○千賀
委員 私の発言は、ただいまの
邦樂の問題についてでありますが、せつかくの機会ですから皆様にごあいさつ申し上げます。今日からこの文部
委員会のお仲間入りをさせていただきますから、どうぞよろしくお願いいたします。
この前制限漢字の問題で
文教委員会に発言を求めに参りましたときは、
ちようどやはり
邦樂の問題が
論議されてお
つて、その時には家元師匠がたくさんこの席上に詰めかけておられたときであります。
ちようど今日同じ問題がここに
論議をせられつつあるのでありますけれ
ども、私はこの問題がいまだ当局の
採択するところにならないということにつきまして、非常に遺憾を表するものであります。制限漢字の問題も同様でめ
つたのでありますが、これは学者とかあるいはその專門家とかいうものが、あまりにも大きな変動である敗戦の今日、並びに支配國に支配されておるこの今日、どぎもを失
つて、何とか自分たちもかわ
つたようなまねをしないと、あれは旧態依然として新しい事態に即應する能力がないんだというようなことを支配者に思われると、つい飯の種がなくなるだろうという心配からじやないかと思うのですが、とつぴなことをみんな始めて参ります。この点は実に
日本全体の社会各層にその弊が現われておると思うのでありますが、制限漢字も同様であり、また
音樂をやる力みずからが
邦樂にけちをつけて、
大学の面から
邦樂を抹殺しようなどと考えることも同じだと思います。明治以來の
教育も、すでは半世紀以上の年月をけみしてお
つて、その間一貫して
小学校、
小学校等におきましては、
邦樂というものとは全然縁のない西洋から渡
つて來た旋律によ
つて、
日本の子供たちは
教育をされて來たのであります。これがほんとうに効果があが
つておるならば、それが依然として今日も
日本國民の音による情操というものを支配しなければならないはずでありまするが、半世紀以上にもわた
つたその
日本の過去の
努力はあまり大した効果がなか
つた。これによ
つて國民情操を一変させるだけの効課のなか
つたことは事実であります。今日諸君は、櫻の下へ行
つて酒を飲んで、ほんとうに飾りのないわれに返
つた人たちが何を歌
つておるかは、おわかりになりましよう。たいていは在來のどどいつを歌うとか、さのさ節を歌うとか、また若い人でさえも大体歌謡曲を歌
つております。
学校で教えられた西洋の節に、
日本語をはめただけの歌を歌う者はほとんどありません。十人の中で一人という割もありません。百人の中でどれくらいあるか知りませんが、大体は私が先ほど流べた歌を歌
つて、それで音感による満足を得ておる。歌謡曲のごときは、あたかも西洋の歌をつくりかえたように見えまするけれ
ども、そうではない。西洋の歌だけを
日本人が歌
つたのでは、何となしにもの足りないから、西洋の旋律、その節まわしに
日本の歌謡を入れて、そこで
日本化した西洋節を歌う。これが歌読曲でございましようが、こうして
日本人みずからが苦しい中にも慰めを求めておるのであります。漢字についても制限をしてみた。これも向う側にこびる学者の
一つの運動だろうと思いまするけれ
ども、やることはや
つてみたが、
日本の全体の國民かどれくらいそのために難儀をなしておるか。また官廳自身も制限漢字を使わなければならないために、必要な文字による表現ができない。とつぴな文章をつく
つたり、また
一つの文章を書くために、制限漢字にあてはま
つておるかおらないか、これを調べるために、そんなことを氣にしなければ五分間で書ける書類が、一本二十分も三十分も一時間もかかる。こういうようなむだが
日本全体の何十万という官吏の間で行われておる。その能率の低下度から考えてみますると、一体益と損と比べてみたらどんなに大きな開きがあるのか。こうや
つて参りますると、われわれがほんとうに考えてみなければならぬことは、一部の指導者がどんなに時流にこびるためにいろいろな運動をや
つておりましても、国民全体の流れというものはなかなかそれによ
つて動かすことはできない。
音樂におきましても、
日本音樂は
理論がないというようなことで、
大学の科目にいたしがたいというようなけちをつけてみましても、國全生体がやはりそれでなければならぬというならば、
大学の運動と國民の行き方とは全然遊離して來る。そんなことならば、むしろ
大学なんかやめてしま
つた方がいい。
理論のためにというならば、大体
音樂なんかは
理論じやない。情操から來るもの、感情から來るもので、西洋の
音樂も
理論から始ま
つたのではない。ヴエートーヴエンというピアノのうまい小僧が、自分の感情にまかせてひきなぐ
つたものを譜にして、
あとから
音樂の学者という人々がこれにりくつをつけただけのことでありまして、西洋の
音樂も決して
理論かう始ま
つているのではない。
日本の
音樂だ
つて日本流に
理論をつける人があれば
理論かつく。
日本の
音樂を西洋流の
理論に当てはめて取扱
つてみようというのであるから都合が悪い。あくまでも
日本人の好む情操、
日本人の好む音感、感情等を正しく解して、しかもこれらの
人たちに樂しみを與える根源を
日本的に
理論づけて行こうということばらば、必ずできるはずであります。それを西洋式にやりにくいからやめよということで、あつさりやめたならば、あの人は新
日本運動に挺身しているということで、新しい権力者から喜び迎えられるだろうという卑屈な考えが
相当たぎ
つているのではなかろうか。この点をわれわれは非常に疑うものでございます。西洋の
音樂の樂典から考えてみて、
日本の樂典がいいか悪いか、あるいは
日本の
音樂の形式がいいか悪いかは、
理論の差異でありますけれ
ども、一世紀に近い
努力で
日本の
学校が何億万人と子弟を
教養して参りましたものが、結局
学校を卒業してしまえば、
日本人の生命に一向にそれが宿
つていない。ことごとく
日本人というものは昔に帰
つて、ある年配に達すればさのさ節やどどいつを歌い出すということを考えてみまするときに、もつとほんとうに地についた民俗全体をこのままの姿で
教養するということを考えなければ、われわれは敗戦という苦杯をなめてほんとうに考え直さなければならないときに、再び明治以來のミステークを繰返さなければならないだろうと思います。今
理論がないから
日本音樂をやめよということを強行するとすればむしろことごとく
日本の言葉も禁止してしまえ、文字も英語を使え、言葉も英語を使え、あらゆるものことごとく英語になれ、米語になれ、
日本のあらゆる形式は禁止するというところまで行けば、またこれはもつと深刻な
批判をすべきものがあります。それでなければ、今当局が考えておる程度の新運動は、百害あ
つて一利ない。私はこういうことを強く感じておるのであります。この線からお考え直しになれば、当然
大学の
音樂科目の
方針から言いましても、
邦樂を無視することは賛同しがたいものであるということは、当然であると思うのであります。重ねて当局の御
意見を伺いたいと思います。