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久保委員 昨日の
委員会で私は
勤務成績ということのむずかしさについて、お尋ねしてみたのであります。そのとき
辻田局長は
教授力という
言葉を使われた。この
教授力というようなこと、
生徒兒童に対する
人格的な
影響力というようなことは、これは一にかか
つて教職員の
研修いかんにあるのである。私が今さらここで申すまでもありませんけれども、私はたとえば
教育の
考え方の違いかもしれませんが、バートランド・ラツセルの書であ
つたと思うのですけれども、
教育の
作用というのは、結局成長してやまないところの
一つの
人格が、未完成のより低い
人格に対する成長の
過程における
影響である。こういう
意味のことを彼の著書に書いてあ
つたと思うのであります。はたしてそうだとするならば、その
教育の
作用というのは、
教育公務員というものが
研修ということにいかに努め、
自己拡充の
人生過程をいかに高次なものにするかということにかか
つておると言わねばならない。もしこれをなおざりにするならば、
教育というものは、ただおとなと子供との間における知識的な、技術的なみぞを埋めてやるという、そうしたものにすぎないことになるだろうと私は思うのであります。そういう
意味において、この
研修がいかに重大であるかということは、論をまたないことであります。しかるに
研修ということについて、十九條に
責任を負わせ、二十條においてそのこまかな点を
規定しておるということは私は非常に
賛成である。
賛成であるのでありますけれども、これを
立案するときに、それではいかにして
研修をするかという、その実質的の裏づけとなるところの
費用について
考えが及ばなか
つたということ、
規定することを
考えなか
つたということ、しかもまた
立案のときにその
経費を
規定しようとするならば、当然そこにどの
程度必要であるかという、おのずからそこに具体的な
数字が出て來る
計画がなければならないのに、それがいまだに出ておらないということは、私は実に恐れ入
つたことだと思います。そういうことではたして
教育というものを進めることができるかどうか。私はそういう
考え方によ
つて、この
教育立法の
原案をつくられたことは、非常に遺憾にたえないのであります。どうかこの点については私がさつき申し上げました
通り、
関係方面でさえすでになるほどそうだということは了承できるのであ
つて、ぜひこの点は具体的に案をも
つて、そして
資料をも
つてさらに折衝せねばならない、こう思うのであります。ぜひそうしていただきたいと思うのであります。はたして
文部当局においては、そういうことはいらない。もう当然それは
地方なり
國家なりの財政の
程度に應じて出すべきであ
つて、それにまかすべきだ。こういうことで
研修の
経費をこの
法案に
規定する修正の意思がないのかあるのか。私は当然そうなければこのことは行われないと思うのであります。その点について重ねて
文部省当局の
意見を承りたい。これは大体
大臣に聞きたいことでありますけれども、
大臣はおられないし、
学校教育局長がおいでくだされば、
日高局長から直接聞きたいと思いますけれども、
局長ははたしてこういうことで
教育の
研修が行われると思われるのか。そしてこれが行われないとするならば、そういうことで日本の
教育ができるとお
考えであるかどうか。これは根本的な問題であると私は思う。そこで
教育局長にかわ
つて劔木次長、それからこの
立案にあたられた
辻田局長に聞いてみたいと思うのであります。