人 はい。
  118. 天田勝正

    天田勝正君 その看護婦は青行隊員ですか。
  119. 浦田孝之

    浦田証人 医務室の方に來てから別個になつておりました。婦人部は独立しておりましたから……
  120. 天田勝正

    天田勝正君 あなたのお話の中に、杉田氏が氣が狂つた。併し普通は氣が狂つたようには見えない。こう言われております。又皆も氣が狂つたように感じたということを言われておりますが、氣が狂つたと断定したのは勿論医務室でありますから、ちやんと医者の診断の結果、そういう認定をしたのですか。
  121. 浦田孝之

    浦田証人 その点ははつきりしません。
  122. 千田正

    ○千田正君 浦田証人に伺います。あなたの外に、若しここに臨席されておるところの証人の方の中に、今の杉田さんの問題を知つておられる証人の方がおられますか。
  123. 浦田孝之

    浦田証人 上座におられる阿部さんがおられました。
  124. 千田正

    ○千田正君 阿部証人質問いたします。今まで杉田証人並びに浦田証人からの証言があつて杉田証人の御主人の問題について今までの証言の足りなかつた面、即ちカンパを受けなければならなかつた理由、受けてからそういうふうにいわゆる精神に異状を呈したかどうか、異状を呈して後においてどういうふうにして帰還乘船に立至つたかという点について御証言を願いたいと思います。
  125. 岡元義人

    岡元理事 阿部証人証言願いますときに、千田委員の御質問に併せまして、ナホトカにおきまして今まで行われて参りましたいわゆる人民裁判というものの概況を含めて知つておられる範囲においてお答えを求めます。最初にあなたはどういう立場でおられたかを申して頂きたい。
  126. 阿部齋

    証人阿部齋君) 最初自分の地位というものは、ナホトカ医務室における私の立場というものを御説明申上げます。私は二十二年十月十六日、ナホトカの五十三收容所から帰國の予定を以て、通称浜の收容所と申しておりますが、津村君以下勤務しておりました收容所に入りました。私、階級が少佐であつた理由から、当時佐官は帰さないのだと申しておられましたが、その理由を以ちまして、ナホトカに部下と別れて自分だけ残る結果になりました。職務が軍医でありました関係と、長くからナホトカ医務室に勤務しておられた方々が、せめて今年末までに帰りたいという希望がありましたので、残される身と、帰り得る條件にありながら帰れないようではと思いましたので、勤務交替の申出を受領し、そこで勤務者として勤務するようになりました。で、ソ側に対しましては、私が医務室責任者、こういうふうになつております。杉田さんと一緒に勤務いたしましたのは二十二年十一月の初旬だつたと覚えております。それから翌年、二十三年の二月二日までであります。当時二十二年の輸送業務は殆んど終了する時期になつておりました。それで前々から勤務しておられる方々は、すでに三ケ月乃至四ケ月以上ナホトカに残つて勤務しておりました関係から、早く帰りたい、折角ここまで來たのであるから帰して呉れという声がありました。そのときソ側からの命令がありまして、軍医八名、衞生兵二名を以て越冬するという命令を受領いたしました。そこでこの人員は新らしくとる。新らしくとるというのは、新らしく來た部隊の中から、その人員を残し、今までおつた者は帰す、こういう意味であります。こういう指示で、ソ側がその人員交換を命令いたしました。この中に杉田さんも入つておられたのであります。然るに十一月の十五日頃、勤務者は一應皆帰れるのだという噂が出まして、末日にこの杉田さん一行もやはり入りまして、第三分所まで参りましたが、そこでまだ船が來ないのだと言つて、十一月の二十九日頃と覚えておすりまが、十一月の下旬だつたか、十二月の初旬だつたか、そこのところははつきり覚えておりませんが、そのときに第三分所に長く留められておつたのが、又帰つて参りました。それで私と共にその冬を越さねばならんという運命になつたのであります。で一旦第三分所に行つて、二度目に帰つて來た。このときに、杉田さんは前におつたときとがらりと態度を変えた状態で私に接したのであります。それは医務室民主グループはなつていない、少しも民主化されていないじやないか、医者を先生と呼ぶ、こういうような階級的な言葉ではいけない、全員誰それと呼ぶのが至当であるという言葉を以て私の所に参つたのです。尚このことに関しては、第三分所の渡邊さんや津村さんとも話してある、こう言つて、早く言えば、医務室民主化という問題に対して私の不活溌だということを指摘して参つたのでございます。そういう話がありましたので、それでは現在の機構では工合悪いだろうと、それに基いて今までの組織を変更いたしまして、診療と文化思想運動の方と二つに分けまして、その責任阿部がとるというような組織の変更をしたのであります。十二月は、その当時浜の直ぐ傍に建つてありましたほんのバラツク式の建物であります。上の方は天幕、これは昔軍隊で使つてつた九五式の携行天幕であります。それを二枚張つて雨漏りを防ぎ、それに僅かにアメリカ側の文字の入つた天幕を掛けるという天井、側壁は大体一寸あるかないかのコンクリートで、板でやつた建物、これは病室に充てられた建物でありますが、これに私達は起居しておりました。段々寒さも酷くなつて來た関係もありまして。病院はここではいけないということになりまして、一月の十六日、これは既設建物であります。当時我々は第四分所と申しておりました、白系露人引揚に使われたちやんとした建物があります。これに我我は移つたのであります。この移つた時期において、当時第一分所におりました民主グループ達は柵外になつてしまいました。第一分所から第四分所に移りました関係から、早く言えば、第一分所の指導者側から見える所よりは、ずつと眼が届かない所に入つたわけであります。そこにおきましての我我の生活は、早く申しまするならば、むずかしい理論の勉強というよりも、一日患者を診て疲れて帰つた我々の宿舍である、せめて朗かに氣持よく勤務しようじやないかと、こういうのを建前にしましたので、ここで我々のやつておりましたことは、端的に申しますならば、娯樂会、或いは俳句会、或いは將棋会、こういうようなことをやつておりました。杉田さんは特に講談、浪花節が上手で、よく我々を慰問して呉れたものであります。然るに、我々が入りました後、民主グループもやはりこの第四分所に入ることになりました。この時期におきまして、民主グループ婦人部でありました四名の方、須藤、中村、山賀、あと一人の方は忘れました。この須藤、中村、山賀、この外にもう一人おりましたが、この四人の方がやはり医務室の勤務者のおるところの一隅に生活するようになりました。民主グループの方が我々と起居を同じうするようになつたという状態から、男の民主グループ員の方が絶えず医務室の我々の起居しておる所に出入りするということは、必然的に多くなつて参りました。そのよう状態がありましてから、二十三年一月の二十二日頃と覚えておりますが、はつきりとそれは記憶ありません。一月の中旬と下旬の境の頃であります。津村氏以下五、六名津村氏を含んで五、六名だつたと覚えております。津村興梠木、小山……飯田氏はおつたかおらんか今記憶は残つておりません。津村、興梠木、小山、これらの方々医務室に夕食後カンパするという連絡がありました。それで第一回目の医務室に対するカンパは、この我々の娯樂会、或いは俳句会、或いは將棋会というものに対して徹底的に加えられたものであります。今まで第一分所に起居を同じうしておつたときは非常によくやつてつたが、こちらに來て、我々の目の届かないところになつたならば、直ぐもうそういう遊びをするというような、初日のカンパはそういう言葉で終りました。翌日又夕食後カンパに参りました。これは第二回であります。この第二回のカンパには今度は個人的に指名さして参りました。先ず津村氏の行なつた杉田氏に対するカンパ状況を申上げます。尚そのときの場所或いは人員の関係について申上げますと、部屋は大体これからこつちくらいの建物であります。そこに大体眞中に長い食事用のテーブルを置きまして、そして向う側に津村、興梠木、小山三人が座りました。こつちには杉田、山岡それから指導部長の責任を持つてつておりました都築という軍医大尉の方がありますが、その方とそれから医務室では、瀧野その他医務室の青行隊を編成しておつた方々が出席しました。そして私は民主運動というようなことは別個の立場において、いわゆる医務室責任者という形でその場に出席いたしました。先ず第一に言いました一声は、医務室民主グループ員は何をしているか。あなたは残留と決まつたときに医務室民主グループはなつていない、あなたの協力を望むと……ここであなたというのは杉田氏を指して津村氏があなた、私、とこういうのであります。あなたは私に対して医務室民主グループ運動はなつていないじやないか、なつてないから、これから俺が行つてやるからあなたの協力を望むと、こういうことを俺に言つたじやないか、然るに現在あなたは医務室において何をやつておるのか、聞くところによると、講談、浪花節をやつておるそうじやないか、そういうことが宣傳部長仕事であるか、こういうきつい文句が参つております。又そのときにこの言葉もあります。それより前において医務室の青行隊の発会式がありました。この席上において最初にインターナシヨナルを歌つたわけであります。非常に寒い日で屋外で行われたので、私も出席いたしましたが、寒いながら立つたこのときに、杉田氏は余り寒かつたので耳をこすつた。この耳をこすつたことを取上げられまして、インターナシヨナルを歌つておる最中に耳をこするとは何事かというふうにきめつけて参りました。次には青行隊長の瀧野氏あたりにも、青行隊長が何をやつておるか。今度は名指しで、今度は山岡というふうに一人々々名指しで來たわけであります。こちらに参りまして、ここに都築氏が今度どういうふうな方法で行きましようかという相談などをしまして、全部終つた後、とにかく私らもやりますからという言葉を以てこの度は終つて頂いて、大体一時間近くと覚えておりますが、カンパを終つて帰られました。その後杉田氏はどちらかというと元氣はげつそりなくなりました。ときどきこちらが食事というようなときにおいてもひよつと見ると、皆食器を持つて出揃うときに箒を持つてつて見たりというようなことがあつたわけであります。都築軍医大尉から私のところへ、あの人をいつまでも民主グループ責任者の位置に置くということは工合が悪いじやないですかということがありましたので、その通りです。今ここでは却つてあの人を傷つける結果になるのではないか。速に交替させた方がいいのではないかというので、宣傳部の陣容を変えようと、こういう話になつたのであります。そのとき私は、それが大体一月の末でありました。二月の二日にナホトカにおりました佐官だけ全部他の收容所に移るということになつたので、私は杉田氏との会見はその後しておりません。尚当時私のところから二人胃潰瘍のために入院しておりました小野英憲軍医少佐があります。この方が、ナホトカに海軍の病院がありますが、そこの病院におつて、それが我々の後を追つてスーチヤンに來ましたのは大体五月頃であります。このとき小野英憲少佐に、私は医務室はどうやつておるかという質問をいたしましたときに、非常にあなたがおつたときと違つて、何でも、同士、何々氏同士で、非常に民主運動は活溌になつたよ。そのときに杉田氏のことが氣になつて杉田氏はどうですかと聞いたら、いや阿部さん、あれはいかんぜ、あれはもう立派な精神病者の状態に入つて神経衰弱だ。この状態に置いたら死ぬんじやないかという言葉を聞いたことがあります。その後別に向う医務室の方との連絡をとるという機会がありませんし、又そういうことができなかつた状態にありますので、その後の状態はよく分りませんが、今度帰つてこの状態を聞いたときに小野氏の言つたことが、言葉通りだということを知つたのであります。
  127. 岡元義人

    岡元理事 ではここらあたりで一應休憩をお諮りいたしたいと思います。
  128. 星野芳樹

    星野芳樹君 午後は一番先に質問さして頂きたいと思います。
  129. 岡元義人

    理事岡元義人君) では暫時休憩をいたします。尚午後は一時十分から再開いたします。    午後零時二十八分休憩    ——————————    午後一時三十四分開会
  130. 岡元義人

    理事岡元義人君) では只今から午前中に引続き委員会を再開いたします。
  131. 星野芳樹

    星野芳樹君 阿部証人に初めに伺いますが、そのカンパですね。カンパのときは立会人は合計何人ですか。
  132. 阿部齋

    証人阿部齋君) 第一回のカンパでありまするか、第二回目のカンパでありまするか。
  133. 星野芳樹

    星野芳樹君 杉田氏が心境が変化したカンパです。
  134. 阿部齋

    阿部証人 それは第二回のカンパにおいては民主グループの方は五、六名に憶えております。
  135. 星野芳樹

    星野芳樹君 一般聽衆はいないのですか。
  136. 阿部齋

    阿部証人 こちらのカンパを受ける医務定側が前同樣勤務者を含んでおります。
  137. 星野芳樹

    星野芳樹君 勤務者は全部で幾人です。
  138. 阿部齋

    阿部証人 十五、六名おります。
  139. 星野芳樹

    星野芳樹君 外部の者はいないのですね。
  140. 阿部齋

    阿部証人 外部の者はおりません。
  141. 星野芳樹

    星野芳樹君 そうすると合せて二十人くらいですね。
  142. 阿部齋

    阿部証人 そうであります。
  143. 星野芳樹

    星野芳樹君 第一回も大体その規模ですか。
  144. 阿部齋

    阿部証人 そうであります。
  145. 星野芳樹

    星野芳樹君 それから杉田氏に対する批判ですね。これは例えばインターナシヨナルを歌つたときに耳を掻いたというような批判が出ましたが、杉田氏が民主グループとしての、責任者としての批判ですね。これは一般大衆に対する批判じやないわけですね。杉田氏がただの收容者、ただの兵隊さんという場合にそういう批判が加えられたのか、杉田氏は特に民主グループの指道者であるが故に責任を深く追及されて批判が出たのか。
  146. 阿部齋

    阿部証人 只今杉田氏のカンパは一般の中にあつてカンパではありません。医務室内における民主運動の指導者に対する收容所側の民主運動からのカンパであります。
  147. 星野芳樹

    星野芳樹君 一般大衆だつたら、まあインターナシヨナルを歌つたときに耳を掻いたというようなことはカンパされるというようなことはなかつたのですね。
  148. 阿部齋

    阿部証人 質問の意味が分り兼ねますが。
  149. 星野芳樹

    星野芳樹君 杉田氏が民主グループの幹部でなくて、單なる一收容者であつた場合に……
  150. 阿部齋

    阿部証人 只今お話でありますというと、こういうふうに判断されます。カンパを受けたときに手をかけたときとは時間的に違つております。
  151. 星野芳樹

    星野芳樹君 そうじやないのです。その問題が追及された樣子が、杉田氏が特に民主グループの役員ですね。役員であるが故にその点まで追及された樣子なのか、或いは杉田氏を一收容者としての批判なのか……
  152. 阿部齋

    阿部証人 はつきりそれは分りません。
  153. 星野芳樹

    星野芳樹君 收容者が民主グループの役員を自分が辞めたいという場合止めることができるのですか。つまり民主グループの役員になつてから、民主グループの役員になるのは嫌だ、肩書なしになりたいということはできますか。
  154. 阿部齋

    阿部証人 医務室ではその意見は随時認めております。
  155. 星野芳樹

    星野芳樹君 認めておるのですね。そうすると民主グループの指導者になつているというのを自由意思で止めることができるわけですね。
  156. 阿部齋

    阿部証人 本人の希望によつて受け取り、皆さんに諮つて決めております。
  157. 星野芳樹

    星野芳樹君 分りました。もう一言浦田氏に聞きたいのですが、先程阿部さんからカンパのときに具体的にどういう言葉で追及されたということが二つ出ましたね。インターナシヨナルを歌つて耳を掻いたことと、浪花節をやつたときに目を離したというようなことが出ましたし、それ以外に具体的にあなたは相当強く追及されたということを形容詞として言われたんですが、相当強くと言うのはあなたの判断で、私共はその内容、具体的にどういう言葉で言つたかということを聞かなきや直ちに判断ができないので、その具体的のあれ以外に何かありましたか、伺います。
  158. 浦田孝之

    浦田証人 あれ以外には記憶に残つておりません。
  159. 星野芳樹

    星野芳樹君 あの二つは聞いたわけですね。
  160. 浦田孝之

    浦田証人 あの二つは阿部証人の言によつて頭に出て來ました。
  161. 星野芳樹

    星野芳樹君 それ以外に、強く批判されたということをあなたは報告されましたね。その強く批判されたということには、事実何か言葉があつて、それをあなたが強く判断したのでしよう
  162. 浦田孝之

    浦田証人 そうです。
  163. 星野芳樹

    星野芳樹君 そうすると、材料として、今言つた二つ以外にないわけですね。あつたか知らないけれども忘れる程度ですね。
  164. 浦田孝之

    浦田証人 はあそうです。
  165. 岡元義人

    岡元理事 各委員に御質問があると思いますが、一應留保して、進行上一應まだ残つておられる方々証言を一通り求めまして、その後に質問を続行して頂くようにお諮りしたいと思うのでありますが、如何でございますか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  166. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 星野君の質問の今の続きですが。
  167. 岡元義人

    岡元理事 今質問を留保しておいて、一應これを終りましてから、今までの御質問を更に続行して頂く、こういう工合にお諮りしたいと思います。
  168. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 それでは直ぐこれが終つた質問いたします。
  169. 岡元義人

    岡元理事 では委員長から一應残られた方々証言を求めて行きたいと思います。まず増渕証人証言を求めたいと思います。増渕証人はどういう経路をとられて、そうしてナホトカからスーチヤンに送られたか、この経緯について先ず述べて頂きますと同時に、人民裁判、いわゆる人民裁判と言われておりますそのときの状況を併せて御証言を求めます。
  170. 増渕俊一

    証人(増渕俊一君) お答えいたします。簡單に私の滯ソの履歴と申しますか、経過を申上げます。終戰と同時に関東軍司令部の法務部の一員として新京に收容されました。二十年の十月の二十二日、新京出発黒龍江の結氷を待ちまして渡渉いたしまして、十一月の下旬にソ領に入り、十二月二十五日モスクワの東南二百キロ程のマルシヤンスク收容所に到着いたしました。昭和二十二年の十一月三日に帰國のためにヤルシヤンスクを出発いたしまして、十二月一日にナホトカに到着いたしました。当時輸送の終末、停止に会いまして、ナホトカで越冬することになりました。私共の梯團は、当時將校六百名、市民六百名、併せて約千二百名の梯團でありましたが、翌二十三年の五月三日の輸送再開と同時に、この梯團は第一陣として帰國いたしましたが、私を含む十八名の將校は……元將校であります。
  171. 岡元義人

    岡元理事 ちよつと証人に言いますが、階級なんかを述べて頂きます。
  172. 増渕俊一

    ○増渕証人 元陸軍法務少尉であります。元將校十八名は帰國を前にしまして、四月十三日ナホトカから汽車で二時間程のスーチヤンという炭坑地区の特殊ラーゲルに送られました。それから七月に尚汽車で四五時間バツクいたしますアルチヨン收容所に送られました。十月の十六日に突然移動の命令を受けまして、当時アルチヨンにおりました元將学俘虜約三百のうち、半数の約百五十名隔離されまして、二日程経てアルチヨンを出発、ナホトカに到着いたしまして、十月二十三日舞鶴に帰着いたしました。いわゆる大衆裁判、人民裁判という言葉は当時ソ領ではあまり耳にしませんでした。それは俗に吊し上げと言われておりました。我々仲間でこれをまあ何と言いますか、形で現わすのに、ここの魚を吊す鈎の格好をしまして、これだ、彼はこれされたというような表示をいたしました。吊し上げ、或いはカンパ摘発というよう言葉で言うておつたようでありまい。私自身その吊し上げに二回程遭いました。尚同僚が大衆の前で吊し上げられるのを数回見て参りました。自分の吊し上げに遭つた二回の状態を申上げます。二十二年の十二月一日にナホトカに着きましたときに、私共はいわゆる最終集結地であるからして、ここに勤務しておる職員は祖國に帰る同胞を迎えるために、暖かい言葉とできるだけの施設と温情とを以つて迎えて呉れるものと、一縷の期待を持つてつたのであります。ところが着いて見ますと、受けた感じは非常に陰惨であります。今までマルシヤンスク附近のラーゲルで見たことのない、実に陰惨なポスター、ビラ、そういうものが所狭しと貼りめぐらされておりました。そうして着きました当日、非常に寒氣の嚴しい日でありましたが、その前の晩早く汽車の中で済ました食事の後、丁度下車したのは夜明けでありましたが、それからその日の眞夜中まで一食も與えられず、湯の準備もして頂かないで、糧秣の卸下げ、鉄路附近に卸して積まれてあつた薪の運搬、そういう使役に狩出されました。第一番に下車直後、第一分所で、いわゆる歓迎カンパというものを受けましたが、これは特段、誰それを指摘したというようなものではなく、ただ一般的にいわゆる元將校に対する甚だ冷やかな迎えの言葉を頂いただけだつたんでありますが……
  173. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 発言中ですが、簡單な発言ですが。
  174. 岡元義人

    岡元理事 証人証言はまで多少……
  175. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 証人証言中だから私は……
  176. 岡元義人

    岡元理事 増渕証人ちよつと持つて下さい。淺岡君どうぞ。
  177. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 実はこの証人の喚問につきまして、小針、津村、四國、松澤、これは十二日にここに喚問することになつておりますが、今日はそれ以外の証人を喚問して、今証言を聽いておるさ中でありますが、明日ここに呼ぶべき証人が傍聽人としてここに入つて今日の証人証言を聽かれておる。こうしたことは、すでに委員会においても打合せをしておつたことでありますから、今日傍聽されておる明日の証人は、いずれもこの問題に関しての証言を求めることになつておるのでありますから、本委員会の場から一つ出て行くということを動議として提出いたします。
  178. 岡元義人

    岡元理事 増渕証人は御着席して、後程証言をして頂きます。只今淺岡委員から御発言がありましたが、昨日、この委員会の運営についての打合せにおきましては、愼重を期するため、津村、小針、四國、松澤四証人に対しては、十二日出席を願うことに打合せができたのであります。只今淺岡委員の御発言ように、本日傍聽席に津村、四國、松澤の三証人が傍聽しておられるそうでありますが、その点如何取計らいましようか。お諮りいたします。
  179. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 委員会の打合せは、今委員長が言われた通りでありますが、併し今ここへ列席しておる外の証人は、この問題について心配して、自己の発意でここに來ておるものですから、これは又委員会の意図とは違つてつても、これはその人達の自由であると私は思います。若しここの証言宣誓した通りに行われるならば、行われておると思いますが、何も他の証人がおるということは何の妨げにもならないと思います。これは委員会の取決めは去ることながら、私はそれに対しては欠席しておつて、その席にいなかつたから、どうにもならないけれども、問題は、他の証人の発意によつてここに來ておるのだから、それは差支えないと思いますから、その動議に反対いたします。
  180. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 委員会の申合せ、申合せというよりも委員会の決定である。この問題に対しては少くともここに來て傍聽するというような場合においては、証人である場合に限り、これは当然委員長の許可を得べきだと思います。委員長が許可をされたかどうかということを私は重ねて質問します。
  181. 岡元義人

    岡元理事 今のところ委員長は許可は與えておりません。
  182. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 然らばですね。委員長権限によつて御退場を願うことを私提議をいたします。
  183. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 これは傍聽者として許しておるのであつて、その場合何もここに集まつた人達は、そういう委員会の取決めであるか何かは知らずに來ておるのであつて、これは一般人として自由である。それから証言に故障があるとか何とか考えるのは、それは委員会の考え方であつて、そういうことは証人に自由を與えてよろしいことと思うのでありますから、反対するわけであります。
  184. 岡元義人

    岡元理事 只今の細川委員の御発言中、傍聽は自由であるという御発言がございましたが、委員会の傍聽は、予め委員長の了解を経ることにこれはなつておりますので、その点は御訂正願いたいと思います。
  185. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 これも何も制限してなかつたから、委員長が何も制限していなかつたから、それらの人達が傍聽しておるわけです。今初めてそういう理由で制限するということを聞いた次第ですから、これはどうですかね。一般人としてのその権利を持つておるのだから、委員会のそういう取決めは別であるが、この権利は尊重されなければならんものではありませんか。
  186. 岡元義人

    岡元理事 只今細川委員の御発言もありましたのでありますが、勿論淺岡委員の御発言通り委員長の許可なくして委員会の傍聽はできないわけであります。併しながら特に細川委員の傍聽に関するお話がありましたが、証人であるという特別の事情のあることだけは、これは細川委員も御了解して頂けると思うのでありまして、只今委員の外の御意見等を承わりまして、そうしてこの問題の処置をいたしたいと思うのでありますが。
  187. 池田宇右衞門

    ○池田宇右衞門君 私は突如として参りましたのでありますが、先の委員会の進行方法を見ましても、今淺岡委員の言つた通り、又委員長宣言の通り行われていると、かように考えます。そういう見地から見まして、証人の方が一應傍聽席にあるということは、細川委員の言うが如く、民主的から見ますれば差支つかえないと思いますけれども、この問題を審議進行するときにおいて、当然の上から判断いたしますときに、やはり証人の位置に立たれる人は、先の人々は傍聽にもおいでにもならず、それぞれ各控室に控えておられたような前例もあるのでありまして、やはりこれは踏襲いたしまして、証人方々証言をいたす上においても非常に正しく、又主張をされるにも極めて公平に、明朗に行くだろうと、かように考えます。進行の上から申しましても、淺岡委員の説に賛成して、委員長において善処されんことをお願いいたす次第であります。
  188. 千田正

    ○千田正君 今委員長から指名されました津村、小針、四國の三名の証人の方は、本日と明日の両方の証人として召喚されてありますか、それとも明日だけの証人でありますか。その点と、もう一つは若しも昨日の打合せのように、本日必要な証人だけにここに出席して頂いて、他の証人として予定された人達の出席を今日は望まないとするならば、委員長から当然委員会に諮つて、そしてこの人達に対して今日は傍聽を許さない、明日証人として喚問するから、今日は來て貰つちや因るということをあなたから言われたことがあるかどうか。この二点についてお聽きしたい。
  189. 岡元義人

    岡元理事 千田委員にお答えいたします。只今の四名の証人は十二日のみ召喚することにいたしてあります。第二点につきましては、甚だ遺憾でございましたが、委員長の落度でありまして、そこまで私注意を申上げておりませんでした。
  190. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 証人としては、この四名の証人は十二日に喚問するよう委員会で決定いたしておりますが、証人を喚問するということに対しては、すでに過日の委員会において決定している。その委員会において決定している決定した日から証人である。間違いない。喚問をする、せんということは、これは日時の関係、或いは各自の証人証言を求める場合において、いろいろな困難なる場合、或いは証人自体の困難なることを感じ、或いは或る種の圧力を感じ、こういうようなことがなく、自由にその眞情を発言して頂くという心構えから、委員会としてはそういうような決定を見たのであります。証人としてはすでに過日の委員会において決定している。その証人がここに來て傍聽しているということは、これは委員会としてあり得べからざることである。委員長は直ちにこの証人に対しては退場、或いは控室において待つて貰うというよう処置に出でられたい、こう私は思うのであります。
  191. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 明日の証人が今日傍聽してはいけないということを、あなたはもう証人要求で予めそう言つてあるのですか。私はないと思う。それでありますから、今日それらの証人がここに來て傍聽するということは自由なわけであるから、あなたがここでそれを禁止なさるなら別だが、自由なわけでここに來ていると認められる。それから他の証人に、今現在証言している人達に圧迫を加えるとか何とかは、それは委員会の判断で、私はこちらに証人として喋られている方が圧迫を感ぜられると思う理由はないと思う。昨日も、予算の都合もあるから半分々々にしたということをあなたも私に言われた。この予算ということは事小さな問題でありますから、それよりも一度に証人を呼んだらどうかと私は主張したわけだが、この場合やつぱり本人の自由に任せて、ここの傍聽をすることを許されることを私は希望いたします。
  192. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 今細川君のいろいろなお話がありましたが、この委員会のこの議場の整理権というものは、委員長の職権にあると定められている。こうした面に対しては委員長が直ちに処理さるべきである。だからその法に從つて処置して頂きたい。
  193. 岡元義人

    理事岡元義人君) 先程の細川委員の御発言に対しましては、これは千田委員に私が回答申上げた通りであります。併しながら細川委員も、証人の傍聽人でありましても、委員長の許可を受けるということは御承知だと思うのであります。特に証人であるということを御承知であつた場合には、何らかの連絡があつて然るべきでなかつたかと考えられますので、一應只今淺岡委員の御発言でございますが、各委員に一應お諮りして、委員長の独断においても処置できる問題ではありますけれども、一應この際お諮りいたしまして、明日の審議の愼重を期するために、只今傍聽席におられるところの津村、四國、松澤の三氏に対しては退場して頂くということに御異議のない方、挙手を願いたいと思います。(「分らない」と呼ぶ者あり)退場願うことに御異議のない方、退場して頂くことに御異議のない方の挙手を願います。
  194. 木下源吾

    ○木下源吾君 ここの傍聽者はあなたの方に権限があるのだから、やればいいので、皆にそんなことは言わなくてもいい。そこでこれはこの問題を取上げられているが、これは聽いておつても差支えないと思います。これはここの委員会で皆良心從つて宣誓をしているのだから……。併しながらあなたがいけないと思つたら退場させればよい。そういうことは問題でない。直ぐ新聞に出るのだから、よその人が聽いておつても差支えない。そういうことにこだわつてつては、そういう審議が完全な成果を挙げられない。だからそんなことにこだわらずに、あなたが都合悪いと思つたら退場して貰えばいい。我々は聽いておつても差支えない、こう考えます。
  195. 岡元義人

    岡元理事 では只今木下委員の御発言もありまして、先程申しましたように、委員長処置でできるのでありますが、併しながら関連性がありますので、一應各委員にお諮り申上げたいということを申上げたのでありまして、先程の淺岡委員の御発言に賛成の方の挙手を願いたいと思います。    〔挙手者少数〕
  196. 岡元義人

    岡元理事 分りました。それでは少数でありますので、一應このまま運営して行くことにいたします。  増渕証人証言を続けて頂きます。
  197. 増渕俊一

    証人(増渕俊一君) 続けて申上げます。先程ナホトカに著きました際に受けた印象のことを抽象的に申上げましたが、これは翌二十三年の一月の末から二月頃にかけて、收容所の職員と從來張られておつた樣々のビラ、ポスター、これが一齊に模樣替えになつた事実があるのであります。それに関連いたしますので、特に抽象的ではありましたが申上げた次第でございます。直接自分が吊し上げを受けた状況を申上げます。到著しましてから約一、二週間後だつたと思います。当時自分らは第二分所に收容されておりました。六百名を二つのドーマに分けて收容されておつたのでありますが、第二分所の組織部というのがありまして、その組織部にいわゆる民主グループ、その多くは元兵士諸君、或いは乙種幹部候補生上りということを自称している方々であつたのでありますが、約二十名くらい一つの特殊な天幕に起居しております。その方々が我々のいわゆるバラツク・ドーマといいますか、バラツクに朝となく晝となく、夜となくやつて來まして、アジプロをやり、又起居動作を見守つてつたのでありますが、十二月の中頃の或る晩、その晩は、アクティブの熊木という人が、「元將校諸君に訴う」という演題でアジプロが行われたのであります。勿論毎日毎晩あつたのでありますが、その晩は熊木氏が担当しておられたのであります。その内容はいわゆるソ連における民主化運動なるものの自然に発生して來た径路、元將校の指揮者が大抵は悪いことをして元兵士の部下を苦しめ、そこで自然発生的に反幹部鬪爭が起つて、そうしてシベリア地区にはいわゆる民主化運動が起つたのであるというような話、それから元將校の諸君は兵隊を殺した者である。諸君はラポートがきついとか、食糧がどうであるとか、居住施設がどうであるとか、毎日毎夜のアジプロが苦しいとか、そういうことを言うが、我々は元軍隊ではどんな待遇を受けたか。我々は君達から半殺しの目に遭い、中には自殺したり発狂した者もある。諸君は内地帰つても再び天皇一味の手先となつて我々を戰場に駆立てるのである。我々は我我の敵を一人もここからは帰さない。我々はここを聖地として、いわゆる聖の地として絶対に死守するのである。最後の同胞の一人が帰るまでここで頑張るのである、そういう趣旨のことを演説いたしまして、最後に諸君はマンシャルスクにおいて何をして來たか。恐らくラポートもしなかつたであろう、又長官に対しては労働にも出ないでいいからというようなことで遊ばせて置いて、飯を持つて上げ下げしたであろうというような罵詈讒謗を言われたのであります。これに対しまして、一つのドーマに凡そ蒸返る程ぎつしり努めかけておつた六百名の將校の中から、それは違う、お前は事実を知らずに何を言うか。我々は一般の作業隊と違つて、兵諸君とは起居を共にしていないのである。我々の中には兵諸君を苦しめた者もおらんし、我々は上長官と雖も同じようにコルホーズの薯を植え、原始林の伐採もやつて來たのである。君達はそういう抽象的な議論で以て我々の前で大声疾呼するが、それは対象が違うのだというようなことを喧喧囂々と言い立てたのであります。私の桝に一諸におりました富山縣出身の上坂という主計少尉がおります。それが非常に立腹して異議を申立てたのであります。熊木氏は立往生の体になつたのでありますが、やにわに上衣を脱ぎまして、そのバラックの廊下に突つ立ちまして、君達は俺の言うことに反対をする、我々の運動を妨害する、批判し、我々に挑戰する者である。そういう者は反動だというようなことで、さあ聞こうと非常にいきまいて大見得を切つたのであります。そのときに私よせばよかつたのでありますが、まだ異議があるぞ、と発言をしたのであります。それは熊木氏が我々に対して事実ないことを以て誹謗したことを先ず挙げまして、この元將校の梯團は確かに意識は低い。併しながら今までの経歴と、とつて來た生活態度、そういうようなものから考えがやや違うものが多いのである、それは事実である。併しこれをもしすべてひつくるめて君達の敵だとしてここで帰國を阻止するということは、果して眞の政治運動家のやることか、あとから続々とここに集つて來る我々の兄や父とも言えるような年輩の方々もおられるのである。そういう人がここで君達から日夜受けるカンパに対してどういう感じを持つか、それから日本新聞なぞによると、大衆に愛されなければならんということが謳つてあるが、今熊木君がとられるような、丸で與太者の殴り込みのような態度が果して眞に政治運動家のとるべき態度であろうか。日本の共産党も日本新聞に傳えられるところによると、武力による革命を欲しないそうだが、君達の意見と大分違うじやないか。共産党員の数も非常に日本新聞に傳えるところでもまだ徴力なのであるからして、諸君がここでそういうそうな運動をすることは、我々同胞にとつて非常に苦痛であり、又君達にも必ずしも有利なものではないかというような余計なことを喋つたのであります。それで熊木氏は非常にいきり立つて、要するに我々はここでは一歩たりとも敵に妥協はしない。断固闘爭をするのだ、今晩から君達と、元將校の諸君六百名と断固闘爭を開始しよう。そうして若しも我々の運動に飽くまでも反対するのであれば、自分達は身命を賭して君達の帰國を阻止するというようなことを言うたのであります。丁度そこへ組織部から注進によつて大分人が駈けつけて來まして、大井武君という秋田縣能代郡の出身でありますが、その人がやつて來まして、私に向つて、君は誰か、君の言葉は失言ではないかと問われたのであります。自分は増渕俊一である、断じて失言ではないと答えたのであります。それでは組織部へ來て呉れ、昔の警察官に引かれる被疑者のように、自分と、自分の枡の先程申上げた上坂元少尉と二人で組織部に行つたのであります。組織部には当時ハバロフスクの日本新聞社から宗像、吉良というような人が來ておりました。その晩そのパラトカには、吉良という非常に顔の面長な、陰氣な感じのする長髪の青年でありますが、吉良氏と、それから組織部長である大井武君と、その外合計二十名程蝋燭をともして煖爐を囲んでおりましたが、私はそこに呼ばれまして、履歴、その他についていろいろ尋ねられたのであります。そうして彼らの曰く、君は反動である、私ははつきりと、大衆の前でも宣言したが、又増渕は反動であることをここに申渡す。で私は反問したのであります。あなた方はどういう権限があつて、又どういう権威があつて私を反動と言うのか、あなたは日本の共産党員であるのか、ロシアの共産党員であるのか、あなたのその権威は一体どこから來るものであるかと尋ねたのであります。すると彼らはそれに対してだてや醉狂で我々はここでこういうことをやつておるのじやない、もう帰つたら殺されることも覚悟でやつておるのである。それで我々が見れば反動ということはすぐ分る人だし、こういう者はもう絶対に帰せないのだというような趣旨のことを言いました。それから吉良氏に向つて私は次のようなことを尋ねたのであります。新京に收容された当初、日本新聞の第一号というのを赤軍の機関紙として読まされ、ソ領に入つてもずつと日本新聞を見ておる。で日本新聞に例えば天皇制の打倒であるとか、反幹部、反軍闘爭であるとか、突撃隊運動であるとか、生産競爭であるとか。反動の摘発であるとかいうような、さまざまな行動綱領が出されて、その司令通りに各ラーゲルが大体歩調を合わせて動いて來ておるようであるが、これは一体あなた方日本人が眞に日本の状況と、在ソ同胞の現況というものをはつきりと見極めた上で、個人的にそれを判断して作られるかどうかということを伺つたのであります。私はつねづねそういう疑問を持つてつたものでありますから。ところが吉良氏は暫く躊躇しておりましたが、そんなことは問題じやない。我々はこの主義のためには、親も捨て、子も捨てて闘うものである。絶対に正しいと思つた道に進む場合に、その紙を誰から貰い、印刷機を誰から借り、行動綱領を誰に仰いでも、少しも恥しいとは思わない。若しアメリカがこの運動を我々にやらして呉れるならば、アメリカの國内でもこの運動をやるというふうに答えられました。それから吉良氏の方から、何故君は民主運動をやらないのか、共産機義の研究をやらないのかと聞かれました。自分等はマルシヤンスクにおいて、天候というような形の、いわば便乘主義的な指導者を沢山見て來たし、それらに随分苦しめられても來た。ここへ來ても、あなた方が眞に共産主義のために、ソ連を祖国と言う。その言葉は眞実を飽くまで終世闘う氣でおるのか、ただ一時の自己保身のためにそういうことをやつてるのか、甚だ疑つておるものである。これは過去の経験がそうさせたのであるけれども、あなた達も一種のノルマとして、悪く言えば、大衆の上にあぐらをかくためにやつてるのじやないかという疑いさえ持つておるのだということを言うたのであります。そうすると大体そんなことを考える者は、もう眞の民主主義者じやない。それから尚私は次のようにきめ付けられました。君は敗戰当時の、終戰当時の満洲國内における同胞の悲惨な状況だとか、ソ連に入つてからの捕虜の状況がどうだとか非常に泣き事を言うが、我々に取つて、日本の敗北というものは大いに祝賀すべきことなのである。何故ならば、今まで米英、その他の相手國の向けていた武器を、國内の階級的なところに向けることができる。敗戰というこの情勢を活用して、一挙に革命を遂行することができる。君のような感傷的な泣き事を言う者は、もうその一事でマルクスレーニン主義者でないということが明瞭だ。我々に取つては、敵か、味方か、その二色しかないのだ。君達は同胞であるとか、日本人同志である徳かいうようなことを言うが、そんな甘い言葉に我々は欺されない。味方でない者は敵なんだ、中間はないのだ。まだこの收容所におる日数は多いようであるから、今後ともよく反省をして、勉強して呉れ。そういうような結果になりまして、一應自分と小坂元少尉は釈放されたのであります。これが自身の第一回目の吊し上げでありました。その後それに附随しまして、自分ナホトカから後送されました経過を簡單に申上げます。その後数日経つてからだと思いますが、組織部の方から元將校の中で法律を学んだことのある者は組織部に出頭せよという指示がありまして、自分が参りました。そのときに名前は忘れましたが、若い幹部候補生出身と言うておりましたが、その人かと昔のいわゆる保護檢束、盥廻し拘留、或いは政治犯というような、まあ法律用語と申しますか、そういうものについて質問かテストか知りませんが、そういうようなものを受けました。丁度そのとき自分は余り再々組織部に入りませんので、記憶しておるのでありますが、ソ軍の政治部の士官の人と日本語のよくできる見習士官の人が來ておりまして、ジユダノフの國際連合の報告演説を將校の俘虜諸君に読ませたかということを尋ねておりました。それはまだ読ませておりません、それでは速刻あれを読んで聞かせるようにということを言い渡しておられました。その結果は間もなく大井武君によつて連続三晝夜に亘つてドーマで行われました。それから三月の初め頃だつたと思いますが、第二分所の衞兵所に將校の中から約二十名ぐらいだと思いますが、交互に呼ばれまして、政治部員の少佐の人とか、先程申上げた見習士官の人から取調べを受けました。履歴と、特に帰つてから君は何をするかということを尋ねられました。自分は帰つたら、若しそれが無事に残つておれば老父の下で百姓をするのだと答えたわけです。君は地主であろう、そうではない、少さな自作であると答えたわけです。なぜ君はここでいわゆる民主運動をやらないのだ、これに対しましてはマルシヤンスクの例を説明し、自分はもう年を取つてつて、若い者のように行動はできないというようなことを答えた。又自分らは國際法でかねて示されたソ連の日本人俘虜將校取扱規定、この規定によつて正当に扱つて貰えば何ら外に願いはないということをお答えしたのであります。そうしましておるうちに、川越出身の柳澤という男がどこから聞き込んで來たのか、増渕君あなたはブラツクリストのトツプに上つておる、もう大体十何名かのリストができておるそうだから、用心をした方がいいだろうということを言われましたが、もう時すでに遅かつたのであります。それまでにもう何人かの若い元將校はせつせと組織部に通い、共産党史の研究、あらゆるパンフレットの研究会、そういうものに日参をし始めたのであります。自分も或る人から進められましたが、一回も参りませんでした。結局予想はしておつたのでありますが、四月の十三日に突然夕刻通知を受けまして、自分を含めて十八名スーチヤンに後送されることになつたのであります。自分がまだ後送を受けない間に吊し上げは二回程ありました。それは十二月の一日にナホトカに着きましてから、煙草の配給が、配給と申しますか、支給ですが、これが全然なかつたのであります。内務省から外務省に移管されるそうでありまして給與関係が全然変りました。約一ケ月間煙草が全然ありませんでした。みんなは便所の垣に、柵になつてつて便所と申しましても、これはお互い同志丸見えの便所なんで、ただ板が張られておるだけなんであります。その囲いになつておる丁度「つげ」のような木がありましたが、その「つげ」の葉を、枯葉を集めて喫つたりしておつたのであります。船橋巖という元中尉が自分の持つておりました毛布を地方人に柵越しに賣りました。それによつて僅かな煙草の包みを約二つか、三つかあつたと思いますが、貰つたのであります。それを組織部の大井武君に発見されました。早速一つのドーマに六百名の將校が集められ、大井武君の吊し上げがあつたのであります。そうして苟くもこれはソ同盟の富である、ソ連盟の財産を勝手に処分するのは以ての外である。諸君が將來こういう不紀律なことをした場合にはもう断乎としてソ同盟側に引渡す。今回だけはまあ勘弁してやるということで、まあ長時間に亘つて吊し上げがあり、その煙草は殆んど本人の手に渡らずに他のものに分配されてしまつたことがある。それからもう一回五島彰という元中尉と、それから阿部九二三郎という元中尉、これが駅の荷卸し作業に連れて行かれました、その帰りに塩漬けの小さな「ふな」を一匹ずつくらい外套の裏にひそめて帰つたという嫌疑でカンパを受けたことがあつたのであります。このときもやはり六百名を約百坪くらいの狹いバラツクに招集しまして、そしてそのときは新たに民主グループに入つた將校團の中の指導者達によつてカンパが行われたのでありますが、結局その船橋阿部九二三郎は私と一緒に後送される組に入つてつたのであります。それから自分が直接受けましたもう一回のカンパは、昨年の十月の二十日頃二度目にナホトカに着いたその当日であります。この状況は、同席の阿部証人も……
  198. 岡元義人

    岡元理事 ちよつと証人に御注事申上げますが、要点だけ、あなたの分に関する限り今後述べて頂くようにいたしまして、非常に時間を取りますから、他の証人証言もまだ残つておりますから、尚委員から随時又質問がありまして、足らないところはそういうときに明かにされると思いますから、要点だけを述べて頂くことに御注意申上げます。
  199. 増渕俊一

    ○増渕証人 では要点だけ申上げます。昨年十月の二十日に再びナホトカの第一分所に入りました際、第一分所の文化部という民主グループによつて組織されたグループが参りまして、紙芝居をやるから外へ出て呉れという話であつたのであります。みんな非常に輸送で疲れておりまして、出たくないのでありますが、一々その天幕に入つて來まして、何故出ないのですか、何故出ませんかと申されますので、殆んで病人を除いては外へ出て天幕と天幕の間の砂の所にあぐらをかきまして、そこで紙芝居が始められたのでありますが、その紙芝居の内容は、大体御想像の通りでありまして、非常に意識の高い者と低い二人の帰還俘虜が輸送列車で同車して、一方から啓蒙されるという筋なんでありますが、その中には例の「曉に祈る」という事件も大々的に取上げられておりました。紙芝居が終ると、がらり状況が一変したのであります。そうして紙芝居の演者の一人が、非常に何と申しますか、挑発的な演説を始めまして、氣がついて見ると、我々百五十名の將校の間にいわゆるアクテイブの元兵士諸君が相当割込んでおつたのであります。そうして大いに氣勢をそえるのでありますが、貴様ら階級章を今頃で何故付けているか、その帽子の星章は何んだというようなことから、先ず飛び飛びに罵詈の声が起りました。貴様らは我々の敵だ、いや人類の敵だ、貴樣らが今まで何をやつて來たか我々はちやんと知つている。もう断じて貴樣らは帰えさんというようなことを次ぎ次ぎに言うのであります。階級章と星章と申上げましたが……。
  200. 岡元義人

    岡元理事 この際証人にこちらから申上げますが、帰えさんと誰が言われたか、相手の名前が分つたらはつきり言つて下さい。
  201. 増渕俊一

    ○増渕証人 そのときの文化部のグループ員は、その後自分の滯在が二、三日であつたために全然知りません。  そうして階級章と申上げましたのは、簡單に説明申上げますと、スーチヤンに四月に参りました收容所は、長命中佐を隊長とし、津守中佐以下を隊員とする將校の一團であります。スーチヤンにおりますときは約八十名でありました。これは國際公法、即ち陸戰の慣習に関する規定、それからソ同盟が我々に示して呉れた先程申上げました内務部の発令による日本人俘虜將校特別規定に則つて階級章を付け、任意以外の労働を拒絶しまして、又ソ同盟の國民ではないという一事を以て共産主義の演説集会への出席を謝絶しておる一隊なのであります。そこに自分がずつとおりました、アルチヨンで別れて來たのであります。そのままを我々はナホトカに持つて來たのであります。それで非常にそこの民主グループの憤激を買い、猛烈なカンパを受けたのであります。その後の景況を簡單に申上げますと、案じておりました点はかねて二点あつたのであります。それは我々の一隊の百五十名の中から民主グループに食つてかかつて、又まずいことになりはしないかということの一つの懸念、もう一つは反対にこの同行者の中から先方に呼應して我々を又一部をここに残そうとするような者が出て來やしないかという懸念があつたのでありますが、第一の懸念は皆よく忍耐しまして、一言も発しませんでしたので、難がなかつたのでありますが、第二の点が起りまして、東京出身の飯田という大尉が民主グループの賛成演説をしまして、長命隊の者はけしからん、自分達はアルチヨンにおつても自発的に労働をしてソ同盟の富の増産に努めて來たので、我々は覚醒された者であるので、今あなた方のような一率に取扱われては困る。自分達はそういう者とは全然違うのであるから、その点はつきり認識して貰いたい。そうすると別の山口という少尉、その他二、三名が立ちまして、我々の力でナホトカ滯在中に何んとかこれを教育して帰すから許して貰いたいというようなことを言いました。まあやりましよう、やりましようでその場は済んだのでありますが、その夕刻我々の仲間が海岸につき出されておる便所の帰りに数名の者から暴行を受けまして、星章や肩章を剥脱されたことがありました。その事件につきまして、ここにおります阿部証人が小林太郎元少佐と管理部の方にかけ合いまして、結局そうした暴行をした民主グループの者はソ軍の政治部員から非常に叱られて、お前達は我々が何故禁止しておることをするのか、お前達は馬鹿だと言われておいおお声を上げたそうであります。その後は非常にスムースに行きまして、自分達は舞鶴入港の直前まで捕虜としての規律と、日本人としてそれぞれの判断に從つた行動をとりまして戻つて來たわけであります。尚船中でこれはまた逆ないろいろの意味の討論会のようなものが行われましたのですが、これは直接関係はありません。自分が経驗いたしましたいわゆるカンパ、吊し上げの景況は大体以上のようであります。
  202. 岡元義人

    岡元理事 後の第二回目の期間を、ちよつと日にちが漏れておりますから……
  203. 増渕俊一

    ○増渕証人 十月の二十日と記憶しております。
  204. 岡元義人

    岡元理事 二十三年十月二十日ですね。
  205. 増渕俊一

    ○増渕証人 或いは一日ぐらい違つておるかも知れません。
  206. 岡元義人

    岡元理事 では次に福富証人証言を求めます。福富証人人民裁判を受けられたのでありますか。それとも全然関係なく、ナホトカに執務されたのでありますか。この一点からお答え願いたいと思います。
  207. 福富春雄

    証人(福富春雄君) 私はナホトカにおける人民裁判は受けておりません。所属しましたマルシヤンスクの六十四收容所におけるカンパには遭つております。
  208. 岡元義人

    岡元理事 では重ねて福富証人にお尋ねいたしますが、証人ナホトカにどのぐらいの期間おられて、その間に実際行われたところのいわゆる裁判を見られたか、この点お答え願います。
  209. 福富春雄

    ○福富証人 私は昭和二十三年六月三日から、同年一月十六日までナホトカにおりました。その間第二分所においては大きいカンパは一回であつた記憶しております。その大衆カンパは九月ごろと記憶しております。
  210. 岡元義人

    岡元理事 では只今証言中に一回あつたというその内容については御承知ですから、述べて頂きます。
  211. 福富春雄

    ○福富証人 そのカンパは確かカザンの部隊であつたと思うのでありますが、その部隊の將校はナホトカに輸送されて來る途中において、いろいろと不正事件があつたことを聞き及びました。ナホトカの二分所民主委員は早速それを問題にしまして、ナホトカの二分所の民主委員全部の力を以てこれを究明することになり、八時ごろから十二時過ぎまで野外の舞台の上に將校を述べまして、直立不動のままで審議しました。その内容においては、一部の將校が兵士諸君をだましまして、途中輸送されて來るときに、機関車の運轉手に交渉し、できるだけ停車時間を長くして貰い、湯茶の補給等に努めたいから、そのコンミツシヨンのために少しずつ出せと言つて、数千ルーブルを集めて、それを数名のもので飮んでしまつたという事件であります。その外細かいことはありましたが、そういつたことからいろいろの各人の元軍隊におりましたときの問題を取上げて騒ぎ立てました。併しその大衆カンパは進行係をその部隊の民主委員が初めやりましたために、なかなかうまくいかないで、遂にナホトカの民主委員が立上つて、それを應援したという状態でありました。ナホトカにおけるそのときのカンパについてはその程度しか分りませんが、小さいカンパ、即ち各幕舎内或いは土間におけるカンパは、各部隊ごとに絶えずやつておりました。それは関知しておりません。
  212. 岡元義人

    岡元理事 ちよつと証人証言中に、誰がそれをやつて、誰がやられたのか、全然ないのでありますが、非常に抽象的な証言になつておりますが……
  213. 福富春雄

    ○福富証人 自分はその部隊の將校の名前は全然知りません。民主委員の方は、当時の管理部長は元少尉の今君、組織部長は三谷君、そういつた人達によつてリードされてやつておりました。
  214. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 福富証人にお尋ねいたしますが、数名の者が各人から数千ルーブルの金を……
  215. 岡元義人

    岡元理事 ちよつと発言中でありますが、先程各委員におきまして、一應残つておる証人証言を全部求めました後に……
  216. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 今委員長質問されたのに対して、了承ができない。只今証言中の具体的問題だから時期を失したら忘れたりするからいけない。それをはつきりして貰いたい。
  217. 岡元義人

    岡元理事 では委員長から只今証言中まだ非常に曖昧な点があるようですから、その点一應もう一回証人にはつきりした答弁をして貰います。
  218. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 数千ルーブルの金を誰が出したかということを委員長からはつきりして貰いたい。
  219. 岡元義人

    岡元理事 只今述べられました証言中の、汽車の中での湯茶の接待用にと集められましたその数千ルーブルの金は、一体誰が集めて誰が費消したのか。その点はつきりして置いて貰いたい。
  220. 福富春雄

    ○福富証人 その將校の名前は私全然知つておりません。
  221. 岡元義人

    岡元理事 では次に、中村証人の御証言を求めますが、中村証人は、ナホトカにおきまして、いわゆる人民裁判を受けて、そうして無罪というような形になつておると承つておるのでありますが、前の小林太郎少佐と関連してその間の実状をば御証言を求めます。
  222. 中村良光

    証人(中村良光君) 私はウランバートルの第三收容所の小林太郎を隊長とする第三大隊、これにおりまして、そこの副官をしておりました。二十二年の十月二十五日にウランバートルを出まして、ナホトカに着いたのが十一月九日であります。で、九日、十日は丁度当時收容所が満員でありまして、二日野宿をしました。翌日の十一日に第一收容所、これはナホトカの第一收容所であります。ナホトカには第一、第二、第三という收容所がありまして、主として第一では宣傳とか、教育とかいうものをやり、第二收容所においては思想方面に重点を置いております。第三收容所においては帰還のための乘船待機、こういうふうに聞いております。その第一收容所において、十一日ウランバートルから來た私達千五百名がカンパを受けました。当時私達の前に吉村隊、長命隊というウランバートルの、蒙古から來たものが非常に民主化ができておりませんで、カンパを相当きつく受けたということは噂によつて知り得ました。私達自身としても、まだ昔のままで帰つてつたのでありますが、向うのアクテイブの方から見れば、私達は非常に攻撃の的になつたのであります。それで十一日の朝新たに入つた千五百名は、野外劇場の前に坐らされました。そのぐるりを前に來たいろいろな隊のすでにカンパを終つた者が取巻きます。その前にアクテイブの指導員であるところの、名前は全部分つておりませんが、津村、飯田、宗像、そのあと三、四名おります。こういう次々と民主化ができてないということに対して、一般的な説明を行なつて、その後で、坐つておる者に対してカンパをせいと、こういうふうに言われます。ところが坐つておる者はなかなか申出ません。ところが申出ないと、何度も何度も威圧的にカンパをしなかつたならば内地へ帰さんというような、言質は與えませんが、一般の噂として流布しておるのであります。で、指導員の方々が前に立つて言う一方、ぐるりを取巻いておるところの者があちらこちらから彌次るのであります。それに一人が立つて言う、二人が立つて言う、次々と言つて約三十名出されまして、私もその中の一名として出されたのであります。私が出されたのは、私の連れて來た梯團の者の発言ではないのであります。坐つている右前方で一人私の名前を呼びました。それを聞いた指導員がその名前を覚えて、中村少尉はおるか、おつたら立てというふうに申すのであります。それで私は立ちました。立つて前へ出ましたが、これと言つて罪科はないのであります。そこでちよつと申上げますが、ウランバートルにおける小林大隊の第三大隊は、非常によく纒まつた部隊で、成績も一番であります。これは部隊の指導方針と実際に兵隊が一致して團結してこれまでの生活に打ち勝つて來たものであります。部隊の中から一言の不平もある筈はないのであります。私自身としても、部隊は当然でありますが、作業場において三度ばかり賞品を頂いております。隣の吉村隊が非常に陰惨であるに拘わらず、チヤンガンフランの第三收容所は非常によくつて、ウランバートルにいる兵隊は皆第三大隊へ來たがつたのであります。二名ばかり逃亡して私の部隊へ來た者もあります。こういう部隊でありましたので、私はまあ出されたのでありますが、これと言つて罪科はない。そのまま前に立つてつたのであります。次々に立つて來ますが、罪科のある者もあればない者もある、非常に私から申しますると、でたらめないわゆるカンパであります。一人の個人の感情によつて発言したものがそれが取上げられてやられる、丁度中学時代に、上級生が下級生を前に立たして嚇しつけるというように申上げたら一番簡單に分ると思います。そこで三十名がそのカンパが終りまして別にされました。幕は八錐形の天幕であります。これは日本軍の天幕であります。天幕と申しましても、もう天蓋はすでに破れてしまつております。当時の季候といたしましても、零下十五度程度でありまして、そこで約三日間、別動隊と当時申しておりましたが、覚醒隊と後から聞いております。その覚醒隊におります間に、覚醒の情を表さなければいかない、改悛の情を表さなければいかないと申しますので、その手段方法として私達は考えたのであります。何を以て覚醒の情と認むるか、それは私の判断では、形に現れたところの、歌を歌うとか、或いは旗を振るとか、これによつてのみしか認めないのであります。そこでその天幕におる間三日間に、二日アクテイブであるところの宗像指導部員が参りまして、ソ連の共産主義に対するいろいろな教育をやりました。それに対して質問のある者は質問をせよ、そうこうしているうちに、自分達の元の部隊は第三收容所に行くことになつたのであります。普通第一が終つたら第二、第二が終つたら第三という順序でありますが、乘船の関係で直接第三に移つたのであります。その移るときに、向うから三十名別にしておりましたのが、一緒に元の部隊の元の班に帰つてよろしいという指示を受けまして、私達は第三收容所で初めて自分の元のところに復帰したのであります。第三收容所に入りまして、一日おつて十一月の十八日に乘船、二十二日に舞鶴に着いたのであります。
  223. 岡元義人

    岡元理事 では次に細川証人証言を求めますが、証人は新聞紙上等に傳えられておりますところによると、この問題に対して告発するというようなことを承わつているのでありますが、その点等について内容をば御証言を求めたいと思います。細川証人
  224. 細川龍法

    証人(細川龍法君) 私は曾て第十四地区の第十分收所の、最初本部におりまして、次に小隊長、小隊長から副官、曾ての收容所を出発して帰隊する当時は、私副官として昭和二十二年の四月十二日ナホトカへ到着したのでございます。二、三日そこに滯在しておりますときに、そこに集結しておられました幾多の部隊を全部集合させられまして、下士官及び將校は列外になれ、そう言うので、これはソ軍側の少佐と大尉と、もう一人堀という日本側の管理部に所属した人事係がありました。その三名が参りまして、將校、下士官を部隊の右側に集合させたのでございます。そしてソ軍側の大尉が個人個人に、顔色を見ながら、お前はロシア語ができるか、或いは、家庭の状況はどうだ、二、三ケ月ここにおつて勤務して呉れないかということを漠然と申したのであります。何百人か並べられた中に、不幸我々七名が選拔されたのであります。そうして直接ソ軍側の指示によりまして、我々が我々の中隊から乘船見合せのため削除いたされました。ソ軍側からの直接指示に基きまして、各天幕及び宿舎の名棟が建つております。これが引続き輸送が行われるので、一日や二日そこに投宿すると直ぐ建築物その他も非常に汚れたり、破壞したりする。そのためにおのおの建物について責任者を附けて、そうして日本人の引揚げまでこの建造物を保存したいという趣旨であつたようでございます。それは我々一行が七名任務を與えられまして、そして一室を與えられたのでございます。暫くそこにおりましたが、そのときに我々は通過部隊、奥地の方から帰還のためにナホトカに到着いたしました部隊にこういうことを申上げたのでございます。我々は日本新聞社の宗像、吉良、高山、或いは津村、こういう一味とは違うのだ、あの人達のように思想教育を目的としてここにいるのと我々の立場が違う。希望しないに拘わらず、家族もこういう状況である、是非帰して欲しいと言つたけれども、ソ軍側の方の指示によつて我々が残されたのであるから、その趣旨を、我々の立場というものを、誤解しないで呉れということを明言して置きました。そしてたまたま今まで各証人証言にもありましたように、共産党の思想教育、或いは反幹部思想、或いは軍用語の全廃、こういうようなことが日本新聞を通じて再三啓蒙宣傳されたのでございます。ところが私が四月の二十二日ナホトカに参りますと、北川昇という男がおりましたが、この男が腕に聯隊長という腕章を付していたのであります。傲然たる態度で、我々が入りますと、門のところの眞中にスターリンの額がありまして、そこに赤旗が交叉してあるのであります。実に陰惨極まる。その門を潜ろうといたしますと、そこに大男がおりまして、後に名前が北川昇ということが分つたのでございます。そこに到着しますと、各部隊でおのおの何らかの形におきまして民主グループというものを、名目だけでもとにかく作つていなければならない組織というか、そのような氣運にあつたのでございます。そうして私が部下を帰したいために、部下の留守名簿とか或いは戰時名簿、こういうようなものをシベリヤに行きまして作つて、それが部隊副官の申し送りになつておりましたので、最後の部隊副官を引受けておりました私が、その書類を後生大事に持つてつたのであります。そうしてこの書類は内地まで持ち続けて、これによつてお互いの消息を語り合おう、そういうわけでそこに参つたのでございます。併し氏主運動なるものを曾ての收容所で名目だけやつて、ソ軍側にはこういうように民主運動をやつているという事実を見せておりましたが、それの責任が私にありましたので、日本新聞にはかく書いてあるけれども、我々はこうあるべきだということを私は逆説申上げたのでございます。そうすると、私のおりました收容所の者達がそうだと言つて一同が拍手をいたします。それをソ軍側の政治部員が見ておつて、細川君が今與えたテーマによつて講演しているけれども、一同が拍手している、実にこれは民主運動が徹底した、こういうように向うは見たのでございます。これが私の收容所における私の信念で一つの指導理念でありました。そうして帰りましたものですから、ナホトカに來ても、勿論赤旗の歌も、インターナシヨナルの歌も知りません。お前達の中隊の民主運動はと言つて横槍をさされると、まちまちである。私が直接宗像、吉良のところに参りまして、私の中隊の民主運動責任者は私である、こう私は自称して言つたのであります。そうすると、あなたがやつておられたのですか、こういう話でございまして、そこで曾て私は民主運動をやつたというので、日本新聞なども非常に私を高く買われて、そうしてそのとき、梯團長にしてやろうという話もあつたようでございます。これは宗像からも、吉良からもその言葉を言われております。そうしておりましたが、四月十九日頃に中隊は全員無事に帰つて來ることになりました。併しその場合に私と一緒に引拔きさされましたのは、同じ中隊から三名でございます。川村と廣瀬、私と三人でございます。その者が一緒にロシア側の方からの命によりまして、宿舎係をいたして、そうして一室に閉じ籠つた。その場合に先程も申上げましたが、軍用語全廃など宣傳しているにも拘わらず、かの地において聯隊長という腕章を附しているということは、これは不合理である。それから当時、新日本青年同盟という腕章をつけたグループがおりました。北川聯隊長の時、津村謙二が第一大隊長の職にありました。そういうことから聯隊長或いは大隊長という言葉が、軍用語を全廃する民主グループの行き方とは非常に違つている。聯隊長なり大隊長という言葉が軍隊以外に通用される言葉かどうかということ、それから新日本青年同盟というものは、お互い外地にあつて、捕虜同士で政治色を持つ團体が結成されることが可能であるかどうかということにつきまして、私が宗像のところに意見具申をしたのでございます。そうしますと、数日いたしましたか、それがすり替えになりまして、ロシア語でアクティーヴという腕章にすり替えられたのでございます。それから聯隊長或いは大隊長という言葉もなくなりまして、今度管理部と指導部という部に分かれて、それからナホトカの変遷がそこから発端するのでございます。私は昭和二十二年の四月十二日ナホトカに到着いたしまして以來約七ケ月半、二十二年の十一月二十四日高砂丸に乘船するまでナホトカにいたのでございます。この間相当期間的にも長いのでございまして、ずつと系統的にお話すると相当時間も取ると思いますから、一應要点だけを御報告申上げまして、次は御質問にお答えしたいと思います。私が宿舍係をしておりました時に、第二管理部に鬼島一行の十二名というものが北海道出身だけで第二管理部というものを構成していたのでございます。これがたまたま津村達と意見の衝突を來したところから、鬼島一行は終身この地に踏止まつて輸送業務を援助したい、こう言つて自発的の積極的に残りたいということを言つてつたのでございますが、突如として彼ら一行が還されることになつたのです。かのナホトカに踏止まりたいという本人達が逆に還されて來た、こういう面白い例があるのであります。それが二十二年の四月の下旬でございます。もう殆んど五月かも知れません。そうして還されたものですから、遂に第二管理部というものの人員が全然なくなつたのでございます。その間我々は約半月もそこの地におりまして、直接ソ連側からの指示を受けておりましたけれども、仕事の性格上管理部というものとは横の連絡を持つておりました。その関係で我々七名が直ぐそのまま第二管理部に轉用されたのでございます。その場合に駒場信行という元の中尉がおりますが、彼はかつて收容所においてはもの凄く反動振りを発揮していたそうでございますが、ナホトカに來まして状況不利と見るや、直ちに塗替えて擬裝民主主義者となつたのでございます。これが一躍津村、宗像達の高く買うところとなりまして、彼が管理部長の椅子に推されて参りました。そうして七名の人事はソ連側の將校が來ておりまして、お前はこれ、お前はこれと言つて、そこでおのおのの業務分担をされたのでありました。当時私は人事係をいたしました。併し名古屋におります岡田という元の中尉がおりますが、彼と私二人が人事係になりまして、元々その主義、思想に共鳴して彼らと行動を共にすることのでき得ない心理状態にあつた私ですから、管理部に参りましても、名目は人事係であつたけれども、私は殆んど業務をやりません。そして岡田氏にやらせまして、毎日見たり、聞いたりしたいろいろの事項を私が歌なり、或いは詩なりに、そうして毎日感想を綴つたのでございます。そうして一日々々の管理部の業務が済み次第、夜分など一室に皆おりましたので、その人達に私が民主運動というものに対する批判的な文章を書いてみんなに回覧して見せていたのです。そのときにたまたま我々の部屋の隣りに、先程も出ておりましたが、須藤惠子という女の子と、もう一人渡邊何とかという女がおりました。彼女達が、私達は六十万の同胞を引揚げするまではこの地に踏留つて、そうしてこの運動に挺身したいということを一般の通過部隊の前に出て公言しまして、そうして津村とか吉良、宗像達から原稿の檢閲を受けて、そうして壇上に立つてアジを打つていたのでございます。その女の子二人と或る日管理部で私が隣り合つていたものですから、その女の子を呼びまして、日本女性のあり方ということについて私が独自な批判を加えまして、そうして彼女達二人を説得したのでございます。そういたしますと、渡邊何とかといいましたが、今二十八、九と思います。彼女が一應壇上に立つて六十万の同胞の引揚げまで踏留ります、こういうことを断言した彼女ではあつたけれども、私のいわゆる日本女性のあり方ということが彼女には響いたとみえて、飜然としたのでございます。そうして彼女が突如として帰つた。そのとき津村氏から、我々の同志を一名喪つたのは細川のためだ、細川は反動だ、こういうことを言われましたのが五月の末でございます。管理部がそういう雰囲氣の中に生活しておりました。監理局長は駒場がおり、副長は東京におります品田君がおります。彼はよく私と意見を共にいたしまして行動をいたし、そうして駒場の余りにもあさはかな轉向振りを私がきつく非難いたしました。そうしますと、彼駒場は盛んにこの管理業務をやる上において細川及び品田がおるということは非常に面白くない、事務を阻害することであるからこれを何とか追放して貰いたいということを上申したのでございます。それによりまして、六月初めでございます。私と品田が追放されることになつたのでございます。その追放されるというのは、第一收容所の柵内に勤務中隊というのがありました。或いは六中隊という言葉を使つておりました、そこは反動として摘発された者及び入院入室しておつたために部隊と行動を共にして一緒に帰れなかつたという者、所属のない者がそこへ入れられる。或いは反動として残された者とか、或いは当時の將校とか、こういう人達がごつちやに入つております雜役をする勤務中隊というのがございます。そこへ六月の月初めでございますが、私と品田君が日本新聞社の特派員でナホトカにおります宗像、吉良の部屋に夜喚ばれたのでございます。夕食の済んだ後行きますと、あなた達二人は管理部の業務を阻害する。このような停滯しておる雰囲氣というものはあなた方二人の干渉によつてこういう状況になつておる、それであなた方を追放する、反動として反動中隊にやるからという宣言を受けたのでございます。そうして翌日私と品田君が若干の私物を取纏めまして反動中隊と称される勤務中隊に参りました。そうしてそこで約一週間ばかし雜役いたしました。その雜役というのは、ここにお粗末な腕章を付けて、入浴監視とか、或いは移動監視とか、或いは門衞……門を開閉する、そういう雜役に服すこと約一週間、そのうちにたまたま私達が帰るというようなことがぼんやり入つて來たのでございます。そうしていよいよその乘船名簿というのを耳をすませて聞いておりますと、品田君と私の名が辛うじてその一番下の方に銘筆書きで書いてあつたのでございます。ともかく帰れるのだということによりまして、俄か作りのお粗末の私物品を取纏めまして、第一から第二に移りまして、そうして第三に通過したのでございます。そのときナホトカにおりました勤務者の中の者が主体をなして帰りますものですから、全然知らない人もおりましたし、入室先から帰つて來たふらふらな患者さんが中心だつたのであります。その患者さんを連れて、そこで十七、八名だつたと思いますが、一つの分隊を組織する、分隊と言わずに小隊と言つておりましたが、その小隊長に私が推されて、私が帰還編成をしたのでございます。そうして第三收容所に二日おりました。そうしていよいよ六月の九日の乘船に決まりましたが、六月九日朝から乘船者の名簿が読み上げられております。私も預りました十幾名の部下を持つた小隊長として、帰るべく決意をして、自分の名前が呼ばれるのを期待しておつたのでございますが、品田君の名前だけがあつたけれども、私の名前が削除されておつたのであります。そうして品田君に小隊長として後事を託して、私は品田君に第三收容所において僅かばかり持つてつたパンを品田君にやつて、そうして再会を誓つて涙ながら別れたのでございます。悄然と私は勤務隊に又逆戻りして行つたのでございます。第一收容所における勤務隊に帰つてつたのでございます。そのとき勤務隊の人事係及び中隊長をしておりました玉内とか玉田とかいう男がおりましたが、彼が六中隊の人事全般を担任しておつた連中がその船で一緒帰つてわけでございます。それがために勤務隊に何人残つて、誰がどうなつておるか、全然分らない状況で……、私が悄然と帰つてつたのであります。そうすると、中隊長も帰つてしまつたし、人事係も帰つてしまつたので、我々がみずから自主的なものを作ろうじやないかということになりまして、その当時は、昔の軍隊はよく分隊制等で、食事の分配をいたしましたが、当時は分隊という言葉さえ使えないで、何々組ということを言つてつたのでございます。そこに三百名ばかりおりますが、医務室は別として、一つの幕舍の中にやはり十ぐらいの程があつたのでございます。大体分隊單位くらいの人員です。その組にはやはりおのおの組の民主委員というものが設けられまして、非合法的なものがあつたのであります。それが寄り集まつてこの勤務隊の今後の運営について協議をして、そのときに誰かが、細川さんは今まで監理部の方におられたので、その方に明るいかも知れない、是非一つ我々の民主運動というものに対して骨幹となるべき規約を作つて貰いたいということを、私が各委員から申渡されまして、民主グループの起草委員を私が單独で任命されたのでございます。そうしてその晩の中に、一日一晩の中に大体規約案というものを私が書きなぐりまして、六月十一日勤務隊において第一回の総会を開いたのでございます。元の將校約六十人ばかりを中心として、約三百名でございます。そこで私が起草委員という立場から、規約の案の説明をいたしまして、引続いて委員の選挙をいたしましたところ、私が委員長に推されたのでございます。そうして委員長になつたのですが、その場合に委員長になる前に、なかなかむずかしいいきさつがありまして、もともとナホトカにおる者は全部津村なり、宗像、吉良達のお氣に入る者でなければ、一つの小さいながらもグループの長にはなり得なかつたのであります。併し私が責任者になるということを、新聞社等が、或いは民主グループも喜ばないという事実は知つておりましたし、いろいろなことを言われて來ました。併し私は眞の民主運動ならば六中隊こそが独自な立場で、我我だけで構成されるものであるから、何も第三者から平渉される必要がない。我々は我々だけで構成することによつて、初めて彼らの標榜しておる民主運動というものを原則なんだということを私は信じて、それを一般にそういうふうに仕向けたのでございます。そうして暫くそこにおりまして、六月の三十日と思いましたが、將校五十二名、それから兵隊、下士官を入れて五十九名というものが、今から轉属だという命令を受けたわけでございます。もうすでに將校はその当時、内地に帰國できないということが宣傳されておりましたので、その將校と行動を共にするということは、帰國を阻まれた実証でございます。將校が五十二名だと思います。准士官が二名、下士官が三名、それから兵隊二名、この兵隊というのは秋田縣の松坂忠一郎、それからもう一人は東京の中羽壽美男というのがおります。この二名が兵隊です。これが將校一、下士官三名の中に加えられまして、突如としてスーチャンの收容所に轉属を命ぜられたのでございます。スーチャンに行きますと、暫く待たされたのでございますが、道中長いところ、そうして暑い時でございました。もういつ帰れるか分らないという不安が先に立つておりますから、洗面器を担ぐ者やら、或いは重そうな碁盤をいわい付けるとか、將棋盤を担ぐとか、それは実に見るに見兼ねる状況でございました。そうしてスーチャンに参りますと、約二時間くらい歩きました。そこへ着いて暫く待つておりましたところ、ナホトカ收容所の方からこちらの方に連絡がないために、收容する準備がない、お前達又帰れと言つて、その晩の内に我々は又ナホトカに引返したのでございます。引返して來ましたのは七月一日の夜明けでございます。まだ起床前でございました。そうして一つの幕舍に五十九名が收容されまして、そうしてそのとき津村が参つて、あなた方は今後どうなるか分らない、このままじつとしていて下さい、ということを言われたのでございます。そうして二、三日行方を注視いたしまして、不安に打暮れていたのでございますが、その後一向どこへも移動するというような氣配も見えなかつたのでございまして、從來に返つて雑役に服することになつたのでございます。そのときに又再びやはり五十九名もおりますので、我々は我々としての一つのグループを組織しよう、こういうことになつて、又そこで我々の民主運動というものの一つの組織が構成されて行くのでございます。前例に倣いまして、再び將校が大体中心でございまして、私は元の曹長でございます。私が再び委員長に推されたのでございます。そうしておりましたが、元々私の性格、私の言動というものが日本新聞社なり、或いは津村達の反感を買うところでございますので、非常にいろいろな問題が入つて來る、私の講演しておることを誰かが聽いておる。そうして細川がこう言つたということを言つておる。それがために、それに対する対策はこうだというようなことも逐次入つて來る。そういうことから細川さんに立つて貰うということは、日本新聞社との折合いが悪くてお互いが氣まずい氣持をするという声が出て参りましたので、私が自然消滅というような形で、一應私がその要職を去つたのでございます。そうして私の後に西村忠郎という男が委員長になりまして、彼はやはり反動と目されておつた男でございまして、曾ての時代に満洲日日の編集部長か何かしたということを自称しておりました彼が私の後任としてそこの委員長になつたのでございます。その間いろいろなことがあつたのでございますが、突然として西村民に対して宗像からナホトカ民主運動についてあなたの批判を一つ書いてくれ、こういうことを西村氏に言われた。で西村氏が元々自称ジヤーナリストですから、これは帰國のテストかも知れないということで、ぴんと感が働いて、御無理御尤もで全部でつち上げてしまつたのでございます。そこで日本新聞社の方では曾ての反動、西村もこのようにして我々の民主運動を見て呉れたから、同士として帰してやつてもいいという結論になつたのでございます。そうして彼が帰ることになつた。その時私は医務室に入室しておりました。夜分私の所に参りまして、こういうわけで私が帰ることになつた、いつまで置かれるか分らないけれど、体だけ丈夫にしてやつて呉れ、要するに仮裝でもいいのだ、今度俺の出した氣持が分つて呉れればいいのだ、こういうことで医務室にわざわざ西村君が來て、そこで彼と握手をして別れました。それからたまたま長い期間私がずつとそういう状況を見ておりましたので、見るに見かねる場合があつた。同時に私が日本人として義憤を感じておつたものでございます。そこで私が九月十三日ソ軍側に対して意見具申を提出いたしました。当時ざら紙三枚に書いて提出したのでございます。その大体の内容は、ここへ來て反動ということを言つておりますが、反動はどういう尺度で誰が決定して、そうして反動というものを日本人で残しておるのか、ロシア人で残しておるのか、それから日本人にその権限を與えておるかどうか、こういう質問。次は民主運動をやつておられる連中は非常に肥え太つておる、給與が全然違つておる、こういうことがあの運動をやる者に対してこういう給與を與えるということがソ軍の俘虜規定にそういう該当する條文があるかどうか、こういう質問を出しました。それからあすこで民主運動なるものをやつておるけれども、ここでこうしてやつておるということは、上陸時における敵を養成いたしておることであると私は思う、なぜならばもう少し温か味のあるものとして迎えてやつて、そうして感情的に喜ばれるように仕向けるところにおいて初めてこの運動の成果があるのではないか。帰るためには御無理御尤もとして通過して行くだろう。併し受けた感情から決してあなた方の同志にはなり得ないであろう。それをソ軍側で知つておるかどうか。というようなことを、まあ大体そういうような條文を、文章を書いて私が提出したのでございます。九月の十三日でございます。しますと、それに対するソ軍側の方から返事がございません。数日いたしまして、午後でございましたが、九月の二十日、十三日ですから、二十日前後でございますか、津村が軍隊のあの半袖の襦袢を着まして、上着も着ずに、そして私達のおります中隊に現われたのでございます。そして細川はいるか、こう言つてつて來ました。私が入口の所で覚えかけたばかりの碁石を並べていたところでございました。そこえ來まして、細川君はソ軍側に対して我々の運動を批判してこういうような意見書を出しておる。これは以て我々の敵とすべきであつた。実は細川という人間は私が残した人間である。こういう者とは最後まで我々は闘爭するだけだ、こういうことを宣言したのでございます。そしてそれに関連いたしまして、当中隊に、これは細川個人でやつた問題であるか、それとも当中隊に細川に関連しておる者があるかどうか、それを調べたい。こういうようなことを証言を求めたのでございます。すると当時委員長がもうすでに代つておりましたので、矢島という元少佐ですが、この少佐が当時これは俄か作ります民主主義者になりまして、津村、宗像樣々で非常によく動いておりました。それが先ず立ちまして、これは中隊からこういうことを出して誠に申訳ございません。これは飽くまで細川個人の問題であつて、我々は関係しておりませんということを証言いたしました。続いて中野という方、それからもう一人佐藤何とか、元の將校が二人ばかり出て同じような証言をしたのであります。そうして証言をすると、それを聞いて、それを細川個人の問題か、ということにして一應津村は下つたのでございます。すると矢島元少佐を筆頭とする各組の民主委員が私の所に参りまして、何故あなたはそういうことをするのだ、とにかくも帰りさえすればいいんじやないか。帰るためにここで手を握ろうじやないかということを言つて來られました。私は信念のために殺されるのであつたら構わない。併し一旦言い出したことを帰りたいからといつて私はそれで引込むというわけには行かん、これは私の信念だから私の知念だけは通さして呉れ。これからは私のことについては干渉しないで呉れ。そういうことを私は言い切つたのであります。そうするとその後数日いたしまして、やはりそれがショツクとなつたのでしようか、私は俄かに熱を出しまして、入室いたしました。そこへ夜となく、晝となく、矢島少佐などが私の所へ諫言に來て呉れました。当時岩手縣の者が五人おりまして、やはり代る代る交代に來て呉れまして、同縣の誼みだ、帰るために目をつむつて行こうじやないかと、こう言つて私の所へ再三來て呉れましたが、有難いことだが、私には私の考えがあつてつておるのだから、一應その問題については触れないで呉れ、こういうことを言い切つておりました。そうしてその状況で長いことおりまして、もう反動の細川という音に通つておりました私でございますから、どこでも先ず知つておる。当時軍医で長崎の宮崎登君というのと、そこで小早川源郎元中尉、それからもう一人兼松とか友松とかいう軍医がおりました。この人達が非常に心配をして呉れまして、私の健康状態心配して、そうして又私のナホトカでそういうふうに大きく反動として睨まれて苦しんでおるという実情を知つておりますので、何とかして細川を患者として、病院船で還そうとして、軍医達が努力したのでございます。八月に第一回目に私が入室しておりましたとき、今度は還してやるようにロシア側に名簿を提出しましたよと言つて、軍医の報告を受けたところでありまして、ところが船が出るまで私の名前を呼びに來ません。そうすると軍医さんが、又民主グループの連中から名前を削除されました。こう言つて参りました。その後に九月も同樣でございます。病院船は月に大体二十四、五日頃一回行つておりました。たとえ船で患者として二回來れないといいますけれども、日だちから言いますと、月に一回でございますから、二回遅らせられたということはすでに二ケ月遅らせられたと、こういう結論になります。こういうようなことで私以外にも、往々にして反動として残されてまだ帰つて來ていない者もおります。それから一々例を申上げますならば、四月十二日に私と同じようにナホトカに到着いたしました中尾元准尉が、輸送梯團三七中隊という固有名を貰いました中尾准尉の中隊です。この中隊が到着いたしますと、反動中隊で捜査する必要があるという下に、約三週間ばかしナホトカに放つて置かれたのです。そして元准尉である中尾克己、それから東京におります中羽壽美男という兵隊が反動であるということの結論で残されたのであります。そして中尾准尉はその九月の末に帰りました。中羽壽美男君は私と同じ船で帰つて來ております。それからこれも昭和二十二年の四月中旬頃到着いたしました部隊の中で、河野繁美、森脇竹市こういう非常に日本人的な愛すべき思想堅固な連中がいたのでございます。彼らが、我々は共産党に対する反対ではない。日本人は與えられた期間捕虜として任務を遂行して帰ることが目的なんだ、帰ればいいのだ。それがためには一つの共産党の教育も何も必要がないのだ。與えられた仕事を終つて帰りさえすればいいのだ、そういうことから一つの團体を組織したのでございます。そこに團体を組織したときに、その会員は左の方に櫻を入墨いたしまして、その中に「血」という字を入墨したのでございます。これは思想には全然触れないで、ともかく日本人としてここを生き拔こう、こういう悲壯な決意でそういう團体が組織された。團体というか、グループが十四、五名組織されたようでございます。この中から河野繁美、森脇竹市という者が残されまして、森脇君は私より二、三日遅れて帰つて來ております。後日私の所に連絡がありました。併し河野君は、これは河野氏は大体四十を越しております。妻のことを、子供のことを毎日話しておりました。而も彼は年を取つておりまして階級は伍長でございます。私と同じようにスーチャン地区にも轉属をされました。その期間も常に妻のこと、子供のこと、そうして話合つて、彼河野氏がたまたま作業隊に編成されて出張作業に行きました。そのときにも、折々には何らかの形において私の所に連絡しておつたのであります。それで私も帰つてから留守家族の方もお慰め申上げたい、こう思いまして再三手紙もやるのでございますが、やつた手紙帰つて來ますし、住所も不明でありますが、まだ帰つていないだろうと思います。  それから再三問題になつております人民裁判でございます。吉村隊が來ましたあと、引続いて今こちらの証言もありましたように、人民裁判が行われまして、当時今年の四月十四日の新岩手日報に、津村氏がこういうことを言つております。兵士大会は自主的に行うもので、自分は單に立会つた。こういうことを言つております。そして人民裁判ナホトカにおいて行われていないということを言つておりますが、私はこれを否定いたします。人民裁判という言葉ではありません。これは大衆カンパという言葉を使つておりました。但し時期的に見ましても、同じ時期に同じ人間が沢山いたわけではありません。私の見ました二十二年の四月から十一月における間の今問題の人民裁判は、大衆カンパという言葉で行われておりました。凡その期間も長いのでごいますから、数十回というものを私が見て参りました。併しもう問題は幾ら言つても、幾ら見ても仕方がない、そういうふうに私も思つておりましたし、余り顏も出しませんでした。そうして大衆カンパをやるときには、その辺におります者に全部呼びかけて、或いは勤務隊の人達、我々反動と目されておる者に対しても、今から大衆カンパをやるから是非出て下さい、こう言つて應援を求めに参りました。私が直接目撃いたしました人民裁判眞相、実例を一つ申上げます。岩手縣に千田豐紀という元少佐がおります。それが吉村達と同じ蒙古におりまして、吉村達の後からナホトカに到着いたしました。時期は二十二年の十月の末頃ですと記憶いたします。その場合に今から大衆カンパをするからというので、ここに野外演藝場というのがありまして、そちらの方の部隊だけが天幕を囲つておりました。そうしてここに少し高い舞台がありまして、こちらの方の観覽席は即ち砂つばでございます。そこに約七、八百名の駐在、滯在しております部隊の兵隊さん方が狩り出されて参ります。経驗されておる方はお分りになりますように、すでに十月末になりますと、ナホトカも寒うございます。その砂つばの上に全部並ばされております。そうしてオルグの活動と申しますか、民主運動の組織されたグループの連中が方々に散らばつておりまして、そこでこの中に千田という少佐がいるだろう、出ろ、こう言つて呼びかけます。千田少佐はびくびくしております。動作が鈍いとか、早く出て來いとかいうような言葉で野次られるのでございます。恐る恐る千田少佐が蒙古から着て來ましたよれよれの防寒外套を着て壇上に上つたのでございます。何故私がこれを関心を持つて見たかと言えば、千田少佐が岩手縣人である。私も岩手に住んでおる。そういう関係から同縣の者がどういう裁きに遭うのかということを私が見たのでございます。そうして私も外套を着てじつと見ておりました。そうすると千田少佐が出ていきまして、のつそり立つたわけです。防寒外套を着て。そうしたならば、民主グループの連中、先ず津村氏の発言だと思いました。千田少佐、お前は蒙古においてどういうことをやつて來たか、お前の罪状を告白せこういうことを先ず言われたのでございます。そうすると、千田少佐がぶるぶる慄えながら、それではお話しいたします。こういうことになりまして、千田少佐が私の收容所におきまして、兵は……、兵隊はですね。「兵」はという言葉を言つたのでございます。そうすると、そこに居合せておりました諸戸文雄、兵とは何だ、兵とは何だ、兵とは軍隊機構において奴隷階級を指す言葉である。兵とは何ぞや、今更そういう言葉を言う者は、もはやそのあとを聞く必要がない。その中に方々から野次が飛ぶわけです。外套を脱げ、姿勢が悪い、態度が悪い。髪を切れ。千田少佐が余り綺麗でもない顏をいたしまして、そうして髪を垂れ下げて萎れて壇上におります。それにそういうふうな野次で呼びかけたのでございます。そうしてその外に数人を、同じようはことで取上げて壇上に立たされたのでございます。そうしてそのままこういうものは反動なり、かかる者を今祖國日本へ帰してやるということは反動政権を強化することである。我々の敵を一歩たりとも、たとえ一人たりとも祖國に帰すことはできない。こういうことでその民衆裁判、いわゆる大衆カンパが閉幕するのでございます。その場合に千田少佐が何か言おうと思つて弁解しようと思つたのですが、兵と言つた言葉一つが向うの掴むところとなりまして、一方的にぱあつと持つて行かれて、何らそれに対する弁解もできなかつたのでございます。こういう事実があつたのでございます。そうして先程議長さんの方からお話がありまして告発の問題に移行して行きたいと思います。彼津村は六十万の同胞が引揚げるまで私がこの土地に踏み止まりますということを宣言いたしまして、傲然たる態度を持つてかかる思想教育に專念していたのでございます。新聞社が行きましたときは、管理業務として入浴だとか、或いは滅菌だとか、消毒したとか、こういうことを言つておりますが、これは管理部というものが別にあつて管理部の業務でありまして、彼は指導部長であつたのでございます。指導部長とは思想教育を指導する部でありまして、彼が滅菌も消毒も被服の交換も、彼自身では何もやつておりません。そうして彼の権限において細川は私が残したという実例がございますし、そうして森脇とか或いは河野、こういつた連中らの血盟團という一つのグループは、俺達が残したのだ、こういう人間は帰られないと常平生から言つていたことから考えましても、これは道義的に見ましても、日本人としてこのまま葬つて然るべきかどうか。私は御承知のように宗教家の立場に立つております。最も中正な立場から國民の一人として私が義憤を感じて、このヴェールで隠されておりますナホトカの実体というものを御報告申上げる一つの私が義務を……、自分勝手でございますが、一つの義憤から今度立上つたのでございます。それは津村が帰つて來ておるということが吉村の事件から発覚いたしましたので、吉村事件人民裁判をやつたのが俺であるということの彼の新聞記事を見たのでございます。すると全國に散らばつております私の味方の者から電報なり或いは手紙なりが舞い込んで参りまして、あなたはナホトカにおつても彼らと対立した一つの椅子におつたのだ、是非一つあなたを中心として、資料はどんどん提供するからこれを告訴して貰いたい。こういう激励や援助の手紙が舞い込んで來たのでございます。そこで私は彼津村を告発する、そうして罪に落す、そういう個人的感情からこれを申上げておるのではありません。これによりましてこの反響がシべリアのナホトカに波及しましたときに、かかる機構がなくなつた場合に、四十数万かの残つております同胞達が安らかに一日も早く引揚ができたならば、促進の遂に一つの力を與えるのじやなかろうか、こういうことを考えております。同時に先程から亡くなられた方の奧さんもお見えになつておりますが、そうして残されたために或いは病氣になり、或いは死んで行つた、こういう人達もないとい言われません。これは後日私の方で証言を求めて御報告申上げたいと思つております。かようにして死んで行つた同胞達もこのまま葬られましたならば、霊も永久に葬られて犬死にとして忘れられて行く。こういう……
  225. 星野芳樹

    星野芳樹君 少し簡單にして頂いた方が……
  226. 岡元義人

    岡元理事 主観を交えずに大体のところだけを、要点だけで結構ですから……、判断は委員会が審査いたしまして、判断をいたしますから、資料を提供するという意味において主観を入れないようにして頂きたい。
  227. 細川龍法

    ○細川龍法証人 それでは要点だけを申上げて置きます。私のいました二十三年の四月頃から大体六月頃までは、須藤惠子ともう一人女のおります部屋が味噌とか醤油とか砂糖などの隠匿所でありました。そうして民主グループの連中などがそこに行つて……
  228. 岡元義人

    岡元理事 発言中ですが、今のは告発しようとされている内容ですか。
  229. 細川龍法

    ○細川龍法証人 はあそうですか。ちよつと待つて下さい。
  230. 岡元義人

    岡元理事 内容が若し残つておりますならば、その点だけで……
  231. 細川龍法

    ○細川龍法証人 はい、分りました。二十二年の六月中旬頃でございます。奧地の方から婦人部隊が約三十名到着したのでございます。その当時第八という番号を打たれたのでございます。宿舍に彼女達三十名ばかり收容されたのですが、その際にかの民主グループの連中達がそこに思想教育に出かけて行きました。そうして行つたところが、その中に誰かが我々は日本人だ、まあこういうようなことは聞かなくてもいい、こういうような意味合のことを簡單に申したのだそうです。そうすると、お前達はやはり反動だということになりまして、この三十名ばかりのうちの十四五名だと思いましたが、一日彼女達の奧地の方から持つ耐えて参りましたただ一枚の毛布、その毛布を持たされて、そうしてナホトカ收容所の遥か向うの方に出がございますが、そこから土運搬をせられた例がございます。而もその三十名ばかりのうちで誰かが言い出した、女を支持する者は十四、五名で後の半数はどつちつかずに口をつぐんでいた。口を切つた者だけが十四、五名反動だということから土運搬をさせられた、労役を強要された、こういう事実がございます。こうして今までのことを纏めまして、事実残され、残すというよう権限を持つていたことは、はつきり津村個人が言明しておりますから、その証拠は歴然としております。かかるようなことが法的に見ましても、該当するような根拠を得ましたので、もう少し資料を豊富にいたしまして、これを告訴しよう、こう決意しておる者でございます。それでは一應ここで終りまして、後質問にお答えしたいと思います。
  232. 岡元義人

    岡元理事 これから問題の質問に入るわけでありますが、この際四時半まで休憩いたしたいと思いますが、お諮りいたします。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  233. 岡元義人

    岡元理事 御異議ないものと認めます。それでは休憩いたします。    午後四時九分休憩    ——————————    午後四時三十六分開会
  234. 岡元義人

    理事岡元義人君) では休憩前に引続き委員会を再開いたします。  この際委員長から各委員にお諮りいたしたいと思いますが、先ず第一点は本日は五時半に終了いたしたいと考えますが、お諮りいたします。御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  235. 岡元義人

    理事岡元義人君) それではもう一遍昨日の委員会におきまして、打合せいたしました通り、事務上の手続がございますので、只今出席されておりますところの証人の中から明日出席して頂く方々委員の方にお諮りいたしたいと思います。
  236. 千田正

    ○千田正君 今出席しておるところの委員が少いので、もう少し経つてからもう一度お諮り願いたいと思います。
  237. 岡元義人

    理事岡元義人君) それでは只今まだ休憩中の委員が出席が少のうございますので、後程お諮りすることにいたしまして、委員から質問を続行したいと思います。
  238. 千田正

    ○千田正君 午前中の質問の中に、特に阿部証人にお伺いしたい点があるのでありますが、杉田証人の御主人向う病氣になられたという点につきまして、阿部証人は軍医の立場から考えられまして、今の杉田氏の病氣になつたという原因をどういうふうに考えられますか、その点を一つ御証言を願いたいと思います。
  239. 阿部齋

    阿部証人 杉田氏がカンパを受けまして間もなく、期間から言いますと、一月の二十二日頃であり、二月の二日に私がそこを去つておりますので、長い経過で杉田氏を見ておりませんから、直ちにこうなりと断定を下すわけには参りませんけれども、そのカンパの後、仕事に対して余り熱意がなくなつた。これは診療業務の方並びに直接関係しておりました宣傳というような方面においてもなくなりました。非常にどちらかと申しますと、朗らかな方でありましたが、朗らかさがなくなつた。私のおりました当時に、食事だから集合というときに皆箸と食器を持つて集る。そのときに箒を持つて出て來たことが一度あります。これらはすでに精神上の安定を失つてつたのじやなかつたか、この時期に医務室の医員長をしておつた都築軍医大尉に、速かに帰してやらねば可哀そうだ、直ぐ帰るようにしましようという相談をして帰るようにしております。間もなく私はナホトカの地を去りました。続いて小野英憲軍医少佐が五月になりましてから、その人はナホトカに胃潰瘍のために入院しておつた患者でありますが、この方が來るときに医務室寄つて二日間お世話になつて來た。医務室の皆さんはどうかということを私が申しました。そのときに小野英憲少佐の言葉の中に、杉田氏は完全に神経衰弱の状態にある、あのままにして置くと危ないぞという言葉があります。私のおりましたときに、急に陰欝になり、食事だという時期に箒を持つて來るというよう状態、並びに小野軍医少佐の、完全なる神経衰弱の状態にあるぞ、危いと言われた言葉から判断しまして、動機はそれでなかつたかと推定いたします。
  240. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 増渕証人にお尋ねいたしますが、証人がマルシャンスクからナホトカに着かれましたときに、ナホトカ收容所に入られた。スターリン元帥の寫眞が掲げてあり、そこに旗が交叉してあつた。中に入るといろいろな陰惨なポスターが貼つてつたというようなことは、マルシャンスクではなかつたということを先程証言されたのでありますが、その寫眞が掲げてあり、旗が交叉してある。ポスターが貼つてある、そういうようなことがどうして陰惨なんでしようか。その御証言に対してもう少し詳細に御証言頂きたい。
  241. 増渕俊一

    ○増渕証人 お答えいたします。スターリン元帥の肖像と旗というのは自分ではありませんでした。ただ陰惨なビラとポスターがあつた。それが二月頃には撤回されて一変したということを申上げたのです。陰惨と申しましたの田、例えば三・一五当時のいわゆる共産党員がリンチと申しますか、拷問に遇つてうめいている図であるとか、妖鬼と申しますか幽霊のような形になつた人間を、自分らの父ら帰せというような叫びで、飢え細つた子供が後から追求めている図であつたとか、それから餓死して斃れている無数の人間の上に金庫を図いて、その上に天皇があぐらをかいているとか、それからその外に階級鬪爭絵図というのがありまして、これは何かものすごい怪物が、結局資本主義機構を象徴した怪物であります。八本の手を持つて、画面一杯にのさばつているのでありますが、その触手と申しますか手によつて、画面一杯に無数の人間が阿鼻叫喚、丁度昔の地獄絵巻と申しますか、そういうよう状況に追い込まれている図であるとか、ちよつと想像もつかないような非常にグロテスクな絵や、それから又非常に滑稽なものでは、米英の政策を諷刺したものとか、そういうようなものがあつたのであります。それからビラにつきましては、例えば暗黒の天皇制を打倒して明るい民主社会へとか、要するに非常に天皇打倒を目標としたものが最初相当にありました。これは二月頃にすべて撤回されております。その前に一度ソ軍の、確かモスクワからということを聞きましたが、モスクワから佐官級の人だつたかが数名見えまして、詳細に收容所を檢分されて指図をして行かれたようであります。そういうものがその後一挙に撤去されまして、あとは見ても朗かな建設的な、例えばソ同盟の五ケ年計画の成果であるとか、コルホーズにおける農民のほほえましい建設の姿であるとか、それから日本の百姓が土地を獲得して、股引半纏の親父が子供や両親を擁して朗かに行手を指している、或いは共産党の旗の下に大衆が團結して行進をする、そういうような非常に何と申しますか、グロテスクな傾向か全然なくなつたのであります。それを申したのであります。
  242. 千田正

    ○千田正君 増渕証人にお伺いいたしますが、さつきあなたの御証言の中に、大会で吊し上げ、或いはカンパ、或いは摘発という言葉を用いられておりますが、これは何か三種類が特定のライオを引けるように御説明できますか。それともこれは同じようなものであるというように考えられますか。吊し上げと、カンパと、摘発、この三種類のものが特にそういうふうに特定なけられるよう方法でやつておられたのかどうか、その点について御証言頂きたい。
  243. 増渕俊一

    ○増渕証人 お答えいたします。自分の判断といたしましては、別段そこに差異はないと思つております。内容的に申しますと、自分の見聞した範囲では、すべてアクチブの発意で、相当の、さくらと申しますか、悪い言葉でありますが、そういうものを入れて一挙に結論に持つて行く、弁解も或いは弁護の余地もなしに一挙に結論に持つてつてしまうという行き方は、すべて同樣であつたように思います。
  244. 千田正

    ○千田正君 もう一つ、増渕証人が最後に吊し上げの結果が、十八名の人達と共に、四月十三日ですか、スーチャンに送られた、スーチャンの炭鉱地区で課せられたところの労働というものは、どういうものか、それから從來奧地においてなされているところのノルマより相当ひどい労働であるのか、或いは同じような労働を課せられてあるのか、その量若しくはやらせられるところの問題が過重であるかどうか、そういう点を証言願います。
  245. 増渕俊一

    ○増渕証人 実は自分達はスーチャンに送られまして、先程も申しましたように、國際法規並びにソ連の内務部で出しております日本人俘虜將校取扱に関する内務規程、これに則りまして、スーチャンに從來おります將校に倣い外部の労働を断つて参りました。直接自分は炭鉱には入つておりません。ただあそこで見聞しました事実を申上げますと、スーチャン並びにアルチヨンでありますが、殊にアルチヨンは昔囚人が專ら使役されて、堀り出しておつた炭鉱だそうでありまして、殆んどこの大戰の終り頃まで、二十年くらいの問廃鉱として放置せられておつたものでありますが、施設が非常に悪くて、そのために、或る週などは一週間の中に、三名ぐらい落磐、暴発等で、もと、兵の方が死亡されまして、その死体が自分等の收容所の直ぐそばに病室がありまして、ここに担ぎ込まれ、又そこの野天で解剖され自分等は悲しくも牛や豚の臓物を見るような、眞赤なものを野天で見て参りました。そうしてノルマは相当きついらしく、盛んに生産競爭を呼び掛けまして、ノルマを上げる者に、いわゆるノルマを超過する者に対しては賞與を與えております。その表彰された者が、次の日に又落磐で死ぬというよう状況が非常に多くございました。この状況につきましては、先程申しました山口という少尉でありますが、この少尉は中隊長として、自分等と別の隊におつたのでありますが、それがもとの兵を指揮して、炭鉱に行つておりましたから、その方が分ると思います。先程申上げましたようにアルチヨンにおきましては、將校の中で二組ありまして、一方は自分等と同じように、全然自活以外の労働を謝絶しておつた者、それから積極的にソ連の富の増産ということを標榜して、外部の労働に出ておつた者と二組ありましたが、自分としましては数字的に、そのノルマがどうということを申上げることはできません。ただもと兵の諸君は非常に疲労困憊しておつた事実は、ここに阿部証人が現に証言するところであります。
  246. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 増渕証人に伺いますが、先般の証人喚問のとき、津村氏がいわゆる人民裁判というものに対して、それは人民裁判というものはない、兵士大会であるということを言われたのでありますが、あなた方の方でもやはり兵士大会というふうな名前で、みんなが呼んでいたかどうか、ということが一つと、その人民裁判とか、兵士大会とかいうものと、先程あなた並びに細川証人あたりが言われたカンパとか、吊し上げとかいうようなものと、別物であるかということを伺いたいと思います。
  247. 岡元義人

    岡元理事 各委員会にできるだけ一つ、大きな声で質問を願いたいと思います。
  248. 増渕俊一

    ○増渕証人 お答えいたします。兵士大会という言葉は、日本新聞が非常に書きたてておりました。自分達は直接もと兵の諸君と起居を共にしておりませんので、兵士大会という言葉は、これは一般労働者農民大会というような意味に使われたのか、それから暗示を受けた言葉なのかどうか知りませんが、自分等は日本新聞に確か昭和二十二年の中頃以後でありますか、ぽつぽつ見受けたように思います。で自分の判断としましても日本新聞でも必ずしも兵士大会とか、それから吊し上げとか、或いは何々摘発カンパという言葉をさまざまに使つておりまして、そこには日本新聞の方々においても、もうであろうと思いますし。又自分としましてもそこに何等本質的な差異はないように判断いたします。日本新聞に土でも、これは大体区別されておらなかつた
  249. 岡元義人

    岡元理事 連続質問をされるときには、進行上大体五分以内くらいに……
  250. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 連続して細川証人に伺いたいのであります。先程六月九日に五十九名の者が轉属になつて、その中で將校五十二名、准士官二名、下士官三名、兵二主というふうなお話がございましたが、この准士官、下士、兵士というのは何か特別な理由でやはり將校と一緒に轉属になるというようなことになつたのでございますか、ちよつとそれを伺いたいと思います。
  251. 細川龍法

    ○細川龍法証人 それは実質的内容は、どういうために行かせたか分りません。分りませんが、准士官で残りました佐々木、中尾というのがおります。中尾という者は即に津村達の言葉からは反動だということを言つておりましたし、或いは准士官を將校の部類と見て、將校と行動をさしたかどうか、それは疑問です。但し後の下士官、兵、その中に私も入ることになりますが、その他の下士官、兵は純然たる反動として常に注視されておりますので、私の判断といたしましては、先程申上げましたように、将校は当分帰れないというようなことを言われておりましたので、私も反動なるが故に当分帰されないから、行動を一緒にさせるのだ、こういう結論の下に轉属させられたものと信じております。
  252. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 私は阿部証人にお伺いします。阿部証人民主グループに入つておられたかどうか、入つておられたとすれば、いつ入つておられたか、一間一答で四つ程の点を……
  253. 阿部齋

    阿部証人 医務室の編成替えがあつたどさくさのとき、二週間だけ民主グループにさせられました。これは他の人達が推薦して來たのでありますが、但し二週間で止めたというのは、私のような者は民主委員は務まらないというカンパの下に、私は止めたのであります。
  254. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 期間は何年のいつからいつまでですか。
  255. 阿部齋

    阿部証人 期間は二十二年十二月の十四日から二週間程です。
  256. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 その場合は、ただのグループ員としてですか、或いはその頭としてですか。
  257. 阿部齋

    阿部証人 何でもありません。医務室の組織図というものを、前の人達が書いて來まして、その当時私は医務室責任者という形になつておりまして……
  258. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 青年行動隊とか、文化隊を作られたのはあなたではありませんか。
  259. 阿部齋

    阿部証人 それは杉田さん達が、こういう組織でなければならないというので、作り上げたものであります。
  260. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 それでは杉田、それは故人亡くなつたということですが、杉田氏を交えてのカンパというか、医務室でやつた……。その場合にカンパといつておられるが、カンパというのは大衆行動でしよう、あのときは組織部の方の連中と医務室の連中との懇談であつたというように聞いておるが、カンパですか。
  261. 阿部齋

    阿部証人 私はカンパと覚えております。それは民主グループからカンパに行くと通知して参りましたからカンパと覚えております。
  262. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 そこでさつきの話では、大体きめつけられた、押えつけられたように言われたと言つておりますがその通りですか。
  263. 阿部齋

    阿部証人 そうでございます。
  264. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 普通の懇談的なことはなかつたわけですね。
  265. 阿部齋

    阿部証人 ありませりません。
  266. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 それからそのカンパが起きるには、何かの事情がなかつたか、その事情があるとすれば……。ただでは起きていないだろうと思うが、そういうカンパというか、懇談会というものをなされたのには何かの事情があつたかと思うが、特別の事情が……
  267. 阿部齋

    阿部証人 特別の事情といつては認められません。先程申しましたよう医務室民主グループを盛んにしなければならんのだ、こういうふうに杉田自身が考え、杉田氏がそれに乘り出して來たわけであります。その後我々と行動を共にしている間に、民主運動というものから、どちらかというと遠ざかりかけた、この時期にカンパを受けたわけであります。
  268. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 さつきの話では杉田氏が浪花節を語つたりして呑氣にやつたということが示されたような話であるが、その時病院内で、病人なんかから不平が起きていなかつたのですか。
  269. 阿部齋

    阿部証人 病人からの不平は聞いておりません。
  270. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 異常のないところでカンパというものが起きたということでありますか。
  271. 阿部齋

    阿部証人 そうです。
  272. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 阿部証人に対する私の質問を終りまして、細川証人にお尋ねしたいのですが、よろしいですか。
  273. 岡元義人

    岡元理事 どうぞ。
  274. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 細川証人にお伺いします。あなたの先程からお話のあつたことは、相当長くて、内容がなかなか豊富なようであるが、相当具体的にして貰わんと因る。蒙古から女達が三十人程ナホトカへ來た、そのときに土運びをさせられたというのであるが、それはどこで誰がさせたか、場所と、それからさせた人達と、それをはつきりさして貰いたい。
  275. 細川龍法

    ○細川龍法証人 先程申上げて置きましたが、当時私が第一收容所の管内におりまして、そうしてその当時第二收容所というのは、鉄柵を廻しましてすぐ隣りが第二收容所であります。鉄柵一つでございまして張線一つ引いてあるだけでありますから、こちらの方から向うの行事が全部分るのでございます。先程言いましたが六月中旬でございます。これは蒙古からということは私申上げておりません。いずれかの地から引揚げのためにナホトカに集結したのでございます。そうして私がその現実を見たのでございます。但し皆さん証人の方なども知つておられると思いますが、第一第二を通じて柵外の方に便所がございまして、五百米も千米もあるところを便所に行く、そこに私も出掛けて参りました。そうすると土運びをしている女がおりますので、あなた方どうしてやつているのですか、こう言いますと、民主グループの人達が思想教育をして來られました。そのときに私たちは、我々は日本人だ、こういうようなことは日本に帰つてからでもできるというようなことを不用意に言つたために、反動だ、そうしてこのように重労働を強要されたのです。こういつてその女が重そうにもつこを担いで帰つて参りました。
  276. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 柵がしてあつてお互に話し合うよう状態にあつたのですか。
  277. 細川龍法

    ○細川龍法証人 そうです。便所に行くとき第一收容所も、第二收容所も裏のところに出入口がありまして、そこから通行いたしておりましたから……
  278. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 土運びの人達から、反動的なことを言つたというのをお聞きになつたのですか。
  279. 細川龍法

    ○細川龍法証人 そうです。
  280. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 反動的というのをもう一遍説明して下さい。
  281. 細川龍法

    ○細川龍法証人 それは御承知のように私がそういう立場におりましたので、その労働を強要されております女と長い時間立つてお話をしておるということが他の眼につくということを非常に虞れたのであります。それがために、それだけのことを聞いて私は帰つて來ました。
  282. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 それはそれとして、ウランバートルから來た千田少佐、その人を見てあなたは直ぐ同縣人だとお考えになつた、それはどうして直ぐに分りましたか。
  283. 細川龍法

    ○細川龍法証人 考えたわけではございません。そのときそこにおつた部隊の人達に聞いたのでございます。今千田という少佐が出されたが、あの人はどこの人だと言つたら、あの人は岩手縣の人だと言つておるのを、私通り歩きしておつて聞いたので、それではと思つたのです。聞いたのです。
  284. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 宮崎軍医が、細川が、あなたが病氣であるから放つておいてはいかんから早く船に乘せて帰したいと、さきの証言であつたようですが、それはその通りですか。
  285. 細川龍法

    ○細川龍法証人 その通りです。
  286. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 矢島とか、津村という二人の人達が、細川氏は神経衰弱であるから、成るべく仕事はさせずにおこうというような取計いをやつたというようなことをあなたは聞いたことがありますか。
  287. 細川龍法

    ○細川龍法証人 ありません。
  288. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 それでは先程森脇という血盟團に属する人ですか、「ほりもの」をしておる人のことを立派な者だと言われだが、立派な人という意味はどういうことですか。
  289. 細川龍法

    ○細川龍法証人 それは各々の観方があると思いますが、非常に理解のある一つの常識人として最後まで行動いたしました。それから常識人としてというか、お互い苦しい中であつても、労働なども勤務の割当があつた場合でも積極的に行く、或いは室内の清掃等においても自分から進んでやるとか、或いは仕事をやる上においてもやつたあとを非常に奇麗にするとか、なすことすべてが盡く、態度におきましても紳士的に振舞つて最後までそれを通した人です。
  290. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 「ほりもの」をほつた一種の團体をなしておつた血盟團と言いますか、それはどういう團体ですか。
  291. 細川龍法

    ○細川龍法証人 その團体の内容は、結成された当時私は同じ收容所におつたわけではありません。但し本人の森脇竹市から私が聞いたところによりますと、日本新聞を通じて再三再四連続的にこのような思想教育が行われておる、我々は飽くまでも日本人であるから、こういうような場合には迷わずに今までの組織で、今までの結ばれた友情によつてこのまま内地まで保ち堪えよう、こういうようなことが動機でそういう会が結成されたということを聞いております。それ以上詳しい事項については分りません。
  292. 岡元義人

    岡元理事 ちよつと細川委員、まだ質問を続けますか。後留保して頂いて、後二十分しかありませんから、各委員質問もあるようですから……
  293. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 今までの組織で、やり方で、それを持続して行きたい。それはどういうことになるのですか。
  294. 細川龍法

    ○細川龍法証人 その内容は分りません。
  295. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 分らない。それではあなたは途中で收容所班長ですか、班長をやつておられたのでしよう責任者になつておられたでしよう
  296. 細川龍法

    ○細川龍法証人 どこですか。
  297. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 ナホトカですね。それを罷めさせられたのか、辞めたのかそういうことはないですか。
  298. 細川龍法

    ○細川龍法証人 勤務隊の委員長をやつておりましたときは罷めさせられたのでなくして、辞めました。
  299. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 どういう理由で辞めましたか。
  300. 細川龍法

    ○細川龍法証人 私がおるということが、勤務隊が新聞社になり、或いは民主グループなりに対して、非常に折り合いがまずい、そういう声がありましたので、それじや私が辞めて、一般として行動しよう、こういうことで私の方から自発的に辞めたのです。
  301. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 あなたはもう一つのさつきのところ、ナホトカに來られる前におられたところ、そこからおいでになるときは委員長民主グループ委員長だという触れ込みで來られたというのですが、その通りですか。
  302. 細川龍法

    ○細川龍法証人 そうです。
  303. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 そういう知合いで、そういう責任者になられたわけですね。そこであなたはどうして最後の乘船間際に取残されたのですか。その事情は……先程もお話があつたから、はつきりしたいと思います。
  304. 細川龍法

    ○細川龍法証人 何ですか。
  305. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 乘船間際になつてあなたの方が取残されたという事情をはつきり言つて下さい。
  306. 細川龍法

    ○細川龍法証人 それは津村氏が、後日あの人が、私が残してまつたこういうことを公言したのでありますが、その残される内容についてはどういう審議でどういう経過で残されたかは、私にはわかりません。
  307. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 津村氏が、私が残したのだということをあなたは言われたが、それは誰にお聞きになりましたか。
  308. 細川龍法

    ○細川龍法証人 それは私自身が聞きました。同時にそこに居合せました約二百名の將校を中心にしました証人がおります。
  309. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 つまり津村氏が直接にあなたに言うたということになりますか。
  310. 細川龍法

    ○細川龍法証人 私に直接向つて言いませんが、こうして幕舍のところに参りまして、そうして勤務隊の全員がおりますときに、そういうことを廣言いたしました。
  311. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 あなたはそこで、現場で聞いおりましたか。
  312. 細川龍法

    ○細川龍法証人 おりました。
  313. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 見ておつた……
  314. 細川龍法

    ○細川龍法証人 おりました。
  315. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 それで終ります。
  316. 岡元義人

  317. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 一つは浦田さんにお聽きしますが、杉田さんが多分投身されたであろうというお話でありましたが、これを現にどなたか目撃された方はなかつたですか。
  318. 浦田孝之

    浦田証人 別にありません。
  319. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 次いで二、三お尋ねいたします。別のことを……、最前細川さんだつたと思いますが、発言の中途で委員長から御注意があつたので、それが切れたわけですが、味噌とか、醤油とか、砂糖というようなものを結局不正な手順で取つて、そうしてそれを自分達が他の者より、より以上に之を消費したという意味のことを承つたのでありますが、その事情をちよと御答弁願います。誰がどういうふうにやつたか……
  320. 細川龍法

    ○細川龍法証人 お答えいたします。時期は昭和二十二年の五月初めだと思います。常に隣りの部屋が先程申上げましたように、婦人の部屋でございますから、そこに出入る民主グループというものを大体目撃しておりましたし、お砂糖を下さい、或いはお醤油を下さいといつて、その部屋に入つて、その女の人達から貰つて行く姿を私達が目撃したのであります。或る日曜日かと思いましたが、丁度五月でもありますし、私達が海岸に参りまして、小さい「かに」を取つて來たのであります。飯盒に入れて小「かに」を取つて來ました。そうして彼女達を呼びまして、あなたのとこには砂糖、味噌、醤油もあるようだ。そうしてあなた達ばかりで食べないで私達にも一つ料理を作つて下さい、そう私が言つて頼んだことがあります。そうすると彼女達は直ぐこちらの希望を入れてくれまして、直ぐ天ぷらなどを作つて、そうして持つて來て呉れた事実がございます。
  321. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 彼女達というのはどういうようなグループですか。
  322. 細川龍法

    ○細川龍法証人 ナホトカ民主グループは婦人部を持つていたわけであります。
  323. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 阿部さん、細川さん、中村さん、増渕さん、福富さんにお尋ねしますが、そういうような一つの民主グループの諸君がカンパをやる、或いはくくり上げ、そういうようなことが行われる度に一般的に暴力行爲が行われたかどうかについて、それぞれ今指名しました方々の御証言を頂きたいと思います。一般にどういう傾向があるか。
  324. 阿部齋

    阿部証人 先程自分が一番最初に簡單に言いましたが、自分の経験するカンパということについて申上げればよかつたのでありますが、つい杉田さんのカンパ状況だけを申上げましたたので、そこに触れておらなかつたのであります。その点までよろしうございますか。
  325. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 どうぞ。
  326. 阿部齋

    阿部証人 杉田さんのカンパはそれだけにつきまして、外に私の目撃したカンパ、その中に、只今これから申上げます暴行行爲も含んで申上げます。先程細川証人が申しましたが、千田少佐のカンパ、これは蒙古梯團の第一梯團であります。この千田少佐が來ましたときに先程の兵云々から始りました。その際千田少佐が壇上に立つて話しておる際、こら貴樣らのような者は駄目じやないかというので肩を突かれて、こういう壇に立つて話しておるときに身体が横に、帽子がふつ飛んだという例があります。又小林少尉は、千田少佐の方の小林少尉は暴行を以て階級章を取られております。又千田少佐と一緒に來た中尉の中に鯉渕中尉という方があります。兵隊さんの中からそうじやないのだ、將校さんの方の言うことを聞いてくれ、こういう護衞のつもりで言つたことを逆に利用されたようになつたときに、この鯉渕中尉が立ちまして、君ら何んだ俺に対して喧嘩を貰るのかという、こういう言葉で壇上から叫んだのを覚えております。要するにその場の状況はそこまで激昂しておつたということが十分知り得るのじやないかと思います。それから第二回の私の目撃したカンパは、長命中佐殿のカンパであります。その方のときのカンパの中に長命中佐は、糧秣は途中でお前らに出せなかつた。一日分食わせなかつたとか……。或る兵隊さんが立ち上りまして、それに対する責任は隊長殿ではありません。私が申述べます。こういつたときに津村氏が默れ、津村氏がいきなり默れという言葉を以て、その兵隊の発言を封じました。後しばらく経つて氣がつきました。あなた兵隊さんですか、こう聽き直しました。それじや又後から伺います。こうでありましたが、あの際默れというようなごときは裁判と申しますか、その大会と申しますかにおいては、少し度が過ぎておるのじやないかという氣がしました、それから最後に私に直接來る第二回目ナカホト通過の際の状況を申上げます。先程こちらの増渕証人が申しましたように、最初紙芝居をやるから集つてくれ、その紙芝居の場所というのは、丁度天幕と天幕があつてその中で行われました。紙芝居は入口の側、奥の方の狭いところで湧々観客が入つて聞くという形でありました。そのうちに先程ありましたように、内容は「暁に祈る」やら何やらあつて、その後において盛んにいわゆる反幹部闘爭的な言辞を用いて來ました。直接私はその渦中には入らず、その前に今までのナホトカに起きた勤務の経驗から、これは中に入ると嫌な思いをしなければなんと思いましたので、天幕の外でそのときは見ておりました。そのときにロシアが君らの身分というものを認めて作業をさせないということを君らは何と思うのか、そういうことにまで君らは恩義を感じないのか、それじや馬鹿者だ、恩を感じないような者は馬鹿者だというような暴言を吐いております。尚増渕証人言葉にもありました通り、こちらからもその言葉が相呼應するものがあるのじやないかというお話があつたと思いますが、その通りであります。こちらから山口、飯田ですが、この將校が出て話をしましたときに、私はもう何も申す予定はありませんでしたが、夕方に入りまして、丁度暗くなりました。当時二、三將校がおどおどし始めておるのであります。どうしたのか、こう状態を聞きますと、実は暴行を以て強迫された、或いは直接便所へ行くのを無理に帽子を取られて、星章を取れ、お前が取らないのか、お前の帽子だからお前が取れというようなことを言われて突きつけられた。そうしてつい私は取りました。或いはそれと同時に私は便所へ行くからそんなことは知らん、俺は便所へ行くんだ、取れないか、一生懸命取つたが取れない、最後に口でこうやつて星章を取つた、こういうのであります。それでこの状態ではいかんというので、小林隊長殿、是非今のうちに事故防止のために幹部までこの状態を申述べて欲しい、こう申したのであります。
  327. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 よろしうございます。それではその次に、一般的に或いは暴行、或いは貴樣そこに立つておれというような体罰的な暴行が一般の風をなしておつたかどうか、そのことを次の方々はお答えを願いたいと思います。
  328. 岡元義人

    岡元理事 要点だけに願います。
  329. 細川龍法

    ○細川龍法証人 直接暴行というものを余り目撃しておりません。但し暴行というより強迫の方が多かつたと思います。
  330. 中村良光

    ○中村証人 一般的に申しますと、直接に暴行は加えておりません。併し不動の姿勢をとれとか、少し休めをしておると、氣をつけをせいというようなことは目撃しました。
  331. 増渕俊一

    ○増渕証人 大体阿部証人その他が申された通りであります。なお労働に疲れて一人二十五センチぐらいの板の上に夜坐つておりますが、そういうときには、カンパやいろいろな講習会がある。そういうときにきちんと座を正しておらないと一々言つて來て起きろ、起きて聞きなさい。そういうふうに一一廻つて、中には名前を控えて行くというようなのもありました。
  332. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 坐るというのは何に坐るのですか。
  333. 増渕俊一

    ○増渕証人 要するに板の上に毛布を敷いて一人二十五センチぐらいの二段の裝置で、俗に鶏小屋といつておりましたが、そういうところに入れられておるのであります。
  334. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 寢るところですね。
  335. 増渕俊一

    ○増渕証人 そうであります。朝、晝、晩いろいろなカンパとか講習会があるわけであります。要するに共産主義の教育があるわけであります。殊に疲れて足を出したり何かすると、それを一々訂正させる。その他、一般には恫喝的の言辞を弄する。例えばそこで今横を向いた奴は前に出ろ、殊に先程の紙芝居のときなどは、小林少佐はどこに行つた、連れて來い。そこで脇見をした奴は前に出ろというような言辞を弄し……
  336. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 よろしうございます。最前穗積委員からお尋ねがあつたのに対するお答とちぐはぐしておると私は思つております。いわゆる人民裁判というようなふうに言われていたのは、あなた方日本人の、いわゆるそれを受ける同士の間において通用しておつたのですか。それはいわゆる人民裁判をやる方の諸君は兵士会議といつて、受ける方の諸君はこれを人民裁判という言葉で互に語り合つてつたのですが、その点どうですか。
  337. 増渕俊一

    ○増渕証人 お答えいたします。本日の最初に申上げました通り、私共はソ連におります間は人民裁判という言葉は使つておりません。これはロシアの司法制度にそういうものがあるということを聞いておりましたけれども、それから又中國において中共軍によつて……
  338. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 ナホトカなんかではそういう会合のときに、人民裁判を受けるというよう言葉を使いませんですか。
  339. 増渕俊一

    ○増渕証人 使いません。
  340. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 そのときは兵士会議といつておりましたか。
  341. 増渕俊一

    ○増渕証人 兵士会議という言葉も使いません。
  342. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 何と言つておりましたか。
  343. 増渕俊一

    ○増渕証人 大抵はカンパ乃至は先程申しました吊し上げであります。吊し上げが最も通用しておりました。
  344. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 福富証人に先程お尋ねしましたことについて御証言願います。
  345. 福富春雄

    ○福富証人 一般的に申上げてそうした暴力行爲は見受けられませんが、それに類似したものはありました。即ち病氣、特に呼吸器を患らつておる患者で微熱が出て苦しいときにも、無理にそういう集会に出席させるということはしばしばありました。それから私がこの際特に申上げたいことは、マルシヤンスクにおいて石川、山崎事件というものがありまして、これは民主グループの体面を重んずるところの越権行爲によつて、遂に投嶽されて、帰還名簿に載つておりながら帰られなかつた事件がありました。
  346. 千田正

    ○千田正君 重点主義に一つ増渕証人にお伺いしますが、このナホトカにおけるところのカンパ若しくは吊り上げというような、いわゆる内地においては人民裁判と称せられるようなものは、絶対に避けられないものであつたかどうかということと、あなた方はその大会に出席した場合に、これは先程の津村以下の言うことは、ソヴイエート政府の絶対命令であるがごとくあなた方は受取つたかどうか、同時に十八名あなた方が残されて、そうしてスーチヤンに戻されるというような場合でも、これはソヴイエート側に当然その理由を申述べて、帰還すべき筈であるにも拘わらず、そういうことの手続が絶対取れない程民主グループの力というものは、ソヴィエートの庇護の下に置かれておつたかどうか、この点について御証言を願います。
  347. 増渕俊一

    ○増渕証人 お答えいたします。なかなかむずかしい問題であります。第一番の大衆カンパが避けられなかつたかどうか、この点につきましては、これは他の一般ラボートの問題とも関連するのであります。それから又吉村隊事件などとも関連して考えなければならない問題なんでありますが、要するに自分達が、いわば在ソ日本人が、いろいろな國際法規なり國内法規なり慣習なり、そういうものに非常に疎いの血迷つてつた、どうしていいか分らなかつたということが大きな、殆んどそれが決定的な原因でありまして、例えばそういう大衆カンパようなときにも、いわゆる殆んど大半のものは内心では承服しておらんのであります。極めて不自然なのであります。今回の吉村隊事件のことにつきまして、宇都宮で地方檢察廳から取調べを受けた渡辺という男がおります。これに自会つたときに、その男から聞いたのでありますが、それはいわゆる吉村隊カンパに居合わせてそれを目撃した。併しあれは不自然であつた。決して自然的に起つたものではなかつた。明らかに作爲されたものであつた自分達は不愉快に思つたということをはつきり言つておられました。自分が体驗して來ました範囲では、すべて状況はその通りであります。でこれを避けることは、これは結局我々自身の何と申しますか、確信と申しますか、敗戰後の日本民族の自信のない状態、それが結局避けらるべきものを避けさせなかつた。又それほどに、その当時の状況はある権威をもつて釀成されておつたというふうに御推察を願いたいと思います。
  348. 千田正

    ○千田正君 関連して……。今のあれだというと、あなた方の場合は非常に虚脱状態にあつて、去就に迷うよう状態にあり、十分な正常な氣持を取り戻すことができない状態においてこういう問題を起したのだから、止むを得ないのである。こういうわけですね。
  349. 増渕俊一

    ○増渕証人 そうであります。
  350. 千田正

    ○千田正君 そうすると、これは大衆カンパはソヴィエト政府の命令か、或いはサゼツシヨンかによつて起されたものであるというふうにあなた方は考えられましたか。それともこれは全然ソヴィエットの命令とは違つて、そうして大衆だけの、いわゆる兵士だけのカンパで、一部の人達の仕事によつてこれはなされていたと考えられましたか、その点を一つ。
  351. 増渕俊一

    ○増渕証人 お答えいたします。その点につきましては結論を申上げますと、自分としてははつきりと、それが或る國の指示によつて行われたものであると言うことはできません。但しこの点ははつきり申上げることはできます。前回申上げました通り、あの日本新聞という赤軍の機関紙があります。この上で、兵士大会とか、反動の摘発とかいうことは明瞭に指令されております。それだけは申上げることができます。
  352. 千田正

    ○千田正君 あまり時間は取りませんが……。増渕証人の知つておる範囲内で乘るべき、帰還すべき、乘船すべき人々が残されたという人数はどれ位ありますか。あなたの記憶のうちで……。もう一つは細川証人にお伺いいします。あなたは比較的長くおられたようでありますが、あなたがあすこに滯留中、あなたの眼で見た人達の中で、何名位帰還名簿の載つておりながら帰れなかつたという人が、あなたの記憶の中に何人位あつたかということをお答え願いたい。
  353. 増渕俊一

    ○増渕証人 お答えいたします。場所をナホトカだけに限定してお答えいたします。自分の直接知つておりますナザート後退の組は、二十三年の二月頃長命中佐以下二十名、これは元將校だけであります。それから同年四月十三日増渕以下十八名、それから七月末頃だつたと思いますが、同じく元將校の武田、これは札幌の人であります。それから小竹元中尉それを含めまして六名、それから同年九月の末頃だつたと思いますが、ウスリー沿岸の草刈の労働隊がありました。六十何大隊とか言つておりましたが、その草刈労働大隊の草刈の、千草作業に從事しておつた労働大隊の指揮官をしておつた將校約三名、尚そこに留め置かれた人も、福富証人なんかそれでありますが、あすこからバツクさせられた人は以上であります。
  354. 千田正

    ○千田正君 細川証人に伺いますが、今の増渕証人の以外で、あなたの知つておる人数を記憶にあるだけお答え願いたい。
  355. 細川龍法

    ○細川龍法証人 お答えいたします。この残されて帰りました者でも、区分しなければいけないと思います。それはナホトカまで帰るために來たには違いありませんが、その場合でも、ソ軍側の方でそのまま作業隊にすぐ轉用したという場合もありました。同時に、或いは民主運動不活溌なるが故に帰さないのだと、こういうのと、民主グループなどの摘発するところとなつて摘発した者を、更にソ軍側の方に進言する。そして名簿から削除するという、個人的に残された者と、こういうふうになりますが、大体私の見ております範囲において、ナホトカに來て逆送された部隊、これは約三千以上あります。
  356. 千田正

    ○千田正君 三千ばかり……。
  357. 細川龍法

    ○細川龍法証人 但しそれは内容においてどういう内容であつたか分りません。その場合……
  358. 千田正

    ○千田正君 何年から何年の間ですか。
  359. 細川龍法

    ○細川龍法証人 私は二十二年の四月十二日から、同年の十二月二十四日までおりました。そうしてその中で行先の分つておりますのは、ナホトカの我々のおります收容所の直ぐ裏の方で、建築作業をやつておりましたのが、大体建築作業二百名位です。その外にその地区から幾らも離れないところに、約四キロか五キロ離れました所に、約千名の者がそこに作業隊を組織いたしまして、農場に働かされておりました。それからスーチヤン地区に轉属になりました部隊は二百名程おります。これは伐採作業をやつておりました。それから五十三ラギルというのがございますが、それに所属する我々が引揚げて來る港で在留をさせられて残つておる部隊、こういうのも五百名くらいあつた筈であります。
  360. 岡元義人

    岡元理事 今の証言中に、ナホトカの第三百八十收容所というのはその中に入つておるのですか。
  361. 細川龍法

    ○細川龍法証人 その内容は私ははつきり分りません。それから個人的にやはり名簿が乘船する場合に理由不明で残された、名簿がなかつたというのと、それからお互い日本人同士で、自分が帰るために一人の罪人を残して行くというような場合もありました。こういうのが民主グループの方に密告いたします。民主グループの人達が、それを逸早く控えを取りまして、これは反動であるから残して呉れと、重要なことをソ軍側の方に意見具申をする。そうすると、そうされた者は、速かに乘船名簿を作成する場合に、タイプライターで打つのでありますが、それをオミットされるわけでございます。そうして残されたのは、將校という身分を度外視して、兵隊だけでも約二百名ぐらいおります。それは先程申上げましたが、反動として指摘されて残された者と、或いは理由不明にして残された者と、合計して大体そんな見当でございます。以上です。
  362. 岡元義人

    岡元理事 時間も経つておりますから、淺岡委員簡單に……
  363. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 増渕証人と細川証人にお尋ねしたいのですが、簡單なお答えでよろしいのですが、そういうふうに奥地に帰されるとかいうような場合の指令と言いましようか、命令と言いましようか、そういうようなものは、その民主グループ、或いは津村、そういう一党がするのですか、或いは、ソ側の正規の手続でそういうふうな命令收容所内に來るのですか、それを一つ細川証人からお願いましす。
  364. 細川龍法

    ○細川龍法証人 その細部の交渉内容については、私は分りません。但し、私も暫く管理部の方におりましたので、その雲行は大体分ります。ソ側の方から、今度來た梯團を、あそこに何千人あると、あの中で実際直ぐここに五百名なら五百名という人間を欲しいのだということで、作業隊を編成して行くと、それがために軍医を独り立てて、すぐ身体檢査をいたしまして、健康な者だけを必要な数だけ持つて行くと、こういう場合がございました。これは直接ソ側の方からの指令だと思います。  それから別の方法で、暫くナホトカにおりまして、どうも中隊として思わしくないからというような進言だろうと思いますが、やはり反動として残された隊が逆送されたという例がございます。  それから個人的に残された場合なども、大体奥地の方から來た者に対して、ソ側の方で、或いは憲兵だとか、或いは警察だとか、或いは法務関係だとかいう特殊な関係で指名して來たという場合もあり得ると思います。その者は残すということは、あり得たかも知れません。併し大体日本人がそうして集團をなして來る場合に、ソ側がそこまで目が届いて監視をするかどうか、これは私が長い期間見ておりました判断によりますと、正しく民主グループの動き如何がそうさしたと私は信じております。
  365. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 続いて増渕証人にもお願いします。
  366. 増渕俊一

    ○増渕証人 大体細川証人と同じであります。ナホトカにおきましても、我我ソ軍の將校と接触する機会は殆んどありません。絶対と言つていいくらいであります。で、ただ室内にときどきソ軍の將校が廻つて参ります。尚いろいろ講習、カンパが行われておりますときに、日本語のよく分る將校が、それを後ろで看守つておりました。その程度でありまして、それからもう一点は、今まで奥地の方で取調べがあつて作られた名簿というものが、ナホトカまで着いておらんようであります。自分ら全然新たにいろいろ取調べを受けたよう状況でありまして、書類がついて廻らないのであります。そういうような点からしまして、明らかに個人的ないわゆる後送というのは、これは日本人の相当な判断でできるものであると思います。
  367. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 細川証人にお伺いします。細川証人は上申書をソ側に出されたということでありますが、それは民主グループの人達の手を通じてお出しになつたのですか、直接ですか。
  368. 細川龍法

    ○細川龍法証人 それは私直接司令部に持つて参りました。
  369. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 司令部に持つて行かれて、どなたにお渡しになつたのですか。
  370. 細川龍法

    ○細川龍法証人 大尉の方がおりまして、大尉の方にお渡しいたしました。
  371. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それはいつでございますか。
  372. 細川龍法

    ○細川龍法証人 二十二年の九月の十三日でございます。
  373. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それからその上申書をお渡しになつて、それから後に津村からその問題に対して責められたという期間は、どのくらいの日数を閲しておりますか。
  374. 細川龍法

    ○細川龍法証人 大体一週間ぐらいです。
  375. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 これは阿部証人、或いは細川証人、増渕証人、中村証人、いずれでも結構でありますが、ソ側においては日本人の捕虜に対するちやんと決定した書類があるということをさつき細川証人が申されておりましたが、そういうようにいわゆる兵士大会とか、或いは大衆カンパとかいうような場合において、襟章をもぎ取るとか、或いは階級章を取るというような場合において、そういうふうものはちやんとソ側にはつきりと、將校は將校としての待遇と申しましようか、相当の処置をされておる、そういうような問題に対して民主グループの連中がやるというような場合に、そういうふうな点をソ側に言われたことがありますかどうか。
  376. 阿部齋

    阿部証人 申上げます。二回目通過の際には、その状況ソ側まで申述べました。直ちにソ側の政治部長殿、中佐の方でございます。デーキンという第一分所の收容所長の方を連れて参りまして、これは管理部長知つておるかという質問がありました。知つておると、隊長の小林少佐の方から一應この状況をば申上げた筈であると申しましたところが、管理部長知つておるかと、管理部長は、知つておると、管理部長は、更に組織部長の方に、知つておるかという質問をいたしました。知つておると、そうして私に向いまして、これはソ連の眞の姿ではない、ソ連の眞の意思ではない、一部日本の兵隊さんの悪徳行爲であるから、それは私の監督も悪かつたろうと、帽子を取つて謝られました。
  377. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 その謝られたというソ側の將校の名前は分りますか。
  378. 阿部齋

    阿部証人 名前は分りません。ナホトカの政治部長をしておられました、非常に日本語の達者な方でありました。
  379. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 委員長簡單にもう一つだけ……。実はまだ五六点質問の要点がありますが、明日に留保いたします。
  380. 天田勝正

    天田勝正君 明日証人も代ると思いますので、他の諸君がずつとやつて参りまして、私共は遠慮しておつたところが、今度は、時間がという文句を受けてはたまらん。そこで私は、続いて証言を求むるか、さもなくんば、ここで明日如何なる証人を招致するかをお決め願いまして、それに対して一應諒とするかしないかを決定したいと思います。
  381. 岡元義人

    理事岡元義人君) この際お諮りしたいと思いますが、先程委員の方のまだ出席されなかつた方がございますので、最後まで延ばしたわけでありますが、明日只今出席されております証人の中でどなたとどなたに残つて頂くか、これをお諮りしたいと思うのであります。只今までに各委員の御意見を承わりましたところが、阿部証人、細川証人、中村証人、増渕証人、それだけは残つて頂きたいと、こういうことであります。内容を申上げますと、以上四名の方は、過半数の希望になつておりまして、後はおのおの一、一、一、になつております。
  382. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 大体それでよろしいかと思うのでありますが、更に証人の中で、五月十二日の証人として残留し証言を希望するといいますか、立ち会いたいというような人があられれば、それを一應委員長の方から今残つている浦田とか、杉田とかいう証人にお聞きになつて頂きたいと思いますが……
  383. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 私は杉田証人、それから浦田証人に明日も出て欲しいということを希望しているのです。私まだ質問せずにいるんですし、又重大なことも残つているんですから……
  384. 北條秀一

    ○北條秀一君 議事進行について、只今の問題は、証人を明日残すか残さんかという問題は、今決まつたようですが、細川委員から更にそれについて他の二人の証人を残して呉れという希望がありましたが、本日委員会側が必要とすべき証言を求めて、若し明日証言を必要としないという結論に達すれば、必ずしも証人を残す必要はないと思うのです。從つて私は今日までの経驗に鑑みて、できる限り証言を求め得る者は今日中に求めて、各証人の御都合もあると思いますから、成るべく明日に残つて貰う証人は数を少くした方がいいと考えております。從つて委員長の方ではどういうふうにお考えになつているか知りませんが、今日は時間がないという話でありますが、私はできれば若干の時間を延ばして貰つて、この際できる限りの証言を求めて置きたいというふうに考えます。從つて細川委員が二人の証人……と言いますと、全部の証人を明日残せということですが、私は全部の証人を残さんでも、今日中に若干の時間で済ましてしまえば、証人を少くできますから、先程決まつたように四人の証人だけで、後の証人は細川委員、或いは私も若干の質問がありますから、それだけを少し時間を延ばしてやつたらどうか、これは私の議事進行についての意見であります。
  385. 岡元義人

    理事岡元義人君) 北條委員に申上げますが、先程各委員にお諮りいたしまして、本日は五時半までということが一應決定されているのであります。で多少時間もすでに延びておりますので、只今の御発言がありましたが、又改めて延ばすということでありますならば、これは一應お諮りしなければならないと思います。
  386. 北條秀一

    ○北條秀一君 私はそういうことだと思いましたので、実は五時半を過ぎまして六時になりますので、それで私は今申したのですが、改めてあと三十分延ばして証言を求めるということにお計い願いたいと思います。
  387. 岡元義人

    理事岡元義人君) 北條委員に一應申上げて置きたいことがあるのでありますが、まだ殆んど中途でありまして、まだいろいろ関連して質問が留保されていると思うのであります。それで三十分間程度延ばして見たいところで、これは中途になるということが考えられますので、明朝は十時から開会いたしますので、尚本日の質問を留保してあるものから続行して行きまして、そうして明日のいわゆる時間は今北條委員の申出もありますので、明日でお決め願えればいいと思うのであります。
  388. 北條秀一

    ○北條秀一君 更めて議事進行について……、それでは分りましたが、細川委員の言われました追加された証人二人を呼ぶという動議を諮つて頂きたい。私は先程委員長から言われました過半数によつて決まつた四人の外に、細川委員が更に二人を残せという動議に賛成いたします。
  389. 岡元義人

    理事岡元義人君) まだ動議になつておりませんので……
  390. 天田勝正

    天田勝正君 動議になつておりませんが、意見を申上げます。杉田証人から聞く要点というものは、御当人が、死亡されました杉田氏が一緒におられたわけではないのです。從つて聞くことは民主グループとして、或いは普通の收容者よりも相当自由な立場に置かれておつたであろうという想像からいたしまして、それらのことからして、通信等によつて普段の状態というようなものが分りはしないか、こういうことであろうと思うのであります。先程も文書によつて読まれるようなわけでありまして、これ以上証言を求めても、ただ心理的な主観的なことを聞くことはできても、客観的なことは恐らく聞けまいと思います。それから浦田証人にいたしましても、やはり殆んどこれと揆を同じうするのでありまして、こういう点からも、何も明日まで延ばして喚ぶ必要はない、こう考えます。福富証人これ亦同樣であろうと考えます。而も福富証人に聞き得る点ならば、他の四証人によつて証明し得ることではなかろうか、かように考えますので、私は明日の証人は先程委員長が諮られました四名に止めるという意見を申述べます。
  391. 北條秀一

    ○北條秀一君 只今天田委員お話は分りましたが、細川委員質問したいというから、簡單に短い時間で質問できるなら今日やつたらいい、併しその細川委員の希望をここを抑えつけても止めるということはやらん方がいいというのが私の考えなのです。そういうふうに御理解願いたと思います。
  392. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 この二人の方に残つて頂きたいというのは、先程の証言で船中から飛込んで死んだということは確定されたようであるが、そこに私は疑があるものだから、こういう点については二人の方に残つて頂きたいと思つたのであります。
  393. 岡元義人

    理事岡元義人君) それでは多少時間を延ばしまして、細川委員発言を許しますから、できるだけ簡單に質問して頂きます。
  394. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 浦田証人にお尋ねしますが、あなたが杉田氏が海に飛込んだということを発見して、他の方と一緒に尋ねられたわけであるが、実際どういうようにして、もう確かに海に入つたということを確認されるに至つたのですか。その点はつきりして頂けませんか。どこかに隠れておつたとか何とかいうことがあつて、場合によつてはそれが巧に隠れておつたので、舞鶴からどこかに逃がれたというようなことも考えられるわけであるが、はつきり海に飛び込んだのであるということを証言できますか。
  395. 浦田孝之

    浦田証人 お答えします。大体杉田氏がいなくなつたのは僅か二分か三分の間です。その二、三分の間にいくら隠れようとしても、そううまく隠れられるものじやないと思います。そうして全員を起しまして、船内を隈なく捜しました。併し見当りません。よつて飛び込んだと思います。
  396. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 船全体が尋ねたというが、どういうような手で……
  397. 浦田孝之

    浦田証人 とにかく直ぐ中隊長の方と、それから船の係りの方と連絡をして、そのとき乘つてつた人達を全部起して貰つて、そして捜索して頂き、そして船の方にも協力して頂きました。
  398. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 実はこれについて疑があるものだから、こういうふうにしつつこく私は尋ねるわけであるが、それで船内全の人達が、どうしてもおらん、どこを見てもおらんというので、そういうふうに決つたのですか。
  399. 浦田孝之

    浦田証人 そうです。
  400. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 舞鶴に着いてからいろいろの調べがあるでしよう。あのときにあなたは杉田君についての調書か何か、そういうようなものを見られたことはありませんか。
  401. 浦田孝之

    浦田証人 ありません。
  402. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 ないですか。
  403. 浦田孝之

    浦田証人 はい、
  404. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 浦田さんはそれでよろしうございます。杉田証人にお聞きしたいが、御主人からの書面で、何か舞鶴に着いてからとか、舞鶴についてとか、そのことについて何か書面の中に書いておられたことはありませんか。舞鶴はどんなところだとか……、何かそういう舞鶴について手紙に書かれたものはありませんか。
  405. 杉田たず

    杉田証人 今日読みましたあれだけを聞かして頂いたわけなんですけれども、もつと私としては、はつきりしたことが聞きたいのでございますけれども、もう一人の附添の大井さんという方にも詳しいお話を承わりたいと思いますけれども……
  406. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 書面の中に、何か舞鶴のことについて、御主人があなたのところに書いて來られたことはありませんか。
  407. 杉田たず

    杉田証人 いいえ、何にもありません。
  408. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 そういうものはありませんか。
  409. 杉田たず

    杉田証人 ただもう遺留品だけ雜嚢の中に歯磨とか、箸筒とか、歯ブラシとか、そういう日用品がごたごた入つてつただけで、それから家から送つた家族の写眞と子供の写眞があつただけで何も別はございません。
  410. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 ナホトカに御主人がおられたときに通信があつたでしようナホトカからあなたへの通信の中で、舞鶴がこわいとか、何とかいうことを書いてなかつたですか。
  411. 杉田たず

    杉田証人 主人からはナホトカからの便りは参つておりません。
  412. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 そうですか。それではよろしうございます。それから浦田証人にお聞きしたいのですが、あなたが杉田氏に附添つておられた間、船ばかりでなしに、ナホトカでも……、その場合に杉田氏が舞鶴について何か言うたことはありませんか。
  413. 浦田孝之

    浦田証人 舞鶴についてのことは何も聞いておりません。ただ先程も申しましたように、ただ死にたい、このような恰好で帰りたくない、それだけでした。
  414. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 よろしいです。私は重ねて二人の方が明日も御出席なさることを希望するのは、こういう証言を聞いている間に、更に何か手掛りが出ないか、そういうふうなことを考えますので、二人の方の列席を願いたいという希望を持つているのですが、諮つて下さい。
  415. 岡元義人

    理事岡元義人君) 細川委員に申上げて置きますが、只今杉田証人に対しまして、お持ちになつておりますところのいろいろ資料を、委員長手許まで提供して頂くようにお願いしよう思つていたわけであります。それらによりまして、いろいろ又お調べになることは細川委員の上においてもお調べになつて頂いたらいいと思いますが、只今細川委員の御発言ではありますが、如何でありますか。もう……
  416. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 この杉田さんが亡くなられたか、行方不明、更に上陸後どこへか姿か隠しておられるかのごとく一部で噂された結果、細川委員のあの質問が出たと思います。併し私は杉田証人並びに浦田証人証言によりまして、船中において行方不明になられたことは大体間違いないことじやないか、この問題については、こういうことを本日これ以上は証言を求めるわけには行かない。從つてその原因がどこにあつたかということが、更に疑問がありますならば、他の証人から明日でもやれると思いますから、行方不明の点は、船中において行方不明になつたということをこれ以上は、お二人の証人に求めることはできませんので、四人の方が明日残られるということで結構じやないかと思います。(「賛成」「異議なし」と呼ぶ者あり)
  417. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今草葉委員からの御発言がありましたが、明日は阿部証人、細川証人、中村証人、増渕証人の四人だけ出席を求めることに御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  418. 岡元義人

    理事岡元義人君) ではそのように決定いたします。この際杉田証人に申上げますが、お持ちになつておりますところの資料を委員長手許まで御提出を願います。各証人に申上げますが、本日は長時間に亘りまして十分に各委員質問にお答え願いましたことを誠に御苦労樣と委員長お礼を申上げます。尚当委員会審査の目的は、本日委員会の劈頭に申上げた通りでございます。十分その趣旨をお含みの程をお願いいたしたいと思います。本日はこれにて散会いたします。    午後六時七分散会  出席者は左の通り。    理事            天田 勝正君            草葉 隆圓君            岡元 義人君            星野 芳樹君            鈴木 憲一君    委員            木下 源吾君            淺岡 信夫君           池田宇右衞門君            水久保甚作君            伊東 隆治君            木内キヤウ君            北條 秀一君            穗積眞六郎君            矢野 酉雄君            細川 嘉六君            千田  正君   証人            阿部  齋君            細川 龍法君            中村 良光君            増渕 俊一君            福富 春雄君            杉田 たず君            浦田 孝之