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1949-06-01 第5回国会 衆議院 選挙法改正に関する特別委員会 第6号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十四年六月一日(水曜日)     午前十時四十九分開議  出席委員    委員長 生田 和平君    理事 野村專太郎君 理事 聽濤 克巳君    理事 逢澤  寛君 理事 小平  忠君       江崎 真澄君    神田  博君       千賀 康治君    田中 重彌君       中川 俊思君    平澤 長吉君       藤枝 泉介君    上村  進君       吉田  安君    佐竹 晴記君       中野 四郎君  委員外出席者         参  考  人         (東京大学教         授)      宮澤 俊義君         参  考  人         (東京大学教         授)      鵜飼 信成君         参  考  人         (評論家)   蝋山 政道君         参  考  人         (評論家)   新居  格君         参  考  人         (読賣新聞社社         長)      馬場 恒吾君         参  考  人         (毎日新聞社論         説委員)    池松 文雄君         参  考  人         (朝日新聞社政         治経済部長)  増田 壽郎君 五月三十一日  委員木村俊夫辞任につき、その補欠として小  平忠君が議長指名委員に選任された。 六月一日  委員林百郎君辞任につき、その補欠として上村  進君が議長指名委員に選任された。 同日  理事木村俊夫君の補欠として小平忠君が理事に  当選した。 五月三十一日  選挙法改正調査小委員木村俊夫委員辞任につ  き、その補欠として六月一日小平忠君が委員長  の指名で小委員に選任された。     ――――――――――――― 本日の会議に付した事件  理事の互選  小委員補欠選任  選挙法改正に関する件     ―――――――――――――
  2. 生田和平

    生田委員長 これより会議を開きます。  まずお諮りいたします。昨三十一日理事であり、かつ選挙法改正調査小委員でありました木村俊夫君が委員辞任いたされたのであります。よつて理事及び小委員補欠選挙を行いたいと思います。それには投票手続を省略いたしまして、委員長において指名するに御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 生田和平

    生田委員長 御異議がないと認めます。それでは指名いたします。小平忠君を理事及び小委員指名いたします。     ―――――――――――――
  4. 生田和平

    生田委員長 これより選挙法改正に関する件を議題といたします。  去る二十八日の委員会におきまして学識経験者より二院制度について、選出方法について、選挙公営について、その他現行選挙制度に対する批判を承ることに協議決定いたしまして、本日ここにお出ましを願つた次第でございます。本委員会といたしましては、設立以來その指名重要性並びに緊要性にかんがみまして、愼重なる審査を期して参つたのでありまするが、本日ここに参考人各位より多年の経験研究に基く貴重なるご意見を拜聽いたしますることは、委員会審査に一席の権威を加えるとともに、多大の参考になることと確信いたす次第でございます。私はここに委員長として、本日御出席くださいました参考人各位に深甚なる謝意を表するとともに、忌憚なき御意見を述べられんことを切にお願いいたします。  なお時間の関係もありますから、その御発言は、大体三十分内外におとめを願いたいと思うのでございます。なお発言のときにはごめんどうでありますが、御職名と御氏名をお述べになついたたきたいと思います。  本日御出席になられます諸君は、東大教授宮澤俊義君、同じく田中一郎君――田中先生は本日おさしつかえがあつて御欠席になります。次にはやはり東大教授鵜飼信威君、読賣新聞社長馬場恒吾君、評論家蝋政道君、同じく新居格君、朝日新聞政治経済部長増田壽郎君、毎日新聞論説委員池松文雄君の方々でございます。それではまず東京大学教授宮澤俊義君より御意見を伺いたいと思います。
  5. 宮澤俊義

    宮澤参考人 私は東京大学教授宮澤俊義であります。私には両院制度について何か意見を言えということでございましたが、申し上げるまでもなく、非常にむずかしい問題であります。と同時にまたすでにいろいろ論ぜられておる問題でありまして、大きく言いますと、世界的に定説のない問題、つまりどちらがいいとは簡単に言えない問題でありますから、私といたしましては、直接に御参考になるような有益な意見を申し上げることができないことは、まことに申訳のない次第であります。でありますが、全般的にそれに関連しまして、せいぜい私の所感程度のことを申し上げてみたいと思います。しかしそれもすでに論じ盡されたことでありますから、格別皆様方のお役に立つことはあまりないと考えております。日本の現在の憲法両院制度の問題をどうするかと言いますと、その先決問題としてその範囲をどこまで持つて行くか、どの辺までやるつもりかということをまず考える必要があるのじやないか、言葉をかえていえば、憲法に触れることも考えるのか、それとも憲法わく内で考えるのかということが大きな問題ではないかと思います。実際問題としては、おそらく憲法わく内で考えることが適当というか、実際的でありましよう。現在の憲法改正ということは、少くともそれが両院制度の問題に関する限りは非常に困難ではないか。両院制度の問題といえば、結局は上院の問題すなわち参議院の問題で、衆議院の問題ではないわけであります。ですから結局参議院をどうするか、つまり参議院を置くか置かないか、置くとすればどういう組織、どういう極限を認めるかというところに結局なるわけでありますから、その点についての憲法規定改正するというときになりますと、どうも常識的に考えましても参議院の三分の二というようなことを得ることが非常にむずかしいように考えられます。少くとも現在の参議院に対して多少でも不利益と考えられるような方向改正は、実際問題として非常に困難ではないかと思われます。しかしそういう実際上の困難をしばらく別としまして、私の考えを申しますと、やはりその辺まで考えた方がいいのではないか、場合によつて憲法改正もやむを得ないというところまで考えた方がいいのではないかと私は考えております。その点に関連しましては、少し他にそれるかもしれませんが、両院制度の問題すなわち参議院の問題に限らず、その問題について憲法に触れることも研究する必要があるとしまするならば、やはり参議院以外の問題についても憲法の再檢討が必要ではないかと考えております。むろんいろいろ事情もあることでしようからそう簡単にやるわけにも行きますまいけれども、諸般の事情が許す範囲においては、やはり憲法全般改正についても愼重研究する必要があるのではないかと考えております。從つて参議院の問題もその辺まで含めて考えることが必要ではないか。わが國の新憲法ができますときに、おそらくかなり多数の人の感じは、一院制よりは両院制がよいという意見であつたろうと思います。しかしそういう人たち憲法施行後現実の國会動きを見て、はたして満足したかどうかといえば、これも相当疑問ではないか。中には当時は熱心な両院論者であつたけれども、その後実際の動きを見て考えがかわつたというような人もあるように聞いておりますが、それも無理のないところもあるように思うのであります。つまり問題は、ただ両院がいいか一院がいいかということではなくて、上院組織なり権限をどうするかということになるわけで、これこれの上院であるならばあつた方がいい、そういうものならばない方がいい、こういうことでありますから、ただ一院がいいか、両院がいいかということは議論にならないように思います。そこで結局問題は上院をどうするか、どういうものが望ましいかという問題になろうかと思います。そういたしますと現在の参議院につきまして、その組織権能ということが大体問題になろうかと思います。  組織の点につきましては、御承知の通り憲法相当嚴重わくがございます。從つてそのわく内でということになると、そこに大きな限界が出て参りまして、十分自由奔放な構想をすることは困難になりますけれども、しかしそのわく内におきましても、現在と違つた構想も不可能ではないと思われます。その点では現在の参議院選挙法ができます際に、あれは法制審議会とかなんとか言いましたが、新憲法付属法令研究する委員会が設けられましたが、あの法制審議会のその方の部門で相当具体的な幾つかの案がつくられたかと記憶しております。それらの案はいずれもいろいろの事情によつて採用されるに至りませんでしたけれども、それらの案は憲法わく内で十分可能であると考えられた案でありますから、それらはもし事情がまた許すならば、この際再び取上げて考えていいのではないかと考えております。その内容は一々私は記憶しておりませんが、たとえば参議院議員について一種の間接選挙と言いますか、ほんとう間接選挙ではなくて、一種の間接選挙のようなもの、たとえば地方議会議院選挙母体とすると言つたような構想、あるいは衆議院参議院議員についての発言権をある程度認める。結局これに公選された議院でなければなりませんから公選はされるのでありますが、その前の手続として衆議院が推薦するというような、少くとも一部にそういうことを認めるとか、あるいはそのほかいろいろな構想が当時なされたのでありまして、それは当時の記憶をごらんになればすぐにわかろうかと思います。そういうものも十分この際また取上げて考え直していいのではないか。しかし当時は選挙はすべからく簡単明瞭でなければならぬ。そして直接でなければならぬといつたような意向から、多少でも間接選挙的なものではいけない、また多少でも複雑なものはいかない、こういうことになつて現在のようになつたのでありますが、しかしそこには考え直す余地は相当あるように思います。そこであのときに考えられたような構想にさらに考えられていいのではないか。これはいずれも憲法わく内における改正でありますが、これだけでも相当大きな改正考えられるのではないかと考えております。さらに憲法に一たび手をつけることになりますと、それ以上の改革も十分に可能なわけであります。それから組織の点では、だれでも問題にすることでありますが、参議院議員の任期ということが問題になろうかと思います。これは大体少し長過ぎやしないかという意見が非常に多いようであります。もちろんこの種の問題は理屈の上から何年でなければならめということは申し上げられません。大体の見当でありますが、私。感覚でもどうも六年というのは長過ぎる、衆議院議員の実際に比べますと長過ぎるような感じがいたしまして、その点などはしかるべく短かくされることが適当ではないかと思つております。現在の選挙法のままでは、たとえば全國選挙区というものは相当に問題ではないか。この間の選挙の実際の結果ではあまり心配されたような悪い結果はなかつたようにも考えられますが、とにかくあれだけの大きな選挙区で、単記投票選挙するというこそれ自体ははなはだ理屈の上で大きな問題になるわけで、はたしてあれを何回やつてもうまく行くものかどうか。これは相当に疑問だろうと思うのであります。こういう点は十分再檢討される必要があるのじやないか。少くとも選挙については、一般的に衆議院とあまり違わないようなものをつくるということは決して望ましいことではないのでありますから、その点においてなんとか違つた構想において、衆議院と合せて國民意思を代表するように、衆議院だけでは足りない方面をそこに補うといつたような工夫もありてしかるべきだと思います。組織についてこまかい問題はいちいちございましようけれども、そのくらいにしておきます。  権能の問題でありますが、権能の問題では衆議院権能との関係において、相対的にその辺に置くかということが問題になるわけであります。現在は、かなりの程度衆議院優越性を認めておりますが、現在のやり方だけでもなおそこにいろいろな立法技術的な問題もかなりあるように思います。それは法律だけではなくて、憲法自身についてもあるように思います。たとえばこまかい点ですが、ちよつと思いつきましたことを申し上げますと、憲法の第八條ですが、皇室関係の財産の授受については、國会議決がいるということになつておりますが、あの際は衆議院優越ということはどうも認められていそうもないのであります。これはなんでも憲法議会における政府の解釈では、あの際は衆議院には優越を認めないということであつたと思います。ところが法律については認められておるので、現に皇室経済法などであの議決を一々やるのはめんどうだからというので法律でやつている場合もあります。また個々議決法律でやるということも十分考えられるわけであります。法律でやれば同じことが、衆議院優越性を持ち、そうでないと持たないというのもはなはだおかしいので、やはり衆議院優越性法律について持たせるならば、あの際の議決についても当然持たせてしかるべきではないか。この点についても立法技術的にもう一工夫していいのではないか。かように考えられます。なお議会法規定などについても、この間の議会で多少問題があつたようでありますが、結局個々の場合にはどうということを規定しているために、ついその規定が十分でなかつたり、あることについて抜けたりした結果、衆議院優越性が同じ事柄に関する優越性の中に、多少でこぼこができた結果もあるのではないかと思うのでありまして、その辺が立法技術的に整理される必要がありはしないかと思いますが、さらにもつと大きな問題としましては、憲法改正につきまして先ほどちよつと申し上げた通り両院対等の地位を認められております。これは憲法議会における説明によればもちろん意識的にそうなつていたのでありまして、普通の法律とは違う。法律や予算については衆議院優越を認めるけれども、憲法においては認めることは適当でないというので同等にしたのでありますけれども、はたしてそういうことが適当であるかどうか。現に今のような改革問題にぶつかりますと、その点で実際上両議院改革参議院改革ということはまず不可能になるというおそれもあるのでありまして、はたしてそれがいいかどうか、全体に衆議院優越性を認めるという精神の上から行くと、その点ももう少し何とかしてもよかつたのではないかという考えも成り立ち得ると思います。  権能につきましては、あるいは逆に衆議院権能をもつと強くすることが必要でないかという意見もあると思います。あるいは反対にもつと弱くすることも必要だという意見もあるかと思います。これもにわかにきめられません問題で、しかもそれだけできめりわけには行かないので、ほかの権能あるいは組織と相対的に考えなければならないと思います。たとえば権能をもつと強くするということになれば、当然に参議院についても、たとえば解散というようなことを考えなければならぬかどうかということになります。現在衆議院だけが不信任決議権を持つている。そこで衆議院については解散というものが認められるという事情から言いますと、ただ参議院の権力を強くする、衆議院と同じにするというだけではいけないので、もし強くするとすれば、またそれに付随していろいろほかの方の改正考えなければならない、弱くすれば弱くするでまたほかの方の関係考えなければならない、こういうようなことになりますから、すべて問題は相関関係になるので、相対的に考えなければならないと思います。しかもどのくらい強くした方がいいか弱くした方がいいか、これもはつきり線を画することは困難でありますが、私におきましては、大体今の程度でよろしいのではないか、それを非常にかえるということは、必ずしも必要ではないのではないか、こういうふうな氣持を漠然と持つております。結局私のただいまの考えでは、現在の憲法の定めるような両院制がはたして非常に適当であるか、どうかは疑問に思つております。非常に理想的な見地からは、やはり憲法そのものにも手をつけるような改革考える必要があるのではないかと考えておりますが、ただ何分参議院が開かれましてからまだ時もたつておりませんので、今すぐにこれに手をつけなければいけないというようなことは、私は考えておりません。むしろこの際は憲法改正をも含めて相当根本的な改正を慎重に研究するという態度が望ましいのではないか。そしてかたわらに衆議院の実際の運用を見ながらもう少し研究を続ける。そして事情によつては、法律わく内における改革、これでも相当にできるはずでありますから、それをやる。さらにまた事情によつて憲法全体にも手をつけるという方向に行くべきではないか。制度というものは、いろいろいじつてみましても、そう一概に悪い、いいというふうに簡單に断定のできるものではない。ある場合には、とにかくある制度相当の期間行われることが、その制度を判断する上に必要でありまして、相当の期間行われますと、その間におのずから運用で直せるものは直り、相当の成績を上げられるようになるのが例であります。それを見た上で修正する、改正するということが穏当ではないか。そこで現在の参議院につきましても、今すぐ今年、來年に大改革をやることよりは、いろいろ大改革考えながら、場合によつて憲法改正までも辞せないという態度でいろいろな構想を練るということが必要ではないか。ですから、はなはだ消極的な意見のようでありますが、この際はやはり憲法改正をも含めて、こういう問題を慎重に研究するという態度をとるのが穏当ではないか。そしてその研究の目標は、必ずしもすぐここ半年、一年の間に根本的な改革をやるというのでなく、もう少し現在のままの参議院動きをながめて、その上で場合によつては根本的な改革をするという方向がいいのではないかと私は考えております。  なおいろいろ問題もございましようが、私には両院制度について話せということでありましたから、その点だけについて私の先ほど申し上げましたような意味の所感を申し上げた次第であります。
  6. 生田和平

    生田委員長 この際、宮澤先生に何か御質疑がありましたらお願いいたしたいと思います。――御質疑がなければ、読賣新聞社長馬場恒吾君にお願いいたしたいと思います。
  7. 馬場恒吾

    馬場参考人 私は五十年ぐらい新聞記者をしていて、始終政治の批評はしていましたけれども、選挙には出たことがない。終戰後ちよつと貴族院におつたけれども、それも選挙されて出て來たのではないから、選挙法改正などについて意見を述べるのは、まことに僭越しごくですけれども、平生考えていることを少し申し上げてお教えを請いたいと思います。  私は衆議院議員選挙は小選挙区二人一区がいいと思つている。それは、今日の民主政治というものは、人民政治であるけれども、同時に代議士諸君選挙人に教えなくてはならぬ。教えるというのは、國民代表者でおいでになるのですから、國民からも教えられると同時に、國民に対して教えなければならぬ。ともかく人民政治というものは、人民が賢明でなければだめだろうと思う。愚かな人民を相手にして民主政治がうまく行くはずがない。だから、ソビエトで御存知の通り、單一の候補者のリストで、それに賛成するかせぬかというのもひどいけれども、人民から選ばれるというときには、同時に人民に教えるという立場にならなければならぬので、それにはやはり小選挙区の小さいところで接触しなくては、人民選挙民意向もよくわからない。また選挙区が廣くては、選挙人の方も候補者がどういう人間であるかということがよくわからない。だから接触を重んずる点において、どうしても小選挙区一人一区でつばぜり合いをする、つまり反対党同士、たとえば今で言えば民自党社会党なら社会党、この二人なら二人の候補者が立つてつばぜり合いするときに、ここに興味があると同時に熱心になるのです。政治のどこが違うか、何が違うかということが選挙民にわからなくちやいかぬのですよ。漠然たる紳士然たるただおざなりの言葉で、体裁のいい演説ばかりしておつて、何が違うかわからないという。その点においては、参議院の全國一選挙区ほど愚劣なことはないと思つておる。全國ではどういう顔をしておる人だか、一つもわかりやしない。日本の今の選挙法にあるかないか知らぬけれども、個々面接を禁じておる。ぼくはこれくらいばかなものはないと思う。個々面接することを禁ずるというのは、賄賂するとか、買收するとかいうようなことなので、ひつきよう日本の今までの選挙法などは、人民を罪人となるべき傾向のあるものだという前提のもとにやつておるのです。候補者もそう扱つておる。面接すれば必ず賄賂を出すとか、買收するとかいう前提のもとに、いわゆる世の中の人間は、日本國民というものは、そういう犯罪傾向があるということを前提として取締る。いわゆる官僚軍閥、よういうような連中が自分に都合のいいようにこしらへた個々面接禁止なのです。人民が悪ければ、國が悪いにきまつておる。買收するのはいいとは言わぬけれども、第一饗應することはいけないというが、人民の方から饗應したらどうする。お前さんの意見を聞こう、家へ來てひとつ酒を飲んで話してみろというような機会も与えることができないでしよう。ひつきようするに人間はどうも犯罪的傾向がある。それは昔の聖人、君子、もしくは官僚軍閥から見れば、自由なことを言つたり、書いたり、あるいはしやべつたり、考えたりする人間は、彼らの狹い見地から見れば、犯罪的傾向と見るかもしれないけれども、それは民主政治ではない。民主政治ということは、ひつきよう人民にやらすことなんだ。だから、小選挙区で、反対党政府党なら政府党、なんでもいいから二人で、東京なら東京で言えば、神田日本橋、あるいは下谷、この三区ぐらいが一つの区になつて――あるいは一区でも一つの区になるかもしれない。それで町内々々で、両方の候補者つばぜり合いをやつて、なるほど今日の問題はこういうことであるな、区別するところはここだなということがわかる。そして人民全体が政治に対する見解を持つようになればしめたものだ。ちようどぼくがイギリス行つてつたとき選挙があつたロイド・ジヨージという総理大臣をしておつた男自分選挙区へ帰つた写眞新聞に出ておつたいなか往來の角にロイド・ジヨージが立つて――演壇なんかありやしない。そこに四、五人おかみさんや村の人が集まつて來て、個々面接をやつておる。それでロイド・ジヨージが來たというので、村のやつが出て來て、すぐ往來でつかまえて、どういう意見だとか、これはどうしてくれるのだというようなことを個々面接をやつて、それに対して総理大臣――日本の今の総理大臣はなかなかいばつて、そんなことをしないけれども、イギリス総理大臣は、あれは全盛のときだつたが、やはりその村の人々、町の人々往來でみな個々面接をやつて選挙運動をやつている。だから、だれでもいわゆる國家の問題というものを知つている。それで今はやめているのですけれども、この前の選挙のときに、候補者の数を三人並べたでしよう。あれは愚劣だから今やめたでしようけれども、いなかの人になると、一人は民自党、一人は社会党、一人は女、こういうふうに三人書いて、非常に公平ぶりだが、公平ぶりを発揮すると、ほんとう政治の意識いうものははつきりしない。公平なところに問題がある。たとえば公平にしなくてはいかぬということは、ひつきようするに無意義なんだ。何となれば、こうでしよう。國民意思國民政治的に望んでいるものをいかに國会において発言さすかというのが議会政治の目的なんです。ラジオに例をとれば、ラジオが町の録音をするときに、公平にみな声を聞いたら、何を言うているか、がやがや言うばかりでわかりやしない。あれにはエリミネーターというものがあるが、エリミネーターにある一つの、たとえばこの人ならこの人の言うことを聽取者に聽かそうと思うと、ほかの雜音をエリミネートする。安いラジオはそうは行きませんけれども、ラジオの機械がよくなればよくなるほどエリミネーターがよくきくのです。ちやんとダイヤルを合わすと一つの声しか聞こえない。雜音が入らない。公平にすれば、雜音を入れなくちやならぬ。よそのだれか違つた声を出している。それはラジオの目的じやないのです。雜音を入れることはいいラジオのすべきことじやない。選挙つてそうです。いい選挙法なら國民のおもなる声だけを聞けばいい。おもなる声を聞くのには、いわゆる少数派に発言を許さないという意味じやないので、そこが問題なんだ。だれでも、少数の、違つた意見を持つているものがあれば、必ずそれを代表する人を國会に送つて國会発言せしめなくてはいかぬというのが、公平論者の言うところなんです。それだから、つまり三人連記の投票をするとか、あるいは全國選挙区をやるとか何とかいう、そんな公平論にとりつかれているような選挙法をこしらえろと言つたり、こしらえさせたりしたでしようけれども、それはいわゆる雑音の入るラジオをこしらえろというようなものだ。そんな雑音が入つたら、何の意味だかわからないとぼくは思つている。それでアメリカとイギリスとでは選挙法も違うことは違いますけれども、前にマクドナルドがおつたときに社会党が多数をとつて、それが落ちると、ごそつと落ちてしまい、百名前後になつて、だめなんです。そういうふうに、日本でも原敬内閣のときは小選挙区一人一区、こういうふうになつてつて、たとえばそのときに政友会が非常な絶対多数をとつていた。そういうふうにその絶対多数をある党脈がとる。それから小さい今の少数党で出る者が非常に落ちてしまうということは、ほんとうを言えば公平でないかもしれないが、それは各選挙区で、たとえば当選者が二万票とつて、落選者が一万八千票かとる。わずか差は二千である。けれどもそれが全國に連なると、片方が三百名もとり、片方が百名しかない、非常に不公平らしいのです。それは選挙投票総数から見ると、一万八千と二万で、わずか二千くらい各選挙区で違つてつて、それが出て來たときには、まるで絶対多数、三百名で、他は百五十名、あるいは何とかいう公平でないように見えるけれども、それはいわゆるエリミネーターである。少数派の声をそう公平に入れなくちやいかぬというようじや、いわゆるラジオの雜音が入ると同じことで、とてもはつきりした声は國会から出なくなる。ふだんのときなら私は考えるのに、のんきにやつてつて、そういう慰みもやつていいけれども、今日のように國がほんとうによその國の属國になるか、あるいは独立國として存在するかの境目におるのですから、確固たる方針で強力な政治をやるということが非常に必要だとぼくは思う。いろいろな人に公平にやらんがために、ぼやぼやした何を言つておるかわからないような議会、たとえば衆議院の方は割合はつきりしておるが、どういう方針でどういう方向に向けておるかわからぬというような國会だということは、われわれそとにおつて見ておる連中ははらはらする。ほんとうに國をどこに持つて行くのかというような氣もする。だからどうもここにおいては、いわゆるラジオのエリミネーターが必要になる。いわゆる雜音は入れないということで進んで行くところの精神だけをとつて方向を確立してそれで行こうということがよい。私どもは年寄りだけれども、まだ私は思うに、日本は復活する余地がありはせぬかしらんと思うのだ。終戰後中國はああいう状態です。インド支那でも戰爭をやつておる。インドネシヤもそうだ。ビルマがそうです。シヤムもそうです。インドも非常に分裂している。こういうふうに各國とも國家をなくするという設もある。けれども一つにはまたならぬ。  私はよく言うことですけれども、今日の情勢を見れば、つまりよくイギリス人がいうからのさいふは立つあたわず、皮のさいふをこしらえても、中がからつぽだというと、ぺつちやんこになる。置いてもからつぽうで中に充実しなければさいふは立つていない。どうもいわゆる東洋諸國がみずから立つ力がないものをほかに持つて行つて助けてもらうというけれども、よいよいは立たないとぼくは思う。ぼくはよいよいみたいな國になるのはいやだと思つておる。今日は――將來は知りませんけれども、世界平和が確立して一國になる自分ときは知らぬけれども、今日において自分で立つ力がなければ立てない、だからそのときには、それは日本は武器も何にもないけれども、よくぼくは社の連中なんかに言うのです。武器はない。丸腰であるけれども、昔の武士が浪人すると、何もかも片つぱしから賣る。たけのこ生活。けれどもいくら貧乏しても武士は自分の魂という刀だけはとつておく。今は戰爭放棄だから刀もいらないけれども、日本人は起ち上るというぼくは魂だけは捨ててはいかぬと思つておる。それでその魂を生かす、ぼくは國会衆議院議員でも参議院議員でももう一ぺん立つという魂を持つている人が出ることを欲する。それにははつきりした、このラウド・スピーカーから出る音のように、いわゆる雜音を入れないで、はつきりした音でもつてつて欲しいと思う。それはほんとうにへんな音が出ないで、それてもつて行かなければぼくはやはり、シヤムとか、あるいはビルマとかいう國の運命をたどらないとも限らないと思う。もう一ぺん起ち上るか、起ち上らぬかという問題については、ぼくは戰前にもそういうことをみんなに言つたけれどもだれも聞かない。つまり戰爭になるとき、その当時の重臣なんかにぼくは会つて日本は山坂を下りつつある石ころみたいなもので、つまり、壁に頭をぶつつけなければ悟らぬ。一ぺんぶつつけさした方がいいということを重臣なんかでも言つたやつがある。これは一回壁に頭をぶつつけて返ればいいけれども、ぶつつけておしまいになりはせぬか。たとえばあのくらい盛んであつたギリシヤもいつのまにか減びて小さい國として存在している。ローマはあれほど盛んであつたけれども、一たび落ちてしまつて、あとは近ごろイタリアできたけれども、そういうふうな國が一たび滅んで、再び立つか立たぬかということは問題なんだ。その瀬戸ぎわに今立つておる。だからはつきりした声を出すためには、小選挙区一人一区、つばぜり合いほんとうに起るか倒れるかという境目にあるんだということを、ほんとう個々面接して、買收してはいかぬけれども、ともかくみんな一緒になつてそれでやつてほしいと思う。それを今までぼくは非常に主張しておつても、ともかく選挙法に関する限り、一人一区小選挙区というここは私の主張として、ただ御参考に申し述べてお教えを受けたいと思う。失礼しました。(拍手)
  8. 生田和平

    生田委員長 何か御質疑がありますれば、この際……。
  9. 佐竹晴記

    ○佐竹(晴)委員 一、二、お尋ねしてみたいと思います。今馬場さんが非常に強調された接触という点は、まことに私も同感です。ところがそうなると、一局部の限られた小地域に非常に接触の多い人は当選をするが、そうでない、たとえば東京で仕事をしていて、私でありましたならば、高知縣ですが、高知へ帰つてやろうというようなときに、なかなかそう行かないといつたような、そういう弊に陷ることはないでしようか。接触々々とおつしやつたのですが、馬場さんといえば天下の人は知らぬ人はないといつたぐあいに、みなほとんど接触している。ところが小選挙区になりますと、日本全体からいえば、馬場さんでありましたならばえらい人だといつて名前だけでも票が集りますけれども、たとえばあなたが高知にお越しになつてやりましても、なかなか小選挙区の限られた小地域の人々には徹底しません。小選挙区の接触とおつしやるけれども、その接触面が、馬場さんというような大きな人物が日本全体に接触するのと、利害関係を通じて接触するのとはおのずから違つて参りますので、結局するに先ほどあなたのおつしやつておりました接触線というものは、最後には利害の接触線に陷るおそれはなかろうか。それで衆議院選挙のときよりも縣会の選挙のとき、あるいは町村会の選挙のとき、下になればなるほどつばぜり合いになる。そしてそれが非常に利害において接触する。そこへ陷るおそれはないでしようか。それに対する御見解を承りたい。
  10. 馬場恒吾

    馬場参考人 それはあるかもしれませんが、議会政治というものは、人民の多数はひつきようするに善良であるという前提のもとにつくられておる。それは接触して利害関係に動かされる人もあるだろうけれども、ほんとう人民の多数は最も信頼すべきであるという前提があれば、それはぼくは克服できると思う。たとえば小さい選挙区に行つて接触するのはむずかしいかもしれませんけれども、これも國政をつかさどろうと思う以上は、一ぺんや二へん落選するつもりでおればそれは接触する機会もある。
  11. 佐竹晴記

    ○佐竹(晴)委員 もう一つ民自党なら民自党が非常に全盛の時代は、どんな地域に参りましても民自党一色に塗りつぶされております。それで小選挙区一人一区ということになりますと、ほとんど全選挙区から民自党だけが出て、ほかは、たとえば國民の七割までが民自党であつて、三割が他の会派であつても、他の三の力というものは全部押えられてしまつて声をひそめるという形は生れて参りませんでしようか。その御心配はないでしようか。
  12. 馬場恒吾

    馬場参考人 それはややそういう形があるかもしれません。けれどもそれはいわゆる國の方針というものを一つの方針にまとめて行くためには、それもやむを得ないと思つておる。
  13. 佐竹晴記

    ○佐竹(晴)委員 議論はいたしませんが、どうも非常にファッショ的傾向を肯定されるように思われますから、議論はいたしません。よろしゆうございます。
  14. 馬場恒吾

    馬場参考人 ちよつと一言、ファッショみたいだけれども、負ければ、つまりイギリスでも保守党が負けるとすぐ労働党が多数になつたのだからそれは変化すると思う。
  15. 生田和平

    生田委員長 次は鵜飼信成君にお願いいたします。
  16. 鵜飼信成

    鵜飼参考人 私は東京大学の社会科学研究所におります鵜飼信成であります。衆議院議員選挙法に関しまして少しばかり意見を述べさしていただきます。  まず第一に選挙権の問題でありますが、選挙権については第一に欠格條項に関する第六條の規定が問題になると思います。欠格條項は戰爭の後に非常に整理されまして、現在残つておりますのはほとんどやむを得ない制限であると思われるようなものだけでありますが、しかしこれもよく考えてみますと、なお若干の問題が残つておるのではないかと思います。欠格條項は二つございます。一つは禁治産者、準禁治産者、もう一つは刑の執行を終り、もしくは執行を受けることがなくなるまでの者、この二つのものがあがつておるわけであります。  第一の禁治産者、準禁治産者、これは精神的に選挙権を行い得る能力がないという判断から欠格者に入れられておるわけであります。しかし禁治産者と準禁治産者は若干違いまして、禁治産者、心身喪失の状況にあるものは、これにまつたく精神的能力がないことは明らかでありますが、準禁治産者は心身耗弱者その他に聾者であるとか唖者であるとか盲者であるとかあるいは浪費者であるとか、そういうふうな準禁治産の宣告を受けたものが入るわけでありまして、これは必ずしも精神能力がないということは言えないわけであります。このことは、理由づけとしては私法上の能力がない者に選挙権を行使させるのはおかしいというふうな考えがおそらく基礎になつていると思います。しかし、たとえば未成年者、私法上の能力者である未成年者に選挙権を行使させることは必ずしもできないことはない。ことに選挙年齢を非常に下げようという考え方もありまして、極端な意見では義務教育を終つたものに選挙権を与えてもいいじやないかという意見も成立つと思うのであります。その場合に当然に私法上の制限もその年齢まで下げなければならないかというと、これは必ずしも下げる必要はないのでありまして、その点若干の問題が残つておるのではないかと思います。  第二の刑の執行を終り、もしくは執行を受けることがなくなるまでのものという欠格條項でありますが、この刑の執行中のものが選挙権を持たないということは、私はこれは当然のことと思いますが、刑の執行を受けることがなくなるまでのものというのは、これはやや問題でありまして、大体どういうものが入るかと申しますと、從來の普通の解釈では、第一には刑が終らなくて刑の免除、もしくは刑の執行の免除を受ける、大赦、特赦、それから新しく刑の執行の免除という場合がありますが、そういう場合には当然選挙権をそのうちに行うことになるのでありまして、これは問題ないのでありますが、そのほかにたとえば仮出獄で刑の執行を現に受けていないという者は、刑期が満了いたしますまでは刑の執行の免除を受けることがなくならないものとして、選挙権が行われない。それから時効でありますが、これは現に刑の執行を受けていなくても、時効の満了するまでは刑の執行がなくなるまでのものとして選挙権が行えない。この二つは私は大体理由があると思います。一番問題になるのは執行猶予の者でありまして、刑の執行猶予の宣告を受けて現に刑の執行を受けていないという者は、その執行猶予期間は選挙権を行うことができない。ところが問題になりますのは、刑の執行猶予というのは大体において宣告されました刑期よりは長いのが普通であります。たとえば二年の懲役刑を宣告されて執行猶予が三年ということになりますと、現実に刑の執行を受ければ、選挙権を行えないのは二年であるが、情状がそれよりも軽いという理由から、執行猶予を受けますと三年間で、それよりも長い期間選挙権が行えないというのは、はなはだ均衡を欠くのではないかと思うのであります。実際には法律の中にこの不均衡を救う方法が講じてあるのが普通でありまして、選挙に関する法律では、大体この間の不均衡を救つております。それはたとえば衆議院議員選挙法の百三十七條であるとか、あるいは選挙運動等の臨時特例に関する法律の第三十五條であるとか、あるいは政治資金規正法の第四十七條であるとかいうふうなものでは、現実に刑の執行を受けた者については、その刑期のほかに、さらにプラス五年間というものは選挙権が行えない、こういうことになつておりますが、執行猶予の宣告を受けた者は執行猶予期間中選挙権が行えない、ところが執行猶予期間の最長期は五年でありますから、現実の問題として、この両者間に不均衡が生ずることはないので、必ず実刑を受けた者の方が長い間選挙権が行えないというようなことになつておりますが、しかしそのほかの犯罪については、こういう規定がありませんので、情状が軽くて執行猶予となつた者の方が長い間選挙権が行えない。これは実際問題としはなはだ不均衡であるという考え方が成立つのでありますが、最高裁判所の、判例では、不均衡ということを全然無視いたしまして、やむを得ないことであるという判決をしております。私は解釈論としても均衡を保つ方法があるのじやないかと思うのですが、少なくとも立方論としてはこの点は均衡を保つように改正するのがいいのではないかと思います。なお選挙権に関して衆議院議員選挙法第二十七條の投票の自書主義というものが現在きまつておりますが、これはどういう理由から出ておるのか、いろいろ問題もありましようが、少くともみずから名前を書することができるくらいの教育程度の者だけに選挙権を与えるという考え方が、もしあるといたしますれば、これは現在の選挙制度のもとにおいては無用の制限である、この際自書主義を廃して記号式の方法をとるという方が、現在の選挙制度の根本精神に合すると思います。それから第十二條の、六箇月以上その市町村内に住所を有することが必要であるという住所要件の規定も、現在の問題として選挙権の制限になつているので、これは現在の制度のものにおいてはやはりもう少し手を入れる必要があるのじやないか、かように考えます。これが選挙権に関連した問題であります。  第二は被選挙権に関連した問題であります。被選挙権自体については特別に申し上げることはありませんが、現実の問題として、被選挙権の法律上の規定が現実の選挙で生きて來るためには、政党の候補者となることが非常に重要な問題になつて参りますが、各政党が候補者を公認します手続があまり明確でない。これは諸外國においても、各政党の候補者指名手続というものには、いろいろな腐敗的な事実がありまして、この点についての立法的な措置というものが試みられて参つたことは御承知の通りでありますが、この方法を現在わが國でどの程度まで用いたらいいかということは、ちよつと問題であります。私はこの点に関する立法的な措置を講ずることは、場合によるとかえつて政党の政治活動の自由を無用に拘束することになるので、立法的に措置するということには反対意見を持つておりますが、從つてここでの問題にはなりませんが、この問題は各政党が、自主的に明確にされることによつて解決される問題ではないかと思つております。  第三は選挙区の問題であります。選挙区については非常に各政党の利害関係というものが複雑な関係になつておりまして、選挙区を現実にどういう形にきめるかということについて、諸外國でもしばしば問題が起つております。俗にいわゆるダンベルの形をした選挙区、つまりまるい大きな二つの地区が細長い線でつながつております、そういう形の選挙区がしばしば政党の利害関係のためにつくられるというようなことが言われておりますが、これを制限する方法としてアメリカでは州の憲法の中に、選挙区がそういう非常におかしな形になることを禁止する條項を設けている州があります。私は日本の現実の選挙区がどのくらいそういう点で不適当なものであるかということはよく存じませんが、この前の選挙法改正のときに議会において非常に議論になつたという点から考えて、やはり選挙区の形についての、何らか原則をきめることは、一つの方法ではないかと思います。ただ憲法にきめる必要はないので、選挙法自体の中にそういう制限をきめておいたらどうか。もつとも選挙法に書いておきましても、その選挙法は普通の法律でありますから、後の法律で、つまり実際に選挙区をきめる法律で自由にそれがかえることができることになるかとも思いますが、これは基礎の選挙法にございました、例の選挙区を置きました別表に対して、本表は十年間これを更正せずという制限規定を設けております。そういう制限があるにもかかわらず実際の法律でどんどん選挙区をかえて行つたわけでありますが、やはり一つの意味があるので、そういう方針で行くということを法律の中に書いておかれたらどうか、こういうふうに考えます。  第四番目は投票の方法に関する問題の一つとして、秘密投票制が現在の制度では必ずしも十分に実現されていないのではないか、大正十四年に現在の選挙法ができましたときに、それ以前の、投票の点檢方法としてのいわゆる混同主義というものを廃しまして――各投票区の投票を混同して開票するという方法を廃して、投票区ごとに投票の点檢をする方法を取りました。そういう制度を新しくとるに至りました理由として、当時選挙法改正の理由書の中にあげられていた理由が三つございました。一つは再選挙を行う場合に、選挙区全体の問題として考えないで、投票の点檢された地区ごとにその投票の問題を考えることができる、從つて投票点檢を小さい地区別にする方が、非常に便利であるというのが第一の理由であります。第二の理由は、選挙関係のある官吏吏員の範囲が狭くなるので、これも選挙権を持たない者が少くなつて非常に都合がいい。第三は大正十四年の法律は、普通選挙を初めてとりましたために、選挙権の範囲が非常に拡大をいたしまして、投票区ごとに開票をしても一つ投票区内における有権者の数が非常に多数であるから、投票の秘密を害するおそれはない。大体この三つが改正の理由になつていたようであります。私は現実に開票の結果を見てみますと、現在の制度では、市町村その他地方長官の定める地域ごとに投票を点檢するというので、実際には投票区よりももつと大きい地域で開票をしておりますが、現実にその票を開けられた結果を見ますと、非常に少い得票――極端な場合には一票とか、二票とか、当選された方でもある地域で一票とか二票とかいう票を得ておられる例が多いようであります。このことは結局投票の秘密を害するので、何人が入れたか、何人が入れなかつたかということが明瞭になりますから、これはこの際できるだけ秘密投票主義の精神を尊重して、もつと大きい地域で開けるということにしてはどうかと思います。ただ具体的な問題として、どのくらいの地域にしたら開票に伴ういろんな不便がなくて済ませるかということに、私はよく実情を存じませんが、少くとももう少し大さい地区にしたらどうかと思います。かようにかんがえるわけであります。  第五の問題は選挙の方法の問題でありますが、これに根本問題でありまして、いろいろ議論があるのでありますが、私は比例代表法が一番いい方法であると思います。これはさきに議会選挙法改正されましたときに委員会でいろいろ論議された速記録を拝見いたしますと、社会党、共産党の委員の方は、比例代表法が最もいいという意見を述べられております。そのほかに國民協同党の方も理想的な方法としては比例代表がいいと言われております。それから当時の自由党の委員の方も理想的な方法は比例代表法であると言つておられまして、おそらく根本問題としてはどの政党にも異論はないのではないかと思います。しかし実際問題として技術的にいろいろな問題があるということだろうと思いますが、これは技術的な方法を御檢討になりまして、ぜひ比例代表法を採用して、國民のすべての考え方が漏れなく國会に反映するようにされるのが適当ではないかと私は思う。大体これで衆議院議員選挙法を中心にした選挙法の問題についての私の意見を終りますが、最後に附随的に選挙運動に関する法律的な取締りということが一体適当であるかどうかということについ若干意見を申し述べたいと思います。  選挙運動等の臨時特例に関する法律の根本精神である公営主義ということは私は根本的に賛成でありまして、公営主義によつて選挙が非常に正しく行われる基礎ができたというふうに考えております。そこでむしろこの際公営を強化する方がいいのではないか。公営を強化いたします方法もいろいろあると思います。たとえばこの前の選挙のときに一番國民の関心を呼びました立会演説会というふうなものはできるだけの方法で強化する。どういうふうに強化するかということを具体的に申し上げることはできませんが、できるだげ強化する。ごく小さい問題でありますが、たとえば立会演説会の掲示に関する七條一項の規定の、二十箇所以上の掲示をするというのは、現実には二十箇所以上になつておりますが、最低限度の二十箇所で済ましていたのではないかと思いますけれども、これももう少し法律上の最低限度を高くいたしまして、公営による立会演説会が一層周知されるというふうにするのが、ごくこまかい問題でありますが、一つの案であろうかと思います。それから公営主義の半面として、この法律がとつております選挙運動の自由の制限ということはある程度は必要でありましようが、しかしあまり行き過ぎますと選挙の本質を害するので、公営主義を一方とりながら、他方においてやはり選挙の自由はもう少し拡張した方がいいのではないか。これも具体的にどの点をどういうふうにと申し上げるだけの知識を持つておりませんが、たとえば十九條から二十一條の文書、図画の制限、あるいは十四條の街頭演説会の制限、あるいは二十四條の氏名の連呼、あるいは氣勢を張る行為の制限とか、そういうようなものはもう少し取締りを自由にして、選挙運動が眞に國民の運動として伸び伸びと行われるようになのが適当であろうと思います。はなはだ不十分でありますが、私の申し上げたいことはこれだけであります。
  17. 生田和平

    生田委員長 何か御質疑がありますれば、この際お願いいたします。――別に御質疑がなければ、晝食の都合がありますからこれで休憩いたします。午後は一時から再会いたします。     午後零時七分休憩      ――――◇―――――     午後一時三十分開議
  18. 生田和平

    生田委員長 休憩前に引続き会議を開きます。  蝋山政道君にお願いいたします。
  19. 蝋山政道

    ○蝋山参考人 蝋山政道でございます。主として選挙法の問題について、平素考えておりますことを二、三申し上げたいと思います。こまかいことはすでに鵜飼教授からお話がありましたが、私は少し原則問題から入つてみたいと思つております。  御承知のように選挙法は長い間の変革を重ねて参つた法律でありますので、どうもそこにはつきりとした原則がわからなくなつておると思うのであります。何のために選挙をするのかということは、あの選挙法を見ましたのではよくわからない。そういう点から見て、今選挙の目的を明確にする立法上の必要が生じているのではないかと思うのであります。選挙は言うまでもなくいろいろの目的を持つております。從來とられて参りました原則は、選挙を公正にすることが第一、第二は選挙をできるだけ自由平等にする。こういう点であろうと思います。しかし選挙を公正にするために、選挙の自由が制限され、また場合によつては平等も欠けるというおそれがあるのであります。そこで窮極は選挙の自由と公正とをいかに調和するかという点にあるかと思いますが、今日の問題は、むしろ自由になるという方に向うべきではないかと思うのであります。その理由は、選挙を自由にする結果、場合によつては不正行為が今よりもふえるおそれがある。しかしながらそのために選挙國民によく理解せられ、ひいては國会に対する國民の繋がりが強化せられるという、より大きな利益があるのではないかと思うのであります。從來の官僚制度のもとにおきまして、選挙が行われますと、どうしても形式的に公正を期する、つまり間違いのないように、不正が行われないようにというふうに傾くのであります。從つてややもすれば選挙は窮屈になる、選挙に対する國民の氣持は萎縮的になるおそれがある。また非常に選挙法が技術的に細目にわたつて、どうも一般國民には理解しがたい、專門家でなければよくわからないというような点が多くなつておると思うのであります。これは選挙の目的を達成するために、他のより重要な面を閑却する結果になつておるように思われますので、私はできるだけ――もちろん実情に即してやらなければなりませんが、今日よりも一層選挙を自由にする。その自由な選挙の上に基礎づけられた國会制度を樹立する。こういうことが必要ではないかと思つておるのであります。と同時に必ずしも直接選挙の目的ではありませんが、しかし非常に重要な目的が間接的にあると思うのであります。それにどういうことかというと、選挙を通じまして、國会の中に安定勢力をつくることであります。ひいてはこの安定勢力を基礎にして、内閣が樹立されるということが、憲法の重要な原則に沿うことになると思うのであります。新憲法の原則の一つとして議院内閣制度が採用されておるのであります。議会の信任、不信任ということが、内閣にとつて最も重要なことなのであります。從つてこの憲法の精神を生かすためには、やはり選挙法もそれに沿つて行かなければならぬと思うのであります。もちろん選挙憲法規定からのみ生れるものではありません。選挙の実体をなすところの政党の実情、その政党を生み出す國民生活の実情が問題であると思います。從つて憲法と政党並びに國民生活との間に若干の距離があることは免れがたいと思います。現在の憲法はこの点において政党の実情並びに國民生活から離れておつて、ある意味において、理想的な規定であるように考えられるのであります。從つてこの憲法の精神に政党なり、また國民の生活なりを近づけて行くということが必要ではないかと思うのであります。その場合選挙法の演ずる役割はすこぶる重要であると思うのであります。政党が先に生れて、憲法がそれに沿つてつたような國もあります。英國のごときはその例であると思います。議院内閣制度も政党の前提があつて、特に二大政党のような憲法があつてこそ、あのような憲法が生れたのである。しかるにわが國におきましては、むしろ憲法の方がはつきりと先に方針を規定しておりますが、政党の実情に必ずしもそうなつていない。先ほど馬場さんは、はつきりと二大政党を前提とし、小選挙区單記の制度を主張されましたのは、その根拠をおそらく英國のごとき場合に置いておるのだと思うのであります。私もそういう点において非常に共鳴するところが多いのであります。つまりはつきりしておる。ところが日本の場合におきましては、そういう点が少しもはつきりしておらない。はつきりしていないというのは、憲法の精神に必ずしも政党の実情が沿つていないから、また國民動きも必ずしも憲法通り行つてないというところにあるからはつきりしないのである。そこでどうしても憲法自体が國民の実情に沿うということも必要でありますが、しかしこれは日本の実情だけでなく、相当廣く多くの國々の長年の経験を基礎にした原則的な行き方であり、むしろ日本の実情をその方にできるだけ沿うように努力するのが改革方向ではないかと思うのであります。その点を考えまして、私は一挙に二大政党に行くことは無理であろうと思います。けれどもその方向に向つて行くのでなければ、新憲法の精神は生きて行かない。はたしてこの憲法ほんとうに確保されるかどうかということも疑問になると思うのであります。その意味からどうしても選挙法の行き方をその方に近づけて行く、そういう点から政治的安定ということも、今日の選挙法改正の眼目の一つになるのじやないかと私は考えておるのであります。そういうふうな選挙の趣旨ということがまず明確になり、そこに幾つかの原則が明確になりまして、選挙はこのような趣旨において行わるべきものであるということが、一般選挙民に徹底せられることがまず必要ではないかと思うのであります。そんな点から二、三具体的な問題について意見を申し述べてみたいと思います。  一つは今まで陳述がありません問題の一つでありますが、立候補制度の問題であります。先ほど鵜飼君が多少これに言及されて、現在の政党の立候補制度については、何らかの立法上のわくをはめることには賛成しがたいが、各政党の事情なり、自治的に解決すべき問題は多々あると言われましたが、私は一歩を進めて、何らかの立法的措置を講ずる必要があろと考えております。すなわちノミネーシヨンの制度はすこぶる重要でありまして、ことに選挙民がまつたく知らないような人が立候補せられて、それに投票しなければならないということは、決して好ましいことではない。ことに新しい変革期に絡みまして、年々毎度の選挙に新しい候補者が出るのであります。相当たくさんの人が新しい候補者が出るというような場合、選挙民候補者との繋りが、はなはだ散漫であります。稀薄であります。そういう点は選挙をしてほんとうに力強いものにすることにならないので、そういう点から見て立候補制度については相当立法的の措置を講ずる必要があると思います。私はやはり將來は直接予選制度まで行くべきだと思います。すなわちデイレクト・プライマリーの制度をとるべきものと考えております。しかしここに行くまでには相当の問題があるのでありまして、まず第一に政党自体の内部において候補者を選択するいわゆる公認制度の問題を十分研究する必要があると思う。その場合に私の考えでは現在の選挙法程度においていいと思うのでありますが、これを公認制度にある程度まで適用すべきものではないかと思うのであります。これは大政党にとりまして、また特殊の選挙区にとつて、特に問題になつたのであろうと思うのでありますが、今日のような中選挙区でありまして、同一の政党からたくさんの立候補者が出る場合、そこに非常に競爭が行われる。そうした場合に幾多の問題が発生すると思います。そうした結果、定められた候補者選挙民の前に現われるということは、やはり選挙の自由公正という原則から見ても好ましくない。そこでやはり公正な自由な方法で立候補者が定まる制度を政党自体が採用すべきものと思う。その手続におきまして、やはり選挙法自体が適用せらるべきではないかと思うのであります。そういう訓練を経ました後に、さらに一般党員並びに、一般國民が自由にノミネーシヨンに参加できる、デイクト・プライマリーの制度に進んで行くことが、政党をして責任ある團体たらしむる点においても、また國政上重要な明確なる地位を與える意味におきましても、必要ではないかと考えております。從つて立候補制度につきましては、立法的措置が講ぜられることにおいて、政党の自由な発達を妨げるという点から遠慮されておるようでありますが、そういう意見ももちろん尊重せられなければなりませんが、しかし政党の自由な政治的活動を決して妨げるものでないと思うのであります。むしろ政党をして重からしむるものでありまして、政党が責任ある團体として秘められるためには、まずこのように立候補制度からはつきりとした手続を持つて行くということが必要ではないかと思うのであります。  第二の点は選挙区の問題であります。選挙区につきましては、いろいろ議論があり、最も困難な問題の一つでありますが、これは政治の安定の上から、今日としてにその点から問題を取上げるべきだと思う。選挙区はいろいろの角度から、大小その可否について論ぜられるのでありますが、何と申しましても今日の必要は、日本政治的安定であると思うのであります。その意味において、私の現在の考えといたしましては、やはり選挙区はもつと小さくすべきものではないかと思つております。しかしそうかと言つて一人一区の制度を一挙にして行うことは、今日の実情に沿わない。今日のごとき小さい政党がたくさんあることが事実である場合に、この一人一区の制度をとることは、非常にこれらの小さい政党に対して不利益を生じます。しかし政党自体といたしましては、その政党が將來多数党になつた場合におきましては、この小選挙区であるということは利益なのであります。ですから利益であるかないかという点から言えば、その点は同じなのだ。ただ現在、將來の問題についてわかれるだけのことであります。そうするとその政党自体が、いかなる結果をもたらすかという点から判断すべきものだと思う。選挙区が小さくなると、少くとも私は三人以上の多数の候補者が出るということは好ましくないと思う。長年の沿革上非常に困難であろうと思いますけれども、やはり選挙区は少くとも三人をもつて止めるような、少くとも四人くらいのところは例外のようにするというような行き方が、國会制度を安定せしむる上において、非常に効果がある行き方ではないかと思つております。こういう考えから申しますと、結局私は比例代表には反対であります。比例代表は選挙の結果が公平に現われることだけを見てのことでありまして、今日の日本政治に最も必要であり、おそらく新憲法全体の運命に関係するような政治的安定の問題といたしましては、やはり比例代表をとることに非常な不安定な原因を醸成することになるのであります。これは選挙法が單に選挙という観点からのみ見られない一つの例だと思うのであります。実情から考えましても、今比例代表をとるべきときではありませんし、とつた國におきましては、みな政治的な混乱を生じておるのであります。その原因はもちろんいろいろありますけれども、やはりその制度自体が非常にたくさんの小さい政党を分立せしめることになるというところに原因があるように思われるのであります。  次に選挙運動の問題を申し上げてみたいと思います。これはたくさんの点がもちろん考えられると思うのですが、先ほど申しましたように選挙をできるだけ自由にしたい。それによつて多少の弊害は起きるかもしれないが、より多き利益を伴うという点から見まして、私はいわゆるカンパシングの制度、すなわち個々面接制度はこれは認めてよろしいのではないかと思う。米英の実情を見ましてもこれが最も効果のある選挙運動なのでありまして、その他の選挙運動は関接的なものである。最も選挙民と直接に結びつく方法は個々面接運動である。このカンパシングの方法が認められないということは、それが濫用されるからであり、それがいろいろの不正の原因となるからであります、從つてこれについては多くの意議があり、むしろ反対が多いと思いますが、私としてはやはりできるだけ早い機会にこの個々面接運動まで自由に認むべきではないか、そして得るところをより多からしめるようにということを念願としております。  そういう点から見まして、たとえば費用の点等につきましても考慮を要すると思いますが、たとえばビラを張るとか、いろいろな文書の頒布をするとか、あるいはまた第三者の運動とか、そういうものをできるだけ制限しようしようというのが今までの選挙法の趣旨でありますが、これもできるだけ認めた方がよろしいのではないか。もちろんおのずから限度はありましようが、そういう点についてあまり制限を設けないで行くべきもので、そして不等な手段や不正な手段や濫用によることはかえつてその効果がないというように、選挙民の向上をはかつて行くことが理想でありまして、そういう理想を持つていない議会制度、民主主義制度は結局いろいろのこまかいつつかい棒をしてみたところで、とうてい維持できるものではないと思う。そういう点から見てできるだけ選挙運動をより自由にしたい、こういうことを考えております。これと関連して公営制度でありますが、公営制度自体はもちろん賛成であります。日本のごとき実情におきまして特に必要を感ずるものでありますが、しかしこれとても方法においていろいろ考えなければならない点があるのではないかと思うのであります。公営の結果あまりに自由が制限されたり、また選挙が萎縮したり、あるいは非常にしやくし定規になつておもしろくない。小さい例でありますが、たとえばいろいろ班にわかれて共同の演説会を開く、立会演説会を開くようなことは場合によつてはけつこうなことでありますが、そればかりが本体であるということは決していいことではないと思うのであります。やはり個々の政党が自由に演説のできるようにすることが好しいので、あまりに公営一本で行くということについては私は賛成できないのであります。  要するに選挙法は健全な多数をつくつて行く、その多数には少数党が服する、そういう空氣をつくつて行くのでなければ議会制度というものはだめだと思う。そうして現在は少数党でも次の選挙には多数になる、そういう希望を持つて奮闘努力するところに議会政治の進展が行われるのであります。ですからできるだけ安定したマジヨリテイーをつくり出す。そういう意味において選挙法方向づけられなければ、選挙法というのはおじやのように何もかも入つた、そうしていろいろな方面に公平なものであつても、またあとからいろいろの仕事を追つかけて行くようなやり方では選挙法というものの筋が通らなくなると考えます。何らかの方針を立てられんことを希望してやまないのであります。  ついでに参議院選挙制度について簡單に申し上げておきます。もちろん第二院制度あるいは両院制度という観点から問題にすべき筋合いのものでありましようが、これはすでに宮澤教授から言及されましたから、私はこれに触れないでおきたい。ただ選挙制度の観点から見まして参議院の今日の選挙法にはやはり明確を欠いておるものがあると思う。國民選挙による、すなわち公選制度によらなければならないという一点はよくわかるのであります。この点はまた実行されておりますが、その前提の上でいかなる参議院をつくるかという点について、参議院の性性格が明確でないところに問題が発生するのだと思う。第二院というのは衆議院の別動隊で縮図をつくるところではないと思う。衆議院とまつたく違つた性格をつくり出すところに参議院の存在の理由があると思う。同じようなものをつくるならば心要ないと思う。ところが現在のような選挙法ではややもすれば参議院衆議院とは同じものができるおそれがある。從つてこの点について選挙法改正する必要があるのではないかと考えておる。  そこで私は参議院というものの権限に触れませんが、権限はかりに今のような第二院的なものでけつこうと思いますが、権限を越えて参議院の性格から來る存在の理由を明確ならしめるためには、どうしても参議院に別個の趣旨を盛らなければならないと思う。たとえば参議院議員は地方全体をある程度代表するものであるとか、あるいは職能を代表するものであるとか、あるいは政治経験のゆたかな人であるとか、いろいろ何らかの性格を持つている人でなければ参議院の性格は出て來ないと思う。そこで公選制度という原則のもとで参議院制度をかえる必要があると思う。そこで現在の二本立ての行き方については私は賛成できないのであります。やはり一本にいたしまして、そこにおのずから参議院的性格を持つた人を出し得るように、そういう選挙法をつくるべきではないか、この点につきまして参議院の現在の行き方ではおそらく現在のような紛糾ということばかりではないかもしれませんが、單純に運用では解決のつかないような関係に置かれるように思われる。もちろん政党との関係も重要でありましようが、しかし政党との関係がありましても政党の別動隊のようなものではなしに、政党を離れてその存在が主張できるようなそういう性格のものがつくり上げられると思う。その点で一番私の重要視するのは地域代表である、すなわちある縣なら縣を代表する人なのであります。そういう人は連邦制度でないから出ないというかもしれませんが、連邦制度でなくてもこれは重要な問題があるのであります。やはり國家の構成には地方々々というものが大事なのであります。それを代表するという意味におきまして、やはり米國の上院のような制度、趣旨を加味したものが必要ではないかと思う。この点を主たる要素にいたしまして、そこに現在の職能代表的な行き方を加味する。しかしこの職能的代表というものを全國的な方法によらずしても出すことができるのであります。この点はいろいろ技術的な苦心を要するのでありますが、あるいは縣会であるとかあるいは各縣における重要な團体とか、そういうものにおけるコーカスの制度、つまり予選制度を採用いたしまして、そこでやれば必ずしも職能代表的な要素が除去されるということはあれません。そういう意味においてはつきりした制度をつくり上げるという点で、二本建をやめるということ、そしていささか小さ過ぎるとは思いますけれども、長年歴史的沿革を持つておる縣というものを單位にして、第二院的性格を持つた議員を選び出す、こういうことにいたしますれば、すつきりとした、そして参議院らしい性格を持つた選挙法がつくれるのではないかというふうに考えて、主として選挙法関係から参議院について一言申し上げた次第であります。非常に簡單でありますが、私の意見を申し上げた次第であります。
  20. 生田和平

    生田委員長 この際御質疑がありますれば、御質疑を願いたいと思います。――御質疑がなければ、毎日新聞の論説委員池松文雄君にお願いいたします。
  21. 池松文雄

    池松参考人 毎日新聞の論説委員池松文雄であります。諸先生方のいろいろなお話を伺いまして、蛇足を加えるようなこともないかと思うのでございますけれども、最初に二院制度の問題につきましては、やはり今のような状態、第一院と第二院が同じような状態ではおもしろくない。結局両方が対立したり、いろいろ競爭的になりましたり、衆議院が興奮するときは向うも興奮するような状態になつたりいたしまして、おもしろくないように思うのでございますが、結局憲法の、全國民から直接選挙せられるという制度改正せられなくては、参議院ほんとうの使命を達するようにはならないのではないかと思いますが、來年参議院選挙を前にして、参議院選挙改正という問題とは違つて参りますけれども、根本的に憲法改正いたしまして、参議院が第二院としての常道的な行き方で、衆議院の行き過ぎや見過しを是正したり何かするような行き方に参議院がかわつて行く必要があるのではないかと思います。現在のようでは党派性が多過ぎると思いますし、またもう一つの点として私が参議院に求めたいと思いますのは、もつと学識経験という点を参議院が集中的に表わしてほしいと思う。國会が國権の最高機関であると同時に、知性におきましても相当な水準を示していただきたいと思うのですが、その点は衆議院國民のそのままの代表であつて参議院に知性と学識経験を持つた者を選ぶ、そういうことに重点を置いて、参議院選挙法改正して行つたらいいのではないかと考えるのであります。たとえて申しますならば、現在の二百五十名は多少多過ぎるのではないかと思うのです。たとえばこれを二百人くらいにいたしまして、百人くらいを直接選挙にし、あとの百人くらいを間接選挙にするようなこと、これは憲法改正した先の話になるのでございますが。そうして直接選挙の部門といたしましては、今の全國一選挙区も、一懸一区の選挙区もどうも不適当ではないかと思うのでありますが、全國一区の選挙区は先ほどからお話が出ておりますように、有権者と候補者とのつながりがほとんどございませんし、それから一縣一区の、蝋山先生からのお話がございましたけれども、地方代表が参議院に出て來ることについてもどうかと思うような点がございますが、全國をいくつかの行政ブロツクにわかちまして、関東でありますとか、関西をブロツクとした選挙区が新しくつくられ、そこで五名なり十名の議員が選ばれるといつたような直接選挙法で行つたならば、職能代表的な意味も出て來るのではないかと思われるのであります。  間接選挙の方につきましては、学識経験者を出すことに重点を置いて、たとえば――これは技術的にいろいろむずかしい問題があつて、今の制度ではできないかもしれないのでありますが、学術会議とかあるいは藝術院などで選挙してもらうとか、あるいはそのうちの若干は参議院自体が選挙して、学識経験者をとるとか、そういうことでもやつたらばいいのではないかと思います。学界の方々などはなかなか選挙に出られないので、選挙の非常な苦労をせずにこの連中を引出して來るという方策が参議院としては必要ではないかと思います。  それから参議院にこれからますます政爭がはなはだしくなり、社会はますます複雑になるでありましようから、参議院の使命として、政爭から一歩退いて、冷静に國政を批判するということと、專門的知識をもつて國政を審議するという二つのことを参議院に求めたいのでありますが、そういうように比較的超党的な行動を参議院に求めるといたしますと、現在の参議院のように、参議院からどんどん大臣や政務官が出ているということに一つの疑念を持つものでございます。これは法律で、参議院議員が大臣なんかになつてはいけないということを規定するわけに行かないと思いますが、中立的と申しますか、超党派的な立場を参議院に求めるといたしますと、参議院にはできるだけそういうような大臣、政務官などを出さないという内規でもできることが必要ではないかと思います。  権限の点につきましては現在より私はもつと参議院の力が弱くてもいいのではないかと思うのでありますが、現在絶対多数党が衆議院にあるにもかかわらず、法律案は三分の二の勢力を集めなければ、衆議院で再び決議できないわけでありますが、その三分の二というのは現在の絶対多数のもとにおいても簡單には集まらないようでありますが、いろんな場合を考えますと三分の二ということは少し強過ぎるのではないか、過半数くらいでいいのではないかと思いますが、聞くところによりますと最近の参議院では何か鉄道監理委員であるとか、あるいは統計委員などにつきまして、衆議院と同等の権限を要求するような改正がなされたということでありますが、これはますます参議院衆議院の性格なり権限なりを近寄らせよもというような動きであつてこういう結果になりますとますます参議院衆議院の対立が激化し、第二院の存在理由が失われる。六年というのは昔の平和な時代の標準で定められたことではないかと思いますが、三年か四年でやつぱり半数交替の制度がいいのではないかと思います。要は結局衆議院と違つたものをつくり、冷静に國政を批判するという使命を参議院に十分に持たせる。しかしそれは権限が弱いのですら参議院がいかに言つて衆議院がきかない場合にはそれで仕方がないのでおりますが、その場合に参議院衆議院政治力を爭う機関ではなくて、それは参議院が條理を盡してでもそれが衆議院に反映しなかつたらば参議院としては仕方がない。そういう意味において変なことになるのでありますが、参議院の性格はそれでいいのではないかと思います。  衆議院選挙の問題につきましては、これまた前にいろいろな御説がありましたが、公営につきましては私も賛成だと思います。立候補者が金に縁のない人でも立候補できるように、これは公営ができておつても必ずしもそうはいかぬと思いますが、そういう傾向が立てられるということは必要だと思いますし、前回の公営で二十億幾らかの金がかかつたように聞いておりますけれども、これはもつとかかつても徹底的に公営がなされた方がよいと考える。公営と選挙の統制ということはあわせて考えることができるのじやないかと思いますが、公営でありながら候補者の独創的意見を出して行くことが必要じやないかと思います。いろいろな選挙運動に企画を表すということも結局候補者の優劣を判定する材料になるわけでありまして、同じような企画で選挙運動をされるとなると判断の材料が十分ではないわけでありまして、公営で金額の最高をきめるなり何なりの必要があれば、その公営の範囲において独創性を出させるということは不可能ではないかと思います。たとえばビラなどにいたしましてもビラの意匠でも何でも、そういう点が独創的にやれ得るのではないかと思います。ただ先ほどから戸別訪問の点がいろいろお話に出ているが、この点につきましては私は反対ございませんけれども、やはり現在禁止せられた方がいいのではないかと思う。ほかの買收行為並びに買收をひき起しやすいような行為は、現在の段階ではやめて、それを除いたすベての選挙運動を自由にするというような方向がいいのではないか、現在の実情に合うのではないかと思うのでありますが、この前の一月の選挙が最初低調だという予想に反しまして、投票率が非常によかつた理由につきましては、私は一つは我田引水のようになりますけれども、新聞ラジオというものが相当効果があつたのではないかと思うのであります。それ以上に買收ということが相当きいているのではないかと思いますが、この買收行為あるいは選挙ブローカーの活躍、こういう点にもつと嚴罰主義が行われてしかるべきではないかと思います。それから選挙区制の点につきましても、私たち有権者の立場となりまして小選挙区の場合を考えて見ますると、自分の好きな党、好きな候補を選ぶのに非常に不自由で、選択の自由がきかないような場合が多いのではないかと思うのであります。そういう意味から申しますと、どうもできるだけ大きい方が有権者の立場からいたしますと選択の自由がきくのでありますが、ただ選挙が大きくなつたりあるいは比例代表が採用せられますと、小党分立になつて政治の安定が得られないというのであります。これはに現実に即して考ますと、やはり現在の中選挙区くらいが現状においてはいいのではないかと思います。現在の中選挙区におきましても、私たちは一票を投ずるにあたりまして、もう少したくさん候補者の中から選びたいような感じ相当いだいたと思うのでありますが、小選挙区になつたらそれがもつとひどくなつて來ると思うのでありますが、現実的な面から見まして中選挙区か現在の選挙区制が適当ではないかと存じます。非常に簡單でありますが以上であります。(拍手)
  22. 生田和平

    生田委員長 何か御質疑がありますれば承りたいと思います。
  23. 千賀康治

    ○千賀委員 一つ伺います。戸別訪問は買收の機会をなくするためにやらない方がいいという御説、それももちろんありますが、私は戸別訪問をやらせない方がいいという理由としましては、非常にはやりに染みやすい日本人でありますから、選挙が非常に自由になつてだれでもやれるということになると、だれが選挙をやつてもいい、全く自由になると、物好きな人の大部分が選挙運動をやるようになり、その人らが勝手に戸別訪問をやり出すと、戸別訪問をやる人の数よりも受ける人の数が少いという実情になつて來ると、ほとんど仕事も何もできない、今源氏がくり出すかと思えばもう平家が次の時間には來ておる。また次の時間には藤原がくり出すというように、毎日の選挙中、ことにクライマツクスに達する時期になつて來ると、民衆の生活はまつた選挙に災いされて何もできなくなつてしまうというようなことがあり得るだろうと思う。そのうつとうしさを考えて私は戸別訪問はいけないと思つておるのですが、そういう考え方をなさつたことはありませんか、いかがでしようか。
  24. 池松文雄

    池松参考人 今おつしやつたような点は考えなかつたのでありますが、ただ買收を助長しやすいという点から申し上げたのであります。
  25. 千賀康治

    ○千賀委員 だから私は買收ということよりも、今申したような理由で戸別訪問はいけないと考えておるのですが、そういう考え方をあなたはなさつたことはないかというのです。
  26. 池松文雄

    池松参考人 それほど激しくなるとは予想しておりませんでした。
  27. 生田和平

    生田委員長 次は朝日新聞政経部長の増田壽郎君にお願いいたします。
  28. 増田壽郎

    増田参考人 朝日新聞増田であります。きようは特に專門的に御研究の諸先生方がおいででありますが、私は新聞記者として見たこれらの問題について私の個人の感想を申し上げたいと存じます。もちろん新聞記者の一個の私見でありまして、朝日新聞意見ではございません。きようお尋ねの諸問題についての私の根本的と申しますか、一般的な考え方なのでありますが、今の憲法はいろいろわれわれから見まして必ずしも実情にマッチしてない点が多々あると思います。しかしこれは現在のような環境でありますし、一つの努力目標としてわれわれは受取つてもよいと考える次第であります。しかし國民が國政に参画します國会制度の点、さらにそれに参加します方法としての選挙制度、こういう問題につきましては、やはり相当現実的に合つた制度でなければ十分な機能が発揮できない、こう考えます。そういう意味であまりに理想に走つたり観念的であつたり、机上プランであつたりしたのではかえつて逆効果を來す、こう考えます。やはり現在われわれ國民が到達しております政治水準、それから政治的な訓練の度合い、こういうものにむりのない、適合したと申しますか、そういう方法がとられて、そうして漸次努力目標に近づいて行く、こういう方法が一番妥当なのではないかと考えます。そういう意味におきまして最初の二院制度の問題でありますが、これは皆様方からすでに御意見があつたと思いますが、私も二院制度に賛成であります。國民の代表が二つあるのにおかしいというのはたしかに一つのりくつであろうと思います。しかし現実に、やはり今すぐ一院制度ということはわれわれの政治常識から言つてもかなり距離のあるものではないかと考えます。  しかも現憲法は第一院としての衆議院を認め、第二院として参議院を認めておるわけであります。これは前の衆議院貴族院という対等のものとは非常に違いまして、この点も私は原則的には賛成であります。参議院はやはり衆議院には次いでおりますが、しかしこれも今認めておりますように、冷却機関と申しますか、衆議院の行き過ぎを抑制する、こういう機能の立場にあることがいいのではないかと思います。多少現実的な問題に触れて恐縮でありますが、今度の議会でわれわれ新聞記者が見ておりまして、乱闘その他で非常に不愉快な印象もありましたが、多少機能の点でぼけた点もあると思のですが、参議院の果した役割というものも私たちは認めてよいのじやないか。これは政治問題になつて多少横道にそれるかとも思いますが、今度の國会で参政官設置法案、鉄道拂下法案、こういうものが握りつぶしになつたわけであります。これはわれわれから見ても与党がほんとうであるというふうに考えが必ずしも一致しておりません。ある意味では多少われわれにも疑問の点のあるああいう案件について、参議院がああいう態度をとつたということもやはり一つの見方としましては是認されるのではないか。これはあまりに政治問題でありますので多少私の意見が言い過ぎかとも思いますが、一つの例としましてこういう機能は参議院として当然発揮していい機能である、こうも考える次第であります。それからそういう参議院の立場をさらにはつきりとさせて徹底さして行くというのが今後の運営上望ましいと思うのです。その意味からただいま池松さんがおつしやいましたように、これはあくまでも批判機関であり抑制機関であるという立場から、直接國政の行政方面に参画しない具体的に申しますと國務大臣あるいは政務官、こういうものを出さないということは私もまつたく賛成であります。そうすることによつて参議院の立場というものがはつきりし、機能もはつきりして來ると思います。選挙法その他選出方法によつて参議院の性格をある程度はつきりさせると同時に、またそういう方法によつて参議院の立場というものが明確になると考えます。  それから議員選出方法でありますが、衆議院の場合は單記ということがやはり一番望ましいのではないかと思います。これは現在やつておる方法でありますが、われわれ選挙人の立場から見ましてもこの方が明快でありまして、非常にわれわれの氣持ちがはつきり出ると思います。われわれの経験としましては制限連記という方法が最近あつたわけでありますが、これは制度そのものは悪くはないのかもしれませんが、これを行う方から見ますと非常にまやかしがあると思います。たとえば制限で二人連記する場合に、第一位の人を書く場合と第二位の人を書く場合は氣持が全然違うと思います。第一位の方は非常に力を入れてやりますが、第二位の方はまあやつておけという調子の場合がかなり多いのではないかと思う。しかしこれは票を数えます場合には、第一位であつても第二位であつても全然差異がないわけであります。こういう意味で選挙人意思が必ずしも明確には出ない。これは選挙の結果を見ましてもわれわれはちよつと意外に思つた点が多々あるのでありまして、これは経験に徹しましてもいい方ではなかつた考えます。それでは比例代表制という問題がありますが、これも私は現状から見ますと、必ずしも適当ではないと考えております。これは政党が非常に強く前面に出て來るわけで、あくまでも政党中心になるわけでありますが、その場合に現在の政党というものは全部とはもちろん申されませんが、固まつていない点が多々あるのではないかと考えます。たとえば常に合同の問題があつたり、分裂の問題があつたり、脱退の問題、これは脱退は別でありますが、離合集散といつては言い過ぎかもしれませんが、まだそういう過渡的な姿がまま見受けられる。そういう場合に政党を基本とした比例代表というものは、背景がはつきりしていないのにそういうものを出すというのは、そういう点でもまずあまり適当ではないと考えます。それから選挙民と人とのつながり、こういう点につきましても現在よりもさらに稀薄になる、こういう危險性もあるかと存じます。それから私自身もあまりよく頭に入りませんが、比例代表には実に種々な方法がありまして、複雑多岐であろうと思つております。制限速記の場合でさえ必ずしも効果を発揮しなかつたという点から見まして、單記移譲式とかいろいろと名前自体からもすでにむずかしいこの比例代表制というものは、はたして選挙民一般に趣旨が徹底するかどうか、これは相当準備期間が必要なのではないかとも考えます。  それから比例代表は非常に理論的に割出してあるわけでありますが、選挙民の氣持、そのときの選挙情勢、そういう点から見て必ずしも数学的といいますか機械的に割出した按分方式が現実の姿を正直に出すものかどうか、こういう点についても私たちはまだ研究の余地があると考えます。  それから選挙区の問題でありますが、大選挙区はいろいろ方式もあると思いますが、われわれが前に経験した制限連記の場合の大選挙区というものは、この制限連記とともに失敗であつた考えます。今の場合比例代表制というものがむりだという考え方から申しますれば、この大選挙区制はまず一應は当面の問題にはならないと考えます。それでは中選挙区か小選挙区か、こういうことになると思います。しかし私自身も実は率直に申し上げて、はたして中選挙区がいいものか、あるいは一人一党、一区一人というまでの徹底した小選挙区制がいいかという点については、まだ自信を持つて申し上げるまでに至つておりません。ただこの両方を比較しました場合に、小選挙区制としての特徴というものもかなりあると思います。諸先生方からすでに御説明のありましたように、さらにまた補欠選挙というふうな場合に、これは一人欠けますれば、ただちに補欠選挙ということになるわけでありますから、そういう点で常に國民の代表の意思が間然なく傳えられるという形式においても小選挙区の特徴というものはあると思います。その他選挙公営に関連して選挙運動の徹底という点もあるかとも思います。しかしこれは現実の問題でありますが、買收というふうな点から見て、これは買收しやすいとか、あるいは非常にブロツクが小さいので、選出される代表者が非常に小つぶになるとか、いろいろ欠点も上げられていると思います。中選挙区におきましても長短双方あると考えます。しかし私にこの際は中選挙区制に賛成するわけです。その理由は非常に簡單でありまして、まだわれわれとしても十分な経験が積んでいないと思うのです。最近の選挙は、選挙ごとに別表がかわるというふうな状況でありまして、まことに國民としても何かとまどつているところがあると思うのです。ずつと前古い選挙法ではたしか二十年間は別表は動かさないという規定があつたとも思いますが、現在のように非常にものが動いております、あるいは不安定な場合に、そういう特に固定させるようなものは危險かとも思いますが、しかし選挙のたびごとにかわるというふうな状況でも困ると思うのです。これはやはり相当政治にも大きな影響を持つことなのですから、ある程度多少の期間を置いて経験を積んだ上で動かす、経験で動かして今度悪かつたらこの次はこうだというのではなくて、多少腰をおちつけて研究をする、こういうのが必要ではないかと思うのです。これがある意味でもう徹底的に悪い、とてもだめだというふうな場合は別でありますが、長短双方の言い分があるような問題の場合には、まずもう少し経験を重ねてから、その上で具体的にかえるものはかえるというふうにして行つていいのではないか、こう考えます。  それから参議院の場合でありますが、参議院衆議院と機能においても違つておるのでありますから、できるだけそういう差異を認める以上は、やはり選出方法においてもかわつてつて、同じでありますとやはり同じような結論も出やすいかと思いますので、やはり大選挙区制というものは衆議院と対比した意味において、この方がいいと思います。参議院の場合、職能的な色彩を強めるという意味で、職能代表という議論もありますが、しかし選出方法としましては、この職能代表というものは現実の場合には非常にむずかしいのではないかと考えます。どこからどこまでがこの職能代表だというふうな現実的にあてはめますと、なかなかその限界なり方法もむづかしいのではないかと思います。そういう意味で大選挙区制をとるということが、やや妥協的な意味でもありますが、現状においてはこれがまずいと考えます。  それから選挙の公営問題でありますが、これに関連して現行選挙法の問題について二、三の感想を申し上げたいと思います。公営問題は賛成であります。その場合に公営の幅をどの程度にするかということが一つの問題であろうと思います。しかし私は公営というものはいわば最低生活の保障をして行くためにはこれだけのあれは保障しようという考え方、選挙の場合にこれだけあればまず選挙としては、必ずしも全部十分ではないと思いますが、選挙のできるという限度は、公営で保障すべきであろうと考えます。そういう意味でこの間行われた以上にさらに現在の公営の度合をもつと強めて行くべきである。ただこの間の選挙の場合には、公営はするが、しかし公平な選挙のためにという意味に選挙の自由というものを非常に制限をいたしました。この制限はどうしてしたかとわれわれは考えるわけですが、それは二つあつたのではないかと思います。一つはただいまのような異論というか、言分は別にしまして、この選挙法をかえるのに一番重大関心を持ち、利害関係を持つておるのは議員諸公であります。この間の改正の場合にもやはり非常に議員諸公が重大な関係がありますので、從ずしも第三者が見て公平であり妥当であるという結論に達しなかつた部面もあつたのではないかと考えます。具体的には選挙の別表の区割の問題、そういうような点でも、これが非常に不利になる場合にも甘んじてこれをすべての議員の方々が受入れられたかどうかについては、なお疑問をわれわれは残しておるわけであります。それともう一つは、すベて制限をした考え方は、意識的、無意識的に、官僚の統制癖と申しますか、統制の思想が非常にここに盛られたと思います。演説回数の制限とか、はなはだしいのは第三者の推薦を全然口ををふさいでしまつた。私の意見で恐縮でありますが、第三者という考え方がすでに非常におかしいのではないかと考えます。やはり主権在民の場合には、選挙というものは單に選ばれる人だけではなくて、われわれ國民がすべて当事者なのでありますから、第三者的な考え方をすることが非常におかしい、妥当を欠いておる。こう考えます。そういう意味でもし今度の選挙法改正があるならば、公営の幅はもつと拡げていただきたいと同時に、制限は思い切つて撤廃していただいた方が効果がよりあがると考えます。その意味から戸別訪問、演説会の回数、代理人の演説、第三者の推薦これらはもちろん制限を撤廃されて、自由活溌にやられた方がいいと思います。この間の選挙の場合にはわれわれ新聞記者が見ておりまして非常に低調であつたし、そういうふうにいろいろ新聞にも書きましたが、実際は選挙の場合、大体今までもきわ立つてにぎやかだつたということはそうないと思います。これは小選挙区制の普選以前の場合は別でありますが、しかも結果においてはわれわれの予想を裏切つて、非常に投票率も高かつたわけであります。もしあの場合にこのような制限規定がなくて、もつと國民の情熱というか、関心を沸き立たせるような方法がとられたならば、もつと投票率も多かつたのではないかと考えます。選挙はもちろんわれわれ國民が直接國政に参画する唯一といつてもよいくらいの大事な機会でありますから、これがお葬式を出すような状況でなく、むしろ反対にお祝いをするというくらいににぎやかな雰囲氣が沸き立つ方がよいと思います。これがいよいよ積極的になり、さらにその度合いが深まつて國民政治的な訓練、政治的意識が高まつて参りますれば、買收その他もそういう面から積極的に押えられて來るのではないかと考えます。公営を拡げる場合に、賣名とか、ふまじめな候補者が出て來わせんかということもあるのでありますが、これは別にまた押える方法があります。非常にこまかくなりますが、供託金を引上げるとか、あるいは供託金を没收するただいまの率を上げるとか、そういうことでこれは十分防げるのではないかと考えます。私の意見は以上の通りであります。
  29. 生田和平

    生田委員長 何か御質疑がありますればお願いいたします。――なければ次は評論家新居格君にお願いいたします。
  30. 新居格

    新居参考人 私は今御紹介をいただきました新居格であります。この問題に対しまして私は学識者でもなく、ことに経験者ということでもなく、ただ私は選挙民の立場から一つ申し上げたいのであります。  皆さんが今まで、お話になつた場合、選挙法改正に、選挙民の生活というものをどれだけ考慮に入れてくださつたかどうか。つまりさつきも千賀さんが言われたように、戸別訪問が盛んになつたら、実際選挙民は困るのでありますからして選挙法改正のときに、とにかく民衆の生活を乱さないように、それを考慮に入れてひとつ改正をしていただきたい。これは選挙民の一人として私はお願いしたい。もう一つの基準は、私はこの問題はラシヨナリズムと申しますか、條理主義によつて処断して行くべきものだと思います。でありますから、そういうような選挙の方法が世界各國のどこにあるかというようなお話があつても、日本でそれが正しいという選挙方法ならば、どんな選挙をやつてもよいと思います。これは宮澤さんもおつしやいませんでしたけれども、私はもう二十年來の私の持論としてマイナス投票を認める、消極投票を認める。それはたとえば自区の選挙区の候補者でこの人こそといつた人がない場合に、ああいう人に出てもらわなければ困るという場合と、これは出てもらつては困るというマイナスの表示をして、この人は出てもらいたい、この人に出てもらいたくない、プラス、マイナス、それでマイナスの多いときにはその人は次には休んでもらいたいというようなことをだれに話しても、新居さんそれはりくつに合つていますよと言われる。元衆議院議長をしていた秋田清君に言うと、各國の選挙にそんなのないよ。なくたつていいじやないか、これが道理に合つたら、どんどんやりなさいという主張なのであります。だからアメリカあるいはフランスのどこがこうだということよりも、日本の現実に即して、こうあるべきだということを断固としてやるべき必要がある。憲法では戰爭さえ放棄している。選挙法改正くらいはもつと條理に即した徹底的なことをやつてもいいと思う。また選挙におきまして棄権率が問題になるけれども、私はいわゆるマイナスの投票をやれば棄権率は非常に減ると思います。そういうようなことを、そんなばかなことはおかしいとおつしやるかもわからぬが、私はもう二十年前からこれはりくつに合つていると思います。あれが出たんでは困るというなら、行く人はたくさんあります。非常に卑怯な言論のように思召すかもしれませんが、一体條理を徹底してもらいたい。でありますから、私は戸別訪問も千賀さんが憂うるようでなく、民衆の生活を選挙のために乱すのは当然だというような論理は立たない。今までいろいろな候補者がそちこちで演説するたびごとに、われわれが選挙民として聞かなければならぬことは非常にたいへんだ。一体選挙民のために考えてくれたろうかと思う。選挙をやる人はその立場において選挙法改正考えるが、ほんとうに民衆の生活を乱さぬような、そうして最も合理的な、最も選挙において有効な選挙法はどういう方法であるかということを考えていただきたい。私はこの選挙法改正に対してはどこまでもラシヨナリズムに考えて注意していただきたいと思う。一方の人は金が出るから立看板は幾らだ、一方は金がないからというようなのはいかぬ。そのときにはひとつ空想みたいなものでありましても、將來はそうなつて行くならば、そのときからすでに私はやるべきだと思う。選挙はどこまでも公正に、平等に、だれも立てるように持つて行かなければならねと思う。あまりきゆうくつであつたからこうだ。今度はもつと自由にしていわゆる戸別訪問などもいいじやないか。そういうふうにして、前は戸別訪問をしたらいかぬ。今度は戸別訪問も構わぬ。そういうような朝令暮改は困る。選挙法改正をなさるという場合には、当分はこれで行くということでなければ民衆はまごつきます。前は悪かつたが今度はいいのかというような、ぐらぐらしているような改正はよほど慎んでいただきたいと思う。  それから少し極端で引つこめているのですが、公営でやつて推薦人、それから應援弁士絶対排斥だということまで考えている。自分でお立ちになつて自分で政見を述べればいい。そうなると選挙は一時停滞するというのだけれども、その條理主義に立つて、しかもなお停滞しないようにどう持つて行くかということが問題だと思う。日本人はそうすればあまりきゆうくつだ、こうしてはあまりにルーズ過ぎるとしよつちゆうゆらゆらしている。私が先ほど申しましたように、どこまでも條理主義によつて断固やつて行くということを原則としていただきたいと思います。  それから参議院衆議院の問題は、私どもの社会の言葉から言いますと、衆議院は創作家で参議院は批評家です。その見解に立つています関係上、毎日新聞の人や朝日新聞諸君の言つたことは大体賛成です。ただ年限に六年議院があるということは、この激変の時代に考えものだと思います。  それから中選挙区がいいか小選挙区がいいかということは、もつと研究する必要があると思うが、ただいまの暫定的な考え方から行くと、中選挙区がいいじやないかと思つております。これは衆議院の場合です。  それで選挙公営の問題に絶対賛成、それから選挙方法についてはいろいろ改正すべき点があるけれども、これは條理主義によつていただきたい。いくらかわりましても、実際施行する場合にはある点から行くとめちやくちやになるのです。私ども小地域の選挙を見ていましても、最初はプラカードなんかこつちの地域からこつちの地域に行くまでは両方守つているが、しまいにに堂々と行く。双方やり出すと取締りも、へつたくれもない。これはいかぬといたつてどうにもならない。一つの基準を設けてこれは取締るぞといつたつて取締れはしない。法定金額をきめても、ほんとうに嚴格にやつたならば、法定金額を一円も超過していないと答える人は幾人あるだろうか私は疑問に思う。だからああいうふうにきめたつて何にもならない。きめたからといつて必ずしもその通り行つていないのでありますから、きめた以上にはどういうふうに行くか、また自由にするならばどういう程度に合理的に自由にするかということなんです。そこから先の施行の細則がいろいろ具体的に出てくるというようなことでは、基準的に條文をきめて行つてもなかなかうまく行かない。私は繰返して申します。細目的なことはすでに專門家諸君がおつしやいましたから繰返しません。ただ選挙法改正についてはもつと民衆のことを絶えず念慮に入れてやつて欲しいということと、條理主義でやつて欲しい。この二つを、非常にしろうとで恐縮ですが、選挙民の立場から申し上げておきます。
  31. 生田和平

    生田委員長 参考人の皆さま、きようは御多忙のところをおいでいただき、非常に有益なる御意見を拝聽いたしまして厚くお礼を申し上げます。本日の会議はこの程度で終りたいと思います。本委員会は、かねて申し合せのありますように、六月一ぱいは休み、小委員会は、六月十五、六日に開くことにいたします。  本日はこれにて散会いたします。     午後三時二分散会