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1949-05-18 第5回国会 衆議院 文部委員会 第21号
公式Web版
会議録情報
0
昭和
二十四年五月十八日(水曜日) 午後二時五十分
開議
出席委員
委員長
原 彪君
理事
伊藤
郷一
君
理事
佐藤
重遠君
理事
圓谷
光衞
君
理事
水谷 昇君
理事
千賀
康治君
理事
松本 七郎君
理事
稻葉 修君
理事
今野 武雄君
理事
船田 享二君 淺香 忠雄君
岡延右エ門
君
甲木
保君
黒澤富次郎
君 若林 義孝君 受田 新吉君 森戸 辰男君 渡部
義通
君
出席國務大臣
文 部 大 臣
高瀬荘太郎
君
出席政府委員
文部政務次官
柏原 義則君
文部事務官
(
社会教育局
長)
柴沼
直君
委員外
の
出席者
議 員
浦口
鉄男
君 專 門 員 武勝 智雄君 專 門 員
横田重左衞門
君 五月十八日
委員庄司一郎
君辞任につき、その補欠として中
山マサ
君が議長の指名で
委員
に選任された。
—————————————
本日の
会議
に付した事件
法隆寺
災害問題に関する件
—————————————
〔筆 記〕
原彪
1
○
原委員長
ただいまより
会議
を開きます。筆記でいたしますが御
異議
ありませんか。 〔「
異議
なし」と呼ぶものあり〕
原彪
2
○
原委員長
この際
委員外
の
浦口議員
より
発言
を求められています。これを許すに御
異議
ありませんか。 〔「
異議
なし」と呼ぶものあり〕
原彪
3
○
原委員長
それでは
発言
を許します。
浦口鉄男
4
○
浦口鉄男
君 私のため貴重な時間をさいてくださまして、まことにありがとうございます。私は
法隆寺
の災害に関して、若干お伺いいたし、あわせて私の
意見
を述べたいと存じます。 まず私は
法隆寺金堂火災
に至るまでの
保存工事事務所
内の
実情
の
概要
を申し述べます。
日本最古
の
文化
、再考の
日本美術
の殿堂を汚濁したことは、最も遺憾とするところであります。
法隆寺國宝保存工事事務所
の
最高責任者
である
大岡実
氏と
技師浅野清
氏とが、学界、
美術界
、
建築界
に王座を占める
法隆寺
をその他位と
社会的好条件
とを利用して運営した
保存工事
のないように、不可解な非民主的な点少しとしなか
つたの
で、これが
反省
について
従業員
は忠告を呈したのでありますが、用いられず不明朗な雰囲気のうちに今回の
火災
とな
つたの
であります。この
不祥事
の
惹起
については慎重に実相をきわめ、正しく
責任
の帰趨を求めねばならないと思うのであります。前
工事事務所長岸熊吉
氏(
昭和
二十年四月
退職
)前々
所長古宇田実
氏(
昭和
一六年六月
退職
)の
退職
はその険に
大岡
、
浅野実
氏の術策があるのであります。当時
大岡
氏は
保存事業部
の
部員
、その後幹事となり、
文部技師
となり、
法隆寺保存事業
の
遂行
についてかぎを握る高級な地位にあり、思うままに
工事
を運営せんとして、
古宇田
氏及び岸氏らの
所長権
を認めず、あるいは無視し、あるいは言を構えて
古宇田
氏に
瀬戸高等学校長
と
兼務
なるがゆえに、また岸氏は
奈良
市在住が少いがゆえに
工事
に専心するに困難なりとしてその席におられない羽目に陥れ、遂に
退職
のやむなきに至らしめたのであります。
古宇田
氏は
佛教
に帰依することあつき信仰の人であり、岸氏また
法隆寺
との縁故三十余年、
太子精神
に徹した
篤厚
の士であり、ともに
法隆寺復旧
を安んじて委嘱するに足る練達の
建築家出
あ
つたの
であります。
昭和
二十年四月
岸熊吉
氏を
工事事務所長
のいすから去らしめ、その
あと
に
所長事務取扱
として
浅野
氏が任命されたのでありますが、このごろより
大岡
、
浅野両氏
の
謀略
の萌芽を見るのであります。二十一年七月ごろ
大岡
氏が
正式所長
に任ぜられるや、
両人
の
工事
に処する
行動
は一層露骨の度を増し、
大岡所長
は平素は
東京
にあり、
工事事務代行
として
浅野
氏が金権を握
つて工事
を支配し、
独断専行
の挙動は、
現場員
のまゆをひそめさせたのでありまして、以下具体的な
事例
を申し述べます。 一、
工事
の実務よりも自身の研究に没頭したことであります。
浅野
氏は講演、
著述用
の
個人
の原稿や原図を
所員
に助力させ、はなはだしきは
模写画家
をして
建築製図
に着色彩画せしめ、時間と公費とを私用に供し、また
修理工事
に
関係
なき
構造調査
などを行い、あるいは行わんとしたのであります。これらは
工事
に
関係
なく、まつたく私事に公の機関を用いんとしたものであります。 二、
建築模型
の濫作であります。
工事完遂
に名をかり、
事業
の
重要性
を一般に認識させると称して、必要以上に
模型標本
をつくり、わずかしかない
工事費
をさいたのであります。たとえば、
保存工事開設初期
には、
西円堂
の
素屋根
の
模型
をわずかな費用でつく
つて
も、
寺側
の反対があ
つたの
でありますが、当時は
工事事務所
の機構も整い、行き過ぎを是正する良識があ
つたの
に、
浅野
氏の場合には、だれもこれをとがめる者がなか
つたの
であります。 三、
現場従業員
に
工事遂行
の実態を専えぬことであります。
昭和
二十一年十月、
聖霊院工事
を
奈良縣下
の
株式会社天御津組
に請負わせたのでありますが、この
事情
を一切
所員
に知らせず、
大岡
、
浅野両氏
の間で契約したのであります。その仕方や
内容
が公正でないので後日
所員
が
浅野
氏に、あまりか
つて
なことをするなと訴えたこともあります。また
昭和
二十三年二月七日には、
大岡
、
浅野両氏ら同席
の
事業部員
多数
出席
の場所で、公正な
意見
を持ち、
再建
に最も熱心な寺の
出入り
の
大工棟梁西岡常一
氏が
聖霊院工事
は
やみ取引
であつたと叫び、このときに
両氏
らの不明朗な
行動
が公開されたのであります。
聖霊院工事
は寺の
出入り職人
の憤激を買い、
従業員
の心は
大岡
、
浅野両氏
から急激に離反したのであります。
寺側
もこの
事情
は知らず、
浅野技師
は
自分
だけおれば
法隆寺保存工事
はできると放言として
反感
を買
つて
いたのであります。
聖霊院工事
の
概要
を申しますと、
最初西岡
氏から
工事請負
の
見積
を徹しこれが二十万円、次ぎに
天御津組
に
見積り
をさせましたが、
見積額
十八万五千円で、契約いたしました。あらかじめ
大岡
、
浅野両氏
の腹案でこの
見積り
をさせたと見られる節があるのでありまして、
請負工事
の
内容
も完全な
設計書
もなく、ただ
竣成
を
昭和
二十二年九月としたのであります。
天御津組
は
工事
の下請を中岡という
大工
にさせましたが、これは
国宝修班
の
経験
もなく、
技術
も優秀ではなか
つたの
であります。さらに
工事費
は
昭和
二十二年六月
物價騰貴
ということで、二十万円増加を要求され、しかも
工事
の
竣成
も
期限
にはできず、
工事費
がますますかさむので、心配した寺からの再三の督促で翌二十三年五月にようやく
竣成式
をあげましたが、実際はその年の十月までかかり、
施工費
四十六万円を
拂つて契約
の二倍以上になり、
期限
も一箇年以上遅れました。 第四に、
工事
を私営のように世人に思わせたことがあります。
昭和
九年着手以来、二十年四月
岸所長
対所までは、
工事
の
現況報告
、珍奇な資料の
発県等
のニュースは、
工事事務所談
として新聞に発表せられましたが、
浅野
氏が
所長事務所長扱
とな
つて
からは、ことごとく
浅野清
氏談となり、いかなる場合でも
浅野
氏は
責任者
として発表しました。そのために
金堂等
を参観する者の中には、
法隆寺工事
は
浅野
氏の
個人的事業
かと思い、許可なく自由に出入して、
寺側
から
注意
された事実もあります。 第五に、不可解な
人事
についてであります。
昭和
十四年に優秀な
技術員
として特に九州の
國宝修繕工事
から
法隆寺
に迎えた
古西技手
を、
昭和
二十一年七月に
杢技手
が着手してからの
技術面
から擁し
会計事務
に当たらせたのであります。当時他の
従業員
はその不当を鳴らしたそうでありますが、これに対して
大岡所長
は、
会計事務
はかえ
つて
技術家
の
古西技手
のような人の方が
理解
がありスムーズに行くから、気の毒でも承知してくれと言われ、やむなく
古西
氏も承諾したそうであります。ところがこの結果は、優秀な
技術家
を
浅野
氏
給仕小使
の役ところにまわすこととなり、
工事
上の重要なことには一切介入せしめないという、一種の
謀略
にかかり、その以前から、すなわち
昭和
二十年七月戦争中の
奉仕隊
として
古野工業学校生徒
四十名が
工事
に従事したときも、前日まで
一言
の話もなく、当日に
至つて浅野
氏より、三、四箇月の宿泊に対するまかない、食糧の買入れ
世話等
を
古西
氏に命ずる等のことをや
つて
いるのであり、
工事事務所
において
従業員
の信頼厚き
古西
氏を
法隆寺
より、しまいには追い立てんともしたのであります。
昭和
二十三年七月ごろ
大岡
氏より
古西
氏に
出雲大社
の
工事
に行けと言われ、
古西
氏にあくまでも
法隆寺保存工事
から離れたくない、どんな端役でも、あるいは虐待されても、この
事業
に身を挺し、その昔
太子
の御
事業
の一部であ
つた法隆寺伽藍造営
その
昭和改修
の光栄ある
仕事
を当事者として
完成
するまではいたいというので、
大岡
氏は
浅野
氏の入れ
知惠
もあり、
東京
に
帰つて國立博物館
の
国宝修理保存課
で
課員
を集め、
古西
氏の言を歪曲して
出雲大社工事
に出ることを承知した、また
法隆寺所長
も承知したと報告したのであります。とこるが
課員
は
実情
を知
つて
いたので、
古西
氏が出るはずもないし、まだかくのごとき
経験者
を
法隆寺
から離して、
いなか
へまわすことに、全
國宝現場員
の士気にも影響し、いたずらに
反感
を買うのみであつ、専断は慎まれたいと反対したので、この
人事
は行われなか
つたの
でありますが、
古西
氏追出しの際の糸を引く者は
浅野技師
であり、
古西
氏は第三流の
いなか向き
の
技術者
であると人に放言し、実際にうとい
大岡所長
は、これをうのみにしたものであります。
従つて火災
後この対策を立てるにあた
つて
古西
氏を急に
金堂工事
の
主任
に命じたのも、
所長
として一切の
実権
を
浅野
氏に委ねていた
大岡
氏の定見も随時もなかつた補佐であります。
大岡
氏
ただ金
さえあれば優秀な
技術
などなくとも
保存事業
は行えると
考え
ていたのであります。これに対し
伊東忠太顧問
は
昭和
二十二年五月、
法隆寺
で開かれた
協議会
の席上、
法隆寺
の
保存工事
という
特殊性
のものは、金ばかりでできるものではないと、
大岡
氏の謁見を指摘した事実があるのであります。
古西
氏追出しに失敗した
両氏
はに
技術員清水政春
氏を
大阪
府の
金閣寺修理
に移動させんとしたのであります。
理由
は
法隆寺
では待遇も悪いし特来ためにもよくないとい
つたの
でありますが、
清水
氏はいかに不遇でも
法隆寺再建
のために踏みとどまるという正論をも
つて
したので、この提案もくずれたわけであります。
古西
、
清水両氏
とも
現場従業員
に敬愛信頼されていた人であ
つて
、まことにふしぎな
人事
を
大岡
、
浅野両氏
も
考え
たものであります。 元来、
大岡
、
浅野両氏
のつながりはいつのことからかわかりませんが、
昭和
二十四年四月に岸氏が
所長
を退任して以来、一時
浅野
氏を
所長事務所
に命じ、また
事業部員
や
博物館保存課員
の知らぬ間に、
文部技官
に任命したりして、
浅野
氏を遇することは異常なものがあ
つたの
であります。
大岡
氏に
博物館
の
修理保存課長
であり、
文部技官
であり、
法隆寺事務所所長
であるという便利な
條件
を利用して、正規の手続をふまず
工事費
を支出した事実もあり、重大なこの
事業
を二人で專断しようとした事実は、将来のため、
法隆寺再建
のためにも重大な問題として明白にしなければならないと思います。
大岡
氏がほとんど
東京
にいるため、
浅野
氏は
所長代理
各で
実権
を握り、外部の人間にはきわめて親切だが、
従業員
には過酷であると部下の定評があつた。
古西
氏はこのため
昭和
二十二年三月、
文部省文化課
の
武井事務官
に会見した際も、
浅野
氏
独断
に対して
所員
が氏から離反するばかりでなく、
仕事
の停滞、
士氣
の
弛緩等工事
に不安を感せしめるから善処されたいと
注意
進言し、当時多さか時事新報に掲載された
浅野
氏への
非難
の
記事
を示したが、
事務官
は大して耳もかさなか
つたの
であります。ところが
昭和
二十三年五月
法隆
の
保存協議会
が
開催
された当時、たまたま
大和タイムス紙
に
浅野技師
を
非難
した
記事
があり、このころから
大岡
、
浅野両氏
の
行動
に
識者
は疑惑の目を向けるようにな
つたの
であります。当時
工事運営
に
独断専横
をきわめた
人物
が、一たび一大
不祥事
を
惹起
するや、
責任
を回避せんとすることは陋劣きわまることで、大切な
文化
財を託しておいたことは眞に寒心にたえないのであります。日ごろ口癖のように、
責任
はどんな場合でもとると言いながら、単に
免職
だけでは事は済まないと思うのであります。 最後に、もう一件奇怪な
人事
があります。それは
五重塔工事主任
に
大阪
より
竹原吉助
氏を迎えた問題であります。
竹原
氏は
大阪
で
國宝修理
二、三箇所を受持ち
法隆寺
へ来ることは好まなかつたりでありますが、それをむりに承知させて、
事業部技手
に任命したのであります。
昭和
二十三年二月末に発令したのでありますが、
本人
は五月に入
つて
始めて顔を出し、一箇月のうち十五日ぐらいしか
法隆寺
には出て来ないのであります。
五重塔再建
は
法隆寺伽藍
の
主軸
をなすもので最も重大にもかかわらず、その
人事
がかように出たためであ
つて
、
法隆寺再建
ができるであろうか、
大岡所長
はこれをいかに弁明しても、その無誠意は明白であります。 第六に、
保存工事
を壟断して
事業部員
及び
工事事務所員
を誑惑した事実であります。この
事例
はたくさんあるので簡略して申しますが、
昭和
二十二年末から二十三年初頭ごろから、
法隆寺展覧会
を
東京
に
開催
する検討を始めたのであります。
大岡
、
浅野両氏
が主謀となり、そのためには肝心の本
工事
を忘れ、これを犠牲にしても悔いない
態度
をとり、
あと
に申し上げますように
壁画模写
の促進とな
つて
無理をしたことが、今回の
金堂火災
の
最大原因
をな
つたの
であるから、当然
法隆寺展
の
計画
は断絶したものと思われたのに、
両氏
はさらに陰に動いて
開催
の準備を進め、遂に今年四月
某日
、
國立博物館員
数名が
運送屋
を引具して
現地
に
出品方
を以来に乗り込んで来たのであります。そのとき、
現地員
がその目録を見て驚いたのは、
金堂
、
五重塔
の
建築部材
多数が列記されていることであります。しかもそれまで一度の内交渉もなく、まつたく
両人
がその顔を利用して、いまだにか
つて
に
法隆寺
を扱い、
独断
的に
計画
を立てたものであるとして、
現地員一同
は反対して
出品
を拒否したのであります。これら重要なる
部材
の
破損紛失
が、いかに
法隆寺再建
に致命的なものとなるか思うだに驚くべき非常識な
態度
であると思うのであります。 さらに奇怪なことは、これを契機として判明したところによれば、正式な
預り証
をとらずに、
奈良博物館分館
及び
國立博物館
に、今までに
建築部材
その他を貸与していたことであります。
両人
以外、何の記録もなくこれが出ていたということは、
不祥事態惹起
の際にける
責任
はどうなるか。貴重な
國宝物件
を無償にひとしい方法で移動貸与する軽率さは
関係者一同
が憤慨するのも当然であると思うのであります。しかして
両人
はその
人事
に対する
識者
の
非難勧告
により
昭和
二十三年十月二十四日、形式的に
事務分担
を定めたのでありますが、実際には従来通り一箇月に一度くらいしか来ない
大岡所長
の
代理
として
浅野技師
が
工事
全体を管理し指揮していたのであります。その例証としては、
昭和
二十二年一月七日に
文部次官
が
奈良興福寺
で
法隆寺工事予算等
の聴取をしたときに、
古西
氏も同行を申し出たのに拒否されて、
浅野
氏が
佐伯貫主
と同行し、また二十四年一月十日
文部省興官
が
法隆寺
に出張したときにも
古西
氏に
出席
を求めなか
つたの
であります。さらに一月十八日
文部大臣來寺
の
工事視察
に際しても、
古西
氏は
出席
を求められなか
つたの
であ
つて
、
事務分担
は事実上は
浅野
氏へ人の
専横
をまかされていたのであります。 次に
佐藤電氣技師採用
についての経緯を申しますと、
昭和
二十三年十一月二十四月、
大岡所長
、
浅野技師
、
竹原技手
、
杢技手
、
古西技手
の五名が
事務所
で会同し
相談
の結果、二十三年度の
工事予算
四百五十万円が倍額の九百万円にな
つたの
で、
事務員
を補充するため、さしあたり
女子
を
採用
しようということにな
つたの
であります。その後
古西技手
が
女子事務員
の
採用
につき申出たところ、
浅野
氏はまず
金堂
の
電氣保守
に当る
技師
を入れると主張して譲らず、さらに二十四年一月にな
つて杢
、
古西両氏相談
の結果、
女子
を
採用
すれば、杢、
古西両氏
の
事務面
に余裕が生じ、
技術面
にかかりたいからとて申し出たのでありますが、これに対しても拒否されたのであります。この時
古西
氏は
事務分担
では
自分
が
事務主任
であるのだから、
人員採用
の権能も與えてもらえぬかといい、全
所員
も
女子事務員
を希望しているのだからと主張たが、
浅野
氏は
採用
の
決定権
は
自分
にあると主張して譲らず、遂に一月十八日、
電氣技師
として
佐藤亮拿氏
を
採用
し、
金堂
の
電氣
に関する一切を一任したのであります。この一事は
金堂火災
と関連して
浅野
氏の権力と
独断
について見のがすことのできぬ点があるのであります。かくして
佐藤技師
は一月十八日以後毎日
金堂
に入り
蛍光灯
その他の
電氣
を取扱い中、一週間を経てあの
不祥事
を巻き起こしたのであります。 次に
金堂火災
の
間接原因
として、
電氣座ぶと
んを
使用
した
國家
のあつ
れき
を
参考
までに申し上げますが、
電氣座ぶと
んを申し出たのは
橋本明治
氏であり、許可したのは言うまでもなく
大岡所長
であります。
大岡所長
は
法隆寺展
に
壁画
の
模写
を出陳したいというので、早くから
京都班
の
入江波光画伯
に努力を依頼したのでありますが、
人江
氏は
病氣
のため
昭和
二十三年六月死去の際にもこの事を助手に依頼され、
京都班
は黙々として続け、二十三年中には大体
完成
でき見透しがついたのであります。ところが、
東京班
に
一言
もこれを知らず、後にな
つて
これを知り
橋本
氏を初め十一人の
画家
が十一月七日
工事事務所
において
所長
と会見し、いわゆる
やみ取引行為
であるとて
所長
を痛烈に
非難
したのであります。 話は前後いたしますが、その前に
大岡
、
入江
の密約を
東京班
がかぎ出し、
東京班
から
画家
の仁義として
展覧会出品
の
中止方
を
京都班
に申し出たのでありますが、これが拒否され、さらに
東京班
の怠慢であるとさえいわれたので、ここに対立は激化して醜悪なる抗争とな
つたの
であります。そのために
東京班
は連日会合の結果、
識者
に
連絡
をと
つて
、
展覧会開催期
の延期か、あるいは
模写画
の
出品
を全部同寸法に統一して出すこと二案を提示したのでありますが、
模写
の総帥である
安田靱彦画伯
の
意見
で大体後者におちつくことになりました。しかるにほとんど
完成
に近い
京都班
はこれに賛成するわけがなく、
京都班
独自の立場から別の方面の運動を試みていたのであります。 これは
東京班
ではわからず、
安田案
に従うものと
考え
て、ともかくも遅れている事が
展覧会
に
出品
するために秋から冬中
金堂
にこも
つて
執筆することとな
つたの
であります。元来
略画模写
は
昭和
十五年秋以来、一年のうち春秋二箇月ずつ合せて五箇月を
仕事
の時期として、冬と夏は休止することにな
つて
いたのでありますが、この
展覧会開催
のためと、なお
一つ模写
以来十年を費やしてまだ目鼻がつかない状態でははなはだこまるので、
事業部
はここに
模写完了
を
昭和
二十四年度中と
期限
をつけた。この結果厳寒一、二月に
金堂
に篭居することとなり、
保温設備
が必要であるが、炭火は危険であるので、
しろうと考え
から
電氣座ぶと
んが安全と
考え
られて、ここに
電氣座ぶと
んの
使用
とな
つたの
であります。 以上、
法隆寺保存工事
の
実情
について申し上げたのでありまして、長々と恐縮でありましたが、これを要約いたしますと、次の七点になりますので、これについて
文部大臣
の後答弁をお願いしたいと思います。 第一点は、
法隆寺伽藍
の
修理再建
は徳望ある
工事責任者
のもとに、
従業員
の
結束協和
によ
つて
迅速精巧になさるべきであつたと思うが、この点につき
当局
は
反省
を要するのではないか。 第二点は、
伽藍
の
修営復旧
という本來の使命から逸脱した
所長等
の
行為
に対し、
事業部長
は
注意監督
を怠つた点がないか。 第三点は、
國宝修理
に多年の
経験
と
技術
とを持つた
技術員
を、
建築修理面
に用いず、
会計事務
に当たらせたのは、何かの
理由
があつたか。 第四点は、
工事
の
最高責任者
である
大岡所長
及び
浅野技師
が、
博物館
と
兼務
であるのもふしぎである、
法隆寺伽藍
の
主軸
である
五重塔
の
再建工事
を担当させるのに、
大阪
府と
兼務
の
竹原技手
を、しかも
本人
が氣乗りしないのにもかかわらず任命したのは何ゆえであるか。 第五点は、
金堂壁画
の
模写
は、多数の
画家
を嘱託し、しかも十年の日子を費やしていまだ
完成
の日に遠つかたのは何ゆえか。また
画家
の間は最近あつ
れき摩擦
を生じ、
大岡所長
の不信を云々していたが、その真相はそうか。なお十年間必要としなかつた
電氣座ぶと
んを突如として
使用
するに
至つた原因
を
当局
は探求されたか。第六点、
金堂
の
電氣工事
を託する
電氣技師
をいかなる経路で
採用
したか。経歴、
技術等
を慎重に調査したか。 第五点、五月中旬に
國立博物館
において
法隆寺展覧会
を
開催
したことは、
火災
によ
つて世間
を騒がせ、しかもその
原因
が
展覧会
の
計画
と密接な
関係
があつたと
考え
られる点がある以上、謹愼せねばならなかつたと思うがどう思われるか。以上の点につき、質問いたします。大変長くなりまして、この
委員会
の御多忙の中で恐縮ではありましたが、
法隆寺火災
は
文化國家
としての
日本
に重大な問題でありますので、特に詳細に申し上げた次第であります。
高瀬荘太郎
5
○
高瀬國務大臣
お答え申し上げます。
保存工事
の
事業者
の
人事事務所執行
の缺陷の
中心人物
たる
大岡
、
浅野
両
技師
の
責任
の
処理
については、
文部省
としては
行政
上の
処理
をたしました。なお
浦口議員
より御話にもありましたように刑法上の
処置
は
検察廰
でいろいろと調査いたしました。
文部省
としては
行政
上の
処置
としまして、
大岡事務所長
、
浅野主任
を
免職
といたし、
事業所長
を新しく任命いたしました。さらに今後
人事
を一新いたし、
事務能力
を迅速完全にする意思であり、これよりは醜い思わしくないことは決して起らないようにいたします。それらの事実が
火災
の
原因
であるならば慎重に
注意
し取扱います。お話になりました
國家
については、
文部当局
としてもいろいろとその点調べますが、
文部省
としては承知しておりません。もし事実であれば、困つたことであります。 次に
電氣座ぶと
んの事でありますがこれの
使用
については
文部省
に
連絡
はありません。
千賀康治
6
○
千賀委員
いまの御質問は
大変胸
を打ち、われわれはたいへん
参考
になりました。ことに
電氣座ぶと
んとか、
電熱器
の
使用
は、最近
官公職
においては自由に
使用
されています。
理由
としてはか
つて
な
理由
があるかもしれませんが、
電氣器具
をか
つて
に
使用
することは
火災
の
最大
の
原因
で、あります。私に過去、二箇年
消防法
をつくる
委員
をしたことがありますので、この点よく研究いたしましたが、若い者が集まる所は火に対して意に介しないものがあります。それは
思想的関係
があるかもしれませんが、若い者が上司の命令を聞かないということを、今の若い者の民主的と思い違いをし、火の用心をおろそかにすることは
現代人
の通弊であります。私が日曜に帰省した際、岡崎の
学校
が
火災
になり、四千数百万円が失われました。これは
電氣
に対する
理解
の
不足
が
原因
であります。このごろにおける大事は、
電氣
の加熱によるものが多いのであり、
火災
によ
つて日本
の
工場会社
も滅亡して行くことだろうと思います。この滅亡はわれわれに認められるのであります。こういうことに
文部省
が
学校
、
国宝保存
について
取締
る官僚である。
法隆寺
の問題もまつたく
國民
の
考え
もしないことである。
文部当局
が私の申しました点を
十分取締
らなければ、加速度的に、滅亡して行きます。
当局
のこの点についての御
意見
をお伺いしたいと思います。
高瀬荘太郎
7
○
高瀬國務大臣
お答え申し上げます。
法隆寺
の
電氣座ぶと
ん
使用
は、
一つ
の缺陥であ
つたの
で、
大岡
、
浅野両氏
は
免職
にしました。今後は厳重に
取締り
ます。 次ぎに
学校火災
の問題でありますが、これは事実でありまして、
建築不足
の際、まことに遺憾であります。
火災
が起るたびに
注意
を喚起しておりますが、十分の効果が現れていないので、
文部当局
としては十分配慮いたします。
浦口鉄男
8
○
浦口鉄男
君
文部大臣
に簡単に御質問いたします。
学校
内における
政治活動
に対し、教授の実際問題の
取締り
について。これが
一つ
。次に
新制大学
が審査来了または不合格にて
大学
に昇格いたさない
学校
が、
内容
が充実いたしまして
新制大学
となる場合のこの見通し、以上の二点について御答弁をお願いします。
高瀬荘太郎
9
○
高瀬國務大臣
御答え申し上げます。
学校
内の
政治活動
については、教育基本法第八條の二項に、
学校
はいかなる政党にも反対しまたはこれを支持するような
政治活動
をしてはならないとあります。一般的な基準は以上のごときであります。 次に
新制大学
の問題でありますが、二十四年度からは不適当なものはそれらの
学校
については審査し、なお
新制大学
は教授及び施設の
不足
これらを整備し新制して、これを設置
委員会
で審査するのであります。
学校
教育の一部として短期
大学
の二年三年制は四年制の
大学
よりレベルが低いので、あらためて審査を申請いたします。
浦口鉄男
10
○
浦口鉄男
君 ただいまのは学生の問題のようでありましたが、教授の点はどうですか。
高瀬荘太郎
11
○
高瀬國務大臣
同じです。
原彪
12
○
原委員長
本
会議
の時間も迫りましたので、本日はこの程度にとどめまして散会いたします。 午後三時五十一分散会