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1949-04-14 第5回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第17号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十四年四月十四日(木曜日)    午前十時二十一分開会   —————————————   本日の会議に付した事件吉村隊事件  (右事件に関し証人証言あり)   —————————————
  2. 岡元義人

    理事岡元義人君) では只今から委員会を開会いたします。昨日に引続き吉村隊の審議を続けたいと思いますが、先ず証言を求めていない証人酒井幸次小峰光治堀金榮、尚その外に昨日途中において病氣になられた笠原金三郎、それと阿部忠、以上五人の証人から先ず証言を得ることに御異議ございませんか。    〔「異議なし」とぶ者あり〕
  3. 岡元義人

    理事岡元義人君) では五人の証人出席を求めます。
  4. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 実は本委員会運営について所見を述べて置きたいと思いますが、本委員会は決して裁判の判決を與えるところの委員会ではなくて、この問題になつておるところの事件眞相を天下に正しく発表して、希わくばそれによつてソ連にまだ残留する同胞達を、一日も早く受入れることのできる一つのその受入態勢を少しでもよくして行くというために役立たしたいという我々は友愛の精神を持つてこの委員会運営して行きたいと思うのでありますので、本日は十分に必要なるその素材を蒐集して、そして本委員会において事件眞相の結論をここに明かにするというようなふうに、運営根本方針を大体決定して置く方がよろしかろうと思います。併しながら随分まだ問題は各方面材料を集めるために時間を要すると思いますので、どうしてもできない場合には各証人からの素材をここで集めて、そして委員会としての最後の意思決定は、いずれ又明日か明後日にこれを見出すというようなふうに運んで行かなければならんと思いますので、この点委員長は適当に委員会に諮つて、そして十分所期の目的を達成するように御努力願いたいと思います。
  5. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今矢野委員の御発言でございましたが、昨日大体の打合をいたしまして、御趣旨の通りできる限り運営して行きたいと考えておりますので、御了承願いたいと思います。  堀金証人証言を求めますが、あなたは曉に祈るの刑によつて死亡した者を何人見られたのか、先ずその点について一点だけお答えお願います。
  6. 堀金榮

    證人堀金榮君) 私は地方人から入りました関係上、隊の編成に入つておりましたが、詳しいことは余り知つておりません。死亡した話につきまして二、三知つておる範囲だけでありまして、その一人としましては吉田伍長、その人だけを記憶しております。その他は噂に聞いておつただけで確証を掴むところはありません。
  7. 岡元義人

    理事岡元義人君) 尚日にち等記憶がございますか。
  8. 堀金榮

    證人堀金榮君) 日にちはつきりしておりませんが、大荒筋、知つておる内容だけお話申上げてよろしいでしようか。
  9. 岡元義人

    理事岡元義人君) 発言を許します。
  10. 堀金榮

    證人堀金榮君) 二十一年の長谷川遂吉村遂が合併になりました直後であつたと思いますが、ウランバートルに他の收容所より私らの收容所にその当時参りました。丁度材木引揚の時期でありまして、その吉田伍長石切作業に従事したと記憶しておりますが、作業が辛いために逃亡して司令部行つたという噂はありましたが、私らは詳しい内容は知つておりませんが、そのために吉村さんが司令部に呼ばれて事情を承わつて来た。その夕方日々命令によりまして、内容荒筋のことを廳きましたですが、現在は記憶しておりません。ただ私共印象に残つた、ピンと來ましたのは、あの吉田伍長のやる行動司令部に対して作業がきついばかりでなく、吉村隊行動がよろしくないという話を洩らしたという隊長お話でありまして、帰つたら早速清心寮に入れる。こういう話でありまして、以後如何なる事情があつても、逃亡した者に限り隊長としては責任を持たず、蒙古の命によつて断乎処罰さる。こういう話だけ日々命令によつて廳きまして、その他は記憶しておりません。
  11. 岡元義人

    理事岡元義人君) もう一点証人に飼いますが、あなたはその蒙古側の主計の上が、隊長謝つてやろうかということを言われたので、初めて吉村隊長命令でやつておるんだということに氣が付いた、こういうことを述べられたことがありますか。
  12. 堀金榮

    證人堀金榮君) あります。
  13. 岡元義人

    理事岡元義人君) その事情について述べて頂きたい。
  14. 堀金榮

    證人堀金榮君) その点につきましては、この吉田伍長とは違いまして、現在來ております鎌谷さんの曉に祈るをおつてつた翌朝、自分らが起床して外に出ましたら、すでに苦しいものか、足踏みして手をはたいて非常に苦しい眞劍味を持つてつた態度を見受けました。そして歩哨が見かけて蒙古語言つておりましたが、早く隊長謝つて、食事を頂いて元の作業に復せという話を言つてつたのを見受けました。外にありません。
  15. 岡元義人

    理事岡元義人君) ちよつと証人に今の点についてお廳きしますが、それはあなたは推測で、いわゆる吉村隊長だけの独断の命令でやつたんだということを、そのときはあなたが感じられたのですか。
  16. 堀金榮

    證人堀金榮君) 私の推察であります。
  17. 岡元義人

    理事岡元義人君) 尚先程の証言のうち、吉田伍長はどういう工合にして死んだのか、その事情を述べて頂きたい。
  18. 堀金榮

    證人堀金榮君) 時期は忘れましたが、帰りまして、清心寮へ入れられて、四五日後死亡したということは承わつておりますが、実際確証は知つておりません。
  19. 岡元義人

    理事岡元義人君) 着席願います。委員の方に御質問ございませんか。
  20. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 委員長が今質問されたのに、私委員長にお尋ねして置きますが、曉に祈るでなく死んだところの者が、あなたはあるかどうか知つておるかというような御質問でしたが、そのときの曉に祈るという処罰内容は、委員長としては、昨日説明したいろいろな方々が説明しておられた、門柱に括り付けて、そして或いは夜通しそれを体刑を科しておる、それが直接の原因になつて亡くなつた者だけを曉に祈るという意味での御質問ですか、どういうのですか。非常に漠然としているから、こちらも答えが困難じやないかと思います。
  21. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今証人証言は、委員長として、吉田伍長はいわゆる清心寮営倉処刑によつて四五日後それが終つたら死んだ、こういう工合にお聽きしたのですが、尚証人にお尋ねしますが、今私がそういう意味に取つたのに間違いありませんか。
  22. 堀金榮

    證人堀金榮君) 間違いありません。
  23. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 そうすると堀金証人は、吉田伍長が逃亡して、そして蒙古側によつて捕縛され、吉村隊長が呼び出されて、その後のことは、吉村隊長は呼び出されたために、將來逃亡等の場合には、蒙古側の命令によつて嚴罰に処するということを、あなた自身隊員の全体の中の一人として、その隊長の訓示を聽かれたのですか。
  24. 堀金榮

    證人堀金榮君) これは日々命令によりまして隊員全部に傳えておりました。但し本部員並びに医務室員炊事要員は、或いは知つておらんかどうか分りません。
  25. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 更に質問を続行しますが、そのあなた方が蒙古におられたとき或いは帰つて來られてから、どちらでも通じて結構ですが、いわゆる演劇会があつてから、暁に祈るというのを吉村隊長を諷刺される意味でどなたか劇をやられた、その頃から暁に祈るという言葉が隊内にはやつたそうですが、その暁に祈るという処罰方法は、清心寮にぶち込んで、そうして結局或いは凍死したり或いは餓死したりする、そういうようなものがやはり暁に祈るというようなふうな意味皆さんは暁に祈るという言葉を使つておられましたが、或いは門柱に括り付けておるうちに、それが原因となつて死んだ者、そうした方法を暁に祈るというふうに、それだけを限定して皆さんは解釈しておられましたか、そこを一つお答え願います。
  26. 堀金榮

    證人堀金榮君) 清心寮に入りまして倒れたのは、暁に祈ると確定しておりませんかつたようです。門内の電柱に括り付けて死に至つた、或いは倒れたという内容だけが暁に祈るの眞相であると思つております。
  27. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 そうすると、最前委員長から、暁に祈るというような方法で死んだ人のことについて、直接に見たり或いは聞いたりしたことについての尋問があつたわけですが、あなたはそれに対しては、直接に目撃した者はない、清心寮最前吉田伍長だけの、而も吉田伍長は確実にそれが原因で死んだか、実地をそれは見たのではないというような御証言でしたが、あなたが今解釈される暁に祈るというその処罰方法で死んだ、そういう風評を聞かれたのは何人くらいですか。
  28. 堀金榮

    證人堀金榮君) 暁に祈るで死にましたのは、噂さだけで聞いておりません。
  29. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 そうすると何名死んだかも、その数も判然としない。ただ漠然とそういうようなのが隊の中に噂されていたというだけである、そういうふうに解釈してよろしいですか。
  30. 堀金榮

    證人堀金榮君) 隊内の噂だけで、その他の確証があるわけではございません。
  31. 細川嘉六

    細川嘉六君 堀金証人にお尋ねしますが、暁に祈るとか、その他の処罰は、蒙古側の指図で行われたものですか、隊長がやつたものですか、どちらですか。
  32. 堀金榮

    證人堀金榮君) その内容に至りましては、私は蒙古語も解しません関係上、尚その隊の指揮を取つておられる隊長、それにつきまして通訳原田さんがおられまして、それから蒙古側の命令系統があつたか否や、私らは想像だけで、確証はありません。
  33. 細川嘉六

    細川嘉六君 あなたの感じられたのはどうですか。
  34. 堀金榮

    證人堀金榮君) ただ暁に祈るをさせられた場合、電柱に括り付けられておる場合、もう一つ清心寮に入つておる場合等もございますが、歩哨の立つておる場合は蒙古側の命令でありますから、歩哨が立つておらん場合は蒙古側の命令でないと私自身想像いたしました。
  35. 細川嘉六

    細川嘉六君 蒙古人は、そういういろいろの隊内において隊員がやつておるそういうことについては、蒙古人はどう思つておりましたか御存じありますか。
  36. 堀金榮

    證人堀金榮君) その点は存じません。
  37. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 一つ委員長にお諮り頂きたいのですが、原田証人をここにお呼び寄せ頂いて、共ども一つ御審議頂くようにお諮り頂きたいと思います。
  38. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今淺岡委員から御発言がございましたが、原田証人を呼ぶことに御異議ございませんか。    〔「理由は」と呼ぶ者あり〕
  39. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 理由といたしましては、ここに目撃者、或いはその他の関係証人が多数出ておられますが、大体におきまして、司令部なり或いは蒙古側、そうした方面との折衝は通訳を通じてなされたことが大半であつたろうと思います。そうした意味において、ここに原田通訳証言を求める場合が多々あるのじやないかと思います。
  40. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今淺岡委員から理由を付して御発言があつたのでありますが、皆さん異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  41. 岡元義人

    理事岡元義人君) では原田証人出席を求めます。
  42. 天田勝正

    天田勝正君 原田証人が参ります間の時間に、笠原証人にお伺いしたいと思いますが、よろしいですか……、その理由は、笠原証人が告発された以上は、はつきりと蒙古側の命令にあらずして、吉村隊長自身命令であるということを立証すべきところの何ものかを持つているだろう、私はかように考えるのであります。その立証を伺いたいためです。
  43. 岡元義人

    理事岡元義人君) ちよつと天田委員に申上げますが、笠原証人からの証言はまだ中途になつているので、後程全部発言を許したいと思つているのですが、その機会に……証人のうちまだ証言を得ない証人が二人残つておりますから、それが終つてからしては如何ですか。
  44. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それでも結構でありますが、原田証人を呼ぶ以上は、その前にそうした証言を求めて置いた方が順序ではなかろうかと考えます。
  45. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 天田君の質問したいというのに、僕も賛成するから進めて下さい。
  46. 岡元義人

    理事岡元義人君) それでは天田委員
  47. 天田勝正

    天田勝正君 笠原証人に伺います。あなたは告発された以上は、確かに吉村隊長個人処罰で行なつたという確証を持つておられると思います。傳え聞くところによりますと、昨日話の出ましたところの菊地君等が処罰されました件に関しましては、菊地君のみならず、数名の者が石切作業ノルマ完遂不能のために暁に祈る刑をさせられれた。その中の上野と言いますか、中野という上等兵が遂にそのまま刑の執行中に死亡したということを傳え聞いておるわけでありますが、それらの事情がどういう順序によつて死至つたかを明らかにして貰い、且つ又それ刑のときに確かに吉村個人の申渡したところの刑であつて、決して蒙古側の命令にあらず、こういうことが明らかになれば誠に幸いだと思います。
  48. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) 今のお答をいたします。今言われましたのは、佐々木英八郎という岩手縣の人であります。この人が石切りノルマができなかつたために、この人以下五名が暁に祈るの処罰を受けております。
  49. 天田勝正

    天田勝正君 以下五名の氏名が分つておりますか。
  50. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) 氏名は分りません。その日のノルマができないために兵舎に帰つて参りました、そうして兵舎帰営後約三十分後に暁に祈る……。
  51. 天田勝正

    天田勝正君 何時頃それが終つたか、その件だけにつきましてノルマの完遂ができなかつたというのは、そのノルマ石切り何立方メートルですか。
  52. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) 石切り二立方メートルであります。
  53. 天田勝正

    天田勝正君 次に、そのノルマが完遂できずして帰つて来たという時間は何時頃でありますか。
  54. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) はつきり記憶はありませんが、十一時半か十二時頃だと思います。
  55. 天田勝正

    天田勝正君 そうしてあなたは、そのときに同樣に石切りに行つておられましたか。
  56. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) 私は石切りに行つておりません。この事実は私が見たのではなくて、佐々木英八郎という人の言うことを聞いたのであります。
  57. 天田勝正

    天田勝正君 それでは帰つて來たときに聞いたのではなくして、ずつと後になつて……。
  58. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) 後になつてから聞きました。
  59. 天田勝正

    天田勝正君 何日くらい後ですか。
  60. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) 約二ケ月くらい経つてから後であります。それを裏書きする確証としては、私の思つていた通りのことが新聞に出ております。
  61. 天田勝正

    天田勝正君 新聞に出ておることによつて信じた……。
  62. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) その前に信じておりました。
  63. 天田勝正

    天田勝正君 それはどういう経路で信ぜられましたか、例えばああいう拘束を受けておる者というものは、所内に起きたようなことは、その日の中に電波のごとく傳わるのが普通であります。それが各証人お話を聽いておりますると、それらの噂等も一致しない、見た見ないは別として、その噂は全部一致すべきが普通ですが、それがこうして食違うところに、私は意見を持つのでありますが、ただこれは佐々木英八郎君から、あなたは聞いたということだけで、これからあなたから証言を求めることは、全部佐々木君から傳え聞いたことと、こう理解してよろしいのでありますか。
  64. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) それで結構であります。
  65. 天田勝正

    天田勝正君 そうすると、その刑は蒙古側の命令或いはソ連側命令にあらずして、吉村個人の……。
  66. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) それは帰営後約三十分の後行われた。そのように早く処罰が來ることは断じてないと思います。
  67. 天田勝正

    天田勝正君 そういたしますと、その早いか遅いかということは比較の問題だろうと思います。そこで以前に蒙古側から処罰された場合は、もつと一日とか二日くらい経つてから罰したのですか。
  68. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) 私が前に見ましたのは、靴工場靴工の者が処罰されたときは、大体隊長殿からお話があつてから二日くらいかかつてつたと思います。
  69. 天田勝正

    天田勝正君 比較はそれ一つですか。
  70. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) はい。
  71. 千田正

    千田正君 笠原証人に伺いますが、昨日あなたは池田証人と同席しておられたから、よく池田証人証言を聽かれたと思いますが、あの証言の中に暁に祈るという、こういう言葉の出た原因というのは、蒙古側の命令によつて吉村隊の者が窃盗をした、集團的窃盗をしたので、一回、二回と十五名ぐらいずつ蒙古側の監視の下に門柱、或いは電柱に括り付けて、暁に祈るというような恰好の状態にあるような処罰をしたのであつて、決して自分で勝手にやつたのではないという証言をしておりましたが、その他にあなたが蒙古側の命令じやなくて、超過ノルマその他について、完全に池田証人自分の独自の見解の下に処罰したというような最も著しいものを見た。或いは聞いたというようなものをはつきり言つて貰いたいと思います。それからもう一つは、今日は鎌谷証人が見えておりませんが、鎌谷証人泥棒をしたというようなことを、昨日この席上において池田証人証言されましたが、あなたが知つておる範囲において、果して鎌谷証人泥棒というような下に処罰されておつたかどうか、そういうことを実際やつたように見えたかどうか、その点についてあなたとしての証言をして頂きたい。
  72. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) 先ず暁に祈るの範囲でありますが、最初電柱に縛ばられておりまして、それで暁に祈るという言葉ができたのでありますが、その後に営倉に入れられた者、これも暁に祈るという見解で私はおりました。そのもとにお話をいたします。ここに証人となつております清水一男炊事班長、それからその外に宮本兵長、これは炊事兵隊であります。その兵隊吉村隊長に砂糖その他の増食請求を受けました。これを断わつたがために、或る程度その吉村隊長自分の私情を入れて暁に祈るの刑を処したことがあります。宮本兵長は暁に祈るを二日、それから清水軍曹はやはり一日、併しこの清水軍曹の場合には反対に監督將校から、清水は班内に帰つて寝かせというふうに言われて、清水軍曹は四時間ぐらい立つただけで許されております。これなどは蒙古側に関係したことでなく、吉村個人の問題であります。それをこれだけに処罰したということは蒙古側の命令でないということが立証できると思います。
  73. 千田正

    千田正君 鎌谷証人の昨日の証言は……。
  74. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) それから鎌谷証人に対するところの証言でありますが、その前に言つて置きたいことは、非常に乏しい食糧の下に苛酷な重労働を受けました。その與えられたところの食糧だけでは到底我々は生きておられません。何らかの方法を以て生命を繋ぐところの糧を得なければ生きて行かれなかつたのであります。その生きるためには仕方なく隊長初め下に至るまで盗みをいたしました。ただそれが不幸にして蒙古側に見付つたか否かという点にあつただけです。
  75. 千田正

    千田正君 重ねて質問しますが、それでは昨日の池田証言の言うのは、鎌谷証人の場合は蒙古側に見付つたために止むを得ず処分した。併し隊内において乏しい食糧のために、止むを得ず蒙古側の或いは工場その他の物を取ることを默認しておつたということも言えるわけですね。
  76. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) それは默認というより、隊長自身兵隊言つて物を盗ませておりました。それ故にそれを指摘ができなかつたと思います。
  77. 千田正

    千田正君 隊長は暗に命令的な態度においてこれを行なつてつたのでありますか。
  78. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) 命令しておりました。
  79. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 抽象的でなく、隊長がこういうものを取つて來いというような実際の例を挙げて見て下さい。
  80. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) 私は踵の皮を持つて來るように言われました。それを持つて参りました。私はそれだけでありますが、その外に長靴を作る皮、それから現在池田隊長殿がはいておられますところのズボン、あれも兵隊に確かに持つて來させたものと思います。
  81. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 それは想像でありますか。
  82. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) 想像です。その外に靴工場から自分長靴を作るために材料兵隊言つて持ち出させていることは確実であります。
  83. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 念のために私は弁明して置きます。この委員は全然どつちに贔屓をしておりません。全然派はないのですから、そのつもりでお答え願いたい。あなたが靴工場から靴を股間に隱しながら持つて來たのを、蒙古側からこれを取押えられたことがありますか。
  84. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) あります。
  85. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 それは一回ですか。
  86. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) 一回だけです。
  87. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 それから何か日本の軍隊において、あなた御自身処罰を受けられたことはありますか。
  88. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) 何にもありません。
  89. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 それからあなたが毆打、暴行、横領その他、三つの問題を中心として告発なすつたのですが、その告発は昨日もあなた御自身のお氣持の一端はお聽きすることができましたが、誰か是非君告発せよというようなふうにあなたに非常に進めたり、或いは勧誘したり、或いはもつと強い意味でなぜやらんかというふうに言われたようなことはございませんか。
  90. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) 私は自分の信念に基いて告発いたしました。そういうことは全然ない。    〔天田勝正発言の許可を求む〕
  91. 岡元義人

    理事岡元義人君) この際少し進行したいと思いますが、ちよつとお待ち下さいませんか。この際ちよつと議事進行を図るために、他の証人証言を聽いてから天田議員発言を許します。御了解を得たいと思います。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  92. 岡元義人

    理事岡元義人君) それでは小峰証人証言を求めます。二、三点お聽きしますけれども、証人死体運搬はいつもやつておられたのか、この点一つお答え願います。
  93. 小峰光治

    證人小峰光治君) 委員長にお伺いいたします。証言をする前に証人として所信の一端を簡單に述べたいと思います。
  94. 岡元義人

    理事岡元義人君) 先ずこちらから聽くことを何されてから……。
  95. 小峰光治

    證人小峰光治君) 死体運搬としては、私は前後二回はつきり覚えております。
  96. 岡元義人

    理事岡元義人君) その人達はどういう原因で死なれたのか原因を知つておられますか。
  97. 小峰光治

    證人小峰光治君) 事故死一名、確か石切り山事故死だと思います。死体運搬隊長室におられた永井という人が責任者となつてつておられました。その次に医務室坂口衛生兵、その人がやつておりました。その両名がどうしても工合の惡いとき、私が死体運搬として現在青森にいる久保田という馬を扱つている兵隊と二人でやつて参りました。
  98. 岡元義人

    理事岡元義人君) もう一点証人証言を求めます。その事故死以外の一人の死体は、それは営倉か或いは曉に祈るというようなことによつて死んだ死体ですか。
  99. 小峰光治

    證人小峰光治君) はつきり記憶はありませんが、確か栄養失調だと思います。
  100. 岡元義人

    理事岡元義人君) その二人の名前は分つておりますか。
  101. 小峰光治

    證人小峰光治君) 存じておりません。
  102. 岡元義人

    理事岡元義人君) 分らない。
  103. 小峰光治

    證人小峰光治君) はい。
  104. 岡元義人

    理事岡元義人君) その外に証人が是非述べたいということがありますか。
  105. 小峰光治

    證人小峰光治君) はい。
  106. 岡元義人

    理事岡元義人君) じや発言を許します。
  107. 小峰光治

    證人小峰光治君) この度証人に呼ばれまして、私の考えといたしまして……。
  108. 岡元義人

    理事岡元義人君) 要点だけを挙げて……。
  109. 小峰光治

    證人小峰光治君) とにかく特異な状態において、特異な心境にある人達吉村という特異な性格と言つていい人の下に起つた事件、これは現在の自分達さへ想像も付かないような事柄だつたのであります。それで誤まり傳えられたことはできるだけ正し、事実は事実として、どこまでも究明して頂いて、私達の深刻な反省に、尊い資料にして頂きたいと思います。
  110. 岡元義人

    理事岡元義人君) 発言を許します。続けて下さい。
  111. 小峰光治

    證人小峰光治君) 私は入蒙して吉村隊長と知りました。そうして入蒙の二年間、吉村隊の下に糧秣受領委員として毎日ウランバートルの町に自分達收容所糧秣受領に行つておりました。その間吉村には一度も私的の制裁とか、恨みとかそういつたことをやらされたことはありません。但し公憤という点についてはいつも感じておりました。併し吉村と私とはいつもいろいろと話をしましたが、私は心の中で否定していながらもそれを表に現わし反撥するということを、恥かしいながらできませんでした。吉村の実際やつておること、それからその理論、そのあまりにも大きな食違いというものに対して、絶えず私としては心の中では反撥をしておりましたが、そのまま二年間というもの何一つ吉村の下で大きな事故も起さず吉村にいぢめられることもなく過して参りました。私と吉村との関係吉村が四百名の長となつて羊毛工場、いわゆるコンビナードの收容所隊長として行つたとき、その一員として附いて行つた。それからその後長谷川隊と合併した一年半、越、吉村の下にいた。そうして昭和二十二年の十月出発命令を受けて蒙古からシベリア鉄道を通つてナホトカに至る間、一ケ間吉村行動を共にして帰つて参りました。  私独自の考え方でその入蒙以來吉村と知合つて四百人の長となつてコンピナードにいた間これを第一とし、長谷川隊と合併になつた一年半程の問前半を第二とし、後半を第三とし、最後にシベリア鉄道を通つてナホトカに至る間を第四と、この四つに区切つて私としては吉村との関係を考えております。最初吉村と知合つた関係は先ず第一に私達はウランバートルに入つてホジユルブロンといういわゆる山の兵舍に收容されました。そうして山の兵舍から各作業場に割振られて出発して行きます。私達は無特業者として約三百各山から下つて、昭和二十年の十一月共産大学の建築場に参りました。その後二三百して吉村は当時少尉という階級と覚えております。吉村少尉が百名か二百かはつきり記憶にありませんが、その隊の長となつて参りました。そうしてその收容所にいる間特別の作業はありませんでしたが、その間の給與状態も蒙古として地理的季節的或いは蒙古人の非文化的なあれとして、受入態勢が全然整つておらなくて規定の食糧というものは殆んど行亘つておりませんでした。そうして我々は日に日に体力が弱つて参りました、そのまま一日過せばおれ達は自滅になる、やり切れない、何とか蒙古側に交渉をして定められた糧秣を貰わなければいけないということについて、自分達の隊それから又吉村隊人達と連絡をして、一致して蒙古側に交渉を開始することにいたしました。そのときの印象として私は吉村少尉は実に信念の強い、するどい頭で、この人だつたならば、どこまでも一緒に、我々日本人ががつちり組んでやつて行けると、そういつた氣持を持つて吉村少尉と一緒に蒙古側と積極的に折衝をして、食糧の獲得に努めたい。これが吉村と知合つた動機の第一であります。それが機縁となつて羊毛工場に行つてから引続き糧秣受領要員として殆んど毎日のようにウランバートルの町にパン、穀類、砂糖、塩、野菜そういつたものを受領に行つておりました。
  112. 岡元義人

    理事岡元義人君) ちよつと途中ですが証人に御注意を申上げますが、要点だけ、こういうことだけは言つておかなければならんということだけ、大体今までの証人からそういう状況は委員の方が聞いておられますから、要点だけを簡單に証言願います。
  113. 小峰光治

    證人小峰光治君) 吉村言つておることとやつておることはまるきり違つております。これははつきり私の目で見ております。その実際として我々は彼に罐詰の空罐で食事することを教つた。その耐乏生活は新日本建設のための尊い力添えになるであろうと言つてつた。而し彼は実際は作業という程のこともせず、一日三食豊かに食事をし、曉に祈るの命令を下しながら自分隊長室にあつて樂器を鳴らし、兵隊に歌を歌わせて過した。この間に余りに言うこととやつておることと大きな隔りがあつた。これに対しては常に忿懣を禁じ得ませんでした。
  114. 岡元義人

    理事岡元義人君) 証人の着席を願います。
  115. 天田勝正

    天田勝正君 小峰証人に伺いますが、隊長として少し贅沢であつたとか、そういうことを我々委員は聞いておるのではないのであります。要するに特に吉村隊が他の隊と比較いたしまして、特に苛酷であつたという点、而もそれが蒙古側の命令によらずして、吉村個人から出発したという点を聞いておるのでありまして、そこで私は事を明らかにするために、約十項ばかり一問一答をお許し願いたいと思います。
  116. 岡元義人

    理事岡元義人君) もう一人済んでからどうですか。
  117. 天田勝正

    天田勝正君 委員長に希望して置きますが、一々経過を全部述べさせると、一人に許すと全部にも許さなければなりませんから……。
  118. 岡元義人

    理事岡元義人君) 承知しております。  では次に酒井幸次証人証言を求めます。先ず証人の目撃されたところの実際の酷使の状態について要点だけお答えを願いたいと思います。
  119. 酒井幸次

    證人酒井幸次君) 大体石切場については再三話があつてと思いますので、私が、特に酷使されたことを申上げますが、それは材木運搬でありました。蒙古人ノルマは一日に一本、日本人は七本になつたのであります。現在そのために片輪のようになりまして、こうしておりますと頸がだるくて、少し動かすとこつこつします。こうやつておると一時間や三十分は我慢できるのです。この材木は私がまだ最初体力、氣力があつた時分には四人で担ぐことができた。ところが段々内地に帰る希望もなくなり、或いは食糧が足りなく、睡眠不足というような非常に惡い條件が重つたために、最後には八名或いは十名で担がなければ一本の丸太が担げなくなつた。それを蒙古人ノルマは一本にして、吉村は七本にしたのであります。それをするために朝の三時半に起床して飯を食ベないで七時まで作業をするのであります。七時になりますと会社のヤントン、いわゆるサイレンが鳴りますと、初めて作業止めになりまして、兵舎に入つてお粥を若干食べると同時に整列がかかりまして工場に出勤するのであります。その工場は各自違つておりまして、私は靴工場に行つておりましたが、羊毛工場いろいろの工場がありますが、そこに參りまして五時まで作業するのであります。五時の作業が終りますと会社が退けますので、皆隊伍を組んで兵舎に帰るのでありますが、兵舎に帰つても、如何なる用事があつて兵舎に入れないで、直ぐに丸太を持つて又材木運搬に行かなければならない。当時の食糧は誠に情ないものでありまして、五時になりますともうすでにふらふらなんですが、そのまま又材木運搬を始めるのでありますが、これも吉村がそのときどきによつてノルマを決めるのであります。機嫌の非常にいいときには今日は一本、晩の特別作業でありますから、機嫌の惡いときには四本、三本というふうになります。ところが非常に皆腹が減つておるものでありますから、早いとこ終つて五分でも十分でも休養をとりたいというので、自然に強い者は強い者で組んでしまつて、弱い者は誰も組まない。私は兵隊で一番年が上なので、四十幾つでありましたが、弱い者と年寄りが一番残されるのです。強い奴は六人で担くが、弱い者は八人、十人で担がなければならん。一本を運搬するには、八人で担いだときには八遍やらなければならない。十人で担いだときには十遍往復しなければならない、四本の場合には四十遍やらなければならないということになりますので。自然十二時、一時というような時間になるのです。九時には又サイレンが鳴りましたが、ああ九時だなというときには、すでにその日はノルマができるかできないかということは大体見当が着くのですけれども、蒙古側の警備隊或いは歩哨が、余りに苛酷なためと、私が特殊の靴工場の仕場をしておつた関係で、ゲベウと歩哨に非常に顔馴染みがあつたのですが、モンチユールモンチユールと私のことを言つておりましたが、モンチユール早くやつて帰れよとか、或いはいろいろ声援してくれたのでありますが、誠にただ一つの一例に過ぎませんけれども、作業の酷烈さといいましようか、苛酷さといいましようか、酷いものでありました。  それから委員長に最後にお願いしたいのですが、吉村の横領事件について、後で一言私に発言をお許し願いたいと思う点があります。
  120. 岡元義人

    理事岡元義人君) 今続けてやつて下さい。
  121. 酒井幸次

    證人酒井幸次君) モジツクと吉村のことでありますが、これは長谷川とは全然関係がなかつたのでありますが、吉村自身の保身のためと私慾のために、恰もモジツクと吉村が私慾ということについて同じような程度の、まあ儲けてやろう、何とか利用してやろうというような氣持は大体同じだつたのじやないかと私は思うのであります。でそのモジツクと結託して、約一千名の日本人同胞を酷使と虐待に追込んで得た金やその他のものを着服しておつたということについて、最もその具体的な結論として、私の職場は特殊な仕事をしておつたために一室を與えられておつたのであります。で、單独で作業しておつた関係上、私の目前でモジツクと吉村は非常にぼそぼそこまごまといろいろ話しておりまして、数千円の金をモジツクに手渡したのを私は見ております。  それから吉村が日本人を賣る最も大きな導火線となつたのは、内蒙人の通訳でエリツチ、サンボーというのがおりましたが、彼にもモジツクと同じように私の目前において数千円の金を贈るべく約束しておりましたのを私は目撃しておりました。丁度ここに原田通訳がおられますので、その例を一つ申上げますが、「原田君、これでよいかよいか」というわけなんです。手で示しておつたわけですが、そのとき私は金額に対して幾らであるか見当がつかなかつたのであります。そのとき吉村が出て行つた後で、「原田さん、一体これというのは百円なのか」言つたら、「冗談」じやない、千円だよ」と言うので、初めてそのときの金額が分つたのであります。勿論吉村の給料は、御存じのように、二百円を超すような給料は貰つておらない筈であるということは証明ができるのであります。  その外に彼の独断的な処罪につきまして、ノルマ工場の例は必要があれば申上げますが、誠に言語に絶するものがありました。私は吉村の信頼を若干受けていたと自惚れを持つておりましたが、個人的な感情は全然ありません。旧隊員としまして、又日本人としまして、この際吉村が國民の前に謝罪するように、新聞で見ますると、彼が「私は潔白だ、白だ」ということを言うておるようでありまするが、本当のことを申上げたいと思つて証人になつた次第であります。
  122. 天田勝正

    天田勝正君 今日は早速先ず小峰証人から伺います。一問一答式で約十問ばかり質問さして貰います。  先ずあなたは先程入蒙後吉村を知つた言つておりますが、その入蒙した後に、長谷川吉村両隊が合併しまして新らしい吉村隊ができたのでありますが、その以前においてはどちらにあなたは属しておりましたか。
  123. 小峰光治

    證人小峰光治君) 吉村隊に属しておりました。
  124. 天田勝正

    天田勝正君 次は、炊事班等はとにかく食物だけは鱈腹食えるというのがこれは常識でありますが、從つて隊長に氣に入られた者がそこに入れられる。こういうことになると思うのでありますが、あなた達が炊事班に行かれたのは、何か資格があるとか、或いは特に氣に入られたから入つたということがありますか。
  125. 小峰光治

    證人小峰光治君) 資格と申しまと……。
  126. 天田勝正

    天田勝正君 資格というのは、特別料理がうまいから、隊長にうまい料理を食わせるとか、そういうような腕に資格があるとか、或いは特に氣に入られておるからそういうことになつたということがあります。
  127. 小峰光治

    證人小峰光治君) 最初の動機が我々はこのままでは堪らないから何とか向う側と折衝しようということで吉村と知り合つたのであります。それが奇縁となつて糧秣受領関係を引続きやつたのであります。
  128. 天田勝正

    天田勝正君 一番大切なことは、先程言つたように、他の隊との比較なんですね。そこで、あなたは糧秣受領という仕事をしておつて各隊の人と一諸になる機会が非常に多かつたわけですね。であるから、これからその大切な比較の点を聞いて参りますから……。吉村隊と他の隊とで一体食糧が特に吉村隊が惡いというようなことがありましたか。
  129. 小峰光治

    證人小峰光治君) 一時パンが途切れて非常に因つたことがあります。それ以外に特に他の隊に比べて惡かつたということはありません。
  130. 天田勝正

    天田勝正君 ちよつと私のお聽きするのは、それはパンが途切れて困るというけれども、それは吉村隊でなくてどこの隊でも困るなら仕方がないけれども、他の隊より吉村隊が惡かつたということがありますかという……。
  131. 小峰光治

    證人小峰光治君) あります。
  132. 天田勝正

    天田勝正君 ある。
  133. 小峰光治

    證人小峰光治君) はあ。
  134. 天田勝正

    天田勝正君 それはあなたが直接受領や、そうして調達に歩かれるわけだけれども、自分が努力しても手に入らないというのか、吉村隊がそんなに無理に手に入れて食わせる必要がないという意図から、そうして惡くなつたのか、どちらですか。
  135. 小峰光治

    證人小峰光治君) 三つの原因があると思います。一、各收容所に一名ずつの蒙古側の糧秣受領要員があります。その蒙古側の受領要員が不手際のためにうまく貰えなかつたこと。もう一つは、全ウランバートルに配給するだけの数量のものが渡らなかつた時に、いろいろな、マーチヨが出られなかつたりした手違いで、貰えるべきものが貰えなかつたりしたこと。もう一つは、主食以外に増食の時に、増食というものがあります。ノルマ以上に上つた時、或いはノルマ以上のものがあるが、それを食糧の中に入れていいのであります。そういつた場合に、吉村隊長作業を強行させる前に、そういつた増食をもつともつと貰える。当然貰うべきものを貰うということに努力してくれたらば、もう少し円滑に貰えたと私は思つております。
  136. 天田勝正

    天田勝正君 そこでです。吉村隊ノルマを三百とか、或いは新聞に出ておるところを見ますと、七百八十、百のものを七百八十のノルマをやつた。こういうことが出ておりましたですね。それが眞僞は別として、よその隊よりも超過ノルマを遥かに余計やつたということは間違いなかろうと思います。そうすれば今の増食の処置か何か、吉村隊の全体の給與というものは他隊よりよくなければならん。それが惡いというのが我々には理解できない。よいのだけれども、それが横流しされたために、他の隊よりも惡くなつたという、そこに何か具体的な例がありますか。あなたは炊事班長ですね。
  137. 小峰光治

    證人小峰光治君) 炊事班長は、清水氏でありました。私は糧秣要員であります。
  138. 天田勝正

    天田勝正君 そうすると、その糧秣を貰うのに、結局成績の如何を問わず、蒙古側から貰うだけの糧秣は一定しておると、その一定しておる物の中で、このノルマを上げた者に沢山呉れるということのために、他の隊は全く食えないという事情ができたという事例がありますか。分らないなら分らないでいいんです。一問一答ですから。
  139. 小峰光治

    證人小峰光治君) ノルマが上らなかつたために、増食が貰えなかつた例があるのであります。
  140. 天田勝正

    天田勝正君 そうじやない。ノルマをいくら、七百上げようと八百上げようと、とにかく百の……、一体その吉対隊に対するあなたが食糧を貰つて來ます。その食糧はいつでも一定しておつたか、いなかつたか。
  141. 小峰光治

    證人小峰光治君) 一定です。
  142. 天田勝正

    天田勝正君 そうすると、ノルマが沢山上つた時は、食糧の増食が貰えなかつたということがいわれますか。
  143. 小峰光治

    證人小峰光治君) ノルマが上つた時も、殆んど増食という点においては不成績でありました。
  144. 天田勝正

    天田勝正君 そうすると、その殆んど一利しておるものを、結局たんと働いた者がたんと食つてしまう。少い者は少くしか貰えない。こういうことに中だけで按配されるということ……。
  145. 小峰光治

    證人小峰光治君) そうです。蒙古側から受領して來た増食は、事務室で作られた各職場のノルマ表によつて炊事班長が責任を以て分配します。
  146. 天田勝正

    天田勝正君 この吉村隊なら吉村隊にいくら、他の隊なら他の隊にいくらという配給総量の決定権は誰が持つておりますか。
  147. 小峰光治

    證人小峰光治君) そのことについてはくよ知りません。
  148. 天田勝正

    天田勝正君 知らない。
  149. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 炊事班長を呼ぼうじやないか。
  150. 天田勝正

    天田勝正君 この際炊事班長の清水君を……。
  151. 岡元義人

    理事岡元義人君) 炊事班長を呼ぶことについて御異議ありませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  152. 岡元義人

    理事岡元義人君) それじや御異議ないと認めまして、呼ぶことにいたします。
  153. 天田勝正

    天田勝正君 それじや小峰証人に対しては、私はこれで打切ります。
  154. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 最前の御証言によりますというと、あなたは確実な記憶によれば、二回だけ屍体の運搬をなさつたと言いますが、その屍体が誰であるか分らないのですか。
  155. 小峰光治

    證人小峰光治君) はつきり記憶しておりません。
  156. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 続行さして頂きます。大体私の常識からすれば、殊に異境にあつて、本当に日本人同士は、私達も満州でしみじみとその感じを深めたんですが、而も我が目前で、栄養失調とか、或いは打撲、曉に祈るといいますか、そういうことで死んだのであろうと想像される痛ましい戰友がですね。二人亡くなつて、それを運ばれた時に、名前も尋ねないで、ただそれを馬車に積んで運んで行くということ、ちよつと私としては常識がこれを許しませんが、もうその当時においては、ああ死んだかというような、全くその死者に対して、同僚さえもが友愛の道を示さないというようなふうな、頽廃せるところの雰囲氣でございましたか。
  157. 小峰光治

    證人小峰光治君) 全くみじめな雰囲氣でした。屍体は炊事場の野天に置いてあつたのであります。そうして自分なんか持つて行く時に、やがてはおれ達もこうなるんじやないかというような氣持を持つておりました。そうして名前も知らないというのは、当時工場なんかは、非常に隊員の入り替りが激しく、そうして全然今までいた隊の身近の人以外には、名前も殆んど知らなかつたのであります。そうしてとにかくその屍体を運ぶにもマーチヨが一台しかない。コンビナートの例のアジヤホイから借りられるのは一台しかない。屍体を運ぶにはその一台を利用する。パンもほしいし、ダムドルジに持つて行くには三里もある。一日掛りで、一回運ぶためにはどうしても二台馬車が要る。その馬車を如何にして二台にするかということは、本当にアジヤホイに行つたり來たり、その努力は容易でなかつたのであります。
  158. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 そうしたら特に苦労なさる程、そんなに沢山屍体を運ばなければならなかつたですか。
  159. 小峰光治

    證人小峰光治君) その前にもあつたのであります。
  160. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 あなたは僅かに二回しか運んでおられない。
  161. 小峰光治

    證人小峰光治君) 私は本來糧秣受領で一台で行つていたのが毎日の任務であります。
  162. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 二回運ぶのにそれだけ馬車を貸附なさるのに御苦労なさつたという……。
  163. 小峰光治

    證人小峰光治君) 屍体を運ぶために……。
  164. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 それから運ばれた後にそのあなたの戰友はどこに持つて行つたか。どういう所に。何か日本人の共同墓地とか何とかがありますか。
  165. 小峰光治

    證人小峰光治君) 約三里ぐらい離れた所に、日本人病院でありますダムドルジ病院があります。そこに持つて行きました。
  166. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 そこには墓かなんか掘つて……、何か野つ原に投げ捨てて置くのでありますか。勿論冬であつたら、零下四十度ですから鶴嘴も掛らんので、そのまま放つて置くか……。
  167. 小峰光治

    證人小峰光治君) 屍体を医官の人に渡せばよろしい。その墓地の樣子は私は目撃しておりません。
  168. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 渡しさえすればいいですか。
  169. 小峰光治

    證人小峰光治君) はい。
  170. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 よろしうございます。
  171. 天田勝正

    天田勝正君 清水証人が参られましたので先程の質問を続行したいと思います。清水証人に伺いますが、あなたは炊事班長としてやつておられたのでありますが、先ず大体吉村隊に來る配給の総量は、誰が決定されますか。それを御存じですか、知らなければ保留します。
  172. 清水一男

    證人清水一男君) 質問ですが、一人の定量ですか。
  173. 天田勝正

    天田勝正君 こういうことです。吉村隊がひどいひどいと言つているけれども、そのひどいというのは比較の問題で吉村隊だけにおつては分らないが、吉村隊は幾ら他の隊は幾らという配給があるんですか、その配給の総量を決定するのは誰が権利を握つていましたか。
  174. 清水一男

    證人清水一男君) それは蒙古政府の命令であつて、各收容所とも日本人一人に一日に與える量というのは規定で決つておりました。吉村隊もその量に何ら変りなく受領しておりました。
  175. 天田勝正

    天田勝正君 そうすると吉村隊のように、ノルマを他の隊より非常によく挙げても、食糧が余り殖えなかつたと、こういうことが言えますが。
  176. 清水一男

    證人清水一男君) はい。
  177. 天田勝正

    天田勝正君 では吉村隊の中で幹部の人達であるとか或いは隊長、そういう人達と一般の兵隊食糧に段階でもついておりましたか。ついておるとすればどういう段階でしたか。
  178. 清水一男

    證人清水一男君) 收容時の前期においては、將校の方に白米を給與しろという命令を貰いましてそれで與えました。併し前半期になつて量的には何も將校の分として余計受領してもおりません。ただ煙草だけ兵は五グラムであるけれども將校には十グラム給與されました。それだけであります。
  179. 天田勝正

    天田勝正君 それでそういうふうに受領はされないで、兵であろうと將校であろうと、同じに受領したものを、直接あなたが炊事をされて、そして配る場合にはそこに差がありましたかどうか。
  180. 清水一男

    證人清水一男君) ありました。
  181. 天田勝正

    天田勝正君 誰が決めたのですか。
  182. 清水一男

    證人清水一男君) はい、当時バズルスルンという收容所長から、吉村隊長殿と酒井医官殿と久保田、炊事兵隊でありますが、主に馬の方をやつておりました、その者に白米を食わせろと言われまして、一袋の米を受領しました、それを與えておりましたのです。
  183. 天田勝正

    天田勝正君 そうするとその命令でそういう区別をつけたのですか。
  184. 清水一男

    證人清水一男君) はい。
  185. 天田勝正

    天田勝正君 後は全部同じであるということですか。
  186. 清水一男

    證人清水一男君) バズルスルンの命令でもあつたのですが、そのときに吉村隊長殿の私に対する言では、バズルスルンの命令より以上に要求されたことがあります。
  187. 天田勝正

    天田勝正君 吉村自身が……。
  188. 清水一男

    證人清水一男君) はい。それから米でありますが、通訳のエリツチ・サンボーに米をやつて呉れと言われ、一キロ乃至二キロを二、三回やりました。それから吉村隊長殿の暖衣飽食に関してでありますが……。
  189. 天田勝正

    天田勝正君 つまり今おつしやつたのはエリツチ・サンボーにしても、何にしても、そうした横流しを命ぜられた、こういうのですね。
  190. 清水一男

    證人清水一男君) はい。
  191. 天田勝正

    天田勝正君 ではちよつと待つて下さい、絶食等があつたわけですが、その絶食させられた兵があるとすればですね、それだけ他には食糧が廻つたわけですが、つまり仲間が食わないということで、他の仲間は今度は余計食える、こういうことになつていましたか。
  192. 清水一男

    證人清水一男君) はい、絶食に関してでありますが、絶食されたその罪状はどういうものか、私にはよく分りませんが……。
  193. 天田勝正

    天田勝正君 それはいい、絶食ね、一人の人が例えば小峰さんが絶食すれば、その分だけ余りますね。それはその余つたものが外の人に行つたのか、特定の人にでなくて平らに割られたのか。
  194. 清水一男

    證人清水一男君) それは絶食の糧秣が余ると、それを吉村隊長殿は日に一人二人隊長殿から頂いた來た傳票のようなものを出して、炊事班長この者にパンを一本やれ吉村、というような傳票が私の許に來ました、その者に渡しておりました。
  195. 天田勝正

    天田勝正君 もう一つあそこには長命隊を初めとして二十か三十かの收容所があつたわけですね。その二十か三十かの收容所においては絶食等のことがあつたかなかつたか。知らなければ知らないでいいのです。これはあなたに質問しても無理と思いますが……。
  196. 清水一男

    證人清水一男君) 恐らくないと思います。
  197. 天田勝正

    天田勝正君 狹い土地ですから、直接向うの炊事班長とか或いは糧秣受領員、そういうような人達と話合つたことはありませんか。
  198. 清水一男

    證人清水一男君) はい。
  199. 天田勝正

    天田勝正君 ない……。
  200. 清水一男

    證人清水一男君) それは小峰班長が聞いて來たことであつて、他の收容所には絶食というような過酷な処罰はなかつた記憶しております。
  201. 天田勝正

    天田勝正君 清水証人に対してはこの程度で打切ります。
  202. 千田正

    千田正君 原田証人にお伺いいたします。先程酒井幸次証人お話の中に、酒井証人の部屋において池田隊長と蒙古側のモジツク中尉並びにエリツチ・サンボー通訳に対して金銭の授受があつたということを証言されております。その際酒井証人から原田通訳原田証人に向つて指一本はいくらだという質問に対して、一本は千円だ、五本は五千円だという意味のことをあなたが申されたという証言がありましたが、これは実際において酒井証人の言う通り、池田隊長から蒙古側に対してそうした贈賄若しくは金銭の何らかの意味において授受があつたが、そのときあなたがどういう立場においてそうううことに対する通訳をしたか、或いはその授受に関してどういう関係があつたかという点について証言を願いたいと同時に、その金銭がどういうところから出て來たのか、酒井証人の言う通り、池長隊長は俸給は二百円しか貰つておらない、併しそのとき渡したところの金は千円若しくは数千円に亘る金が渡されておる。その金がどこから出て來たというようなことが、あなたが常に身辺におつて通訳しておつた関係上分つておるならば、その点証言して頂きたい、以上の証言をお願いします。
  203. 原田春雄

    證人原田春雄君) 先程酒井幸次氏からお話のおりましたことは事実その通りであります。次に今お尋ねになりました私がその間にあつてどういう立場にあつたかということでありますが、当初は蒙古側の將校とか、監督者などから吉村氏に対して要求されたこともあります。又要求されないのに吉村氏から申出たこともあります。その盡くが私を通じたとは思いません。結局そのうちの何回かは私を通じてその間の授受がなされたことは事実であります。次にその金はどこから手に入つたものかという疑問は私も当然抱きまして、一度吉村氏に尋ねたことがありますが、そのときに吉村氏は工場長から褒美に貰つたというようなことを言つておられまして、私はその当時愚かにもそれを信じておりましたのと、もう一つは私の立場上、隊長と言わず、將校と言わず、又隊員のどなたを問わず、その人々のプライベートの問題については一切の干渉をしないという立場を取つておりましたので、不幸にしてこういう結果になつたものだと思います。
  204. 千田正

    千田正君 重ねて質問しますが、この工場長から貰つたという池田証人のあたなに言うた言葉は、これはこの工場長は多くの隊員超過ノルマによることに対する、特殊なる報酬が拂われるべきものを、池田隊長が私して、そこに或る程度の金を着服し、それによつて、そうした蒙古側に対する贈賄をしたように見られますかどうか。そういうふうにあなたは感じたかどうかという点について……。
  205. 原田春雄

    證人原田春雄君) 先程申上げましたのは、そのときの吉村氏の話でありまして、後程例のモヂツクという收容所長の軍法会議にあけるときの有様から考えまして、そのときすでに兵隊に拂われるべき筏揚げ作業の報酬、及び工場における過剩ノルマに対する報酬等を合わせまして約三千余円、そのうちの若干は吉村氏から特に吉村氏の單独で定められた人々に若干はお渡しになつたように思いますが、それ以外には吉村氏が持つておられた。尚工場長から特別に吉村氏に賞與として渡されました金は、私の知つている範囲内ではたしか六百円、俸給以外に渡されたことがあつたと思います。それ以外は殆んど兵隊に対する報酬のうちから一割、二割天引きで兵隊に渡して、而もその金を全部着服されたとは思いません。そのうちの若干は吉村氏のお氣に入りと申しますか、或いは作業のよくできる人らにも渡つている筈であります。尚弁護のようになりますけれども、私は蒙古側から月々五十円の給料を貰つておりましたので、吉村氏に一銭の金をねだつたこともありませんし、又頂いたこともないことを明らかにして置きたいと思います。
  206. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 証人の常識としては成るべくそういう文書を見ないでお答え願いたい。そういうものを朗読したり、或いは見るということは大体原則でない筈ですから、私の問いに対して、全くあなたの心のうちの心証で御返答願いたい。一つ最前千田委員質問がありましたが、それに対して收賄か、贈賄かというような意味の金かというようなお尋ねの点もあつたが、その点の、いわゆる金をモヂツク、或いはその他の参謀にやられたその金の性質ですね、いわゆる贈賄というようなふうに考るべき性質の金であつたか。それからもう一点は、数回その事実を知つている。その数回の、今記憶に残つている数回の実際の場合をここでお述べ願いたいと思います。以上二点。
  207. 原田春雄

    證人原田春雄君) 贈賄であつたか、收賄であつたかという点は、その当時は蒙古側から要求する場合には貸して呉れ、又吉村氏から申出る場合には貸してあげましようという貸借関係であつたのであります。それが返済された事実は私を通じてあつたことは一度もありません。それからその次のお尋ねは、ちよつと……。
  208. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 最前の千田委員のお答えのうちに、数回私もそれに立会つたという、その数回の一つ一つ、どういう場合であつたということ……。
  209. 原田春雄

    證人原田春雄君) 数回取次ぎましたのは、モヂツクという中尉が一回と、それから警備隊長をしておりましたサンドラという少尉、これに三回ばかり走らされております。それから後程收容所長になりましたバズルスルン、これには二回走らされております。
  210. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 今からその当時を願みてでなくて、あの環境の中に置かれておつた場合に、権力を持つておるいわゆる蒙古政府或いはソ連政府の軍人や役人等からいろいろな金品の贈與或いは貸借を要求されたときに、その條件下において、その要望に應えざるを得なかつたというふうに、通訳としてはお考えになつたのですか。僕であるならば、あの環境の中に置かれても、当然隊長としては拒絶することのできた問題であるというふうにその当時においてはお考えですか、どちらですか。
  211. 原田春雄

    證人原田春雄君) 私自身も蒙古側から要求されてお貸ししたこともありますが、若しも自分の金があつて、而もその持つておる範囲内の金で向うから要求された場合には断ることはできませんでした。但しそれが自分の金でない場合には、当然早く自分の懐ろからこれを吐出すということが最も妥当な策であつたと思います。尚こちらから進んで向うに贈るという必要な全然感ぜられなかつたのであります。
  212. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 昨年の池田証人証言によるというと、軍法会議によつて処刑されて、そうしてその位階を剥奪されたモヂツクですか、その事件のいわゆる公判の場合には、あなたは立会つておられましたか。
  213. 原田春雄

    證人原田春雄君) 立会つておりました。
  214. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 そのときに、いわゆる池田隊長はその事件に召喚されて、そうして証人として尋問を受けましたか。
  215. 原田春雄

    證人原田春雄君) はあその通りであります。
  216. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 その際結局判決をされた事件内容については、後で私、池田隊長とあなたとの対決を求めたいと思いますが、よく内容を御記憶でありますか。
  217. 原田春雄

    證人原田春雄君) 記憶しております。
  218. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 食事のことで小峰証人に伺いたいと存じます。小峰証人糧秣受領人として毎日受領に行つておいでになつたようでございますが、その受領所は池田隊だけの受領所であつたか、ウランバートルに二十二の收容所がありましたうち、何箇所があなたの取りに行かれた所に同樣に取りに來ておつたか。他の收容所からもあなたの行つておられた所に何箇所か同樣に取りに來ておつたか、あなたの所だけであつたかということ……。
  219. 小峰光治

    證人小峰光治君) 主に、ウランバートルに十数箇所の收容所がありました。そうして各收容所から原則としてその際に蒙古側の糧秣受領責任者、これが傳票を持ち、日本側の糧秣受領用員が一緒に附いて自動車若しくは馬車で一緒に行きました。
  220. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 いや、私の質問はつきりしないようでありますが、あなた達の取りに行かれる糧秣受領所には、外の所から同樣に取りに來ておつたですかどうですか。池田隊、甲隊、乙隊同樣に……。
  221. 小峰光治

    證人小峰光治君) そうであります。同時に來ました。
  222. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 そうしますると蒙古「するめ」を食つておるような、池田隊だけは食糧が不足しておる。他の隊はそういうことは全然ないというような状態の下において、あなたが取りに行かれて、他の隊もこういう状態であるかということを不審を以て他の人達に話されたことはなかつたですか。
  223. 小峰光治

    證人小峰光治君) 非常に糧秣受領が不円滑のために各隊一同集まつていろいろな話が出ます。そういつた話も当然出ました。そうしてさつき清水証人が言つた通り、定量というものはどこの收容所でも同じでありますから、池田隊だけが受領する糧秣内容が違う、定量が少いということは全然ありませんでした。
  224. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 そうすると、小峰証人自分の貰つておる、食べておると同樣なものがどこでも食べられておると、こう考えておつたか。
  225. 小峰光治

    證人小峰光治君) 考えるというよりは、それが事実でありました。外の收容所が現実に持つて行つた物と、自分收容所へ持つて來た物と同じでありますから。
  226. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 そうすると、あなたが持つて來られる途中で隊長命令で、これはどこへか賣つて來い、これはどこへか流せというような命令を受けたことがありますか。
  227. 小峰光治

    證人小峰光治君) そういう命令は全然ありませんし、蒙古側の歩哨も附いておりますから。
  228. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 清水証人に伺います。清水証人は特に隊長室に相当な御馳走を持つてつて何遍も御馳走をちよちよい出すというような状態があつたかどうか。
  229. 清水一男

    證人清水一男君) 吉村隊長に特別におかずを作るために炊事兵隊で大平という者を私は命じて置きました。
  230. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 專任にして、專属させて置いたのですか。
  231. 清水一男

    證人清水一男君) そうであります。
  232. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 そうしますと、週に何回かは数人の者が集まつて隊長室で御馳走を食べておつたという事実がありますか。
  233. 清水一男

    證人清水一男君) 隊長室においてはありませんが、炊事においてあります。
  234. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 炊事室で……。
  235. 清水一男

    證人清水一男君) はい。
  236. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 それは週に何回くらいそういうことが常例になつてつたのですか。
  237. 清水一男

    證人清水一男君) 週に約一回ずつ幹部が会議を聞くことがあります。  そのときに米と砂糖によつてぼた餅を作れと言われてぼた餅を出したことも数回あります。
  238. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 酒を飲みながら「曉に祈る」を見ておつたということが噂されておりますが、酒を出されたことはありますか。
  239. 清水一男

    證人清水一男君) 酒は隊長自身が買つて來るのであつて、私は知りません。
  240. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 そうすると、酒を事実飲んでおつたということを目撃されておりますか。
  241. 清水一男

    證人清水一男君) しております。
  242. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 毎回酒は出ておるのですか。会議のときには大体出すのを常例にして……。
  243. 清水一男

    證人清水一男君) 私が目撃したのは二回であります。
  244. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 それから幹部というものはどういう人で、何人か、名前でも御存じであるならば御発表願いたい。
  245. 清水一男

    證人清水一男君) 主に隊長室に起居を共にしていた上田准尉殿、それから高橋准尉殿、久木原少尉殿、伊東少尉殿、原田さん、酒井医官殿、あと記憶ありません。
  246. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 班長自身はそれに加つつておりませんですか。
  247. 清水一男

    證人清水一男君) 私は加つておりません。
  248. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 その外に、俗に言う子分である親衛隊というような人達は加つていないのですか。
  249. 清水一男

    證人清水一男君) 西村曹長も加つたことがありました。
  250. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 以上であります。
  251. 岡元義人

    理事岡元義人君) 議事の進行上阿部証人証言が残つておりますので、その証言を終りまして、一應お晝の切りをつけたいと思うのですが、阿部証人証言を願います。先ず一点は、あなた石切場に從事されたということでありますが、石切場において毆られて死んだという菊地、山本、その外一名の名前が未だ分つておりませんが、名前が分つてつたらば述べて頂きたいのと、そのときの状況をば知つておられる限り詳しく、誰が一体毆つたのか、それでどういう工合にして死んだのかという点述べて頂きたい。
  252. 阿部忠

    證人阿部忠君) 結論から申しますと、それらの事実は私の傳聞でありまして目撃しておりません。それらのあつた事実は私達が轉入する以前の事実でありまして。尚それに関連いたしまして、石切場の作業が如何に苛酷であつたかというのは、外の証人からも述べられておりますが、自分達はハンマーと箭で以て石を切り出す仕事で、余りの辛さに立つて骨休みをするというと、いきなり後から來てぶん毆る。これは私も不意打ちを食いまして、西村が、通称小櫻とあだ名されているのだそうでありますが、その曹長にぶん毆られたことがあります。そのようにして私達がやつていた作業場におけるその仕事に日々怪我人と、それからそのような状況においてぶん毆られる人々の姿をしばしば目撃しております。例えば或る朝、確か九月の二十日頃だと思います。朝整列して、明け明けに整列して、明け方までに山の麓へ行くのでありますが、兵舎から出ると、俄かに腹痛がすると言つて五人ずつ並んでおる隊列の者がぶつ倒れたのです。そうしたらいきなり仮病使つてあれだと言つて打つ、蹴る、毆るということをやつた。それは誰がやるか。白帽子乃至彼らの使つていた伊東、丹治、それから西村という棒を持つてただ皆を督励して廻る作業の督戰隊だつたのです。その連中がぶん毆つてぶん毆つた挙句に、癖になるから連れて行けというので、僚友を両肩に抱えて作業場まで持つて行つた。そのときに私達はあれだけ仮病を使う筈はない、使つたなら又減食だ、食いたいばかりに、生きて内地に帰りたいばかりに働いておるのじやないかという氣持で一杯だつた。一人倒れたためにほかの二人も絶食だつた。それらのものを私達が目撃して、力一杯働いてできないのに、尚且つ絶食するというそういう理不盡さを余りに感じさせられていました。数々傳えられる「曉に祈る」というようなものも、この炊事の奥に死体が投げてあつたのだということを私達がその收容所へ行つて現場を示されたのであります。そのときには勿論夏過ぎ秋かかつて、氷の張つておる時代でもありません。そういうものはありませんでしたが、先程どなたかの委員質問にあつた自分が担いだ死体の名前が分らんか、これは常態における自分達の内地の編成における部隊の僚友なら分ることであります。收容所は第一番に、行く前に、輸送するときに、輸送の都合によつて組まれる。自動車に乘せられて行けば自動車の都合によつて組まれる。千名になり二千名になる。それも向うの作戰的な意図があつたのでしよう。満足に一つの部隊を一つの部隊として持つて行くのではなくして、ばらばらに組立てて動かす。收容所の中に入つても隣の部隊も分らないのです。私達も罐詰工場に最初入つておりました、承徳から一緒に行つた者の名前も顔も覚えておりますが、轉属から轉属、なぜ轉属するか。これから春の耕農期になりますと、先ず農場へもやられます。又筏流しも始まります。冬になれば伐採へやられる。又眞夏のときは煉瓦造りもさせられる。その度に職場々々に移動させられて、その末梢の隊員関係は常に交流していた。自分達の宿舎が一つつたら名前が分らん。どこの誰か分らんのが常態でありました。吉村隊に私が入りまして、私達は飽くまで民團のグループを壞さないために、吉村に頑張つて民團の兵舎、いわゆる第二兵舎を貰つて、そこで民團がまともに與えられた三十サンチの幅も抛棄して、坐つても頭も届かんばかりの三つ切の中に押込められて我慢したのであります。民團は民團でかたまつて、それらのグループだけで、一歩離れた第一兵舎兵隊は誰の誰か、どこの部隊から來たのか、どういう経路で入つたのかも分りませんでした。それは日々の作業が朝明けに連れ出され、力一杯働いて疲れて帰り、自分達の飯を食いながら居眠りをする。実際不精の兵隊と言われるかも知れませんが、私達はしば靴も脱がず、飯をかつ込むと、そのままごろつと朝まで寢て、起床だというので叩き起されて飛んで行く。巻脚絆を取つて寢ていて朝の集合に遅れると、遅れたからというので罰を喰う。そのときの寢具といつたら、私達が與えられておつた物は関東軍製の毛皮のオーバ一枚、毛布一枚、上衣、袴、袴下、襦絆一枚ずつ、これが全部であります。そういうようなものを、自分達は寢起きに当時は着たままで、そのまま作業に行くという状態である。疲れ切つていて、外の隊の誰かということを、名前をお互いに知り合つて話す方法がなかつたというのが眞実なんです。自分達が生きるために力一杯働いておる。働いても尚且絶食とかというものが吉村部隊だけにあるということを、私は自分の体驗からはつきり申上げます。何故ならば、私はその前に罐詰工場と言われておる、通称言われておるミヤソ・コンビナータと言われておる工場にいたのであります。そこは一切のそういう処罰もなく、蒙古から命令された処罰は、集團的な戰勝軍に対する反抗的な騒動、若しくは逃亡、特殊な逃亡、それらのもの以外は隊長の自治に任せられておつたのであります。從つて蒙古側から一切の命令で処分される特殊の場合は殆んどない、罐詰工場でそれらによつて処分されて、日本人の隊長によつて日本人が処分されたことはありません。それは私達はみんな互いに生きて帰らなければならないというために、みんなが一致團結して、みんな惡いときには一緒になつてつて行こうじやないかというので、名前を申上げますが、現に隊長であつた有海誠という人も、團長をやつておりました。この仕事ができなければ手傳おうと、自分も一兵卒としてやつたのであります。そういう空氣の所に育つてつたのであります。私は恥を言いますが、蒙古側の作業が始つてから肉も掻ツ拂いました。貰つてはいけない、授受をしてはいけないと、それは禁じられていたが、蒙古側から禁じられておるものを、ソ連人はお前達は腹が減るだろうというので呉れるので貰いました。それから蒙古人も呉れました。自分達の上着も脱いで賣りました。私は時計も賣りました。吉村隊に参つたときには、自分は三十五キロのメリケン粉を持つてつたのであります。それで食いつないだのであります。煮炊きは許されません。火もありません。私達は生のまま食つたのであります。現在では下痢をするでしよう、当時は下痢をしませんでした。それをいつまで続くか分らん日のために、私はそれらのものをお互いに三匙、四匙と毎日いつ終るかも分らんが、あるだけやろうというので、私達の僚友に分けてやり、そうやつて自分達は食いつないで來たのであります。例えば「あかざ」が生える春になりますと、ヴイタミンDかAか私は分りませんが、とにかく野菜がなければ懐血病になるというので、青草が芽を出すと掴んで食うのであります。不衛生だ、腹をこわすといつて蒙古側から禁じられているのであります。いけないにも拘わらず柵内にある草は全部食い盡し、柵の外には草が青青と生えておるのでありますが、止むを得なく柵の外の青々と生えておるのを取るのであります。それでも蒙古側は特に逸脱して脱走と看做されない限り、これは默認しておりました。お前達はそれは余り食べてはいけないと言つてつておりました、見て見ない振をして、歩哨も見ずに背を向けた。一々そういうような環境にあつて、蒙古側の命令だからこうだといつて、やつて処罰されないのが実情であります。付されませんのが実情であります。それが自分達の僚友の物を取る、或いはそれを敢て戰勝國の意思に反して、極端に自分達が生きる、自給行爲の範囲を超えてやつたとみなされる場合、それらの場合は、蒙古側から嚴重に抗議が來て、やられました。兵隊が食べ物を盜るだけに対しては一切同情的でありました。これは私達が明日にも冬が來る、冬が來たならば困る上衣を、今食いたい一切れのパン、たつた四分の一のパンに替えたのであります。そのために眞冬になつたときは、夏の上衣一枚でがたがたふるえながらいる、それでも仕事をしなければならない。そういつてところの切実な飢餓線上をさまよつておるところの心境において、例えば笠原氏が言つた靴一足盜つたこと、過剩ノルマで、分らないように作つた、私達は罐詰工場で沢山物を作りました。私も機械工場に入りまして、月々五十円月給を貰つてつたのであります。それで余暇を見てナイフを造る、又蒙古人のいろいろな鍋、釜の修理をしてやる、その外彼らの欲しがる物を斡旋してやるということは、食べ物に代るべき金が欲しいのではなく、金で買い得るパンが欲しかつたのであります。そのためにそれらのことをやつてる。そういうのが実際の收容所内におけるところの実情なんであります。だからお前が窃盜したと現在ここにいて言われる日本人の皆さんが考えられる窃盜における常識と、当時におけるそのことが窃盜と言われていいかということさえ私は考えておるものであります。それは窃盜ではないのだ、窃盜であつたら、勿論大いに良心に恥じる破廉恥罪として処断されなければなりませんが、当時そうすることが殆んど常識かのようであつたのであります。それで私達が肉をかつ拂つてつて來た、團長初め……。今日はこれだけ持つて來たというのを、蒙古の收容所長も廻つて來るが、見て見ない振りをする。余り度の過ぎるときは、それはいけない、もう少し止めなければいかんという注意を食つたこともあります。だが併し、それらの実情において生きて來た捕虜が、一度吉村隊に入るや否や、それらの事実が逆轉する。蒙古人からパンを貰つたということでも許されない、取上げられなければならん。例えば自分達が今自分のカバンを造るために皮を取らせていながら、一人の者が靴を持つて來る、一人の者がパン切れを持つて來るのを摘発するということは、私からして言わしむるなれば、全く官長個人の感情、あいつは氣に喰わん、あいつは生意氣だ、あれはどうだというものに対して、たまたまそれらの事例を摘発して敢てやつたとしか思えない。若しそれらのいわゆる嚴重な意味で、一つつても窃盜であるならば、日本人の捕虜は全部窃盜にならざるを得ないと思います。そうしなければ生きて帰れないのが実際の捕虜の……。
  253. 岡元義人

    理事岡元義人君) 発言中でありますが、証人の現場のノルマは非常に過酷であつた、過酷なノルマ吉村隊長命令であつたと思われるのか、或いは收容所長の命令であつたと思われるのか、その点を一つ……。
  254. 阿部忠

    證人阿部忠君) 話の続きですから結論に参ります。それらの実情でありましたのに、尚且作業をやつて、そんなにノルマが強化されなければならないということは、外の工場においてはなかつたのであります。できないときは止むを得んとみなされたときには、何ら処罰されなかつた。ところが吉村隊は、飽くまでも作業をやらなければ処罰する。私は飽くまでも、蒙古のノルマは、ロシヤの設定されたもので、蒙古でも勝手に動かしておるものではない、基準量は一定しておると思います。從つて私は石切場のノルマは一立米が基準量だと信じております。それが現場の監督によつて一立米半になり、或いは二立米になるということはあるかも知れませんが、そういうことはあり得ないかも存じませんが、私には信じられません。何んとなれば蒙古人に仕事をやらせても、日本人程できるのがない、それが又、我々が生きて帰り得る素因でもあつたのであります。何故過酷かというのは、外の收容所では全然見られない、それらの八時間労働という鉄則があつて外の收容所では縛られる。夏期には七時頃までやつたこともあります。それらも一般的に七時頃になれば帰された。ところが吉村隊はそうではない。何時になつても仕事が終らなければ帰さない。私も石切りをしていたときに歩哨も見えなくなつた遥かに暗くなつて、それらの連中が歩哨のところでもうこれ以上彼らの目にも逃亡を監視することができないという状態になつた追い帰された。拳銃で追い帰された。私達はその日の晩まで、ノルマを上げるために暗くなつてから追つ拂われると帰るのが石切り作業ノルマの実情であります。これらのものは蒙古人或いは外の收容所におけるところの時間制のノルマというものを甚だ逸脱しておると思う。これが明らかに苛酷な労働でなくて何でありましよう。そうして睡眠時間も與えられないで、次から次と石切りをやり、材木運びもやりました、先程言つた筏揚地の材木であります。それらのものをノルマ以外にやらされたという点がそれは苛酷な、いわゆる残虐的な過重ノルマでなくて何でありましよう。それらの実益はどこへ行つたか私は知りません。私は作業をやつてノルマを上げた日に増配を頂きました。恐らく増配と称するものも或いは欠食者の方々のであつたかも知れませんと今でも思つております。それらの増配も私たちが貰つて、恐らく蒙古では、それらの欠食者があつたということを正規に命じたならば傳票に現われる筈だと思います。これは外の証人もいらつしやると思いますから知つておると思いますが、一食でも欠食者があればその日のノルマの定量からその他に行く糧秣を削るのであります。私も約三ケ月今の罐詰工場糧秣係をやつておりましたので知つております。若し正規に命じたならば、糧秣係からそれだけの分を差引かれる筈だ。半日でも一回でもそうされておる。そういう事実があつたかどうか、これは委員長からお調べ願いたいと思います。恐らくそれらのことが蒙古側の命令であるならばよし、そうでなかつたらそういう場合にノルマの傳票が出なければならない筈だと思います。それだけのものが與えられて、欠食されたその食糧がどこへ行つたか私は分りません。少なくとも超過ノルマをやつた場合に、我々の分としてそのときにだけしか貰わなかつた。ところが超過ノルマをやつたのはそのものの三〇%、よいときでその程度でありまして、私のおりました時には……。後は尚且三〇%くらいはいつも断食組がいた、こういう事実であります。断食させられたことも二、三回は私は欠食をいたしました。それらのものがどこえ行つたか、これらの点を一つ御追及願いたいと思います。
  255. 岡元義人

    理事岡元義人君) 皆さんにお諮りいたします。午前中の審議はとにかく先ずここで打切りまして、午後池田証人と尚酒井証人原田証人を同席して審議を進めることにいたしましが、御異議ございませんか。
  256. 天田勝正

    天田勝正君 ここに見えらおられまする証人にまだ質問が大分留保されております。この人方をとにかく呼ばれて、それから始めるようにお取計い願いたいと思います。
  257. 細川嘉六

    細川嘉六君 私も先程からここにおられる証人質問したいと待つておるのですが、午後もここにおられる証人に御出席を願いたい。
  258. 岡元義人

    理事岡元義人君) 各委員にお諮りしたいと思うのでありますが、午後に入りまして本日の議事の進行上時間との関係を睨み合わせまして、尚質問を、今出席されておる方々に対する質問を続行いたします場合には、相当本日の議事の進行が遅くなると考えられますのですが、この点如何なものでございましようか。
  259. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 むしろそれを折衷して池田証人に同席さしたら如何です。そうして質問に應じては……。
  260. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 その点は一つ矢野委員に御了承を願つて一應このままの形態で行く。それから各委員質問は成るたけ簡單にするということと、それから四時、五時に終るということでなくしてでき得れば、今日の日に結論を出すということは至難でありますが、一應終りたい。そこで今日とても五時というような時間に終ろうなんということはちよつと考えられません。だから或いは八時、九時までやるとかいうことを一應委員長からお諮り頂きたいと思います。
  261. 岡元義人

    理事岡元義人君) 一應午前中の審議をここで打切ることにいたしまして御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  262. 岡元義人

    理事岡元義人君) では証人の退席を願いまして、尚委員の方にお願いたして置きますが、休憩に入りましたならば、五分間か十分程そのままお残りを願いまして、打合わせを願いたいと思います。午前中の審議をここで休憩にいたします。    午後零時十七分休憩    —————・—————    午後一時十四分開会
  263. 岡元義人

    理事岡元義人君) それでは只今から午前に引続き委員会を開会いたします。
  264. 細川嘉六

    細川嘉六君 原田証人質問いたします。原田証人通訳として收容所に対する指揮命令関係問題に立会つておられたのでありますが、先程から問題になつておるソ連がこれを指揮命令をしたかということについては、先日言われたようにそういうことはない。指揮命令は外蒙がやつた。ソ連と外蒙とは國際関係上同盟國である。そうして或る場合には顧問があつて意見を出したということもあるのでありまするが、指揮命令はしておらん、ソ連はしていないというふうにあなたは言われたように思うが、これについて間違いはないか、それが一つであります。それから收容所内のことは一々外蒙が命令したのかどうか、主要なことは命令したが、後は自治に任して置いたのかどうか、ノルマ以上に働かせるとか、時間以外に働かせるとか或いは減食させるとか、絶食させるとか、その他「曉に祈る」等の処罰をやるとか、こういうようなことは外蒙側が命令したのかどうか。それから次はモチヨグ中尉が告発されたが告発した者は誰か、横領であるとか收賄であるとか、その場合池田元隊長が弁護に立つた……。弁護か或いは参考人に呼ばれたとか、そのとき何を言われたか。それから又池田元隊長が憲兵であつたことを隠していたが、それがばれて、尚それにも拘わらず隊長となつて踏み止まつた、その事情は何であるか、それから最後にノルマを超過した場合給與が與えられる筈であるが、その超過した場合は一々正確に報告したかどうか、これらの点についてお答えを願いたいと思います。
  265. 岡元義人

    理事岡元義人君) 原田証人証言を求めますけれども、証人の方に申上げて置きますが、先程全然記録等を見てはいけないという矢野委員の御発言がございましたが、それは全体的に見ていけないという意味ではないと思いますので、古い記憶その他に対して記録等はどうしても見なければならない場合においては御覽になつても差支ありませんから、一言附言いたして置きます。尚各委員にこの際申上げて置きますが、今ここに出席されておる証人証言は大体二時十分までに打切りたいと思いますから、そのつもりで御質問を願いたいと思います。
  266. 原田春雄

    證人原田春雄君) 第一番にソ連と蒙古の関係を申上げますが、この前に申しました通りでありまして、私の知る範囲ではソ連人の口から又はソ連人の名において命令その他、指揮を受けた覚はありません。
  267. 細川嘉六

    細川嘉六君 その通りならそれで宜しいです。
  268. 原田春雄

    證人原田春雄君) 次に蒙古側の命令によつて收容所が、どの程度に動いたかということでありますが、吉村隊と他の收容所比較して一緒に申上げますが、命令系統はこの前、申上げました通りであります。そこで吉村隊が主として前半期でありますが、モチヨグ中尉が收容所長になつたとき、ノルマ不足、工場の物品窃盜、逃亡者、この三つの種類の該当者に対してモチヨグ中尉が警備隊に命じて蒙古の歩哨がこれに立会つて処分をしております。その処分の例は、長谷川大尉が一週間の営倉を命ぜられたときに、蒙古の二人の営倉歩哨が付いて処分をしております。尚坂本三太郎という人が逃亡した場合にモチヨグが同じく歩哨に命じて、これを一日電柱に縛り付けた。その場合にも歩哨に監視を命じております。尚靴工場の田辺伍長以下五人の人が物品を窃取した場合にも、これはモチヨグが直接歩哨に命じまして、歩哨によつてこれを縛つて北門外の電柱に三名づつ一晩、これは立たしておりました。私の記憶では、蒙古側から直接我々が処分をされたのはこの三つの種類であります。そこで後半期に入りまして、モチヨグが更替しバズルスルンという中尉が來ましてからは、日本の兵隊の処分については一應吉村に任せてあるということをバズルスルンが言つております。但しこれは條件付きでありまして、その場合には、事前に必ず收容所長の所へ報告をしろという條件をつけて吉村に任しております。そこで二十一年の十一月ごろから、超えて二十二年の二月に至る、この三ケ月間、いわゆる石切り作業が非常にやかましくなりましたときに、吉村氏が殆んど連日連夜ノルマ不足の者を、主としていわゆる「曉に祈る」の刑罰を行なつたのであります。それは少いときで三名、多いときには二十五名に達しております。いずれも防寒具をつけて、初めは天井のない営倉に入れたのでありますが、遂に收容し切れなかつた者を、モジツクの曾て行なつた処分を思いついて、これを吉村氏が單独で外の電柱に繋ぐということをやつたのであります。私は、当初は吉村氏の命を受けて、このことを毎晩事前に收容所長に報告しました。そのときに收容所長は労働力に影響のあるような処分はしないように、尚ノルマのできない者を絶食にすると、尚更できないではないかというような注意を吉村にして呉れということで、私はそれを報告しました。更にこれが激しくなりますと、遂に收容所長にも報告をしないで、その刑罰を続行した事実もあります。尚たしか二十二年の一月だつたと思いますが、夜十二時ごろ收容所長があまりに刑罰が続くので、わざわざ私を連れて各現場を見廻りに來ました。そのときにこのまま、朝まで置くと非常に生命に危險があるというので、吉村氏にこれをほどいて班内に入れるように話をしました。そのときに吉村氏の答は、私も日本人です。この兵隊も日本人です。日本人が日本人を処罰するのに、決して生命に危險のあるようなことはいたしません、と申しましたら、バズルスルン所長は、成るほど日本人は文明人である。從つて、恐らくそういうことはないであろうと思うけれども、私にも責任があるから一應注意をして置く、こう言つて帰りました。そのうち若干の者はほどかれて班内に入つておりましたが、盡くほどかれたという例はありません。続いて蒙古側の警備隊の日直に当つております下士官が、前後四回に亘りまして、夜中に私を起しに來ております。それはいずれも繋がれておるものが非常に危いというので、入れることを吉村言つて呉れというわけで來ましたので、その都度私は吉村氏に言つておりました。その場合にも全部ではなくて、非常におとなしい人とか、或いは改悛の情のはつきりしておる人を吉村氏が調べて、それを中に入れております。併し或る場合には非常にうるさく、夜中の二時、三時というころに蒙古の歩哨がそれを言つて來ましたので、うるさがつて、前に收容所長に言つたのとは別の意味で、日本人が日本人を処分するのであるから、仮に生命にどういうことがあろうとも、決してあなた方に迷惑はかけない。だから放つといてくれというような答をしたこともあります。かくして「暁に祈る」の刑罰を受けた人は前後を通じて、延べ約百五十名を超えておると私は思つております。  次にノルマの問題で、向うの命令であつたかどうかという問題でありますが、これは主として問題になりましたのは、石取り山の石切り作業ノルマでありまして、これは当初八時間内に一立方メートルの石を切り出すというのがノルマであります。その後これが一・五になりましたのは、現場におりました蒙古人の監督が、吉村氏に一・五やつて呉れということを言つたのであります。それを吉村氏が承諾しましたけれども、現場におる日本の兵隊の人々が非常な不服を言つておりましたので、私は独断で監督收容所長のバズルスルンにこの事を言いましたら、收容所長は君らの作業に関する一切の命令権はおれが持つておるのだ。従つて現場の蒙古人が何と言つても問題にならない。それで君らは自分の所存でやれというのでそれを吉村氏に言いましたら、吉村氏はそれを石取り山の現場の蒙古人にそのことを言つたのであります。それで現場の蒙古人は非常に憤慨しまして、收容所長がそういうことをいうならば、自分は蒙古の司令部に行つて命令を出してやるというので、最高司令部のソソルバムの所に行つて、ソソルバムから收容所長に対して一、五立米を命ずるということの命令が出ております。その後これが二立米になり、或いは三立方メートルになつたということは全然吉村氏の独断でありまして、そのときに私に吉村氏が語りました言葉は、結局一、五立米をやらせるために一、五立方メートルを申渡したのでは、現在の兵隊の状況ではとてもやる人は幾らもいないから、だからお互いに掛引があるので、これを蒙古が一、五要求しておるのであるから、自分はそれを隱して兵隊に二立方メートルを要求するのだ。そうすることによつて初めて各人が一、五立方メートルを成し遂げるであろうというようなことを言つて、これは絶対に兵隊言つてつてはいけないということを申渡されたのが、こういうふうに遂にそれでもいけなくて、二、五となりやがて三立方メートルということに掛値が上がつてしまつた訳であります。次にモジツク事件の時に……。
  269. 細川嘉六

    細川嘉六君 減食とか絶食とか、こういうものはどつちの命令ですか。
  270. 原田春雄

    證人原田春雄君) 蒙古側の命令による処罰の條項としましては、一番軽い刑罰が訓戒でありまして、その次が減食、これは一日一回という刑罰はありました。
  271. 細川嘉六

    細川嘉六君 それは例外ですか。
  272. 原田春雄

    證人原田春雄君) いえ、例外ではありません。これは本人の反省を要する場合、一日一回の食事を抜いて反省をさせる。但し絶食という刑罰は向うにはありません。それからモジツク事件のときに、吉村氏は証人として喚ばれまして、私はその証人通訳として軍法会議に臨んだのであります。そのときに吉村氏はモジツクを弁護してはおりません。私は兵隊の金だから困ると言いましたけれども、蒙古側の收容所長が、金をよこせと言われるので進呈しましたと、こういう証言を與えまして、向うの裁判官はそれを承認したのであります。尚そこに三千円あまりの喰い違いがありまして、その金はどうなつたかと念を押されましたときに、吉村氏が、これは私が頂いて兵隊に分配しましたとこう言いました。更に裁判官はそれに間違いないかと念を押されましたけれども、吉村氏は断じて間違いはありませんと言い切つて判決が下つたのであります。尚これの告発をしました者は外にもおられるかと思いますけれども、私も向うのゲ・ペ・ウが毎日來まして、いろいろのことを聞きますので、それに対して実情をゲ・ペ・ウに話をしました。
  273. 細川嘉六

    細川嘉六君 密告者は日本人ですか。
  274. 原田春雄

    證人原田春雄君) 日本人であります。それからその次に憲兵であるということが暴露したにも拘わらず、なぜ隊長が罷免されなかつたかということでありますが、憲兵が暴露して場合に非常な恐ろしいことになるというのは、この前に申上げましたように全くの流言でありまして、事実憲兵であつたがために向うで処分を受けたり、いろいろな外の兵科のものと違つた境遇に入つた人は私の見聞する限りありませんでした。  次にノルマが過剩にできたものの報告というようなことは、これは欠かさずやつておりました。但し先程からもお話になつておりましたが、向うの増食、増食と申しますのはいわゆる一ノルマ百%やればそれで増食が出るのであります。大体パンが百グラム、ソーセージが三十グラム、白砂糖が十五グラム、このくらいが増食の基準量でありまして、これは百%を突破したのもに必ず與えられる。從つて百%以上無限大でありまして、仮に八百%やつたところで同じ量であります。でありますからより多くやればより多いというものではありません。基準量の百%を過ぎればそれに対して一樣に與えられる。幾ら過ぎようと問題でないという制度であります。
  275. 細川嘉六

    細川嘉六君 あなたは憲兵であつたということがばれたとき特別のことが起きないと言われるが、私の聞いたところでは、そういうことが起きた場合は、他の地域では隊長なら隊長の地位に止まれなくて、もつと下の地位に落されるという例であると聞いておりますが、その場合私に解しかねることは、元通り吉村隊長がその地位におつたということが分らないのでありますが、何かそこに事情がありませんか。
  276. 原田春雄

    證人原田春雄君) それは憲兵であるが故に云々ということは私何回も繰り返しますけれども、見聞しておりません。ただそれ以後にいわゆる「暁に祈る」その他收容所長の注意にも拘わらずこれが執行されて、而も死亡者が出るという状態に及んで、私共もいわゆる側近におる者としまして民族的良心からこれを蒙古側に告発しました。その場合に蒙古側の、これは内政部におりましたいわゆるゲ・ペ・ウ関係の人でありますが、この人の曰く、お前の言うことも尤もだと思う。けれども我が労働の國においてはすべてのことは労働によつて償われる。それは日本でもそうだつたじやないか。例えば……。
  277. 細川嘉六

    細川嘉六君 途中ですがもうそれで……。時間が大分長くなりましたから……。
  278. 原田春雄

    證人原田春雄君) もうちよつと申上げないと分りませんが、よろしゆうございますか。
  279. 細川嘉六

    細川嘉六君 私の求めんとすところは大体盡きましたが、あなたもつと言わなくちや済まないですか。
  280. 原田春雄

    證人原田春雄君) もう二分です。
  281. 岡元義人

    理事岡元義人君) 簡單に要点だけ……。
  282. 原田春雄

    證人原田春雄君) その話の続きであります。労働によつて償われると、從つて吉村の犯せる罪は成る程重いけれども、彼がなせる労働の効果というものはその罪を夏つて余りがあるではないか、こう言われました。
  283. 天田勝正

    天田勝正君 一つ委員長が適当に意見に亘らないように御注意願います。先ず原田証人に伺いますが、吉村君が現に穿いておるズボンはあれは日本製ではありません。そこでああしたものはどの收容者にも普遍的に貰えるものでありますか。特にああしたものを手に入れるというのには隊長であるとか、特段の人でなければ手に入りませんか。それは自分の金で買えますか。その点を先ず一つ
  284. 原田春雄

    證人原田春雄君) 今吉村氏が穿いているズボンが日本のものでないかどうか私確かめておりませんが、若し日本のものでないとしますと、仮に蒙古のものでありましたならば、当時これを入手することはさして困難なことではありません。
  285. 天田勝正

    天田勝正君 次に引続いて伺いますが、先程酒井氏の証言にありました朝晩材木運びをやる、朝の七時から夕方の五時まで工場へ行つて働く、こういうことがあつたのであります。一ノルマとは朝七時から夜五時まで羊毛工場においてなら羊毛工場に働くのが一ノルマであつて、あとは超過ノルマであるとこう解釈してよろしゆうございますか。
  286. 原田春雄

    證人原田春雄君) その通りであります。
  287. 天田勝正

    天田勝正君 次に酒井証人にお伺いいたします。あなたが材木運びをするとき、蒙古側は一日一本であるのにこちら側は七本を運ばせられたと、こう言つておるのでありますが、そうした他の例で蒙古側と日本の收容所の間においてノルマが違つておるというような実例がございますかどうか。
  288. 酒井幸次

    證人酒井幸次君) 蒙古人と日本人とのノルマの差につきましては、私共吉村隊は常に数倍のノルマをやつております。
  289. 天田勝正

    天田勝正君 ではその材木の七本というノルマは朝と夕方と二回を通算した七本でありますか。
  290. 酒井幸次

    證人酒井幸次君) そうであります。
  291. 天田勝正

    天田勝正君 一日にノルマを変更したと、その日の機嫌のいいときによつて変更したと、こう言われまするが、その最高と最低はどのくらい変更されましたか、その変更が吉村氏の個人によつてなされたという何かの実証がございますかどうか。
  292. 酒井幸次

    證人酒井幸次君) その量におきましては大体河原に積んである、まだ運んでない材木が六千本から、八千本、多い時に一万本以上のものがあるのであります。從いまして建築場に近い材料、それを製材する能力その他によりまして、状況によつて必要の非常に多いときと多くないときもあつたのはこれは事実であります。そのためにこのノルマに対しては吉村自身の恐らく考えるところであつたと私は信じておりまするが……。
  293. 天田勝正

    天田勝正君 信ずるだけ……。阿部証人にお伺いいたします。あなたは検察廳に勤めておられるので、裁判の方法等をよく御存じだと思いますが、この收容所内におきまする断罪の組織とその執行者はどなたであつたか、これは他の証人にも聞きましたが、この点をはつきりして置いて頂きたいと思います。
  294. 阿部忠

    證人阿部忠君) 命令系統にタツチしておりません関係上、正確なことは分りませんが、恐らく收容所内における実際自治は隊長以下任されていたようであります。從つて処分の結果に現われるもの、向うからの命令でやる処分には蒙古の歩哨がついたと思います。從つて歩哨の付かない処分に関しては恐らく隊長個人の意見であつたと私は思います。
  295. 天田勝正

    天田勝正君 引続いてお聞きしますが、では石切りをやらされ、石切りが「暁に祈る」と多く傳わつておるのでありますが、その石切りの石は花崗岩でありましたか、凝灰岩でありましたか、安山岩でありましたか。
  296. 阿部忠

    證人阿部忠君) 浅学菲才にして石は分りません。
  297. 天田勝正

    天田勝正君 私の方でいいます。ここの建築に使われておるような石が花崗岩、それから大谷石のような……。
  298. 阿部忠

    證人阿部忠君) 片麻岩かと思われますが。
  299. 天田勝正

    天田勝正君 それにハンマーというのと、矢と、こう先程おつしやいましたが、矢とはどういうものですか。
  300. 阿部忠

    證人阿部忠君) たがねであります。
  301. 天田勝正

    天田勝正君 それが日本におきまして同樣の道具、もつと道具を余計使いまして一立米は殆んどどこの場所でも切り出しておらないと、そういうような……。
  302. 阿部忠

    證人阿部忠君) 日本の実例は知りません。
  303. 天田勝正

    天田勝正君 あなたの先程のお話ではソ蒙側も食糧の不足を認めて、草を食つていけないということになつてつても、それを黙認しておつたと、こう仰せになつたのでありますが、そういたしますると、ソ蒙側におきましても食糧不足を認め、且つこれを放任して置いたと、こう解釈してよろしうございますかどうか。
  304. 阿部忠

    證人阿部忠君) 放任というには度が過ぎるかも知れませんが、一般に俘虜が、例えば轉んでいる煉瓦一つが、食つて見なければ、或いはパンでないかといつて過ぎ去ることのできない心境にあるという実状は、向うでも察していたようです。
  305. 天田勝正

    天田勝正君 もう一つ……。ノルマが余計遂行できれば、多少とも余計いろいろな配給が違うということが、原田証人によつて言われておるのでありますが、あなた方の收容所と、それから蒙古人が遂行するところのノルマとによつて受ける配給というものは、全然違う。こういうことがありますかどうか。
  306. 阿部忠

    證人阿部忠君) 蒙古人の給料乃至は、それらについては私たちの関知するところではありませんが、收容所においては、超過ノルマに対して、物と金がつくということが常識でありました。私は吉村隊以前における鑵詰工場においては、その月々の成果、超過ノルマに対して増配、いわゆる加食のあつたものを隊員全体が分けて食つていたのであります。從つて鑵詰……。
  307. 岡元義人

    理事岡元義人君) 要点だけお答え願います。
  308. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 原田証人にお尋ねします。モジツク中尉が、何といいますか、收賄したといいますか、貸借したといいますか。その他こちらの吉村隊長が、金をやつた度数、回数は何回であつたか。それから昨日の池田証人証言によれば、未だその隊員諸君が、超過ノルマによつて得たるその金品を、全然隊長としてこれを受取らないで、そうしてモジツク中尉自身が受取ると言いながら、領收書を書かして、そうして遂にその領收書の金額に價するものを、隊長に渡さないで、一種の、日本の犯罪からすれば、横領罪を構成する犯罪を犯したというようなふうに証言をしたのですが、これらの問題については、あなたは関知しておられますか。最前の御証言によるというと、横領罪的犯罪でなくて、むしろ、一應隊長が、その労働の報酬を金で受取つて、そうしてそれを向うの要求に應じて金をやつたというような御証言のようでございましたが、この三点について御答弁を願います。
  309. 原田春雄

    證人原田春雄君) 筏上げの報酬によつて得ました五千数百円、これは日本の文字を用いた吉村氏の名前において工場長に受取が出ております。これは明らかに、サジツクが、内蒙人通訳のエリツチ・サンボーに書かして、吉村氏は全然オミツトして、吉村氏が直接工場長から受取つたものであるということを吉村氏も言つておりましたし、私もそう思いました。それから三ケ月分の工場兵隊の給金、これが約六千余円、これは明らかに吉村氏の自筆の領收書で、それが約半分ずつモジツクと吉村氏と分けられておることも、吉村氏は当時認めておられました。もう一つ鉄道の砂績込みの特別作業によつて得た一千八百円余りだつたと思いますが、それは全部吉村氏が受取られて、改めてその中から八百余円を贈呈されました。そこで結局モジツクのやりましたことは、我々の常識で言いますと、横領と收賄、この二つになると思います。
  310. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 今ここに出ておられる証人の大半は、「暁に祈る」の処刑の体験者である、或いは目撃者、或いはその全般のものについての通訳をされた原田証人以下でありますが、私がお尋ねいたしたいと思いますのは、どの証人ということは、委員長の方でお諮り頂きたいと思います。それはいろいろな收容所におきまして、私が帰還して來た人達から直接聞き或いはそうした面を調査した結果によりますと、階級に應じ、つまり將校であつたとか或いは下士官であつたとかいうような階級に應じ、或いはノルマ作業量に應じ食糧の差を付けることを絶対的に命令した、つまりソ側から命令されたというようなことを聞き及んでおるのであります。更に全般的に、これが方々の收容所の現状であつた。ところが相当、所によつてソ連側の監視の眠、或いは外蒙側の監視の眠を盗んで將校とか下士官とか、あそういう幹部は兵隊との差を付けずに平等に渡した。ところがそれがたまたま見つかつた場合において、そういうふうな計いをした人が処罰を受けたというようなことを私聞いておるのですが、今ここにおられる証人の方々によつてそうした点を知つておられれば簡單に御証言頂きたいと思います。委員長からお諮り頂きたいと思います。
  311. 岡元義人

    理事岡元義人君) 先ず原田証人証言を求めます。
  312. 原田春雄

    證人原田春雄君) 日本の俘虜が病氣以外の理由で與えられた時間内に與えられた正しいノルマを遂行しない場合これは減食処分にされております。これを若しも日本人の中で向うから申渡されました処分に対して、祕かにこれを與えたことが発覚しました場合には譴責を受ける程度でありました。それから階級その他別による食糧の違いということは先程清水証人が言われましたが、將校に対して若干白米が多く與えられた。それから頭腦労働者に対し若干の白砂糖が増配されるという基準になつておりましたけれども、その後者は実行されませんでした。その実行されました前者の場合、これを隊員全体が分けて食つたということに対してその科を受けた例は聞きません。
  313. 岡元義人

    理事岡元義人君) 今の原田証人証言の中に……、どこからそういう命令が出ておるのか、淺岡委員が聞いておられるのですが、例えばゲ・ペ・ウ等において、そういうことも緻密に調べられておつたというようなことも分つておられますならば併せて証言願います。
  314. 原田春雄

    證人原田春雄君) 違つた食糧を與えるという命令でありますか。
  315. 岡元義人

    理事岡元義人君) そうです。
  316. 原田春雄

    證人原田春雄君) これは私共のところではソソロバルム(日本人收容所長)の名において、文書で通達されております。
  317. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 他の証人にも……。
  318. 岡元義人

    理事岡元義人君) 小峰証人から只今淺岡委員質問に対して知つておる限りの証言を求めます。
  319. 小峰光治

    證人小峰光治君) 將校に若干の白米を給與された外は同じであります。
  320. 岡元義人

    理事岡元義人君) 小峰証人に申上げますが、淺岡委員の御質問はどこからそういう命令が出ておるのかということを聞いておられるのですが、その点について知る限りお答え願います。
  321. 小峰光治

    證人小峰光治君) 日本人の俘虜給與規定、それに記されてありました。
  322. 岡元義人

    理事岡元義人君) 淺岡委員、尚証言を必要としますか。
  323. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それから私はもう一点お尋ねいたしたいと思いますのは、これもこの証人、あの証人ということは私指定できませんから委員長の方でお計い頂きたいと思いますが、それはこの過剩ノルマによつて成績を上げたということに対して、例えばモジツク中尉とか、或いはエリツチ・サンボー通訳、そうした面を通じてこれだけ成績を上げたのだ、これだけ作業量がぐんぐん推進して、結果としては大きないい結果を見ている、それに対して司令部なり、或いはソ側なりにもつと食糧の、糧秣の量を殖やすというようなことを要請したというようなことを聞かれた証人があるかないか、それをお尋ねしたいと思います。
  324. 原田春雄

    證人原田春雄君) 吉村氏の場合でありますか、只今吉村氏が申請した……。
  325. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それは吉村氏の場合であつても、前の長谷川隊長の場合であつても全般的に。
  326. 原田春雄

    證人原田春雄君) ノルマを幾ら多くやりましても、先程申上げました通り、食糧の増配は限定されておりました。從つてこれをいわゆる増食として規定されておる一〇〇%以上の作業による増配ということは一定のものでありまして、更にこれをお願いするということは意味がないので、されたこともありませんけれども、給金は、金は蒙古人、ソ連人と同樣にノルマが多ければ多い程同じ率で殖えて行くものでありました。  尚その外に筏揚げの作業について黒メリケン粉を要求して、これは吉村氏が要求しました。要求して、工場から六袋配給されましたけれども、これもモジツクによつて、全然兵隊の口には入つておりません。
  327. 千田正

    千田正君 午前中からの各証人証言によるというと、この超過ノルマによるところの報酬に対しては殆んど吉村隊長が独占して蓄積したがごとく見えられるのでありまするが、凡そこうした数百名の人たちの頭になつて、そういうようなことを行うに際しては、ただ一人の力では凡そでき得ないだろうと思うのです。それでこういう吉村隊長のやつたような行動に対して何人かがそれを幇助し、或いはその手下となつてそうした行動をし、又その報酬に與つたものがありはしないかという感を深うせしめられるのでありますが、この点につきましては、原田証人池田隊長の腹心として何人かがこの報酬に與かり、或いはこの残忍なる行動に対して補助した人間がおるか。その点においてあるならば、その姓名と、その当時の状況を話して頂きたい。
  328. 原田春雄

    證人原田春雄君) 吉村氏がこういうことをやるに至りました心境は、これは私の推察でありますが、当時の状況から恐らく我々は日本に帰れないというような流説を信じておつた点と、もう一つは憲兵であることが発覚して一應はおさまつておるけれども、いずれ何かの機会にモスコーに呼ばれるのじやなかろうかという心配を持つておりました点等から出発したという裏からの見方と、もう一つは表から彼が最初申しましたような信念の下に若干の犧牲は顧みないというわけで、これを強行したものであるかは、識者の御判断に任せるといたしまして、それを幇助した云々ということにつきましては、私の知る範囲には彼のこの決意を幇助したものはありません。ただこれを彼が行うに当つて結果において幇助した形になりますものは主として石取作業に從事されました西村春好、或いは伊東邦義、丹治、当時少尉でありましたが、丹治氏、というような方、或は班内におきまして隊員のいろいろの言動をそのまま吉村氏に密告するというような任務を持つた人、いずれもこれらの人々は吉村氏の信念、或いはその考え方に共鳴してやつておられたとは私は思いません。ただそのいずれもが吉村氏がそうであるがごとく、その人々もみずからの命を庇つたためにそういう結果になつたのであろうと思います。
  329. 千田正

    千田正君 笠原証人に伺いますが、只今原田証人証言のように、これは殆んど池田隊長個人の行動が強く命令その他のような態度において出て來たというように思われるのでありますが、それともスパイのような行動をした人達、或は今の西村若しくは伊東或は丹治、こういうような人も池田隊長と同じような憎むべき行動の人間であるというふうにあなたは断定し得られますか、そういうふうに感じますか。
  330. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) 今言われました名前の者でありますが、その人達はやはり何らかの手段を講じて内地に帰りたい、又それだけのことをしなければ吉村がそれだけの処罰をするのであります。結局吉村に言われたことをやらなければ自分も死ぬようなことになる。我々と同じ氣持でやはり内地に帰りたいという氣持の下に、その本人の意思でなくやつたことであると私は思います。
  331. 千田正

    千田正君 それではこの度あなたが吉村隊長を告発するという告発の対象にはほかの者は入らないわけでありますか。
  332. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) 入りません。
  333. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 小峰証人に伺いますが、午前中の阿部証人証言の中に、正式に減食を命ぜられた者に対しては、食糧を受取るときに一食たりともそれだけ少く呉れる筈だつた、罐詰工場自分がやつていたときにはそうであつた、こういう御証言がありましたが、その点は吉村隊ではどうでございました。
  334. 小峰光治

    證人小峰光治君) 只今穗積委員お話では阿部証人の方と私の方と若干混同しておるところがあります。吉村隊に私はずつとおりました。
  335. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 阿部証人が罐詰工場におられるときにはそうであつたから、吉村隊でも同じであろう、こういう御証言があつたのでありますが……。
  336. 小峰光治

    證人小峰光治君) よく分りません。
  337. 岡元義人

    理事岡元義人君) 今の穗積委員の御質問になつていらつしやることは、先程阿部証人が述べられた中に、ほかの罐詰工場に働いておるときはこうだつたから、吉村隊と同じようじやないかと考えておるという証言があつたことに対して……。
  338. 小峰光治

    證人小峰光治君) その間のことはよく知りません。
  339. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 それでは阿部証人のことは別にいたしましても、吉村隊においては正式に減食を命ぜられた場合にあなたが食糧をお受取になるときにそれだけ少く受取ることになつておりましたか。
  340. 小峰光治

    證人小峰光治君) 正式に減らしては貰つてはおりません。給與人員通り貰つておりました。
  341. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 随分吉村隊には減食者が多かつたようでございますが、その場合にもお貰いになるときは全員貰つておりますか。
  342. 小峰光治

    證人小峰光治君) 分りません。
  343. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 清水証人に伺いますが、あなたが炊事係長としてやつておいでになりますとき、何か減食者の分に対する食糧をどういうふうにしろというようなことを隊長その他から命令があつたことがございますか。
  344. 清水一男

    證人清水一男君) 糧秣受領するときには、私が蒙古の糧秣係と、私がその月の出し入れ残高を蒙古字で書いて糧秣將校に見せまして、それによつて司令部に出す書類を作成し、それは將校と私が立会つて書いて、それを司令部に持つて行く。それに捺印して貰つて初めて小峰班長が糧秣將校と一緒に行つて受領するようになつておりました。それで絶食に関してでありますが、私がその日その日出した量を蒙古字で記入しておつたのでありますが、絶食の量を残高に出して記入することは全然ありません。それに関して蒙古側の將校から咎めを受けたことも絶対になかつたのであります。
  345. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 それで受取られた中で吉村隊長その他から、そういう減食者の分をどういうふうにしろというようなことの命令を受けたことはございますか。
  346. 清水一男

    證人清水一男君) 蒙古側將校から受けたことはありませんが、それを吉村が自由にしていたことは……、私が命ぜられて各兵隊に渡したことは事実であります。それから糧秣の横流しということについて、吉村が革のジヤンパーとズボンを作製したことがあります。それにその革といつても羊皮工場で裁断した革屑で、菱形に切つてそれを全部縫い合せて作つたジヤンパーであります。それを縫い合せるときに、縫代を糊で張らなければならんような状態つたそうであります。それにその縫代に糊をつけるのに、炊事から米を持つて來て、それを糊に作製して作れ、これは鍋倉という縫工所に勤務していた兵隊でありますが、取りに來て私はやつた覚えがあります。
  347. 細川嘉六

    細川嘉六君 私は殊に酒井証人にお聽きしたいのですが、これは同じく阿部、笠原証人にも関連するのでありますが、酒井証人は目の前であれ程の公金を横領するとか、そういうような相談を見せつけられた。それから身にこたえるようなああいう時間外の労働をさせられたり、過重なノルマを科せられたりしてやつてつた。そうしてそれに対して反抗する力がなかつた。それは阿部証人の場合も、笠原証人の場合も、どうしても正義の氣持をそこで伸ばすことができなかつた。それはどういうわけで伸ばすことができなかつたか。昨日からの証言も、今日の証言におきましても、皆さんはもう團体的なルンペンのような生活で、掻拂いもやり、お互いにやりたくもなかつたろうが、自然そういうふうになつてしまつた。死人がそこにあつても、小峰証人が言われたようにその名前も考えられない。明日の命は自分もこんな運命になるのだというような氣持になつておられた。その場合に正義の氣持、或いは人情の情ということは何故上らなかつたか。その当時の心境で何故起きなかつたか。何がそれを圧迫しておつたか、それをお聞きしたいのであります。
  348. 酒井幸次

    證人酒井幸次君) そのことにつきまして再三計画、或いは相談を受けたことがあります。勿論私共の周囲は誰がスパイやら、隣りに寢ておる戰友がスパイであるか、そのスパイ網の巧妙さにおきましては実に巧妙なものがありまして、誰がスパイであるかということは実に分らなかつたのであります。若しもやるのならば、一千名おる場合には一千名、二百名おつた場合には二百名の命と自分の命を取換えなきやならん状態であつたのであります。で若し非常に信ずるところの戰友に諮るならば、これは忽ちスパイ網に掛かつて、事の運ばないうちに我々は殺されるような目に遭わなけりやならんということを前提としてかからなきやならんというような隊内の状態でありました。そのために、やるならば自分一人でやるより方法がない。誰にも相談ができない。誰がスパイであるやら分らないという状態であつたので押えられておりました。
  349. 細川嘉六

    細川嘉六君 そういう圧迫した力は、迫る力ですね、それは誰が持つてつたというと、言うまでもなく吉村隊長が持つてつたわけでしよう。
  350. 酒井幸次

    證人酒井幸次君) そうであります。
  351. 細川嘉六

    細川嘉六君 その隊長の力はどこから出たのでしよう。軍隊において、日本の旧來の軍隊において、びんたを張るとか、蹴るとか、それはもう当り前のことの習慣でありまして、それが積り積つて一つの満州まで、蒙古までも持つて行つたものと思われるが、そういうことが蒙古で更にそれ以上のものが行われたとあなたは思いますか。
  352. 酒井幸次

    證人酒井幸次君) もう一度お願いします。
  353. 細川嘉六

    細川嘉六君 從來軍隊ではひどいことをやつてつたでしよう。あなたは軍隊生活をやりましたか。
  354. 酒井幸次

    證人酒井幸次君) やりました。
  355. 細川嘉六

    細川嘉六君 その軍隊でやつたのが蒙古へ行つて更にひどくなつたのですか。
  356. 酒井幸次

    證人酒井幸次君) それは最前もいろいろ話が出ましたように、彼はあらゆる智慧と物品で蒙古側を懐柔したのであります。從つて蒙古側の幹部というものは、監督將校ですら吉村を恐がつてつた状態がまま見えました。
  357. 細川嘉六

    細川嘉六君 それで一段でも階級が上にあると日本の旧軍隊ではすべての権力を握つてつたわけだ。
  358. 酒井幸次

    證人酒井幸次君) そうであります。
  359. 細川嘉六

    細川嘉六君 しかしその段が段々と上になればなる程強かつたわけであります。
  360. 酒井幸次

    證人酒井幸次君) そうであります。
  361. 細川嘉六

    細川嘉六君 で吉村隊長はすべてそれを握つてつたわけですね。そうするとあなた方が手も足も動かなかつたということは、旧軍隊の力が蒙古に新らしい状態の下に強く出て來たということになりますか。
  362. 酒井幸次

    證人酒井幸次君) そうであります。
  363. 細川嘉六

    細川嘉六君 それがためにあなた方の伸し上り、人情を伸す、正義の観念を伸そうとすることができなかつたということになりますね。
  364. 酒井幸次

    證人酒井幸次君) そうであります。
  365. 細川嘉六

    細川嘉六君 そうですか。
  366. 酒井幸次

    證人酒井幸次君) 軍隊組織は最後まで放棄しませんでした。
  367. 細川嘉六

    細川嘉六君 軍隊組織のためにあなた方は弱かつた……。
  368. 酒井幸次

    證人酒井幸次君) そうであります。
  369. 岡元義人

    理事岡元義人君) 細川委員に御注意いたしますが、もう時間が……。
  370. 細川嘉六

    細川嘉六君 笠原君に……。
  371. 岡元義人

    理事岡元義人君) 簡單に要点だけ願います。
  372. 細川嘉六

    細川嘉六君 それについてどういうふうに思いますか。
  373. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) 今酒井証人の言われたことも確かでありますが、極度の空腹というものは人間の精神状態を或る程度麻痺してしまいます。このことをやつて恥しいということも考えなくなり、又こういうことをやつては惡いのだという良心さえも麻痺してしまいます。
  374. 細川嘉六

    細川嘉六君 空腹は誰が起したのでありますか。
  375. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) それは空腹は……。與えられる食糧は蒙古政府から百パーセントの食糧として公平に貰つておるのであります。それ以上の時間外の仕事をやらされるということが空腹の原因なのでありますから、これは吉村がやつたと私は言つても差支ないと思います。
  376. 細川嘉六

    細川嘉六君 そうすると酒井幸次証人の言われると同じことになりますが……。
  377. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) いや、酒井幸次証人の言われた外にもう一つは私達が弱かつた、内地に帰りたいという一念があつたために弱かつたということが言えるのであります。
  378. 岡元義人

    理事岡元義人君) 細川委員に御注意いたします。若し相当時間がかかるのであつたならば発言を許しません。簡單にお願いしたいと思います。
  379. 細川嘉六

    細川嘉六君 阿部証人一つお願いします。今の問題について……。
  380. 阿部忠

    證人阿部忠君) 正直の話皆生きて帰りたかつた、それ以外にありません。それについて私達が轉属して行つたときに、何故これを改革できんかということを先ず考えました。そうして、スパイ網の存在も知り、暴力の存在も知つたのです。あのときふらふらで仕事をしている連中が、若しこれを打碎くためには、これに対抗するだけの暴力が必要であつた。少くとも数人の方々である丹治、伊東、西村というような暴力を持つた者自分の力で倒す以外にそれらの窮状を打破することはできなかつた。たつてそのときに一身を投出して死ねばよかつたのですが、國民の皆樣の前に申訳ないが、私もその卑怯者の一人なのです。但しそのときは自分達の体力を以てしても、幾ら寄せ集めても、それらの十数名に余る暴力に抵抗するためには、恐らく百を結束しても体力的に打破できないだろうという先の見通しでやらなかつたのであります。
  381. 細川嘉六

    細川嘉六君 從來の軍隊の力がその強い力で以て迫つてつたということですね。
  382. 岡元義人

    理事岡元義人君) 矢野委員
  383. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 簡單に原田証人にお尋ねしますが、最前あなたの証言の中に、相当多数のスパイがおつたと申されておりますが、昨日の証言で、酒井軍医の証言によると、鎌谷証人池田証人の、当時の隊長の、一種のスパイ的行爲をする役割をいたしておつたというようなことがありましたが、それに対するあなたの御心証は如何ですか。又スパイとしてあなたの現在記憶に残つておるところの数はどのくらいで、名を挙げることができますかどうか。以上です。
  384. 原田春雄

    證人原田春雄君) 鎌谷氏は吉村氏に約前半期その役を承つてつたことは事実であります。それが一朝にして曉に祈るとなつたのであります。以て如何に吉村氏の性格が独善的であつたか。まだ外に……。
  385. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 それはいいです。そういう主観は要らない。
  386. 原田春雄

    證人原田春雄君) それではその外にスパイとして活躍するに至つたような場合としては、非常に嚴罰を受けて進退極つたというような男がある場合に、吉村氏は許してやるがその代り俺に対して忠誠を盡すかということを誓わせて、それで誓いが成立すれば初めてスパイとしてこれを任用したというような例もしばしばあります。そこで名前は覚えておるものもありますけれども、ここで申上げることはお断りしたいと思いますがいけませんでしようか。
  387. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 よろしいです。
  388. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 ちよつと簡單な答えを一、二聞きたいのですが、そういう場面を見たか見なかつたか、或いはあつたかなかつたというだけの証言原田証人、阿部証人、殊に糧食関係、賄関係をやつております小峰証人に見たか見なかつたということを聞きたいのですが、いわゆる曉に祈るというようなことは大体次のようなコースで行われた。最初作業から帰る時間が段々遅くなる。一週間ばかり九時に帰つたり十一時になつたりする必死の抵抗が続くが、その間に顏は滅茶苦茶になり、青ぶくれにむくんで來る。夜通しでやつても定量がないときは「いなくなつて貰う」と、翌日まで持越してしまえばその人は最後の日であつた。世にも非惨なる曉に祈るの儀式が行われた。そうして哀れなノルマ遂行のいろいろなものが施行された。そういう儀式が行われたのか行われなかつたのか……。
  389. 原田春雄

    證人原田春雄君) 儀式は行われておりません。口頭で営倉に入れる場合は営倉、いわゆる曉に祈るの場合は屋外留置、こういう言葉で出しておられました。尚明くる朝までこれを持越せば冷たくなつてしまうということは誇大な表現でありまして、その処分のために死んだ方は二人、営倉の中で人事不省になつた方が二人だけでありまして、ただそのために入院された方は相当数に上つていると思います。
  390. 岡元義人

    理事岡元義人君) 淺岡委員 全部にお聞きするのですか。
  391. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 全部にお聞きしたいのですが……。
  392. 岡元義人

    理事岡元義人君) では簡單に一つ……。
  393. 酒井幸次

    證人酒井幸次君) 事実曉に祈るの刑は連日連夜毎日三名か五名おりました。清心寮に入れるのは清心漬とまで言つたのであります。毎日次から次と漬かつておりますが、清心漬ということを私の軍隊では言つております。事実ありました。
  394. 阿部忠

    證人阿部忠君) そういうことを傳聞では聞いておりましたが、目撃してはおりません。
  395. 清水一男

    證人清水一男君) さつき原田氏の言つた通りでありますが、これを夜日直曹長の達しによつて吉村隊に日命というのが出て、誰々は留置し絶食三日ということを日命したのは間違いありません。
  396. 小峰光治

    證人小峰光治君) 事実この眼で清水証人、ここには來ていない鎌谷証人、それから北海道の宮本元官長その他大勢の私の知らない名前の者が正に清心寮に入れられ、曉に祈らされたことをこの眼で現実に見ております。
  397. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) それは屋外の留置ということは私聞いております。屋外に留置されて曉に祈るの刑を受けた者は大体百五十名くらい見ております。
  398. 堀金榮

    證人堀金榮君) 屋外留置の形で最初はやられておりました。もう一つ私の証言を訂正できませんでしようか。
  399. 岡元義人

    理事岡元義人君) 今まで述べられたことで違つたことがあつたのですね。
  400. 堀金榮

    證人堀金榮君) 実は曉に祈るにつきまして忿懣の的になつている曉に祈るの問題は私もその体驗者の一人でありますけれども、体驗といいましても私は実際立つた者ではありませんが、皆の立たされている、毎日々々五名乃至七名とか三名とか立たされているにも拘わらず、午前中の証言につきまして、犠牲者、曉に祈るをやつて斃れた者を幾人知つているかと、こう問われたと記憶しておりますが、後で考えて見ましたら、立たされた犠牲者が幾人か、こう問われたと聞きましたので、実は立たされた者なら百名か百二、三十名おつた想像しております。その点訂正できましたらお願いします。
  401. 岡元義人

    理事岡元義人君) 承知しました。この際一應この質問を打切りまして、池田証人、酒井証人原田証人、三名の証言を求めることに御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  402. 岡元義人

    理事岡元義人君) では原田証人を残して外退席を願います。  原田証人は着席いたしておりませんが、直ぐ参りますので、一應委員長から池田証人に尋ねますが、一点ずつお答えを願いたいと思います。  先ず一番最初に、奧山という者は糧秣倉庫のパンを盗んで歩哨から銃床で右脇を突かれた、そこで証人はそのために監禁を食つたということは今までお述べになつておりませんが、そういう事実がありましたか。
  403. 池田重善

    證人(池田重善君) ありました。
  404. 岡元義人

    理事岡元義人君) 何日監禁を池田証人は食つたんです。
  405. 池田重善

    證人(池田重善君) その晩の約三時間くらいであります。
  406. 岡元義人

    理事岡元義人君) 重ねてこの際原田証人ちよつとお聞きしますが、原田証人はその事実を知つておられますか。
  407. 原田春雄

    證人原田春雄君) 奥山が食糧倉庫を襲撃したことは知つております。隊長が譴責を食つたことも承知しておりますが、留置されたことは記憶にありません。
  408. 岡元義人

    理事岡元義人君) 分りました。次に食糧パンを二本盗んだ高月一等兵に十五日間の畫抜処罰を命じたところが、本人が落涙して謝まつたので、これを二日間にした許した。これはあなたの独断の裁量でおやりになりましたか。
  409. 池田重善

    證人(池田重善君) これは高月という兵隊は、大体アマガランの方から轉属して來た兵隊でありますが、石田部隊のときに、昭和二十一年の十二月の轉入のときに参つた兵隊であります。この兵隊が私のところの兵隊の約十九点に亘るところの品物を盗みまして、そうして蒙古人に賣却するところを捉まりまして、それによつてそのような処分を命ぜられて二日にしたことがありますが、それ以外のことは何も知りません。
  410. 岡元義人

    理事岡元義人君) いや、お聞きしておるのは、これはあなたが独断で、涙を落して謝まつたから独断で二日間にしてやつた、これはあなたの独断で、あなたの裁量でされたことでありますか。
  411. 池田重善

    證人(池田重善君) 裁量でやつた。報告はしました。
  412. 岡元義人

    理事岡元義人君) 次にお伺いします。瀬古軍曹は部下の増食のパン、砂糖を横取りしたのを以て、鉄道工場工場長たる資格を取上げ、建築作業に從事さしたことは、これはあなたの独断の裁量でありますか。
  413. 池田重善

    證人(池田重善君) 職場上の異動は独断ではできません。
  414. 岡元義人

    理事岡元義人君) その長たる資格を取つたのはあなたの独断の裁量でありますか。
  415. 池田重善

    證人(池田重善君) そうではありません。
  416. 岡元義人

    理事岡元義人君) 誰の命令を受けましたか。
  417. 池田重善

    證人(池田重善君) これは当時モジツク中尉の命令を受けております。
  418. 岡元義人

    理事岡元義人君) 間違いありませんか。
  419. 池田重善

    證人(池田重善君) 間違いありません。
  420. 岡元義人

    理事岡元義人君) 次にもう一点聞きますが、兼松医師が……これは医師が助手か知りませんが、アルコールの飲酒及び炭殻をば投薬したという問題で絶食五日を命じて置きながら、民團長が詑状を入れられたからこれを解除した、これはあなたの裁量によつてやられたんではなかつたんですか。
  421. 池田重善

    證人(池田重善君) 私の独断ではありません。
  422. 岡元義人

    理事岡元義人君) この民團長の詑状は誰に出された詑状ですか。
  423. 池田重善

    證人(池田重善君) 詑状は私に出しまして、それはバートルソロンの收容所長に……当時モジツク中尉がおりませんで、バートルソロンにその証明書を出しまして、そうして許可を受けて許しております。
  424. 岡元義人

    理事岡元義人君) 五番目にお伺いしますが、目瀬一等兵外一名が仮病を使つて入院しようという際に他の荷物全部を携行しようとしたので、その場でこれを毆打処罰をした。その毆打処罰は誰の命令で毆打処罰したか。
  425. 池田重善

    證人(池田重善君) その場では毆打しておりません。
  426. 岡元義人

    理事岡元義人君) その場ではしていない……。
  427. 池田重善

    證人(池田重善君) はい。
  428. 岡元義人

    理事岡元義人君) 後で命令を受けてやつたんですか。
  429. 池田重善

    證人(池田重善君) これはそのときに蒙古側の憲兵が立つております。
  430. 岡元義人

    理事岡元義人君) いや、蒙古側の関係ではなくて……。
  431. 池田重善

    證人(池田重善君) 立会いの下にそれは実施されております。
  432. 岡元義人

    理事岡元義人君) 時間はどのくらい置いて処罰しておりますか。
  433. 池田重善

    證人(池田重善君) 処罰しておりません。ただそれはこういう事件であります。非常に班内の物資が無くなりまして、当時五百円という日本金が無くなりました。そうして大騷ぎをしておりますから所長に願いまして、にせの今の轉勤命令を出したことがあります。そうして朝六時に自動車が來るから全部出ろというふうに、これは農場に大体轉属する人間でありますが、そうしましたところが、全部出勤前にそれを実施いたしました。ところが約六十人出た中で、物品検査を実施いたしましたところが、その中で殆んど他に轉属する関係窃盗しまして、靴を三足とか四足とか、或いは金、或いは他の品物を携行して行くのが発覚しまして、そうしてそのときの目瀬一等兵も一緒に混つたと思つております。
  434. 岡元義人

    理事岡元義人君) あなたは目瀬一等兵をその場で毆つたように函館でお述べになつたことは記憶がありませんか。
  435. 池田重善

    證人(池田重善君) 記憶ありません。
  436. 岡元義人

    理事岡元義人君) それから次にもう一、二点伺いますが、あなたは昨之の証言でこちらへ上京して來る途中に、いわゆる石切場で死んだ者の一名は癲癇で死んだんだということを初めて知つたと、こういうふうな工合に御証言なさつたと思いますが、違つておりますか。
  437. 池田重善

    證人(池田重善君) それは違つております。
  438. 岡元義人

    理事岡元義人君) 昨日の証言は……。
  439. 池田重善

    證人(池田重善君) 昨日はそうでありません。昨日は石切場で癲癇で倒れたというのを聞いたのは、今の向うの方で、收容所で酒井先生の方から癲癇で倒れた兵隊がおつて、そうしてそのまま送院しましたところが、死因不明で送つたところが、病院の方において呼吸器病で死んだという診察をされた事件がありました。その件は聞きました。
  440. 岡元義人

    理事岡元義人君) それではもう一回お尋ねしますが、昨日上京の途中において初めて自分は知つたという事件は一体どのことですか。
  441. 池田重善

    證人(池田重善君) それが確かに今の山本の件であります。それは何で死んだか私は分りませんでした。それが平岡という者は愛知の一宮出身でありますが、途中汽車に乗つて参りまして、そうして初めて会いまして、本人が言いますには、私と山本とは非常に仲よしでありました。ところが山本は作業がきついからというものですから、上の方のところに上つて休んだらどうだ、監督がやかましてから上に上つて休めと言つて上にやつたそうであります。ところが約五米まで上らんうちに倒れてしまつた、それで本人が上に上つて見ましたところが泡を吹いて、血を吹いておつた、そうして倒れれおりました。そうして帰つたところが酒井先生からお前が殺したんじやないか、そうして又看護兵の人からもお前が殺したんじやないかということを追及されましたが、併し事曽はこうでありますということを本人が私に申述べて行つたのであります。
  442. 岡元義人

    理事岡元義人君) 証人にお尋ねしますが、初めてその癲癇であつたということは、今度汽車の中で分つたと、こういこ工合証言なさるのですか。
  443. 池田重善

    證人(池田重善君) そうであります。
  444. 岡元義人

    理事岡元義人君) ではお尋ねしますが、あなたは函館で事実をば記述しておられることを御記憶でありますか。函館で癲癇で倒れたということを自分で記述しておるという……。
  445. 池田重善

    證人(池田重善君) 当時酒井先生が言われましたので、そういうふうな記述をしております。
  446. 岡元義人

    理事岡元義人君) ちよつとそこのところがおかしいのですが、あなたは昨日の証言では初めて知つたとおつしやるのですが、すでに函館に上られたときに、詳細を極めてあなたはその点について記述をしておられたのですが。
  447. 池田重善

    證人(池田重善君) それは癲癇で倒れたということも、誰が倒れたということは知りませんでした。
  448. 岡元義人

    理事岡元義人君) 多少御証言が食い違つておるように感せられるのですが、昨日の汽車の中で初めてその実状は知つた、こういう工合に御証言なさつておるのに対して、もうすでに帰つて来て函館に上陸されたそのときに、実は詳細に知つてつて……
  449. 池田重善

    證人(池田重善君) そのことは誰がやつたかということは私は知りません。それで名前は書いてないと思いますが。
  450. 岡元義人

    理事岡元義人君) 癲癇でということです。
  451. 池田重善

    證人(池田重善君) 癲癇でということは酒井先生の方からお聞きしましたものですから、それで書いております。
  452. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 その間答中に、こちらの第三者から聞く方が、はつきり事件が分るような場合には、委員長だけで進めずこちらからぽつぽと言つた方がいいと思いますが。
  453. 岡元義人

    理事岡元義人君) もう二、三で終つてから皆さんの御質問を願いたいと思います。尚続けて池田証人にお尋ねしますが、昨日の証言中にありました、第一回の靴等が無くなつた、そして十五名が処罰を受けた、これは十月でございましたですね。
  454. 池田重善

    證人(池田重善君) はあ。
  455. 岡元義人

    理事岡元義人君) その十月の処罰は実際は行われなかつたのではなかつたのですか。
  456. 池田重善

    證人(池田重善君) 実際行いました。
  457. 岡元義人

    理事岡元義人君) 行われた……。
  458. 池田重善

    證人(池田重善君) はあ。
  459. 岡元義人

    理事岡元義人君) そのときの状況は五日間か。
  460. 池田重善

    證人(池田重善君) 一日であります。
  461. 岡元義人

    理事岡元義人君) 一日だけ……。
  462. 池田重善

    證人(池田重善君) はあ。
  463. 岡元義人

    理事岡元義人君) 何か雨が降つたんではなかつたですか。
  464. 池田重善

    證人(池田重善君) いや、雨は降つておりません。
  465. 岡元義人

    理事岡元義人君) 第二回目のときはやつぱり十五名行われた……。
  466. 池田重善

    證人(池田重善君) そうであります。
  467. 岡元義人

    理事岡元義人君) そこで重ねてお聞きしますが、この二つの事件ですね。
  468. 池田重善

    證人(池田重善君) はあ。
  469. 岡元義人

    理事岡元義人君) 十五名で二つの事件以外のいわゆる処罰を命ぜられた営倉並びにその柱に縛りつける処罰ですね、その処罰は何名あなたは命ぜられましたか。
  470. 池田重善

    證人(池田重善君) 多分十名か十一名と思つております。
  471. 岡元義人

    理事岡元義人君) 蒙古側の方からその命令作業時間外の、晩十時から朝五時までの間という、あなたは命令を受取つてつたのではないのですか。
  472. 池田重善

    證人(池田重善君) それ以外に逃亡兵でありますが、これは畫もそういうふうに実施しておりました。
  473. 岡元義人

    理事岡元義人君) 逃亡兵だけでありますか。
  474. 池田重善

    證人(池田重善君) そうであります。
  475. 岡元義人

    理事岡元義人君) 鎌谷參司は逃亡兵だつたんですか。
  476. 池田重善

    證人(池田重善君) 鎌谷參司は物品窃盗だけであります。それ以外はありません。
  477. 岡元義人

    理事岡元義人君) その命令で二人だけ確かに死んでおる。いわゆるその処罰のために死んでおるというものが二名あるということを酒井医務官から証言がありますが、池田証人はこれをお認めになりますか。
  478. 池田重善

    證人(池田重善君) それはまだ私は報告を受けたことはありません。
  479. 岡元義人

    理事岡元義人君) 今までには全然死んだ者はない。
  480. 池田重善

    證人(池田重善君) 今渡邊軍曹と山本明の件については聞きました。
  481. 岡元義人

    理事岡元義人君) もう一つ、渡邊軍曹は内地に帰つて來ておるのですか。
  482. 池田重善

    證人(池田重善君) 帰つて來ておると思います。
  483. 岡元義人

    理事岡元義人君) それからもう一点、その向うから受けておる命令はですね、明らかに死んでもいいのだというようなことは決してなかつた、こういう工合に考えられますか。
  484. 池田重善

    證人(池田重善君) 考えられます。
  485. 岡元義人

    理事岡元義人君) 着席を願います。議員の方から御質問がございましたら……。
  486. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 直接それと違う問題ですが、池田証人は昨日モジツクとの関係において、金額ははつきり僕自身記憶しないが、超過ノルマに対するところのそれぞれの工場からの、いわゆる働いた人々に対するその労働賃金は、まだあなたは一回も自分自身つたことはない。モジツクが実は領收書に判を捺さして、そうして結局何回請求しても自分にその金をやらなかつたということだけであつて、池田自身が結局五千円、或いは六千円も、全然自分自身の手にはこれを受取らなかつた。モジツクそれ自体の一つの横領問題であるというふうに解すべきだという御返答があつたのですが、全然それに相違ありませんか。
  487. 池田重善

    證人(池田重善君) 全然それに相違ありません。
  488. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 そうすると原田証人にお尋ねしますが、鉄道の方から取つた千八百円、更にこの五千円と更に六千円の最前証言は三回あつて、その五千円はモジツクが確かに一種の詐欺横領をしたというふうに思えるというような御証言があり、六千円のそのうちの三千円はこのモジツクが取り、三千円は池田隊長吉村隊長がこれを取つた。鉄道の方からの收益金、労働賃金千八百円はこれを池田隊長が取つたというふうな御証言があつたのでありますが、今池田隊長証言とは非常に食い違いがある点がありますが、これに対する原田証人の再度の証言を求める次第です。
  489. 原田春雄

    證人原田春雄君) 軍法会議の席上での状況は、先程申上げました通り、五千円、筏の運搬賃の償金としての五千円はモジツクが詐欺の領收書で以て受取つた。それから工場の賃金六千円のうち半分はモジツクが横領して、半分は吉村民に渡した。鉄道の千八百円のうち八百五十円はモジツクが取つた。そこで裁判長が吉村氏にお前が貰つた三千余円はどうしたかというお訊ねがあつて、それに対して吉村氏は兵隊に分けてやりました。どんなふうに分けたか。作業能率に應じて分けてやりました。それに問違いないかということで判決が吉村氏は全然無罪ということで判決が下つたこと以外に私の記憶はありません。
  490. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 池田証人にお尋ねしますが、今の原田証人の裁判所におけるところの、現に通訳としてその判決法廷に参列しての、第三者としての、いわゆるあなた方の事件を確かな目で、確かな耳で聞いておられて、今の証人言つておりますが、あなたはこれに対して何かそれと違つて証言がありますか。
  491. 池田重善

    證人(池田重善君) あります。この事件は昨日申上げましたように鉄道工場の金は二回であります。それは判決のあつたときは四月の二十三日でありますが、千八十円というのは汽車の一貨車が十円ということになつております。そうしてそれに対するところの千八十円で、これは八月分を九月に受取りました。それから鉄道のもう一つの金の九百七十円、これもやはり鉄道の作業から頂いた金であります。その半分については、木の積み方が惡いから、要するに一杯積むのを八分しか積まないから五円しかないと言つて本人が渡しております。それは瀬古軍曹に……静岡縣の方ですが、職場長をやつておりましたが、それに全部渡しております。それからあとの俸給というのは私たちの俸給、これは久木原少尉と全部の俸給でありますが、この点については、当時会社におつた江畑氏、この人が十分知つておられると思います。私達の俸給八百二十五回を二重に取つてつた廉によつて、それで全部五千円余り、六千円近くだと思います。三千円、六千円という金については、その点については裁判所で私は聽かれた覚えはありません。
  492. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 原田証人に再度お尋ねしますが、六千円は何の金であり、確かにその三千円は、その法廷において、モジツク中尉がこれを取つたと言い、それからその残りの三千円は、当時の吉村隊長がこれを取つたと、明らかに何回もあなたは証言になりましたが、本人吉村隊長は、その六千円の問題については全然そうでないと否定しておりますが、よく記憶を辿られて、双方とも眞実の御証言を願いたいと思います。
  493. 原田春雄

    證人原田春雄君) 鉄道の、先程私が千八百円と申しましたのは、吉村氏の言われました千八十円で……。
  494. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 金額を訂正しますね。
  495. 原田春雄

    證人原田春雄君) 金額に若干の違いがありましたが、千八十円と、後程の九本何十円、この二口でありました。併せて千九百何円になります。それの大半はモジツクが取つた、残りは吉村氏と瀬古軍曹に渡されたということに間違いはありません。それから工場から支給される給料は、先程吉村氏が言われましたように、三ケ月間ばかりの將校の給料、それから靴工場その他における過剰ノルマの賃金併せて六千円近くだつた記憶しております。モジツクは明らかに日本の將校の給料も横領したということは、その際に強く聽いておりましたから、その点の記憶は私は間違いないと信じます。
  496. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 只今池田証人証言によると、いわゆる曉に祈るという刑に処したのは、第一回に十五名、第二回に十五名、その外に十一名と証言されましたが、十一名という数を記憶されておるところを見ると、その一つ一つを相当記憶されておると見えますので、十一名に間違いないのか、十一名ならばその一つ一つの場合を列挙して頂きたい。
  497. 池田重善

    證人(池田重善君) これは曉に祈ると言いましても、留置場に入つておるのでありますから、一部は……外にあるものを曉に祈ると言つております。十一名というのは結局逃亡兵が十一名おります。それから今の、それも留置場の開いているときには留置場にはいれるようになつております。それから、その中で約5名の逃亡兵が、結局今の後手に括られて見せしめのためにされた。そのときの中に鎌谷が入つておると思います。私がしつかり記憶にあるのは、関口、森君、それから鎌谷、それからもう一人西村、それから一名は坂本、それと記憶しております。
  498. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 これは皆逃亡兵ですか。
  499. 池田重善

    證人(池田重善君) そうであります。鎌谷は違います。
  500. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 その外は逃亡兵ですか。
  501. 池田重善

    證人(池田重善君) そうであります。
  502. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 十一人のうち十人が逃亡兵ですね。
  503. 池田重善

    證人(池田重善君) そうであります。
  504. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 その逃亡兵は、十人が一人ずつしたものですか。集團的に……。
  505. 池田重善

    證人(池田重善君) 集團的にやつたのが関口と森であります。
  506. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 二人だけですね。
  507. 池田重善

    證人(池田重善君) そうであります。
  508. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 その外は八人が一人一人やつたわけですね。
  509. 池田重善

    證人(池田重善君) そうであります。
  510. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 それから第一回に、十一月に十五名と、もう一回十五名……。
  511. 池田重善

    證人(池田重善君) 十四名と十五名であります。
  512. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 この外には全然ありませんか。
  513. 池田重善

    證人(池田重善君) 外に曉に祈るというのはありません。
  514. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 屋外留置したことはないわけですね。
  515. 池田重善

    證人(池田重善君) 屋外留置はありません。
  516. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 それからあれはどうなんですか、收容所は、清心寮は……。
  517. 池田重善

    證人(池田重善君) 清心寮が留置場になつております。
  518. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 留置場を入れて十一人ですか。
  519. 池田重善

    證人(池田重善君) 逃亡兵はそうです。その他に、石切りが始まりまして、ノルマができなかつた組が今のつまり一晩ずつ入つてつたのがあります。
  520. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 それは留置場ですか。
  521. 池田重善

    證人(池田重善君) そうです。
  522. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 そのノルマのできなかつたことで屋外留置をしたことはありませんか。
  523. 池田重善

    證人(池田重善君) ありません。
  524. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 全然ありませんか。
  525. 池田重善

    證人(池田重善君) はあありません。
  526. 天田勝正

    天田勝正君 先ず池田証人に伺いますが、作業はそのときと、場所によつて又割当てられた隊と申しますか、そうしたものによつて違うであろうと思いますが、一証人が申されるには、先ず材木運びに自分は当つたけれども、三時半頃起される、そうして七時頃まで材木運びをやらされて、七時にサイレンが鳴つて、そこで粥食の朝食を取る、その後羊毛工場に行つて午後の五時まで働かされて、更にそれから帰つてつて休む間もなしに朝やつた材木の運搬を継続させられる、こう言つておるのでありますが、そうしてその材木の運搬は一日七本である、而も蒙古の人達に課せられるところのノルマは一日一本である、こう証言されておるのでありますが、このような事実があつたかどうか。
  527. 池田重善

    證人(池田重善君) 事実ありました。
  528. 天田勝正

    天田勝正君 その蒙古側とあなたの收容所とのノルマの差というものは確かにこうであつたか。
  529. 池田重善

    證人(池田重善君) 蒙古人は一回が一本ということはありません。やはり蒙古側においても七、八本ということになつております。その件については、命令は殆んど原田君が作業命令の方は受けて來ておりますから、原田君に聽いて頂いたら分ると思います。
  530. 天田勝正

    天田勝正君 この場合晝間の羊毛工場に働くのがいわゆる一ノルマであつて、朝晩の材木運びは超過ノルマであつたかどうか。
  531. 池田重善

    證人(池田重善君) それはノルマとは言わずに、いわゆる使役という名前がありました。その件については一時間に対して一円呉れるというような司令部命令でありましたが、これは何回にも亘つて請求いたしましたが、一銭も頂いておりません。
  532. 天田勝正

    天田勝正君 先程、日によつてこの運搬するところのノルマの数量が違つたと言われておるのであります。而もあなたが機嫌のいいときには少くなり、機嫌の惡いときには七本という工合に多くなる、こう言われておりますが、その通りであるかどうか。
  533. 池田重善

    證人(池田重善君) 作業命令については、作業の方の区分、私は実際を申しますと、現在まで私は原田君を非常に信望して参つておりました。それで原田君は私の隊の、要するに外から言いますと参謀格でありますし、或いは高級副官であるというような噂もされておりましたのですか、実を言いますと御承知の通り私は至つて浅学菲才でありまして、周囲におる者は知識層の方ばかりであります。そのために実際の黒幕をお話いたしますと、元熱河省の承徳の協和会次長をやつておりました永井正先生、それから年長である原田君、或いは外の將校の方も私は顧問といたしまして、殆んど一週間に一回、或いは月に一、二回の会議を炊事で開いて頂いておりました。米を一俵半か頂いておりました。それをして作業についていろいろ相談をしておりましたのですが、作業の今の超過命令、要するに材木の件については、私の方においてもこれは顧慮しまして、第一回、これは昭和二十一年の、飛行場で博覧会があるときでありますが、そのときに私が時間外作業において一回会社の方から要求して來ました。その仕事は丁度工場の博覽会に行くところの道の掃除を命ぜられて來ました。ところが私として司令部命令がない限り出すことはできない。そうして時間外の作業については私達としてすることはできないと思つたから、私は本部の方に行きまして、そうして本部の丁度コンボという工場長と、そのときジヨクソン、それからソ連側から一名、それから蒙古側の方が五六名おつて、会議の最中に参りました。そこで私が交渉しましたが、途中でサンポとしう片目の蒙古の監督者だと思つておりますが、それが是非それを出すようにと言いますので、とにかく工場まで……。
  534. 天田勝正

    天田勝正君 その日によつてノルマを変えたかどうかということを私は聽いておるので、それを変えたか変えないか、それだけお答え願います。
  535. 岡元義人

    理事岡元義人君) 証人に注意しますが、その要点だけ、今天田委員から御質問になつた要点だけ……。
  536. 池田重善

    證人(池田重善君) それは変えておりません。
  537. 天田勝正

    天田勝正君 いつも七本ですか。
  538. 池田重善

    證人(池田重善君) いつも七本というわけではありません。少いときもあります。
  539. 天田勝正

    天田勝正君 それは誰が変えたのですか。
  540. 池田重善

    證人(池田重善君) それは向うの運搬の量によつてつて來るわけであります。
  541. 岡元義人

    理事岡元義人君) ちよつと証人に注意しますガ、今天田委員が、誰が一体それは命令して変えたのか、あなたが変えたのかということを聽いておるのです。
  542. 池田重善

    證人(池田重善君) 向うの本数がありますから、結局私の方で作業を区分しまして、小隊長に命じて変えております。
  543. 天田勝正

    天田勝正君 あなたが変えておるのですか。
  544. 池田重善

    證人(池田重善君) そうであります。
  545. 天田勝正

    天田勝正君 次に伺いたいのは、鎌谷証人が初め清心寮に入れられておつたが、それを脱柵して來たので、あなたと伊藤少尉がそれを毆打して、更に縛つてつて暁に祈らせてのでありますと言つておるのですが、その毆打等まで向うの命令でありますかどうか。
  546. 池田重善

    證人(池田重善君) 毆打は命令ではありません。私が叩きました。伊藤少尉は叩いておりません。
  547. 天田勝正

    天田勝正君 それは昨日からの証言を聽いておりますと、細大漏らさずあなたは蒙古側の命令である、こういうことを言つておられるわけですが、そうすると可なりあなたの行政処分的な、自分に任せられて、自由に毆打暴行ができることになつてつたと、こう承知してよろしいですか。
  548. 池田重善

    證人(池田重善君) 私はそれは各隊でも軍隊の延長であるし、とにかくそういうことは習慣的に行われておつた。それで私としてはびんたの一つぐらいは喰わしております。
  549. 天田勝正

    天田勝正君 次に石切りノルマでありますが、この石切りノルマが最初に一・五立米というものを蒙古側の監督が言つて來た。それに対して原田証人は、これは他のところで一立米であるから余りに苛酷であるという話になりまして、ソソロバルムでしたか誰か、そこへ行つてつたところが、それは一立米で差支なしということになつた。そうしたに現場の蒙古側の監督が怒つて、ソソロバルムのところへ行つたのか何か、上級機関に行つて結局一・五というものになつた。それ以上の二又は三立米というものは全く池田証人の独断で、向うの命令というものは一・五立米である。こういうふうに他の証人によつて証言されておるわけであるますが、この点は事実であるかどうか。
  550. 池田重善

    證人(池田重善君) それは昭和二十二年の二月までは一立米となつております。それから三月から今まで一立米半と決定されておりましたが、昨日もお話ししましたように、結局石田隊において取らなかつた石のために二立米に上げられております。それは六月の第二回のソソロバルムの直接の指揮下においてやつた作業は二立米になつております。
  551. 天田勝正

    天田勝正君 そうすると、蒙古側はどの隊の責任か分らないものでも、後を引継いだものに全部責任を負わせて、例えば前の隊が全然働かないということになると、それを後の隊に全部おつかぶせて何部でもやらせる、こういうようなことになつたのでしようか。
  552. 池田重善

    證人(池田重善君) そうではありません。石切りによつて日本人が早く帰れるか帰れんかという問題でありました。自動車が何台來ても石がありません。そのためにウランバートルの約五六千名の建築作業隊の兵隊が休まなければならんという状況になりまして、特に毎晩のようにソソロバルム閣下並びに今のバツタ大佐、これはゲー・ペー・ウーの大佐でありますが、その他ロツタ少佐、全部が出て來てやつておられまして、それで特に急いだと思つております。
  553. 天田勝正

    天田勝正君 二立米若しくは三立米というものは、そう人を置かなければ、向う側の申渡しであるところの一・五立米が完遂できないから、そうして置くのである。この点は他の者には内密であると言つて、あなたは言つたことはありませんかどうか。
  554. 池田重善

    證人(池田重善君) 二立米であります規定が……そう言つた覚えはありません。それは何かの誤解じやないかと思います。
  555. 天田勝正

    天田勝正君 そうした命令は公文書で参りますか、單なる口頭で参りますか。
  556. 池田重善

    證人(池田重善君) 口頭であります。
  557. 天田勝正

    天田勝正君 いつでも。
  558. 池田重善

    證人(池田重善君) そうであります。今の二立米になつたときは書類で参つておりました。
  559. 天田勝正

    天田勝正君 暁に祈つた人達は、毎日五乃至は二十五名くらいに上つたことがあるということを言われておるのでありますが、あなたは星野委員が追及されたように、一回、二回、更に別に十一人のこう言つておるのでありますが、それ以外には全く科したことはないかどうか。
  560. 池田重善

    證人(池田重善君) 外で何したことはありません。今の作業のできなかつた者、石山の件で留置場へ入れたことはあります。暁に祈るというような処分をしたことはありません。
  561. 天田勝正

    天田勝正君 これ亦全部向うの命令で、誰と誰をそれに入れろと命令されたのかどうか、適宜やつたのか。
  562. 池田重善

    證人(池田重善君) その点につきましては、石山の現場監督があります。そうして石山の現場監督が、今の一立米できた者、二立米できた者、三立米できた者、それから病氣でできなかつた者というふうに分けております。そうして処罰する者は結局帰りますと、收容所長まで全部、この石山は特にやかましくて、收容所長も帰るまで待つておりました。そうして收容所長、憲兵、現場監督が來まして、そこで処分を番号で申渡されて、そうして私は番号で達しておりました。
  563. 天田勝正

    天田勝正君 更に続いて伺いますが、他の証言によりますと、ノルマが遂行できずしてそのまま作業を続けておるというと、蒙古側の監督が來て、早く帰れというようなことを言われておる、こう言われておるのでありますが、そうしたことはあつたかどうか。
  564. 池田重善

    證人(池田重善君) 蒙古側の監督は言いませんが、歩哨が帰りたさに帰れというようなことを言つておりました。
  565. 千田正

    千田正君 先般他の証人からいろいろと、吉村隊長は非常に怖い隊長である。ということは、部隊内において相当スパイ網を張つておる。どんな親しい仲において交された言葉でも、それが凡そ吉村隊長のことに関する場合においては直ちに吉村隊長の耳に入り、そうしてそれに対する報復としては超過ノルマのようなもの、或いはその他の営倉に付する処罰のようなことが行われる。恐ろしいと常に感じておつたということを他の証人証言しておりますが、あなたは長い間の憲兵生活における体験を生かして、部隊内にいわゆる諜報組織を持つたことがあるかどうか。そういうことによつて、その諜報によつて超過ノルマを部下の者に強いたことがあるかどうか、その点をお答え願います。
  566. 池田重善

    證人(池田重善君) 先程申上げましたように部隊が紊れまして、今の鎌谷とか、或いは私が前から知つてつた今の吉村隊創立当時の兵隊がそういう状況を一々私に報告しておりましたが、その件について私が過剩ノルマをさしたとか、そういうような事実は私は認めません。
  567. 千田正

    千田正君 他の收容所に行われたところのノルマの状況と、あなたの部隊に行われたところのノルマは、一定した外に更に超過ノルマを課しておつたかという点に我々は非常に疑問を持つものがあるのでありますが、大体早く帰りたい。何とかして一日も早く故郷に帰りたいという、そうした人達の心理状態を利用して、あなたは超過ノルマを強いたように我々は今までの証人言葉を聽くというと聞こえるのであります。そうした祖國へ帰りたい、帰還したいという心理をあなたは把握をして、特にこうした超過ノルマを残忍なる死に至るような、栄養失調に至るような方法まで取らなければならなかつた程、あそこのウラウバートルの状況はそれ程切実なるものがあつたかどうかという点においては昨日も聽きましたけれども、あなたがそういう心理状態を利用して、そうして且つ又超過ノルマによつて受けたところの報酬を、蒙古側に対する一つの或る意味における寛大なる処置を得るためにモジツク氏その他に対する贈賄という面に使用するという意図の下にそうした超過ノルマをあなたが課したかどうか、この点において我々は疑問を持つのでありますが、その点を明白にして貰いたいと思います。
  568. 池田重善

    證人(池田重善君) 当時これは原田君においても言つておりましたのですが、外の建築場というのは團体作業になつております。それで建築工場から帰れば仕事はありませんが、会社側は殆んど個人ノルマになつてつて、技術が進めば段々上つて來るというふうになつております。或るとき靴工場におきまして月額ノルマが課せられたことがあります。そのときに私が原田君に、これでできるだろうか、こう申しましたところが、前十七名の同盟罷業をやつたときに、その報復として向うから明る日は十四までもさせられた。いやが上にも完成させられた。やらないと言えば無理にさせられる。結局技術が進んでおらないということは、彼らは蒙古の監督或いはソ連側の監督がおりまするが、その手の工合によつてこれがどのくらいできるかということは分つておる。それだから食わせるのだからそのままやらせた方がよいのじやないかという意見もありまして、そうして月額ノルマを完遂させたこともあります。決して自分のそういうようなことから食わせたことはありません。それから金の件でありますが、金の件につきましても、木材の運搬の金はそれだけで終りまして、あとは一遍は白麺、これは麦粉でありますが、それを一キロで運んで呉れというような建築場からの申込みで、それによつて皆の承諾を得て收容所長の命令の下にこれを実施いたしましたが、今のその件につきましても、最後までお金を貰わずに二百五十キロがそのままになつてつておる次第であります。それから金の点について一番疑われておるのは俸給の件でありますが、俸給は二割、三割はこれは私は確かに引きました。その金はどういうふうに分配するかというと、羊毛工場、鉄道工場或いはその他の工場において全員に渡る金ではない。一部に五百名おつてもそこに三百名しか渡りません。そうして最初私が申しましたように、共に苦労は分ち合うという関係で、全員に申しましてその中の二割、三割を差引きまして、そうしてそれを各人に十円なり、二十円なり分配し、又或いは賞金といたしまして、その中の百円か二百円かは演藝会の費用として差引いて、そうしてその状況は、今度は各人に分配した状況を明細に記載しまして、蒙古側の收容所長並びにゲ・ペ・ウの係の將校にそれを渡すことにいたしております。そうして私が渡しますと、二、三日うちに蒙古の秘密警察の方或いは憲兵の方が來られまして、その状況を調査されます。それで私としてはそういうようなことは絶対にありません。
  569. 天田勝正

    天田勝正君 再び恐縮ですが、二、三関連したことを伺います。尚、余り証人が長く説明されるのは却つてこちらでも迷惑でありますから、注意を願います。
  570. 岡元義人

    理事岡元義人君) 承知いたしました。
  571. 天田勝正

    天田勝正君 第一の点は、あなたが今着用されておるズボンは日本製ではないように見受けます。恐らく蒙古製ではなかろうかと私は推察しておるわけでありますが、そういたしますと、昨日からの証言によつてあなたはモジツク中尉に金を贈つた、又隊員の中で腹が減つてつておる人に自分の金を割いて、そうして食わせた。このようなことをいろいろ証言されております。そういたしますと、当時皆金がないためにいろいろな食物を買つて食えない。パンが欲しいために着ておる着物を賣ると、こういうことを他の隊員はやつてつたのに、あなただけがそうした金もあり、且つそれに加えて更に自分の着用する物まで買えるという点は、一体どうしてそういう開きができましたか。
  572. 池田重善

    證人(池田重善君) 池田は昭和二十一年の十一月、十二月の俸給としては百円頂きました。この点については昨日申上げましたように、百円頂いた金はモジツクの時計を世話してやるのに、彼が百円しか呉れなかつた、どうしても呉れないので、その代償として追加として二百円貰つております。その次の年も私は百円ずつ頂いております。三ケ月、四ケ月の計算になつて最初三百円頂きました。次に今の二百円ずつ、計六百円と、更に二百五十円、私はこの二百五十円が最高で終つております。
  573. 天田勝正

    天田勝正君 問題は、あなたがそうして自分の着る物もどんどん買えるけれども、他の者は食う物も買えないと、どうしてそういうふうに……。
  574. 池田重善

    證人(池田重善君) これは向うで私は頂いております。
  575. 天田勝正

    天田勝正君 そうしますと、他の者にも全部普遍的に配給になるのですか。
  576. 池田重善

    證人(池田重善君) これは別に……。
  577. 天田勝正

    天田勝正君 隊長だけに。
  578. 池田重善

    證人(池田重善君) はあ。
  579. 天田勝正

    天田勝正君 あなたは隊長として相当自由がきいたと思います。そこでウランバートルには恐らく十二、三の收容所があつた筈でありますから、比較ができたと思います。例えばノルマの問題、或いは食糧の問題、或いは懲罰の問題、こういうものと比較して、自分の隊が特に過重であるということに対して蒙古側と折衝しましたかどうか、又しないとすれば、どうしてそれを折衝されなかつたか。
  580. 池田重善

    證人(池田重善君) その作業の状況につきましては、最前申上げましたように、私が第一回の飛行場の作業のときに、結局交渉すれば私が叩かれて、あすこで男泣をして帰りました。ところが帰つて見ると兵隊は一人もおらない。患者も全員連れられて飛行場の作業に出されて行つておりました。そうして結局全員が苦しんだことがあります。そのために何回言つても、結局この状況についてはウルカワの或いは工場の特殊の関係上、どうしても話し合うこともできませんでした。その点は原田君が知つております。
  581. 天田勝正

    天田勝正君 一〇〇%以上ノルマを上げれば増食がある。だけどそれは何倍上げても同じである。こういう場合に無理にとにかく病院に入れなければならない程に強制しなくてもよかつたんじやないかと思います。それからノルマにしても、人が一立米であるべきものを吉村隊だけが二立米引受ける。このときになぜ強行に交渉されなかつたのか、この点で私共には理解ができないので聽いておるのです。
  582. 池田重善

    證人(池田重善君) 二立米というのは……。
  583. 天田勝正

    天田勝正君 二立米にしても、食糧にしても、懲罰にしても、外の隊と比べて見てそれが重かつた。これの比較はあなたは自由な立場におつたので分ると思います。でありますから、こういうときの何故強行の主張、交渉されなかつたかというのです。
  584. 池田重善

    證人(池田重善君) これについては強行に出ております。歎願書も出しておりますが、これは認められておらなかつたのです。
  585. 天田勝正

    天田勝正君 それであなたの隊だけが重くやられたか。
  586. 池田重善

    證人(池田重善君) そうであります。場所は筏の集積場である。材木集積場であるし、川が流れておる関係上、どうしてもそれを逃れることはできませんでした。
  587. 天田勝正

    天田勝正君 そうすると、他の機会にいろいろとあなたは、我が隊は技術を身に付けて帰つて、そうして日本の再建のために、又自分のためにも資するために、積極的にこのノルマと取組む、こういうことを訓示されていたと語つておるわけですが、そうした心構えは去ることながら、度が過ぎると結局それに起因して死ぬということが起きて來るのです。一体再建も何も、技術を身に付けるのも、生きているということが前提である筈です。こうした衰弱し切つておるというようなことを見まして、それでもあなたは技術を身に付けるんだから、これを強行するというお考えでやられたのでありますか。
  588. 池田重善

    證人(池田重善君) そうではありませんが、結局会社側のパーセンテージによつて各人に奬励しております。併しそれ以外の残業作業については、これは強制的に向うからやらせられたのであります。
  589. 天田勝正

    天田勝正君 終ります。
  590. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 昨日の証言によつて池田証人は西村外一名の方に或いは二人食を食べさせていたということを証言しております。
  591. 岡元義人

    理事岡元義人君) 星野委員、できるだけ大きな声でお願いいたします。
  592. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 鎌谷証人も後に至つて二人食を配給を受けたという証言を受けておりまして、結局本委員会の調査によつて三人ぐらい外の者が相当食糧窮乏の中にあつて二人食を配給されたということが明らかになつておるのですが、池田証人に、その三人以外に何人に対してこうした二人食の配給をしたことがあるのが、御返答願います。
  593. 池田重善

    證人(池田重善君) それは今の鎌谷に対しては私は一月は食わせておりません。彼が衰弱してから非常に人間がまじめになつて來たというので、とにかく二人食までではありませんが、少し増して食わせました。ところが食わせたのもありますが、彼は非常に炊事場に出入りしまして、炊事場から取つて來たものも多分にあつたと思います。それで一回捉えられて彼が制裁を受けたこともあります。全部に私が二人食を食わしておるという意味じやありません。
  594. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 まああなたが証言したのは、角力取りの幕内の宮田と、それから柔道七段の人と、この人らは体が大きいので二人食を食べさせたと証言しております。その外の者には二人食は絶対にやつておりませんか。
  595. 池田重善

    證人(池田重善君) やつておりません。
  596. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 それで、その二人食を二人にやつたについては、これは蒙古側に報告したのですか、或いは向うからの命令でやつたのか、全然報告しないで内証でやつたのですか。
  597. 池田重善

    證人(池田重善君) 独断であります。
  598. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 独断で、内証でやつたわけでありますね。それからもう一つ伺いますが、先程の曉に祈るの刑及び後に問題になつたいろいろの刑がありますが、その場合は逃亡兵というような場合は、先方で逮捕して、あなたが呼付けられるのだと思いますが、ともかくあなたが立会つておられますが、その際に原田通訳を同行しておりましたか、どうか。
  599. 池田重善

    證人(池田重善君) 本体原田君は靴工場通訳でありまして、蒙古側の通訳は、收容所のゲ・ペ・ウの通訳收容所通訳とは異なつております。帶同したことは一回か、二回かあると思つております。
  600. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 それから他の証人証言によつて、あなたが蒙古側から聞くことは大体分るかも知れないが、話す能力はないということは我々は断定できると思つておるのですが、それではそうした場合に、あなたがこうした人の蒙古側から処罰を請求された場合に、これは成るべく軽く、或いは無罪で済まして欲しいという懇願をする方法がないかと思うのですが、その場合はどういう方法を取つておりますか。
  601. 池田重善

    證人(池田重善君) それは今のゲ・ペ・ウの通訳は、これは晩までずつとおります。必らず一人ずつは向うに通訳がおります。
  602. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 すると、このあらゆる場合に、こちらから通訳を帶同する必要はなかつたのですか。
  603. 池田重善

    證人(池田重善君) はあ。
  604. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 通訳を一緒に連れて行く必要はなかつたのですか。
  605. 池田重善

    證人(池田重善君) 朝の作業の報告には全部連れて行つております。
  606. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 一昨日の証言の中に、こういう言葉があつたように私ははつきり記憶しておりますが、過失はともかく、自分で故意に殺したようなことはないというような言葉があつたのですが、果して然りとするならば、過失であなたの部下が結局死に至つたというようなことが、はつきりあなた自身認めることができますか、又それは誰と誰であるか御答弁を願いたい。
  607. 池田重善

    證人(池田重善君) 過失と言いますのも、今の渡邊軍曹の件であります。渡邊軍曹が叩き殺した、こういうふうになつておりますが、私としては彼に殺人の意思はなかつたと思つております。ただ民團なるが故に文句を言つたから叩いた。たまたま身体も惡かつたし、場所も惡かつたから倒れたのだ、だからそれは過失で死んだのがあるということを言つたのであります。
  608. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 渡辺君がいわゆる歐打して殺したというようなふうに誰からお聽きになりましたか。
  609. 池田重善

    證人(池田重善君) 私は西村君と伊藤少尉の方であります。
  610. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 それから曉に祈るという一昨日の証言によれば、結局いわゆる演藝会の際に、隊長たる貴下に対して諷刺する一つの劇をやつた。その中から曉に祈るという言葉が全般的に流布されたようであるが、最前原田証人証言によると、蒙古政府によつて三回だけ、いわゆる門柱に括られて、そうして言うところの曉に祈るという体刑が行われて、その後はあなたの説明によりますというと、殆んどあなたの自由意思によつては一回もやつたことはない。必ず正しき命令系統に從つて自分はこれを処置したというように、昨日も本日も御証言になつておるようでありますが、他の証人証言によれば、あなたの言われるところの、いわゆる曉に祈る人数の員数と、それから他の証言は、二人までも恐らく百五十名はこの曉に祈る体刑を受けたというふうに申しておりまするが、あなた自身当初に眞実を述べ、決して加えもしないし、或いは決して言うべきことを差控えもしないということを良心に誓つておられまするので、そのあなたの誠実に愬えて、私はその点をはつきりお答を願いたいと思います。
  611. 池田重善

    證人(池田重善君) それは証人の暴言と思います。私においては絶対にありません。
  612. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 あなた自身一回も曉に祈るという体刑を、蒙古政府、ゲ・ペ・ウ等の命令系統でなく、隊長として、いわゆる隊長の独断專行で絶対にやつたことはないということを飽くまでも証言されるのですか。
  613. 池田重善

    證人(池田重善君) そうであります。
  614. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 これに対して原田証人に対して私はお尋ねします。今の、今までの池田証人の陳述の中に、いわゆる常に生活を共にして殆んど一つの部屋で起居を共にしたあなたとして、重大なる池田証人証言に錯誤があり、或いは故意にこれを僞つて証言しておつたと信ずるがごとき点がありますならば、率直に御発表を願いたいと思います。
  615. 原田春雄

    證人原田春雄君) 最初の高月、目瀬等に関する処罰の件は吉村氏のいわれた通りであります。それから曉に祈るという言葉が演藝によつて生れたということも事実であります。但し現在あの屋外留置ということを形容するのにいわゆる曉に祈るという言葉で表現されておりますので、これは先程モジツク中尉がみずからやつた屋外留置の処分を称して曉に祈ると思上げたので、この点も吉村氏の言つておられることに間違いないと思います。次にバズルスルン中尉が收容所長に就任して以來、日本人の処分については、自分の信頼する吉村にこれを任せる、但しその事前に処分のことを報告してくれという條件附で任されたのでありまして、從つて私は毎晩ノルマ不足で何番と何番、窃盜で何番と何番というように吉村氏が書かれたもの、或は口頭で言われたことをバズルスルン收容所長に報告しておることは、私間違いないことでありまして、この点は吉村氏がどういうふうに解釈されておるか、了解に苦しむことであります。
  616. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 池田証人にお尋ねしますが、いわゆる二十二ケ所の收容所の如何なる收容所に比べて見ても、常識上三日間に亘る証人証言素材としてそうして当り前の何らの先入感を持たないでそうして断定したところによれば、最も池田隊のノルマ想像に絶するように過重な負担となつておる。これは殆んど異口同音に各証人の言が一致しておる。それから更に非常に苛酷なる留置或は曉に祈る等の極刑が、人道的に見て、殊に同胞相喰むという点から見れば、聽くに忍びないようなことが行われておる。この事実を全面的に証人は肯定しないようでありまするが、現に今顧みていわゆるノルマとそれから体刑を課したという点において、あなたは良心に反省して、今ここでも、これらの過重労働に服した同僚或は各体刑を受けたところの各同僚に対して、一遍でも隊長として責任を感じたか、感じないのでありまするか。どうかこの点を率直なるあなたの心証を伺つておきたいと思います。
  617. 池田重善

    證人(池田重善君) 殊に今矢野先生より言われました通り……併し私も現在の心理状態……或はそのときの心理状態においてこれは一應認めて貰いたい。私はそれを言います。或る隊長においては、すべて今の長谷川さんにしろ、直ぐに兵隊処罰を行われればそのまま断わりをいうことなく引渡しております。或いは軍法会議に渡す事件においてもそれをそのまま引渡してしまう。そうして私がそういうような処分を取つておりましたならば、私としてもそれはこんなにまで追及も受けなかつたのかも知れませんが、私としてもでき得る限りの、敵地に渡さない、ゲペウに決して手も指させないという点については私は絶対に恥じないのじやないか。とにかく私があのまま軍法会議に渡す、窃盜で渡す、或いは作業をサボつたからそのまま蒙古側の留置に任せるとすれば、結局恨みは受けなかつたかも知れませんが、或いはそのときにおいては……、八月の私が轉属するときでありますが、実例を挙げますと、八月に轉属命令が下りまして、一旦私が轉属するようになりましたときに、そのときに約五百余りの兵隊がおりました。そのときに一部を除く全員の歎願書を出しまして、そうして隊長だけは留めておいて呉れというような状態にあつたのですが、現在私としても帰つて参りました今の、向うのときの心理状態はそれをこちらに帰つてから考えるならば、現在の心理状態において考えるならば、それは極端なところもあつたと思われますが、向うにおいての心理状態についても一半の考察を願いたいと私はこう考えております。    〔「証言の喰違いについて委員長」と呼ぶ者あり〕
  618. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 僕がお尋ねしたのは二つの点であつて、いわゆる相当常識で解釈のできない労働過重のその労作を、或る場合には、命令、指揮命令系統でもやつたようであるし、でない場合には独断專行の、隊長が自由裁量してやつているということもこれは明らかなる事実である。そういうようなことと、いわゆる又更に留置或いは曉に祈るというような体刑を課したことを顧みて、この点についてあなたはあの当時のことを顧みて、いろいろな当時の状況は、現在冷靜になつたときのその心理状態とは根本的に違うことは、僕みずから体驗しているので分つている。動乱の中に満州におつたのですからその点はよく分りますが、それを顧みてあなたは何らこれに対して天下に恥じるとか、或いは同僚諸君に、或いは亡くなつて諸君に対して、隊長として特に詑びるというような氣持は全然起らないかどうかということの二点についてお答えを願いたいというのです。
  619. 池田重善

    證人(池田重善君) 現在の考えから言いますと、それは私としては今の向うの命令によつていたし方がなかつた。併し私としてはあの場合に逃れることはできなかつた。到底我々があの場合逃れることはできなかつたということだけを私はここで思つております。    〔「委員長、重大なる喰違いがあります」と呼ぶ者あり〕
  620. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 池田証人にお尋ねしますが、今のいろいろなあなたの証言を伺つて、一点でよろしいが、ソソロバルム少將、或いはボンツキ中尉、それから殊にモジツク中尉、バズルスルン中尉、こうした外蒙側の收容所長、或いは最高指揮官、そうした面に対して、あなた方が直接に感じられた、直接にこの外蒙からの折衝……、それはもう先程の証言でよく分りますが、例えばゲペウにおけるコンゴール中尉、或いはその他のゲペウの人達の圧力を強く感じたかどうかという点を御証言願いたい。外蒙側の將校指揮官、或いはその直接の收容所の中尉、こうした將校の人達と接触面が非常に多かつたと思うのでありますが……。
  621. 池田重善

    證人(池田重善君) はうそうであります。
  622. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そういう人達命令なり或いは通達を受けておる、監督も受ける。その場合になされたことと、それから今度は直接或いは間接にソ側のゲペウの人達の圧力を感じたことがあるかどうか。つまりそのゲペウのいろいろな、コンゴール中尉、その他の人達の圧力を感じたことがあるか。圧力というとおかしいのですが、そういうふうな指令を外蒙側の人達が直接にあなた方におやりになつてつたのでしよう。
  623. 池田重善

    證人(池田重善君) はあそうであります。
  624. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 ところが或る場合には何か自分達の方で、これは処罰されるようなことがるという場合には、むしろ外蒙側よりか、ゲペウ側、ソ側の方が、こわいのだというような感じを持たれたことがあつたかどうか。
  625. 池田重善

    證人(池田重善君) それはあります。
  626. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 私は食糧ノルマ、処刑という、この三つのものを一緒にして池田証人証言を求めたいと思います。池田証人はいわゆる吉村隊隊長として、我々委員の方からいろいろ從來まで御質問なりそれに対する証言がありましたが、全体として吉村隊は過重労働を加えておつた、そうして食糧は少かつた、そうしてその処刑は最もひどかつたというようなことでありまするが、第一にノルマが過重であつた。而も靴工場に行つておる晝の間、帰つて來てからそれ以外の時間を材木工場で働かした。この材木工場で働かしたのは、断り得る状態ではなかつたか。最初は工場だけでは引受けできない、司令部命令がないと引受けできないと言われたのは、形式の問題であつて、本当に断るなら断り得る状態ではなかつたか。從つてそれが先程証言におきましたように、絶対に断り得ない状態にあるならば、その働きに対する体質を保存するための食糧を考えて來ることが隊長としては当然ではないか。食糧は殖やさずに、そうして朝三時から晩の十一頃まで働かせるというのは、これは人間の体力として統底続かんじやないかということをお考えになつて然るべきものではないか。然るに食糧は、糧秣受領には毎日同じだけの食糧を貰いに行く、一方、減食をさせられておる、減食の分の取扱いもはつきりなつておらない。この点についてどういう考えでそういうふうにやられたか。具体的にやり得るんじやなかつたかどうかと私は考える。この点を具体的に一つ証言を求めます。
  627. 池田重善

    證人(池田重善君) 今の、これは渡るところと渡らないところがあります。例えば筏揚げについては、煙草だとか、若干の煙草ぐらいはこれは賞品として、私達の労働代として渡つております。それから今の工場内の建築の方においては、最前申しましたように一本に対して一キロの粉が渡つております。それでそれを練つて、夕食の前にそれを全員に、今の材木を、木材を担ぎに行く前に門の所で全部分配して渡しております。それで今の食うだけのものじやない、以外の賃の方の粉というものは、それによつて渡しております。ところが今の作業の件についてでありますが、これはたとえ断つて置いても、今度は強制的に必ず銃劍を突きつけられて追い出されております。それで徹底的にやらされて、この点についてはどうしても逃れるということはできませんでした。
  628. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 その場合に、過剰ノルマに対する食糧の増配は、いわゆる結果においては増配にならなんだという結果になつておるが、これに対する隊長としての責任を感じられなかつたか。
  629. 池田重善

    證人(池田重善君) 増配でありますか。
  630. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 過剰ノルマに対して必ず食糧の増配があることになつておるわけですね。
  631. 池田重善

    證人(池田重善君) いや、それは私の方で原田君に何回も請求させております。要するに過剰時間の七時までは残業を認められます。例えば五時からの二時間の残業は規定によつて認められますが、それ以外は一時間に対して一円づつの賞金を貰うようになつております。それについても極力請求しましたが、蒙古側では全然その金については一銭も頂きません。
  632. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 もう一つ具体的に、先程の証言におきまして、いわゆる留置場、清心寮が滿員であるから屋外に立てた。こういう証言であつた。そうすると屋外に立てた、いわゆる曉に祈るというそのやり方は、隊長である池田君個人の方法、屋内に入れることができないために、止むを得ずそこに立てたという方法をお取りになつたか。
  633. 池田重善

    證人(池田重善君) そうではありません。これは要するに屋内に入れられませんから、今の歩哨のおる所の、監視の行く所に立たせる。蒙古側に言われてやつておるのであります。
  634. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 それは向うからそういう命令
  635. 池田重善

    證人(池田重善君) そうであります。
  636. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 併しそれならば無理しても屋内の清心寮に入れるべき人を、あの寒さの屋外に立てるのですから……。
  637. 池田重善

    證人(池田重善君) いえ、屋内には入つておるのであります。
  638. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 屋内には入つておるけれどもそれに入り得ない人を入れるなら、それならば同樣な意味で廊下に立ててもいいじやありませんか。隊長としてはそのくらいの考えは……わざわざ寒い屋外に立てんでも、処刑をせんならんならば、清心寮の家の中へ入れるべき人ならば、屋内の廊下に立ててもいいじやありませんか。
  639. 池田重善

    證人(池田重善君) 屋内の廊下でありますか。
  640. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 屋内の廊下に立てても、いわゆる刑罰の目的を達せるじやないか。それをわざわざ屋外に立てるところに問題がある。
  641. 池田重善

    證人(池田重善君) それは許されません。留置場も屋外と同じように寒いのであります。
  642. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 留置場についても伺いたいが、それはあなたが、屋外を主張した場合、屋外は氣の毒だから、屋内に、これからそういうことをしたらということを訴えられなかつたですか。
  643. 池田重善

    證人(池田重善君) それは言うております。留置場の設備も言うてありますが、それは向う側として許されませんでした。
  644. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 それから清心寮は殆んど屋根がない、雪が降つて寒くておれない、ただ戸を嚴重にした、その上なんかを修繕することはできないという命令であつたか。私は恐らくそうじやなしに、本当に考えるならば、屋根なりそういうものは修繕し得る隊長の権限があつたのじやないかと思いますが、この点について。
  645. 池田重善

    證人(池田重善君) それはあの恰好の家をお知りにならないと思いますが、上には屋根があります。屋根がありまして、そうしてその下に板があるのであります。それで雪は窓の方から吹込んで参ります。上には屋根があるのであります。今の丁度炊事の、絵に描いてあるような恰好に屋根がついております。
  646. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 併し窓はない家と言われておるが。
  647. 池田重善

    證人(池田重善君) そうでありません。入り口が窓であります。
  648. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 そうすると窓を塞ぎ得る方法は取れなかつたか、窓を塞いで、恐らく中で屋外以上に苦しんだという状態であるようですが、清心寮は……。
  649. 池田重善

    證人(池田重善君) そういうことはありません。
  650. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 これは外の証言ですから、あなたにそれは求めませんけれども、相当寒いということは考えられる清心寮に一晩中入れて、或いは何日間か入れておるために、いわゆる自分の部下がどんなに苦しみを感じておるということはお考えにならなかつたか。
  651. 池田重善

    證人(池田重善君) その点は説明させて頂きますが、それは蒙古の歩哨も同じ服装であります。そうして蒙古の歩哨も、これは本でも見られましたでしようが、ソ連側においては同じ服装であつて、結局朝から晩まで一回も交替なしにやはり立つておる次第であります。それで蒙古側においてはそれまで考えないのじやないかと、私たちが言つても通らないのであります。
  652. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 そうすると証人隊長として、或いはいわゆる曉に祈らさせておる当時、自分の部下が曉に祈つておる場合においては、どんなに肉体的の苦痛、精神的な苦痛、いわゆる堪え忍び得ない寒さの苦痛があつたというふうなことは考えられたかどうか。
  653. 池田重善

    證人(池田重善君) 考えて、私は最初の訓示にも、入る時でもですが、その時は酒井軍医の診断を受けて、これは大丈夫とか、大丈夫でないかと、丁度脇に坐つておるから聽きまして、それによつて決定して入れておりました。
  654. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 鎌谷証人の話では、翌る朝、午後の二時頃まで同じような状態で続けられて、止むを得ず、陽が出たら縄を少し解いて、そうして四メートルぐらい離れて、日光に当るようにしていたという話でありましたが、先程証人お話では、朝全部返しておるというお話であつたですが、この点はどうでございますか。
  655. 池田重善

    證人(池田重善君) あれは羊皮工場に勤めておりまして、八時に放して羊皮工場に連れて行つております。
  656. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 もう一つそのあとで伺います。丁度酒井証人が見えておりまするから、只今お聽きの、池田証人はおのおのの健康をあなたに診断して貰つて、これは堪え得る者だけをいわゆる曉に祈るをさせたという証言でありましたが、さようでありましたか。
  657. 酒井一郎

    證人(酒井一郎君) さようではありませんでした。
  658. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 具体的に、全然あなたは診断も相談も受けずになされた。
  659. 酒井一郎

    證人(酒井一郎君) 勿論であります。
  660. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 池田証人証言を求めたいと思います。只今池田証人は、そのいわゆる体質になり健康なりを考えて、屋外の処刑をしたというお話でありましたが、当時の医者であつた酒井証人は全然そういうことはやつたことがないというので、ここで重大な喰違いを生じておると思う。私共の最も憂えまする点、又証言を求めたいと思いますのは、このいわゆる吉村部隊というものは相当数があつて、而もそれは殆んど栄養失調のような状態になつて食糧が不足しておる、過重な労働を加えられた、そうしてその処刑というものは普通常識で考えられないような処刑を受けておつたのではないかどうかという問題、然るに隊長としてはいやそれは健康体を考え、当時の軍医の地位にあつた酒井証人に診断をさせてその後やつたというお話でありますが、酒井証人は全然そういうことはしていないというお話であります。この点は実際はどうなんですか。
  661. 池田重善

    證人(池田重善君) それは酒井先生の方のあれもあると思つております。私は酒井先生は丁度脇に坐つておられまして処分するときは一應酒井先生の方の連絡してやつておると思います。第二回目の齊藤伍長を処分したときにおいても結局病氣のために一名止めさせておる者もおります。そうでありますが、酒井先生のことについても申上げますと、非常に熱心にやつて頂いたこともありますが、今の栄養失調とか或いは入院患者の薬のことについては、私はいつも原田君と一緒に酒井先生をロシア人の院長のところにやつておりますが、酒井先生は医者の所まで行かれずに、そうして途中で、原田君にだけ頼んで帰る、積極的なことがないという関係上、私の方からやかましく言われたことも一、二回あります。
  662. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 私の質問の要外を外れておると思いますが、その問題についてこれ以上証言を求めることは必要ないと存じますが、只今のいわゆる曉に祈る場合に、祈らさせる場合に池田証人は酒井医師の診断を受けてやるというお話でありましたが、事実はやつていないという結果になりますが、さよう心得て間違いございませんか。
  663. 池田重善

    證人(池田重善君) 私は酒井先生には絶対お願いしてあります。それはまだ外に当時におりましたのが二十名ぐらいもおりますからその方から証言を求めて頂きたいとこう考えております。
  664. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 もう一つ、先に矢野委員からこの証言を求められて大分喰違いがあつたと思いますが、実はこの問題は御案内のように相当日本人としての我々、殊に引揚促進に当つておる者、或いは留守家族、或いは同胞全部が大いなる関心と悲痛な思いか以て、この動きを見ておる事件であります。当時の状態は別といたしまして、現在の日本人としては、誠に普通ならば涙を流しながらこの問題を強く心臓を衝かれておる。その状態を現在の日本において、現在の状態として池田証人がこの問題を考えられた時に、どのような心境をお持ちになつておるか、自分隊長であつた当時を振り返つて、現在の再建の途上にある日本において、どのような御心境を持つておられるか、この点を伺いたい。
  665. 池田重善

    證人(池田重善君) この点といたしましては、とにかく私の指導の幼稚から、結局部下を統率する指導もなくて、結局こういう結果を起し、社会に不安を與えたことについては重大なる私の過失と、こういうふうに心得ております。
  666. 天田勝正

    天田勝正君 先程の証言中重大な喰違いがあります。それは原田証人は二度に亘りまして、バズルスルン氏が所長になられてそれから、所長の処罰吉村隊長に任せられた。但しその任せ方は、一々これをバズルスルン氏に報告すべしという條件を附けて任ぜられたのである。そこでその任せられて以來は毎日吉村氏、池田証人の命を受けて原田氏はこの報告を行うことになつてつた。然るにその報告をせずして吉村氏が單独に処罰を行なつた。こういうことを二回に亘つて言われております。  然るに池田証人は、さようなことは断じてない、正規の命令系統を通しての命令によつて処罰したのであると言われておる。ここが要するに日本人同士の手によつて、そうした引揚促進を阻害しておるという原因になるのか、向うの命令によつてそうした引揚阻害が行われておるかとの重大なる岐路でございますので、この点再び池田証人並びに原田証人証言を求めます。
  667. 岡元義人

    理事岡元義人君) 原田証人からですか。
  668. 天田勝正

    天田勝正君 どちらでも。
  669. 岡元義人

  670. 原田春雄

    證人原田春雄君) 私は何度も同じことを申上げる必要があれば申上げますけれども、苟くも宣誓をしてこの委員会に喚問されました以上、虚僞の証言をすることは國会を冒涜し、國民を欺瞞し、民族を侮辱するものであると考えるだけであります。
  671. 天田勝正

    天田勝正君 先程の証言の通り。
  672. 原田春雄

    證人原田春雄君) そうであります。
  673. 岡元義人

  674. 池田重善

    證人(池田重善君) やはり先程申上げました通りに間違いありません。
  675. 岡元義人

    理事岡元義人君) この際各委員にお諮りいたしますが、委員だけの打合せをいたしたいと思いますので、誓時休憩いたしたいと思いますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  676. 岡元義人

    理事岡元義人君) では証人の方の御退席を願います。誓時休憩いたします。    午後三時四十六分休憩    —————・—————    午後四時二十二分開会
  677. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今から休憩前に引続いて委員会を再開いたします。  委員長から池田証人に二、三お尋ねいたしますが、先程委員から質問のありました清心寮の中にはペーチカの準備が途中においてされたと、こういう証言があつたのですが、それは焚くためにいわゆる設備されたものと考えられますが、隊長はそのペーチカを焚いたことがありましたか、その点先ず一点お答えゐ願いたい。
  678. 池田重善

    證人(池田重善君) それは、二十二年の九月過ぎだつたと思つております。もう改る前であります。あそこに石山が再開しまして、その監督者がそこに寢泊りすることになりまして、そこを造り変えましてペーチカを造つたのであります。そして新らしい住家になつたのであります。
  679. 岡元義人

    理事岡元義人君) 重ねて伺いますが、そのペーチカができてからは、もう全然処刑はなかつたのですか。
  680. 池田重善

    證人(池田重善君) はあありません、夏であります。
  681. 岡元義人

    理事岡元義人君) では着席願います。  原田証人に伺つて置きますが、先程池田証人証言をお聞きになりまして、鎌谷証人の、朝八時に隊長はこれをほどいたという証言ありましたが、鎌谷証人は午後の二時まで処罰を受けておつたと、こういう証言があつたのでありますが、この点について、原田証人証言を求めたいと思います。
  682. 原田春雄

    證人原田春雄君) 鎌谷が屋外留置をされましたときも、私は收容所長に報告に行つております。いずれの場合と雖も作業時間中に処罰のために作業を休むということは許されませんのでした。その例に洩れず鎌谷氏も午前八時に縄をほどいて作業に出動しております。
  683. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 鎌谷証人と非常な喰い違いがあるが、鎌谷証人出席を要望します。
  684. 岡元義人

    理事岡元義人君) 今矢野委員から発言がありまして、鎌谷証人出席を要請されましたが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  685. 岡元義人

    理事岡元義人君) 鎌谷証人出席を求めます。  原田証人に尚もう一点だけ伺つて置きますが、只今池田証人がペーチカの設備が終つたのはもう処刑がなくなつてからだという御証言がありましたが、この点原田証人つておられる範囲において証言を求めます。
  686. 原田春雄

    證人原田春雄君) 二十二年の二月頃だつたと思いますが、そのときに收容所長が廻つて來て、寒いからペーチカを造れということを隊長に命じまして、隊長兵隊の中で左官屋の経驗の者がおりましたので、その名前を記憶しておりませんが、それを二三日所長の許可を得て工場を休ませて、土を固めた煉瓦型のものでトーピーズと呼んでおりますが、そのトーピーズを以てペーチカが造られたのであります。確か完全に完成はしていなかつた記憶しておりますが、火を焚ける程度にはできておつたと思います。それと、今吉村氏が言われましたベーチカは、帰國前に、帰國の直ぐ前に、採石山の監督が住居にするというので、隊長に命じてそこに丈夫なベーチカを拵えさせたということは事実であります。
  687. 岡元義人

    理事岡元義人君) 池田証人に伺いますが、先程の証言は、今の原田証人証言によりまして、池田証人勘違いしておられるのじやありませんか。
  688. 池田重善

    證人(池田重善君) 違います。それは全然あすこの部屋には造りません、大工小屋を造るときにトーピーズで造らしたことがありますが、あの木工所でありますそこには造らしたことがありますが、そこには造らしたことありません。
  689. 岡元義人

    理事岡元義人君) 尚一点池田証人に伺いますが、命令によるいわゆる処罰は、晩の十時から朝の五時までということを先程お認めになつたのでありますが、鎌谷証人の場合は八時まで置いておいたという証言がありました、その点超過した理由は、これは池田証人独断のいわゆる計らいであると考えてよろしうございますか。
  690. 池田重善

    證人(池田重善君) それは独断ではありません。やはり規定ではありませんが、朝起床までというふうになつておりますが、その作業に差支えない範囲には向うから命令されております。
  691. 岡元義人

    理事岡元義人君) 池田証人に伺いますが、こちらはあなたの独断の裁量で、起床までの時間であつたならば、その範囲においてすでに許されてもいいという性質のものではなかつたかと思うのでありますが、その超過三時間は、これは明かに池田証人の独断裁量によつてやられたものだ、こういう工合に考えられますが、その点はつきりして頂きたいと思います。
  692. 池田重善

    證人(池田重善君) 結局独断ということはありませんが、命令で、特に彼が惡質であつたということによつて、時間は延ばさして頂いております。
  693. 岡元義人

    理事岡元義人君) ちよつとその答弁が曖昧ですが、「延ばさして頂いております」というのじやなくて、五時までに帰せば——解けば解いていいわけだつた、それが池田隊長が、その当時の吉村隊長が、八時まで置いておいたと、こういう工合に考えられるのですが、あなたの御証言によると……。そのように考えてもよろしうございますか。
  694. 池田重善

    證人(池田重善君) 八時まで置いたというんですか……それは惡質のために置いたと考えてよろしうございます。
  695. 岡元義人

    理事岡元義人君) あなたの独断で……。
  696. 池田重善

    證人(池田重善君) 私の独断ではありませんが、向こうの許可によつてつております。
  697. 天田勝正

    天田勝正君 池田証人に伺います、それは「延ばさして頂いております」と、こういう私共聞くと、極めて曖昧な答弁でありますが、その延ばさしておいて頂いたとは、一体事前にこの者は隊長の裁量によつて三時間や四時間、作業に差支えない限りは延してもよろしいという事前の許可があつてなされたのか、又は事後に報告すればいいという程度の認め方をされておつたのか、更に事後であるとすれば、向うの、つまりソ蒙側の意思というものは到底入る余地がないように考えられまするが、その点についてはつきり御証言を願いたいと思います。
  698. 池田重善

    證人(池田重善君) 私の今の言い廻し方が惡かつたと思つておりますが、これは今の八時まで、要するに作業に差支えないだけは時前から許されております。
  699. 岡元義人

    理事岡元義人君) ちよつと池田証人に関連しておりますから、私から確かめて置きたいと思いますが、証人は十時から五時まで作業に差支えないという範囲は勿論それに含まれておりますが、十時から五時までということにおいて処刑をやれという命令を受けておるということを、あなたは自分で記録しておられますか、御承知ですか。
  700. 池田重善

    證人(池田重善君) 記録しておると思つておりますが、それは今の窃盗の場合のときのそれでありまして、一般のときには、やはり今の八時まで置いた者もあるて思つております。
  701. 岡元義人

    理事岡元義人君) その記録に基きまして、あなたは命令範囲では大体五時までであつたという工合に解釈されると思うのでありますが、その点非常に曖昧な点があると思います。
  702. 池田重善

    證人(池田重善君) それは十時からされるというのではなくて、結局残業が遅くなつてつた関係上、十時からやる者もありまして、一概ではありません。八時に帰つて來た者は御飯を食べて八時から処分した者もありまして、一樣でありませんが……。
  703. 岡元義人

    理事岡元義人君) 重ねてお尋ねしますが、先程の御証言の中に起床までという言葉をお使いになりましたが、非常に、段々話が食い違つておるように聞えるんですが……。
  704. 池田重善

    證人(池田重善君) それを書いておるのは一例をとつておるのでありまして、今の十時から八時までというのは、遅れて來た者が一遍に処分する関係上そういうようなことになるのでありまして、八時から処分した者もありますが、それは最前証言にもなかつたと思つております。
  705. 岡元義人

    理事岡元義人君) この際鎌谷証人証言を求めます。  鎌谷証人が昨日の証言で、午後二時まで処罰を受けたと、こういう御証言があつたのでありますが、池田証人より八時にこれをほどいたと、こういう証言があつたのでありますが、その点喰い違つておりますので、尚念のために更に御証言を求めます。
  706. 鎌谷參司

    證人鎌谷參司君) 池田氏の言うことは間違つております。午後の二時頃になつて何故解除になつた自分は不思議に思つておりました。班内に入りましたところ、稻見憲兵少佐が來て、あなたのことを聞いておられたと夜間勤務の者がそう申しておりました。現在ここにおられる十二人の証人も、証人のうち殆んど勤務の関係で、私が皆が出勤するとき晝戻つて來たときもおつたということははつきり証言して呉れると思います。外の人に聞いて頂きます。私自身としても池田氏の言われる向う側の命令であつたということについては疑問を抱いております。
  707. 岡元義人

    理事岡元義人君) 御疑問とか、そういう点はつきり申述べて頂きたいと思います。
  708. 鎌谷參司

    證人鎌谷參司君) 蒙古側の命令ではなくて、吉村個人の独断に基くところの得手勝手な処罰であると確信します。
  709. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 委員長が尋ねられたのは、そういうことは一つもお尋ねになつておらんのです。私達は決してあなたのひいきとかこちらのひいきとか、全然そんなことはないのであります。はつきり事実を事実としておつしやつて頂けばいいのであります。それを前提としてお答え願います。最前池田証人も、それから原田証人も、いわゆる勤労時間内において処罰することは嚴重に禁ぜられておるがために、あなたは八時に処罰を終えておるということを原田証人最前はつきりと証言されましたが、あなたが時に御記憶をお辿りになつて、ああいうどさくさのときですから記憶の間違い等もありましようから、よく感情を興奮しないで、ありのままを一つ御発表願いたいと思います。どうですか。昨日の証言では、初めは何か二時まで或る程度余裕があつて縛られて、立つたり坐つたりしておつて、そうして又後にあなた樣は手がすぽつと拔けるようになつたので四メートルばかり向うの方に行つて、後で日向ぼつこもしたという御証言であつたですね。
  710. 鎌谷參司

    證人鎌谷參司君) そうです。
  711. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 こちらのお二人は八時の勤労に從うべき時間までには解除になつたという御証言のようですが、御記憶如何ですか。
  712. 鎌谷參司

    證人鎌谷參司君) 記憶に間違いはございません。先日申上げました通りであります。
  713. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 原田証人に伺いますが、あなたは「曉に祈る」の処刑をされた者は、先程は百数十名あつたと言われまして、その次の証言のときはバズルスルン氏に收容所長が送つてから事後報告になつた。その後その事情を言われなかつたんですが、再び伺いますが、事実百数十名であつたか、そうして片方では、池田証人からでは集團窃盗による十四名と十五名が二度と、十四名が一度、十五名が一度、その外に合計十一名処刑になり、そのうち鎌谷氏を除いては殆んど全部は逃亡であるという証言があつたのですが、大分喰い違つておりますが、大勢いるから一一記憶もないでしようが、この池田証人証言以外にはつきりと名前を覚えて、「暁に祈る」の処刑を逃亡以外で受けた者を覚えているのを挙げて頂きたい。
  714. 原田春雄

    證人原田春雄君) 「暁に祈る」というような処刑が行なわれましたのは全部後半期でありまして、バズルスルン以後であります。從つてその收容期間を通じて、人数を延べますと百数十名に上ると思うのであります。それは仰せの通り今勘定するということは困難でありますが、五名乃至十名というような多人数が置かれたことは、少なくとも十回以上あつたことに私の記憶は間違いないと思います。それから後のお尋ねは……。
  715. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 その五人乃至十人が十回以上ではとても名前は覚えていないでしようけれども、とにかく池田証人証言した以外に名前を覚えておることがございますか。
  716. 原田春雄

    證人原田春雄君) 窃盗、逃亡以外の者で「暁に祈つた」という顯著なものとしましては、当時炊事に勤務しておりました宮本という人が祈つております。又ここに今日來ております清水一男氏も、これは收容所長の勧告によりまして、半ばで解除になりましたけれども、夜中まで繋がれたことがあります。尚その外採石山のノルマ不十分というために、いわゆる清心寮に、防寒外套を着ておりますために狭くと入り切れない者がはみ出て屋外に留置された。これは名前を記憶しておりませんが、これも延べて数十名に達するのではないかと、こういうふうに記憶しております。
  717. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 その外確実に記憶のあるものはございませんか。
  718. 原田春雄

    證人原田春雄君) あるのでありますけれども、ちよつと思い出すことはできません。
  719. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 池田証人質問いたします。一昨日から原田証人が重ねて証言しておられるのでございますが、隊員処罰は或る時期までは向うの手でやつた。或る時期において、或る一定のことは隊長の権限に任せられたし、その條件として必ず事前に通告すべし、こういうことであつたということが重ねて言われております。池田証人の一昨日の証言を承つておりますと、すべての処罰は向うの命令によつてつたのだと言つておられます。そのとき我々の受けました感じは、この処罰内容もすべて向うで決める。そうしてそれの執行をあなたがなさつたように我々は氣がしていたのでございます。今日の証言の中には先程述べられましたように、あなたが処罰をされて事後に報告されたというお話もございました。それから只今証言においてその出勤時間以後の処刑を延ばすことについてあなたの御專断であるかのごとき、我々が感じを受けた点もあるのでございます。そこで伺うのでございますが、原田証人の言われた或る時期において隊長処罰が任されたということ、並びにそれは事前に通告すべしという條件が附いていたということは事実でございますか、というのが一点、あなたがそれを実際に処罰なさいますときに、必ずその通りやられたか、或いは事後に報告されたことがあるか、又事断でやせれたことがあるか、この点について承りたいと存じます。
  720. 池田重善

    證人(池田重善君) 私は今原田君が言う通りに、バズルスルンから原田君が直接そういうような命令を受けたことはありません。私は刑の執行を個人に言渡すということになつております。それで例えばここに一件挙げて見ますと、笠原君の窃盗事件であります。この事件は笠原君がズボンの下に靴を一足隱していて、それを捕まつて工場から原田君が指令書を持つて参りました。その指令書を今度收容所長に渡しまして、そうして收容所長から今の番号と名前の処分の命令を受けまして、そういうふうに実施いたしております。独断でやつたことはありません。
  721. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 それではあなたは原田証人が言われたような命令を、誰からも受取つたものでもない、こう言われるのでございますが、そうすると処刑については、向うで決めた刑の範囲内においてあなたが執行していた、こう言われるのでございますか。
  722. 池田重善

    證人(池田重善君) それは命令が、例えば窃盗事件にしましても五日間の、命令が出ます。併しながら身柄を渡しまして作業に影響します関係上、一日にそれを削つてつた、そういうようなことできます。
  723. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 その方は別でございます。それならば伺いますが、先程あなたは自分で刑を言渡して、後から報告したということを言われました。そういう場合はどういうふうになるのでございます。
  724. 岡元義人

    理事岡元義人君) 証人ちよつと御注意申上げますが、事後に報告したものがあるという証言があつたということを穗積委員は申されましたのです。
  725. 池田重善

    證人(池田重善君) 事後の報告をやつたことはありません。処分命令を受けて後、処分命令を実施したという事後報告はしてございます。
  726. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 事後に報告したということを言われたのは皆さん聞いておられるところでございます。何か思い違をしていらつしやるのではないですか。
  727. 池田重善

    證人(池田重善君) 私の失言かと思います。今の処分命令が参りまして、それをやつたかやらないかということを、私は報告しておるのであります。
  728. 池田宇右衞門

    ○池田宇右衞門君 証人に伺います。よく罪を憎んで人を憎まずという言葉があるが、あなたは向うさんの命令によつて処刑したということでありますが、その処刑に当りまして、同胞の身の上を考えて、いわゆる罪を憎んで人を憎まずという温い心境があつたかどうか、それから常にこの異郷遥かにある人々を待つておる妻子及び老いたる父母がお在しますということを考えて、そしてその影響するところが非常に大きいというようなことを考え、常に隊員の身の上をお思いになつてつたかどうか、その心境の二つを伺う次第であります。
  729. 池田重善

    證人(池田重善君) その点につきまして、私としても、できるだけとにかく頑張つて、まじめに仕事を終えて、要するに日本人として我々は外地におるところの先駆者である。そうして向うの信頼と信義というものを失わないようにして、全部を連れて帰りたい。そのために取つた処置として軍法会議に廻すものも軽くして行くということを考えておりましたが、御承知の通り向うにおけるところの乱れ方というものは筆舌に盡しがたい状況であります。而して私が現在、向うにおけるところの心理状態においては、私としては何ら恥ずべきところはないというふうに感じておりますが、現在帰つて來て再び反省した場合に、とにかくやはり自分の指導幼稚ということがあつた、ああいうときには、こうすればこうなつただろうというようなことを、私としても今重々相済まんと感じておる次第であります。
  730. 岡元義人

    理事岡元義人君) ちよつと池田委員に申上げますが、成るべく要点を掴んでお聞きの程をお願いいたします。
  731. 池田宇右衞門

    ○池田宇右衞門君 今のお言葉の中にも、帰つて來て甚だ済まないということがありましたが、その後あなたの隊員のうちで亡くなられた方の冥福を祈り、その人々の遺族の慰安の方法を考えた行爲があつたかどうかということについて伺います。
  732. 池田重善

    證人(池田重善君) 私の書記をやつてつたところの村上悦治というものが、遺骨や遺髪、診断書を持つておりましたが、ソ蒙國境線を越えて約一時間も経つた頃、外部の方から泥棒が入つて來て、リユツクサツクに入つてつたもの全部持つて行かれたので、そのため住所も氏名も分らなくなつてしまいました。それから函館に上陸してもその情況が分らず、ただ名前だけは分つてつたが、他は何ら記憶はなかつたのであります。そのために帰りまして、結局毎月十五日に神社に参拜し祈願したり、その他お寺にお詣りしております。
  733. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 今朝程阿部証人の大体の状況陳述によりまして、彼の地のいろいろな状況というものは実によく分つたのでありますが、ただ一点、先程穗積委員からの質問のときに、命令云々という問題に対しまして、そうした命令は書類で來たのか或いは口頭であつたか、その一点だけを池田証人に答えて貰いたい。
  734. 池田重善

    證人(池田重善君) 書類の場合もありますが、口頭が相当多かつたと思つております。
  735. 細川嘉六

    細川嘉六君 池田証人に伺いますが、原田証人その他の証人の陳述によりますと、命令は外蒙の政府がやつたものである、ソ連はこれに関係はない、そうした又その命令は大体のことは定められているが、一々のことは收容所内で自治的に定められて行く、例えばノルマを何倍にするとか、時間外労働をやるとか、絶食とか減食とかいうものは、隊内でやつて行くというように決められておつたというのでありますが、あなたはそれについてどう思いますか。
  736. 池田重善

    證人(池田重善君) 例えば、私としては、今の隊内で決まつてつたということは、パンも畫飯も、人の物を盗つた者が発覚した場合に、今度一日の畫飯を本人に渡してやらないということにはなつておりましたが、他の作業のサボというものに対しては、これは蒙古側の命令によつてつております。
  737. 細川嘉六

    細川嘉六君 ソ連とは全然関係ないということははつきりしておりますね。
  738. 池田重善

    證人(池田重善君) は?
  739. 細川嘉六

    細川嘉六君 ソ連の命令なんか毛頭なかつたということははつきりしているのですね。
  740. 池田重善

    證人(池田重善君) はあ、そうであります。
  741. 細川嘉六

    細川嘉六君 收容所に対する命令というものは大体決めてあるが、細かいことは隊の責任者でやつて行く、そういうこととこちらは理解してよろしいですか。
  742. 池田重善

    證人(池田重善君) 隊で決めることはありません。
  743. 細川嘉六

    細川嘉六君 例えば減食だとかノルマを何倍にするとかいうようなことは、隊の責任者である隊長が決めて行つたと……。
  744. 池田重善

    證人(池田重善君) いや、それは決められません。減食とかノルマとかいうことについては、全部決められません。
  745. 細川嘉六

    細川嘉六君 今までの証言はそうなつて來ている。
  746. 池田重善

    證人(池田重善君) 証言はどうなつているか知りませんが、これは蒙古は独立國ですから、蒙古側の命令でやつております。私ははつきり記憶しませんが、今ちよつと見せて頂いたのですが、これは俘虜取締令の百三十何條じやなかつたかと思いますが、それに歴然と載つているようであります。
  747. 細川嘉六

    細川嘉六君 それでは、さつき淺岡君の質問に答えて、あなたは、ソ連側の圧迫を受けたということをお答えになつたようだが、それは本当ですか。問違いですか。
  748. 池田重善

    證人(池田重善君) その点については私ははつきり分りません。結局俘虜司令部には、ソ連のやはり顧問の方もおられます。
  749. 細川嘉六

    細川嘉六君 顧問はそれはいるでしようが、指揮命令は外蒙政府がやつているのであることはあたなは承知しているのですか。
  750. 池田重善

    證人(池田重善君) 独立國という名義を持つていますから、それはそうであると思つております。
  751. 岡元義人

    理事岡元義人君) 細川委員、まだありますか。
  752. 細川嘉六

    細川嘉六君 まだ四点あります。(笑声)あなたが部隊が紊れたという言葉を使つてつたが、部隊が紊れたというのはどういうことですか。
  753. 池田重善

    證人(池田重善君) 私は部隊の紊れたという原因については、いろいろ考察がありましたですが、私としては、要するに旧軍隊制度の欠陷が、例えば階級その他人格と階級の不一致、その他に要するに旧軍隊の制度によつての騒動が起つたのじやないか。反動が來たのじやないかと私はこう考えております。
  754. 細川嘉六

    細川嘉六君 それで、さつきあなたが言われたが、びんたを喰わせるということは、昔あつた軍隊で当り前だつた、そういう地位を保とうとしてあなたは努力されたとそう解釈していいですね。
  755. 池田重善

    證人(池田重善君) は?
  756. 細川嘉六

    細川嘉六君 旧軍隊の秩序を保とうとして努力なさつた……。
  757. 池田重善

    證人(池田重善君) 旧軍隊の秩序を保とうということは私は考えておりません。結局あすこに行きましても、私の隊は外の隊と違いまして、肩の階級章は取らなくても心の階級章は外れて行くということはやつております。
  758. 細川嘉六

    細川嘉六君 軍隊精神は維持して行つたということになりますね。(「違うよ」「全然反対じやないか」「実体を言え」「まるで誘導訊問じやないか」と呼ぶ者あり)
  759. 岡元義人

    理事岡元義人君) 質問の要点だけお願いします。もう時間が……。
  760. 細川嘉六

    細川嘉六君 それではお聞きしたいのですが、あなたはさつきの午前中の証言で、ああいうことを嚴格に取扱わなかつたならば、隊内の者が外蒙古側の軍法会議に引張られて行く、そういうようなことであつては、皆一緒に帰れないからああいう態度を取られた、こういうようなことを言われた……。
  761. 池田重善

    證人(池田重善君) そうであります。
  762. 細川嘉六

    細川嘉六君 先程、一昨日からの証言で分つておることは、戰勝國の人の財産を取つたとか、逃亡したとか、そういうふうな場合でなければ、蒙古軍が罪人として糾彈して來るというようなことはないと言われておりますが、そういう危險がない限りにおいては、何も吉村部隊の誰かが引張られて行くということはない筈ですがそれはどうですか。
  763. 池田重善

    證人(池田重善君) それは戰勝國に対する窃盗事件は、工場から皮靴を盗つたり、蒙古人と賣買したことについても外蒙の刑を受けるというふうになつております。
  764. 細川嘉六

    細川嘉六君 それでは先程來の證言によりましても、みんなが生活に困つておる、それであるから盗みをやることは、隊長を初めあなたを初め皆やつていることである、たまさか笠原証人のごときは靴を持つて來たからといつてつたけれども、あれは偶然に捕つたのであつて普通していることである、そういうようなことは蒙古側でも見付からん限りは、そういうふうなことは問題にしていないそういうような状態でありますから、それがために危險なことはない筈である、あなたはえらく危險を感じておられるけれども、自分自身がそれをやつたということを釈明されておるのですか。
  765. 池田重善

    證人(池田重善君) 自分自身でありますか。
  766. 細川嘉六

    細川嘉六君 うん。
  767. 池田重善

    證人(池田重善君) 何でありますか。
  768. 細川嘉六

    細川嘉六君 外套を作るために毛皮を盗らせたとかその他のことが出ておりますよ。
  769. 池田重善

    證人(池田重善君) 外套を作るために毛皮を盗らせたということはありません。
  770. 細川嘉六

    細川嘉六君 とにかく外の証言ではそう出ておる。(笑声)それ程にルンペン化した部隊である。(笑声)それでありますから……。(「委員長々々々」と呼ぶ者あり)
  771. 岡元義人

    理事岡元義人君) 細川委員に御注意申上げます……。
  772. 細川嘉六

    細川嘉六君 軍法会議にかけられるという危險というものはありませんか。
  773. 池田重善

    證人(池田重善君) それは笠原にしろ私がやつたものじやありません。蒙古側がやつたものであります。
  774. 細川嘉六

    細川嘉六君 それからあなたの部隊は、他の部隊に比較してひどい処罰をされておる、これは証言が皆そうなつておる、あなたの部隊に限つて怠け者が沢山集まつたということはあなたはどういうふうに考えておりますか。
  775. 池田重善

    證人(池田重善君) それは要するに、最初から入つた私の現在までの吉村隊員というものは、処罰された者は余りありません。事故もありませんでした。結局よそから入つて來た部隊において栄養失調とかその他の……。誰しも隊から出すのにいい兵隊を出す者はありません。それで夏の間は人員が限定されます。冬になつて來ると人員が増加されます。前におつた者が入つて來ればこういう事故も起らないのでありますが、後から入つて來る者は、惡い兵隊を盥廻しにするというようなことになつて、結局その分が今の怠けるというふうになつて來るのであります。
  776. 細川嘉六

    細川嘉六君 併し段々と後になつて処罰がひどくなつて來ているじやありませんか。
  777. 池田重善

    證人(池田重善君) それは石切山の件でありますが、今申上げました通り、石切山の件は結局私達が考えますと、日本人が日本人をこなした、前の手軽いうちにノルマを完遂して置けば、結局私達はあれ程苦しむ必要はありませんでした。
  778. 細川嘉六

    細川嘉六君 あなたは憲兵であつたが、憲兵の連中が沢山居つた。それはどういう……一つの組になつてつたと思うのでありますが、どういう人達でありますか。
  779. 池田重善

    證人(池田重善君) 私達の中には憲兵はおりましたが、それに対してどういう組というものは作つておりません。
  780. 細川嘉六

    細川嘉六君 少尉とか准尉というのは多くは憲兵であつたのですか。
  781. 池田重善

    證人(池田重善君) いや、そうじやありません。
  782. 細川嘉六

    細川嘉六君 あなたの隊のスパイ組織というものは非常に綿密なものであつて、皆ふるえ上つてつた。現に酒井証人のごときは、意見したくても言い得なかつた。こういうふうなことをあなたの一番親しい人達でさえ、そういうことを言つておるのだが、それ程に、かれこれ文句を言うことを差し控えておる。それ程にスパイ組織というものをあなたは張り廻らしておつたというようなことになつておりますが……。
  783. 池田重善

    證人(池田重善君) いや、私はスパイ組織というものはありません。私の旧部下が二百名程、その中におります。そういうものが組織されて、恐れられておつたと言われますが、私は今最前話しました通り、酒井先生にしろ、或いは永井先生にしろ、原田君にしろ、私よりも先輩者であるし、相当な知識者でありますので、この方を顧問として、とにかく月に一回か二回、一週間に一回の会合を開いて私に対する所見はして頂いております。
  784. 細川嘉六

    細川嘉六君 鎌田証人に……。
  785. 岡元義人

    理事岡元義人君) 細川委員に申上げますが、その間に意見の相違があつたということについて……草葉委員……。
  786. 細川嘉六

    細川嘉六君 発言中……。
  787. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今議事進行が途切れておりますから議事進行発言を許します。
  788. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 大分時間も進んでおりますが、重要なポイントの質問は別といたしまして、一昨日來の質問が重複した場合があると思いますから、お互いに質問者の方においても、重複は避けまして、時間がもう切つてありますので、先程申合せた申合せ條項に基いて議事を進行されんことを、そういう動議を提出いたします。
  789. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 これは一点でよろしうございますが、池田隊長は、いわゆる長谷川隊と合流して、自分が総合的な部隊の隊長になつた当時、一体日本に帰るのはいつ頃であるかということについての見通しをどういうふうにつけておられましたか。これについての御返答を願います。
  790. 池田重善

    證人(池田重善君) 私達は、私は停戰ではない、敗戰である。命令一下、いつでも帰れる。併し三年か四年以上かかるか、或いは無條件降伏なるが故に、若しかすると、ここまで連れて來られて帰れないのじやないかと思つておりましたけれども、結局やはり來年の五ケ年計画、次に行われるところの鉱業地帶も、どんどんそれらの檢査もやつておりますし、相当長引くのではないかという私は氣持を持つておりました。
  791. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 原田証人に御質問したいのですが、あなたが今から考えられて、いわゆる池田隊長と、惡い言葉のようですが、共謀的にいわゆる労働過重とか、或いは体刑を過重にするとかそういうようなその隊の運営について、製靴工場通訳ではあるけれども、今証人が言つたごとく、顧問的地位に置かれて、一週間に一度とか、或いは一ケ月に数回会合して、そうして幹部会をやられたというような関係がありますので、何か、本当にこれは惡いと思うような事でも、その隊長が話をされて、これに同意して、その隊長行動を共にされたというような事件はありませんか。
  792. 原田春雄

    證人原田春雄君) 御質問の要旨がちよつとよく分りかねるのですが、池田氏の顧問的と申しますか、そういう帷幄に参画した覚えはありません。最初から申上げました通り、通訳は自己の意思を差挟むことを許されない。こういうように考えておりましたので、右向け、はい。左向け、はい。というような行動をとつて來たのであります。そのためにむしろ池田氏に対して、もつと死を以つてこれを諫めるというような行動を取れなかつた自分を今申訳ないと思う次第であります。
  793. 天田勝正

    天田勝正君 質問に入ります前に委員長一つ申上げて置きたいのですが、この際成るべく今日までの証言の喰い違い、こういうようなところに一つ主力を注いで頂きまして、爾余の点については御注意を一つ適当に下されんことを望んで置きます。  そこで証言の喰い違いが多々あるのでありますが、先ずその一つでありまする宮本、清水の両君は、炊事場で仕事をされておる職務であつた。この炊事場で仕事をされておる職務の人が、池田証人が特別食を命令したにも拘わらず、これを断つたという点から暁に祈らされた、こういうことが証言されております。この通りならば、確かに吉村隊長が個人的な処罰をしたとこういうふうに考えざるを得ない訳でありますが、こうした炊事場に働くというような人が、一体ノルマを課せられておるのかおらないのか。この二人の例の場合にはどういう命令を口頭であろうと文書であろうと、蒙古側からどういう命令を受けて処罰をされたのかこの点を明らかにして貰いたいと存じます。  もう一つは先程細川委員の御質問の中で、あなたはこれは蒙古側だけは関係しておるけれども、ソ連は何の関係もないのであると証言されておる。私共はこの戰爭で、ソ連に敗けて、結局抑留や或いは捕虜というようなことになつたのでありまして、一体それがソ連に繋がる蒙古人民共和國であるからこういう抑留ということが蒙古でも行われた筈なんである。それにも拘わらず、あなたは蒙古側からは直接命令されたけれども、ソ連と蒙古との関係はどうであるか分らないのだというのであるならば、捕虜の身分であるから、これは当然どなたも諾ずくところである。然るにあなたは捕虜としての立場で、ソ連とは何の関係もないのだということを断言し得るところの実証は一体どこにありますか。その点を明らかにして頂きたいと存じます。
  794. 池田重善

    證人(池田重善君) 炊事の班長にはこれはノルマがありません。これは宮本が留置場に入りましたのは、私は丁度班内に居つたのでありますが、清水、今の班長に対して二人で叩き合つて清水をそこに叩き付けて血を流した事件があります。そのときにグンチンという憲兵がそれを見付けまして、それを收容所長に申しまして処分された事件があります。留置場に処分されておる宮本であります。清水の件につきましては、これは何か報告の間違いから処分されております。決して私が食糧を作つて呉れと言つて、そういう個人的な、独断的な非常識のことは私はやつておりません。
  795. 天田勝正

    天田勝正君 誰から命令されましたか。清水の処分を誰から命令されましたか。
  796. 池田重善

    證人(池田重善君) それは私はバズルスルンから命令されております。それから後の件でありますが、それは私がここで言うまでもなく、先程細川先生の方からもありましたが、ソ連の最高顧問がおられます関係上、やはり私としてソ連とは繋がりはあるものではないかと思つております。
  797. 天田勝正

    天田勝正君 さつきないと言つたのは何か立証がありますか。さつきあなたは明らかにないと言つて、ソ連に関係ない、蒙古側だけであるということを言われたがどういう立証でそういうことになりますか。
  798. 池田重善

    證人(池田重善君) それは誤解であります。
  799. 千田正

    千田正君 在外同胞の死亡の中に吉村隊の死亡が三十乃至三十五、これは吉村隊において、死亡した人を自分が診断書を書いた覚えの者であるというのでありますが、この点について更に池田隊長にお聞きしたいのであります。それはあなたの隊は延人員はどれくらい收容されておつたかということと、それから最終のいよいよ帰還が決定した場合に、あなたの手許におつた隊員の数はどれだけあつたか。あなたは割合に恐らく隊長として、ウランバートルの地区内においては、歩行は相当に自由に許されておつたんだろうと思いますが、昨年の十一月の大体の報告によると、この外蒙地区において、病院の附近の墓地において、日本人の墓標の数が大体はつきりするところが、千六百八十三柱という墓標が立てられておる。こういう報告が或る程度私の手に入つておりますが、こういう所へ行つてみたことがあるかどうか、又その当時二十二の收容所の延人員は大体どれくらいあつた想像できるか、どうか、この千六百八十三柱という日本人の墓標というものは、大体何%くらい、その当時の延人員から勘定して行つたならば、何%くらいの墓標であるかということをあなたが想像つきますか、その点について若し証言できるのであつたならばお話を願いたい。
  800. 池田重善

    證人(池田重善君) 只今の延人員というのは約二千くらいあります。それも一回二回廻つて來た者もありますが、その墓標については私は見たことはありません。それから、外蒙に入つた総員は一万五千と聞いております。
  801. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 池田証人に伺いますが、あなたの隊の延人員は二千人というお話でございましたが、昨日酒井一郎証人証言で、隊で死んで、そうして診断書を書いたのは今千田委員の言われたように三十から三十五ということでございましたが、あなたの隊から病院に送られた人は、その延人員のうちで何人くらいあつたでございましようか、正確の数は御記憶なくとも概数で宜しうございますから、お述べ願いたいと思います。
  802. 池田重善

    證人(池田重善君) はつきり記憶しておりませんが延べで二百あるなしと思つております。
  803. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 その点について酒井証人の御記憶を承わりたいと存じます。
  804. 酒井一郎

    證人(酒井一郎君) 三、四百、三百から四百の間ではないかと思つております。
  805. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 池田証人にお尋ねいたしますが、あなたが收容所におられた、指揮を執つておられますとき祖國からの手紙、或いはあなたの身内からの手紙を、こうしたものを受取られたことがありますか。
  806. 池田重善

    證人(池田重善君) 全然受取つたことはありません。
  807. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それならばその收容所内におります千名近い人達の中で、そういうふうな祖國からの便りを受取つた人がありますかどうか。
  808. 池田重善

    證人(池田重善君) ありません。
  809. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 もう一点だけ收容所内でいろいろな催し、或いはそうした話をし合う場合に、祖國において帰還促進運動とか、或いはそうした連盟が作られておるというような話を聞かれたことがありますかどうか。
  810. 池田重善

    證人(池田重善君) それは聞きました。ソ連側としては帰還を非常に急いでいるが、日本の政府において船を一つも出して呉れない、そのために帰還が遅れているということを、ソ連の將校又は蒙古の將校の演説を聞いたことがあります。それにしても日本側は誠意がないということを聞きました。
  811. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 只今証人証言で日本政府が、船を廻さないということをソ連の將校、外蒙側の將校から聞かれたということでありますが、その船も日本の政府が單独で廻すということはできない、少くとも連合國の指令によつて廻されるのだというような点にお氣付きになつたことがありますか。
  812. 池田重善

    證人(池田重善君) その点ははつきり分りません。
  813. 水久保甚作

    ○水久保甚作君 私は昨日、一昨日から三日に亘り、この証言によりまして日本が敗戰後において、そして誠に私は同情に堪えない、そして更にこれを加護すれば生命があつたというような人々を、沢山失つておるということを誠に遺憾に思うものであります。ここに池田隊長によつていわゆる吉村隊長によつてでありますが、明らかにされたことがあるのでありまして、私はこの点が日本の隊長として誤りがあつたと、こういうことを考えたのであります。これがどういうことでこの委員会が、こういう証人を喚ばねばならんかということは、ただ目的はです。目的はあの外地に残つておるところの國民が如何なる状況にあるのであるか、まだ五十万以上おるということでありますが、どんな現状であろうかという考えを持ちますと共に、又規則におけるところの取扱いが、どんな現状であつたかということを思うときに、私はここに池田隊長に一言お尋ねせんければなりません。それは外でもありません。池田隊長が長谷川隊長と代つて、その総体を引受けるときに、どういう考えを持たれたかというと、これは日本が無條件降伏である、無條件降伏であるから、無條件降伏に対しては多少の犧牲を拂つても止むを得ん、こういう信念を持たれたということを冐頭に証言されたのであります。それで池田隊長はやはりこの問題を大きな問題でありますが、率いておるところの、この兵隊のいわゆる俘虜の関係をどうして最善を盡されるかということについて、私はやはり犧牲を出しても構わんというような信念があつたように思うのであります。この点を非常に私遺憾に思うのでありますが、池田隊長はやはり初めの考え通り、そうしてその隊長としての在職中においては、やはり還るときまで、やはりそういうような考えを始終一貫して、そこに考え直すことなく、やはり向うの命令で止むを得ん、これが多少犧牲を出しても止むを得ん。日本の同僚が如何に栄養失調によつて、この危い目に邁うて、殆んど命がない、こういうときであつても止むを得ん、死んでも止むを得んという考えを以ておられたように思いますが、この点をはつきりやはり間違いであつたなら間違いであつたでよろしい、若しこれに対しては自分の考えはこの通りであつたということを、ここに告白されて、率直に告白されて、そうしてこの疑いを晴らされなければならんと思うのでありますが、その点において池田隊長の今日における信念も亦お聞きしたいのでありますが、もう時間がありませんからその点は聞きませんが、ただお帰りになるとき、日本に着くまでの間に、誤りがなかつたというお考えでありますか。この点についてあなたもはつきりして、そうして國民にこれを披瀝されなければならんと思うのであります。
  814. 池田重善

    證人(池田重善君) 最前その点については申上げました通りであります。併し私としても、向うの心理状態、向うの状態の場合においては、私として採つた途はまああそこでは当然だつたというふうに感じておりましたが、併し飜つて見ますと、私のやはり指導の幼稚な点については、社会に対して大いに謝すべきところがあつたかと思います。
  815. 岡元義人

    理事岡元義人君) 時間も非常に経過しておりますので、多少纒めて行きたいと思いますから、最後に委員長から二、三の点について証言を求めたいと思います。  先ず池田隊長は、命令につきましては、処罰は全部事前命令であつたのか、或いは事後報告でよかつた場合があつたのか。それから單独命令でやつた、これは認めておられますが、この点を多少具体的にこの際御証言願いたいと思います。もう一回繰返します。この処罰命令は、事前に向うからのいわゆる命令によつてつたのか、すべてがそうであつたのか。それから後から事後報告で了解を得た命令もあつたのか。それから單独でやつた命令もあつたのか。その点について証言を求めます。
  816. 池田重善

    證人(池田重善君) これは單独の向うの事前命令であります。それ以外ありません。
  817. 岡元義人

    理事岡元義人君) 証人は先程、私が本日尋ねました場合にも、それは私がやりましたという問題がありましたですね。
  818. 池田重善

    證人(池田重善君) はい、一名あります。
  819. 岡元義人

    理事岡元義人君) それはやはり單独でやられたこともあつたわけですね。
  820. 池田重善

    證人(池田重善君) 要するにそれは、久保を殴つた件については單独でやつております。
  821. 岡元義人

    理事岡元義人君) その外に單独でやられたことはありませんか。
  822. 池田重善

    證人(池田重善君) ありません。
  823. 岡元義人

    理事岡元義人君) それじや後から了解を求めるという命令はありましたか。
  824. 池田重善

    證人(池田重善君) ありません。
  825. 岡元義人

    理事岡元義人君) 全然なし……。
  826. 池田重善

    證人(池田重善君) ありません。
  827. 岡元義人

    理事岡元義人君) その点について多少原田証人証言と喰違つておるのでありますが、一應池田証人は着席して頂いて、原田証人の更に証言を求めたいと思います。今の池田隊の処罰命令は、事前にすべて命令が來て、そうしてそれから処罰を行なつた、これだけである、こういうふうに只今池田証人証言されたのでありますが、その後において事後にやつた、後で了解を求めた処罰というものがあつたのか。單独の場合は今証言がありましたから分つたのでありますが、一点だけという証言がありましたが、單独の場合においても証人が御承知の場合があつたのか、その点をお伺いいたします。
  828. 原田春雄

    證人原田春雄君) 事前に蒙古側からの命令によつて処罰された者は、いわゆるモジツク時代までであります。その例は先程申上げました通り、いづれも蒙古の警備隊、歩哨の手によつて行われております。バズルスルン以後は、吉村の人格を信頼して、吉村に任せるからその処罰をする前に報告しろということになつて、それを実行されたのであります。全然向うに報告のなかつた、いわゆる純單独の処罰は、今それをはつきり区別しておりませんが、石取の作業が非常に激しい頃、夜中の一時頃に帰つて來て、そこでノルマのできない者が処罰を受けるというような場合には、相当報告のない処罰があつたことを記憶しております。これはここで爭いましても、結局水掛論に終りますのでありますが、蒙古地区からお帰りになつた帰還者は、全國に相当おられますわけでありまして、若しもこれが蒙古の常套手段であるといたしましたならば、他の隊におきましても同樣に、日本人の隊長を通じて日本人の城罰が行われただろうと思いますが、私は寡聞にしてその例を聞いておりません。
  829. 岡元義人

    理事岡元義人君) 次に第二点について伺つて置きたいと思いますが、池田証人吉村隊におきましては、あなたのところのいわゆる診断をされる酒井一郎証人が医官をしておられたわけですが、その酒井証人が明らかにいわゆる処罰による死亡であると認められたとしたならば、これは隊長としての責任をお感じになりますか。
  830. 池田重善

    證人(池田重善君) 私が処罰してやつたというのならば私の責任になるかも知れませんが、私はその報告は全然受けておりません。その上に、最前言いました通り、処分するときには必ず酒井先生に、私の脇に坐つておるのですから、入れてよいか大丈夫かということについてはいつもお尋ねいたします。それによつて入れたり出したりします。
  831. 岡元義人

    理事岡元義人君) この点は報告書の中にも外傷者という名前で、外傷死亡というのが三名酒井証人の方から提出されておるわけでありますが……。
  832. 池田重善

    證人(池田重善君) そうであります。
  833. 岡元義人

    理事岡元義人君) その点について、これは営倉その他処罰によつて死亡されたということを酒井証人が認められた場合におきましては、向うの命令はそういう命令はなかつたのだけれども、その処罰方法によつて死亡したということをお認めになりますか。その中の二名を酒井証人証言しておられます。
  834. 池田重善

    證人(池田重善君) 一名は山本明の件でありますか。
  835. 岡元義人

    理事岡元義人君) いやそれと別に二名証言しておられます。
  836. 池田重善

    證人(池田重善君) その点については私は知りません。
  837. 岡元義人

    理事岡元義人君) もう一点だけ伺つて置きます。これは証言の喰違いもありますが、先程原田証人は、石切場のノルマは一・五ということに決められたのが、それを二にするということに対して、最初池田証人原田証人に対して、兵には黙つてつてくれということを言われたということでありますが、池田証人は、二にすることに対しては書類で以て明らかに貰つておる、こういう証言があつたのでありますが、その点原田証人証言を求めて置きたいと思います。
  838. 原田春雄

    證人原田春雄君) 一、五を二に吹つ掛けるという数字であつたか、或いは二というものを二・五或いは三に吹つ掛ける数字であつたか、その数字の喰違いは若干あるかと思いますが、蒙古側から命ぜられたノルマを申渡しただけでは、全部の者が個人ノルマを完成しないというのが実情でありましたので、吉村氏は、全員に個人ノルマを達成させることによつて團体ノルマを達成させるためには、全員に二・五のノルマを申渡して掛値をしなければ、現在の兵隊心理ではやらないという信念の下にそれをやられたことを、私は確かに覚えております。
  839. 岡元義人

    理事岡元義人君) 池田証人の伺いますが、今の原田証人証言はお認めになりますか。
  840. 池田重善

    證人(池田重善君) その点については誤解のある点があるかと思うておりますが、私が一立米を一立米半にするときに、まだ默つておれと言うた場合があります……。それはこういう場合であります。例えば石場では、病人と一緒に、栄養失調とか身体の弱い者と仕事をするということはありません。強い者は強い者同志、弱い者は弱い者同志で仕事をします。その関係で、蒙古側に依頼しまして……。
  841. 岡元義人

    理事岡元義人君) 要点だけ、内容は我々で解釈しますから……。そういう工合原田証人に対して、これは兵には默つておれと言つたことがございますか。
  842. 池田重善

    證人(池田重善君) その点については、それはありますが、全員ではありません。ただ一、二名の……。
  843. 天田勝正

    天田勝正君 どうも話が逸脱しておりますね。その〇・五ならッ〇・五というものを掛値して、兵には默つておれということを原田証人に言つたかどうかということを聞いておるので、兵に何人に言つたかどうかというようなことを聞いておるのではないでしよう。
  844. 岡元義人

    理事岡元義人君) 今天田委員から御注意があつた通り、委員長が聞いておるのは、そういうことを原田証人に言つたことがあるか、兵には默つておれということを原田証人に言われたことがあるかということを聞いておるのです。
  845. 池田重善

    證人(池田重善君) 一部の者については聞いておりました。
  846. 岡元義人

    理事岡元義人君) 今の証人関係でこれを酒井証人の方から出されましたが、これは詳しく言つて頂かないと……。    〔矢野酉雄君「委員長言わしたらいいじやないか、そういうのは言わせなければ分らないじやないか」と述ぶ〕
  847. 岡元義人

    理事岡元義人君) 池田証人、その点詳しく述べて頂きます。
  848. 池田重善

    證人(池田重善君) 石山でありますが、例えば強い組が出ております。又弱い者がおります。そのために今のノルマを下げて貰いましたが、これは一例を仮定しますと、五十人のうち十人は弱い者がいるから一立米でいいというふうにしてやつておりますが、それを兵隊の方に言いますと、どこから誰までは体が弱いか弱くないかということにつきましては、疑問を持つておりました。それで最初に発表しましたところが、これであつたら一立米でやるより外ないのじやないかというので、問題が起りまして、要するに監督者に知らせて貰いまして、一立米できたらその者は止めさせるというふうな処置を採つております。
  849. 岡元義人

    理事岡元義人君) 各委員にお諮りいたしますが、この際津村証人をのけて他の証人全部の出席を必要といたしますか。他の証人全部を出席いたさせますか。お諮りいたします。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  850. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 その前に私一言聞きたい、どうぞ進行して下さい。
  851. 岡元義人

    理事岡元義人君) 証人出席いたさせることに御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  852. 岡元義人

    理事岡元義人君) ではさよう取計らいます。
  853. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 私池田証人に対してはつきりこれは答弁して頂きたいのですけれども、あなたがいわゆる労働の分量についても、或いは科罰についても、殆んどこの三日間を通じて、全部蒙古政府の命によつてこれをやつたと言う、これはあなたは終始一貫しておられる。ところが僕自身が蒙古政府に行つてその書類を持つて來るかどうかしない限りにおいては、これはなかなか分らない。あなた自身これが確かに蒙古政府の命令によつて科罰をした、或いは労働を課したのであるという積極的なその証拠となるものをここに提起することはできますか。或いは人の証言とかその他によつて……。ただあなたが主観的にこうであつた、こうであつたと言うだけであるが、この命令自分が受けたときに誰が立会つてつた、これは確実に通訳が附いておつたというふうに立証することができますか。
  854. 池田重善

    證人(池田重善君) その点についてはないのであります。通訳も全部向う側でありますから、その点についてはないのであります。
  855. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 先程処罰によつて死んだ人の報告は受けてないという証言をされましたが、そういう処罰をされた人の後始末をいつも知らないのですか。それが無事に釈放されたのに必ず立会われるか、或いは正確な報告を取つているのかどうですか。
  856. 池田重善

    證人(池田重善君) 死亡者の報告を全部受取るようになつております。
  857. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 死亡者でなくて、処罰をして、片方からはそれで死んだと思われるのがある。ところがその報告を受けてないと言うのですが、処罰をされた者が釈放されて、処罰を解除する、それはあなたが命令するのでしよう。
  858. 池田重善

    證人(池田重善君) 解除でありますか。
  859. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 ええ。
  860. 池田重善

    證人(池田重善君) 間接には私になります。
  861. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 そうですね。
  862. 池田重善

    證人(池田重善君) はあ。
  863. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 そうするとその解除されたのは一々無事であつたという報告をみな受けておりますか。
  864. 池田重善

    證人(池田重善君) 受けております。
  865. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 全部……。
  866. 池田重善

    證人(池田重善君) はあ、受けております。
  867. 細川嘉六

    細川嘉六君 鎌谷証人にお聞きしたいのですが、先日の証言であなたは池田隊長のためにスパイをやつてつた、そうして隊内の情勢はどうだということを調べることを求められた、それであなたは意見を出されたということであつたが、その意見はどういうことでしたか。そのときに池田隊長は何と言いましたか。それをお聞きしたいのであります。……スパイをやつたというのはあなただけではないのでしようから、沢山いるのですから、何も遠慮しないで(笑声)……。
  868. 岡元義人

    理事岡元義人君) 細川委員一つ大きな声で……。
  869. 鎌谷參司

    證人鎌谷參司君) ソ連側から発行される日本字の日本新聞というのがあります。それにはいろいろなことが書いてありまして、あちらにおります我々には、全然ラジオもなければ、その日本字新聞以外に日本の状況を知ることはできないのであります。そうして日本の字に飢えております。でそれが歪曲されたか歪曲されてなかつたか知りませんが、それを見て行くと心理状態が段々日本新聞の意図するところに傾いて行つておるじやないかということが考えられるので、吉村隊長から將校の動勢、下士官の動勢から兵の動勢、民團の智識層、一般層、それから年の行かない者がどういうように新聞を見ているかということについて、隊長から言われたことがあります。私自身としては、大体與えました結論といたしまして、日本字新聞を読んだ結果、一般においては日本字新聞に書いてあることは四分が本当で六分が嘘だろうと思つていた。併し活字に飢えているが故に引つ張りだこで読んだこともありますが、紙がないのでそれを煙草の紙に巻いたこともあれば、便所に使用したこともあるというのが現況でありまして、それはどうするのでしようかと隊長に聞いたところが、隊長曰く、「いや別に報告するわけじやないが、参考に知りたいのだ」ということでありました。そうして提出する前に一應酒井医官に見て貰つたことも記憶しております。
  870. 岡元義人

    理事岡元義人君) 鎌谷証人発言中ですが、できるだけ簡單に要点だけをお答え願うように……、沢山の証人がおりますから。
  871. 細川嘉六

    細川嘉六君 どういうことを池田隊長にあなたは報告なさつたのですか。
  872. 鎌谷參司

    證人鎌谷參司君) だから今言うたように、四分が本当で六分が嘘だろうと……。内容を言えば長くなりますし、忘れていることもございます。
  873. 細川嘉六

    細川嘉六君 どういうことを日本新聞は書いてありましたか。
  874. 鎌谷參司

    證人鎌谷參司君) 内閣が変つたとか、近衞公が死んだとか自殺されたとかいうような……。内地に帰つて見て、なんだ日本字新聞が嘘だつたということじや逆効果を來たすので、大体本当だと思われるようなことが書いてありましたが、嘘だと思われたのは杉野兵曹長が胡蘆島に來ておつたというようなこと、それから宮崎縣かどこかに熊沢天皇がおつたとか(笑声)いうようなことを書いてありまして、実に自分自身としてはおかしいようなことが書いてありました。
  875. 細川嘉六

    細川嘉六君 日本字新聞は傳えるところによるというと、軍隊内の將校に対して兵卒は立ち上つて、軍隊内のことは兵卒の手でやらなければならないというようなことを盛んに書いたと言われているが、そういうことはあなた方は何とも取上げないのですが……。
  876. 鎌谷參司

    證人鎌谷參司君) よくそのことは私存じませんが、吉村隊におります間、日本字新聞というのは日本の現在におけるがごとくきちきちと毎日來たものでもありませんし、二ケ月途絶えたこともあれば、三ケ月途絶えたこともあるというような関係で、よその收容所のように続けて來ておらなかつたということは、ここにおられる各証人も私の意見に賛成されることと思います。
  877. 細川嘉六

    細川嘉六君 その新聞の主な内容というものは、いわゆる民主化運動、そういうものが盛んに書かれておつたというのですが、その点池田隊長が氣になさつたのは、そういうことが起きては大変だということを心配して、あなたに隊内の情勢はどうだということについて、情報を求められたのじやないかと私は思うのだが、あなたはどう思いますか。
  878. 鎌谷參司

    證人鎌谷參司君) 知識層はどういう考えを持つているか、將校はどういう考えを持つているかということを聞かれたので、それに対して書類によつて御返事を差上げただけでありまして……。
  879. 細川嘉六

    細川嘉六君 そのときに知識層というものはどういうことを考えておりましたか。みんな今までのやり方では堪らん、口に出すわけにいかんから、こそこそ言つてつたわけでありますが、あなたの調べられたところでは、どういうことを言つておりましたか。
  880. 鎌谷參司

    證人鎌谷參司君) やはり、その新聞内容を信ずる者もあり、信じない者もある。そのパーセンテージが四分六だという結論に陷つております。知識層といつても、一番の知識階級といいますか、日本の最高学府を出た、東京帝大哲学科を出たというようなお方もおれば、中央大学を出たというお方もおられたし、日本大学を出たというお方もおられる。とに角大学を出た知識層と称せられるお方は十人ぐらいおられたことは間違いありません。
  881. 細川嘉六

    細川嘉六君 当時その新聞を見て、知識層という者は相当動揺したんですか、しないのですか。
  882. 鎌谷參司

    證人鎌谷參司君) それは僕は知りません。人の心情まで察することはできません。(「議事進行」と呼ぶ者あり)
  883. 岡元義人

    理事岡元義人君) この際各証人に一、二の点について簡單に、そうだ、違うというぐらいに御答え願いたいと思いますが、吉村隊は、後半に至つてから、受刑者が入つて來て、相当他の隊よりもいろいろの点において乱れて來た。こういう点についてそうである、そうでないという点について、こちらからお問いしますことについて、次々にお答えが願いたいと思います。長谷川証人は、若しその際おらなかつたならば、おらなかつたとお答え願います。長谷川証人
  884. 長谷川貞雄

    證人(長谷川貞雄君) おりません。
  885. 岡元義人

  886. 原田春雄

    證人原田春雄君) 日本の軍法会議によつて処罰された、いわゆる軍監獄から出られた方ゐ二、三人おられたと思います。その他いわゆる前科者といわれていた人々が四、五名おられたと思います。あとから轉入して來られたと思いますが、これらの人々によつて、一部が撹乱されたということは私は考えられません。
  887. 岡元義人

  888. 池田重善

    證人(池田重善君) 私の見ましたのでは、要するに二月から日本字新聞が発行されてから相当乱れて來たように思います。
  889. 岡元義人

    理事岡元義人君) 四、五名ですか。
  890. 池田重善

    證人(池田重善君) そうじやありません。
  891. 岡元義人

    理事岡元義人君) はつきり言つて頂きたい、そういう点については。
  892. 池田重善

    證人(池田重善君) 今の、前科者が他から入つて來まして……。
  893. 岡元義人

    理事岡元義人君) そうです。受刑者があなたの隊に後半に至つて沢山入つて來て、隊の統制が非常に困難になつた……。
  894. 池田重善

    證人(池田重善君) 受刑者のみではありません。他隊から入つて來た。そんな関係で、それで乱れて來ました。
  895. 岡元義人

    理事岡元義人君) 受刑者は何名くらいですか。
  896. 池田重善

    證人(池田重善君) 受刑者は、石田隊に來たのが三十名ですから、四十名ぐらいになると思います。
  897. 岡元義人

  898. 酒井幸次

    證人酒井幸次君) そうしたことは一つも私は知りませんでした。
  899. 岡元義人

    理事岡元義人君) 阿部証人
  900. 阿部忠

    證人阿部忠君) 私の轉属してからも、そうしたことは知りませんでした。
  901. 岡元義人

  902. 清水一男

    證人清水一男君) 乱れたところは見受けませんでした。
  903. 岡元義人

  904. 小峰光治

    證人小峰光治君) 乱れておりました。
  905. 岡元義人

  906. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) 受刑者が入つて参りましても、さして乱れたことを見受けません。
  907. 岡元義人

  908. 鎌谷參司

    證人鎌谷參司君) 俗に新京下番と言われた連中が入つて來まして、少し惡くなつたように思います。
  909. 岡元義人

    理事岡元義人君) 鎌谷証人、今の証言をもう一回お願いいたします。
  910. 鎌谷參司

    證人鎌谷參司君) 俗に新京下番と申しておりましたのは、軍法会議に送られて降等処分に付せられて、元下士官であつた者が陸軍一等兵に降等されて、軍監獄に繋がれて、その者が出て來た者を言いくるめるために、新京下番と言つてつたものであります。
  911. 岡元義人

    理事岡元義人君) 君島証人
  912. 君島甚五郎

    證人(君島甚五郎君) 乱れたようなことは見受けません。
  913. 岡元義人

  914. 堀金榮

    證人堀金榮君) 認めておりません。
  915. 岡元義人

    理事岡元義人君) 酒井一郎証人
  916. 酒井一郎

    證人(酒井一郎君) 日が経つにつれまして、患者の数が殖えて來たというのを認めたのみであります。
  917. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 一人だけ乱れていると言つている。委員長から一つ……。
  918. 岡元義人

    理事岡元義人君) 小峰証人に伺いますが、乱れておりましたという証言がありましたが、その点は確かにそうでありますか。
  919. 小峰光治

    證人小峰光治君) いろいろな窃盜、それから食糧を盜む、そういつたことが出て参りました。
  920. 岡元義人

    理事岡元義人君) 次の点に、各証人について、前と同じようにお答え願いたいと思いますが、原田証人から、いわゆる「曉に祈る」と、皆さんもすでに御承知の、そういうような刑の処罰を受けた者が約百五十名ぐらいいたと、こういう証言があつたのでありますが、これに対して池田証人は、二回程、十五名、十五名、十月と三月に十五名づづ処罰した。その外では、十一名程度しかなかつたと御証言なさつたのでありますが、この点について、原田証人証言が正しいのか、池田隊長証言が正しいのか。その点、どちらも違うと、こういう点についての証言を簡單に述べて頂きます。先ず長谷川証人
  921. 長谷川貞雄

    證人(長谷川貞雄君) 分りません。
  922. 岡元義人

  923. 原田春雄

    證人原田春雄君) その通りであります。
  924. 岡元義人

  925. 池田重善

    證人(池田重善君) 池田証言の通りであります。
  926. 岡元義人

  927. 酒井幸次

    證人酒井幸次君) むしろそれより多いんじやないかと思います。
  928. 岡元義人

    理事岡元義人君) 阿部証人
  929. 阿部忠

    證人阿部忠君) 私が轉入してからは知りません。
  930. 岡元義人

  931. 清水一男

    證人清水一男君) 百名以上見たことは事実であります。
  932. 岡元義人

  933. 小峰光治

    證人小峰光治君) 百名以上と思います。
  934. 岡元義人

  935. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) 原田証人の言う通り、確実だと思います。
  936. 岡元義人

  937. 鎌谷參司

    證人鎌谷參司君) 原田証人の言うことを信じます。
  938. 岡元義人

    理事岡元義人君) 君島証人
  939. 君島甚五郎

    證人(君島甚五郎君) 原田証人の言うことを認めます。
  940. 岡元義人

  941. 堀金榮

    證人堀金榮君) 原田証人の言われたように、誠に本当だと思います。
  942. 岡元義人

    理事岡元義人君) 酒井一郎証人
  943. 酒井一郎

    證人(酒井一郎君) 原田氏の申述べられた通りであります。
  944. 岡元義人

    理事岡元義人君) 最後に一点だけ、これも簡單に答えて頂きますが、池田隊長処罰命令したのは、全部が命令であると、或いは一部が命令であり、一部は独断であると、この点について、先ず長谷川証人、どう思います。どちらも違うなら違う、こういう点に答えて頂きたい。
  945. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 それも自分の推定であるか、或いは確実にこれは蒙古政府からの命令によつてつたのか、そういうことを、動乱の中にあるのだから、推定なら推定、そう思うなら思うということもはつきりしないというと、非常に恐ろしい結論が出て來ると思います。
  946. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今矢野委員から御注意がありましたが、そう思うと、推定である場合には推定、知つているなら知つている、その点確実にお答え願います。知らないものは知らないとお答え願います。長谷川証人
  947. 長谷川貞雄

    證人(長谷川貞雄君) 全部が全部命令でなかつたと思います。
  948. 岡元義人

  949. 原田春雄

    證人原田春雄君) 蒙古側の警備隊を通じて行われた処罰は全部命令であります。それ以外は、先程独断とおつしやいましたが、池田氏が自分で決定したという意味でありますか。
  950. 岡元義人

    理事岡元義人君) そういう意味であります。
  951. 原田春雄

    證人原田春雄君) 池田氏が決定されたものであります。
  952. 岡元義人

  953. 池田重善

    證人(池田重善君) 全部、我々は蒙古側の指揮下に入つて作業している以上、私は命令で出ております。
  954. 岡元義人

  955. 酒井幸次

    證人酒井幸次君) 一部命令のあつたことは事実だろうと思います。推定です。その他は池田隊長の自己意思であつたと思います。
  956. 岡元義人

    理事岡元義人君) 思います。……、推定ですか。
  957. 阿部忠

    證人阿部忠君) 一部は命令であつて、一部は命令でなかつたと思います。
  958. 岡元義人

  959. 清水一男

    證人清水一男君) 一部は蒙古側の命令と思います。又他は絶食ということになつて自分が残高を出したことがないので、それに咎めが蒙古側からなかつたので、これは隊長命令でやつたと思います。それから屋外に立たされた体驗も自分はやりました。それは糧秣將校のバヅツセルンダラカンによつて隊長に止めさせろと言われた事実もありますから、隊長命令でやつたと思います。
  960. 岡元義人

  961. 小峰光治

    證人小峰光治君) 一部は命令、大部分は吉村命令と推定いたします。
  962. 岡元義人

  963. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) 極く一部を除いて、後は吉村隊長の独断でやつたと思います。
  964. 岡元義人

  965. 鎌谷參司

    證人鎌谷參司君) 一部は命令であり、その他は全部吉村証人の独断であつたかと思います。この例としまして、私自身吉村隊に入りましたときに、吉村から私について、或る種の話があつて隊長殿そんなことはこういう場所では言えません、というのをモジツク中尉が見ておりまして、エリツチサンボー通訳を通じて絶食ということを言われましたが、帰りましたところ食事が上つておりませんで、その食事を食つてしまつたところへ当番の吉田が來て、隊長が呼んでおられる、そこで行きましたところが、隊長が怒られました。先程收容所長がああ言われましたが飯は食つてしまつた。どうも済みませんというようなことで終つたこともありますからして、蒙古側の命令の場合は確実にエリツチサンボーを通じて処罰は該当者に言い渡されるものだと思われる点におきまして、一部は蒙古側の命令、その他は大部分池田個人の命令だと確認します。
  966. 岡元義人

    理事岡元義人君) 君島証人
  967. 君島甚五郎

    證人(君島甚五郎君) 一部を除いては隊長命令だと思います。
  968. 岡元義人

  969. 堀金榮

    證人堀金榮君) 一部は命令だと思いますが、その他は全部池田証人の独断の命令と思います。
  970. 岡元義人

    理事岡元義人君) 酒井一郎証人
  971. 酒井一郎

    證人(酒井一郎君) 原田氏の申述べられたのが事実に近いと思います。
  972. 岡元義人

    理事岡元義人君) この際各委員にお諮りいたしますが、C項に関する質問は、これで一應打切りまして、D項の質問に移りたいと思いますが、御異議ございませんか。
  973. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 ちよつとその前に池田隊長から処刑を命じたその面に対して、それを施行されている際に、外蒙側の歩哨がこれを目撃しておつたかどうか、その一点を隊長、それから小蜂証人に聞きたいと思います。先ず池田証人に……、あなたが処刑を外蒙側の命令であり、或いは命令であるとして施行されたそうでありますが、その施行された人達が、外に繋がれているときに、外蒙側の歩哨がそれを見ておつたかどうか。
  974. 岡元義人

  975. 池田重善

    證人(池田重善君) 見ております。
  976. 岡元義人

  977. 小峰光治

    證人小峰光治君) 外側の歩哨は見ておりました。
  978. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 池田証人にお尋ねしますが、外蒙側のその歩哨から、それに対して、これは止めろとか、或いは遂行しろとか、或いは默殺しておつたか、そうした点に対して簡單に御証言願いたい。
  979. 池田重善

    證人(池田重善君) 外蒙の歩哨はただ警備だけでありまして、そういうようなことはありません。
  980. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 外の証人を退席して貰つて池田証人に三分程聞きたいと思います。
  981. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今星野委員から、池田証人だけ一人にして聞きたいことがあり……。
  982. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 いてもいいけれども、いない方がいい。    〔「やつてからでいい」と呼ぶ者あり〕
  983. 岡元義人

    理事岡元義人君) この際C項につきましては、いろいろ証人から貴重な証言を得ておりますので、当然委員会におきまして、各委員から審議、又討論される機会がありますので、この際D項に移りたいと思います。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  984. 岡元義人

    理事岡元義人君) 御異議ないと認めます。では証人池田証人に取敢ず残つて頂きまして、津村証人出席を要求いたしまして、他の証人の退席を求めます。
  985. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 池田証人に伺いますが、先程からの質問に対して、向うの、自分の処置に対しては技術的に拙劣であつたという自己批判、反省だけを聞いたわけですが、私はあなたの証言を全部信ずるものではないが、一歩譲つて全部信ずるとしてすベてが命令として行われたとしましても、例えば泥棒をしたから処罰をした、併し泥棒する原因には食糧が非常に不足した。食糧が不足したというのは全体の配給量が少いという以外に、あなたの方では、相撲取と柔道七段の者には二人食を與えておるというような非常な不公平な配分をしておるという事実があるのじやないか。それから例えば処刑をしてもこれの安否を見廻りに行つたとか、そういうことも聞いていないし、これは技術的に拙劣であつたというのではなく、あなたの証言を事実としても、根本的に道徳的な誤謬があるということはお認めになりませんか。
  986. 池田重善

    證人(池田重善君) その点は詳しく申上げますと、今の処罰を取つた場合には蒙古側の歩哨も立つておりますが、私も二回十二時まで廻つております。それ以外に不寝番に廻るように、そうして身体の状況を不寝番に報告させるようになつております。  それから今の食糧の件でありますが、それは勿論ひもじくて取つた方もあると思つておりますが、大部分は賭博が非常に盛んになつておりました。そうして結局取るものというものは、靴工場において非常に働きの良いもので、実際は金というものに目を呉れておるのじやないかと私はこう考えておりますが……。
  987. 岡元義人

    理事岡元義人君) それでは池田証人に、今度帰還して來られる際に、人民裁判、又は兵士会とか呼ばれておるということを聞いておりますが、人民裁判にかけられたときの状況を証言を求めます。池田証人
  988. 池田重善

    證人(池田重善君) 私は蒙古を昭和二十二年の十月の二十日の日に出発しまして、スーバトルに着きましたのが二十三日であります。二十三日の朝であります。それからナホトカ、ソ蒙國境線に着きましたのが十二月の同じ二十三日の夕刻に着きまして、そこを十月の二十六日の列車に乗りまして、それから今のナホトカに十一月の四日に着きました。その間に只今のような噂と、私が、最後に残りました八十八名が全員暴力團というような報告によりまして、私が汽車であそこに到着しますと、山下行動隊員という、今の青年行動隊員でありますが、これは多分共産党の党員だと思つておりますが、この方がおいでになりまして、ちよつと吉村隊長さんはおられませんかと聽かれましたものですから、私は直ちに出てあそこの海岸ばたの方に行きまして二人で座つた。そうしたところが山下行動隊員は、長谷川隊長との関係はどうだつたでしようか詳しく話して呉れませんかというように申されました。それから私は長谷川隊長との関係につきまして、山下行動隊員に詳しくお話しまして、当時の状況をお話しました。そうしたところが話に聽きますと、明日人民裁判にかからなければならないというようなお話しがございました。それからいろいろ聽いてみますと、要するに大衆カンパだとか言つておられましたが、それで私はその晩の多分十時頃だつたと思つておりますが、宮本という方だと思つておりますがこれは日本字新聞社の記者だとかいう話しを聞いております。その方にお会いしまして、私の取つて來た途、それから噂と、その点について今まで手記に書いてあるように詳しく話したのでありますが、ところが、宮本さんは、あなたのことは筋が通つて私は信じます、併し明日はとにかく人民裁判にかかつて頂かなければならない、何も心配することはないのだから、ただ教育という程度に過ぎないからというお話しでございました。それでそれは明日の大体五時から開催されました。そのときは私の梯團で來ました二千名が庭にずつと並べさせられました。あそこは劇場だつたと思つております。そこに並べられました。そうしてあの中には要するに民主グループのさくらが点々とおりました。その周囲にはよそから引揚げて來られた部隊も沢山立つておりました。その中にもやはり民主グループの中のさくらがその中に入つてつたことを私は現認しております。そうして……。
  989. 岡元義人

    理事岡元義人君) 証人ちよつと申上げますがさくらというのは……。
  990. 池田重善

    證人(池田重善君) 中にいて野次る一つのてであります。そうしてそれが入つておりまして、大体一ときしますと三人か四人かの今度は指導者の方がおいでになりまして、そのときは名前は私は知りませんでした。そうして先ず皆の國に帰れて非常に御苦労であつたというような一つの挨拶がありまして、まだお尋ねすることがある、諸君の中にはまだ昔の軍閥的な反動の片割はおらないか、又封建的な考え方を持つた人間はないだろうかというような最初の質問がありまして、次に起りましたのが、要するに蒙古においての私の現在までの、新聞の一部に傳えられているようなことを申して、そうして私の名前が呼出されました。それから私は前に立たされました。そうして今度は暴力團の者も全部出ろということになりました。併し私としては部下の責任もすべて隊長にあるのだから私一人を前に出せばいいのじやないか、そうしたら次々に呼出されまして、民主グループの方が向うに行かれまして引張り出して前に並べました。その人員を今から名前を申上げますと、私が最初、伊藤少尉、酒井軍医、原田通訳、それから清水軍曹、小峰伍長、それから北林先生、それから相撲取の早高、それから私共の部隊の久木原少尉であります。それから村上、御手洗、それからあと記憶しておりますが、ちよつとど忘れしております。以上約十九名であります。それから金澤大尉、それに石田大尉、この方の外に合しまして約二十七、八名と思うております。そうして吉村がやつた事実について最初全員に、認むるかということを申したのであります。そうしてこれはともかく反動屋である、曾ては吉村も蒙古におけるところの独裁專制者である、蒙古の天皇であつた、その点について認むるかというふうに訴えましたが、誰一人立つ者はありません。よし、それだつたら、お前達も反動だ……。
  991. 岡元義人

    理事岡元義人君) ちよつと証人、途中でありますが、何を認めるのですか。その大体の箇條だけ……。
  992. 池田重善

    證人(池田重善君) 箇條は反動屋であるという……。
  993. 岡元義人

    理事岡元義人君) それだけのことですか。
  994. 池田重善

    證人(池田重善君) いえ、それと今の吉村が「曉に祈る」刑をやつたということ、それから吉村が妻の靴を持つてつた、そういうようなことであります。まだ大分あると思うております。それから暴力團を使用しておつた、それから……。
  995. 岡元義人

    理事岡元義人君) 階級のことがありますね。
  996. 池田重善

    證人(池田重善君) 階級のことは熊沢隊のこと、大きく言えばそういうことであります。天皇のことについては今話した通り、最後に蒙古の天皇であつたということ。そうして立たされまして、それからこの吉村を承認するか……、いや、その前に今の承認するかということ、若しお前達が立たないとすれば、お前達もやはり反動屋だ、今までおつたけれども、何の教育もできておらない、日本に帰つても民主主義というものはできない、お前達が帰つても民主國家というものはできない、これは反動屋だというように言つて、とにかく若しお前達がそうだつたらお前達は帰す必要はない、俺達が今から奥の山に突つ込んでしまつて、一時の間でもとにかく民主教育をしなければ帰さない、それでもお前達は信じないか、こういうふうに申されたのであります。ところが今のさくらの組が一、二名、私は信じますというふうにして立ちました。ところが外の者は立ちません。そうしたところがやはり同じように、お前達がそういうようだつたら、お前達も吉村或いはこの軍閥の組と同じだ、日本に帰る資格はない、もう少し教育してから帰す、そういうようにして私達は責められましたが、到頭一人立ち、二人立ち、三人立ち、承認する者は立てというので、全部立つてしまいました。そうしてそれが終りまして、私が蒙古の天皇であるとか、独裁專制者であるとかいうように言つた。それから次に今度は金澤大尉殿でありますが、この人は階級章をつけておられました。そうするとまだ「のらくろ」のような階級章を貰つて喜んでいる馬鹿もある、こういう反動屋もある、こういうように言われまして、そうして肩を引つ張つて、あつちに廻し、こつちに廻しして民衆の前に立たされました。そうして最後にこれをどう処置するかということが出まして、判決として、ぶち殺すとか、叩き殺すとか、そういうように言われましたが、我々としてはこれに対して的確なるところの暴力は用いない、これに頭を下げさせるということになつて、私は上着を脱がされまして、土下座をして、民衆六千名の前に坐らされまして、どうも済みませんでしたと言つて頭を下げました。次に酒井先生もいましたが、全部頭を下げて、それで終りました。そうして、諸君、とにかく見よ、如何に吉村が蒙古國において独裁專制者であり、或いは天皇だつたにしろ、一人では動かなかつたが、民衆の力を借りればこういうように頭でも下げるじやないかと言つて、どの方だつたか知りませんが、頭を押えつけました。そうするとその頭が高いと言つて、又頭を下げるという状態で、全員がこういうようにして頭を下げました。そうしてそれが終つて、君達はまだこれから教育しなければならないからと言いまして、私達が入りましたのが第二覚醒隊でありまして、第一番に服部部隊が入りましたのは第一覚醒隊、私たちは第二覚醒隊で、別に收容されまして、そうして毎日、今度はそのときに津村君が來まして、朝私達に共産思想の教育を実施しました。そうして私達に、便所の掃除、並びにぐるりの掃除、そういうふうに私達に今の労役が当てがわれまして、そうして今の、帰れるのだろうか、帰れないのだろうかというふうにして騒動が起りました。そうして私たちの中でも、要するにここまで來て帰れないということはいけないと内輪揉めがしまして、私に、とにかく君が全責任を取つて呉れ、そうして原田君だつたと思いますが、誓約書を書きました。要するに我々は帰つて民衆のために一生懸命戰う、それを繰り返されておる誓約書を原田君が書きまして、十九名が全部それに捺印しまして、そうして一緒に帰つて來たような次第であります。
  997. 岡元義人

    理事岡元義人君) この際お諮りいたしますが、原田証人、酒井一郎証人清水証人小峰証人出席を要請いたしますか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  998. 岡元義人

    理事岡元義人君) 今の池田証人証言に対して二、三お聞きしますが、最初そういう何と言いますか、そういう裁判をされる責任者は、その際誰でありましたか。
  999. 池田重善

    證人(池田重善君) 責任者は、日本字新聞社の方とかで、あそこで最高の人が宮本さんとか言われる方だとか言つておりましたが、はつきりそれは記憶しておりません。
  1000. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 それはいわゆる民主グループの諸君が、毎回各地、シベリア、或いは蒙古から帰つてナホトカに帰つて來たらば、必ずそういうことを行うという習慣になつておりますか。
  1001. 池田重善

    證人(池田重善君) 私の前と、私は二回しか知りませんが……。
  1002. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 二回ですか。
  1003. 池田重善

    證人(池田重善君) 服部隊と……。
  1004. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 風評は聞かなかつた……。
  1005. 池田重善

    證人(池田重善君) そういうふうにやつてつたそうであります。そうして結局私は、それは聞いただけでありますが、そういうふうにして、今の奥地へやられるとかいう者もおつたことは聞いております。事実二、三聞いております。
  1006. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 宮本という人は純粹の日本人ですか。
  1007. 池田重善

    證人(池田重善君) 私が聞いたのは、鮮系の方だとかいう話も聞きました。
  1008. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 あなた自身外二十七八名の中で、そういうふうにこずかれて暴力的な圧迫を受けない人はありませんか。金澤紀大尉と外に……。
  1009. 池田重善

    證人(池田重善君) 石田大尉です。
  1010. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 毆られたりなんかしたということはありませんか。
  1011. 池田重善

    證人(池田重善君) それはあません。
  1012. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 民衆の前でこづかれたのですね。
  1013. 池田重善

    證人(池田重善君) ただ頭が高いといつて押えられただけであります。
  1014. 岡元義人

    理事岡元義人君) 原田証人証言を求めますが、あなたが帰還の途次、ナホトカで人民裁判にかけられた。そのときの状況を証言願います。
  1015. 原田春雄

    證人原田春雄君) ナホトカに着いて二日目であつたと思いますが、いわゆる第二收容所の移されました。そのときに民主グループの方から、民衆カンパをやるので、全員集合しろというわけで、廣場に集まりまして、その上に舞台がありまして、そこでウランバートルから來た、いわゆる吉村隊吉村氏を摘発するという宣言がありまして、吉村氏が、壇上に立ちました。それから吉村氏が一言それについて釈明したいと申出て、それを許すか、許さないか、民衆に諮つたところ、賛否相半ばしておつたようでありますが、遂に許されて発言を始めました。約五分間も拍したと思いますが、その頃から、弁解は聞く必要はないというような弥次が非常に強くなりまして、遂に聞き取れなくなり、発言を中止せられたと思います。そこで吉村隊員で吉村のことをこの際公表する者はいないかというような発言がありまして、鈴木晴男氏がその際壇上に飛び出して、吉村氏のやつたことについて誠に暴虐極まるものであるというような発言がありまして、更に続いて小峰証人が立ちまして、この問題を究明するためには更に吉村隊事情に通じた人々が出なければならない。それを釈明することによつてこの全貌が分るだろうというわけで小峰氏がそれを釈明するために、その証拠人として村上氏とか或いは酒井ドクトル、或いは私もその中に入りました。更に数名の人が小峰氏の呼び出してよりまして壇上に出されました。そうして小峰氏のこれから釈明が始まろうとするのを遂に弥次に遮ぎられまして釈明は遂にできず、そこに壇上に出ました者十二、三人だつたと思いますが、その人々は全部被告として民衆カンパの結果謝罪するということになりまして、先ず劈頭吉村氏が外套を脱いで、上着は脱ぎません。外套を脱いで謝罪をされましたのでありますが、仕方が惡いというので更に地面に手をついて皆に謝り、これで終りまして、外の者はいずれも外套を脱いでお辞儀をして、大変多くの人に苦労をかけましたというような謝罪をして民衆カンパというのは一應終つたのであります。それをどなたが指揮してどういうふうになつたかは私は名前など覚えておりません。その後その壇上に出ました十二、三名の者は一旦別の天幕に移されまして、そこで約一晝夜程置かれたと思いますが、食事その他は全然外の者と変りなく支給されました。その間個人別にその事務室に呼ばれまして当時の事情を審らかに聽取られたのであります。そうして結局その天幕の中で我々は吉村氏に対して、この際潔く自分の不明を詫びて、そうして関係者として非常に迷惑を蒙つておる我我一同を祖國に帰れるように吉村氏が意思表示をして貰いたいというようなことを皆が協議しまして、吉村氏に謝罪文を書くようにお願いしたわけであります。そうしてまあそういうことによりまして、我々一同が民主グループの方にお詫びをしまして、そうして帰還が許された。大体の状況はそのようであります。
  1016. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 今のこの問題は二人の証言を聽いたのでありますが、殆んどナホトカにいて帰つて來た、今日の証人のすべてはナホトカにおつたと思いまするから、長谷川証人、或いは酒井幸次証人、阿部証人以下を全部ここにお呼び出し頂きたいと思います。その動議を提出いたします。(「賛成」と呼ぶ者あり)
  1017. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今淺岡委員から発言がありましたが、六時半になりましたならば暫時休憩したいと考えてお諮りしたいと思つてつたのですが、三十分ぐらい休憩が済みましたら、その後に皆に來て頂く、さように取計らつてはいけませんか。
  1018. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 できますならば、只今池田証人、或いは原田証人証言が済んだのでありますが、以下の証言は同じ一千名からいたこの民衆裁判において、どういうふうなあり方でされたかということに対して、各人の証言を聽かして頂いた方が私はいいのじやないか。却つて煩雜にならないでいいのじやないか、こう思いますので、六時半から休憩に入るか知りませんが、休憩に入れば入るとしてもその前にお呼び出し頂きたいと思います。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  1019. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今の淺岡委員発言異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  1020. 岡元義人

    理事岡元義人君) ではそのように取計らいます。
  1021. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 出席を求めておる間も進行して頂きたい。
  1022. 岡元義人

    理事岡元義人君) では次に酒井一郎証人証言を求めます。
  1023. 酒井一郎

    證人(酒井一郎君) ナホトカに着きまして、先程のようにカンパがあるというので、吉村隊を糾彈しろという声が出まして、皆廣場に集められまして、下士官の主なる十二名が呼び出されました。そして現在においては一対一の身なんだ。これらは天皇の名においてお前達を圧迫し、困らしておつたのだ、併しながら現在においてはこのように惡いことをする奴はお前達民衆の力によつて制裁を加えることができる。だから民心が一致するということは恐ろしいことなんだというような話がありました。間もなくこれが終りまして十二名の者が別の幕舍に移されたのであります。
  1024. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 先程池田証人証言には十九名となつておりますし、今酒井一郎証人証言は十二名となつておりまするが、若干の狂いがありますから、その点一つ今後の証人から証言を求めて頂きたいと思います。
  1025. 岡元義人

    理事岡元義人君) 先にお願いして置きますが、只今淺岡委員から人民裁判を受けた者は十九名か十二名かという点が喰違つておるというので発言がございましたから、その点について併せて証言して頂きます。
  1026. 清水一男

    證人清水一男君) 十二名以上であつたと思いますが、記憶を忘れました。
  1027. 岡元義人

    理事岡元義人君) 尚あなたが人民裁判を受けられた状況を述べて頂きたいのです。
  1028. 清水一男

    證人清水一男君) 原田氏の言われたことは事実であります。それに自分はやはりカンパされた身でありまして、自分がカンパされた理由は大体炊事という立場におつて炊事は役得であるということを言われました。事実私は兵隊の者に班内の者より多少余計に食べさせたことは事実であります。私はそのために謝罪をいたしました。それから隊長に貢物をしたということで摘発されたのもあります。それは軍隊組織が破壞されてないときに命令に服從することは正しいと思つて自分は最初は服從しておりましたが、最後に至つて苛酷な労働、又は絶食、そういう方面において私は反撥した事実もあります。それで隊長に貢物をしたということに関して、実際自分の意思はそれに至つてはいない、けれども盲從をしたということに対して私は摘発を甘受いたしました。
  1029. 岡元義人

    理事岡元義人君) 小峰証人、あなたがナホトカで受れられた人民裁判の模樣をば証言を求めます。
  1030. 小峰光治

    證人小峰光治君) 先程原田通訳が、私が原田を呼び出し酒井ドクトルが呼び出し、こう証言されましたが、その記憶は私はありません。こう次から次に吉村隊長のあとに隊員が呼び出されました。彼出ろ、これ出ろと呼び出されました。その中には全然見当違いで私的な恨みのために多くの兵隊が呼び出された者もあります。私は堪え切れなくなつて、これらの人間にまで罪はないのだ。吉村氏に全部罪があるのだ。吉村の背後には暴力團でがある。そういう人間こそこの壇上に立つて人民裁判を受けるべきだ。そういうふうで先ず岩木九門という当時のゴロツキを壇上に呼び出して、皆に糾明すると同時に、吉村のやつておることを皆に分らして吉村を徹底的にやつつける、そういつた氣持でありました。
  1031. 岡元義人

    理事岡元義人君) 人民裁判の模樣を……。
  1032. 小峰光治

    證人小峰光治君) とに角十八、九名、吉村隊の者が十名、外の隊の者が八、九名、それで十八、九名呼び出されたと思います。そうしてこれらの人達は別扱いにする、そういうふうになつて別扱いにされました。私はそのときに呼び出されてないのでありますが、一應帰りましたが、あとで民主グループの方から一應いろいろ聞きたいこともあるから、この人達行動を共にして呉れ、そう言われたので一緒に行動を共にしました。
  1033. 岡元義人

    理事岡元義人君) 各委員の方で他の証人から証言を求めたい方がありますか。
  1034. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 他の証人ということよりも、そのナホトカにおける人民裁判のことを聞くということに対して各証人に徹底せしめて、その模樣を、今まで述べてない各証人から証言を求めたいと思います。
  1035. 岡元義人

    理事岡元義人君) では先ず長谷川証人が人民裁判を受けられましたが、全証人のうち只今まで証言されなかつた方で津村証人をのけて人民裁判を受けた方がありますか。……ありませんか。
  1036. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) 受けたというのは、その裁判に立会つたというのか、それとも摘発されたというのでありますか。
  1037. 岡元義人

    理事岡元義人君) 立会つてでもいいわけですか。
  1038. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 いいです。
  1039. 岡元義人

    理事岡元義人君) 笠原証人は立会つておられたわけですか。
  1040. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) 立会つております。
  1041. 岡元義人

    理事岡元義人君) その点その場の状況を証言して頂きます。
  1042. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) 先ず全員廣場に集まりまして……。
  1043. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 どのくらい……。
  1044. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) 約二千名であります……。と記憶します。約二千名くらい廣場に集まりまして、それから津村氏の外の民主グループの方が壇上に立たれまして、この中に旧軍隊制の下に相当苦しめられた者があるのじやないか、君達が非常に苦しみを感じておる者があつたのじやないか。そういう者はこのソ連におるうちに全部それをここの皆の前にさらけ出して、その罪をその者に問うて、ソ連の中で起つたものは全部ソ連のうちで解決して、それで内地に帰るように、それで君達の中でいろいろなリンチを受けた者があつたならば速かに言つて貰いたい。そうしてこの壇上に呼び出して皆の声の下に裁きをするという話の下にそれが始つたのであります。その当時、ナホトカに着きましても、まだ吉村隊隊員吉村隊長に対しては相当の恐怖感を抱いておりました。それとナホトカに帰つて参りまして、もうすでに海が見えた、もう少し我慢をすれば内地に帰れる、ここに至つて事を荒だてるより内地に帰つてからという観念の下に、吉村隊長を指摘する者が誰もいなかつたのであります。そのときに民主グループの方が我々兵隊の間に入りまして、「曉に祈つ」た者はいないか、祈つた者がいる筈だ、絶食を受けた者がいる筈だと、結局弱い我々を、不正を指摘するために、我々の奮起を促がすために間に入つて、それを我々に激励して呉れたのであります。その結果ぽつぽつと兵隊の中から「曉に祈つ」た者は兵である、それは吉村隊長がやらしたものである、吉村隊長を壇上に立たせろという声が湧き上りまして、吉村隊長が壇上に出まして、それからいろいろ私的の怨みを持つておる者を混えて、兵隊が数名の者を指摘して壇上に立たしたのであります。それからいろいろの罪状を暴露いたしまして、そのときには吉村隊長の処置をどうするかという問題に移りまして、兵隊の声は圧倒的に吉村隊長を殺せという声に一致いたしました。いろいろその間にありまして裁判は三度行われたように私は記憶しております。その度ごとに吉村隊長を殺せという声が湧き上つて参りました。そのときに津村氏が、とにかく私に任して頂きたい。それで吉村隊長は奥地の伐採かどこかにやつて残して置く、私に任して貰いたいというので、我々は津村氏に委したのであります。大体以上であります。
  1045. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 この際どなたでもよろしいのですが、阿部さんでも結構ですが、折角命からがらナホトカまで辿り着いて、懐かしの祖國にいよいよ出発ができるというような、実にこれはお互い体驗した者でなければ分らんことであります。そこにやつて來ていわゆるどういうのか存じませんが、いわゆる民主裁判というかそういうような裁判が行われた。それについてのあなたの御心境はどういうようなものでございましたか。又その裁判の構成が何人によつて行われておるのか。又今津村さんとかいう人が、吉村前の隊長を伐採のために奥地に送り帰すというようなそうした権限が、それらの構成メンバーの中に特権として與えられておるのが、常識的に考えて当り前のことだというふうに御観察なさいましたか。これについてはこれから先重大な、これは引揚促進のために、私達命をかけて第一國会からやつて來ておるわけでありますから、率直に御発表願いたいと思います。
  1046. 阿部忠

    證人阿部忠君) 先ず印象から申上げます。私達が列車でナホトカに着いたときに、非常に同胞的な暖かい氣持で、民主グループという方々だとは後で分つたのですが、ナホトカにおいて世話して呉れる兵隊さん達があつたが、向うで海が見えた喜びと重ねて、本当に涙の出る程嬉しかつた。それから兵舎に帰りまして……。中途は拔かします。皆集まれと言われて、皆集まりまして、舞台の前で先程証言された笠原氏のような順序方法で行われましたが、そのとき私達の受けた感じは、正直のところ何が何やらさつぱり分りませんでした。一体どうしてこういうのか。後から私達が考えますに、恐らく先に帰られた列車の方々が池田の非行を並べて、すでにそれらの人々に池田の存在というものが分つて、汽車が着いたからこれはカンパに乘せなければならんと思われていたようであります。從つてウランバートルにおける吉村隊長が着いたというので、私達兵士の前に置かれまして、いわゆるそれらの者一切、自分達が迫害を受け同胞的な非行を受けた者、それらのものは單にこれらの罪惡に限らず一切でありまして、從つてそのカンパに摘発された者は吉村隊関係ばかりでありません。私達の知らない隊の人々の名前も出ておる、そういう人も挙がつた筈です。そうして一体それが何でやられるかということは、その後民主グループの委員の方が最初に説明されたその内容で分る。俺達はこれから帰るんだ。一切の恩讐を捨てて、きれいさつぱりの氣持で帰ろうじやないかという氣持、その氣持を私達も見ることができました。併しそれから言われたように、あれを出せ、これを出せと始まつたときには、すでに又ウランバートルにおるときの氣分に戻つて、これを叩かなければいかん。それでだんだんその呼声でカンパに摘発された者が続いて、正直のところここにおる吉村氏はそのとき逃げ廻つて見附からなかつた。引張り出された吉村氏がどれだと分る迄に、相当時間が掛かつたことを私は記憶します。遮二無二引つ張り出されて、とにかく委員の方から一應の罪状の説明がありました。そうしてこれをどうするかという点につきまして、そのとき圧倒的に「殺せ」ということが結論でありました。併しそれが任してくれということになつて、私達の目の前でやつた謝罪は、土下坐をさせる。実際舞台の上に手をついて、謝つた筈であります。私は見ております、それを再三やらされて、とにかく最後の結論は任してくれという点で、民主グループの委員の方に引渡されまして、それが果してそれらのものが裁判的の効果があるかどうかということは、私共は全然信じておりません。そうあろうべき筈がないということを、二ケ年間の体驗で知つております。一切は向うの命令である。内地へ帰す帰さないとか、それらのものが民主グループの方が左右できるものであろうとは信ぜられません。それでそれらのものは單にこけ威しだということは、十分身につけて分つておるます。例えば或る者を首を斬れという判決をやつて、それを斬つたどうなるか。斬つた者はロシアの刑法にも殺人罪で問われます。恐らくそれらの者は赦されない。私達は虜囚の身なんだ。その虜囚の收容所内における私達と同樣のカンパであります。民主裁判、それらのものは現在名附けたので、そのときは何と言つてつたか。正式の名前は兵士大会という名前で呼ばれたものと思います。法的根拠も執行力も、私達は信じておりません。ただ威しだけだ。從つてそれらのものを今突き詰めて行けば、やつても何にもならん。すべては帰つてから、上陸してから、内地に帰ることができたら、これは同胞の手で闘かわなければならん。飽くまで非行は究明して頂こうじやないかという氣持で、帰つたのが心境であります。
  1047. 岡元義人

    理事岡元義人君) ここで阿部証人委員長から一、二伺つて置きたいと思いますが、その民主裁判というのは結局どこからの命令もなくて、ただ日本人同士の間だけで行なわれておつた、こういう意味で今の御証言はなすつたのでありますか。
  1048. 阿部忠

    證人阿部忠君) さようであります。全然向うの指令が或いはあつたかも知れませんが、私達は指令があるとは信ぜられませんでした。
  1049. 岡元義人

    理事岡元義人君) もう一遍……。その民主裁判、人民裁判はただ威しだけで、それによつて残されたり、或いは奥地に追いやられたという者は全然あり得ないと、御証言なさろうとしておられるのですか。
  1050. 阿部忠

    證人阿部忠君) 私は少くともそれらの者が残された……、民主裁判によつて残されたという者は、それは向うのロシアの取調によつてそれに該当する者、一應その審査を通して向うでも残すべきだと思つた者が、恐らく残された。例えば特務機関の一部、佐官級の一部、そういう者は蒙古におるときも帰されないのだ、そうして最後まで残されるのだということを傳聞しております。それら特殊な地位にあつた人を除いては、一切それらの者は、日本人が日本人の手によつてやられるものではないということを信じておりました。
  1051. 岡元義人

    理事岡元義人君) 各委員にお諮りいたしますが、時間が六時半も過ぎておりますので、三十分間暫時休憩いたしたいと思いますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  1052. 岡元義人

    理事岡元義人君) では、七時十分から再開いたします。暫時休憩いたします。    午後六時三十九分休憩    —————・—————    午後七時十九分開会
  1053. 岡元義人

    理事岡元義人君) では只今から休憩前に引続き委員会を再開いたします。先ず津村証人委員長から二、三の点について証言を求めたいと思います。  先ず第一番に証人はナホトカにおいて第四收容所管理部長というようなお仕事をされておつたのか、その点についてお答えが願いたい。
  1054. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 第四收容所の管理部長、こういうものを私はやつてつたのであります。私は、あのナホトカの收容所の際には四つ收容所はありますけれども、その責任者としてやつておりました。
  1055. 岡元義人

    理事岡元義人君) 全部の責任者ですか。
  1056. 津村謙二

    證人(津村謙二君) そうです。
  1057. 岡元義人

    理事岡元義人君) 次に人民裁判を行うのは、証人責任を持つてやられたのはいつからいつまでですか。
  1058. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 人民裁判という言葉は、日本に帰つてから初めて耳にしたことであつて、これはさつき阿部証人お話の通り兵士大会であります。
  1059. 岡元義人

    理事岡元義人君) 期間は……。
  1060. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 私がこの兵士大会に立会つたのは、あそこの輸送再開と同事に、私はずつとあのナホトカに残りまして、そうしてあそこにおけるところの業務をやつておりました関係上、こういうようなものに対しては私はすべて立会つております。
  1061. 岡元義人

    理事岡元義人君) 責任者ではないのでありますね。
  1062. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 兵士大会の責任者ですか。
  1063. 岡元義人

    理事岡元義人君) ええ。
  1064. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 勿論私は責任者としてそこに立合つてつたのであります。
  1065. 岡元義人

    理事岡元義人君) その期限等について証言して頂きたい。
  1066. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 期限は、輸送が始まつたときから私は残つており、それは昭和二十二年の四月……二十一年の十二月から輸送はソ連地区から始まつておるのでありまするけれども、私が業務につきましたのは二十二年の四月の輸送再開と同時に昨年の六月まで、ずつとついておりました。かような兵士大会、こうしたものに対して、あの收容所内において行われたところのいろいろなあれに対しては、すべて私は立会つたのであります。
  1067. 岡元義人

    理事岡元義人君) 一年二ケ月になりますね。
  1068. 津村謙二

    證人(津村謙二君) そうです。
  1069. 岡元義人

    理事岡元義人君) 尚重ねて証人証言を求めますが、その間にいわゆる人民裁判にかかつて、そうして帰されなくなつた者等に対する記憶がございますか。どのくらいの人がこの裁判にかけられて、どのくらいの人が残されたか。
  1070. 津村謙二

    證人(津村謙二君) どのくらい残されてこの裁判にかけられたかという言葉に対して、私は飽くまでも裁判というような言葉は、一つ撤回して頂きたいと思います。これはさつきも申しましたように兵士大会であります。かけられて残されたとか、こうしたことは実際にはないと思います。
  1071. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 最近の宮崎発として、これは宮崎の市で開かれたソ連帰還者生活擁護同盟委員長の津村謙二氏は、十七日夜宮崎で開かれたソ連帰還者報告の夕の席上、吉村彈劾の人民裁判は、私の提唱で一昨年八月末ナホトカ收容所で行なつた云々と語つておりますが、こうした事実があるかどうか。
  1072. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今淺岡委員から発言のありました問題について、津村証人証言を求めます。
  1073. 津村謙二

    證人(津村謙二君) それは宮崎において我々がいわゆるソヴイエトに抑留されておるところの同胞の実際の生活の実相につきまして講演いたしました際におきまして、朝日新聞の記者が参られて、いわゆる今までソヴイエトにおいて我々が非常に虐待労働をやつておる、いわゆる人間として食うに堪えないような食物を支給されておる……。
  1074. 岡元義人

    理事岡元義人君) 証人ちよつと注意しますが……。
  1075. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 私の質問はそういう質問じやない。  私は帰還者報告の夕の席上で吉村彈劾の人民裁判は私の提唱で一昨年の八月末ナホトカ收容所で行なつた云々と語つておるが、そういうふうに人民裁判は私の提唱で行なつたということを言つたことがあるかないか、その一点だけの証言を求めればよいのである。
  1076. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 勿論今その問題に関して私は関連性を持つてこれは話しておることであります。
  1077. 岡元義人

    理事岡元義人君) 先ず証人に今の淺岡委員の御質問に対して、それは事実かどうかという点について御証言願います。
  1078. 津村謙二

    證人(津村謙二君) その今私の提唱でそれをやつたということに対しては、私はそういうことは言いません。
  1079. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 重ねてお尋ねしますが、人民裁判云々の提唱はないと言うのですね。
  1080. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 人民裁判を私が提唱したということはありません。
  1081. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 私更に証言を求めたいのですが、それは留保して置きます。
  1082. 岡元義人

    理事岡元義人君) では続けて津村証人にお聞きしますが、その一年一ケ月の間に兵士大会でも結構でありますが、その兵士大会によりまして帰つて來る者が帰れなくなつたという者は何名ありますか。その点証言を求めます。
  1083. 津村謙二

    證人(津村謙二君) それは大体五十数名であると私は記憶しております。これは勿論その内容がソヴイエト側の軍法会議にかかるような内容の者、これが主として残つたのであります。これは兵士大会その他のものと関連を持つてつたのではありません。
  1084. 天田勝正

    天田勝正君 関連しまして、四月の十二日の東京新聞によりますと津村証人が語られたという中にその作業に関連して挺身していた我々が立会人となり裁判を行い、これが次第に組織されて隊内に残虐行爲があつたと思われる部隊の裁判を行うようになつた、これがいわゆる人民裁判である。以來六ケ月間約三百人が法廷に立ち五十名がソ連に今尚残されておる云々。こう言われておるのでありますが、そういたしますと、裁判というのはあなたの申込によつて兵士大会でもいいのですが、そういう結果五十名が残されておると語られたのは新聞の誤報でありましようか。
  1085. 津村謙二

    證人(津村謙二君) それは誤報であります。そうして尚一言申しますと、今のいわゆる人民裁判と言われておるものに対して、私はなぜこういうものが行われなければならなかつたかというふうなことから話をしなければ、委員の諸公達も又他の人達もお分りにならない、こう思うので、私は初めからそれを説明いたしたい希望を持つておるのであります。(「それは後程委員長において適当に取計らつて下さい」「聞いたらいいじやないか」と呼ぶ者あり)
  1086. 岡元義人

    理事岡元義人君) 尚続けて委員長から津村証人証言を求めますが、その残られました方々の名前は分つておりますか。
  1087. 津村謙二

    證人(津村謙二君) それは全部帰りましたので今私はそのすべての人達の名前、これを承知しておりません。
  1088. 岡元義人

    理事岡元義人君) ちよつとお伺いしますが、帰りましたというのはすでに日本へ帰つて來ておる、こういう意味でありますか。
  1089. 津村謙二

    證人(津村謙二君) それは私達のナホトカの收容所から帰りまして、その他のいわゆる佐官連中、こういう人達は我々は全然関係はないのであります。その人達が軍法会議にかかつておる、こういうことに対しては私は関知しておりません。
  1090. 岡元義人

    理事岡元義人君) 津村証人に私が聞いておるのは、兵士大会によつて、残されたという五十何名の人は名前を御記憶ですかと聞いておるのです。
  1091. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 全部は記憶しておりません。
  1092. 岡元義人

    理事岡元義人君) 今の五十名は帰つて來ておらないのでありますか。
  1093. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 全部帰つて來ております。
  1094. 岡元義人

    理事岡元義人君) 日本へ帰つて來て……。
  1095. 津村謙二

    證人(津村謙二君) ええ。
  1096. 岡元義人

    理事岡元義人君) 尚一点津村証人にお尋ねいたして置きますが、兵士大会というものは結局日本人同士で、津村証人がいわゆる責任者となつて、どこからの命令も受けずにやつておられたのでありますか、その点について明らかにして頂きたいと思います。
  1097. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 勿論これは命令その他において行われるところのものではありません。兵士大会は、いわゆる日本軍俘虜の一般の兵士大衆がそれをやらなければならないというところの必要を、あすこの業務に携わつておるところの我々に対して要求いたしておるのであります。そうしてその要求して來るところのものを我々がソヴイエト側のそのまま提出いたしまして、こういうふうな事情を以て兵士大衆がこのような大会をやりたい、集会をやりたいと言うておりますからして、その許可を頂きたい、こういうふうないわゆる我々の意見も附して向うに提出いたしました。そうしてあの收容所内におけるところの兵士大会は開催せられたのであります。
  1098. 岡元義人

    理事岡元義人君) もう一、二点伺いますが、昨年帰られたときにその後の仕事はどなたに引継がれたのでありますか。
  1099. 津村謙二

    證人(津村謙二君) その引継ぎは各收容所の、四個分所ありますその四個分所の責任者がすべて相談してやるということにいたして、私は帰つて参りました。なぜならば私は帰つて來る前に栄養失調で病院に入りました。そうして直ちにそのまま帰つて來たのであります。後の者に対しての保障その他に関しましては具体的にいわゆる系統的にやることができませんでしたから、私は承知しておりません。
  1100. 岡元義人

    理事岡元義人君) もう一点お伺いいたします。証人が舞鶴に帰つて來られて復員業務の手続をしておられるときに、援護局のその当路の方に対して、あなたはこのまま帰つて行くのは大丈夫だろうかというようなことをお聽きになつたことがありますか。自分はこのまま汽車に乘つて大丈夫であろうかということをお聽きになつたことがありますか。
  1101. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 質問内容が分りません。
  1102. 岡元義人

    理事岡元義人君) 舞鶴に上陸されて、そうして援護局の中で、復員業務に携わつている舞鶴の事務当局の方に対して、あなたは自分の郷里に帰るその間心配はいらないだろうかというようなことをお聽きになつたことがありますか。
  1103. 津村謙二

    證人(津村謙二君) そういうことは勿論聞く必要も何もありません。私はそういうことは一つもありません。
  1104. 岡元義人

    理事岡元義人君) 証人に注意いたしますが、ただそういうことがありましたかということを聽いておるのであります。それに対してなければない。そういう何も意見を加える必要はありません。なければない、あつたならばあつたということをお答え願えればいいのであります。
  1105. 津村謙二

    證人(津村謙二君) ありません。
  1106. 岡元義人

    理事岡元義人君) この際委員から御質問がございませんか。
  1107. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 私は先程質問を留保いたして置きましたが、宮崎市におかれまして、あなたが語られた中に、同年八月中旬から一集團がどこらかともなくナホトカの收容所に入つて來た。これが吉村隊だ。やつを探し当てた隊長吉村は初めのうちはなかなか口を割らなかつたが遂いに二十七名の惨殺を認めた。そこで私は皆んなに、明らかなこの事実を、どう処置すべきかと諮つた。大勢の人達は即刻死刑だと殺氣立つたが、このときの池田は手を地に付けて謝まつた。私もリンチを加える意思はないし、又死刑は嚴に取締まつていたので、リンチだけはやらぬようにと一同に頼んだ、ということを言われておりますが、この池田が二十七名の惨殺を認めた云々という点、そういうようなことを語られたことがありますかどうか。
  1108. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 二十八名、こういうふうに言うたということは勿論言うております。併しこれはやはりそれに関係しての説明がなされなければよく分らないと思います。即ちその兵士大会のことにつきましては、後で聽かれると思いますから、そのときに説明いたしたいと思いますけれども、いわゆるその過程を踏んで行つて、そうして十六名……十七名曉に祈るによつて犧牲にされたものがある、これについて池田に我々はその事実の有無を求めましたところ、彼はそれを認めたのであります。ところがその二千名の兵士大衆の中から、それは嘘である、二十八名お前は犧牲にしたではないか、ということを言われて、彼はその後において、手を付いて平ぐものように謝まつたのであります。
  1109. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それに関連いたしておりまするから、池田証人にお尋ねいたしますが、只今あなたのお聽きになつたような事実があつたかどうか、大体三日間に亘り、今日までの各証人証言によつて、曉に祈る、いわゆるそうした処刑のやり方で、死んだ人間のことも分つておりまするが、それは又後刻に質問するといたしまして、今津村証人が言いましたような十数名の人間を云々とか、或いは二十七名の惨殺を認めたということを、あなたが語られたかどうか、その点を御証言願いたいと思います。
  1110. 池田重善

    證人(池田重善君) 私は津村君が間違つておるのじやないかと思つております。八月ではありません、十一月四日の日であります。最初会つたのは津村君ではありません。私はそのとき逃げも隠れもしておりませんが、汽車の中に來たときに、吉村隊長はおられませんかと、來たのは山下君であります。そうしてそういうことについて、私は喋つたことはありません。
  1111. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 先程天田委員が、東京新聞を読まれて聽かれた問題に、こういうことがなかつたと言われたのですが、その後証言で、五十名が一時残されたということが証言されておるので、この記事をこういうふうに読めば事実なんですかどうか、伺います。抑留当時、隊内で横暴を極めていたことに対する反抗が起り、混乱が起きればどうなるか分らない状態になつた。そこで我々皆の手で同胞を苦しめた者を彈劾しようという声が起り、引揚作業に挺身していた我々が立会人となり、兵士大会を開いて、これらを彈劾した。こういうことが次第に組織的に行われ、残虐行爲があると思われる部隊が帰つた場合に、兵士大会が開かれ、彈劾が行われ、以來六ケ月間に約二百人の者が兵士大会で彈劾され、五十名がソ連に今尚残されている、と書いてあるが、一時残つて、後で帰つて來た。こう言つたらばその通りなんですか。
  1112. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 今のその読まれたことに対して、それでありますと、私達がすべて我々の意思を以てそれを行なつて行つたというふうに考えられる点を除きましては、大体それでいいだろうと思います。
  1113. 天田勝正

    天田勝正君 この帰還兵士が希望されて、それからあなたがその希望をソ連側に許可願を出されて、許可の結果兵士大会が開かれた、こういう御証言でございましたが、そういたしますと、ソ連当局におきましても、別にこれを正式の裁判として認めたのではないにいたしましても、そうしたことを開くのは、ちやんと認めておつた。でその結果五十名の人が残つたと言いましたが、勿論その大会に決定権は私ないものだろうと思うのでありますが、その兵士大会の結果を申告することによつて、それが一つの調査の基礎になつて行く、このように解釈してよろしうございますか。
  1114. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 私達がその兵士大会の結果につきましては、我々がいわゆる協議いたしまして、そうしていわゆる兵士大会のそのようなあらゆる発言を整理して、勿論ソ側に対しては相談いたします。それによつてソ側が、ソヴイエト側がいわゆる残虐なるところの行爲そういうものについて、いわゆるソヴイエトとして取上げるべきものであつた場合には、勿論これは取上げるだろうと思います。それに関しましては、我々の方はいわゆる関知しておりません。
  1115. 千田正

    千田正君 津村証人に伺いますが、この兵士大会なるもののいきさつを一應お聞きしたいと思いますが、これを行う中心になるものが、いわゆる言うところの民主グループが中心になるのでありますか。それは全然別個に四つの、いわゆる收容所における主な人達が中心になつてやるのか、その辺のところをはつきり一つ……。
  1116. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 大体ナホトカの收容所は、その当時におきましては、第一分所、第二分所、第三分所と、こう分れておりました。そして第一分所に最初に入つて來る関係上、私は第一分所において、こうした兵士大会に立会いました。いわゆる民主グループといいますのは、第一、第二、第三ここにおいて、いわゆる引揚業務に從事しておるところの人達を以て作られておるのが、このグループなのであります。でありますからグループと、それから各分所の主だつた者、こういうところの区別はありません。
  1117. 千田正

    千田正君 民主グループと称するのは、然らばソ連側に抑留中において、共産主義の教育を受けた人達を以て民主グループと称するのであるかどうか。いろいろな民主グループに対して十分なる認識が未だ日本國民の中にないようであります。それで民主グループというものは、一体抑留中ソ連の主義に基いて教育されたものか。ナホトカの帰還に対する帰還業務に携わるために、そういうような教育をされたのか、その点のことをはつきりと我々は理解しておりませんから、その点を……。
  1118. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 我々がソヴイエトに入りました当初においては、外蒙のウランバートルにおけるものと大差はありません。即ち我々は全く人間として最後のところにまで我々は落ち込んで行きました。これは民主グループがどのようにしてできたかという点について説明をしておるのであります。何故我々がそうした環境の下に叩き込まれたか、それをいわゆる隣りに寢ている戰友が次々に死んで行くところにおいて我々は考えたのであります。作業食糧もすべてはいわゆる日本軍の我々の部隊におけるところの幹部に、食べ物が少いから何とかして呉れないか、作業のいわゆる量が余りに苛酷であるから何とかして呉れないかと頼みに行つても、すべてはソヴイエト側の命令である、こういうところの一言を以て我々はいわゆる死の危險に晒されて労働をし、又乏しい食糧を以て、掻拂いや、いわゆる道に落ちているところの物を拾つて食べなければならないような状態にまで我々は落ち込んでいた。非常に簡單に申上げているのでお分りにならないかも分りませんけれども、それは今まで説明されて來たところの、外蒙におけるところのことを考えて見られれば、それと何ら異なるところのものではありません。こうしたところにおいて、私達はどうせ死ぬならば、こうしたところのものによつて死んで行くよりも、いつそのことソヴイエト側によつて銃殺でもされた方がこれはましである。こういうことを我我は考えまして、直接ソヴイエト側に交渉にも行くようになりました。そうして実際に收容所の中において、果してこれがソヴイエト側の命令であるか、このようないわゆる蛇の生殺しのようなことをされるのであつたら、いつそのこと一思いに殺して頂きたい、こういうことを以て我々はソヴイエト側に行つたのであります。勿論そのときは兵隊が全部團結いたしまして、死ぬのを覚悟で行つたのです。そうしたところにおいて初めていわゆる幹部が糧秣をごまかす、作業もいわゆる過重に我々に強いることによつてソヴイエト側の歓心を買い、自己保身を努めようとしておる眞実を我々は知つて、そうしてそこにおいて初めてそのようないわゆる働きたくない、他人に働かして、そうして自分達が將校室においていわゆるうまい物を食い、碁や將棋や麻雀をやつて遊んでいるような者はそうした收容所に行つてつた方がいいというので、外の收容所から、いわゆる働かなくてもいい將校達の收容所に行つてつたのであります。そうしたところで初めて私達はすべての兵士達が一緒になつて、お互いに勉強し合つて收容所の中の運営をして行くようになりました。そこに初めて民主グループ、いわゆるそうしたところの收容所内の運営を委されて皆の者から信頼されて、そうして運営して行くところのグループ、即ちこれが民主グループとこう呼ばれるようになつたのであります。
  1119. 岡元義人

    理事岡元義人君) 証人、そこで收容所と今おつしやつておるのはナホトカの收容所のことですか。
  1120. 津村謙二

    證人(津村謙二君) これはいわゆるソヴイエト領土、即ちヨーロツパロシア、中央アジア、沿海州、いわゆるシベリアと言われておるこのソヴイエト領土内におけるあのすべての收容所に起きて來たところのいわゆるソヴイエトの民主運動と言われておるところの、簡單なるところのこれは説明であります。勿論ナホトカの收容所もその例から漏れませんでした。
  1121. 岡元義人

    理事岡元義人君) 尚その点、それだけの廣い地域の各收容所の状況があなたにはそういう工合に分つてつたのでありますか。
  1122. 津村謙二

    證人(津村謙二君) それは私が先程ナホトカのいわゆる引揚業務の責任者になりましたのは、二十二年の四月からでありましたけれども、私は終戰の年の十月の七日からナホトカの收容所において私はあらゆる労働に從事して、そうしてソヴイエト地域からの、ナホトカの引揚の最初から私はずつと見て來ております。それでいわゆるソヴイエト地区からの引揚げの、いわゆる各收容所における状況をそこに來るところの兵士達と共に話し、そのいわゆる來るところの樣子を見てそうしたところのことを初めてはつきりと掴み得たのであります。
  1123. 細川嘉六

    細川嘉六君 津村証人にお伺いしますが、いわゆる共産主義教育をソ連側は日本の兵隊に施しましたか。若し施したとするならばどんなことがありますか。その内容ちよつと簡單に伺いたいと思います。
  1124. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 共産主義教育にしても、いわゆる我々が幾多民主運動、こうしたところのものにしても、これは決してたとえソヴイエトであつてもそれは強要されてこれはできるところのものではありません。ソヴイエト側は我々に対してこの民主運動を強制するというようなことをしないばかりではなくて、当初において我々がいわゆるソヴイエト側に直接言うて行かない、その反感をいわゆる幹部に対して直接これをぶつけたときにおきましてはこうした收容所もあつたのでありますけれども、そうした場合においては、むしろいわゆる我々の方がソヴイエト側から処罰されたこともありました。そうした場合でありまして、ソヴイエト側といたしましては、我々のいわゆる生きるための、こうしたいわゆる止むを得ないところの行動に対しましては次第々々に認めて参りましたけれども、特にいわゆる共産主義教育を施したというようなことはありませんでした。私達が読みたい本があると言うてソヴイエト側に対して懇願することによつて本を我々は貰つたことはあります。ソヴイエト側からのいわゆる共産主義の強要ということに対しましては私は全然そういうものを受けておらない。
  1125. 細川嘉六

    細川嘉六君 池田証人にお伺いいたしますが、先程津村証人池田証人に対してナホトカで初め十七人惨殺したことを認めたと、それから他の大衆が承知しないで結局……。
  1126. 岡元義人

    理事岡元義人君) 細川委員ちよつと……今の発言ちよつと分りませんでしたので、もう一回……。
  1127. 細川嘉六

    細川嘉六君 初め十七人の惨殺を認め、それから大衆が承知しないので二十八名の惨殺を認めたと津村証人が先程述べました。それについて先程日の間違いがあるがとあなたは述べたが、これについては何も述べていない。津村証人が言われた通りでありますかどうか。
  1128. 池田重善

    證人(池田重善君) そうではないということを申します。
  1129. 岡元義人

    理事岡元義人君) 津村証人にこの際お聞きしますが、あなたの証言によりますと、共産教育は強いられなかつたというように今承わりましたが、一、二点関連して伺つて置きたいことがありますが、それはナホトカへ着くまでにいわゆる列車中におきまして、反動摘発闘爭委員会こういうものができておつたということを知つておられますか。
  1130. 津村謙二

    證人(津村謙二君) そのことは聞いておりませんし、そうなことがあつたということは私は全然聞いておりません。  それはナホトカの收容所に着きました際に、我々はその部隊の輸送下におけるところのいわゆる状態を全部いろいろ話合つております。そうした場合において反動摘発闘爭委員会とかそういうふうなものの存在したことを誰一人我々に話した者はありませんでした。
  1131. 岡元義人

    理事岡元義人君) 尚もう一点伺つて置きますが、今までこの委員会でいろいろの証人証言を得ております。その中では、今の津村証人のお述べになつたようなのとまるで反対の証言が多かつたのでありますが、例えば特に問題となりました英彦丸の乘組の方々の場合においても、いわゆるそういう教育を受けたと、又先日ハバロフスクから帰つて來られた赤鹿元中將の証言にも、自分は受けなかつたけれども、一部の者に教育をしておられたという証言があつたのでありますが、若しそれが事実とすれば、それは違うという工合にお考えになりますか、証言を求めます。
  1132. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 勿論我々が自分自身で研究し、日本人同士で研究することは、これは勿論あります。その意味において、いわゆるその中將の方も自分で受けたんじやなくて、外で教育を受けておるというふうに考えられておりますのは、日本人同士でそれを研究しておるということを見られ、又聞かれての話だとこう思います。
  1133. 岡元義人

    理事岡元義人君) 尚もう一点だけ津村証人にお伺いして置きたいと思うことがありますが、それは先程笠原証人証言の中にありましたこの池田証人の兵士大会における際におきまして、これは俺に委して置けと、奥へ送つてやるからと、こういうことを言われたと証言がありましたが、その点について事実でありますか、証言を求めます。
  1134. 津村謙二

    證人(津村謙二君) さつきどなたかの証人が申されましたように、いわゆる三回も最後の締括りをやり直ししたということは、そこに参加しておつたところのいわゆる兵士大衆が、すべて吉村を殺せというところの声のみで、それ以外には出ない。で私達といたしましては、これに対して勿論吉村をあの場において、いわゆるリンチを受けて殺すようなことがありますれば、いわゆる幾ら正義の憤激の余りに、彼がやはりそのようないわゆる惡業のことをやつたといつても、それを殺した場合においては、その人達処罰を受けなければならない。それで私達といたしましては、そうしたことを、いわゆる全部彼をどうするかということについては、我々があの收容所のいわゆる輸送業務に対しまして責任を持つてやるから、そうしてあの兵士大会の殺せというところの決議に対してそれを緩和するということは、これは当然なされなければならないと、こう考えて我々はやつたのであります。
  1135. 岡元義人

    理事岡元義人君) 証人に今私が聽いたのは、奥地にそれは追いてやるようにするから俺に委せて置けということを言われたかどうかということをお尋ねしておるのです。
  1136. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 奥地にやるかどうかということについては、私にお委せして頂きたいと、こういうことは勿論言いました。
  1137. 岡元義人

    理事岡元義人君) ちよつと笠原証人証言を求めます。先程の証言では、奥にやるようにするから委せて置け、こういう工合証言がなつておりますが、今の津村証人証言は、奧にやるかどうかということを決める件は俺に委して置け、こういう意味でありますか、その点もう一回証言を求めます。
  1138. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) それは前に言つたのは私の誤りであります。奥にやるかどうかということを私に委して置けと言つた方が正しいと思います。正しくあります。
  1139. 岡元義人

    理事岡元義人君) もう一点だけ津村証人に伺つて置きます。奥にやるというようなことは、今までに例があつたと思えるように考えられますか、この点証人証言を求めます。
  1140. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 吉村を殺せと、最後まで残して重労働にこき使えというふうな……。
  1141. 岡元義人

    理事岡元義人君) 発言中でありますが、今私がお聽きしておるのは、奥にやるという言葉があなたから出ておりますが、今までの兵士大会等において、奧にやられたということがあるのではないかと聽いておるのです。その点だけ。
  1142. 津村謙二

    證人(津村謙二君) そういうことはありません。
  1143. 天田勝正

    天田勝正君 ちよつと津村証人に三点ばかりお伺いいたします。先程一証人の言によりますと、吉村隊長が兵士大会にかけられましたときに、その廣場に二千人ぐらいおつたと、こう証言せられております。そこで吉村隊は千名足らずであつたということですでに証言せられておるのでありまして、この数の食違いから想像いたしますると、どの隊の者でも集めてそれによつて審判させた、こういうふうに考えられますが、さように取つてよろしいかどうか。
  1144. 岡元義人

    理事岡元義人君) 天田委員にお断りしておきますが、只今証言を求めますが、その前に各委員ちよつとお諮りいたしたいことがありますのは、証人のうち鎌谷証人が特別の事情がありまして帰らなければならない事情にありますが、帰してよろしうございますか。お諮りいたします。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  1145. 天田勝正

    天田勝正君 私の質問は留保いたしまして、他の人たちが鎌谷証人に聞くことがあれば……。
  1146. 岡元義人

    理事岡元義人君) 鎌谷証人に対して何か証言を求められる委員の方がおられますか……。
  1147. 千田正

    千田正君 簡單に鎌谷証人の退席する前に、あなたは津村証人の言う兵士大会に参加して、吉村隊長に対する憤懣の意を述べたかどうか、或いは憤懣の意は述べないけれども兵士大会に参加しておつたかどうか、この二点だけ伺いたいと思います。
  1148. 鎌谷參司

    證人鎌谷參司君) 鎌谷証人吉村と一緒に帰つておりません。英彦丸で帰つたのであります。ここに並んでおる証人の中で英彦丸で帰つたのは私だけで、吉村隊長のナホトカにおけるそれには全然タツチしておりません。私の方が早いのであります。
  1149. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 鎌谷証人にお尋ねいたしますが、あなたは今のナホトカにおける人民裁判というか、兵士大会とかということに触れられたことがありますか、或いは参加されたことがありますか。
  1150. 鎌谷參司

    證人鎌谷參司君) あります。
  1151. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それではその模様を証言お述べ頂きたい。
  1152. 鎌谷參司

    證人鎌谷參司君) ナホトカの兵士大会は先程笠原証人が申したことと何ら異なつた点はありません。ただ私が何故あの壇上に上げられたかと申しますと、吉村隊から長命隊に昭和二十二年五月十一日轉属、約一ケ月おりまして、小林少佐参謀の指揮する隊に轉属して來たのでありますが、帰りに図らずも長命中佐に指揮されてナホトカまで帰つたのであります。そのときにいろいろあちらで將校若くは將校でないにも拘わらず將校のような服裝をし、各自皆下士官、兵の威を抑えたような者が壇上に上げられて、いわゆるカンパと称されるものが行われたのでありますが、長命中佐に対しまして居並んだところの約千五百人乃至二千人と思われる者の中から、長命中佐は違うのだ、長命さんは違うのだというような言が出たのでありますが、そのときの司会者は誰だつたか忘れましたが、たしか工兵中尉の鮮人の方であります。それで私は一、二長命中佐の弁護に立つた者の申されることが非常に抽象的でありましたので、壇上に上りまして、長命中佐はこの輸送の指揮官を蒙古側から命ぜられて來られたのであつて、長命中佐が指揮して蒙古において作業させておつた者と一緒に來られたのではないということ、長命中佐が部下のために相当蒙古側に対してノルマを抑えるとか食糧の完全な補給を受けるように努力されたとかいうようなことを具体的に、いわゆる民主グループの人達に申したのでありますがそれは聞き入れられず、その約千五百人乃至二千人と思われる人の中から、あれは憲兵曹長だ、あれは憲兵中尉だあいつもやつてしまえというような声に連れて、謝れというようなことでございましたので、私自身もそういうことを言うておる者の顔を見ますと、私と一緒に又は私の前に吉村隊から出た、いわゆる新京軍監獄から出て我々と一緒に吉村隊におつた者の顔も見受けましたので、私としては吉村隊におりましたときには誠に済みませんでしたと一言いいました、それで私は済んだのであります。
  1153. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 更に重ねてお尋ねしますが、俗にいう兵士大会とか、或いは人民裁判とか、或いはその收容所の中で吊し上げというような言葉を帰還者から聞くのでありますが、そういうような言葉をあなたお聞きになつたことがあるかどうか。
  1154. 鎌谷參司

    證人鎌谷參司君) そういうことは全然聞きませんでした。
  1155. 岡元義人

    理事岡元義人君) 外に御質問がなければ鎌谷証人の退席をいたさせます。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  1156. 岡元義人

    理事岡元義人君) 鎌谷証人退席。    〔証人鎌谷參司君)退席〕
  1157. 岡元義人

    理事岡元義人君) 天田委員この際もう一回繰返して御発言を願いたいと思います。
  1158. 天田勝正

    天田勝正君 では津村証人にお伺いいたします。吉村隊の兵士大会に当りまして、二千名の人達が集まつたことが一証人によつて証言されております。然るに吉村隊は千名足らずであつたと、これ亦証言されております。そこでこの数の違いから考えますると、吉村隊に全然関係のなかつた吉村を全く知らない者までもそこへ出てその審判となしたのかどうか。これを先ず第一点としてお伺いします。
  1159. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 吉村の入つておるところの部隊が第一分所に入つて來た時には、他のいわゆる部隊の主力は全部第二分所の方に移つて行つたあとであります。それが出て、でなければ一分所には全然入れられない。それで入つて來たものは、吉村の入つておるところの部隊だけであつて、そうしてこの兵士大会に参加したのは、その前の部隊で、前にナホトカに着いたところのウランバートルからの部隊で、ここに残つて吉村のあの惡逆なるところの事実を暴露してやらなければならないと言つた人たちが、その第二分所の方からこつちに参加して來きました。
  1160. 天田勝正

    天田勝正君 分りました。第二はあなたたちが使嗾されて兵士大会を開きまする場合に、その集まる方たちは俘虜でありますから、恐らく自由人ではありません。從つて誰かに命令されるか、しなければ自由に出て歩けないと、まあ我々の常識で考えるのであります。そこでこれはその兵士大会に出るや否やということは、この出るということだけはソ連の許可を得ておるということは承知しました。そこでこの出るにしても、出なくてもいいという通達か何かによつて自分の意思によつて大会に出席したのだということが言われますか。
  1161. 津村謙二

    證人(津村謙二君) それは一分所と二分所の間は丁度眞中に医務室がありまして、その医務室の所の中央の通路を通つて一分舎に行くのであります。
  1162. 天田勝正

    天田勝正君 その場合にその私のお聞きしたいのは、兵士大会に出るのを出なくてもいいのかどうかということなんです。
  1163. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 勿論それは自由意思であります。ただ我々といたしましては、劇場前の廣場において兵士大会を開くということは、我々の方でそれを各幕舎に対してこれを傳うたことはあります。
  1164. 天田勝正

    天田勝正君 自由であるということですね、了解いたしました。もう一つお伺いしますが、先程の御証言に私共に非常に了解に苦しむ点があります。それはシベリアにおけるところの各收容所における旧軍隊式の制度があつてそれをあなた方がはね返して民主グループを作つた、併し考えて見ますれば誰もが俘虜でありまするからして、その生殺與奪の権は戰勝國が握つておる筈であります。そこでそういう一部の暴虐を防圧するということは一つ命令さえあれば極めて簡單ではなかろうか。私共にはこう考えられる。それが相当暴虐が行われてしまつて、そうしてその中の目覚めた人達が立上つたことによつて、漸くそれが直り得る。こういうことは、ちよつと理解できないのであります。それを何故放置されておつたかということにつきまして、あなたは長くナホトカにおられて、ソ連当局と折衝されていたのですから、ソ連が命令さえすればこの止めらるべきこの暴虐をどうして見過しておられたかということについてお知りでしたら御証言願いたいと存じます。
  1165. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 日本人の收容所内におけるところの生活は、大体日本人側に任せられております。いわゆる柵の中における生活は日本人の自主的なものに任せられております。
  1166. 天田勝正

    天田勝正君 そうしますと作業におけるつまりいわゆるノルマ、これだけは向うの命令であるけれども、その中の規律と申しまするか、或いは規律に反したところの処罰というものは一切日本人の手によつてなすんだ、こう仰せられますか。
  1167. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 收容所においといわゆるいろいろな問題に関するところのものは、殆んどこの收容所内におけるところの日本人側の責任者が、これを自主的に行うということは許されております。
  1168. 天田勝正

    天田勝正君 極端に言いますると、若しその暴虐によつて死ぬような者ができてもこれ亦任せたということによつて放任した、こういうふうに考えてもよろしいのでございますか。
  1169. 津村謙二

    證人(津村謙二君) いわゆる柵の中における生活は日本人の自主的な管理に任したと言いましても、勿論これは限度はあります。收容所の中においてもこれは一つの社会でありますから、各人のいわゆる生命の危險に至るようなことは、勿論ソヴイエト側が出て参りまして、それを制禦するということは当然のことであります。
  1170. 細川嘉六

    細川嘉六君 もうこの辺りで人民裁判というかその性質を津村証人に説明して貰おうじやありませんか。
  1171. 岡元義人

    理事岡元義人君) 御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  1172. 岡元義人

    理事岡元義人君) ついては津村証人に御証言を求めますが、先ず兵士大会というものができた経緯から逐次帰られるまでの間の状態を述べて頂きたいと思います。ちよつとその前にあなたは前軍曹でしたか。
  1173. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 私は朝鮮の咸興の近くの連浦の第十一教育飛行隊の幹部候補生上りの主計軍曹であります。
  1174. 岡元義人

    理事岡元義人君) どうぞ始めて下さい。
  1175. 津村謙二

    證人(津村謙二君) ソヴイエト地区の輸送が開始せられたのは昭和二十一年の十二月、そうして次の船は翌年の二十二年の一月にナホトカを出発しております。それかて輸送は停止せられまして、私達はあのナホトカにおきまして、四月の輸送再開までの間あすこにおける労働に從事いたしておりました。そうして三月の二十日に日本から船が來る、そうして輸送は始まる。こういうところのソヴイエト側からの指示によりまして、私達は輸送再開に備えてナホトカにおける準備をいたしておりました。そうして奥地からはどんどんどんどん日本の捕虜が沢山に集結地に集まつて参りました。ところが三月二十日になりましても、日本からの船は來ません。その二十日の日に我々はすでに第一回の梯團の編成をはつきり終りました。そうして分所から直ぐ港に行ける態勢を整えておく。そうしてナホトカの收容施設も順調に船が來ることを計画に入れまして、そうして一万名收容できるほどの收容施設を完備いたしました。ところがそれが四月の確か二日か三日、これまでの日本の船は入つて來ませんでした。そのために人口一万足らずのナホトカの町でありますけれども、五万人からの日本の俘虜が溢れてしまいました。そうしたときにソヴイエト側では日本人がこうして長い間の俘虜生活を終つて日本に帰るということは本当に人間としてこれほどの最大の喜びはない。こうした喜びを持つている日本人に対して、言葉の分らないロシア人がいろいろな輸送業務を、これをやつたならば、感情的にそのような美しい心を壊す、こうした場合がある。日本人がここに残つてつてくれないか、そういうことを我々に言つてつたのであります。勿論我々は一人残らず、誰も早く帰りたいということは変りはない。誰もそこに残るというものはありませんでした。こうしたときに、あのナホトカに残りましたのは、いわゆる満州開拓の義勇民といわれた若い少年の人達、又曾ては特攻隊として戰爭に参加した少年飛行兵の若い人達、こういう人達が身寄り……身寄りというのは間違いでありますが、妻や子供そうしたものがおらない、それが同じ日本人のためにここの仕事をやる。こうして残つたのはその集結地の民主グループであります。ところがそうして我々が迎えておりますときに、いわゆるヨーロツパ・ロシアから北は沿海州に至るまでのこの廣い地球の六分の一を占めるソヴイエト領土内から日本人の帰つて來る姿を全部あすこで見ておりますときに、たつた一年ばかり足らずの間に、同じ日本の兵隊が余りにも異なる姿に、我々は全くびつくりしたのであります。それはどういうことかと申しますと、あのナホトカの駅に汽車が着いたときに、帰る喜びに頬を赤く染めて元氣一ぱいにやつている人達と、地獄の底から這い出して來た亡者のごときふらふらした姿でナホトカに現れたものと、余りにも比較にならないこの二つの姿を我々は見たのであります。そしてこの原因が果してどこにあるか、こういうことを我々は激しいあの五万人からの人達に対して、たつた三十数名しかおらないところのグループで、日夜駈け廻るところの仕事の合間に、こうしたところの原因が、果してどこにあるかということを、我々は懸命になつてこれを究明したのであります。そうしたときに、いわゆるこの曾ての日本の軍隊の機構がそのまま残つてつていたところは、そうした哀れな姿をしてやつて來る、これは全く一つの例外なしにでありました。そうして私がさつき答弁いたしましたいわゆる民主運動というものをやつているところの部隊のみが、非常に張切つた、元氣一杯の姿で、而も貨車から降りると直ちに貨車の中のすべてのものをあつという間に整理して、そうして整列して元氣一杯收容所に入つて來る、こうした姿、これが民主運動をやつているところの收容所これのみでありました。こうした二つの差を見たときに、我々は同じ仲間が、たつた一年半のうちにこうした悲惨な姿になつて行くというところの原因について、やはり日本人としての怒りを我々は覚えました。そうしたときに二十二年の確か八月であります、中央アジアからの引揚げの部隊に血盟團というところの暴力團があつて、その五万人からの大混雜、ちよつと我々が氣を弛めるとどのような大混乱になるか分らないというような、いわゆるあのナホトカの收容所に「どす」を持つて暴力團が入つて來ておるということを我々は聞きました。これは中央アジアからの引揚梯團でありましたけれども、これが我々の全然知らないでいるうちに、收容所の一隅で、いわゆるこの兵士大会というものを開きまして、その血盟團という暴力團を追及しておりました。それを私は後になつて知りまして、直ちに飛んで行つてその状況を見ましたのが、今まで各証人お話しされておるところの兵士大会の概略、これがそこに繰りひろげられておつたのであります。ところが我々はその後でその兵士大会の結果、その暴力團の團長が、小指を切つて我々のところに持つて來たことを以て、これはいわゆる何も全然立会もしないでそうしてやることになつては、こうしたいわゆる悲惨なるところの部隊の怒りが爆発した時には、どういういわゆるリシチが行われるか分らない、これには我々がやはり立会わなければならないということを、この血盟團の兵士大会から知りまして、その後すべてのこうした兵士大会に立会わなければならないと、こう我々はその時考えたのであります。そうしていわゆる地獄の底から這い出して來たようないわゆるこの部隊、この際におきましては我々は本当にあの駅に着く汽車を、すべての梯團を、我々は迎えに行くのでありますけれども、本当に共に同じ仲間として、涙を流して共に語り合いました。その結果が、いわゆる依然としてナホトカまできらきら光るところの階級章をつけて、そうして栄養失調でふらふらするところの兵隊に將校行李を担がせてやつて來るところのその幹部達、これに対しての憤慨を、兵士達が爆発する、この者を、我々が共に働くことによつて、この兵士大会というものによつて解決するという工合に持つてつたのであります。それでこの兵士大会をやつた期間というのは、この六月の血盟團を初めといたしまして、今一部の新聞に出ております愛琿の悲劇や又高山助教授の撲殺事件、又血櫻團の暴力團、こうしたところのもの、そうして最後にはこのウランバートルの曉に祈るの事件、こうしたいわゆる昭和二十二年の六月から十一月の半ばにかけて、この期間のみでこの兵士大会は行われました、それ以後はすべてのソヴイエト地区におけるところの收容所は民主運動をやりまして、みんな朗らかに、ソヴイエトの人達が我々の收容所において日本式の景色が見られるといつて見学に來る程の立派な收容所を我々の手で作つて、そうして食堂も作り飯を鱈腹食つて、そうして朗らかに作業をやつて、日本に一日も早く帰る日を身体を鍛えて待つというた工合の現在生活をしておりますので、兵士大会という、いわゆるこうした形においてこうしたものを取上げて行う必要は全然なく、收容所内におけるところの生活の問題を檢討する兵士大会、こうした形に変つてつたのであります。  それでこのナホトカにおいて兵士大会が何故に行われなければならなかつたかということの大略は私の話として終るのでありますけれども、これをやつたところの我々の氣持といたしましては、日本人のためにあのナホトカに残る、そうした氣持が同じ仲間が、いわゆる元氣な者と、虐げられて、本当に屠場に引かれる羊のような姿を持つておるその仲間というような者を考えたときに、同胞として、眞に正しい意味における同胞愛というものに我々が燃えまして、協力してあの兵士大会を開催した、その氣持を私は述べて、いわゆる日本内地において、人民裁判といわれておるところのものが、なぜあのナホトカにおいて行われなければならなかつたかということの私の説明を終ります。
  1176. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 只今の津村証人の報告にちよつと伺いたいことがあるんですが、それは只今の報告によつて大体部隊制度をそのままに残したのが非常に悲惨な状態で後まで來て、それからいわゆる民主化した部隊は元氣で帰つて來たという報告がありましたが、これについて私は共産主義運動の先輩である淡徳三郎氏が昨年の何月頃でしたか、改造にシベリヤの民主主義運動というものを書いておられるので、これを読んだ方があると思うんですが、これによりますと淡徳三郎氏は大体においてそういう傾向だということを指摘されると同時に、中には軍隊組織そのままであつても、將校の中で非常に情愛豐かにやつていて、そういう必要がなくてそのまま來たのもあつた。それから又民主化運動が起つたが、その民主化の指導者になつたのが本当の民主化でなくて、いわゆる便乘的なので兵隊さん達が非常に苦しんだのもあつた。まあ概数的にいえば勿論軍隊組織を残した方が多く、いわゆる民主化した方がいいのが多い、その差も非常にあるが、中にはそういうものがあつた。こういうふうに書かれておるので、甚だ眞実を穿つておるものとして読んだんですが、只今の津村証人言葉だと、問題を簡單に報告されたためかも知れませんが、ちよつとそういうことのなかつたように、一つは皆よかつた、一方は一つもいいのがなかつたといわれましたが、その点は淡徳三郎氏のあの程度が本当でしようか、どうでしようか。
  1177. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 淡徳三郎氏がいわゆる確かチタだと思いますけれども、そうしたところにおいて生活しておつて、どのようにしていわゆるソヴイエト地区における各收容所状態を調べたかどうか私は知りませんけれども、私は少くも輸送が始まつた最初からナホトカにおいてこの眼で見たところの現実というものは、私がさつき簡單にお話いたしましたように、非常に元氣でやつて來るところの部隊は民主運動をやつたところの人達、勿論民主運動と、こういつても、將校が勿論皆の人達から立派な人として推薦されてその責任者になつておるものもあります。兵隊がなつておるものもあります。それはすでにそういうところの收容所においては兵隊も將校も全然なし、すべてがいわゆる一個の人間として眞実の素裸の人間が立派であるか、立派でないかという点において、その責任者は選ばれておるということになつておるのである。そうなつたところにおいては曾ての階級がどうであつたか、こうであつたかということはすでに問題になつておりません。
  1178. 岡元義人

    理事岡元義人君) 要点だけ……。
  1179. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 お答えがしていない。今伺つたもう一つは、民主化はされたけれどもその中に便乘分子が跳梁して誠によくないのもあつたということが、淡氏の報告にもあつたようですし、他から聞いておりますが、そういうこともありましたか。
  1180. 津村謙二

    證人(津村謙二君) それは確かにありました。現在盛岡において私を告発すると言つておるところの、いわゆる細川龍法、こういう人がその一つの例であります。彼はウラジオストツクの收容所におけるところの民主グループの委員長であります。そうして私達があの集結地においてやつた三十名でやつておりましたときに……。
  1181. 岡元義人

    理事岡元義人君) まだいろいろ質問がありますから、質問内容について簡單に要領を得てお答え願います。
  1182. 津村謙二

    證人(津村謙二君) これはあつたという話だけではお分りにならないと思いますから、そういう人達がどういうことをやつたかということを……。
  1183. 岡元義人

    理事岡元義人君) まだ質問がありますから簡單に……。
  1184. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 長谷川証人にお尋ねしたいのですが、今のナホトカにおける兵士大会とか、人和裁判とかいうふうなそうした面であなたが目撃された状況を御証言願います。
  1185. 長谷川貞雄

    證人(長谷川貞雄君) ナホトカに着く前の晩、吉村自分のところに來て……。
  1186. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 私の質問は、そういう吉村隊長がどうであつたか、何がどうであつたかということでなくして、今、津村証人証言されたように、その兵士大会とか、或いは人民裁判とかいうような面に対して、あなたはそれに参加されたか、されなかつたか、参加されたならそれはどういうような模樣であつたかということを、概要お述べ頂きたいと思います。
  1187. 長谷川貞雄

    證人(長谷川貞雄君) 参加しました。その感想は今言つたようですが、最初からの自分の感じから申上げなければ分らないと思いますが、それは省略するとしまして、ナホトカに着いてやれやれこれで安心したという氣持でナホトカに着きました。汽車がまだ動いておるうちに長谷川はどこにおるか、吉村はどこにおるかといつて來ましたので、又かという氣持で暗い氣分になつて行きました。降りると間もなく自分のところに誰か分りませんが、尋ねて來て長谷川はどこにおる。ここにおる。そのとき自分も大尉の階級章を附けておりました。そうしたら君の態度は横柄だ、君は大尉の階級章でものをいうのか、俺も大尉だ、大尉の同等の資格で話をしよう。そこでますます暗い氣持に陷つて行きました。それはそれでいい、吉村のことを訓しく知らせて呉れという、それはここで一人では言えない、吉村と二人同席ならはつきり言うてもいいと言うたら、それはじや後程、時を見てその話を伺うといつてつて行きました。そうして整列しておる間に、ここでは兵士大会がありとやかく幹部達はされるというような傳聞が傳わつて來ました。それでますますなんだか暗い氣持に陷つてつた矢先、荷物の檢査がありました。時たまたま自分の隊にも仕込杖のようなものを持つてつた者もあつたので、それは早速取上げられるというような状態で、その度をますます強くすると共に、いよいよ第一收容所に連れられて行きました。さて兵士大会の当日になると、これから兵士大会があるのだ、君達は出ろ出ろ、出なければ云云というような言葉を聞いて、しぶしぶながら出て行きました。(笑声)集つてつた者は約一千名内外と思われます。そうしてとにかく壇上に出て言うた者は、あれは民主グループの人だということを聞きながらその人の言うことを聞いていると、先程から言われているような非難攻撃が出て來ました。そうして最後に吉村云々ということになりまして、吉村が出されました。その吉村の裁判状況は、大衆はただ殺せ殺せと言うだけで、もう民主グループの人達も困つたようでありました。それでそれは一時中止し、更に又続行したところが、更に殺せ殺せ、それが三回続いて尚殺せ殺せという声に、万止むを得なかつたと見えて、先程笠原君が言うたような言によつてその場は難なく納まりました。そのときの自分の氣持はナホトカに着く前に海を見たとき、ああこれで安心したという氣持が、(笑声)又我々の日本人の和というものを壊される、非常に情けない、ただその無念の涙一ぱいでありました。いよいよそれが終つて第二收容所、第三收容所を難なく通つて船に乘る場面になつたのでありますが、その後は要りませんか。
  1188. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 いや、陳述して下さい。
  1189. 長谷川貞雄

    證人(長谷川貞雄君) 最後の收容所に入つてから自分はその船の北鮮丸の梯團長をやりました。それであすこの包で今梯團編成の相談をしたいるから、あすこに行つて君らは梯團を編成してくれと言われたので、その場に行つて見たら、四五人の人がおつて何やら話をしておつたようでありました。で自分が梯團長を命ぜられてこれから梯團を編成するようになるのだが、一つ協力しら貰いたいということを言うたら、誰か一人が出て行つて間もなく帰つて來まして、いや実は俺が梯團長だ、あなたが副梯團長で行くように言われたからそのつもりでおつてくれ、そうか……。
  1190. 岡元義人

    理事岡元義人君) 名前は分つておりますか。
  1191. 長谷川貞雄

    證人(長谷川貞雄君) 名前はちよつと忘れましたが、二十三、四歳の兵長だと思います。北鮮丸の梯團長であります。それでその席上で梯團のいろいろな行事がありまして船に乘る場合になつたのでありますが、その船に飜つてつた日の丸には全く頭が下りました。ただ幾ら待てども待てども船は來ません。そのうちに遂に雨が降つて兵隊が濡れて行く、側には空の倉庫がある。何とかあすこに入れてくれ、幹部は何をやつているかという喧々囂々たる声が聞えて來ました。でちよつと待つておくれ、梯團長は今交渉しておるからと言つてなだめておりましたが、その間梯団長が交渉いたしまして、今晩は船に乘せることができないから、この倉庫を開放するからこの倉庫で休んで呉れと言われたというので……。    〔「簡單にお願いいたします」と呼ぶ者あり〕
  1192. 岡元義人

    理事岡元義人君) 証人に申上げますが、そのあたり簡單に述べて頂きます。それでいつ船に乘つたんですか。
  1193. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 その今の兵士大会、人民裁判の事になりますが、それは列車が入つて來たときに民主グループの人がそう言われてそこに集合するようになつたんですか。その一点を、どういうふうにして兵士大会やそういうものにあなた方が参列されたんですか。誰から言われたのですか。
  1194. 長谷川貞雄

    證人(長谷川貞雄君) 民主グループの人が迎えに來ました。そしてそのように言われて出て行きました。
  1195. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そういたしますと、列車が着く。荷物もまだ下さんうちから長谷川はおるか、吉村はおるかということに対して、あなたは何か不思議を感じられなかつたんですか。
  1196. 長谷川貞雄

    證人(長谷川貞雄君) でその海を見たとき、ほつと安心した……。
  1197. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 いや……。
  1198. 長谷川貞雄

    證人(長谷川貞雄君) その吉村、長谷川という声を聞いて、又々ぶり返すのかというような暗い氣持になつて参りました。
  1199. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 その人民大会の様子をもうちよつと伺いたいのですが、あなたは嫌や嫌や人民大会に、兵士大会に出て行つたわけですね。その大会の樣子はどうでしたか。吉村隊長に対する糾彈、責める声ですね。それは大衆の中から相当自発的に起つたものか。始めはお通夜のようだつたが、壇上の民主グループがいろいろ言つたので、やつと出て來たのか、そこのところをはつきり……(「さくらがあつたかどうか」と呼ぶものあり)それを返事して……。
  1200. 岡元義人

    理事岡元義人君) ちよつと今の星野委員に申上げますが、先程の証言の通りに質問して頂きたい。今あなたのおつしやつたことは、先程池田証人証言に基いて聞いておるのでしよう。
  1201. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 いや、証言が二色あつたわけですね。池田証人証言は一方的であつたし、又外の人の証言も違つたのですからそこのところをどなたの証言というよりも、どつちと同じだという返事よりも、あなたの観方を聞きたいのです。
  1202. 岡元義人

    理事岡元義人君) そこをはつきりして頂きます。
  1203. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 だからいいでしよう。兵士大会にあなた方が嫌や嫌や参加されて、吉村隊長の問題が問題に出されたのでしよう。それは相当兵士の大衆の中から自発的に起つて來たのか。或いは壇上の民主グループの人がいろいろ言つてやつと出て來たのか、そのところがどつちかとあなたに伺つておるのです。
  1204. 長谷川貞雄

    證人(長谷川貞雄君) 民主グループの人が壇上に立つとじやんじやん叫び立てました。最初の間は兵士は沈黙して聽いておりましてが、誰かが一声叫ぶと、それに相呼應して叫び出されるようになりました。
  1205. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 そうしてその叫び出された樣子は、これはあなたにははつきり分らないでしようが、あたなが推定されたところですね。いわゆる民主グループのさくらなどが配置されて、さくらがやつた声に和したような形勢であつたか。或いは非常に自然に兵士が、吉村隊長に対する忿懣を持つてつた者が、自然に出て來たというふうに察しられたか。どつちに推定されましたか。
  1206. 長谷川貞雄

    證人(長谷川貞雄君) そのときは暗い氣持と、自分達の將校なるが故に裁かれるというような氣持で、それに関しては余り記憶がありません。
  1207. 天田勝正

    天田勝正君 ちよつと長谷川証人に伺いますが、先程津村証人のおつしやるのは帰還兵士の希望によつてソ連側の許可を受けて兵士大会を開いたと、こうおつしやつております。ところが今あなたの証言を聞いておりますると、汽車の中へ迎えに來た。收容所に着いてから早速兵士大会をやるから出て來い、こういうことを御証言なさつております。そういたしますと、少くとも他の場合は別問題といたしまして、あなた方が経驗したところの兵士大会の場合は、別段帰還兵士の希望によつてではなしに、一方的に民主グループの人達だけの提唱であつた。こういうふうに解釈していいかどうか。
  1208. 長谷川貞雄

    證人(長谷川貞雄君) 第一收容所に入つた当時等はちよつと記憶ありませんが、日を置いてだと思います。
  1209. 天田勝正

    天田勝正君 日を置いたんならば、ではあなた方の一緒に還つた中から民主グループの人に希望を申入れられたからだとあなたは考えられたのですか。
  1210. 長谷川貞雄

    證人(長谷川貞雄君) そうは考えません。
  1211. 天田勝正

    天田勝正君 それでは津村証人に伺います。今長谷川証人に聞かれました点をこの場合吉村隊隊員のうちから申出があつて、あなたは主唱をされましたか。
  1212. 津村謙二

    證人(津村謙二君) これは吉村が入つて來たところのその梯團、これのみについて皆さんが考えられておるから、これは間違いであります。吉村の……。
  1213. 天田勝正

    天田勝正君 いや自分のですね……。
  1214. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 分つております。関連しておりますから……、ウランバートルからの引揚げがこれは十月の末頃から始まつておるのであります。併し吉村と一緒におつたところの部隊は、吉村と全部一緒に來たのではなく前に來ております。こうした人達が私達のところに來て、自分達がここに残つても、吉村を何とかやらなければならんと言つて、こう言つて、我々は殆んど前から言つて來ておるのであります。いわゆるすべてがさくらであるとか、いわゆる兵士大会が先に言つた者はさくらである、後から記者の所に言つて來たのも、誰かこちらの方で……、いわゆる集結地の民主グループにつきましては、私が先程御説明いたしました、こうしたいわゆる眞の日本人を思うところの、愛國心を持つておるところの者に対していわゆる……。
  1215. 天田勝正

    天田勝正君 分りました。
  1216. 岡元義人

    理事岡元義人君) 証人に注意をいたします。私見を交えずに質問だけをお答え願います。
  1217. 天田勝正

    天田勝正君 要するに一緒に乘つて來た人から申出を受けたか、一緒に乘つて來ないけれども吉村隊員からの申出を受けて、あなたが言つたかということを聞いておるので、その点は十分分りました。
  1218. 細川嘉六

    細川嘉六君 笠原証人にお伺いしますが、兵士大会のそのときに、先程から話が起きておるさくらが入つたということは本当か、それから自然に皆一致してこの問題を片付けなければならんと言つたのか、そのあたりのことをお聞きしたい。
  1219. 笠原金三郎

    證人笠原金三郎君) 兵隊の間に民主グループの方が二、三人入つてつたのは、私は見受けております。それだけであります。
  1220. 岡元義人

    理事岡元義人君) ちよつと委員長から津村証人に先程の証言の中で、承つて置きたいことがございますが、完全な民主運動をやつていたという收容所の名前がお分りでしたら述べて頂きたいと思います。
  1221. 津村謙二

    證人(津村謙二君) それは沿海州の殆んどです。それから……。
  1222. 岡元義人

    理事岡元義人君) 名前の分つておるものは、できたら述べて頂きたい。
  1223. 津村謙二

    證人(津村謙二君) ウラジストツク、ウオロシロフ、ハバロフスク、それからモスクワの近くにあるところのタンボフ、これは將校の收容所であります。この周辺のいわゆる收容所でありまして、具体的にすべての細かいところまでは私は記憶に出して言うことはできません。
  1224. 岡元義人

    理事岡元義人君) もう一遍伺つて置きますが、蒙古関係收容所の者は概して惡かつた、こういう工合に御覧になりませんでしたか。
  1225. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 概して惡かつたのでありますけれども、長命隊のごとく比較的まだよかつたところもありました。
  1226. 岡元義人

    理事岡元義人君) もう一遍津村証人にお伺いして置きますが、あなたは約一年二ヶ月とにかくナホトカで残つて仕事をされたわけでありますが、その際、尚本年度帰つて來られる方は相当もつと困難な状態にあるということが考えられておつたと思うのでありますが、最後まで残らずに六月にお帰りになつた点は、どういうわけでありますか。
  1227. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 私はシベリアからの引揚げが終る最後まであそこに残つてやるつもりでやつておりました。ところが二十二年の暮から栄養失調に罹りまして、ナホトカにおいてすべての人達が帰つた後、あの收容所の拡充のために僅かの人達であそこでやつておりまして、そうして新らしく輸送が二十二年度始まつた際におきまして、身体が惡くてあそこにおいて勤まらなくて、止むを得ず皆に勧められて私は帰國したのであります。
  1228. 岡元義人

    理事岡元義人君) もう一点だけ伺つて置きたいのは、先程の証言の中で、三月からぽつぽつ奥地からナホトカに集結されまして、大体五万人程度溜つてつたけれども、日本から船が來なかつたという御証言がありましたが、あなたが舞鶴にお帰りになりまして、尚本年ここに今内地でお過しになつて、ソ連からの船を廻せという命令は、一ヶ月の中に二回二週間前に通知して來るということを御存じですか。
  1229. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 私はそういうことは知りません。
  1230. 岡元義人

    理事岡元義人君) 今も知りませんか。
  1231. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 知りません。
  1232. 岡元義人

    理事岡元義人君) 今私が質問申上げておることに関連して何か補足されたいことがありましたらどうぞ。
  1233. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 先程の津村証人証言で、五万人程ナホトカに集結して、ところが日本から船が來ないというようなことで、これは日本の政府が船を寄越さない、或いは連合國が船を寄越さないという点について、現在どういうふうに思つておられますか。
  1234. 津村謙二

    證人(津村謙二君) それに関しましては、ソヴイエトはいわゆる計画経済の國でありまして、五ケ年計画のために、輸送は、全能力をそれに力を入れております。そうしたときに、五万人もあすこに隘れて、一万人足らずの人口しかないナホトカで、その食べさせるパンも、汽車で以てツーチヤンとかそういう遠く離れた所から持つて來なければならない。そういう馬鹿なことはソヴイエトはやらないと、これは私が長くソヴイエトで俘虜生活をやつて來たところからそう感ずるのであります。それでこの五万人があすこに隘れたということは、私は收容所のソヴイエト側と一緒に毎日あの港に出て行つて、今日も船が入つて來ない、津村困つたなあと言つて收容所のソヴイエトの將校と一緒に港え毎日行つたり來たりした経驗を持つております。こうしたところから私はあそこに日本の船さえ來たならば、これは解決がつくとこう思つています。又日本からの船が來ないということにすべての原因があるということは私も今も尚考えております。
  1235. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 私は津村証人証言を聞いておつて、その点がどうしても腑に落ちない。ソ連が計画経済の國であるということで、ナホトカに五万人も集結するということに至りましては、各種の鉄道を使い、あらゆるその他の輸送を使い、そうして僅か一万数千のナホトカに五万名の人を收容する。これに対していつ幾日頃には何万名になる、或いは何千名殖えるということはソ連の最高当局においては輸送計画の面において知つておられると思う。然らばそういう点において今度は日本におけるマツカーサー司令部、連合軍司令部に、いつ幾日ナホトカにこういうふうになる、だからその点については船を廻せ、船をやれというようなソ連当局の指令が連合國司令部になされなければならないと思う。そうでないとちよつと計画経済の國であるというあなたの証言の対しても、どうも腑に落ちない。その点を一つ……。
  1236. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 私はいわゆる進駐軍がどうであるかこうであるか全然知りません。併しながら私は現に体驗していることから申しましても、或いはあの船の中においてのいろいろなこと、そして現在帰つて來て……。
  1237. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 いやそういう証言を聞いているのじやない。
  1238. 岡元義人

    理事岡元義人君) 分わなければ分らんでいいから。
  1239. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 帰つて來て、我々ソヴイエトから帰つて來たあらゆる者が三分の二も失業しておるこの現在、こういつたことにおいて果した日本に、あの五万人の者を次々に全部船を送つて、これを日本内地に送り込むという程の能力があるかどうかということは、私が帰つて來て一ケ年間全國を廻つて見たところにおいて、はつきりとこれはできないということを我々の数万の仲間の現実の生活を見て、私は現在も尚信じているのであります。
  1240. 岡元義人

    理事岡元義人君) 津村証人にもう一言だけ念のために伺つて置きたいことがあるのですが、それはナホトカに一年二ケ月もおられたのですが、而も三月に早く船が廻つて來ればいいというような御証言がございましたが、ナホトカは何月から乗船できのですか、その点津村証人証言を求めます。
  1241. 津村謙二

    證人(津村謙二君) ナホトカの港から何月に船に乗ることができるか、こういうことに関しましては、私は海のことは余りよく知らないので……。
  1242. 岡元義人

    理事岡元義人君) 津村証人に今私の質問いたしましたのは、あなたは三月からはどんどん奥地から來ておるのだ、それでなぜ船が來ないかと自分は思つた、こういう御発言があつたわけです。その御発言から見れば、ナホトカから一体船に乗つて帰れるのは、乗船できるのは、船が出港できるのは一体何月からかということは私はお聞きしているのです。
  1243. 津村謙二

    證人(津村謙二君) これは昭和二十二年の三月のことでありまして、そのときにおいては三月の二十日の日本から船が入つて來るから最初の編成を組めと言われて、我々は組んでおつたのでありまして、あのときには船に十分乗り込みました。
  1244. 岡元義人

    理事岡元義人君) 港からは船は何月から出られるのですか。それをはつきり……。
  1245. 津村謙二

    證人(津村謙二君) それは私は分りません。少くも昭和二十二年の三月においては出ることができる。こう私は……。
  1246. 細川嘉六

    細川嘉六君 津村証人にお伺いいたします。民主グループというものは日本のおいても相当注目されておるグループですが、あれについては、旧軍隊に組織では兵隊が死滅して行くより外ないというので、そういうふうに立上つたということはさつきの説明で分りました。その後そのグループがどういうように発展して來ておるか、その仕事をしておるか、そのことをちよつと簡單に説明して下さい。
  1247. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 最初にいわゆる私がさつき話しましたように、收容所内において横暴を極めておつたところの曾ての軍隊の幹部が全部退いて貰つて、そうして御主グループが発生した。これからはいわゆる收容所内のあらゆる生活、日常生活、又労働と、こういうものに関してのすべての自主的な管理をやりました。又作業場においても、作業場も日本人にこれを任せられまして、作業場におけるところのあわゆる業務をすべてこの民主グループがやりました。そうしてこれは最後に反フアシスト委員会というところのものに変つて行きました。勿論これはそういうグループでありますから、若し收容所発におけるところの兵士達にいろいろなまずいことがあつた際においては、全部これは選挙で改選せられたり、辞めさせられたりするような工合でがつと持つて來ております。で私といたしましては、今の問題に関しまして、人民裁判の、こう皆が言つておるものにつきまして、私の側からの話を私はいたしたいと、こう思うのですが、議長殿のあれを伺いたいと思います。
  1248. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 もういいよ。
  1249. 岡元義人

    理事岡元義人君) 着席願います。淺岡君、先程の質問を……。
  1250. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 津村証人にお伺いいたしますが、あなたは一年二ケ月ナホトカにおられたそうですが、ナホトカの港は幾月から幾月の間結氷するわけですか。御存じの点を御証言願いたい。
  1251. 津村謙二

    證人(津村謙二君) ナホトカの港は、大体一月から二月にかけて凍ります。
  1252. 天田勝正

    天田勝正君 関連いたしまして、その結氷いたしますのは、碎氷船がきかない程度に結氷いたしますか。
  1253. 津村謙二

    證人(津村謙二君) それに答えますと、昭和二十二年の一月、あすこから第二回目の船が出ました状況について話すと、その答えになると思います。それは、二十二年の一月に、あすこを出たときの船は、ウラジオストツクの守備軍の艦隊から碎氷船が出て参りましてあすこのおいて道をつてけやつと出ました。
  1254. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 あなたは……ちよつと三点程質問いたしたいですから、簡單に。
  1255. 岡元義人

    理事岡元義人君) はい。
  1256. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 あなたは、日本に帰られましてから、今日までどのくらいお経ちになりますか。
  1257. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 昨年の六月の一日の舞鶴に上陸して、現在に至つております。
  1258. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと、第四十四回の対日理事会で、シーボルト議長の提案で、十六万帰すと、碎氷船を三杯廻すというようなことを、今日までお知りになつたことはありますか。ありませんか。
  1259. 津村謙二

    證人(津村謙二君) そういうことは新聞で聞いております。
  1260. 細川嘉六

    細川嘉六君 大分この問題から外れてですね。証人が述べ得ない、述べる資格のないものに、大分そういう問題に私らは当りかけておりますが、これはお互に慎しんだ方がよろしいと思います。
  1261. 千田正

    千田正君 時間も相当過ぎております。私は吉村隊長にただ一言伺つて私の質問を終りたいと思います。それは吉村隊長は、この三日間の召喚において、我々委員質問の最後の今日、十一名の証人の津村証人を除いた証人は、あなたが曾でウランバートルにおけるところのいわゆるノルマ超過ノルマ或いはその他に対しての処罰した行爲というものは、これは蒙古側の命名である、あなたは命令でということをどこまでも宣誓によつて主張された。十一名の他の証人は、一部は命令であるが、他は吉村隊長個人の考えによつてこれを実行した。こう述べております。これが今日まで三日間におけるところの証人を喚問して、最も最後に得た私の感じはそこの相違点にある。ただここに私はあなたに聞きたいのは、あなた以外の証人の諸君は悉く、一部の命令以外は殆んどあなた自身の独断によつて処置したと言うのでありまするが、あなた自身が更に本日は、本日までの召喚は期日のなかつた点と、あなたの旧部下であつた人達に対して、我々は証人を喚問する程調査も進んではおらなかつたのであります。十分なる行届きがなかつたかも知れんが、私一人として聞きたいことは、あなたが若し他の機会において、あなた自身の主張を裏付けする人間が、あなたの手によつて証人として挙げられることがあり得るかどうかということと、若しも何らの機会においてこの十一名の証人証言したことを、あなたがここに宣誓した僞りがないという、どこまでもあなたの主張する命令であつたということを確に証言する者が相当多数いるかどうか、あるならば、その姓名を伺つて置きたいと、こう思うのであります。
  1262. 池田重善

    證人(池田重善君) 自分としては、今全然連絡とかそういうことはありませんが、將來出て來るということを確信しております。
  1263. 岡元義人

    理事岡元義人君) 委員諸君にお諮りいたしますが、人民裁判の件は、非常に重大な問題でありまして、本日はこれで多少津村証人証言の中に、今まで得ました資料と相当喰い違つておる点もあります。月を改めて又審議をいたすことにいたしまして、この問題はここらあたりで打切ることに御異議ございませんか。    〔「異議なり」と呼ぶ者あり〕
  1264. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 今の人民裁判のことについてもう一度聞かして下さい。
  1265. 岡元義人

    理事岡元義人君) 簡單に一つ……。
  1266. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 先程の兵士大会の話、長谷川証人からの報告によると、壇上で民主グループの人が相当物を言つて、それから兵士の中で声が起つて、一人が起つと、一人が言うと、非常に呼應しておる、こういう状況と報告されてあるのですが、津村証人は事実は大体その通りですか。
  1267. 津村謙二

    證人(津村謙二君) グループが最初に説明をいたしましたのは、前の部隊において吉村と一緒の部隊におつたところの人達が我々に全部言うて、これで何とかして呉れと言うて、その告発書みたいなものを我々は読んだのであります。
  1268. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 もう一つ伺いますが、そのグループの人々が言うまでなかなか兵士の方から声が起らなかつた。そのなかなか起らなかつた理由は何だと考えられておりますか。
  1269. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 勿論それは吉村が現在まで取つて來たところのあらゆるものに対しての、いわゆる吉村隊におけるところの兵隊人達の彼に対するところの恐ろしさと、又無氣力にされておつたところのそうしたものであつたとこう私は考えております。
  1270. 細川嘉六

    細川嘉六君 本当に簡單だから一つ……。
  1271. 岡元義人

    理事岡元義人君) 細川委員簡單に願います。
  1272. 細川嘉六

    細川嘉六君 津村証人に伺いますが、このウランバートルから來た兵士の状態ですね、着いたときの状態はあなた御覧になつたろうが、そのときはどういう状態であつたか、それから又大会で先程証人の述べられたところによると、さくらが煽つたということを言われているが、それについてはつきりしたことを述べて下さい。
  1273. 津村謙二

    證人(津村謙二君) ウランバートルからの部隊がナホトカに参りましたのは、昭和二十二年の十月の末、確か二十七日頃だと私は記憶しております。この前にソヴイエト地区からの輸送が一時停止されまして、我々はこれで輸送が終つたのだとこう思つてつたのであります。そうしたときに、今までの貨車の二倍程の量を以てナホトカに來たのが、いわゆるウランバートルからの二千名の梯團でありました。これを私達はいつもの梯團と同じように、又仲間が來たというのであの駅へ駈けつけて、そうしてあれを迎えました。ところがその貨車から降りて來たところの人達は、全く我々が本当に驚くような、何と言つてこれを形容していいか分らないような状態を以てその人達は降りたのであります。それはその貨車から降りて全くふらふらで全然氣力も何もなく、やつとのことでナホトカに着いたというような状況でありました。これを我々が見ましてどういう……。
  1274. 岡元義人

    理事岡元義人君) 証人に、発言中でありますが只今細川委員のお聽きしたのはさくらがあつたかどうかという……。
  1275. 細川嘉六

    細川嘉六君 いや二つです。
  1276. 岡元義人

    理事岡元義人君) それでは発言を続けて下さい。
  1277. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 私達といたしましては、一体これがどういう原因であるかという点について疑問を持ちまして、そうして皆に私達聽きました。ところが彼らは一言もそれに対して答えていない。なぜか。こういうわけで、我々がその部隊の指揮者のような、いわゆるそうした栄養失調でふらふらしている人とは似ても似つかないところの頑丈な体を持つた指揮者が來ました。そうしたら、お前は階級は何だ、こうして我々はどなりつけられました。そうして初めてこの部隊がなぜこうしたものであるかということを知りまして、それを一應事務所に入れました。そうしたら、夜中になつて、そうしてその部隊の人達がどんどん我々の事務所に参りまして、実際は我々はこういう状態であつたのだ、こう言つて我々にすべて説明して呉れたのであります。丁度先程話しました通り、昭和二十二年の十月の末と申しますと、すべての所ではすでに民主運動で元氣になつております。我々は思いがけないところの、本当に思いがけないところのこうした姿をウランバートルにおいて見たのであります。それであの兵隊達もそうした夜中に我々を訪ねて來て、何とかして呉れと涙を流して、大きな彼らのすべての報告書を以てあの兵士大会は開催されたのでありますけれども、さくら、そういうものを我々は全然入れておらない。そのような人達が隣の二分所に行つて、二分所から自分から進んで参加して、そうして彼らは猛り立つて、あの吉村のあらゆる残虐のことについての口火を切つております。そうして民主グループのようなものも、勿論あの一分所に三十名内外のグループの人達がおりまして、それは参加しております。勿論これは一つ收容所の中のことでありますから、これは見るということはございます。そうして吉村がさつき話したところのものにおいては、彼が入つたのは、昭和二十二年の十一月の五日にナホトカに着きまして、そうして五日の二十二時頃に第一分所に入所しております。それから吉村が、さつき言いましたように我々の事務所に訪れて來ております。さつき宮本と申しましたが、この名前は誤りであります。又朝鮮人でも彼はありません。これはやはり同じグループの者で、村上という者で、私も同じ部屋において吉村自分で予め弁解に來たところのその言葉を聞いております。併しながらそれに対してさつき吉村が申しましたように、決しとそれを慰さめたり、そうしたものではありません。我々はすでにそうした吉村部隊の人達からの血の叫びを聞いておりました。明日の兵士大会において、我々に弁解するより大衆の前に十分に言つたらいいだろうとこう言つて、我々は彼を帰しております。そうして兵士大会が次の日開かれたのでありますけれども、これも我々は全部強制というよりもむしろ、この問題をウランバートルの兵士達と同じ我々は仲間としてそれに参加したのであります。その氣持が、長谷川証人のように分らないで、そうした氣持になつた人もあつたことを、我々は非常に我々の行動に対して遺憾に思つておりますけれども、これをやつた際においても、吉村はさつき自分一人の責任であるからと、こういうような大きな見栄をきりましたけれども、そのときには彼はいつまで経つても出て來ない。そうして二分所から参加したところの吉村の部隊の者達に怒鳴られてやつとのことで彼は前に現れて來ておる。そうしてその態度にしても、非常に卑怯な態度であつた。我々の前に、何も言わないのに、自分で最後に上衣を脱ぎ、そうして全部脱いでやろうとしたが、我我は外套だけ脱げばいいんだとこう言つて、彼に話しております。そうしてすべてを認めたことに対しても、本当にしおらしい態度で以て、それは全部の人に対して謝罪した筈であります。そうして覚醒隊にやられた、とこう言つておりますが、その覚醒隊というのは、ウランバートルの千田少佐がその名前を附けたのでありまして、彼が自分自身で今までの惡かつたことを認めて眼を醒まして行くという意味で、自分達で附けたのでありまして、むしろ彼らの待遇は外の人達よりもよく、幕舎に入つておるところの人数が十二、三名でありまして、非常にゆつくりした氣持で入つていた筈であります。そこに私が行つてそうして話をいたしました。これが吉村が、私が共産主義教育をしたとこう話したところのものでありますけれども、幾ら私が馬鹿であつても、人殺しに対して共産主義教育をするという程の私は人間でもなし、又共産主義というものの眞実も私はナホトカにおいては全然知らなかつた。そうして……。
  1278. 岡元義人

    理事岡元義人君) 証人に御注意しますが、非常に時間も経つておりますので、細川委員の御質問に対しては十分にお答えがあつたと思いますから、一應発言を止めて頂きたいと思います。
  1279. 天田勝正

    天田勝正君 重要な点について……。
  1280. 岡元義人

    理事岡元義人君) 尚各委員ちよつと、委員長として御了解得たいと思いますが、証人は汽車の関係等がありまして、非常に時間が制約されておりますので、その点御了解をして頂きたいと思うのであります。天田委員、簡單に御発言願いたいと思います。
  1281. 天田勝正

    天田勝正君 先程來の各証人証言で、第一分所に移るとか、第二分所に移るとか言われております。それが何だか、何か段階を踏んで卒業するかのごとく表現されておりますけれども、この点に関して、一体この第一分所を通つて第二分所、更に第三分所という段階を経なければ、帰るという段階になるのかならないのか。この点について特に阿部証人証言を求めます。
  1282. 阿部忠

    證人阿部忠君) これらの直接的の管理をやつておりませんでしたから、分りませんが、時間がないので早口で喋べりますが、第一番には先ず着いた人を受入れる、それだけが第一分所で、消毒とかいろいろ各種の工作、次の仕度のために第二分所に移る。それから完全に消毒が済んで各所に入る所が第三分所で、第四分所は完全な船待ちであります。日本から船が來たならばいつでも乘せてやるという態勢で置く。そういう決め方でありまして、教育的に参考文書や図書館がありました。但し結局共産主義教育を受けた覚えはありません。ただそれからもう一つ、私が申添えて置きたいのは、兵士大会の例について、私達が耳障りになつている一つであります。それは諸君達がこうした自分達の力によつてカンパによつて自分達のうちの惡者を摘発できるんだ、諸君達が内地へ帰つても、こういうことをこういう方法でやれということを言われましたことは、取り方によつては各種各樣、思想的な立場においていろいろな見解を生ずると思いますが、とにかくそういうように私達にとつては非常にアジであつた。或る人は教訓であつたかのように取つたかも知れません。それから特別に一つ申上げたいのは、船に乘るときに、共産主義そのものを礼讚する意味ではありませんが、共産主義のロシアを毆歌し、又感謝し、從つて日本に帰つて又それらを宣傳する、実践するという誓約書を書いて堂々と宣誓しなければ船に乘せられないらしいのです。私共もやらせられました。或いはこれは國際的儀礼かも知れません。或いは二年間俘虜であつて、その間世話になつたという意味で……或いはカムフラージユするために委員の方々がそういう取り方をやられているのかも知れません。その内容は分りませんが、私達はとにかくそういうものをさせられて船に乘せられた、こういうことは事実でございます。
  1283. 岡元義人

    理事岡元義人君) 分りました。時間の経過いたしましたが、先程述べました通りに人民裁判の件につきましては、その方法が合法的手段であるかどうかというような問題は十分檢討されなければならないと思いますので、他日に讓ることにいたしまして、本日の質問はここにて打切りたいと思うのでありますが、この三日間十分各委員におかれましては愼重に審議を進められまして、やがて速記録もでき上ると思いますので、その速記録等によつて委員会に諮りまして、この結論を出さなければならないと思うのでありますが、この際証人の方で特に当委員会に対しまして、我々の同胞が尚四十五万残つておるわけでありますが、この四十五万の同胞をみんな待つておられる家族の方々のことを殊に思いを皆さんも馳せて頂きまして、どうすれば無事に帰つて來て呉れるかと、その点につきまして当委員会に何か参考になる、これだけは是非述べて置きたいというようなことがありましたならば、証人から、発言を許しますから、発言を求めて下さい。
  1284. 阿部忠

    證人阿部忠君) 露港から船に乘るとき、夜になつて船が着けられないと言つて船を着けない。ところが船に乘つて聞いてみると、そうではない。こつちでは着けようと思つても着けさせないのだということで、そのように、私に言わせれば━━━━━━━━直接行動は命じますが、目的も何も分らない。飽くまで協力的に日本の皆さんの手で促進運動をやらなければ、━━━━━━━━我々の蒙古等における実情でも、━━━━━━━━我々は感じて來たのです。ですから、皆さんから積極的に起つて一日も早く同胞を帰らすようにもつと盛大な運動を展開して頂きたいことを切にお願いする次第であります。(拍手)
  1285. 津村謙二

    證人(津村謙二君) ソヴイエトが━━であると……(「理論を聞いているのじやない」と呼ぶ者あり)そういう理論じやありません。私は今まで三日間呼ばれて、最後に私の氣持をここの述べたい。この引揚促進の問題に関しては、私は帰つて來てから一年間ずつてつておりますが、この問題に関してここでお話したいと思います。
  1286. 岡元義人

    理事岡元義人君) ちよつと証人に申上げますが、何か委員長発言を制約するようですが、時間の関係もありますので、当委員会にああしたらいい、こうしたらいいというような教えて下さるようなことがあつたら、述べて頂きたいということを諮つておるのでありますから、その点をお含みの上、簡單に述べて頂くようにお願いいたして置きます。
  1287. 津村謙二

    證人(津村謙二君) 私はソヴイエトからの引揚げはいわゆる詰らない先入感を以てこれに対するということは、眞に引揚問題を遅らせる、こう私は考えております。この点に関しましても、現在この委員会に私は呼ばれまして、そうして今もナホトカに残つて、我々の仲間が同じ日本人のためにやつております。それに対して思想的な背景があるのじやないか、いわゆるこぢつけを以て内地において、眞の日本人同志で、愛國者としてやつているところの者に対しての、各引揚対策の特別委員会、こうしたものにおけるところの空氣というものを、これが非常にこぢつけを以てやつて來ているということを私は感ずるのです。これは先般の日本の、いわゆる向うに残つているところの人達、これに対して眞に彼らを日本に暖く迎えるということを、これを先ずこの委員会人達に眞劍に考えて貰うこと。そうしてあつちが惡い、こつちが惡いということではなくて、日本人自身のこれは問題であつて、この点に関して私は委員人達が、中には引揚げて來られた人もいる筈である。この人達が眞劍に向うにいるところの人達を考えて、いわゆる政治的にとか、これをいわゆるソ連が惡い、あつちが惡いというふうな方向にこれを持つて行こうとするのは、むしろいわゆる連合國の心証を害して、我々自身の眞に欲するところのものを求め得ないという結果になると私は憂えております。委員人達がこの問題に関しましては、いわゆる日本人自身のソヴイエトに抑留せられておるところの人達に対する氣持を、いわゆる一方的にこれを持つて行こうかどうかということでなく十分に今後頑張つて頂きたい。我我も民間においてこの引揚問題に関しましては、命を棄てて最後までこれをやるということをここでお約束して私の話を終ります。
  1288. 岡元義人

    理事岡元義人君) 了承いたしました。お聞きいたして置きます。  これにて委員会を閉じたいと思います。両三日間に亘りまして、各委員証人におかれましては、遠い所からわざわざ國会へ出向いて頂いた方もございます。誠に長い間御苦労さまでございました。厚く委員長からこの点について労を多といたして置きます。これにて本日の委員会は閉会いたします。    午後九時二十八分散会  出席者は左の通り。    理事            天田 勝正君            草葉 隆圓君            岡元 義人君            星野 芳樹君            鈴木 憲一君    委員            淺岡 信夫君           池田宇右衞門君            水久保甚作君            小畑 哲夫君            木内キヤウ君            北條 秀一君            穗積眞六郎君            矢野 酉雄君            細川 嘉六君            千田  正君   証人            池田 重善君            笠原金三郎君            原田 春雄君            酒井 一郎君            鎌谷 參司君            君島甚五郎君            長谷川貞雄君            阿部  忠君            堀金  榮君            酒井 幸次君            小峰 光治君            清水 一男君            津村 謙二君