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1949-04-13 第5回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第16号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十四年四月十三日(水曜日)   —————————————   本日の会議に付した事件吉村隊事件  (右事件に関し証人証言あり)   —————————————    午前十時十四分開会
  2. 岡元義人

    理事岡元義人君) では只今から委員会を開会いたします。
  3. 天田勝正

    天田勝正君 議事進行について……。昨日池田隊長になりし経過の途中で散会したのでありますが、この項につきましてはまだ質問の留保されてある方もありますので、この一項だけは済ませまして、後の第二即ち設備、特に季節との関係、第三外蒙側ソ連と捕虜との指揮系統との関係、第四の作業の状況、第五食糧、第六医療施設、疾病の種類及び死亡率、これらの点に関しましては一括いたしまして、一証人が出頭いたしましたならば、その証人に関して、この以上の点を全部証言を求める、このような方法にいたしまして、議事進行を図りたいと思います。右動議を提出いたします。
  4. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 動議に賛成します。    〔「賛成」と呼ぶ者あり〕
  5. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今天田委員からの御発言動議に御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  6. 岡元義人

    理事岡元義人君) それでは昨日に引続きまして、第一の收容所に至るまでの経過並び池田証人隊長となりし経過につきまして残つております証人を呼ぶことにいたします。先ず阿部証人から呼びます。
  7. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 証人は全部出席しておりますか。そういうことは調査してありますか。
  8. 岡元義人

    理事岡元義人君) 全部出席しております。……証人に特に長谷川部隊長が退けられまして池田隊長がこれに代つて経緯について知つておられる範囲において詳しく証言を求めます。
  9. 阿部忠

    証人阿部忠君) その件については全然知りません。なぜならは昨日も申上げた通り私達が轉属した時にはすでに帰還前、あしかけ三月の間でありまして、私の実在しない時でありますから、申上げることができません。
  10. 岡元義人

    理事岡元義人君) では阿部証人退席を願いまして、清水証人……。証人に予め御注意申上げておきますが、発言の時には委員長とお呼び願いまして、そうして発言を求めて頂きます。証人お尋ねしますが、長谷川隊長池田隊長と更迭された、その経緯につきまして、あなたが知つておられる範囲において述べて頂きます。
  11. 清水一男

    証人清水一男君) 私は池田証人行動を共にしたのは昭和二十年の十月の二十五六日頃ホジルボロンという收容所に移されました、そのときに各特業者によつて收容されるところを別にされました。私は縫工特業者製パン特業者一緒に第一收容所というところに移されました。それでそのときに長になつたの池田証人であります。それからそこで約二十日ぐらいと思います。が、そこに池田氏を長として收容生活をしたのであります。そのときに約一週間の間に百名五十名と轉入して來て、そこに長がおりました。それは少尉名前を忘れました。そのために池田氏は曹長であつてその少尉指揮下に入らなければならない。で君の部下も私の指揮下に入れろ、君は指揮班に入つて呉れと池田氏は頼まれました。で私はそのときに炊事班長を命ぜられました。それで約十日ぐらいと思いますが、百人の轉属を命ぜられたのであります。そのときに池田氏が長となつて百名を率いて轉属することを申出でておりました。そのときに憲兵で私と行動を共にしたのは外囿准尉という方と、北海道の宮本清兵長であります。それと神之戸兵長とそれから私と四人が青龍憲兵隊の者だつたのであります、それで池田氏は確か東満の方から特警隊を編成するために承徳へ來た者であつて、私は余り知らない人なのであります。そのときに池田氏は外囿准尉殿に頼んで、憲兵はいないのだ、自分に二人貸して呉れんか、一緒に行きたいと言われて、外囿准尉殿は三人いるうち誰か池田について行つて呉れと言われて、誰にするかと言いました、外囿准尉殿は自分は誰か一人残つて呉れればいい、あと二人行つてつて呉れ、清水池田炊事をやつて貰うためにどうしても連れて、行きたいという願いであるから、清水行つて呉れと私は頼まれました。それではというわけで宮本を連れて私たちは池田氏の指揮に入つて百名のうちに入り轉属をしました。そのときに池田氏は自分曹長であると、この際私の考えでありますが、百人をよき條件にするには自分少尉階級をつけなければならんということを観念したのではないかと思います。それで大学收容所に移るまでの間に胸に少尉記章をつけました。後一人東原曹長という人があるのでありますが、その人と二人が長になつて來ました。両方共少尉階級章をつけて大学收容所行つたのであります。それから大体大学收容所春部隊主力とした約八百名くらいと思いましたが、そこへ轉入して行つたのでありますが、そのときに我々は朝食を食べて轉出して行つたのでありますが、その春部隊主力とする部隊では朝食も食べずにおつたのであります。それを吉村氏は、何だ、あなたの所では朝食も食べてないのか、我々は晝食も食べる。そのときは携行して行きません。晝食は後で取りに來いと言われてそのまま行きました。我々は晝食も後で取りに行けるようになつておる、それは長の交渉がうまく行つていないのではないかということを主題にして、私が糧秣のほうの交渉人のようなことをやつてもいいということを向うの長に言つたと思います。それで私は又そこの百名の代表として炊事の一員として勤務をしました。が併し又そこで約一週間を以て轉属を命ぜられたのであります。そのときに我々の部隊百名とそれから春部隊の中の二百名と三百名になつてコンピナードの北の兵舎に移りました。そのときに初めて吉村隊というものができたのであります。長谷川隊長指揮するほうが南の兵舎で、我々は北の兵舎であつて、まん中にエンピナードという会社を挟んで、作業場は北の兵舎も南の兵舎の者も同じであつた。その当時收容所長は北の兵舎と南の兵舎を兼任していたモジックという收容所長でありました。通訳はエリッチ・サンボーと申します。その当時私達はそこの收容所へ入つたときは、モジックという收容所長はとても恐ろしい人間に感じました。それから約十月くらい、日時ははつきりしませんが、その当時起床をさせるのは炊事で命ぜられてはなかつたが、便宜上炊事起床をさせておつたのであります。そのために時計が必要であつて、図らずも鶴亀という者が優秀な腕時計を持つておりました。それを炊事で借りて、それに基いて起床、飯あげの時間を決めておつたのであります。それを池田氏に先に見られたか、モジック氏に見られたか、それははつきり記憶はありませんが、とにかくその時計モジックにくれということを言われました。これは鶴亀という人に借りたのであるから我々には分らんということを言つたのでありますが、結局金品と替えてくれというわけで、それに、立会つたのは、私の炊事にやはり働いていた小峰というものが立会つて鶴亀時計隊長に渡した。そうして結局モジックにその時計渡つたのであります。その品物と金は幾ら渡したか、それは私には分りません。で大体その頃から池田氏は段々吉村々々とモジックに言われていろいろ注意をされおりましたが、最初のときとその頃とのモジックが、吉村に対しての折衝振りが緩和されたということは事実であります。私の知つておるのは大体そのくらいであります。
  12. 岡元義人

    理事岡元義人君) 証人に尚私が求めました長谷川隊長吉村隊長と代る経緯について、それが命令であつたかどうかという点について、証人から特に知つておられる範囲において詳しく述べて頂きたい。
  13. 清水一男

    証人清水一男君) 私は池田氏と長谷川氏との間に靴工場においてのいきさつがあつたということを傳聞しました。それは池田氏は作業本位として体を二とするということと、長谷川氏は体を本位として作業を二とするという意見において意見喰違つて、結局モジックの心証を害して、長谷川氏が反感を持たれたということを傳聞しました。そのぐらいでありました。
  14. 岡元義人

    理事岡元義人君) 命令であつたと思われるというのですね。
  15. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 吉村隊長吉村君がもう一人の方と少尉になつた、そうしてその記章をつけて新しい收容所向つたわけですが、その吉村君ともう一人の人が少尉記章をつけて行つた場合に、あなたの知れる範囲においてそれは面々勝手に自分少尉になつたのですか、或いは上官なら上官命令を受けて、いわゆる昇進したのですか、これについてお答を願います。
  16. 清水一男

    証人清水一男君) それは私の判断で言いますと池田氏独断でやつたことと思います。それでそのときに清水軍曹になれと言われたと思いました。で自分炊事軍曹として百人の代表として炊事勤務をしました。
  17. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 更にお尋ねしますが、ああいう場合、ああいう特別の環境に置かれておるので、或いは軍曹曹長になつたり、或いは准尉少尉になつたりするようなことが、今申されたように平氣でそういうようなことが行われていましたか、ただ一つの、そういうような問題を特例と見るべきですか。その間の御事情を御説明下さい。
  18. 清水一男

    証人清水一男君) 我々は停戰と同時に兵器をソ連側に渡しましたが、軍隊というものは解散したということも別に聞いておらんでした。結局統率階級というものを重んじたと思いますつその間結局半分軍隊というものは解放されたような立場にあり、又統率階級というものを重んじました。階級が如何にまだ重きを持つていたかということを私は判断します。そのために便宜上階級というものを上げたならば條件もよくなると、下士官指揮して行つた百名と、將校指揮して行つた百名と考えた場合に將校が……。
  19. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 ちよつと発言中ですが、私がお尋ねしたのはそういう問題ではなくて、そういうような軍曹曹長になつたり、或いは准尉少尉になつたりするということが、あなたが軍曹になり吉村君が少尉になるというようなことが、ただ一回あなたとしては見聞したことですか、ああいう環境に置かれていたので、そんなことが平氣で行われておつたか、一つの習慣的になつてつたかということだけのお尋ねですからそれにだけ限つてお答え下さい。
  20. 清水一男

    証人清水一男君) 各收容所でこういうことはやつておりました。
  21. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 やつてつたというのですね。
  22. 清水一男

    証人清水一男君) はあやりました。
  23. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 それから最前委員長からのお尋ねに対して、いわゆる長谷川隊長が罷免されて、そして吉村君が隊長となられたのはいわゆる蒙古側がそういうふうに見て、蒙古側の一方的意思によつて決定せられたのであるというような御陳述でしたが、吉村君自体が何かいろいろな方法を講じて、そして自分から隊長になろうとしたような事実、或いはあなたのお耳に入つたようなことはないのですか。
  24. 清水一男

    証人清水一男君) ……。
  25. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 なければ結構ですが、記憶を辿つて見てもそれが再現されないわけですね。
  26. 清水一男

    証人清水一男君) はあ。
  27. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 それから最前の御陳述の中に、長谷川隊長殿と言われ、一方においては吉村とか、池田氏とかいうお言葉での表現がありましたが、どういうふうですか。あなたの感じは……。
  28. 清水一男

    証人清水一男君) それは誤りです。(笑声)
  29. 千田正

    千田正君 清水証人にお伺いしますが、吉村隊変つた場合において、変つたということをあなた方に通告する場合には、全員集めて通告されたのですか。或いは通訳を以て傳達され、或いは文書によつて告知されたかどうかという点と、そうした場合において長谷川隊に所属しておつた人達の中において、不穏な氣分が起きたかどうか、昨日証人からいろいろ証言がありましたけれども、あなた方の立場において或いは周囲におつた兵隊さん達の氣持において動揺があつたかどうか、或いは吉村に対する反感とか、そういうような不穏な空氣があつたかどうかという点について……。
  30. 清水一男

    証人清水一男君) そのことは吉村隊長全員の前で、今日から旧吉村隊の者も長谷川隊の者も全部私の指揮に入つたのだということを言つたと思いました。それに反して旧長谷川隊の者で不満を感じたということは確かありました。それだけです。
  31. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 只今清水証人の御答弁の中に、そういう集めて池田氏が話しましたときに、訓示か何かそういう話を用いられたか。言葉を換えて申しますと、我々は敗戰だがら大いに労働をやらんならん、それには少々の犠牲を出してもいい、そういうような意味の内容でも持つた、何か新らしい訓示があつたかどうか、この点を一つ伺いたい。
  32. 清水一男

    証人清水一男君) そのことは、全員が集合したときに、私は炊事関係であつて、移動と同時に炊事の釜やなんかを持つて來なければならん関係で、私は列席しませんでした。
  33. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 もう一つこの機会に伺つて置きたいと存じますことは、清水証人憲兵であつたかどうか。
  34. 清水一男

    証人清水一男君) はあ、憲兵であります。
  35. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 そうすると清水証人は変名をせないでも危険を感じられなかつたかどうか、こういう点を一つ伺いたい。
  36. 清水一男

    証人清水一男君) それは承徳において武装解除を受け離宮に收容されました。そのときに特務機関下士官と、それから特警下士官と、憲兵下士官下士官は全部一つ兵舎に收容されました。そのときに憲兵特務機関の者を当時八路軍が侵入して來て、首実驗に來るということを聞き、みんな名を隠しました。それは確か名前は忘れましたが、上からの命令であつたと思います。それで私は小牧という名を出しました。
  37. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 もう、一つ、先の矢野委員からの御質問のお答えにありましたが、いわゆる階級を当時よく変えた、現に池田君は少尉記章を附けた。その後証人がずつと池田証人一緒になつておられる間に更に少尉から中尉中尉から大尉というように変つたことがあつたかどうかということをお伺いしたいのであります。
  38. 清水一男

    証人清水一男君) 吉村隊長殿はそういう事実はありませんでした。少尉になつて吉村隊長谷川隊と合流しても、轉属の中に將校があつた場合には、將校の方は例外といつて訓示することはありました。自分から中佐、少佐となつたということを私は聞きません。
  39. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 そうしますと、池田君はずつと少尉という立場で最後まで通つて來たかという点を一つ
  40. 清水一男

    証人清水一男君) 又訓示するときに、自分階級兵隊に私は少尉であると言つたことを聞いたことはありません。ただ隊長としてのことを言つたと思います。
  41. 千田正

    千田正君 清水証人に尋ねますが、今の池田隊長訓示する場合は、いつもそれはソ連側命令であるということを冒頭において訓示をしたかどうか。初め先ず第一に、長谷川隊と合流して吉村隊を編成する場合も、最初からこれはソ連命令によつて自分隊長指揮を取るという訓示を與えたのかどうか。  次には、長谷川隊吉村隊とが合併した際に、組織替えをするというようなことがあつたかどうか。北の收容所と南の收容所と分れておつたようだが、それを混同して組織を替えて、一括してやると言つたのか、それとも從來の通り長谷川隊長谷川隊吉村隊吉村隊として、作業その他について指導をして行つたかどうか、その点についてお伺いいたします。
  42. 清水一男

    証人清水一男君) 吉村隊長全員を前に訓示したときは、私は立会つて列席していなかつたのでありますが、ソ連の命によつて……蒙古政府の命令によつて言つたということを聞きまた。
  43. 岡元義人

    理事岡元義人君) 外に……(「進行」「まだまだ、答弁が残つておる」と呼ぶ者あり)
  44. 千田正

    千田正君 組織の混同をしたかどうか。全然長谷川隊と、吉村隊と分れてやつてつたかどうか。
  45. 清水一男

    証人清水一男君) 旧吉村隊の隊員が長谷川隊に合流するときでありますが、吉村隊兵隊を收容する棟がないのであります。そのために、炊事の上に二階が空いておつて、それは全然周りが囲いがないので、屋根があつたのであります。それにトタンを打ち附けて、そこに吉村隊兵隊は大半收容されました。長谷川隊の者と旧吉村隊の者と混ぜて編成替えをしたということは最初はなかつたのであります。
  46. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 清水証人お尋ねしますが、吉村隊並びに長谷川隊、この両隊長が……向うにとにかくおられるあなた方初め全員の人は、一刻も早く帰りたいということは、朝から晩までそこに思いをいたしたことだと思いますし、又それ以外の問題は食事、そうした問題に対して、長谷川隊長吉村隊長との差違いろいろな訓示を與えたり何かした場合に、そうした問題を訓示したことがあるかどうか、あればその差違如何。簡單でいいです。
  47. 清水一男

    証人清水一男君) 我々は帰れるかどうか分らんと言つてつたと思います。
  48. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それはどちらか。
  49. 清水一男

    証人清水一男君) 池田隊長が……。
  50. 岡元義人

    理事岡元義人君) 外に御質問がなければ、(「進行」と呼ぶ者あり)第一の項目にこれにて打切つて異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕    〔この時細川嘉六発言を求む〕
  51. 岡元義人

    理事岡元義人君) は、細川委員
  52. 細川嘉六

    細川嘉六君 前日の池田証人証言に対してまだ質問が残つていますから、お呼び出しをお願いしたいのであります。
  53. 岡元義人

    理事岡元義人君) では清水証人退席を願いまして、池田証人
  54. 細川嘉六

    細川嘉六君 池田証人にお願いしたいのは、あなたが憲兵であることを、外蒙側に隠しておられて、それがずつと隠しとおせましたか。
  55. 池田重善

    証人池田重善君) これは昭和二十一年の八月の三日だつたと思います。ゲペウコンゴール中尉がお出でになりまして、作業場ちよつと行こう、こう言われたものですから、作業場に、建築場の方に……、最初どこの作業成績が一番惡いか、こう言われました。そこで建築場が少し今惡いと言いました。それではそこの檢査に行くからと言つて家の角を出ましたときに、丁度材木工場の壁のところに箱の自動車が來ておりました。それに乘せられまして行つたところが、ウランバートルの市のゲペウン本部に連れて行かれました。そうして最初バツタ大佐でありますが、これは年齢五十ぐらいの方がおられまして、私の経歴について聞かれました。やはり型通り経歴について聞かれました。そうして私がやはり前に言つたように、歩兵曹長吉村重善と書いて、そのときはフサヨシと読んでおりました。そうするとそれは違う、君はとにかく隠しておることがあるからと言つて、そこで拳銃を出されて本心を言わなければこれで殺すからと言われました。その場で私は全部裸体になりまして、どうせ連れて來ておられるのですから私は絶対嘘を言つていることはありません。それではあと証人を連れて來るからと言つて、裏の方に留置場が二間になつております。その一号の部屋に入れられまして待つておりました。そうして午後三時頃に再び出されまして、又取調ぺを受けました。ところが私が憲兵……今の内地からずつと振り出して、漢口東寧寧安、承徳に至るまでの詳しく書いた紙が來ております。それは名前は出ておりませんが……。そこで八月の四日だと思つておりますが、そこで暴露いたしました。
  56. 細川嘉六

    細川嘉六君 暴露されたというのは、あなたは憲兵であつたということを承認したわけですか。
  57. 池田重善

    証人池田重善君) そのときは紙を見せられましたので、服を着まして、一應敬礼しまして、どうも済みませんでした。それでもうあとは如何なる処置をもして貰いたいと向うの方に申しました。
  58. 細川嘉六

    細川嘉六君 あなたはそのとき何か自分立場について弁護はしませんでしたか。
  59. 池田重善

    証人池田重善君) 弁護はしません。
  60. 細川嘉六

    細川嘉六君 今申されたことだけしか言わなかつた……。
  61. 池田重善

    証人池田重善君) そうです。
  62. 細川嘉六

    細川嘉六君 そういう場合に他の隊においては現職のまま残つている筈がない。必ず刑に処せられるのであるが、それがあなたの場合に現職のまま残つたというのについては何か……。
  63. 池田重善

    証人池田重善君) 現職と言いますと……。
  64. 細川嘉六

    細川嘉六君 隊長……。
  65. 池田重善

    証人池田重善君) その件について申上げます。私は將來について何か希望はないか、こう言われました。私は何も希望はない、それで私としては現在隊長をやつておりますが、とにかく隊長よりも自分希望としては、自分は炭坑の技術を持つておりますし、あそこの鉄工所でもどこへでも入れて呉れないかと申しましたが、ところが私は今方針について昨日書きましたように眞面目にやるということが指導方針に書いてありましたから、蒙古側においてあなたの採つている方針と、現在の何か今の蒙古國の方針相似通つたところがある。これであなたが眞面目に現在までやつておることを認め、もう一度帰つて隊長としてあなたしないか、こういうような意見も出ました。そこで私は一應この場で……、その当時は今までの各隊將校の方共に非常に反動的な昔の軍隊の何といいますか、將校に対する攻撃とか、これが非常に起つて参りました。民主主義的な運動が叫ばれるようになりまして、非常に各隊とも乱れるようになつて來ました。そこで私としてもこの際隊長を引いて、個人として責任のないところの仕事がしたいというような希望を持つておりましたから、そこで申しましたら、とにかくもう一度帰つてやれ、お前の友達も部下もおるから帰るようにと外蒙で言われて就任したというようなわけなのです。
  66. 細川嘉六

    細川嘉六君 外蒙ではそういうようなことがないということを言われておりますが……。民主運動がなかつたという……。
  67. 池田重善

    証人池田重善君) 民主運動ということはありませんでした。ただ私の考えとしてはそういうものではなくて昔の反動というものが結局蒸返して來たんじ、やないか。昔の旧軍隊制度の欠陥が現われて部隊の騒動が起つたんじやないかと私はこう見ておりました。
  68. 細川嘉六

    細川嘉六君 その点はそれで了承いたします。そうすると、あなたの場合憲兵であつたことが、ばれた場合に起こる普通の場合と違つて、特別の場合だと見られますね。
  69. 池田重善

    証人池田重善君) はあ。
  70. 細川嘉六

    細川嘉六君 それから監督將校モジック中尉ですか、あの人があなたが隊長つてつたうちに收賄罪で裁判に引つ張られたことはありませんか。
  71. 池田重善

    証人池田重善君) あります
  72. 細川嘉六

    細川嘉六君 その場合あなたは弁護に立たれたということはありませんか。
  73. 池田重善

    証人池田重善君) 立ちました。それは昭和二十二年四月二十三日であります。
  74. 細川嘉六

    細川嘉六君 そうすると、その收賄ということはどういうことなんですか。
  75. 池田重善

    証人池田重善君) 收賄でありません。横領であります。
  76. 細川嘉六

    細川嘉六君 それは事実はどういうことでありますか。
  77. 池田重善

    証人池田重善君) その事実について詳わしく申上げますが)モジックという人は非常に日本人からも恐れられたような嚴格な方であります。そうして昭和二十年……、これは長谷川さんが出られてからでありますが、木材運搬のことを言うて來ました。そのときに一本に対して二円くれるからという、それで部隊の方に言いましたところが納得しまして千九百八十本というものを運搬いたしました。そうして丁度それが革命記念日だと思つておりますから七月の……、いや革命記念日後でありまして七月中句頭ではないかと思つております。そうして運搬が終りましたものですから、私が一應金請求に参りました。そのときエリッチサンボーという通訳を連れて一應金を取つてくれ、約束を守つてくれというふうに言つて参りましたところが、モジック中尉は私に対して幾分なりとも金をくれないかというような意見を出しましたが、私はそれははねつけて來ました。ところが八月の十日でありました、私に今日金を取つて來るから領收書を書いてくれと、このように言われました。それで私は千九百八十本三千九百六十円というものの領收書を書いて彼に渡しましたが、そこが失敗の因で、彼がそれを受取つておるのかおらないのか、私が再三請求いたしましたが、会社の方に金がないからもう一時待て、もう一時待てというように言われまして、到頭九月まで延されました。それで私がおかしいというところからエリッチサンボーを連れて会社の方へ行つたが、彼がそれを取つて使つている。それから私はそのままで帰つて、直ぐに本人に金は君が取つたじやないか。返してくれと言いましたが、本人最初つておらないと、大分言つておりました。それじや私としてはしようがないからゲペウに言うと、そう言いましたところが、本人は一涙を流して私に、どうも私が済まなかつた、家に子供が五人もある、それに妻のお父さん夫婦もおる、その外に自分の親子兄弟もおつて、お母さんと子供が今病氣で寝ているのだ、そのために金が要るので、何とかしてここを堪えてくれと、涙ながらに私に申しました。私も惡いとは思いながら、それに対して、それじや自分として許せることじやないけれども、仕方がない、今後においては君もそういうような將校の恥になるようなことはしてくれるなといつて、そして許して置きました。ところが次に今度は鉄道工場の使役がありまして、一車輛に積むのは一杯十円ということであるから、私がこれをやらしてくれと、鉄道側の方へ行つて私からこう言つて來ました。それで私としては司令部の命令つたらやるが、司令部の命令でない以上は出せないから……、それじやといつて兵隊の方で納得しておるからさせたらいいじやないか、こういうふうに來ました。それで私としては前のことがありますから、とにかく金の問題についてしつかり決めなければならないから、私としてはそれはできないと、とにかく司令部の方が誰か入らないとできない。で司令部の方の判を押した指令書を持つて來まして、これでやれ、こう言つて來ました。そして八月分一ケ月分百八貨車積みました。それで私として取るべき金が千八十円あるべき筈であります。それで九月分十五日か十六日かと思つておりましたが、請求に行きましたところが、直ぐに行つて彼が帰つて來ました。そうして私に、今度私は領收書は書きませんでしたが本人が受取つて参りました。そして貨車一杯積めというのを兵隊が八分しか積まなかつた。ところがそれで半分、五円しか呉れなかつたと言うものですから、私として兵隊の方にどうだつたのかと聞きましたところが、現場監督は貨車が傷むから八分積めばよいのだといわれたというのですが、本人はこういつておるのだ、会赴ではこうだ、私はそれを事実と信じまして渡されたところの五百四十円を瀬古という鉄道隊の現場監督をやつておりました軍曹にそれを渡しました。第二回目に又九月分を十月半ば頃に請求いたしました。そのときは九十七貨車それに積みました。そうしてそのときも今度は五円ずつやはり八分ずつ積んで今の半分持つて参りました。四百八十五円持つて参りましたので、やはりそのときも丁度当時の現場監督の瀬古軍曹に渡しました。それだけ発覚しておりましたが、今度昭和二十二年モジック中尉が再びアマグロン收容所の方から轉属して参りまして、來るが早いが私に金があれば貸して呉れんかと言いました。それであなたはとにかく余り虫がよすぎるじやないか。とにかく私は俘虜ですけれども、それだけあなたに個人的にけなされる必要はないじやないか。こういつておりました。丁度そのときに今の保安所を作るために板を運搬して、一枚、二枚と建築場においてあるのを持つて來ました。その板に目をつけて、これはまともに持つて來たのじやないだろうから、持つて帰るからと言つて、三分の二くらい彼の知らない間に持つて帰りました。それで私としては余りに遣り方が残酷なので、昭和二十二年四月一日か二日だつたと思いますが、ゲペウ本部まで参りまして、今のコンブール中尉に面会を求めまして、その実情を話しました。ところが直ちに司令部の方から調査が始まりまして、党代表の方も全部参りまして、取調を受けました。ところが私の給料の一部と、それから今の麦粉、これの横領全部で金額が六千円余りの横領罪で、四月二十三日原田通訳と二人で軍法会議に呼ばれまして、それで法廷で彼は横領罪と、職権の濫用、それから將校威信失墜、この三罪によりまして重労働五ケ年それから階級の剥奪、この判決を言い渡されました。終ります。
  78. 細川嘉六

    細川嘉六君 このモジック中尉というのはあなたが先日問題になつた時計をおやりになつたその中尉でありますね。
  79. 池田重善

    証人池田重善君) はあ。
  80. 細川嘉六

    細川嘉六君 あなたとは大分実懇の間らしいが、それから又それがためにいろいろな難題を申されたように見えるが、初めは実懇だつたが、後々とそうなつて來たのですか、その後大分変化しておるようですが……。
  81. 池田重善

    証人池田重善君) お答えします。その点は兵隊の誤解の点があると見ております、が、私は時計はただでやつておりません。彼がこれは鶴亀千代吉という者が夜光時計を持つておりました。それに目をつけて彼がこの時計を百円で讓つてくれないかということで私のところに参りました。それで本人に打診してみましたが、百円ではとても呉れないということですから、当時私は俸給を百円貰つておりましたが、本人はどうせ頑張つて時計は全部引上げられるのだから、とにかく今出した方がいいからというので、丁度それは蒙古に着いた当時でおります。そうして長谷川隊長も動かない時計を呉れたということを聞いておりましたから、私としてそれを二百円で世話して上げました。その件はあります。
  82. 細川嘉六

    細川嘉六君 証人に対する私の質問はこれで終りますが、退席を願つて、私は更に昨日から問題になつておるこのことについて一人の証人をお呼び願いたいと思います。
  83. 岡元義人

    理事岡元義人君) 鎌谷証人ですか。
  84. 細川嘉六

    細川嘉六君 そうです。
  85. 岡元義人

    理事岡元義人君) 鎌谷証人は尚次の事項のときに関連して質問をして頂くわけに行きませんか。
  86. 細川嘉六

    細川嘉六君 証人退席を願わなければ……。
  87. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 今細川委員とあなたの御問答中に、あなたの御返答の内容からして僕はお尋ねしたいことがありますが、それはいわゆる自分の身分を隠すというようなのはその当事随分一般にもう習わしに、なつてつたのですが、それが政府而も蒙古側でなくて、最も権力を当時持つておりましたソ連ゲペウがそれを発見して、而もあなたは拳銃をつきつけられて裸になつて断じて然らず、そういう固き否定の答をしておられた。ところがその次の日かその日に遂に証拠物件をつきつけられて、明確に憲兵なりということを是認しておられる。そういう場合我々が当時動乱の満洲にいて随分と見聞したのですが、蒙古地方においてそういうような場合に或いは重労働であるとか、或いは銃殺の刑とか、そういうふうな刑罰に処せられたことは全然あなたは見聞されたことはありませんか。あなた自身又何らの処罰を受けずそのままに隊長としての職務を継続して行くというふうに、寛大も寛大な処置を受けたについての、あなたの当時を回想せられて何故だろうというふうに自問せられたときのそのお答えを伺いたい。二点について御返事願いたいと思います。
  88. 池田重善

    証人池田重善君) 蒙古側においてそのときにソソルバム中將が参りまして、私が今のどんな処置でも採つてくれ、こういうことを申出ましたときに、蒙古共産國においては、正直に眞正面に言つた方に対して処罰をするということはない、正直でさえあればとにかく処罰はしないのだということをおつしやられました。それで一つは私に対するところのやはり思想的なこともあつたのじやないか、宣傳的なこともあるのじやないかというようにも私は考えられました。
  89. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 蒙古政府と、それからいわゆるあなたを取調べたところのソ連ゲペウの、これはどういうような関係になつておりましたか。私の常識からいたしますというと、ゲペウが直接一つのいわゆる犯人を調査して、それが明らかになつた場合には蒙古政府自体の権限によつて処罰するのでなくて、ゲペウ自体がこれを処罰して、或いはみずから処罰しない場合には蒙古政府に対してその処罰を要求するというようなのがこの命令系統だと私は思つておりますが、そこの点についての偽わらざるあなたの実際当時そこで行われおつた実情を語つて頂きたい。
  90. 池田重善

    証人池田重善君) 私はその点についてははつきり分りません。
  91. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 簡單なことですが、この收容所長をいたしておりました、モジック中尉、それから通訳関係を担当されておつたというエリツチさんぼうこのエリツチさんぼうとモジック中尉とは、いろいろな権限をおいてどつちが強い力を持つてつたですか。
  92. 池田重善

    証人池田重善君) 勿論それはモジック中尉が権限は持つておりました。
  93. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと、これはエリツチさんぼうというのはただ名のみの参謀ですか。
  94. 池田重善

    証人池田重善君) それは違います。参謀ではありません。サンボーというのはエリツチ・サンボーと言いまして、サンボーという名前であります。
  95. 岡元義人

    理事岡元義人君) それでは第一の項はこれにて打切ることに御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  96. 岡元義人

    理事岡元義人君) 池田証人退席願います。
  97. 岡元義人

    理事岡元義人君) では次の二、三、四、五、六の項目につきましては、原田証人をして聽き取つても差支ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  98. 岡元義人

    理事岡元義人君) 原田証人
  99. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 大体これからの、質問或いは証言を求めるに際しましては、設備に関する、或いは機構に関する件、外蒙側或いはソ連との俘虜の指揮系統関係医療施設、或いは疾病種類及び死亡率、こうした点を一括してやるというようなふうな打合せになつておるように聽いたのですが、それは相前後しても構わないのですか。
  100. 岡元義人

    理事岡元義人君) お答えいたしますが、二、三、四、五、六の問題は、一應の概略だけを聽き取りまして、次のC項の審査に入つた場合に、当然関連して重復して來る点があると思うのです。それで只今淺岡委員の御質問は、順序を変えてもいいか、変つてもいいか、こういう意味でございますか……。別に差支ない、一括していろいろな点について伺いたいと考えます。
  101. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと、例えば設備の関係というものから始まつて、死亡者が出た、或いは曉に祈るというような関係から死亡者が出たという点で、相前後した点も一括して言つてよろしいですね。
  102. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今淺岡委員の御発言は、先程天田委員からの動議と多少違つておると思うのでありますが、如何でしようか、その点淺岡委員の言われます通りにいたしますならば、C項を先に取上げて、それに関連してB項の状態が聽かれて行く。こういうことになるのじやないかと思うのです。その点如何取計らいますか。
  103. 天田勝正

    天田勝正君 先程の動議は、B項は概略でございますので、E項の第二以下六までの点は一括いたしまして、一人の証人が呼ばれたときには、その証人に関する限りこれをずつと全部を聽いて行く、こういうことを一應概念として全委員の頭に入れて置こうというのが目的でありまして、その証人に関すれば、その順序でなくてもいいということになるわけであります。
  104. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 了承。
  105. 天田勝正

    天田勝正君 先程の動議に基きまして、原田証人にお伺いいたしたいと思います。  先ず第一に設備の点について伺いたいのでありますが、項目がいくつもありますので一つ一つつて参ります。  吉村隊長谷川隊と合併になりまして、その後使用しておりました兵舎は南兵舎でありますか、原田証人
  106. 原田春雄

    証人(原田春雄君) はあ、南兵舎であります。
  107. 天田勝正

    天田勝正君 ではその收容所の面積、兵舎の構造、その建築面積、それからその兵舎の中に第一、第二と兵舎がある筈でありますが、それらの兵舎についでの設備並びに收容兵の一人当りの坪数、それから一室が何坪で、何人ぐらい收容されておつたか、こういう点を先ず聽きたいと思います。
  108. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 兵舎の構造はラマ廟でありまして、南北にそれぞれ、門のある高さ約三メートルの土塀で囲まれております。その土塀は八角形を成しておりまして、その囲いの中の面積は概ね一ヘクタール、それからその塀の八角形の各辺に八つの昔の望楼のような建物がくつついております。で内部には三つの塀にくつつかないで独立した建物が三つありまして、中央に二階建の煉瓦で積上げられた建物がありまして、その兵舎を第一兵舎と呼んでおります。その中に收容し得る人員は約六百名、階下と階上に分けまして、それぞれ三百名宛收容して一杯であります。その第一兵舎の建坪は約八十坪程度のものでありまして、一階二階共にそれを更に板張りの床を一段に仕切りまして、その床と床との間隔は約一メートル半、背の低い人であれば立つことができますが、普通の身長の人であれば頭を打つけるという程度の、板で三段の仕切り茨周囲に取り附けられて、そこに兵隊が休むわけであります。從いましてその床の一坪当りに大体七名の人員が收容された。これが最も多く收容された時であります。少い時には坪当り五名ぐらいのこともありました。  次にその横にあります第二兵舎と呼んでおりましたものは一階建でありまして、そこは同じように三段に仕切られた床板の上に、最大限詰りました時は百名詰つております。それからもう一つの建物、それは第二兵舎と同じ構造の建物が反対側にありまして、そこは隊長將校、連絡員、当番、通訳、書記というような者がおりまして、一番多く入りました時で約三十名、その外炊事場と食糧倉庫がくつつきまして一棟、そこにはやはり板で拵えました床の上に、炊事の要員が約十四五名寝泊りしておりました。で先程申上げました土塀の各辺に一戸ずつありました東屋のような望楼のような建物の家も、終頃は内部に仕切りを作りまして、その中におのおの三十名ずつくらい收容しております。伺その中の一つ、一番東側にありましたその望楼は、屋根はありましたけれども天井がなくて、又壁にひびが入つておりましたけれども、その開戸だけを頑丈に作り替えまして、これがいわゆる清心寮と吉村氏が名を付けました営倉に用いられたのであります。
  109. 天田勝正

    天田勝正君 この炊事場の大きさ等が今の証言の中にありませんが、それはやはり何坪ぐらいになつておりましようか。
  110. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 炊事場の建坪は、食糧倉庫を合せまして二十坪ぐらいだつたと思いますが、約半分づつ倉庫と炊事場に使つております。炊事設備は、一回に約百名分の糧秣が炊ける程度の大釜、これが合計三個備えてあつたのでありますが、後ほど小さい釜が殖えまして四個になつております。それからメリケン粉の配給があつた場合にパンを作るために、パン燒釜がドラム罐を改良し一箇作られました。その他調理台或いは水桶というようなもので、炊事場の設備はその程度のものであります。
  111. 天田勝正

    天田勝正君 続いてお聞きしますが、炊事場があつて可なり離れたところに炊事員の宿舎が別にあつたわけですが、こういうところから見ますと、炊事員は特に優遇されておつたと見てよろしうございましようか。
  112. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 炊事員の宿舎は調理場の奥に拵えてありまして、離れた建物ではありません。次に炊事要員の食べ物は、特に質的にいい物を食つたかどうかは私は目撃したことはありませんが、量的には腹一杯食うということは誰もが認めており、又隊長も止むを得ないことと思つてつたようであります。
  113. 天田勝正

    天田勝正君 関連して聞きます。その炊事員になる資格といつては大袈裟でありますが、特に隊長に氣に入れられた者をそこに廻すということはありませんでしたか。
  114. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 申上げます。私の主観でありますが、隊長の氣に入つた、いわゆる隊長の言うことをよく利く人が主としてそれに選ばれたことは事実であります。尚一名糧秣の出し入れをやつておりました男は隊長関係なく蒙古側から任命されてやつておりました。少くとも隊長に嫌われた者が炊事要員になつた例しは覚えておりません。
  115. 天田勝正

    天田勝正君 清心寮ですが、これは後ほど採上げられる重大な問題でありまするので、もつと晴心寮の説明については一つ詳しくお述べ願いたいと思うのです。例えば傳えられるところでは、天井は全然ないとか、雪が吹込むとか、いろいろ言われておるわけですが、一体どのような設備になつておりましたか、詳しく……。
  116. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 大体の構造は、屋根の形は丁度そこのお寺のように瓦葺の両側に垂れた屋根であります。それから普通のラマ寺の建物であればその屋根の下が板の間で平になつておりまして、そこに人間が上つて辺りを監視することができるというようになつておりますが、この清心寮だけは、その屋根の下の板の間がなくなつておりまして、そうしてその下が直ぐ土間になつており、壁の高さが堀の高さよりも一メートル高く四メートルぐらいの、四面土塀に囲まれました窓のない部屋であります。從いまして雪が吹雪くときには当然その中には雪が入りますし、入倉者の肩や帽子に雪が吹りかかつておるのを私は見ております。尚あとで蒙古側の收容所長から凍傷にかかると作業能率が劣るので、清心寮の中にペーチカを作るようにという話で吉村隊長はペーチカを作りました。けれどもそのペーチカが燃やされたことは、私の記憶では、ありません。
  117. 天田勝正

    天田勝正君 下は板張りなどは全然ないのですか。
  118. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 土間であります。
  119. 天田勝正

    天田勝正君 新聞に出ておる見取図によりますと、見張台というのが門外にあるのですが、この門外にある理由はどういうわけですか。  それからそれに関連いたしまして、蒙古側の監視所でありますが、これが又別にありますけれども、この蒙古側の監視所が門外にあるというのは分るが、反対側の裏門となりますか、その裏門を出た所に今言つた見張台がある。これはどういう理由でそこにあり、どういう人がその見張についておつたか、それも伺いたい。
  120. 原田春雄

    証人(原田春雄君) ラマ寺の本質から見まして南門が正門でありますが、私共は北の門から常に出入りをしておつて、南門には木柵で携えた門が閉つてつたのであります。從いまして初めの頃は北門の方だけに、北門を出ましたごく近くにいわゆる蒙古軍の衞兵所がありまして、そこには始終蒙古兵の歩哨が立哨しておつたのでありますが、逃亡兵が出るようになつたの一つと、もう一つは反対側の正門であるところの南門の外側に筏を運搬する河がありまして、そこで夜間作業などが続くようになりました結果、南門の外にも非常に高い望楼を設けて、そこにも蒙古兵がやはり立哨をするようになつたのであります。その向う側に設けました目的は、今申しましたように筏の作業場、又そこに作られました我々の農園、そういう所で日本の兵隊作業しますので、遠くの監視が利くように高い望楼が設けられたものであります。
  121. 天田勝正

    天田勝正君 兵舎の建つておる同じこの敷地内に縫工場もあつたと思いますが、それらの兵舎並びに縫工場の暖房装置はいつ頃始めていつ頃終りましたか。
  122. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 縫工場は先程申上げました各辺に拵えられました望楼の一つにそれが充てられたわけであります。各兵舎の暖房は十月の終から大抵は許可が出まして、主として薪それから粉石炭の配給を受けて燃やしました。尚一時毛皮屑をこれに代用したこともあります。そうして翌年の二月の終りで大体命令は終つておりましたが、三月に入つても寒い日は密かに焚くというようなこともありました。
  123. 天田勝正

    天田勝正君 設備の点につきましては原田氏に対する質問はこれで終ります。命令系統の点に入りまして又質問したいと思います。
  124. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 曉に折るの場合に括りつけた棒というのはどういうのですか。
  125. 原田春雄

    証人(原田春雄君) それは先程申しました立哨をつけておりました北門下を出て直ぐ左側に一本電柱が立つております。それと北門を出ないで直ぐ右側に糧秣その他に使います馬、「らくだ」、牛などを繋ぐいわゆる馬繋索がありまして、その電柱と馬繋索、これが主としていわゆる曉に祈るの場所になつたのであります。
  126. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 その電柱は太いものですか。
  127. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 日本の電柱とほぼ同じものであります。
  128. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それから夜間などに出入りをするまあ逃亡者というような面も考慮されておりましようが、望楼があつた。その望楼のところに、そういうふうな照明の設備があつたのか、或いは北門、南門にその照明の設備があつたのか、照明燈はどういう設備になつており、その照明は何で照らしておつたか。
  129. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 照明は北門の曉に祈りました電柱の上の方に一つ百燭電球が点けられておりました。それから南門の外にありました望楼に同じく百燭の電球を点ける設備があつたのでありますが、それが特別引込線でありましたためにしばしば事故を起して電燈のない夜が相当多かつたのであります。
  130. 千田正

    千田正君 病氣になつたり、病氣になつたうちでも重態に陥つたような人を收容して療養に当るというような施設を特に拵えたことはありますか。
  131. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 吉村隊兵舎の中でありますか。
  132. 千田正

    千田正君 そうです。
  133. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 病氣の人のために特別な場所その外、食事、施設などは申上げる程のものはありませんが、ただ下痢患者の非常に極度に陥つた場合に軍医の方で白米のお粥を食べさせておつた、これは私目撃しておりますが、それ以外に特別に取られた処置はありません。
  134. 千田正

    千田正君 それでは若しも死に瀕したような病人があつた場合には、外のウランバートルの中の病院施設か何かに運んだのですか。それともこの兵舎内におけるところの自分の居室においてそのまま死ぬなら死ぬまで、どんどん惡くなつて行くなら惡くなつて行くままに放置しておかれたかどうか。
  135. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 重態に陥つた患者は日本の軍医がこれを診断して、工場に施設しておりました工場病院の院長がロシア人の婦人の方であります、そのロシア人の院長の許可を、日本の軍医の診断書をロシア人の院長が見て、それによつて許可をして入院の許可書を出すこともありますし、院長がわざわざ、日本の軍医の診断書に疑いを持つた場合には兵舎に來て、それを見た後許可書を出すこともありましたが、いずれにしましても、ロシア人院長の許可を得て入院手続を取つたわけであります。それが手続を貰いましてから收容所長の許可を得て次に衛兵司令の許可を得て、約三百メートル離れました工場の用度課から「らくだ」の車を一台借りて來て、それに重患者を乘せ、そして日本人が一名と、蒙古の歩哨が一名ついて北方の病院に運ぶわけでありますが、その間の手続が殆んど私一人走り廻つてつたのでありますけれども非常にスムースに行く場合と、不在であつたり、或いは向うの衞兵司令とか或いは用度課長がおつてもなかなかその許可が貰えなかつたりして一両日を費やすことがあります。そういう場合には不幸にしておなくなりになつた方もあるようであります。
  136. 細川嘉六

    細川嘉六君 吉村隊には医者がおつたでしよう。
  137. 原田春雄

    証人(原田春雄君) はい。
  138. 細川嘉六

    細川嘉六君 それで隊の兵舎にはさつき医務室のようなものはろくに作つていなかつたような話でありますが、作ろうとしなかつたのですか、事実作れないものであつたのですか。
  139. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 申遅れましたけれども、先程の一つの建物を医務室に充ててありまして……。
  140. 細川嘉六

    細川嘉六君 充ててあつた……。
  141. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 充ててありました。それは軍医が診断をする部屋であります。治療をするだけでそこで療養をすることはできないわけであります。
  142. 細川嘉六

    細川嘉六君 それには應急の手当として、ベツドの二つも置いて、そこに療養させるということは、事実兵舎ではできなかつたのですか、しなかつたのですか。
  143. 原田春雄

    証人(原田春雄君) その医務室にはベツド、いわゆる寝台は一箇ありましたけれども、寝かせて置くような面積がありませんので、そこで療養することは困難であります。併しながら外の兵舎の一部をそれに充てるということは不可能ではなかつたのでありますが、これは隊長が氣がつかなかつたためか、或いは蒙古側からそういうことを別に注意も受けませんでしたので、遂にそういう施設は設けられなかつたものであります。
  144. 細川嘉六

    細川嘉六君 隊長側から蒙古側に設けることを申し入れた場合には、これを許さなかつたとあなたは思われるのですか。
  145. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 申し出たことはありませんし、申し出て許さないということはないと思います。
  146. 細川嘉六

    細川嘉六君 分りました。それからもう一つ
  147. 岡元義人

    理事岡元義人君) 細川委員まだ質問がありますか。
  148. 細川嘉六

    細川嘉六君 あります。先程の陳述では燃料については不足のないようなお話でありますが、どうですか。
  149. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 外の收容所は分りませんが、我々のところは、いわゆる筏運びをやりまして、その賞與に燃やすだけの筏は、私の知つておる範囲では十分に貰いまして、燃料の不足はなかつた筈であります。
  150. 細川嘉六

    細川嘉六君 それは冬は寒くなかつたということですね。
  151. 原田春雄

    証人(原田春雄君) その点はペーチカがどの程度に燃やされたか、蒙古側から貰つた材木がどの程度実際にこれが燃やされたか、それは隊員でないと実際に寒かつたか、暖かつたかということは私は断言できないと思います。
  152. 細川嘉六

    細川嘉六君 それはあなたは同じ兵舎におられたのでしよう。ですから寒かつたか、暖かつたかお分りでしよう。
  153. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 私は隊長と同じ室に住んでおりまして、兵舎にしばしば出入りするのでありますが、実際にペーチカがよく燃えていないこともありましたし、そういうのは、その貰いました薪を又その周囲におります蒙古の警備隊関係の住宅がありまして、そういう人間がせびりに來るために、薪が一本二本と毎日のように彼らに持つていかれる。これは多くの場合、直接隊長とか、或いは炊事班長向う兵隊が申し出て持つてつたことが多かつたのであります。
  154. 細川嘉六

    細川嘉六君 あなたの見られたのは、横流しされた、賣られたという例があるかないか。
  155. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 薪をでありますか。
  156. 細川嘉六

    細川嘉六君 そうです。
  157. 原田春雄

    証人(原田春雄君) これを金に換えたということはありません。
  158. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 先程南門の外の百燭光のついた電柱と、それから南門内部で、南門と炊事場の中間にある電柱の、曉に祈るという処刑をした電柱だそうでありますが、特にそうした刑をするためにそうした電柱を特別に施設したというふうなことはありますか。
  159. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 電柱及び電燈照明は曉に祈ると関係はありません。たまたまそういう地物を吉村氏が利用したに過ぎないのであります。
  160. 天田勝正

    天田勝正君 まだ食糧の問題等につきましては、清水氏並びに小峰氏等の証言を求める必要があると思いますが、原田証人に対しまして、次にお伺いいたしたいことはソ連から收容所に至りますまでの命令系統の中の一部でありますが、先ず私はソ連の捕虜を統轄するところの最高機関と、その最高の責任者についてお知りであつたらお聞かせ願いたいと存じます。
  161. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 蒙古人民共和國にはソ連からいわゆるロシア人が相当数見えておつて、その人々がどういう仕事をしておつたかということは審らかでありません。私が直属しましたいわゆる日本人俘虜收容所の蒙古人民共和國における最高の責任者は、ソソロバルムという少將でありました。少將でソソロバルムという名前の方が最高の命令を出しておられたのであります。これは蒙古人であります。
  162. 天田勝正

    天田勝正君 そのソソロバルム少將でありますか、ここから收容所の直接統轄者でありまする隊長、つまりこの場合は吉村氏でありますが、そこまでの命令の中間に、どういう機関とどういう人がおられて、それを傳えて來るのか、この点御存じでしたら……。
  163. 原田春雄

    証人(原田春雄君) ソソロバルム少將から日本人俘虜收容所に対する命令は、その間に、当時第八調査所と我々は呼んでおりましたが、結局二十二の收容所がありまして、そのうち三つないし四つづつを区切つた一つの責任機関であります。我々の関係しておりましたのはその下の第八番目に当る調査所、第八調査所という名前で呼んでおりましたが、そこに通達が來るわけであります。
  164. 天田勝正

    天田勝正君 その長は……。
  165. 原田春雄

    証人(原田春雄君) そうしてその第八調査所の長をしておつた人は、しばしば替つておりますが、最も長く殊に吉村隊の後半期におつた人はやゴンチキという中佐であります。このゴンチキ中佐が第八調査所関係の各收容所長、いわゆる蒙古人の各收容所長に対して命令を傳達するわけであります。そこでその收容所長收容所における日本人の責任者……。
  166. 天田勝正

    天田勝正君 その所長の最も長くおられた人は……。
  167. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 最も長くいました所長は、バズルスルン、殊にこの曉事件のあつた当時はバズルスルンという中尉であります。これが收容所長をしておりまして、ゴンチキ中佐から、バズルスルン中尉命令が來るわけであります。そこでバズルスルンから日本人の責任者に対して命令が來ます。日本人隊長というのは我々の呼名でありまして、向うでは責任者という名で呼んでおりました。別に隊長という資格は認めておりません。
  168. 天田勝正

    天田勝正君 続けてお聞きしますが、普通いわれておりますモチョグ中尉なんかはこの機関のどこに入るのでありましようか。
  169. 原田春雄

    証人(原田春雄君) それはバルスルンの前におりました收容所長の地位であります。
  170. 天田勝正

    天田勝正君 同じ地位でありますね。
  171. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 同じ地位であります。
  172. 天田勝正

    天田勝正君 その收容所の日本人の責任者の所まで命令が参りましてから、それがどういう系統を辿つて末端にまで参りますか。
  173. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 多くの場合は吉村隊におきましては週番下士官が設けられておりまして、吉村隊から週番下士官を通じて週番下士官は各小隊の週番上等兵、終り頃は民團の方もおりましたので、ただ週番と呼んでおりましたが、各小隊の週番に毎晩傳達しておつたわけであります。
  174. 天田勝正

    天田勝正君 続いて伺います。いわゆるノルマの決定権はどこにありますか。又そのノルマが普遍的なものであつて、つまり如何なる收容所に対しましても共通の量が指定されて参るのであるか、一收容所に参つてからそれは多少とも変更できる、つまり局地的なものでありますか。この点を一つ……。
  175. 原田春雄

    証人(原田春雄君) ノルマは民族の如何を問わず又俘虜であるとないとに拘わらず一定したものでありまして、我々に與えられましたノルマは勿論ソソロバルム少將から決定的に來るわけであります。それがいわゆる一ノルマでありまして、それ以上をやるということはおのおの労働者の自由な意思によつてやらされております。
  176. 天田勝正

    天田勝正君 そういたしますると、吉村隊だけが特に重いノルマを與えられるというようなことは絶対にないとこう承知してよろしうございますか。
  177. 原田春雄

    証人(原田春雄君) それはソソロバルムから出るものでなくて、その下の第八調査所の、ゴンチキ中尉、或いは收容所長のモチョグというような者と我我の関係しておりました工場長との話合によつて、單独に出た過剰ノルマの命令もありました。
  178. 天田勝正

    天田勝正君 單独、局地的なものもあるというのですね。
  179. 原田春雄

    証人(原田春雄君) いわゆる蒙古側というものの解剖をしているわけでありますが、蒙古側の中でも末端部が独断でこれを課した場合我々は拒むことはできなかつたわけであります。と同時に蒙古側から言われなくて吉村氏が單独で超過ノルマを命じたこともあります。又尤もどちらにも属しない吉村氏が超過ノルマを收容所長に申出て收容所長の許可を得てこれを命じた、この三つの場合がありました。
  180. 天田勝正

    天田勝正君 そうしますとこれは一ノルマの決定権はソソロやバハルム少將が握つておるけれども、併し超過ノルマについては吉村氏自身でも要するにやれたというのですね。こう承知してよろしいのですか。
  181. 原田春雄

    証人(原田春雄君) そうであります。
  182. 天田勝正

    天田勝正君 そういたしますると、次には吉村隊と他隊とを比較いたしまして、その命令系統が違つた、この隊に來るまでは勿論一緒であるけれども、隊に來てからの命令系統が違つたという点がありましたらお知らせ願いたい。例えばあなたは長谷川隊にも関係しておられたでしようし、通訳でありますから、他の隊も御覧になつたと思います。そういう各隊を比較しまして、隊に入つてからの命令系統が違つておるという点があつたらお聞かせ願いたい。
  183. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 先程ちよつと申上げた点でありますが、ウランバートルにありました二十二の收容所の中で蒙古側から言つてきます一ノルマ、これは普遍平等のものであります。それ以上の超過ノルマ、いわゆる食糧とか給金との約束條件兵隊も承知の上でやられたところが若干あつたよう記憶しておりますが、多くの隊長、当時隊長といわれました日本人の人々は超過ノルマの申出、蒙古人の收容所長あたりの單独命令であつた場合には、これを拒絶して投獄された人が非常に多いのでありますが、吉村隊におきましてはいわゆる蒙古側末端部の独断による超過ノルマは勿論快諾しております。尚その外に先程申上げましたように、みずから進んでノルマの超過を申出て、これを許可をして兵隊に申渡した。又場合によりましては、いわゆる吉村氏が例えば二ノルマ、二〇〇%という必要がある場合にそのまま言つてはやらないので、三〇〇%という目標を掲げて増せば、そこでやつと二〇〇%できるというような掛け値の下に、対象ノルマをわざわざ蒙古側の言うて來たのを倍加してこれを兵隊に申渡したという事実もございます。
  184. 天田勝正

    天田勝正君 もう一点お伺いしますが、そうした例えばこれは罪の場合でありますが、罪の執行をいたす場合には、そこに各隊によつてその手心が一体できるものかどうか。つまり「曉に祈る」のようなものでも、そうしたことをやれと仮に言つて來られても、その日本側の責任者の手によつてこれが緩和もできれば、重荷もできるという、これらの手心をしても蒙古側は黙認しますかどうか、この点をお聽きして置きたいと思います。
  185. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 処罰に関しましては、蒙古側の方針は日本人がいわゆる戰勝國の住民や財産に、いわゆる戰勝國側の利害関係のある犯罪を犯した場合、例えば逃亡とか窃盗とかいうことが対蒙古人的に行われた場合には、これは悉く第八調査所に行きまして、それから向う側の判決に從つて処分されるのが通例であります。そして收容所内におけるいわゆる日本人同志の間における問題は一切不干渉主義を取つたのであります。從いまして、日本人同志が幾ら殴り合いをしようと、傷付け合いをしようと、それはひどい場合には注意は與えますけれども、向うの処罰対象にはなつておりません。まあ一種の治外法権的存在と我々は考えております。そこで外の收容所においては、その收容所の日本人の責任者が收容所内において営倉その他の処罰をするということは殆んど絶無であつたようであります。そこで先程のお尋ねの日本人隊長が手加減する云々という問題は外の隊におきましては、あり得ない問題であります。その收容所内におきまして日本人間の処罰ということはなかつたのであります。
  186. 天田勝正

    天田勝正君 なかつたのですね。
  187. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 吉村隊におきましてそれが行われた。そこで手加減ができたであろうかなかろうかという疑問はお解けになつたことと思います。
  188. 天田勝正

    天田勝正君 この命令系統の問題は実に重大であります。從つて後程長谷川証人阿部証人、鎌谷、君島並びに津村等の証人を呼ばれんことを希望いたしまして、原田証人に対してはこれで終ります。
  189. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 具体的な問題ですが、吉村隊長憲兵であるということが発覚して、そうしてゲーペー・ウから正式の審問を受けて、遂に自分が一度は絶対にこれを拒絶して、そうして最後にはこれを自白した。その場合に、そうした事件が起つた場合にこれを処罰するところの権限はソ連のゲーペー・ウ側にあつたのか、或いは蒙古政府に対してその処罰を、ゲーペー・ウから命令して蒙古政府がこれを処罰するのか、或いは犯罪の事実が明かになつた場合に蒙古政府が蒙古政府の独壇場において自分で処罰するか、この三点についてお答え願いたいと思います。どちらであるか……
  190. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 憲兵であるということが発覚して自白をしたその事柄、吉村氏の事柄に対する処罰の意味でありますか。
  191. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 ちよつと補つて置きます。それが全然ちよつと常識から考えれば、銃殺とか或いは重労働とかいうような犯罪に値いするようなことですが、それは全然処罰を受けていない。で、処罰を受けていないも、それはそれでよろしいか。そうした事件の場合に処罰権というものがどこに淵源しているか、そのことをお聽きしているわけであります。
  192. 原田春雄

    証人(原田春雄君) はい、分りました。憲兵であるということが発覚した場合に重労働或いは銃殺、或いはモスクワ送りというようなことが一應デマとなつて乱れ飛びましたけれども、事実においてはそういうことはありませんでした。從いまして吉村氏だけでなく、外の憲兵下士官將校の方もいずれも無事でお帰りになつている筈であります。これは見えざる影におののいたというのが吉村氏の自白の心境であつたと思います。從つてこれは処罰対象になつていない。それ以外の例えば日本人の逃亡者或いは暴動者、そういう者に対する処罰の執行或いは命令権ということにつきましては、先程申上げましたのですが、よろしうございますか。
  193. 千田正

    千田正君 ソ連が日本に宣戰布告したときは、この外蒙古の人民共和國は日本に同じく宣戰布告しておらなかつたよう記憶しておりますし、昨日一應この点を確かめて置いたのでありますが、日本政府側の答弁としましては、ソ連が日本側に宣戰を布告した場合においては蒙古人民共和國は共に日本に宣戰布告した事実はないという答弁を一應聞いたわけです。それでその当時はそうであつたかも知れないが、その後ソ連の力が強大になると同時にこの蒙古人民共和國はソ連側の一翼として、今度の場合に捕虜收容その他の事務に当つたというふうに我々は解釈するのですが、それが妥当であるかどうか。同時にあなた方に対する命令系統がソ連から出された命令系統がそのまま蒙古政府が行つてつたのか。それも蒙古政府がソ連の委託によつて日本の捕虜或いは收容者に対する命令を出しておつたのか。この点について若しあなたがその間知るところがあつた証言して頂きたいと思うのです。
  194. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 私共が向うで見ました向うの新聞、それからプラカードその他の宣傳によりますと、ソ連の宣戰布告は八月九日でありましたが、それから三日遅れて確しか八月十一日に蒙古人民共和國も対日宣戰布告したという新聞記事を見ております。それから次の我々に対する取扱いがソ連命令であつたかどうかということでありますが、これは蒙古人民共和國そのものが現在ソ連のいわゆるソヴエト同盟國ではない独立國でありますけれども、ソ連と協調を保つて行く國であるというようなことを言つておりまして、そのために指導者を得ておる。從つて我々に対するいろいろの指示指令というようなものは蒙古人民共和國が單独で下したものと思うことはできません。悉く例えていいますと、工場、いわゆる國営工場などにしましても、必ずソ連人の顧問がおりまして、その人々が最後の決定権を持つておられたように思つております。又我々の俘虜司令部におきましては、ソソロバルム以外にソ連人の將校がおられたことも事実であります。
  195. 千田正

    千田正君 序でに簡單ですが、そうしますと、ソソロバルム少將はソ連直属のいわゆる赤軍の麾下の少將であるのか、蒙古人民共和國のいわゆる軍人であるのか、その点はどつちに属しておるのでありますか。
  196. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 蒙古人民共和國の軍人に問違いないのでありますが、例を引きますと、妥当でないかも分りませんが、最も分り早く申しますと、昔の満洲國の軍隊というものがありましたが、あれと、日本の軍隊との関係のようなものであつたと思います。
  197. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 先程天田委員の質問に答えまして、処罰の場合ですね、日本人間のは無干渉だと、蒙古人との関係に対しては先方で処罰すると、最も重要な問題である仕事ですね、このノルマの遂行不遂行、これに対する処罰、これが部隊全体としての問題、それから個別に各個人がしない場合の処分、こういうものに対して、先方から指示があるか、どのくらいの中のある指示があるのか、これを伺いたいと思います。
  198. 原田春雄

    証人(原田春雄君) ノルマの不遂行は当然戰勝國に利害関係を持つておりまして、向うが取り上げて、処罰の対象になつております。從いまして、これが全体的にノルマの不遂行という意図が見られた場合には、その責任者を処罰しております。それから全体的には、ノルマを遂行しなければならないというにも拘わらず、個人の意思でこれをサボタージユしたと見られた場合には、個別に処罰がされております。
  199. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 その個別の処罰の場合ですね、こういう処罰をしろと、決定版が來たわけですか。それとも天田委員の言われたように、こちらの隊長の手心があるんですか。
  200. 原田春雄

    証人(原田春雄君) いえ、先程申上げましたように、全部蒙古側でこれを拉致して行きまして、向うの歩哨の手で、仮りに兵舎の中でやるんでしたら向うの手でやります。そうでなかつた向うの監獄へやります。仮りに兵舎の中でやる場合には、向う側でやればいわゆる営倉歩哨がつきますので、日本人が手心を加えるということは不可能であります。ただノルマの不遂行による処罰というのは、一ノルマを病氣その他の理由でなくて遂行しなかつた場合に、向うが取上げたのであります。
  201. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 証人お尋ねしますが、この一ノルマの問題に対して、例えばソソロバルム少將或はゴンチキ中佐、こうしたところがこの決定権をお持ちになつておると、だが併しこのノルマを收容所におつた各人が上げれば早く帰される、上げれば或いは糧食を余計頂けるのであるというような面に対して、もう少しノルマを差上げようじやないかというようなことを、收容所におつた人達が話合つて、それを責任者である吉村隊長を通じ或いは更に收容所長を通じて、このノルマを上げるということに対して、下から盛り上つて行つたというような例があつたでしようかどうか。
  202. 原田春雄

    証人(原田春雄君) 技術に熟練した人々は、事実において一ノルマを遥かに突破するという作業をやつておりましたけれども、これが意思表示を隊長に直接……私の知らないときにやられたのは知りませんけれども、私の知つておる範囲では、隊内に、ノルマを上げて食糧を確保しようというような空氣は、全然見当りませんでした。
  203. 岡元義人

    理事岡元義人君) 各委員にお諮りいたしますが、只今天田委員から御発言がございました食糧の項目につきましては、C項のときに当然出て來ると思いますので、一應時間の関係上これにて休憩いたしまして、一時から再開することに御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  204. 岡元義人

    理事岡元義人君) では休憩いたします。    午後零時五分休憩    —————・—————    午後一時十五分開会
  205. 岡元義人

    理事岡元義人君) では只今から午前に引続き委員会を開会いたします。  先ずこの際、昨日船が函館に入りましてからの復員前こういう事件等に対しまして通牒が出ておりますので、その通牒を只今からお手許にお配りして置きたいと思います。  昭和二十二年七月八日に復員局より「首題の件について今般司法者より別紙の通り通牒せられたから通知する当本件については積極的に司法機関に連絡協力し遺憾なきを期せられたいという向きの別紙が附いた通牒が出ておりますから、只今お手許へお配りしたいと思います。  それではB項の点は一應午前で打切りにいたしまして、C項の事件の原因、経過について審議いたしますことに御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  206. 岡元義人

    理事岡元義人君) では笠原証人証言を求めます。笠原証人証言を求めますが、笠原証人が告発いたされましたこの告発状は、我々は見ておりますけれども、尚具体的に誰と誰がどういう工合になつたのだということを附加えられて詳細に述べて頂きたいと思います。
  207. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) 笠原証人であります。私が告発いたしましたそれに対して私の考えでありますが、ソ連、蒙古におけるところの收容所内のいろいろな経緯はすべて吉村の意思の下に出たものであつて、外の、今一般にボス的と言われております人達は、ただその名前を利用された者、それからやはりどうにかして内地に帰りたい、それをやらなければ又自分が今度反対に吉村に殺されるような立場になる、どこまでも内地に帰りたいという氣持ちからやつたことであつて、それをやつた動機というものはすべて吉村の意思から出たのであります。私は吉村自身を、一人だけを責めるのでありまして、外の者にはそう大して関係ありません。
  208. 岡元義人

    理事岡元義人君) 尚、只今委員長がお聽きしたのは、内容について、告発の内容について述べて頂きたいと思います。
  209. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) 告発の内容は、朝日新聞が一番初め傳えました報道は、二、三の点において誇張しておる点があります。併しその他は殆んど事実であります。私がやりましたのは労働の酷使、それから横領、それから暴行の事実ということに対して告発いたしました。
  210. 天田勝正

    天田勝正君 証人に伺いますが、告発状の写しにもありますように、新聞に傳えられたところの二、三の点を除いて事実であるというふうに書かれております。そこで更にその事実とは、暴行の事実、横領の事実、これについては否定、過激な労働についてはすべて外蒙の命令のごとく言つておるが、これらは悉く虚構である。こういうふうに言つております。更に引続き、夜を徹して苛酷な労働も、絶食なんかの処罰も、他の隊にはなかつた。こういうノルマをなし得えないものに対して行われたのは、酷寒の中に一夜不動の姿勢でくくりつける処罰については、多くの目撃者があつて、こう言つております。そこで、私のお聽きいたしたいのは、そのあなたの告発された内容の、先ず苛酷な労働についてでありますが、新聞の傳うるところ、その作業は第一に四時に起床する。一番初めに二千メートル離れた山から電信柱程の材木を二本づつ運ばなければ朝食にありつけない。ここで漸く朝食にありつきまして、次は八時間の煉瓦燒きをやらせられる。羊も紡ぎ、石切り等の仕事をやらせられる。その終りが四時ごろになつて、それから更に息つく間もなく川の筏から木材を解く作業をやらせられる。このようにいたしまして九時半頃になる。この九時事項になりましても、やり遂げたものだけが晩飯にありつけるのであつて、やり得ないものは晩飯も食べられない。更にそれが終えて又羊も紡ぎをやらされまして、寝につくのが午前の一時頃になる。こういうことが傳えられておるのでありますが、この点はそのまま全部事実でありますかどうか。
  211. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) その点は事実であります。各作業作業、持場々々によりまして、その正規の作業を分担した。仕事は異つてはおりまするが、大体その靴工場なら靴工場、羊毛工場なら羊毛工場、その正規の作業を終える。終えて毎朝四時から起床して、二本の丸太を担がなければ朝飯にありつけない。若しそれができなければ夜帰つて朝の分までやらされる。そうして正規の作業が終えて石切の應援、筏上げ、材木運搬、それが終つて手套作り、羊毛紡ぎ、そういう作業をして、寝るのが二時という状態が続きました。それは事実であります。
  212. 天田勝正

    天田勝正君 続いてお伺いいたします。その正規の作業というものは、つまり一ノルマは四時頃までに終つて、その後は超過ノルマであるかどうか。その点お伺いいたします。
  213. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) 一ノルマと向う側から要求されておりますのは、最初のうちはなかなかできませんでした。これは普通の建築作業、石切り作業と違いまして、私は技術方面の靴工場におりまして、そのために最初は分りませんでしたが、その酷使される時期におきましては、日本人の抑留者はすでに蒙古人の普通のノルマの二倍乃至三倍の作業をやつておりました。
  214. 天田勝正

    天田勝正君 ではもう一点お伺いいたしますが、一般世間に傳えられて問題になつておるのは、石切り作業であります。この石切り作業の一ノルマとは数量にいたしまして、立方メートルでもよろしいのでございます、トンでもよろしいのでございますが、その石を幾ら切り吊せば、積み出せば一ノルマというのでありますか。
  215. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) それは山の中腹から石を切り出しまして、それを山の下におろすのであります。そうしましてそれを四角に積上げ一立方メートルが普通一ノルマであります。
  216. 天田勝正

    天田勝正君 続いてお伺いします。切つてから下へおろして積むまでを一ノルマですか。それの一立方メートルですか。
  217. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) そうであります。
  218. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 笠原君は吉村隊員というだけしか、僕は存じませんが、どういうふうな地位におられた人ですか。第二は、他との比較というだけでなくて、吉村隊がノルマを引受ける、そのノルマという單元は誰が命令したのであるかということについて、笠原証人は何で、例えば蒙古の政府から命令があつた。或いは吉村隊長がみずから独断專行してこれを決めたという、その判断は、何かあなた自身において確実なる材料に根拠を置いて判断されたのですか。ただ他の收容所におけるノルマと比較して、吉村隊のノルマが非常に苛酷であつたというふうに比較してからの断定ですか。どちらですか。
  219. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) 今私が言いました一立方メートルというのは、これは蒙古におりました全收容所に要求されたノルマであります。苛酷な点と申しますのは、一立方メートル、それだけやつておれば何ら苛酷な点はないのであります。併し吉村隊に限りまして、これは外の收容所と比較したのでありますが、吉村隊最初は一立方メートル、その次に一立方メートル半、その次に二立方メートル、一番最大のときには三立方メートルを要求されました。外の隊では一番最高を要求されたときでも一立方メートル半ということを私は聞いております。それによつて吉村隊が苛酷であつたということを言い得ると思います。
  220. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 それだけいわゆる過重なノルマを遂行したのに対して、他のそうでないノルマを途行した收容所に比較して、食糧とか或いは被服とか、或いは金銭とか、特別の報酬を吉村隊が支給された事実がありますかどうか。
  221. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) 外の隊に居りました外の隊の收容所の者に聞いたのでありますが、やはり一立方メートル半、これだけやつておりますのと、吉村隊では三立方メートル、それだけのノルマの差がありますのに拘らず、食糧の点においては何ら変りはありません。余計な作業をやつた賃金、それを受取つておりません。
  222. 天田勝正

    天田勝正君 この材木運びでありますが、この材木運びは、その煉瓦燒きなり、或いは石切りなり、そうした一定のノルマ、このノルマも勿論強化でありましようが、それを遂行した後に、更にこの材木運びだけは余計にやらされることになりますかどうか。
  223. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) それは余計にやらされました。
  224. 岡元義人

    理事岡元義人君) 笠原証人に内容の点についてまだ具体的によく分らないところがあるのでありますが、先程委員長が内容を詳しく述べて頂きたいと申上げた、その中で二点だけを明かにして置いて頂きたいと思います。一点は吉村隊の中で、いわゆる靴等が相当着服された、そういうような事件によりまして、十二月の暮に処罰の命令を受けたことがある、十五名、それから尚、それで治まつたと思つていたときに、翌年の三月もつと六十数名の者が発覚した、そこでそのうちの幾らかの者が、いわゆる「曉に祈る」この刑に処せられたんだ、こういう点を含んでおられるかどうか、その点明らかにして頂きたい。
  225. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) その点は含んでおりません。
  226. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 一段落済んだようですが、あなたの告発されました、いわゆる吉村君のとつた暴行という、告発の対象となすつた暴行、その具体的の実例を挙げて下さい。告発せられている感情並びにそれ以外のことでも結構です。
  227. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) その暴行の事実は菅野清一等兵という者が、建築場において豚の餌を食べました。それによつて久木原少尉並びに池田隊長殿から相当に鞭で叩かれ、相当の打撲を受けております。そして翌る日すぐ石切りの作業に追いやられて、帰つて参りましたときに意識不明で、その後一時間後に死亡としております。
  228. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 清水ですか。
  229. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) 菅野清です。それからもう一つ菊地七郎氏この人が石切り場におきまして、余りの疲労のために坐つてつた、それを渡辺軍曹、それから吉田隊長この二人が殴打をした、そして又下まで引張り下して又殴打した、上に上つて來た途端に倒れてしまつた。そのまま死んでおります。
  230. 岡元義人

    理事岡元義人君) ちよつと注意しますが、吉田ですか、吉村ですか。
  231. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) 吉村です。
  232. 岡元義人

    理事岡元義人君) 間違いですね。
  233. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) はい。それから植木という兵隊であります。その兵隊吉村隊長に向つてお前も死ねと、私も死ぬからお前も死ね、お前は生きていてはいけない人間であるということを言つて、一度突込んで來たことがあります。そのとき隊長の前に連れ出し、伊藤少尉それから吉村隊長、この二人で滅多打ちにいたしました。その氏名は收容所におつた者全部が知つております。そのまま半死の目に遭わして営倉にぶち込んだ事実があります。併しその者は死んでおりません。その程度であります。
  234. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 外にないですか。
  235. 木下源吾

    ○木下源吾君 証人にお尚いしますが、この隊に限つてノルマが苛酷であるということは、これは隊員全体であるのか、そうして又何故に全体であるならば、そういう必要があつたかということについて、証人はどう考えられますか。
  236. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) 吉村隊長はいつも言つておりました。この外蒙ウランバートルに入つたならば、十年や十五年で還れるものではない、そうすれば私の地位、吉村隊長の地位というものをどこまもも築いて置かねばならないという観念の下に、吉村隊長自身がやつたことであると私は思います。
  237. 木下源吾

    ○木下源吾君 この制度といいますか、そういうように仕事の率を沢山挙げることにおいてですね、何か上の方が喜ぶというような、制度機構がそういうことになつておるのであるかどうかということが一つ、それからあなたが今度告発したことは、主として個人的な何か吉村に対する感情があつてか、又社会的な一つこれは制裁をせにやならん、かように考えておつたのであるか、今度の告発に対する動機、尚告発をするに至つたですね、心境について、例えばおやりになるならば直ぐおやりになることが、そういうこともできたであろうが、段々後になつてからやろう、その後のあなたの考えと計画、それ以外の都合をも併せてお伺いしたいと思います。
  238. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) それは余計な作業をやることによつて吉村隊長それから蒙古側の指揮監督將校という方方が相当の利益があつたことは確かであります。それから今度の告発に際しての私の心境は、昭和二十二年十一月の十八日函館に上陸いたしまして、十九日の日に或る有志の方から吉村隊長のことが摘発され、二十日の日に吉村隊長は我々に一瞥の挨拶を残した後、官憲の手に渡つたのであります。それから私達が帰つて参りまして現在まで、吉村隊長の風聞を聞いたそれは、吉村隊長はすでに裁きを受けて、沖繩に行つて重労働に服しておる。又或いは自分の責を負つて、自決したということを私は風聞で聞いております。そうしてそれが三月十五日に吉川君の新聞が出ていたのを初めて見ました。朝日新聞に行つたのであります。そのときの私の心境はすでに罪に服しておる者、すでに自分の罪を謝罪する者、自決しておる者に対して誤つた報道をしてはいけない。どこまでも正しい、眞実を述べて社会のために供するなら結構であるという信念に基いて、私は朝日新聞を訪れたのであります。併しその結果吉村隊長が何ら罰も受けず、而も平穏なる日々を送つて、その上尚私は白い。そういう事実はない。何ら謝罪の意思を示さず傲然と言つておるのであります。私はもとより外蒙の地に私慾を肥やさんがための犠牲となつて仆れて行つたところの同胞の仇を打つのは勿論でありますが、現在の社会において正しいという者が常に弱い現在の社会において、特にそうではないかと思うのであります。正しい者は常に手を取り合つて、お互に助けて正しい者が必ず勝つて行く社会を作らなければならない。私はその正しいが故に、弱い人達に、又一般の人達に正しい者は必ず勝つのである。そういう者が常に手を握つて行つて正しい明るい社会を作るのである。明るい日本を造るのであるということを知らしむたいがためにここに立つたのであります。もう一つ、このことは間接的な原因になりまして、未だシベリヤの野に鎖されております同胞が一日でも早く還つて頂けたらという氣持の下に告発いたしました。私は一番初めから終りまで長谷川隊員ではない、吉村隊員であります。吉村隊長から何ら制裁を受けたこともなく、又罰を受けたこともありません。私個人から言つた吉村隊長には何ら氣持も動いておりません。併し私が先申しました心境の下に告発いたしました。
  239. 千田正

    千田正君 いろいろな材料のうちに、吉村隊の中に十人組、若くは吉村隊長の手下と称する親衛隊と称せられるもの、そのうちには柔道何段という人間であるとか、或いは相撲取、遊び人、こういう常にそのノルマの未遂行の者に対しての懲罰の際に直接手を下した者がそういう名前の下に呼ばれておるという点があるが、この点は果してそういう親衛隊若しくは十人組と称する者がおつたかどうかという点と、あなた方が上陸した十一月の十九日、函館の上陸地において告発しようとした中に、池田重善隊長並びに伊東邦義元少尉、渡辺廣太郎元軍曹、こうしたいわゆる曾ての吉村隊長の手下だと思われる人達を告発しようとした事実があるのでありますが、今度のあなたの告発に際しては、こうした吉村隊長以下伊東邦義、渡辺廣太郎というような直接手を下した人間に対しては告発するところの意思がおありになるか、その点お伺いします。二点であります。一番初めのは、「曉に祈る」という問題を中心にして國境物語なんかにいろいろ出て参ります、それから他の帰還者からの報告によるというと、吉村隊の中に親衛隊と称するものがあつて、その下には柔道何段である上か、或いは相撲取であるとか、遊び人であるとかいうごろつき風の人間がいて、常にノルマ未遂行の人間の懲罰に対しては、みずからそういう人聞が手を下して懲罰を行なつたということが言い傳えられておるが、それが事実かどうかということであります。
  240. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) 十人からなる親衛隊ということが言われておりますが、それは実際はありません。それは或る程度柔道何段、相撲取という名前吉村が利用して、他隊にそれを言いふらしたのであります。それが因でそういうことが傳わつたのであります。そこで私は、その一味と言われておるところの柔道何段、相撲取というような人が直接暴行を加えたという事実を見ておりませんそれから吉村隊長、それが告発の対象であつて、勿論それに連なるところの久木原少尉、渡辺軍曹という者も告発いたすつもりであります。
  241. 細川嘉六

    細川嘉六君 笠原証人にお伺いしたいのは、あなた方はそんなに酷い目に遭わされておつて、反抗するという氣力がどうして出なかつたのか、又したことはありませんか。先程の証言の中には軍隊階級制度に対する反抗が吉村隊の中に起つたというようなこともありますが、これは事実ですか。この点をお伺いいたします。
  242. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) それは私達が收容所におりますとき、二、三の戰友が集つて吉村をどうにかしなければいけないということを話合いました。併しその話しておることが直ぐ直後吉村隊長の耳に入つてしまうという状態でありまして、そのスパイ網というものは各班に拡がつておりました。誰がそれを告げるのか分らない状態でありました。それ故に、極度の個人主義、自分だけしか信用できないというような状態に置かれたのも、吉村隊長を倒すということができなかつたのであります。
  243. 細川嘉六

    細川嘉六君 吉村隊長は、こういう酷いことをやるのに、一々これは外蒙の命令だと言いましたか。或いは自分命令として言いましたか。
  244. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) それは言いません。外蒙の命令であるとも、自分の意思であるとも、それは言いません。
  245. 細川嘉六

    細川嘉六君 あなたの考えでは、それは外蒙の命令ですか。
  246. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) 勿論それは外蒙の命令ではありません。
  247. 細川嘉六

    細川嘉六君 それから何かノルマ以上に働かせられるときに、あなた方に何かの相談がありましたか。
  248. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) 何もありません。
  249. 細川嘉六

    細川嘉六君 全然あなた方の自由意思というものは認められなかつたわけですか。
  250. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) 認められません。
  251. 細川嘉六

    細川嘉六君 それからあなたには吉村隊長には何も酷い目に遭わなかつたというのですが、それはどういうわけですか。
  252. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) それは吉村隊長から要求されるところのノルマを完遂しておりました。
  253. 細川嘉六

    細川嘉六君 それで一言簡單でよいのですが、あなたのお考えでは吉村君というのはどんな人だと思いますか、人物はどんな人だと思いますか。
  254. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) 一面ちよつと見ましたところ冷たい人間だと思います。それから非常に奸智に長けた人だと思います。
  255. 細川嘉六

    細川嘉六君 その外。
  256. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) それだけです。
  257. 天田勝正

    天田勝正君 先程の御証言の中に、身分としては全然何も酷い目に遭つたことはないということをおつしやつておるのですが、今までの日本の軍隊では、新兵は必ずもう痛い目に遭うと決まつておりました。私共がその話を聞いても、よくこれで報復をしないでおられるというようなことがあるのですが、帰つて見るというと却つてそれが懐しくなるというのがまあ心境らしいのです。然るにあなたは、みずからがむしろ何も苛酷な扱いを受けないのに、時経つたときになつて告発までするというのは、普通の場合と違うように思うのですが、その点はどういうつもりでそうなされましたか。
  258. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) それはさつき私が申上げたことと、それから特に私の部下で一人死んでおります。そういう外蒙の地に朴れて行つたところの同胞の血が私を湧き立たせたのではないかと思います。
  259. 天田勝正

    天田勝正君 分りました。あなたの部下に犠牲者が出たと、こういうことですね。そうするとあなたは、その隊におけるところの一定の部下を持つ何か班長とかそうした位置におりましたか。
  260. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) 私は班長でありました。
  261. 天田勝正

    天田勝正君 更にお聞きしたいのは、さつきの御証言で、伊東少尉吉村隊長が殴つたということを言われておるのですが、一体階級からしますると、伊東少尉の方が普通上位であります。隊が編成されるときには一体先任者がなつてつたのが今まで明らかにされておつたのですが、この久木原少尉と伊東少尉とかいうのは吉村曹長の下に使われるようになつてつたのですか。
  262. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) そうです。
  263. 天田勝正

    天田勝正君 そういう階級には構わず、隊の編成はできた以上は自由に動かせたのですか。例えばあなたを一隊員に落して、それから今まで二等兵でおつた人をぽんと班長に据えるということは自由にできましたか。
  264. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) それは或る程度吉村の意思によつて自由にできました。
  265. 天田勝正

    天田勝正君 階級は異動できましたか。その当時まだ階級章を附けておつたということを聞いておりますが、階級は異動できたのですか。
  266. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) 別に階級ということは問題にしておりません。又異動したということもありません。
  267. 千田正

    千田正君 先程の証言の中に、菅野清という人が殴打されて遂に死亡してしまつた。それから菊地七郎、これも殴打された結果死に至つた。こうした人達の遺族に対して、あなた方がお帰りになつてからこうした詳しい事情を通知してありますかどうか。
  268. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) それはこちらに帰りますときに、亡くなられた方の名簿を持つて來たのでありますが、それを途中で取られました。残念ながら、帰つて参りまして遺族の方がどこにおるのか住所が分らない現状であります。菅野清、この方の遺族の方には私この間会いまして、大体一通りの説明はしてあります。
  269. 千田正

    千田正君 菅野という人はどこの懸の人ですか。
  270. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) それは向うに書いてあります。高崎におります。
  271. 千田正

    千田正君 群馬懸ですね。
  272. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) そうです。
  273. 千田正

    千田正君 菊地七郎という人はどこですか。
  274. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) その人の住所は分りません。
  275. 千田正

    千田正君 これはこの間の地方新聞でしたかを読みますと、岩手懸の釜石の出身ということになつて、おりますが……。
  276. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) その点だけは分つております。
  277. 千田正

    千田正君 その程度ですか。
  278. 笠原金三郎

    証人(笠原金三郎君) そうであります。
  279. 岡元義人

    理事岡元義人君) ではこの際被害者でありますところの鎌谷証人、君島証人証言を求めることに御異議ございませんか。   (「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  280. 岡元義人

    理事岡元義人君) 尚この際告発者である笠原証人同席しても差支えございませんか。    〔「差支えない」と呼ぶ者あり〕    〔証人鎌谷參司君、同君島甚五郎君着席〕
  281. 岡元義人

    理事岡元義人君) 鎌谷証人証言を求めますが、あなたは如何なる理由で「曉に祈る」という処刑を受けられたのか、尚あなたの外にどなたが一緒にその刑を受けたか、この点について御証言を求めます。
  282. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 私が曉に折りましたのは、蒙軍將校に申渡されたのではありません。吉村の個人感情に基く彼の物慾を満さんがための「曉に祈る」でありました。曉に私以外祈つた者は相当おりますが、誰誰がその該当者であつたか否かについては、私他人のことについては記録しておりません。ただこれが持つてつたところの記録でありまして、事、私に関しましては日附、歌、その他について確実詳細なものがこれに記録されております。そして……。
  283. 岡元義人

    理事岡元義人君) 鎌谷さんにちよつと注意申上げますが、ゆつくり落着いてお述べになつて結構ですから、もつと詳細に、どういう理由で、どういう工合にして……、その模様をば詳細に述べて頂きたい。
  284. 天田勝正

    天田勝正君 ちよつと私に口火を切らして下さい。私が口火を切ります。一つずりお答えを願います。あなたはそのとき作業を一日に何を幾ら命ぜられましたか。それから聽いて行きます。
  285. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 私が曉に折りましたとき、担任しておりました業務は、羊皮工場におきまして、羊皮を機械で伸すという仕事であります。
  286. 天田勝正

    天田勝正君 それを幾ら割当てられましたか。
  287. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 割当量はありましたが、ノルマは常に上げておりました。何枚だつたかということは記録しておりません。
  288. 天田勝正

    天田勝正君 それを一ノルマでなしに、超過ノルマを課ぜられたということはございますか。
  289. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) それは、ございません。ただ羊皮工場におきましてやつてつたのは、私と外に一名あつただけでして、ノルマはあつてないというような現況であつたのであります。
  290. 天田勝正

    天田勝正君 そうするとノルマを遂行したかしないかは、あなたみずからはお分りにならなかつた……。
  291. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 大体皮を削る者、それのノルマと私がやつた分と……私達のやつたものは削つているのですけれども、そうしてそのものは完全にノルマを上げて終つているのであります。私の伸したやつを蒙古人が持つて行く、日本人が持つて行くというような現況でありまして、七十枚くらいじやなかつたかと思うのでありますが……。
  292. 天田勝正

    天田勝正君 七十枚……。
  293. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) はあどうもあのノルマの枚数については詳細な記憶はありませんが、いずれにせよ日本人も蒙古人も完全に上つてつたのでありますから……。
  294. 天田勝正

    天田勝正君 じやお聽きしますが、それだけひどい目に遭つたということは、もう体で覚えるくらい覚えているだろうと思います。そのくらいの人が今日一日のノルマが一体幾らだつたか知らないというのは、ちよつと我々に解せないのですが、身に泌みて幾らやらなければ罰せられるということを覚えておらなければならんと思いますが、どうですか。……覚えておらなければ、それでいいです。
  295. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) ノルマの問題で曉に祈つたのじやないのでありますから、それに対して……。
  296. 岡元義人

    理事岡元義人君) 委員長が先に聞いたことから先ずお答え願いたい。先ずどういう理由であなたは刑を受けなければならなくなつたのか、ただ感情であるということじやなくて、その理由がどこにあつたかということはお分りだと思う。その点を詳細に述べて頂きたい。
  297. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 申上げます。先程申しましたように、私は昭和二十二年四月の二日頃でありました。いつものように羊皮の皮伸しをやつておりましたところ、羊皮の皮を削る蒙古入が私に、羊皮の皮に附いているところの肉を持つて來て呉れたのであります。隊の方から支給される食糧は少いものでありますししますので、その肉を取つて食うことはいけないということを、隊長吉村氏は隊員に言うておりました。けれどもが、私自身が取らずして蒙古側から呉れる分は何ら差支ないと、私はそういう見解を以ちまして、貰つた物を食べたのであります。ノルマが終りまして、隊に帰りましたところ、隊長室へちよつと來いというので参りましたところが、お前はいけないじやないかと言つて、先程のことにつきまして、蒙古側から貰つた物であるにも拘らず、私が羊皮の皮に附いておつた肉を剥取つて、スチームで燒いて食うたように吉村氏は申されましたが、覚えがないことでありますから、そうじやありませんと吉村氏の言うことを否定したのでございます。ところがそうかと言うて、後に清心寮という名前が附けられ、場所も変りましたですが、その隊長室の東の方にある大凡四坪ぐらいの廣さ、屋根はありません。針金が頑丈に廻らしてあつて脱柵することはできない。壁の厚さに約二〇センチぐらいの厚さでありまして、ただ出入口が板で拵えてある、釘附けになつているというような現況でありまして、当時の寒さは雪も降つておりますし、私自身大体三十五度ぐらいの寒さじやないかと考えております。隊長室から便所へ行く久木原少尉だとか、当番の吉田、この人達が通るのを隙間から見まして、寒いから外套を着用すべく申出ようとしたのでありますが、久木原少尉も吉田君も、私の言うことに対して耳を傾けて呉れません。雪は降つて來る、寒さは増す、自分自身としてもこうしておつたのじや晩食は食うておらず、ノルマをやつて來たのにも拘らず私の言うことも聞いて呉れず、これじや困る、無茶なことをするな。まあ併し言われたことだから仕方がないと思つて我慢しておりました。併し寒さは段々身に堪えて來ます。たまらなくなつて、私はその中において駆足をやる、軍隊で言うところのその場の足踏みをやつておりました。私が入つたときに、一人防寒外套を着て小さくなつてつた者があります。その者に、おい、ぼやぼやしていると死んじまうぞ、腹は減つて來るし、寒さは風が強くなつて來ます関係で、寒さは段々ひどくなつて來ます。脱柵しようじやないかと言うて、そのもう一人の男に言うたのです。が、その男は私がそう申しますと、顔を上げただけで返事もしません。それで私自身としては、ここにおつては、これは俺も凍え死にということになるのじやないかと思いまして、ここに決意して、その営倉の扉を肩で打破つたのであります。そうして收容所に入りまして、私の寝る所へ参りましたところ、夕食は余つておりますので、私はその夕食を食べておりました。そこへ隊長当番の吉田数一君が眺めて通つて行きました。その次に來たのは釧路で吉村隊長を告発、殺人、傷害、又は脅迫云々と言うている宮本清君が通つて行きました。三度目に現れたのが隊長吉村氏であります。どうしたんだというようなことから、私の先程申述べましたような、寒さと飢と死に対する恐怖を言うたのでありますが、吉村氏はそんなものは聞き入れません。食べておつた食事も食べさせずに、又営倉の中へ連れて行こうとしますので、私がノルマを上げたことによつてつた食糧だから、あなたから貰う食糧じやありません、蒙古側から私の労働に対して呉れた糧秣を私が食うぐらいのことは何ら差支ないじやないですかと言うて外へ行つたのです。ところが外へ出ますと、伊藤少尉というのと二人で私を柱に括りつけたのであります。括りつけた上二人で殴る蹴るというようなことをやられ、それがために左の頬は約六分くらいだつたと思います。紫色になつて、これは後で鏡を見て分つたのです、左の頬は紫色になり五分程腫れておりました。大体まあこういうふうに叩かれたのですから、ここが腫れたのです。私としては飢と寒さと死に対する恐怖感から脱柵したんだと言うたのですが、吉村氏はこらえて呉れませず、結局從前やつてつたごとく柱に私を括りつけてしまつたのです。そうしてまあその日は外套は、自分の持つておる防寒外套を着せられてやられたのですが、その翌る日でした、確か昭和二十二年四月四日頃だつたと思います。憲兵の稻見少佐が吉村隊に來られまして、そうして稻見少佐が來られた関係かどうか、私はその四月四日頃、確実な日の記憶はありません、頃だと思います。私の所へ來られて、どうしたんだというようなことでありましたので、実はかくかくの次第でありますと言うたら、鎌谷君、君も随分変つたなと申されますので、俘虜になれば仕方がないでしようと私は申しました。それにしても吉村氏のやることは常軌を逸しておるんじやないでしようか、私がそう申したところが、稻見憲兵少佐曰く、君は緊急避難の行爲をやつたかどうか知らないが、隊長としての吉村氏は陸軍刑法に基くところの、軍紀を保持するため止むを得ざるに出でたる行爲によりこれを罰せず、いわゆる軍刑法を強調されまして、敵前において、敵に対する恐怖感で、対敵状態にある部隊の一員が後方へ下ろうとする、それを指揮官が射殺する若しくは突き殺すというような場合は罪にならないというところの特別刑法であるところの陸軍刑法を以て、私に対して吉村のやつたことは当然だというようなことを申されたのであります。この稻見憲兵少佐は旅順で陸軍憲兵准尉、旅順憲兵隊長当時私が仕えた上等兵であります。稻見憲兵少佐が熱河省承徳の特別警備隊の憲兵の先任將校として來られたとき、私の身分は満洲帝國陸軍憲兵中尉でありました。終戰当時の満洲國軍の反乱とか何とかいろいろデマが盛んに警務廳から飛んだ関係で、君一つどうこうといろいろな話を稻見少佐から依頼を受けましたが、私は成る程日本の憲兵として十年間やつたことのある陸軍の憲兵曹長でありますが、現在の身分は身分だからして、稻見少佐殿、あなたの言われるようなわけに行きません。要求に感じますが、やはり所属長官である木島閣下の承認を得て、然る後報告するようにいたしましようというように言うておつたよう関係もあり、私と隊長吉村氏と話合つても、意見の対立と申しましようか、解決できなかつたことについての代弁者として、たまさか收容所長会議に行つて帰り道自動車が事故になり、最寄りの吉村隊に立寄られた。稻見憲兵少佐が吉村隊長の意図を奉じて私に取つた吉村隊長の行爲は当然であると納得さすべく稻見少佐をして吉村隊長が軍刑法を云々させたのじやないだろうか、私はかように思つております。それで話合いはそのまま済みまして、それから私に絶食十五食、朝晝晩抜きの日が五日続いたのであります。それで吉村隊の医官である酒井先生は、私が……
  298. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 証言中でありますが、今の絶食十五日間ということを言われておりますが……。
  299. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 十五食……。
  300. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 十五食、これは「曉に祈る」の電柱に括られたままそういうふうになされたのかどうか。
  301. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) いいえ、違います。稻見少佐と軍刑法並びに一般刑法との話がある前に、「曉に祈る」は止んでおります。
  302. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうか。
  303. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) それも恐らく稻見少佐が來なかつたらずつとやられておつたかも知れません。稻見少佐と私との関係吉村氏もよく知つておりますが、長谷川大尉殿が出られた後、吉村隊と、南の收容所と北の收容所一緒になる前には、私は酒井先生と一緒吉村隊に入つた
  304. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうすると鎌谷証人は「曉に祈る」を幾日間執行されたのか、その点をはつきりとこの際に御証言頂きたい。
  305. 岡元義人

    理事岡元義人君) 淺岡委員ちよつと、まだ証人が全部終らないので、その後ではいけませんか。
  306. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 証言の区切りをどこになにするか、委員長の方から御注意頂いてもいい。
  307. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) いや、言うだけ言えと言われたから言うのですが…。
  308. 岡元義人

    理事岡元義人君) 証人証言を続けて下さい。
  309. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 朝晝晩抜きの日が五日続いたのであります。勿論この間作業に行くのであります。作業行つてノルマを上げ、上げないのは誠意がないからと吉村言つておるのだが、身体が弱い人はこれをやられるのは恐らく死を覚悟したことと私は思います。「曉に祈る」程辛い情けないことはありません。身分は、捕虜であります。併し與えられた食糧を与えずして吉村氏がやつたというこの点につきまして、私はこれは必ず日本へ我々帰るときもあるだろう、そのときに問題になると考えておりました。幸いこういう帳面を手に入れておりますので、吉村隊に附いてからの歌、その他を幸いこの一冊だけ持つて帰つておりますので、何月何日どういうようなことがあつたというようなこともこの記録に詳細に残されてあります。私が何故、私をして言わせれば無実の罪を着てそういうことなつたかということについては、昭和二十二年三月一日であります。私は將校の乘馬用雨外套を持つております。その將校の乘馬用雨外套を隊長吉村氏が欲しがつておるが、鎌谷さん手離す考えはないだろうかということで、隊長の使者に立つたのは酒井一郎証人であげます。私は申しました、隊長が欲しいというならば上げてもいい、併し來るときのように、蒙古へ來るときのような列車内の絶食とか、逃亡とかその他に対するソ蒙側の処罰、絶食、水も呑めないというようなことがあつたときには私自身も困る、そのためにこれだけは残して置きたい、是非とも欲しいと言われるならば、ここに交換條件として將校の水筒も盗まれた今日、兵用の水筒も欲しい、雨雪のことを考えたならば兵用の外被も欲しいからそれを交換して貰いたいと思いますが、而して欲しいと言われる以上隊長も何か交換條件考えておられるだろうと思いますから、御一任しますと、三月十一日に話しております。  それから大体その絶食でありましたから……金を持つておりましたので、そのうちで二キロパン一本賣うております。
  310. 岡元義人

    理事岡元義人君) 途中証人の先程からお述べになりました中で、営倉から出られましてから、從來の電柱というのはそれは外にある電柱でありますか。
  311. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) そうでありません。吉村隊は尼寺を改造したものでありまして、西北の方にあります門があるのです、これくらいの大きさの直径約十サンチの門にくくり付けるのであります。
  312. 岡元義人

    理事岡元義人君) その電柱ですね、それから今の十五食を抜かれたというのは、その門の柱から解かれてから続けて十五食抜かれた、こういう意味でありますか、全然別個の問題でありますか、十五食は……。
  313. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 十五食の絶食は結局吉村の代弁として稻見憲兵少佐が軍刑法のことまで言うたけれども、鎌谷の野郎生意氣だというのも、あの野郎生意氣だということで十五食に出でたのだと思うのでありますが、伊藤少尉吉村氏に顔面をやられたところへ稻見少佐が來たので軍刑法と一般刑法との話が終つてから、その何は「曉に祈る」、いわゆる柱へ手をくくられたことはその晩だけで終つておるのであります。分りましたですね。
  314. 岡元義人

    理事岡元義人君) 続けて。
  315. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) ですから食事はしませんが、毎日從前の仕事はやつておりました。
  316. 岡元義人

    理事岡元義人君) ちよつともう一点時間がよく判明いたしませんが営倉に入れられたのは何時頃で、何時頃出て、何時にその柱の門にくくられたか、何時頃解かれたか、その点を……。
  317. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 午後五時隊内に帰りまして、それから大体脱柵しましたのが八時過ぎだつたと思います。それから柱に括られて翌日の晝まで、晝過ぎかな、翌日の、四日、翌日のあれは午後二時頃までですから、十四時間の間柱に括り付けられておりました。
  318. 岡元義人

    理事岡元義人君) そこでもうちよつと伺いますが、その十四時間というのは最初何時間ということを、吉村隊長から十四時間のいわゆる「曉に祈る」という刑に処すと、こういう工合に言われたのですか。
  319. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) いや違います。
  320. 岡元義人

    理事岡元義人君) ちよつともう一点、その翌日に作業は何時から始まつておりますか。
  321. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) そのとき作業行つておりません。作業に行かずに、いわゆる晒しものと言うのでしようか、分りやすく言えばそれに処したわけです。
  322. 岡元義人

    理事岡元義人君) もう一点だけ聽いて置きますが、あなたは三月の二日時分記憶があるようですが、三月の二日時分に……。
  323. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 三月の二日ですか。
  324. 岡元義人

    理事岡元義人君) で、先程、三月の……。
  325. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 時候は、四月の……。
  326. 岡元義人

    理事岡元義人君) いや、三月一日のことを知つておられますね。
  327. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) はあ、三月一日のことは酒井先生が代理で……。
  328. 岡元義人

    理事岡元義人君) その時分に牛皮工場で、羊皮ですか、羊皮工場で靴が相当失くなつたというような事件が起きたことを知つておられますか。
  329. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 総合工場でありまして、私の作業場とその防寒靴のある所とは距離があります。
  330. 岡元義人

    理事岡元義人君) その問題には全然あなたは関係ないわけですね。
  331. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) はあ、関係ありません。私の処罰に対して関連性はありません。
  332. 岡元義人

    理事岡元義人君) どうぞ。
  333. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 坐つていいのですか。
  334. 岡元義人

    理事岡元義人君) どうぞ、別の委員から御質問がありましたら……。
  335. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 証人お尋ねいたしますが、あなたが十四時間括られたというその門の柱ということを言われましたが、先刻他の証人から「曉に祈る」の電柱は北門の外にある百燭光の灯りをつけたその電柱と、それからその門の中にある炊事場の傍に建てられた電柱、この二つを「曉に祈る」電柱として使用したということでありますが、あなたが先程言われた直径十サンチ程の門柱というのはどこにあるのですか。
  336. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 「曉に祈る」という言葉関係で、その体驗者がやつた場所等について相当違つております。一番最後に清心寮というものが設置されましたのですが、吉村氏が清心寮というものを書きました。それは最も最後であります。その前が私の入りました廣さ……。先程も申しましたのですが、そういう所、その前が後に大工の工場になつた所、その前がいわゆる新聞紙上に傳えられておるところの恐怖の電柱でありまして、段階が違うのであります。
  337. 岡元義人

    理事岡元義人君) ちよつと各委員に御了解を得たいと思いますが、先程鎌谷証人証言中に、笠原証人中途において多少氣分が惡くなりましたので、委員長独断で退席を許しました。御了解を願います。    〔「了承」と呼ぶ者あり〕
  338. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 鎌谷君に伺いますが、俗に「曉に祈る」と言われる……祈らされた、八時頃から括られたというのはどういう状態で具体的に括られたか、門の柱に或いは手を摺られたか、いろいろやり方によつては直接に括られた場合と相当間を置いて括られた場合とあるようですが、あなたの括られた状態はどういう括られようをされたですか。
  339. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 電柱の代用があるといいのです、が、これを電柱とします、電柱に向つてこうやるのです。
  340. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 身動きのならん括りようですか。
  341. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) いや、手は動かんようにはなつておりましたが、柱と私の体の間には若干余裕がありました。
  342. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 その晩の寒さはどのくらいでございましたか。
  343. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 蒙古の寒さは風が吹くと、又うんと強くなるのでありますが、大体四十度乃至四十五度でなかつたかと思います。
  344. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 零下ですか。
  345. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 勿論そうであります。
  346. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 そうして脚のひびれは相当参りましたか、寒さによるひびれ……。
  347. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 蒙古の寒さは風が吹くと、又うんと強くなるのでありますが、大体四十度乃至四十五度でなかつたかと思います。
  348. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 零下ですか。
  349. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 勿論そうであります。
  350. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 そうして脚のひびれは相当参りましたか、寒さによるひびれ・・・・・・。
  351. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 相当ひどい寒さですから、その場で足踏みをやらざるを得なかつたのです。括ることによつて手にしびれして來ると欝血して、手が腐るということは、私は、教育によつて私は知つておりますから、吉村氏が括るときに欝血せんように手をこう離してですね、括つてつた
  352. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 その括つたのは誰が括りましたか。
  353. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 吉村が括つたのです。
  354. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 吉村自身が括つたですか、それを連れて行つて
  355. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) そうです。援助として伊東少尉と……。
  356. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 伊東少尉と二人で行つて、括つたの吉村自身が括つた
  357. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) そうです。
  358. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 そうしてそのとき、一晩中どういうようにして寒さをみずから防いで來たか……。
  359. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 先程申しましたように足踏み、これ以外にありません。
  360. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 そうして、そのときどういう感じを持つて一晩中來られましたか。
  361. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) これも先程申しましたように、体の弱い人間では参つてしまう、いわゆる極楽往生するのじやないか、そういうように私は思いました。併し何糞という氣持があつたので、精神力と、それからまあどう言つたらいいでしようか、何糞、こんな寒さで負けて死んでしまう馬鹿らしいことはないのだから、何とか……。
  362. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 結構です。そうしてその朝、夜明けてから午後二時頃まで同じ所で括らされて……。
  363. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) いや……。
  364. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 同じ所で括らされておりましたか。
  365. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) ちよつと待つて下さい。吉村が括つたのですが、私自身が括られるときに、うまく括らさなかつたのでしようか、自分に括る経驗を持つてつた関係か、取つちまつたのです。解いてしまつて、括られておつた所から約十メートル程、四メートルぐらい東に、丁度陽が当つて來関係でそこへ、よく陽が当るそこの方へ移動したのです。
  366. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 それは自分で勝手に移動したわけですか。
  367. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) そうです。
  368. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 そうすると朝陽が出てから、自分勝手にそこへ移動して、そうしてそこに午後二時頃までおつたのですか。
  369. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) そうであります。
  370. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 それに対しては別に叱られもしない、どうも受けなんだですね。
  371. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) はい、隊内に勤務の人もおりましたししますが、それに対して何んとも言いません。
  372. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 そうすると晩の八時から朝まではその門柱にくくられて、朝日が昇つてからは十米ぐらい離れた日当りのいいところまで……。
  373. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 四米です。
  374. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 そこへ移動してその間ちやんとしておつたのですか。
  375. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 立つたり坐つたり任意にやつておりました。
  376. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 そうして二時頃になつて吉村が呼びに來たのですか。
  377. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) あのときは誰が來たか忘れましたが、いずれにせよ思いがけず作業に行かず、そういうふうな手錠をほどいて日光浴したというような状態で怒られもせず、班内に帰りました。そうすると夜勤をやつてつた者が班内におりまして、稻見さん、稻見隊長殿が面会に來ておりましたよ、ということで稻見憲兵隊長吉村隊に來ておつたということを知つたのです。
  378. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 その晩の食事は受けましたか。
  379. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) その晩の食事は上りました。
  380. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 食べましたか。
  381. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 食べました。
  382. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 十五食は……。
  383. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 十五食は吉村少佐と話が済んでからであります。
  384. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 あなたは十四時間立つておられた。殊にその夜が明けてからこの收容所内にやはり隊員として人がおつたと思うのですが、そういう人達はあなたを通行の途次に皆んな見ておりましたか。
  385. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 見ておりました。
  386. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしてその問題に対してはどういうふうな感じをですね、例えばこうした問題に対して吉村隊長にこれは苛酷じやないか、解いてやつたらどうかというようなことを隊長言つて行くような者があつたかなかつたか、あなたが直接御存じかどうか知らないが、そうしたそのときのあなたの感じはどうだつたのですか。
  387. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 吉村隊長に向つて言つて行くような氣骨のある人は恐らく誰もいなかつたでしよう。
  388. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 先程あなたがその工場でノルマを上げたということでその蒙古人から特別にその毛皮のついた、毛や皮のついた肉を貰つたということでありますが、そういうふうなことが收容所内で自由にできるのですか。
  389. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 收容所内で作業行つておるときにやはり休憩があります。休憩のときに休んで、内部で食べていいということを蒙古側は言つております。それくらい蒙古側は捕虜を思うておつたので誰にでも分る筈であります。ところが吉村隊長はその休憩時間に休憩をせず、そういうようなことをやつておると、毛皮に傷をつけることになり、いわゆるバランクを出して傷をつけるとその責任が、そのやつた人間は勿論のこと自分に及ぶことを恐れて蒙古側で許容したことを絶対やつちやいかんと拍車をかけてやられたわけなんです。
  390. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それからもう一点、そうした肉を貰つたということを誰が吉村隊長に告げたか、あなたが告げなければ隊長は知らんでしよう。
  391. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) それは分りません。帰つたときに呼出されたのであります。
  392. 天田勝正

    天田勝正君 簡單に伺います。稻見憲兵少佐の話が出ましたが、この稻見憲兵少佐はどこの收容所に收容されておりましたか。何かあなたのお話を聞いていると、大変権威があるかのごとく聞えるのですが……。
  393. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 稻見憲兵少佐は……。
  394. 天田勝正

    天田勝正君 あなた御自身で分らなければ分らないでもいい。
  395. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 分りません。ウランバートルの西の方にある妙なところにおりました。
  396. 天田勝正

    天田勝正君 それでは続いて伺いますが、旧憲兵少佐が後でもそのようにあなた方に対して権威を持つてつたのですか。
  397. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 権威という言葉に対して若干語弊があるように思うのでございますが、ただ稻見少佐の准尉のとき私が上等兵であつた。かわいそうと思つて、いろいろ慰めがてら、まあ成るべく吉村の言う通り唯々諾々としてやれ、そうじやないか、という意味で言われたと思います。
  398. 天田勝正

    天田勝正君 そのときに稻見憲兵少佐は依然として憲兵少佐の服装をしておりましたか。
  399. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) おりません。
  400. 天田勝正

    天田勝正君 おらない。ではあなたは吉村と知り合つた当時においては旧軍隊の何んの階級におりました。
  401. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 吉村に知り合つたのは捕虜になつて知り合つたのです。
  402. 天田勝正

    天田勝正君 旧軍隊階級はあなたは何んですか。
  403. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 私は日本軍の憲兵曹長であります。
  404. 天田勝正

    天田勝正君 吉村とは階級においては同階級であるということになりますね。
  405. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) そうであります。
  406. 天田勝正

    天田勝正君 そうすると、もう一遍突込んで聽いて置きますが、そこで旧軍隊階級はその隊内では、何の効果もなくなつている。こういうことが言えますか。つまり上級者であつても、あなたの話で、伊藤少尉とかいろいろ出て來ますが、それらの人が逆に吉村の下に使われておつたのですか。同階級であるあなたも下に使われておつたのですか。旧階級は効力を失つてつたのでありますか。
  407. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 事吉村隊に関しては、吉村には蒙古という背景があります。その関係で、日本軍の中尉もおりました、大尉の人もおりましたし、満洲國軍からいえば大佐参謀も、中佐参謀もおりました。勿論この人達も日本軍の將校であります。そういう人達も吉村部下なんです。
  408. 細川嘉六

    細川嘉六君 鎌谷証人にお聽きいたしますが、今外蒙側が吉村隊長のバツクになつた、そのバツクになるために吉村隊長は何かやつたのですか。何か事情がありますか。それを一つ伺います。
  409. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 私が吉村隊に入りましたのは、昭和二十年の十二月の十日頃でありました。医官をやつておられました酒井先生と一緒に入つたのであります。私と一緒行つた満洲國軍の五軍司令部関係の人と、それから満洲國協和会の承徳の、熱河省の省事務長をしていたところの永井正、この人達らが向う行つたのでありますが、そのときに吉村隊長は苦力のような民服の上下を着ておりました。私達は終戰と同時に満洲國軍の將校は接見するに及ばず、別命を待てという意味の軍司令官の山田乙三閣下の電文に接しまして、命に基きまして、満洲軍の將校並びに軍属は所用のものを軍衞から自分の自宅、官舎に持つて帰りまして待機しておつたのであります。ところがソ蒙軍が入つて來たというので一部隊の木村大佐の方から命令があつたと申されて、五軍司令部の根本大佐から完全武装の上承徳離宮に集合という命に基いて、私が入つて行つたわけなんです。で、結局アマガランにおつたり待機しておつたりして、吉村隊に入りましたのは、先程申しましたような、昭和二十年の十二月十日頃でありましたが、やはり私が日本軍の憲兵であつたということをどなたかの誰かを通じて吉村隊長の耳に入つたものと見え、そして話して行きますと、私が上等兵のときに仕えた牛島満大佐、二、二六事件直後東辺道寛旬におられ、その後少將に進級の上、都城の師團長になつて、五島で上陸演習をされた。そのときにやはり吉村氏が上等兵で配属されて勤務をやつたということを聞きましたし、それから私が東寧憲兵隊本部に軍曹として勤務していたとき、その東寧の隊の隷下にある城子溝の分遣隊長吉村氏が曹長でやつたというようなこと。それからまあ支所実務の專攻学生として私が行つた時の同期生の話で、吉村氏と話したということ。それから又私が熱河の承徳の満洲國の第五憲兵隊本部に勤務しておつたそのときは、熱河の特別警備隊に來ておつた……。
  410. 細川嘉六

    細川嘉六君 そうすると外蒙へ行つて吉村隊長が、あなたが曉に祈るをやられた程の権力を振つた。そうなるには外蒙側の、バツクがあつたと……どうしてそれ程のバツクが吉村隊長にあつたか。それについて何かお考えがありますか。
  411. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 勿論これは私が実証を把握しておるわけではありませんが、重労働五年に科せられたモジック蒙軍の中尉吉村氏との間に金銭的な疑惑というものについて我々隊員は感じておりました。そういう経理部門については、私は全然存じません。
  412. 細川嘉六

    細川嘉六君 モジック中尉との関係は相当疑われておりましたものですか。
  413. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 疑われております。それは内蒙の参謀通訳を通じて疑われる節があつたのであります。
  414. 岡元義人

    理事岡元義人君) 細川委員に御注意申上げます。一つ簡單に要点だけをお願いいたします。
  415. 細川嘉六

    細川嘉六君 畏まりました。鎌谷証人にもう一つ……。あなたは吉村隊長とは初めから大分関係が深かつたらしいんですが、というようなことを聞いておりますが、吉村隊長池田君に対してどう考えますか。どういう人物か、それをちよつと特徴だけをはつきりさせて頂きたい。
  416. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) これも段階的に申上げなければならんと思います。私達が行つたときは、いわゆる苦力見たいな服装をしておつた吉村隊長が、結局隊長としてのふさわしいだけの被服を、どこに求めたか。それは満洲國の軍官に対して求めた。満洲國の將校ですね。満洲國の日本人將校に求めたわけなんです。そうして蒙古側の点数を探るためには、時計を出した者もおれば、写眞機を出した者もおるということを聞いております。最初の頃の吉村氏は非常に話せるいい隊長でありました。いわゆる捕虜の第一目的であるところの生きて帰るためには、かくかくしようじやないかというように、協力を求められたんです。ところが、彼は何かの拍子で……長谷川大尉殿がアマガランの監獄に行つておられる間に隊長になつてしまつた。南北の收容所一つになつた一つになる前に、リユツクサツクの内容檢査をやつております。そのときに、参謀肩章を持つてつた者は誰か、食糧を持つてつた者は誰かということを見まするに、持つておるらしいような形跡が疑われたのであります。そしてそれが……。
  417. 岡元義人

    理事岡元義人君) 証人に御注意申上げます。要点だけを傳えて下さい。
  418. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 隊長の威容、その他の段階を述べているのでありまして、取る物を取つてしまつた後に、取つてからの吉村が非常に惡くなつたということが言えるのでありまして、性格として見まするに、非常な嘘つきであります。(笑声)
  419. 細川嘉六

    細川嘉六君 あなたはさつき非常に強慾だと言われたが、やはりその通りですか。
  420. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 慾が深いです。
  421. 細川嘉六

    細川嘉六君 深いですか。
  422. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) はあ。
  423. 細川嘉六

    細川嘉六君 それからあなたは、古いあなたの仲間の者を、殊に古い付き合いをして來た者を柱に縛り付けるということをやつた言つておりましたが、残忍だということになりますね。残忍な人だということになりますね。
  424. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) なります。
  425. 細川嘉六

    細川嘉六君 そうですね。
  426. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) なります。そういう点があつたんです。結局曉に祈るとか絶食というようなことは、蒙古軍將校の命によらずして、吉村が自己の物慾を満足せんがためにやつた一つの前奏曲と言うていいんじやないかと思います。
  427. 細川嘉六

    細川嘉六君 吉村隊長がそれ程の権力を握るには、隊内をぐつと治めつけて行つたというにはですね、その隊内に組織があるのでしよう。その組織ちよつと言つて呉れませんか。隊長の下に何があつて誰がどうしてという組織があつたですか。
  428. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) それは結局、隊内のスパイ網の秘密を暴露するより外はないと思います。
  429. 細川嘉六

    細川嘉六君 一人で命令したり、走り廻るということはできないでしよう。
  430. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 結局、私らが行つたときにすでに、吉村隊のいわゆる吉村氏の方針に盲從しておつた者、これが各職場の先任者であります。
  431. 細川嘉六

    細川嘉六君 それが一團になつておりましたか。組織的になつておりましたか。ばらばらになつておりましたか。
  432. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 勿論例えて言えば、羊毛工場の中の安藤伍長とかいろいろ、鉄道の古川、古川じやない。誰とかいろいろ言えるでしようが、それはなかなか秘密的で、分らないようにやつてつたことでありまして……。
  433. 細川嘉六

    細川嘉六君 隊長命令が出ると、それが一遍に傳わるようにできておりましたか。隊長がこれをしたいと言つた場合は、その意向が全体に傳わるようりになつておりましたか。
  434. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) そういうような連絡じやなくて……。
  435. 矢野酉雄

  436. 細川嘉六

    細川嘉六君 発言中。
  437. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 吉村氏のやり方はそうでなくして、この羊毛工場なら羊毛工場、羊皮工場なら羊皮工場を知らんとする場合は、自分の腹心の部下をそのポストポストに置いておつた。だから横の連絡は、吉村氏の目となり耳となる者の横の連絡は全然減つておらず、羊毛工場の誰それ、羊皮工場の誰それ、建築場の誰それと、全部自分が握つてつたわけです。
  438. 細川嘉六

    細川嘉六君 收容所内のことは、吉村隊長が自由自在にやられたものですね。
  439. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) そうであります。モジック中尉は……。
  440. 岡元義人

    理事岡元義人君) 細川君にお尋ねいたしますが、まだ大分ありますか。
  441. 細川嘉六

    細川嘉六君 発言中。部下を手に入出れておつたから、自由自在だつたわけですね。
  442. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) そう言えるでしよう。そうは言えます。
  443. 岡元義人

    理事岡元義人君) 一問一答で行かれるんでか。    〔「議事進行」と呼ぶ者あり〕
  444. 細川嘉六

    細川嘉六君 自由自在にやつた。それでそのことは外蒙から何の干渉もなかつたのですか。又あつたんですか。
  445. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 干渉はなかつたようです。大体吉村隊長以下の捕虜に対して活殺の権を握るところのモジック中尉がなぜ重労働五年に処せられたかというこの間のことにつきましては、御想像に委せます。
  446. 細川嘉六

    細川嘉六君 分りました。
  447. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 鎌谷証人に対する質問は一應ここで打切つて、そうして証人はそのまま席を占めて置いて頂くようにして、そうして議事進行して頂きたいと思います。(「賛成」と呼ぶ者あり)それでそのように取計らわれたい。
  448. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今矢野委員の御発言に対しまして、御異議ありませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  449. 岡元義人

    理事岡元義人君) それでは、証人はその席にいて頂きまして、君島証人証言を求めます。先ず第一に君島証人はどういう理由によつて、いわゆる曉に折るという処罰を受けたのでありますか。その原因について詳しく述べて頂きます。
  450. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) 自分は曉に祈るというような、そういう処罰は全然一回も受けたことはありません。又その外絶食というようなことは、これも受けたことはございませんが、ただ一つ、病氣で休んでおるときに晝食を一週間ばかり抜かれたことがあります。
  451. 岡元義人

    理事岡元義人君) それだけですか。尚続けて、あなたは、曉に祈つたことはないんだ。併し外に誰と誰とがそういう処罰を受けたか。その点について知つておる範囲において答えて頂きます。
  452. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) 曉に祈るということは、自分達が作業に行くときに、門のところにくくられておるのを大分見ました。自分記憶しておるのでは、林伍長という人がくくられておるのは覚えております。
  453. 岡元義人

    理事岡元義人君) もう一回、今のはどなたですか。
  454. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) 林伍長です。そのくくられたというのは、收容所内でよく吉村隊長の惡口なんか言つたことがあるのであります。そういうあれが、スパイのあれで以て隊長の耳に入つたようなことから、曉に祈るというようなことになつたのじやないかと自分は思つておるのであります。
  455. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 曉に祈るという言葉は、そのあなた方がここの收容所におられたときから、こういう特別の言葉がはやつてつたのですか。
  456. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) いいえ、それはあるときに演藝会がありました。そのときに或る一人の人が、その曉に祈るという、そういう処刑のあれを、その言葉でですね。その演藝会のときにそういう劇をやつたわけなんです。それから曉に祈るという言葉が拡まつたわけであります。
  457. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 その演藝会には吉村隊長も顔を見せておりましたか。
  458. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) 見せておりました。
  459. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 それからあなたが、最前しばしば門柱にくくられておるのを見たと言われた。その一つの証拠として、林伍長もそうであつたという言葉があつたんですが、しばしばというのを今から記憶を辿つて見て何回ぐらい、或いは何十回ぐらいそうした体刑に処せられておるのを御覧になりましたか。
  460. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) 大分沢山そういうことをされておるので、どのくらいということも分りませんが、三十人ぐらいはそういう処刑に遭つておるのじやないかと自分は思つております。
  461. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 それで、その体刑を科せられておるうちに、その場で死亡したり、或いはその直後に死亡したりしたという実例を、或いは目撃され、或いはそれを聞かれたという御経驗はありませんか。
  462. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) それについて南雲というのが、曉に祈る、くくられはしなかつたですけれども、清心寮に入れられてですね。それで出て來てから亡くなつた人があります。
  463. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 南雲、その人は兵卒ですか。
  464. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) たしかそうだと思います。その人は栄養失調で体が弱くなつておるところへ、作業を沢山、過重労働をするので以て、体が疲れておるという理由で逃亡したわけであります。そして逃亡して捉つて隊長室の前に連れて來られて、散々隊長に殴られて、挙句にそこの清心寮に入れられて、そうして出て來てから亡くなつたか、或いはその中で亡くなつたか、それはちよつと自分記憶がないのであります。
  465. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 あなたはその当時において、吉村隊長に対して、最前細川委員からも質問がありましたが、非常に残虐な、或いは苛酷なことをする男だということを、その当時においても思つておりましたか。
  466. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) 思つておりました。
  467. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 又、帰國されてから後、当時を顧みられて、吉村隊長に対するあなたの人物観、簡單でよろしうございますからお述べ願いたい。蒙古におくられたときに、吉村隊長にどういう氣持を持つておられたか。
  468. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) 蒙古にいたときはですね。吉村隊長に反抗すれば、自分がそういう目に遭わなくちやいけない。隊長の言いなりになつていなくちや駄目なんであります。それで以て内地に帰つて來てから、どうにかしようと思つていたのであります。函館に着いたときに調べられて、そのまま刑についておると今まで思つておりました。
  469. 天田勝正

    天田勝正君 あなたの割当てられた作業は何でありますか。
  470. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) 自分は靴修理であります。
  471. 天田勝正

    天田勝正君 あなた方がそうしてノルマをやつておる場合に、班長であるとか、或いは隊長であるとかいう人達は、つまり幹部ですね、それらの人達はどういう仕事をしておられたのですか。
  472. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) 自分行つておる靴修理は、自分が班長でありました。それで自分も仕事をしておりました。
  473. 天田勝正

    天田勝正君 そうしてあなた自身にもノルマがあるのでありますか。
  474. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) そうであります。余所の作業場では、その作業長なんかは監督をしております。
  475. 天田勝正

    天田勝正君 その間、吉村隊の本部と申しますか。そういうところの人達は全然何にもしておらない。そう承知していいですか。
  476. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) はあ。
  477. 天田勝正

    天田勝正君 吉村隊の本部の人達ですね。或いは連絡員であるとか、隊長であるとか、或いは本部の書記の人であるとか、これらの人達は全然何にも、そうした作業というようなことはしていないと……。
  478. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) 作業をしていない者は隊長室の隊長と、当番ですね。それからあと炊事勤務兵、内勤者だけが残つてあとは全部作業場行つております。そうして作業場では、作業長だけは監督で以て仕事はしておりません。
  479. 天田勝正

    天田勝正君 それからあなたは沢山くくられたのを見たわけでありますが、それが一度も蒙古側の歩哨、警備といいますか、そうした人達がついておるといういことはなかつたのですね。
  480. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) その門のところにくくられておるのは、歩哨が門のところに立つておりますから、ついております。その外のところに……。
  481. 天田勝正

    天田勝正君 ちよつと待つて下さい。それを見るために歩哨はついておるのでありますか。そうじやないでしよう。どつちですか。
  482. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) それは分りません。
  483. 天田勝正

    天田勝正君 分らない。普通に門のところに……。
  484. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) いつも門のところに立つております。
  485. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 君島証人に伺いますが、先のお話で、演藝会が催されたというお話でありますが、いつでありますか。
  486. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) それはちよつと記憶ありません。
  487. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 凡そいつ頃ですか。昭和二十二年の春頃ですか。若し君島証人がお分りにならなければ鎌谷証人がお分りならば鎌谷証人からでも伺います。
  488. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 明確な年月日は私も記憶しておりませんが、大体昭和二十一年の暮だつた考えております。
  489. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 それは門柱なり電柱にくくられるいわゆる曉に祈るという劇をやつたのですか。
  490. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) そうではなくて、曉に祈るとか絶食とかいう言葉を織込んだ劇をやつたわけなんです。それに関連して申上げたいのですが、これは滿洲軍の主計中尉つた男で、この相棒を務めた男が東京に帰つておりますが、昨日面会に來て本人にも言うたのです。勤務場所の違う関係で分らないのですが、それと、この溝口辰夫という男が二人でやつた劇の中でノルマのことを言い、絶食して曉に所つたこともあつたが、お蔭でこれだけのものを持つて帰れるのだと言うたときには、隊員全部がよくやつたという氣持だつたのでしよう。拍手喝采、ためにさすが吉村氏も下うつむいてしまつたというようなことがありました。この劇の雰囲氣こそ吉村に対する隊員の無言の抗議であつた全員が観察しております。終ります。
  491. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 その曉に祈るは、最初十一年の着いた当時から翌年の何月頃まで、冬の期間と想像しますが、何月頃までこの刑が続きましたか。
  492. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) これは吉村隊長が、長谷川大尉殿がアマガランの監獄に行かれて、いわゆる南北收容所を打つて一丸としての隊長になつてから始まつたことであります。夏冬引続いて行われておつたように思つておりますが、勤務その他の関係で明確に申上げることはできません。職場が非常に多かつた関係もあります。
  493. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 冬は曉に祈ると言い、夏は熱砂の誓いというような言葉で表現されておるようですが、夏のやり方は又違つたやり方をしましたか。
  494. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 熱砂の誓いということは新聞には出ておりましたが、私自身それを目撃したことはありません。
  495. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 そうしますと、冬はいわゆる門柱にくくられて、夏も同様な状態を見ましたか。
  496. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) それは私は知りません。
  497. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 夏は全然そういうことはなかつたのですか。
  498. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 私は目撃しませんから、知らないです。
  499. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 それでは君島証人にその点を伺います。
  500. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) 夏はよく畑やなんかをやつておる姿を見たことがあります。
  501. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 それは罰則のためにですか、処刑のためですか。
  502. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) そうです。
  503. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 処刑のために畑の作業をやつたのですね。
  504. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) はあ。收容所の外に畑を作つて野菜を沢山作つたことがあります。それを作るために相当荒れていた畑を開墾したのです。それを開墾するのにそういう熱砂の誓いというような言葉が出たのではないかと思います。收容所内には熱砂の誓いというようなことは聞いたことはありません。
  505. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 曉に折るというのは劇の上に出て來て大体そういう言葉が生れた。熱砂の誓いというようなことは、全然言葉はなかつたのですか。
  506. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) 自分はそういうことを聞いたことはありません。
  507. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 もう一つ伺いたいことは、よく重傷者を車に乘せてそうして寒いとき雪の中に落としたというようなことをお聞きになり、又目撃されたことはありませんか。
  508. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) そういうことはありません。
  509. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 二人の証人のいずれでもいいのですが、先に君島証人からお尋ねしますが、鎌谷証人が先程十四時間程曉に祈るというような処刑にくくられた、あなたが目撃された三十名近い人達の、その曉に祈るの受刑者はやはり鎌谷証人のようなくくり方をされておつたかどうか。その点を一つ
  510. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) くくり方もいろいろあつたと思います。それは門のところにくくられておる者はよく朝なんか出動するときに見ました。門の中の電柱にくくられておるのを見たのは、足を投げ出して坐つて、手を後に縛られておつたりを見ました。三人くらいで固まつてつたのを見ました。
  511. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 君島証人は鎌谷証人のくくられておつたのも同様見ましたか。
  512. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) 見たと思いますが、それは数が多くて、確実に鎌谷証人というのじやなくて、沢山見ておりますから、その当時の状況で以て記憶に止まつておりません。
  513. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 君島証人お尋ねしますが、このくくられておつた繩というのはどういう繩ですか、見たことありますか。
  514. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) 麻繩と思つております。
  515. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 もう一遍今度は鎌谷証人お尋ねいたしますが、鎌谷証人はさつきくくられておつたときに、繩を解いたのか、解けたのか知らんけれども、うまいくくられ方をした、そうして明け方日が出るようになつてから四米らい先の日の当るところで日向ぼつこをして、まあ若干でも寒さを凌いだということを言われておりますが、外のあなたの目撃された、曉に祈る……そうした刑を受けた人はやはりあなたと同じようなくくられ方をされたかどうか。
  516. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 私のくくられ方と外の人のくくられ方と同じであつたかどうか、それを見る程我々日本人の血には冷たいものが流れちやおりません。皆目をそむけて通つて行つたのです。
  517. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 重ねてお尋ねいたしますが、北の門柱、それからその門柱の外にある電柱と内にある電柱、作業に行く人は多く南門を出入りされたということを他の証人から陳述されてありますが、この外の電柱と内の電柱、そのいずれに、曉に祈るという処刑を執行したという点においてどつちが多いですか、外が多かつたか、内が多かつたか、そういう点は記憶しておりませんか。
  518. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 内、外と申されますが、一つの蒙古の廟の中のことでありまして、我々捕虜の逃亡を監視せんがために、又出て行つた員数と帰つて來た員数の相違なきや否やを確かめるために、歩哨がついておるのです。蒙古側の歩哨が内とか外とか申されたのは何かのお聞き遠いじやないか思います。その蒙古のうちの廟の中にあつての電柱であり、又柱なんです。それで南とか北とか言われましたが、南の門も北の門もある。東の門もあり西の門もあります。ありますが作業に行く関係で、東の門を通過するのは鉄道の勤務に行く者、それと石切りに行く者、それから西の門は製材所とか、建築場とか、羊皮、羊毛、それから事務所というような者の出入りするところ、それから南の門は收容所長のところへ通ずる小門というようになつておりまして、どちらが多かつたとかどうこうというようなことについては、氣を付けちや見ておりませんので言いかねます。
  519. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 他の証人の言によりますと、南の門の外にと先程私言いましたが、百燭ぐらいの電柱があつた。その電柱を多く……その電柱と、それから炊事場所の、その脇にあつた電柱、この二つを多く使つたということを他の証人言つているけれども……。
  520. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) それは私目撃したことがありませんので、明確にお答えすることはできません。
  521. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 鎌谷証人にお伺いしたいのですが、あなた死んだ方の始末はどうされたか。それに参加されたことはございませんか。
  522. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 処置に関しましては、私参加したことはございませす。
  523. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 大抵亡くなられた方は、病院か何かに送られるのですか。
  524. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) そうであります。
  525. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 そこで葬儀等は行われないのですか。
  526. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) そういうことはやつておらないようであります。
  527. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 君島証人御存知ないですか。
  528. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) 隊で以てなくなつた方は、隊の炊事場の脇に、外に置いておくのであります。炊事場の脇と、それから糧秣倉庫があつて、その脇に炊事場があるのです。その入りくんだ所へ死体をよく置いてありました。それから病院に連絡のあつたときには馬車に積んで病院に持つて行つたそうであります。
  529. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 その死体が置いてあるときに誰か附いておりましたか。
  530. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) 附いておりません。
  531. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 ただ死人が放りはなしである……。
  532. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) そうです。雪が降れば積るし、雨が降れば雨がかかる。
  533. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 誰がそこへ運んだのですか。
  534. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) 誰が運んだか分りません、が、脇にいる者や何かが持つて行つたと思います。
  535. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 それは、土葬されるか、火葬されるかということは、あなたは御存知じないですか。
  536. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) それは病院から帰つて來た者の話を聞いたことがあります。それは隊で亡くなつた者は病院に持つて行つて全部解剖するそうです。それで解剖が終つてから、病院の裏に山があるそうです、その山に埋葬するそうです。
  537. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 仲間の者は何か遺品を持つて行うてやろうというようなことを言つておりましたか。死んだ人の……。
  538. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) はあ、遺品や何かも持つておりました。だけれども隊長のところでそれを全部を一括して、最後に纏めて持つて來ました。
  539. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 こちらに皆持つて來ましたか。
  540. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) はあ、帰つて來る途中汽車の中で————兵隊に遺骨から、死亡した人の住所や何か書いてあるものを全部盗まれたのです。
  541. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 それから死んだ方に対して隊で以て合同慰霊祭をやるとか弔をしようとかいうようなことはなかつのですか。
  542. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) 全然ありません。
  543. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 帰るまで何もしなかつたのですか。
  544. 君島甚五郎

    証人(君島甚五郎君) はあ。全然ありません。
  545. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 鎌谷証人如何ですか。
  546. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) そのことについて申上げます。先程お尋ねになりましたことについて、記憶に上つて來たことを先に申させて頂きます。満洲國軍の陸軍大尉であつたところの大石というお方が石切りに行つてつたのですが、栄養失調が原因か過重労働が原因か医学的には私達には分りませんが、亡くなられたことがあります。でお通夜をやつたこともあります。
  547. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 それは隊で皆しておられましたか。
  548. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 隊で、満洲國軍関係の者がやりました。それから第二の問題であります。先程お尋ねになりましたことにつきましては、私は吉村隊昭和二十二年五月十日長命大佐の指揮する長命隊に轉属しておりますので、函館に帰りましたのが船の中その他が全部違うのでありますが、函館に着いてから英彦丸で帰つて來た者が申出て、函館では函館で盛大な慰霊祭をやつております。
  549. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 話は違いますが、先程あなたが十五食の絶食を命ぜられた、その際にあなたはパンを買つて食べられたといわれたですが、それはどういう所で賣つておるのです。
  550. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 二キロの味付パンがあります。
  551. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 どこで賣つておるのです。
  552. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) それはやはり配給所がありまして、配給所で賣つております。
  553. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 それは蒙古側の配給所ですか。
  554. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) そうです。
  555. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 そこまで買いに行くのですか。
  556. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) いえ、やはりそれは同じ職場に参る者が買うて呉れるのです。
  557. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 そうしますと、絶食を申渡されても、金があればどうやら食つて行かれるということはできるのですか。
  558. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) ところがたまさか私が非常の場合を思うて、持つてつたからして五円の金があつたのでありますが、大体持つておらないのが原則なのです。
  559. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 金を持つておらないのが……。
  560. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) はあ。
  561. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 外に買つて食う物はないのですか。
  562. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 外に買つて食う物もありますが、それをするためには自分の語学にものを言わせて蒙古人に三円の物を五円拂つて買うとか、中國人に言うて買うとか、いわゆる公定價格の二キロパンが二円七十銭でしたが、五円出せば買うて來て呉れるというような状態で、取引は物交、物と物との交換若しくは二円七十銭のものに対して五円やつたら持つて來るというように、中に立つ者が幾らかうまいことをせんことには、そういうことは蒙古人でも中國人でも聞いて呉れませんでした。
  563. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 もう一つ伺いますが、あなたは將校外套を結局讓られたのですか。
  564. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) はあ、そのような申出でありましたし、私も相当肉体が衰弱して來ておりますししますので、酒井一郎氏に條件附で一任しました。そうして四月十一日から朝晩二人食を私は貰いました。
  565. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 幾日くらい貰いましたか。
  566. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 五月の十日長命大佐の指揮する長命隊に轉属するまで朝晩貰つておりました。
  567. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 他の隊に轉属するまで二食分貰つたのですか。
  568. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) そうです。
  569. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 それで外套をやつたわけですね。その代償がそれだけになつたのですか。外に何か要求されて、惡い外套とかそういうものは代りに貰えなかつたのですか。
  570. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) そのときに丁度吉村氏が病氣で寝ておられまして、他隊に轉属するというようなときでありますので、酒井一郎氏に私は申出たのでありますが、隊長殿も工合が惡くて休んでおられるんだし、いずれ帰られるときは小さい蒙古のことだから一緒に帰ることになる。問題は不問に附して下さいと申しまして、食事一食を換算したわけではありませんが、まあいずれにせよ朝晩二人食が約一ケ月続いたのであります。
  571. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 二人食が一ケ月ですか。
  572. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) そうです。四月十一日から五月十日轉属まで続いたのです。
  573. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 外の人もそういうことを行なつたのを見られたことがあるですか。
  574. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) それはあつたでしようけれども、当事者のみが知ることでありまして、他の人のことについて私は存じません。
  575. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 あなたが二食貰つて食べるということを外の人達は分らんですか。
  576. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 日が経てば分つたと思います。
  577. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 そこの食べておるところでは二食貰わないのですか。
  578. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) そうです。一食は医務室で食べたのです。
  579. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 分りました。
  580. 岡元義人

    理事岡元義人君) 時間の関係もありますので、この際池田証人と、医官でありました酒井証人をお呼びして二人の証言に基きまして質問をして頂くと、かように取計らつて如何ですか。
  581. 細川嘉六

    細川嘉六君 その前に、今丁度鎌谷証人から出た言葉がありましたから、一言聞いて置きたいのですが、デリケートな問題ですから説明して貰いたいのですが。
  582. 岡元義人

    理事岡元義人君) どういうことですか、二人を一人にするんですか。
  583. 細川嘉六

    細川嘉六君 いや、そうじやない、長命隊へ轉勤なさつたということがありましたね。長命隊とこの吉村隊との比較をやつて置く方が便利だと思いますからやつて置いて貰いたい。長命隊とか野村隊とかはこれは吉村隊なんかと違つて順調に事が運ばれて行つた例であると聞いております。
  584. 岡元義人

    理事岡元義人君) 簡單に細川委員発言を許します。
  585. 細川嘉六

    細川嘉六君 鎌谷証人にお聞きしたいが、あなたは長命隊へ轉属なさつたが、長命隊の様子と吉村隊の様子とを簡明に比較して呉れませんか。
  586. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 長命隊に参りましたところ、二百名が全部肥えました。それに隊長も民團も一兵も食事は一律であります。隊長としての特別食は長命中佐に上つていなかつたように聞いております。特別食の上つてつたのは恐らく吉村隊だけではないかということを申上げることができます。私は長命隊だけでなく更に他の隊にも轉属しております。それだけでよくありますか。
  587. 細川嘉六

    細川嘉六君 それも言つて下さい。
  588. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 引続き申上げます。正月十日に小林憲兵少佐の指揮する小林隊に行つたのでありますが、その明くる日直ぐ長命隊に轉属して行つたのです。それから小林少佐参謀の指揮する三大隊に行き、六月二十三日に行つております。それから九月十三日にゴタイの伐採隊に轉属して、十月六日筏流しをやつて吉村隊のいわゆる困難な作業であつたところの筏流しの到着場まで筏を流して來まして、アマガランに十月十二日に到着、服部隊に編入されて、十月の二十日ソ蒙國境を通過しております。この間に長命隊から鰐淵隊に一週間程應援に行つて來ました。結局長命隊、鰐淵隊、小林少佐参謀の指揮する隊、ゴタイの伐採、服部隊に行きましたが、各隊所におきまして、絶食、曉に祈るというような刑は絶対にありませんでした。
  589. 細川嘉六

    細川嘉六君 特別食はどつちにもなかつたのですか。
  590. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 特別食は聞いておりませんし、上つておるということも隊員からは聞いておりません。
  591. 細川嘉六

    細川嘉六君 特別食というのはどういうことです。
  592. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 特別食ということは私給與関係の方を担任しておりませんから分りかねますが、吉村隊の現況から申しますと、我々隊員が朝小豆汁を吸うておるときでも、じやがいものこれくらいのやつを燒いたのを十五、六個のときでも、食糧が何か工合が惡かつたそうですが、そのときでも吉村隊隊長と酒井一郎氏は、將校待遇とか申されまして、白い飯を炊いて魚をつけて食つておるというような現況でありましたが、果してこれが特別食として蒙古側から支給されたものか、又隊長食なり隊附の医官として蒙古側から上つてつたものか、その点等につきましても私は存じませんが、白い飯を炊かして食つてつたということは、ここへ來ております十二人の証人が全部認めることと確信します。
  593. 細川嘉六

    細川嘉六君 分りました。もう一つ、ノルマの労働については他の部隊ではどうでありましたか。時間外に働かしておつたかどうか。
  594. 岡元義人

    理事岡元義人君) 細川委員には一点だけということで発言を許したのですが。
  595. 細川嘉六

    細川嘉六君 これは皆くつついておる。
  596. 岡元義人

    理事岡元義人君) 発言を許しておりません。
  597. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 最前委員長動議を出しましたが、私は委員長のように、早く池田証人をこの場にお呼び願つて、それに関連することは証人をこのまま残して置いて頂けばそれぞれ委員会質問は続行ができるのでありますから、細川君もそのときおやりになつたら結構と思います。私は委員長最前提案に賛成するものであります。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり」〕
  598. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 先ず酒井一郎証人をお呼び願つて、それが一應済んでから池田証人を呼んで頂きたいと思います。    〔「賛成」と呼ぶ者あり〕
  599. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今矢野委員動議が成立しておりますが、その後草葉委員から酒井証人を先に呼んでからその後に……。
  600. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 すでに三時半であつて、大体の我々の予定は、本日四時半か或いは五時頃までに結論を出したいという一つの氣持が相当ありますが、止むを得なければ明日までも続行する必要があるけれども、どうですか、今の僕の動議にも外の方の御賛同がありましたので、酒井君、池田一緒でもよかろうかと思いますがね。
  601. 岡元義人

    理事岡元義人君) お諮りいたします。矢野委員動議に御異議ございませんか。    〔「異議なし」「異議あり」と呼ぶ者あり〕
  602. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 異議ありとすれば矢野は潔くそれを撤回します。
  603. 岡元義人

    理事岡元義人君) 草葉委員の動議に御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  604. 岡元義人

    理事岡元義人君) では酒井証人証言を先ず求めます。
  605. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 その間時間を活かして鎌谷証人お尋ねします。あなたは随分と六ケ所、七ケ所と轉々しておられますが、その他の御同僚達もそういうふうに轉々と部属を変られたような事実がありますか。あなただけそんなにお変りになつたのですか。この点明らかにして頂きたい。
  606. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 自分は國が破れたことによつて捕虜となつた。大体捕虜とはどういう仕事をさせられるのか一つつて見てやれというような氣持にもなりましたし、又吉村隊のようなことが果してどこの隊でもあるのかないのか試してやろうというような氣持にもなりまして、機会をとらえて轉属をでき得たのでありまして、九月十三日と申しますと、もう蒙古では寒いのであります。伐採に行くのは余程体力に自信があるものじやないと行かれません。併し外の人がやつているのに俺にできんことがないじやないか、まあやつてやれという氣持で行つたのでありまして、行く氣がなければ、こう廻る必要もなかつたでしよう。要するに……。
  607. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 廻つて見てやろうというような、あなたの自由意思で、その希望なら希望を申出た場合には、それが隊長なら隊長から許可されるわけですか。
  608. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) いいえ、そうじやありません。ただ我々捕虜の力を重点的に蒙古側が使用しておつた。石切りが必要なる場合には、採石他のために兵力を重点使用し、伏採が必要なときには、それに兵力の重点使用をやつてつた。その機会に乘じて、私が轉属をやつただけのことなのです。
  609. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 わたしがやつたというのは、あなた自身が勝手にここにおつたのを、ここに轉属するという意味ですか。
  610. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) そうではなく、收容所長に言うて來る、例えてみれば吉村隊から他の隊においても人選とかいうこともあつて本人が休んでおる場合に、帰つて來た者を狩り集めてやる場合もあるのです。
  611. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 だから自分希望するわけですね。
  612. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) そうです。
  613. 岡元義人

    理事岡元義人君) 酒井証人証言を求めます。先ず酒井証人は元医官をしておられたのでありますが、吉村隊のあなたの手によつて診断されましたその中で、死亡診断の中で、不当な原因によつて死亡したと判断されるものが何名あつたか、全部の死亡診断の中で何名あつたか、この点明らかに御証言を求めます。
  614. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 二年間に私が死亡診断書を作成しました人数は、恐らく三十名から三十五名以内であります。この中で内科疾患として死んだ者が二十名余り、外科疾患として亡くなりました者が十名余りであります。正確なる数字は資料がないので申述べられません。その外科疾患十名のうち、これは人爲的暴力によつて死んだものであるというふうに認めましたのが三名ございます。
  615. 岡元義人

    理事岡元義人君) 名前もついでにお述べ願います。
  616. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 名前は、一名は石巻の菊地七郎、もう一名は島根懸の山本義明と記憶しております。もう一名は分りません。これは外科的疾患の方であります。内科的疾患といたしましては二十名余りの者が死にました。中で、当時ひどい栄養失調に罹つておりましたので、これは間接でありますが、その者がノルマが苛酷であり、両且つ隊長の処分によりまして、日ならずして死んだという者が二名あるのであります。この名前は南雲道夫、もう一人は富田永太郎、この二人でありまして、後の外科的疾患十名から三人除けた七名は、これは主として石山において体が弱つておるために、土砂崩れ、若しくは溶岩、或いは轉んだ、そういうふうなことで自然に死んだのであります。(笑声)人爲的ではないのであります。無理のない死に方であります。(笑声)後の二十名のうち今申上げた二名は、隊長の処罰によつて死んだと見て差支なかろ。こういう者を除いた十八名は、主として栄養失調が主であります。これが間接の原因になるのでありまして、肺炎に罹り、急性腸炎に罹り、或いはその日のノルマが苛酷なために、心藏麻痺のような状況において死んだのでありまして、如何程給與が惡く、食物が惡くて、皆が食べたいと思つてつたかということは、蒙古するめということがあります、或いは皆さん初めてだろうと思いますが、食べる物がないから革帯、革外套というものを水に潤して、それを燒いて喰うのであります。革を食うというような状況であつたのであります。今申上げました三十名か、三十五名以内という中で、不慮死という者は今申上げた者で、後は人爲的にやられたというものではないのであります。
  617. 岡元義人

    理事岡元義人君) 尚その点、三名の菊池、山本、一名は名前が分かつていない。この点についてどうして死んだかということについて、知つておる範囲において述べて頂きたい。
  618. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 当時非常に採石の現場におきましては仕事が苛酷でありました。でどういう加減か知りませんが、仕事のできない、体の弱つておる者、これに対しましては蒙古の收容所長が、五十プロでよろしい、ドクトルが五十プロの仕事をさせる者を選んで、本人に通達し、先ず隊長に申述べろ、そうして五十%の仕事をさせろと言つて、仕事場へ出すのでありますが、向うへ行きましてから、それが認められなかつたようであります。それがために体が惡いと、ドクトルから五十プロの仕事でよろしいと言われておるに拘わらず、そんなにする必要はないでしよう、こういうふうに述べたのじやないかと思います。私に現場に行つておりませんから……そうするとそれらの監督に当つておる者が、これに暴力を加え、それがために死んだのだろうと思います。で帰つて來ましたのは夜間の十時頃でございます。日は同じくしておりませんが、昏睡のまま帰つてつたわけであります。そのうち菊地七郎君は、当時ついて帰つて來ました記憶はさだかでありませんが、瀬戸口という人がおりました。これは渡邊という軍曹に暴力を加えられて、人事不省に陥つたのであると申しました。もう一名の山本義明君、これはやはり兵隊に連れられて帰つて來たのが夜間の十時、口から血を吐いて、頭部に相当な傷を受けまして、そのまま昏睡状態で翌日死んだのであります。その当時誰がどうして叩いたのか、どういう状況であつたのかということもよく聽いたのでありますが、兵隊は口を緘して教えて呉れませんでしたので、不明であります。もう一名の者は外傷、目に見える傷はなかつたのであります。おかしいなとよくよく調べて見たところが、頭部に骨折があるように思われたのであります。これ亦兵隊がついて帰つて來たので、兵隊に聽いたのでありますが、口を緘して語らなかつたのであります。これにつきましては特に日本人を收容いたします総合病院へ手紙を附けて、死体の死因が分らんから解剖して、よくその結果を明らかにして貰いたいと一言うてやつたのでありますが、どういう加減か知りませんが、後日來ました通知には肺炎となつておりました。
  619. 岡元義人

    理事岡元義人君) ちよつと菊地の死んだ時間を述べて下さい。
  620. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 菊地君も山本君も十時頃に帰つて参りまして、翌日の朝までに死んだと思います。
  621. 岡元義人

    理事岡元義人君) 尚あなたの吉村隊におきますところの、そういう処罰の方法によつて、例えば曉に折る、そういうような処罰によつて先程の二名の者は死んだ、こういうふうにお考えになつておられますか。
  622. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) そう考えております。
  623. 岡元義人

    理事岡元義人君) もう一点あなたの收容所には相当死亡率が高かつたという工合に今でもお考えになつておられますか。
  624. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) これは比較の問題でありますが、外の收容所のことは分りませんから高いとも低いとも考えられません。
  625. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 満洲は御承知のように夏は恐らく晝間が十七時間か八時間あると思いますが、蒙古も同じであると思いますが、いわゆる夏季におけるノルマと、それから冬季におけるノルマを医学上から見て、殊に夏の晝間時間が十八時間もあるというような場合に、吉村隊におけるところのノルマの時間から見まして実情を御説明願いたいと思います。
  626. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 蒙古で夏季と申しましても、内地のごとく暑くてかなわないというのは、七月一杯と八月の日中くらいじやないかと思います。むしろそれ以外の月の寒さというものの方が影響が大きいのじやないかと思われます。從つて死亡者、病人の多いということは夏季を除いた季節、特に嚴寒十二、一月、二月でありました。
  627. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 内科疾患によるところの死亡者二十名、外科的疾患による者が十名、或いは今三十五名かも知れない。それは大体その隊の死亡率は何%くらいに当りますか。更にその大体のパーセンテージがあなたの医学的專門の立場からお考えになつて、その死亡率は非常に高度のものか、或いはこんなものは普通のものだ、あの環境におかれておいては……それについての御意見を承わりたいと思います。
  628. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) この際におきまして三十名から三十五名以内と申します患者の死亡率は、二年間の総数であります。從つてこのうち外科的疾患は当然ああいう苛酷な仕事をさせられていなかつたならば、又ああいう仕事に直面していなかつたならば、ならなかつただろうと思います。
  629. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 あなたの勤務しておられたのは、その吉村隊の中のいわゆる医療室と申しますか、いわゆる医務部と申しますか、そこでの御勤務でありますか。
  630. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) そうであります。
  631. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 更にお尋ねいたしますが、菅野清君がやはり殴打、外科的疾患によつて死亡したということ。それから植木……名は存じませんが、この植木君、これもお前も死ねと言つて吉村隊長に突込んで行つて、その結果伊藤少尉吉村隊長のために殴打されて、そうして遂に死亡したというような或る証人証言がありましたが、この菅野清君と植木某の死亡に至るまでの経過は御関係、或いはお分りになつておりますか。
  632. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 菅野君の方は記憶しております。ただそれは栄養失調で、殴打によつて死んだものではないと診断しております。もう一人の植木某は記憶がありません。
  633. 千田正

    千田正君 酒井証人証言の中に、隊長の殴打で、隊長の処置によつて死んだと思う、こういう者が二名おる。こういうようなことが先程の証言の中にあつたのでありますが、これは夏でありますか、冬でありますか。それから二名は恐らく栄養失調に対しての隊長の処置のよろしきを得なかつたために死んだのでありますか。或いは特に隊長が手を加えて死に至らしめたというような観点において、あなたが診断されたのでありますか。この点につきましてお伺いしたいと思います。
  634. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) この点は栄養失調で弱つておるということが間接死因で、絶食をさせて一つの寒いところに入れて処分をしたということが直接の死因だろうと思うのであります。
  635. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 その当時まあ軍医という言葉が当るかどうか存じませんが、いわゆる酒井証人はそういうような栄養失調、或いは打撲等によるそれらの診断をなさつて、何かの機会に吉村隊長に対して本当の心から、或いは助言なり、或いは忠告なり、或いは警告なりおやりになつたことがありますか。
  636. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) それはありません。むしろ私の方は逐一蒙古側及びソ連の院長に報告しておりまして、向うからやつて貰わなければならないというふうに処置いたしました。
  637. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 そうするとそういう処置をなすつて、そうして或いはソ連側から、或いは蒙古政府から、当時の吉村隊長に対して何が戒告なり、或いは注意なりあつたような形勢を御存じでありますか。全然お分りになりませんか。
  638. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) なかつたように思います。一應それにつきましては三名のこの外科的疾患が相次いで出ましたときに、詳しく蒙古側收容所長よりソ連の医師というものに報告すると共に外にゲペウ向う將校が出入りしておりますのでこれにも話しました。ところが捕虜司令部からは特務の少佐という立派な方が見えられまして、委細をよく調べて帰られまして、何かあることであろうと期待はしておりましたが、そのまま事済みになつたのであります。
  639. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 証人お尋ねしますが、二年間勤務されていたと言いますが、その何年何月からいつまでの間、吉村隊長一緒の期間はどれだけ、一緒でない期間はどれだけ、それから死亡者の数ですね、できましたならば半年くらいごとに分けて、第一期に何人くらい、第二期に何人くらい、それから今の人爲的に死なれた方ですね、それがお分りになつてお覚えになつていらつしやるのをお聞きしたい。
  640. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 勤務いたしましたのは昭和二十年十二月から二十二年の十月十五日までと記憶します。それで患者……死亡者を含む……の頻出したのは二十一年の十月末から二十二年の九月末に至るの間が多かつたと思います。
  641. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 吉村隊長とはずつと一緒つたのでありますか。
  642. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) ずつと一緒であります。
  643. 天田勝正

    天田勝正君 ちよつとお伺いしますが、先程の御証言で聞きますると、あなたは全然、吉村隊に属してはおるけれども、吉村命令には何ら服さなくもいいという御地位にあつたわけですか。
  644. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) いや、申上げます。私の方の業務の指示系統は、捕虜司令部における衛生部並びに附属工場病院長のソ連医師、これが業務に関しては指示するのみで、隊長は医師に指示を與える権利はありません。
  645. 天田勝正

    天田勝正君 分りました。それで続いて伺いますが、あなたは食事等は吉村隊でそれでは攝つておられましたか。
  646. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 吉村隊で攝つておりました。
  647. 天田勝正

    天田勝正君 それはいわゆる特別食というものをそこで給されておつたわけですか。
  648. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) そうであります。
  649. 天田勝正

    天田勝正君 そうすると、一般の兵隊が重労働をされておる、そのされておる食事が無理であるというようなことに直接にはお分りにならないわけですか。
  650. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 直接よく知つております。
  651. 天田勝正

    天田勝正君 ではもう二つお聞きしますが、あなたは三月二十日の朝日新聞を御覧になりましたか、若しなつたとすれば、そこにあなたが語られたということはそのまま事実として私共は承知してよろしいかどうか。
  652. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 三月二十八日の新聞はどんなものですか。
  653. 天田勝正

    天田勝正君 三月二十日であります。二十日でありますから、恐らく三月十八日頃あなたがお会いになつているのではなかろうかと思うのです。
  654. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) どういう……。
  655. 天田勝正

    天田勝正君 なければいいです。でにもう一点お聞きしますが、傳うるところによりますると、ウランバートルの郊外の山の麓に死亡者の墓がある、この墓は各收容所からの死人を埋めるのである、けれどもその大部分は吉村隊の隊員である、而も春になるというと捕虜は長い堀を掘らされる、この堀に死人を放り込んでおいて、一人につき一本の白樺を植えられて行く、その白樺が骸骨の林のごとくになつたと傳えられているわけですが、あなたはそういう点を職務上見られたことがありますかどうか。
  656. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 一向見ておりません。
  657. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 二、三の点を伺いますが、証人のような場合における立場において、こちらの抑留者の一般の健康というような仕事もいたしておられたかどうか。
  658. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) そういうことも、治療と、仕事の量というものを決定する以外に余暇がありますれば注意はしております。
  659. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 それからノルマの等級に対する病弱者の区別なんかは証人がおやりになつてつたのですか。
  660. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 石の仕事に限りましてこれを許可されたのであります。採石作業に限つてであります。
  661. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 そうしてその等級を付けるのはあなたがお付けになつてつた……。
  662. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) そうであります。
  663. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 それからこの隊は大変入院患者が少かつたのに聞いておりますが、そういう点は何か特別にお氣付きになつたことはなかつたですか。
  664. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 入院患者の点につきましては、非常に多かつたのであります。新聞の誤植じやないかと思います。
  665. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 どのくらいの数でございますか。
  666. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 数百名以上に上つたと思います。一回の入院に三十名、四十名來たことは稀ではありません。
  667. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 それは手続は全部酒井さん御自身の手によつてなされておつたのでありますか。
  668. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 自分が姓名、診断名を書きまして、ソ連院長のサインを得まして、それから送ることになるのであります。
  669. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 大体の数字は御記憶はないですか。
  670. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 分りません。
  671. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 それでは、この死亡された人に対する後の取扱いについて、何か宗教的な方法を用いておつたかどうかという点は御存じないですか。
  672. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 宗教的な方法を用いておりません。
  673. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 全然ありませんか。
  674. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) ありません。
  675. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 以上であります。
  676. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 その病院に送られた人たちですね、この人たちは全快して元の隊に帰つて來るものなんですか、或いは大部分帰つて來るのか、全部帰らないのか、或いは病院で死んだと推定される者が相当あるかどうか。
  677. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 入院いたしますと、この收容所からは全然籍が切れてしまうのであります。連絡は公けにはできないのであります。帰つて來ることは稀であります。
  678. 岡元義人

    理事岡元義人君) 酒井証人お尋ねしますが、先程の証言中、石切山の作業が非常に苛酷であるために、司令部の方からの命令通りこれを遂行する場合は、相当の病人を出すということを吉村隊長交渉された。併しそれでも尚やらされて、その結果三日目に百八名も休まなければならない者を出した事実を知つておりますが、そういうことはありましたか……。記憶はありませんか。
  679. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) ありません。
  680. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 最前の星野委員の御質問に対する答えについて伺います。いわゆる外科にせよ、内科にせよ、病氣になつたならば入院の許可が下つて入院してしまえば全然籍が離れてしまうという御証言でありましたが、最前外科的死亡が十名、内科的疾患で二十名というふうに御発表になつたのは、その病院におけるところの死亡では全然なくて、吉村隊の隊内において死亡した二ケ年間の数でありますか。
  681. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) そうであります。
  682. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 そうすると向うの蒙古側の病院に、入つてからどれ程病死し、或いは外科的原因によつて死亡したかということについては、全然あなたは関知していらつしやらないわけでありますか。
  683. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) そうであります。
  684. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 その数は全然現在においてもお分りにならないわけでありますか。
  685. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 分りません。
  686. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 承知しました。
  687. 細川嘉六

    細川嘉六君 酒井証人にお伺いしたいことは、証人吉村隊長とは余程懇意な仲に、他の証人言葉から私共思えるのですが、そのあなたが医者の立場として、栄養失調の連中が斃れるとか、それからひどいノルマを科せられておるとか、そういうような隊の状態を見ておつて吉村隊長意見をなさらないというのはどういうわけですか。
  688. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 話しても分らなければ話しても仕方ありません。
  689. 細川嘉六

    細川嘉六君 話しても分らん人間だと……。
  690. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 分らないように思いました。
  691. 細川嘉六

    細川嘉六君 余程人間離れしておる人間なのですね。(笑声)
  692. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) そう思いました。
  693. 細川嘉六

    細川嘉六君 それからあなたはさつきの証言で、病人のことをその他について蒙古側、或いはソ連側へ申込んだが、碌に立会わないというようなお話でありますが、その証言の中に、一回のこつちの通達によつて、三十人或いは四十人も病院に向うが引取つておるというのはどういうことになりますか。
  694. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 入院はソ連院長の権限で、ソ連人は文明人であります。申請すれば必ず入れて呉れます。たださつきのは、三人のそういう人爲的暴力による、法治國にあるまじきような所業に対して報告書には詳細に報告して、何とか決裁をして貰いたいということを言つたが、これについては何ら手をつけて呉れなかつたというのであります。
  695. 細川嘉六

    細川嘉六君 私のお伺いしたのは、收容所の人達の健康、或いは病氣について憂うべき状態であつたろうと推察されるのですが、それについて切切として何故訴えをなさらなかつたのか、訴えて來た以上は、あなたは今文明人であると言いましたが、彼等が聞かんという筈はないと思いますが、その点についてどうでありますか。
  696. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) その都度訴えもしました。苛酷なる二十一年十月から二十二年の四月に至るまでの間の状況をつぶさにソ連委員長、蒙古側に依頼しましたものですから弱い兵隊は重ねて食糧事情のよいところの農園に轉出だとか、或いはその他の收容所へ轉出だとかいろいろの手を打つて下さいました。
  697. 細川嘉六

    細川嘉六君 それからお聞きしたいのは、他のソ連地区では月一回の健康診断をしているということを承知しておりますが、外蒙ではどうですか。
  698. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) やることもあり、やらんこともありです。
  699. 細川嘉六

    細川嘉六君 これで終わります。
  700. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 数百名も病院に送られたというので、多数憶えてないかも知れませんが、その中外科疾患内科疾患の割合、それから送られた人の重傷或いは重病、お医者さんが見られて病人は非常に難しくないかと思われるのが相当であつたかどうか。それからもう一つその外科及び内科で人爲的な原因によつてそうした病氣になつていると認められるものがあつたかどうか、これを伺います。
  701. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 人爲的にそういうふうになつたと認められるような患者はありませんでした。外科内科の区別は記憶しておりませんが、大体病院へ送つて先方に行つたならばよくなつて呉れるものというように信じて送りました。
  702. 岡元義人

    理事岡元義人君) 証人は御発言が済みましたら御着席願います。
  703. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 今信じて送つたというけれども、病氣で直ぐ直るといつても、病院までやらないで済むので、病院まで行くというからには、一應相当重いわけですね。重い人々の中には、みんな治ると信ずると、あなたの信念かも知れませんが、客観的に相当な重病な人々もあつたかどうか。
  704. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 重病の人もありましたが、隊においては惡い、直ぐ病院に入れた方が何らかの点において数等よいというふうに信じたが故に送つたのであります。
  705. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 酒井証人にお伺いいたしますが、隊員全体の健康診断ということをおやりになつたことがありますか。
  706. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 身体檢査としてはやつたことはありませんが、常時「しらみ」檢査を裸体にしていたしております。
  707. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 全員について……。
  708. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 全員についてやりました。
  709. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 当初隊員は何人ぐらいおつたのですか。
  710. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 当初吉村隊長谷川隊のありました時分には、吉村隊は四百五十名ぐらいでありました。
  711. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 あなたがお引受けになつたときですか。
  712. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) それで合併しましたときには約六百五十名から七百名であつたと思います。
  713. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 それははつきりしておりませんか。
  714. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) はつきりしておりません。
  715. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 最後に二年後に吉村隊が引揚げになりますときには何人ですか。
  716. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 八十名でありました。
  717. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 全体で八十名でありましたか。
  718. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 全体で八十名。
  719. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 そうすると五百人はいなくなつているのですか。
  720. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 轉出の期間が参りましたので、自動車に乘つて帰りかけたわけであります。
  721. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 一番最初が帰るとき、そのときは何人ぐらいですか。
  722. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 八十人ぐらい。
  723. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 隊員の最初は六百名程おつて、そうして作業が終つていよいよ解散になろうという間際には何人ぐらいですか。
  724. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 申上げます。收容所の人員は常に移動しまして、吉村隊には平均七百人おりました。多いときは八百人おりました。仕事の関係で閑散になりまして外の收容所に出ますし、それで変動があります。身体の弱い者を五十名、百名よその收容所に輸送の関係でひつつけたり、或いは病氣の関係でひつつけまして漸次減りまして、十月十五日のときは八十名ばかりであつたのであります。
  725. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 分りました。二十一年十月から二十二年の四月頃患者が多かつた。その時分は作業も激しかつたらしい。特に三人の者が不慮の死をした。それをゲーぺー・ウが來て調べた。調べて帰つたが、何んにも報告はなかつた。あなたは報告があるだろうと期待しておいでになつたのでしようか。
  726. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 期待をしておりました。
  727. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 隊長はこのことを知つてつた吉村隊長は……。
  728. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 知つてつたでしよう。
  729. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 あなたから何んにも話さなかつた
  730. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 話しません。
  731. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 ゲーぺー・ウが來たことは……。
  732. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 話しません。
  733. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 あなたは毎日隊長と同じ部屋において食事をされておつたのでございますか。
  734. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) しておりません。医務室においてしております。
  735. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 別々のところで御食事を……。
  736. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 隊長炊事の部屋におります。
  737. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 隊長さんの吉村さんとあなたは特別な交渉関係はおありにならなかつたか、私的に……。
  738. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) ありません。
  739. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 非常にいろいろ仲良くやつたということはないのですか。
  740. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) いいことは勿論共鳴します。惡いことは一緒にやりません。
  741. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 それでは今一つお伺いいたします。鎌谷さんの外套を隊長さんにお世話になつたことはありますか。
  742. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) あります。それは鎌谷さんと私は心やすいのであります。というのは熱河から出掛けたのでありますが、鎌谷さんが腹が減つて困る、私の合羽によつて隊長からパンを貰つてくれないかというお話がありました。私は隊長に鎌谷さんがこういうことを言つているけれどもと言いましたところ、貰つてくれという話でございました。後はどういうふうに清算になつたか知りません。
  743. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 医務室で鎌谷さんがパンをおあがりになつたということは御存ないのですか。
  744. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) それは知りません。
  745. 鈴木憲一

    ○鈴木憲一君 あなたのおる部屋とは違うのですか。
  746. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) 私のおる部屋であります。
  747. 岡元義人

    理事岡元義人君) 各委員にこの際御注意申上げますが、一問一答で行かれる場合は、一問一答のように最初お断りをして発言して頂きたいと思います。証人はお掛けになつて宜しいです。
  748. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 私はこの機会に池田証人の御出頭を求めたいと思います。それからその間に……。どうぞ一つお諮り下さい。質問を保留いたします。
  749. 岡元義人

    理事岡元義人君) 今矢野委員から御発言がありましたが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  750. 岡元義人

    理事岡元義人君) この際委員にお伺いたしますが、鎌谷証人、君島証人はこの際御退席つたらと思いますが。
  751. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 僕はそのままおつて貰いたい。
  752. 岡元義人

    理事岡元義人君) そのままおいて置くことに御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  753. 岡元義人

    理事岡元義人君) では池田証人
  754. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 鎌谷証人に、この時間にお尋ねしたいと思いますが、あなたは酒井医官からいわゆる隊長將校マントを非常に欲しがつておるので、何んとか君それを隊長に讓らないかというような話があつたので、これに対して止むを得ず最後に應じたというような御証言をなさつたでありますが、酒井証人証言によれば全然それが逆になつておるのでありますが、よくあなた御自身記憶を辿つて行かれまして、果して前証言を飽くまで固持されるかどうか御返答を願いたいと思います。
  755. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 私は酒井先生が何か勘違しておられるのではないかと思います。酒井先生のおられる医務室と、私達のおるところとは若干距離があります。それがために自分に重要なものについての御相談がありましたので、ここにそのための記録簿を残しておるのでありまするが、ここにありますのは、三月一日乘馬雨外套酒井先生、隊長殿、一人食改め二人食となると書いてあります。そうしてその次には、これには四月十一日より二人食上るということも書いてあります。
  756. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 それはあなたの記録であつて、その記録だけで表現されておるところから推定しては、全然私が御質問申上げたことに対する御答弁にはならないと思います。その理由は、一言半句と雖もそれには書いてない、もう一度記憶を辿つて頂きたい。
  757. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 酒井先生がお越しになつて、鎌谷さん、將校の乘馬雨外套を持つておられるそうだが、それを隊長さんが欲しがつておられますが、どうされますかというようなお尋ねでありましたので、私自身も、これは私として帰るときの交換物件にとつて置きたいということを申したのであります。
  758. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 酒井証人お尋ねします。あなたの最前の御証言が、若しも記憶の間違いであるとすれば、御訂正あつて然るべきだと思いますが、今の鎌谷証人証言とあなたの御心証の食違いがございませんか、はつきり御答弁を願います。
  759. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) それは前申上げた通りだと思います。一食あがるというのは、鎌谷さんが池田さんのスパイをやりまして、スパイというと語弊がありますが、動勢を書いて報告をしておられたようであります。それの報酬であろうと思います。この点外に証人が二階におられますので、じかに後で聞いて頂きたいと思います。
  760. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 酒井証人お尋ねしますが、今鎌谷証人がスパイ的行動をされたというその内容も、ちよつと詳しく、私が常識で分る程度に御説明を願います。
  761. 酒井一郎

    証人(酒井一郎君) これは池田さんが全員統率するのに、隊の情勢、動向というものを予め知らして呉れ、皆どういうことを言つておるか、どういう氣持でおるかということを聞きたいと思うから、自分のこれという人に頼んでおつたのであります。その中の一人が鎌谷さんだと申上げたのであります。
  762. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 池田証人お尋ねします。今御証言をお聞きと思いますが、あなたはそういう問題について、鎌谷証人に対して何か依頼せられたることがありますか、お尋ねいたします。
  763. 池田重善

    証人池田重善君) 私は何月だつたか知りませんが、酒井先生の方からでありますが、鎌谷君が非常にパンを欲しがつてつておる。外套は要らないだろうかというふうに言つておるからと言われました。それで私が一應見せて貰おうと言つて見ましたが、雨外套で、私はそれは要らないと言つて断りました。これは鎌谷君の勘違いじやないかと思つておりますが、私の方から要求した覚えはありません。  それから第二番目のことについては、丁度今の昭和二十一年の二月の頃でありました。日本新聞が発行されまにして、非常に皆が一方的な自由というような無統制状態が発生するようになりまして、そのときに私としてもどういうものだろうか、各部隊長もいろいろ思想的な方面から心配されておりました。私としてもやはり内部の実情も知りたいということを酒井先生にお願いしまして、誰か適任者がおつた一つ室内の状況を知らして、統率の、指揮の参考にしたいからというふうにお願いしたことがあります。
  764. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 それに対してどういう御返答があり、又鎌谷証人との最前私がお尋ねしました問題については、あなたはどういう御返答をなさいますか、まだ御返答になつておりません。
  765. 池田重善

    証人池田重善君) そうして選定されましたのが鎌谷氏であります。鎌谷氏は元憲兵で私たちよりか二年前になられた方であります。そうしてこの方は私は本人から承わりませんが、稻見少佐の方から承わりましたが、これは人を攻撃するようですけれども、下士官の整理のときにやめさせられて満軍の方に入つた方であるというふうに聞かされております。そうしていろいろこの人も私の方に班内のことを書いて來ておりますが、非常に喰違つておる。例えば日本新聞によつて思想が非常に変つてくる。私の考としてはそういうことはない。とにかく今聞いておるのでは、そういう新聞において反動が起つたのではない、昔の軍隊制度そのものの欠陷が今反動として現われて來ておつて、思想的にそういうようなこともなく、我々も何もそういうことに関心を持つておるのではない。ただ逃亡だとか或いは今の作業のことについて云々、給與のことについて云々というような一般の情報が來て、それによつて改善して行きたいからというふうにして、四回五回その情報を頂いたことがありますが、こんどは班内の惡いことが多くて、そうして話を聞いて見ますと、全然違つた報告を出す、それで一回怒こつてつたこともあります。
  766. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 鎌谷証人にお伺いしますが、あなたはつい最前將校マントを酒井先生の手を通じて池田証人にこれを結局讓渡した。そうしてその結果として二食給與されるようになつたということを言明せられましたが、今御両人の証言によりますというと、全く両人の証言が眞実だとすれば間違いである。これに対する鎌谷証人の現在の弁明と申しますか釈明がございませんか。飽くまでもそのまま最前証言を堅持されますか。
  767. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 自分自分意見を堅持します。何故鎌谷君急に二人食に上げるのかと私の分隊長満洲國軍陣軍司令部主計中佐江畑正男氏が尋ねたこともあります。それはこうこうことだからと申上げたこともありますし、江畑氏も内地に帰つておられますから、江畑氏に何らかの方法で聞いて頂いてもいいと思います。  それから先程池田証人から下士官整理によつてやめさせられたと稻見憲兵少佐が池田氏に言うたそうでありますが、下士官整理によつて整理された者に対しては、関東憲兵司令官閣下は事務適任証、善行証書を出さない筈であります。憲兵の規則に吉村氏は精通しておられないからしてそういうことを言われたのではないかと思います。
  768. 岡元義人

    理事岡元義人君) 発言中でありますが、できるだけ簡單にお答え願います。
  769. 鎌谷参司

    証人(鎌谷参司君) 整理されたのではありません。それが証拠に私は満洲軍満期除隊昭和十七年十一月三十日になりましたが、満洲國に昭和十八年一月十日入るまでに官舎にそのままおりました。人を侮辱するような言動は慎んで頂きたいと思います。
  770. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 議事進行について……。この問題は一應留保して置いて、そうして「曉に祈る」という問題から進行して頂かんとこれはとても間に合いません
  771. 岡元義人

    理事岡元義人君) 池田証人が出席しましたので、池田証人委員長から証言を求めますが、先ず通称吉村隊と言われておりますあなたのその收容刑内において、「曉に祈る」という処刑が……、これは「曉に祈る」と証言されておる処刑でありますが、その処刑はどういう理由で処刑されたのか、その命令はどこから出たのか。尚又その命令は、いわゆるその命令によつて死ぬというようなことが、若し死刑なら死刑ということを前提としての命令であつたのか、或いはただ時間内だけを区切られた命令であるのか、そういう点について詳細に述べて頂きたいと思うのでありますが……尚その際に石切り山の現場におきまして、菊池、山下、その他もう一名、五名のものが石切り山の殴打によつて死亡したという点について、あなたの証言を求めます。
  772. 池田重善

    証人池田重善君) 吉村隊長谷川隊昭和二十一年の七月上旬頃合併しまして、その間に大体工場は暖くなつて來ますと建築第一作業になりまして、工場の人員はうんと減らされて、約三百名少々で七月の中旬になつて來ました。そうして人員のもとで何の事故もなく進んで九月の二十六日ごろまで進んで参りました。ところが第一番目に起りましたのが今のウランバートルから入つて來ました吉田軍曹以下九名の者が、羊毛工場に働くようになつて、九月の二十日の日に轉属命令が來ましたが、收容所長が司令部からの收容命令がないために、收容所に入れることができないといつて、それから約一週間ばかり、羊毛工場で炊いて食つて、そうしてあすこで働いておりました。ところが羊毛工場と言いますと私のいた本部の跡、要するに工場で一番日本人が嫌つたところであります。又一番作業においてもきつかつたところであります。又一番蒙古側においても非常に悩んだといいますか、蒙古人が日本人を叩くというようなことが再々起りまして、蒙古側からも非常に注意されておつた工場であります。そこに技術を持つて、今まで旋盤工で働いておつた者が入つて來まして、そうして今まで事故がなかつたのが、九月の二十九日だつたと思いますが、第一番に、柳生一等兵が逃亡いたしました。そうしてそのときには、私の方からモジック中尉の方に連絡して難なく終つたのでありますが、それから約二日か三日ばかりして、十月の一日か二日だつたかと思つております。そのときに、初めて同じ工場から來た坂本一等兵が作業場から逃亡いたしました。そのときに、ちようどモジック中尉は事故なしで作業の成績と共に功労章を貰つて私達に見せておりましたが、その事故が起つて坂本には憤激したらしく、私には何とも言わず、この親指の両方をくくりまして、南の歩哨のところに連れて行きまして横倒しにしてしまいました。これは青森の男であります。そうして私も涙を流して話しましたが、本人隊長に申訳けないと言つて、私の知らん間に机の上のナイフを取つて約二糎ばかり腹を切ろうとしました。私は止めて、とにかく私は、ここで頑張らなければならんのだからと言つて、いろいろ話をしてその男を連れて帰りました。そうして大工の方に廻してやりました。  それからモジック中尉は怒りまして、拘置場を作れといつて、初めて今の拘置場を作つたのであります。そうしてその次に逃げたのが西村一等兵、これもやはり同じく鉄工所から來た者であります。十月の二日か三日頃だと思いますが、前橋軍曹というのが靴一足と羊の皮を持つて、これは鉄條工場に働いておつた下士官でありますが、中國人に賣却せんとしたところを、丁度ゲ・ぺ・ウのコンゴール中尉通訳の二人が通りかかりましてそれに逮捕されました。そうして今の取調ぺが開始されまして、その全貌が明らかなりまして、それが三十五名か、四十名の集團窃盗になつておりました。そうして取調べの結果、私は十月の六日か七日と思つておりますが、間もなく司令部の軍法会議の方に喚ばれまして、これの全貌について、こういう事件が起つているがどうしたのだというふうに、先前の作業の隊でこういう事故が起つてどうするのだというふうに責められまして、結局そのうちの十五名か十四名のみを処罰する。軍法会議に送るというような実情になつておりました。その前に罐詰工場の方にも集團窃盗がありまして、軍法会議に送られて、事件送致をされたという話を收容所長から聞いております。又他の方から送れと言うものですから、私は直ちに帰りまして、モジック中尉と当時のゲ・ペ・ウのコンゴール中尉にお願いしまして、そうしてそれを貰い下げて來ました。そうして收容所長の権限内にあるところの行政処分によつて、五日間の留置処分と、晝飯の減食処分を科しました。そうして今の留置場の処分を命ぜられたのが十月の十三日頃だつたと思います。そうして十五名のうちの今の五名か六名と思つておりますが、留置場の狭い関係上、犯罪の軽いのから中に入れと言つて歩哨が取りに來まして……。
  773. 岡元義人

    理事岡元義人君) 証人に伺いますが、十四名ですか、十五名ですか。
  774. 池田重善

    証人池田重善君) 十四名であります。留置場が狭い関係上中に五・六名入れるように命ぜられまして、歩哨に渡しました。それから後残部は歩哨の位置に、この左手を逃げないように結んで、片手のみを細紐で結び合つて、三名で表裏というふうに並べるようにして歩哨の前に連れて行く。それだから逃亡しないようにくびるようにと、時の日直に命じまして、丁度歩哨も一緒にくびりましたが、日直にもお前の方もくびれというので、日直にくびらせまして、そうして歩哨の方に引渡しました。そうしてあちらの國においては晝間の処罰は認められません。それで晩の十時から朝の五時まで五、六名を留置場の中、あと残りは全部外に立たせ、或いは坐らせるというふうに実施しました。そうして丁度外におる者は格好が、結局東方を向きまして、丁度五時頃になりますと、東の空が明るくなつて來る。そのために睡魔に襲われて居睡りを始める。その格好が丁度曉に祈るというような格好に見えたのであります。それをよく、私はこれは本人から聞きませんですが、万才をやつてつた吉田君だろうと思いますが、今の「曉に折る」処分というような風評、万才をやつておりましたが、それから風評が起つたのではないかと私は考えております。それから、第二回の窃盗事件が今の昭和二十二年の三月分上旬頃、これが又発覚しまして、再びその時に十五名だつたと思つております。同じような処分に付しました。忘れておりましたが、今の第一回目は殆んど技術工で、靴工場に働く者が多かつたものですから、結局監督將校にお願いしまして、作業に影響する関係上一日で許して頂きました。それから第二回目は十日という処分に対して、結局惡質者で二日、惡質者でない者を一日というふうに処分を軽減して頂きました。それからその外の今の逃亡者でありますが、これは何名か知りませんが、見せしめのためといつて、外の電信柱に括り付けるように命ぜられまして、これは歩哨が、逃げるからということから歩哨もくびり、或いは私側の方でもくびる。收容所長命令で歩哨が來まして、そうして私らの方でくびつて、見せしめに四、五名立てたと思つております。それからその中には今の鎌谷君も混つておりましたが、鎌谷君はこれは独立したところの事件で、羊皮工場の事件について、あちらからの通知で收容所長の命によつて処分しております。  それから石山の件でありますが、山本君と菊地君の事件でありますが、丁度これは大体私のところにも一部の会社の方の石取作業はあつたのでありますが、一番急いだのは、前から申上げますと、大体石田部隊においてこれを実施しておりました。そうしてその頃には檢査もやかましくなくて、大体一立米で終つておりました。ところがこの立米が、大体蒙古全國の建築の資材、石の全部を取つていたという話でありました。ところがこれを運搬して見ると、結局七千立米か七千五百立米ぐらい不足を生じた。その不足を生じした理由は、今の石の積み方は一立米、正確に二十五サンチ以上の厚さ、五サンチ付以上とこうなておりまして、一立方米が一日の仕事になつておりました。そうしてこれを正確に積むのでありますが、ややもすると上を一立方、こういうふうに航空母艦型に積んで行きます。そうして第二番目になりますと、あんこ入れと言いまして、枠だけを携えて中に小石を入れる、或いは規定外の石を入れるというふうにいたします。又或いは穴開けと言いまして、枠だけ作りまして、その中に穴を開かす、中を室にしてしまう。或いは昨日の採石したところにより量りを幾分入れて、次を一米にするということで、檢査が大体それまでは通つておりましたのですが、ところがそういう不足が生じて、非常に急激な要求を申込んで來まして、殆んど私達が帰還前、昭和二十二年の六月二十日から大体石取が再開する予定になつておりました。ところが少し遅れまして、第一着が二十六日頃に森中尉殿が石灰山から三十名、ホジルボロンから渡中尉殿が百名と、それからアムガロンから六十名、合計百九十名が二十七、八日頃に到着いたしました。そうしてその病氣の状況を酒井先生に診て頂いたのでありますが、約百二十名というものは栄養失調で、すでにもうそのうちの二十七、八名というものはすべて病人でありました。それでこれでに到底仕事はできないからということで、私の方からも、酒井先生の方からも、当時來ておりましたロッタ中佐と、ダツセグ大尉と、それから通訳が一人來ておりましたが、それに申込みましたところが、蒙古側におきましては、今度は特に急いだところの石を採るのであるから、とにかく蒙古文と日本文で今の各收容所に手配しておるのだから、身体の丈夫な者ばかり來ておる筈だ、そんな筈はない。特に今度は二立米づつ探るのだからそんな筈はない。それで土掻きには二十八日頃から出しましたが、そのときも酒井先生の恵みによつて、二十七、八名は休まして貰いました。それからどうしてもこれでは駄目だということで酒井先生と私とで歎願書をソソルバム中將に当時出しました。ところがソソルバム中將は早速それをお聞きになつて、チョイジャムツ大尉という軍医を派遣して來室した。そうして檢査をして頂きましたが、やはり私達の意見は通らずに、約三十五、六名くらいの証明しか出して頂けませんで、そうして結局それを山に連れて行つて、そのときの総監督は、森中尉という方が総監督をやつておられました。そうして最初の日が約百九十名、病人を引いて百六、七十名出勤しましたが、結局全員で百六、七十立米しか出なかつた。なぜ出ないかというと、前に二回も三回も取つた後でとにかく固くなつておる、それから土掻きは十分しなくちやならない、それから皆不馴れであるというような理由を出したのですが、同じ顔をし、同じ手をし、同じ眼をしながらそういう仕事ができないことはない筈だというふうに強硬に向うに出られました。そうして取つた石はその日に運ばせてしまつて、結局私達が石を取らないと、ウランバトールにおるところの中央政府の建築、劇場の建築が殆んどもう中止になつておりましたので、ソソルマハム中將、或いはロツタ中佐、或いはゲ一・ぺー・ウーのバツタ大佐、この方などが毎日入れ替りに來て私たちを激励しておりました。ところがとうとうその石も出せずに、今の森中尉と渡中尉の二人は責任を負つて監獄に行かれました。その後に今度選ばれて参りましたのが、今東京におられる伊東少尉、この方が監督に選ばれました。そうして私はその伊東さんの上におつたわけであります。  先ず菊地君のことでありますが、丁度私が病氣で休んでおりましたところが、酒井先生の方から怪我をしたと、こういうふうに聞いておりましたが、私はその事実をそこで見てもおりませんでしたので、分りませんでした。それから山本君については、癲癇で内出血したと、そうしてダムドルジの病院に死因不明で送りましたところが、頸のところに傷があつて、そうして呼吸器病か何かと診断書を書いて頂いたそうですという先生からの報告を受けました。それから私がナホトカに着きまして、そうしておりましたときに、昨日も話しましたように、やくざの組から、お前は人を二名殺したじやないかと言われたときに、奇妙に感じまして、酒井先生の方に聞いて見ましたところが、その外のも、これは現場監督の渡邊軍曹が殺したのだということを聞きました。それで当時極東少尉と田村君にどういう状況だつたのだろうかと聞きましたところが、実は自分たちははつきり知らないけれども、とにかく渡邊軍曹が、菊地さんが坐つてつたので、それに対して注意をした、ところが民團である関係上何とか理窟を言つたらしい、そうしたところが伊東軍曹が怒こつてびんたをとつた、ところが本人は身体も強くなかつたし、足場も惡くて、その場に轉倒してしまつた、そうして石で頭を割つて死んだのだと、それを見て皆が殺したと言つておる。
  775. 岡元義人

    理事岡元義人君) 発言の途中ですが、伊東少尉が殴つたのか、渡邊軍曹が殴つたのか。
  776. 池田重善

    証人池田重善君) 渡邊軍曹であります。訂正いたします。伊東邦義は現場監督でありました。渡退軍曹も一区の現場監督であります。そうして倒れて何日か経つて死んだのであります。それを私はナホトカでそういうふうに聞かれまして、おかしいというように思いました。それから死因不明の山本君については、私はつきり知りませんでした。今度新聞に出ておりましたし、そうして今度こちらへ私が來る途中に、愛知懸の一宮市の城崎通り平岡喜久男という兵隊が私のところに飛んで参りました。これは汽車の中に飛んで参りましたのですが、そうして実はこの山本明と私は非常に仲良しでありました。そうして一緒に石取場をやつておりました。ところが今の作業がきつい、体がきついというものだから、山本一等共が上に上つて休み、特に下には監督がおつてやかましいから上におつて休めといつた、ところが山本は上に上つた、約五メートル行つたときにひつくり返つてしまつた、私は上つてどんどん行つて見たところが泡を吹いております。そうして血も吹いておりました。そうして私が帰りましたら酒井先生であつたか、清水という看護兵から、とにかくお前が殺したのじやないかと言われました。本人は休むといつて、とても私たちは友達であつたので、私は殺したのじやないということを汽車の中で申しました。私共丁度下に降つたときに隊長殿が石場の方においでになつて、そうして怪我したときにおつたので、清水伍長も看護下士官もおりました。そうして私が來てその私ははつきり覚えておりませんですが、この平岡にお前どうしたのだ、早く上に上つて石を切らないかというて隊長殿が言われました。私の友達だということでありましたので、とにかく上れと言われましたので、あの男を連れて帰れば助かるかも知れないというておりました。とにかく汽車の中において申しておりました。実は自分としてもああいう石山で石取り作業にどんどん從事しておつたし、看護兵もその時に來ておつた。そのときの状況であつたのであります。私はあとの一名に、ついては、石山の方では向うでは石を大体取りますと、二十五メートル、五十メートルからこういうふにずり落すことになつておりますが、それが規定になつておりますが、最近野つ原でありますから、なかなか捜しにくいのであります。そのために今の遅れた兵隊は直接轉がすようにいたします。そうしてこつんと下におつた兵隊に当つて約三人亡くなつております。それから落盤いたしまして二人が亡くなつております。それで一人はそんなふうで間違つておるじやないかと思うておりますが、以上終ります。
  777. 岡元義人

    理事岡元義人君) そこで池田証人ちよつと今の発言の中で多少日にちの喰い違いがあるのでありますが、先ず第一の十五名の処刑をされたときは十月とお述べになつておるのでありますが、十二月とどちらが本当でありますか。それから次の三月の初めだつたと上旬という言葉で二十二年の三月上旬に第二回目の十五名という何がございましたが、これは二十六名で……。
  778. 池田重善

    証人池田重善君) 十月です、それから二十六名であつて処分したのがそれであります。
  779. 岡元義人

    理事岡元義人君) 只今証言の中では何もおつしやらなかつたが、あなたも監禁の命令を受けたのでありますか。
  780. 池田重善

    証人池田重善君) 私は向うの方へ行きましたが、監禁されませんでした。
  781. 岡元義人

    理事岡元義人君) 監禁の命令は出たのでありますか。
  782. 池田重善

    証人池田重善君) 三日間の監禁を命ぜられました。
  783. 岡元義人

    理事岡元義人君) 先程の延言の中にありませんでしたが、あなたは実際はなかつたのでありますか。
  784. 池田重善

    証人池田重善君) ありません。
  785. 岡元義人

    理事岡元義人君) もう少しそこのところを詳しく述べて頂きたいのですが、何時から何時まで営倉の中と、それから外の状況はただ坐らしたものと、立たしたものがあると、こういう証言でありますが、その点詳しくどういう工合にして、どういう工合に最後には解いたと、その点を詳しく述べて頂きたいと思います。
  786. 池田重善

    証人池田重善君) 恐れ入りますがちよつと休憩さして下さい。
  787. 岡元義人

    理事岡元義人君) どうぞ……。各委員に御報告いたして置きますが、先程笠原証人が病氣になつたのですが、只今直りまして出席しても差支えないという申入れがございますが、如何取計いましようか。
  788. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 そういう條件が整つたならば直ぐに出席を私は要望します。
  789. 岡元義人

    理事岡元義人君) 御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  790. 千田正

    千田正君 一体何時までこれをやる予定になつておりますか、委員長考えておりますか。
  791. 岡元義人

    理事岡元義人君) 今千田委員の御発言でありますが、区切りを見付けまして五時頃までに終りたいと考えておつたのでありますけれども、只今千田委員から発言がありましたからこの際各委員にお諮りいたして置きますが、まだ証人証言も全部終つておらないわけでありまして、この際明日まで尚この審査を続行するか、この点をお諮しりいたしたいと思います。
  792. 千田正

    千田正君 私は大体五時頃までに今日の喚問の証人答弁は終らして頂きたいと思いまして、更に明日に引続いて続行して貰いたいと、こう私は考えるのであります。同時に私は只今池田証人証言が一先ず終りましたならば、一つの区切りとして今日の委員会は一應打切つて頂きたい、こういう動議を出します。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  793. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 私も只今の千田委員の動議に賛成いたします。但し明日は田代並びに山崎両証人は大体証言がこれで完了いたしたと存じまするのでお諮り願つて、外の証人だけ明日にお残し願いたい、そうして本日は五時で一應打切つて頂きたいと思います。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  794. 岡元義人

    理事岡元義人君) それでは只今の千田委員の動議に対しまして、本日は大体五時頃で打切り、池田証人の区切りがつきましたところあたりで打切りまして、後は明日続けてこれをやるこういうことにいたしまして、尚証人の中、山崎証人、田代証人は本日までで出席を打切る、こういう工合にいたしまして御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  795. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 本日終了しない以上は仕方ないですからそれで散会を宣して延長の形式でやつたらいいと思います。
  796. 岡元義人

    理事岡元義人君) 延会の必要はありませんそうですから……。
  797. 矢野酉雄

    矢野酉雄君 分りました。
  798. 岡元義人

    理事岡元義人君) では今の点について池田証人証言を求めます。
  799. 池田重善

    証人池田重善君) 大体蒙古側の歩哨が受領に参りましたのは、午後の食事が終つたのですから午後十時頃であつたろうと思います。作業しておつた組もあつてつて來てから受領に参りまして……。
  800. 岡元義人

    理事岡元義人君) 第一回の場合に……。
  801. 池田重善

    証人池田重善君) そのときはやはり完全で、今の蒙古の歩哨とは同じような服装をしまして、そうしてゆるく外套の上からくびつて、珠数繋ぎで片手ずつくびつて二人なら二人、三人なら三人というふうにくびつたのであります。
  802. 岡元義人

    理事岡元義人君) 誰がくくつたのですか。
  803. 池田重善

    証人池田重善君) それは蒙古の憲兵下士官、蒙古の日直と、私の日直にも加勢させました。
  804. 岡元義人

    理事岡元義人君) 続けて下さい。
  805. 池田重善

    証人池田重善君) そうして歩哨の前に表門へ行く大きな門、それから丁度監督将校の部屋に行く東か西になりますが、その三つの門のところにそれぞれ立つたり坐つたりしして置きました。それで廻つたりしたときに又皆立つたり坐つたりしておりました。それから朝食の前に、起床のときに日直士官が全部連れてきまして、そうしてそこで解きまして散除いたしました。
  806. 岡元義人

    理事岡元義人君) その際には柱には……。
  807. 池田重善

    証人池田重善君) その際には柱にくびつたものはありません。
  808. 岡元義人

    理事岡元義人君) 第二回目の……。
  809. 池田重善

    証人池田重善君) 第二回目もやはり同じような恰好でありましたけれども、柱にくびりましたのは逃亡の関係であります。それから鎌谷参司君もやはり一回……。これは私としては本人のいる前で言いにくいのでありますが、ここで証言するために詳しく申上げますと、鎌谷君は一般に民團からは非常に攻撃を受けておりました。それは一方私のそういうようなことをやつたからでもありましようが……。そうして羊皮工場で働くようになりました。羊皮工場で働いていたときに、羊皮工場で蒙古人が持つてつた晝食のパン、それから配給のあつたパンを泥棒しまして、そうして帰つて來ました。それが通報が來まして、その後におきまして、今度は作業場の成績も惡いし、又次に今度機械のところにあつた配給になつた肉をとつて参りまして、それが発覚しまして、向うから通報が來まして、收容所長から処分を命ぜられましたから、そうして留置所に入りました。ところが今度は留置所を飛出しまして、入つて來て御飯を食べておりました。そうしたところが歩哨の方で怒りまして、逃げては困る、外にくびつて置けと言うので、入口の歩哨の前にくびらせました。その外、笠原君の件についても、笠原君は非常に、まじめな男でありましたが、何を過つたのか、靴を一足袴の下に入れてそれが出ているのをつかまりまして、そうしてそういう事件……。これは二十二年のもう七月か、八月頃でありましたが、帰つて來るのをつかまりまして、そうして蒙古側からこれは原田君だつたと思つておりますが、処罰指令書を貰つて監督將校の方に参りました。そうして若し監督將校の方において、監督將校……、蒙古側の收容所長において処分しない場合には、会社側で蒙古の法律にかけて処分するということになりまして、收容所長命令を受けまして、これはくびりませんでしたが、留置所に入りました。そういう事件も五、六件ありました。逃亡兵で一番苦しんだと思うのは、森君と関口君じやなかつたかと思います。それには汽車の中で会いましたが、非常に元気な体をして、二、三当時の状況について話合つて参りました。
  810. 岡元義人

    理事岡元義人君) 着席願います。では本日は、池田証人証言は明日に留保いたしておきまして、委員会を閉会することに御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  811. 岡元義人

    理事岡元義人君) 明日は十時から委員会を開きます。では本日にこれにて委員会を閉じます。    午後四時五十三分散会  出席者は左の通り。    理事            天田 勝正君            草葉 隆圓君            岡元 義人君            星野 芳樹君            鈴木 憲一君    委員            木下 源吾君            淺岡 信夫君           池田宇右衞門君            水久保甚作君            伊東 隆治君            小畑 哲夫君            木内キヤウ君            北條 秀一君            穗積眞六郎君            矢野 酉雄君            細川 嘉六君            千田  正君   証人            池田 重善君            笠原金三郎君            原田 春雄君            酒井 一郎君            鎌谷 参司君            君島甚五郎君            長谷川貞雄君            阿部  忠君            堀金  栄君            酒井 幸次君            小峰 光治君            清水 一男君            津村 謙二君            田代喜久雄君            山崎 隆弘君