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田中説明員 ただいま紹介にあずかりました
外務省調査局の
田中でございます。中國の最近の
状況について
説明をしろということでありまするが、まずお断りを申し上げなければなりませんのは、
終戰後われわれ
外務省では、特別の海外の
情報というものは持ち合しておらぬのであります。そこでわれわれが
調査をいたしております
資料は、結局一般の方々のごらんにな
つております
ような
新聞、
通信等に限られておりまするので、実際
現地の実情について、正確な
情報というものを持ち合しておらないのであります。そこで以下申し上げる事柄も、さ
ような
意味であるいは正確を失しておる
ような点も多々あろうかと思います。もしそれらについてあとでわれわれの方にいろいろ御教示を賜わることができますならば、今後そういう
意味で参考になるかと存ずるのであります。
まず中國の
終戰後におきます問題、これはとりも直さず
國共の内戰の問題が最大の問題でありまして、この内戰の問題こそ中國におきましては政治、
経済、
財政、外交その他あらゆる問題の根本にな
つておるということが言えるのであります。のみならずこの内戰の問題は、中國にと
つてさ
ようにきわめて重大な問題であるのみならず、これは
アジアの問題として見ましても、また
世界の問題としてもきわめて重大な
意義を持
つておることは申すまでもないのであります。昨年の暮に中
國共産党の主席をしております
毛澤東が年末
報告を発表いたしておるのでありますが、その冐頭に、昨年の後半期にはいりまして中國の
共産党は攻勢に轉じた。そうして
各地の
戰線において
戰爭の
主導権を握るに
至つたということを報導いたしました。このことはきわめて
意義がある。それは四億数千万の
人口を有する國においてか
ようなことが起
つておるからだ。さらにもう一つ重大なことは、
アジア十億の
人口を有する
東方世界でこのことが起
つておるからだ。か
ようなことを述べておるのでありますが、この
言葉はあながち誇張であるということは言えない
ように考えられるのであります。実は最近の
ニユーヨーク・タイムスの
社説を見ましても、この十月十日の双十節の日に、冷たい
戰爭は二つの
戰線を持つというふうな題で
社説を掲げておるのでございまするが、その中で、最近におきまする
アジア各地における
共産勢力の台頭を論じまして、しかしながら何とい
つてもこの
共産党の
勢力が最も大きな活躍をしておるのは中國である、中國こそその
決戰場ということが言える、この中國の運命は、結局は遠からず
アジア各地にも影響を及ぼすということが考えられる、もしか
ようにして
アジアの
各地が
西欧の
世界から切り離されるということになるならば、これは
西欧の
世界にと
つてもきわめて重大なことであ
つて、今日の平和を維持する、今日の自由を亨樂するということは非常にむずかしくなる、か
ように考えてみるならば、今日中國において
蒋介石政権が
共産党と戰
つておるということは、結局それはわれわれの
戰いであるということが言える。か
ように論じておるのでありまするが、この
ニユーヨーク・タイムスの
社説も、結局はさつき申し述べました
毛澤東の
言葉と中國の内戰の問題の
重大性を指摘しておる点において、相一致しておる点がある
ように考えられるのであります。さてこの中
國内戰の
状況は一体どういう
ようにな
つておるか。これは毎日の
新聞が報道しておるのでありますが、しかしこの内戰の
現状を御
説明するにあたりまして、一
應支那事変が起りました当時の中
國共産党の
勢力及び
終戰当時におきまする中
國共産党の
勢力というものを一應簡單に振り返
つてみたいと思うのであります。
支那事変が起りました当時、中國の
共産党は
陜西省の延安に首都を移しておりまして、この
地方を
中心といたしまして
ソビエト政府をつく
つてお
つたのであります。当時の
兵力は五、六万であ
つた。か
ように推定いたしておるのであります。これが
支那事変が起りますと、御
承知の
ように
國共の第二次の合作をいたしまして、そうして事変の拡大につれて
日本軍が
北支から順次
國民政府の
軍隊を撃退して行くにつれまして、
中共軍の方はその
背後地帶に入り込んで参
つたのであります。
か
ようにして
中共軍は順次主として
北支那の
農村地方に
勢力を伸ばして参
つたのでありまして、特に
太平洋戰爭が起りますると、
中共側ではもつ
ぱら党勢の拡張という点に重点をおいた模様でございまして、当時七・二・一
政策という
政策を
中共側はと
つたように言われておるのであります。と申しますのは、
中共側は十のうちの七の力をも
つて、もつ
ぱら中共の
党勢拡張に努力する。
残つた二の力をも
つて國府攻略をする。これは
言葉は奇妙に聞えるのでありますが、当時なお
國共の
相克摩擦が頻繁に繰返されてお
つたのであります。そこで
中共側は
政府側に対して、
中共の
合法的地位の
承認を要求するとか、また
中共軍に対する
武器彈藥その他軍夫の補給を要求するとか、またある場所では
中共の兵隊が、
政府軍のために
包囲攻撃を受ける、か
ような
事件もしばしばあ
つたわけでありまして、か
ような
攻撃を中止させる、か
ような対
國府政策に二割の力を用いる。そうして
残つた一割の力をも
つて日本軍に対抗する。か
ように七・二・一
政策という
政策をと
つておるのでありまするが、これを見ましても、いかに
中共が自分の
勢力の拡大に力を注いだかということがうかがえるのであります。か
ようにいたしまして、
終戰の当時におきましては、旧
黄河以北の
北支那の
農村地帶には、
中共の
勢力はほとんどすみずみまで行き渡るという
状況でありました。注目されますのは、これらの
地域に
政府側の
軍隊というのはほとんど姿を見せておらないのであります。当時
日本軍は点と線を保持してお
つた。こういう
ようにいわれるがごとく、大都市と、これを結ぶ
鉄道線路並びにその沿線を主として確保してお
つたのでありまするが、これらの
地点を除きました
農村には、もつ
ぱら中共側の
勢力が確立されておる。
北支那におきましては、わずかに
山西省の西南の
山岳地帶に
閻錫山の
兵力が
残つておる。また内蒙古は御
承知の
ように、包頭の奥の五原
地方に
傅作儀軍の
軍隊がお
つた。そのほかにはほとんど
政府の
軍隊というのは姿を見せておらないのであります。また当時におきまする
満州並びに中
支那、
南支那の
状況を一瞥して見ますると、
満州におきましては、
満州事変の当時から
日本軍に抵抗しておりましたいわゆる
共産匪、これは満
韓鮮——満州人、中
國人並びに
朝鮮人の混合の
共産匪であります。これが
満州の
東北の
山岳地帶に
残つて抵抗を続けてお
つたのでありますが、その
兵力は約二、三万と推定せられておるのであります。なお南の方の
熱河の
方面では、
華北省の方から
中共の
李雲昌という
軍隊が
終戰の前年ぐらいから
熱河省の
山岳地帶に入り込んでおるのであります。この
兵力は大体五、六万
程度でなかろうかと推定せられるのであります。また今日戰場にな
つておりまする中
支那の
地方には、これまた有名な新四軍という
中共の
軍隊がお
つたのでありまして、今日徐州蚌埠の
作戰に從事しておりまする
陳毅という
中共の將軍の率いておりました新四軍が、大体
揚子江の北方の
江蘇省、
安徽省方面におります。大体その
兵力は十万ないし十五万
程度と推測せられるのであります。
揚子江以南には、今日と同様にまだ大して
中共の
勢力はなか
つたのでございまして、わずかに海南島の
山岳地帶、それから
廣東の周辺の
農村並びに雷州
半島附近、これらの
地域に三万
程度の
共産軍が
残つてお
つたのであります。か
ようにして
終戰当時におきまする
中共側の
兵力量と申しますのは、これはまたいろいろの推定があるのでありますが、
終戰の直前の四月に
毛澤東が有名な
連合政府論というものを出しております。その中に引用しております
兵力は、
中共の
正規軍が九十一万ということを言
つておるのであります。もしこの
数字が確かであると考えまするならば、今申しまする
ように、
満州の
熱河方面の数万の
兵力、中
支那の十四、五万の新四軍の
兵力並びに海南島及び
廣東附近の三万ばかりの
中共軍、これを除きました約六十五万ばかりの
中共の
軍隊というものが、もつ
ぱら黄河以北の
北支那に
がんばつてお
つたということになるわけであります。この当時さ
ような
状況のもとに
終戰にな
つたわけなのでありますが、
終戰になりますと、実は
終戰前からでありますが、ドイツが降伏いたしました当時、すでに
中共側では遠からず
日本の
全面降伏があるという予想のもとに、
満州の
接收計画を立てて
準備をしてお
つた模様であります。さ
ようにして
終戰になりますと、いち早く
満州の
占領に主力を注いでおる
ように見受けられるのであります。
中共側の主力は、
目下人民解放軍の総
司令をや
つております林彪の指揮いたしまする
中共の
軍隊が主として
山東方面から渤海湾を
渡つて満州に入り、これが
ハルビンを
中心とした
北満に入り込んでおるのであります。大体その
兵力は十五万
程度と考えられるのであります。それから
南満州の
方面は、
終戰の前から
熱河方面に入
つておりました
李雲昌の
軍隊が、さらに
華北から應援を得まして、
長城線を越えて、主として
南満州方面に入り込んで行
つておるのであります。大体その
兵力も十五万
程度かと考えられるのであります。
両者合せて三十万の
兵力、さらに
現地にありました雜軍を
支配下に入れて、約四十万ないし五十万の
中共軍ができた
ように考えられるのであります。この
数字は、実は
終戰の翌年
中共の幹部であります
周恩來が、当時の
東北における
中共軍が四十万
——正規軍三十万、さらに雜軍十万、合せて四十万であるということを言
つておるのでありますが、大体四十万ないし五十万の
中共の
軍隊が
満州にあ
つて、今申します
ように、
満州の
各地の
占領に努力した、か
ように考えられるのであります。これに対しまして
政府側の
終戰のときの
作戰と申しますか、
方針——これは別にそうはつきりした文書があるわけではないのでありますが、いろいろの
報告なり、発表なりを総合してみますと、大体
政府側におきましては、
中共の
部隊というのを主として
北支那の
農村地帶、すなわち從來からの
中共の
勢力範囲内にいわば
カン詰にしておいて、
満州並びに
満州を含んだ全支にまたがりまして、
日本軍の
占領してお
つた都市並びに
地方はもつ
ぱら政府軍の手で
接收する、こういう
計画を立てている
ようであります。これは当然の話なのでありますが、さ
ようにいたしまして、中支にありました新四軍に対しましても、嚴重な命令でも
つて北支那に移駐を命令しているのであります。一時は
揚子江の
北方面にありました新四軍も
山東方面に
引揚げているのでありますが、か
ようにして
北支那の
地方に
中共軍をできるならば
カン詰にしておいて、
満州並びにその他
各地の
日本軍の
占領地域を
政府軍の手でもつ
ぱら接收をする、か
ような
計画を立てたらしいのでございますが、しかしこれに対しまして
中共側は
——毛澤東が言
つているのでありますが、全
抗日戰を通じて実は
中共は七割の
抗日戰を受持
つて來た。か
ような事実から見て、われわれも当然
日本軍の投降を受理し、
日本軍の
占領地域を
接收する権利があるということを
政府側に強く主張しているのであります。もちろんこれに対して
政府側は應諾しておらぬのであります。そこで
中共側は先ほど申します
ように
満州にいち早く兵を集中させまして、
各地の
地点を押えると同時に、
北支那におきましても、それぞれの
地点の
占領の
計画を立てておるのでありまして、北上して参ります
政府軍を妨害するためにはいろいろ
交通線を破壞するとか、あるいはそれにもかかわらず北上して來る
政府軍に対しては、武力をも
つてこれを粉碎する、か
ような
作戰を立てているのであります。そこで
政府側では、主として
アメリカ側の
援助のもとに、一部は飛行機をも
つて北京、
天津、
済南等の各都市に
兵力を輸送する。また大半は
アメリカの
援助のもとに船でも
つて兵力を
北支那に送りまして、
アメリカのマリンの
援助のもとに
北支那の
接收をはか
つているのであります。また
満州に対しましては、これは
政府側は非常に
準備が
手間取つて、
終戰の翌年の三月ごろになりましてから、
ようやく兵を
満州に送り込む、こういう
ような
状況であ
つたのでありますが、しかしその当時は
政府側の
軍隊というのは非常にまだ勢いがありまして、
満州に入りました
政府軍のごときも、二、三箇月にして
南満州から
長春並びに吉林の
方面まで、一挙にこれが
接收に成功いたしているのであります。御
承知の
ように
終戰の直後には
アメリカのあつせんのもとに、
政治協商会議が行われ、
國共妥協の話合いが進んだわけでありますが、しかし
両者の妥協というのは結局
政府の失敗に
終りまして、
終戰の翌年の六月の
終りに、
満州におきます一時的な停戰協定が破れましてから、
満州、
華北、
華中各地におきまして全面的に
両者の
戰爭の火ぶたが切られておるのであります。か
ようにして
両者の
戰爭は全面的な
戰いに入りまして今日に
至つたわけなのであります。その間の事情は時間もありませんので省きますが、最近の情勢を
概略各地について申し述べて行きたいと思います。
今日はもう申し上げるまでもなく、
満州は長春、奉天が陷落し、錦州、
葫芦島方面からも
政府軍が撤退し、また
熱河省の承徳からも撤退する。か
ようなわけで全
満州は
中共側の
支配下に入
つておるというわけであります。また
華北の
状況は、先般
済南が陷落してから、
山東省はわずかに青島が
政府側の手に保持されておるにすぎないのであります。また北では御
承知の
ように
北京、
天津と、それから
北京、
天津から東に塘沽、唐山に至る線、それから北に延びまして
張家口、大同、綏遠に至る
地区、この細長い
地区を、
北京に総
司令部を持
つております
傅作儀軍がこれを保持して
防衞をしておるわけであります。また
山西省では太原に
閻錫山がまだ
がんばつておる、こういう
状況であります。これらの
華北の
状況を大観いたしてみますと、大体もう九割
程度が
中共側の
支配下に入
つておるのではないかと考えられるのであります。
目下戰爭は主として
華中方面、すなわち
揚子江と旧
黄河との
中間地帶でも
つて両者の
攻防戰が展間せられておるわけであります。最近の
新聞が報道しております
ように、徐州、蚌埠、それから
南京に接近して來た
地方へ大きな
戰爭の
中心が移りつつある、こういう
状況の
ようであります。大体
華中、すなわち
揚子江以北の
華中におきましては、目下の
状況は大体五割
程度が
中共の
支配地域に入り、
政府側は五割少し足らずかと思いますが、
政府側が五割
程度の
地域をまだ支配しているのではないか、か
ように見られるのであります。
揚子江以南の
地域につきましては、先ほど申しました
終戰当時から今日まで大きな変化はないのであります。これらの
地方に
中共側は、それぞれ
各地に
地方政府と申しますか、
政府を建てておりまして、
満州には
東北解放区というのができておる
ようであります。
ハルビンにその本部がありまして、
東北行政委員会というのができておる
ようであります。それから
華北では、この八月の
終りに
華北人民連合政府というのが石門にできておる
模樣であります。これらの
地域は大体
河北省と
山西省の東半分並びに
察哈爾省、それから
河南省の北部、大体
隴海線以北の
ようであります。ここに
華北解放区というのがありまして、
華北解放人民連合政府というのができておる
ようであります。それから西の方では
山西省の西半分と
陜西省及び甘粛寧夏の一部分を合せまして、ここに
西北解放区というのができておる
模樣であります。また東の方では
山東省と
江蘇省及び
安徽省の一部を加えまして、ここに
華東解放区というのができておる
模樣であります。この
華東解放区は先ほど申しました新四軍を率いております
陳毅の
支配下に入
つておる
模樣であります。それから
目下戰爭の繰返されておりまする
河南省並びに
湖北省方面には
中原解放区というのができておる
模樣であります。これの
司令官は劉伯承という
中共の將軍の
ようであります。
それから西の方には、大体
湖北省でありますが、ここには
西南解放区というのができておる
模樣であります。
大体以上申します
ように
東北解放区
——満州でありますが、
東北解放区と、
華北解放区、
西北解放区、
西南解放区、
中原解放区、
華東解放区、そういう六つの大きな
中共の
地区ができ上
つておる
ような
模樣であります。これが大体の最近の
状況でございますが、そこでこの
政府側の態勢というのは一体どういうふうな
状況にな
つておるか、これまたわれわれは正確な
資料を持ち合さないのであります。
新聞その他の
ニユースを総合したにすぎないのでありますが、
政府側の現在の態勢というのを大体
兵力の点、
財政経済の点並びに
アメリカの対
華援助の点、この三つの点から御
説明をしてみたいと思うのであります。
政府側の
兵力量につきましては、これまた正確な材料は持ち合さないのでありますが、この六月の
終りに、
ちようど当時開封が
中共の手に
陷つた直後でありますが、何
應欽國防部長が
行政院の
祕密会議で
報告したという
数字が
新聞に傳わ
つてお
つたのであります。これによりますと、当時、六月の
終りでありますが、
政府側の
兵力量は二百十八万ということが発表されております。これに対しまして
中共の
正規軍は百五十万ということを何
應欽國防部長は言
つておるのであります。
中共の百五十万の
兵力量は今日も大差がないのではないかと思うのであります。大体
中共の百五十万の
兵力の
配置は、これも非常に乱暴な推定でありますが、大体
満州に五十万、
華北に五十万、それから今日猛烈な戰鬪の行われておりまする
華中に約五十万、こういうふうな
配置と見て大きな間違いはないのじやないかと思うのであります。これに対しまして
政府側の二百十八万の
兵力量は、その後も御
承知の
ように
満州で約三十万の
兵力を失
つております。また
済南陷落の当時、あそこにおりました
王耀武の率いておりました
部隊は約十五万あ
つたのじやないかとわれわれは推定しておるのであります。これも失
つておるわけであります。また太原の
閻錫山の
部隊、これは十万ないし十五万持
つてお
つたのじやないかと思うのでありますが、これが
中共側の
攻撃を受けまして今日は半減をしておる、こういうふうにいわれておるのであります。これらの
兵力の喪失を二百十八万から引きますと、大体百五、六十万の
兵力になるのでありまして、
兵力の点において今日
中共と
政府軍とはほぼ伯仲しておるのじやないかと考えられるのであります。この
政府側の百五十万余りの
兵力は実は
各地に分散しておりまして、しかも
戰爭全般が昨年の下半期から
中共側に
主導権を握られたという関係上、必ずしも行動の自由を持
つておらない
ように見受けられます。
政府側の百五十万の
兵力の大体の
配置は、御
承知の
ように
北京に本拠を置きまする
傳作儀軍が約二十万ばかりかと想像せられるのであります。太原の
閻錫山の
部隊が七、八万ないし六、七万、か
ように思うのであります。また
隴海線の西の端の西安には
胡宗南の
部隊が陣ど
つております。この
兵力量が約十二万といわれておるのであります。この西安の
胡宗南の
部隊は中原の
作戰に移動を開始したという
ような
ニユースも出てお
つたのでありまするが、その後移動中であるかどうか、最近は
ニユースが絶えております。それからさらにもつと西の蘭州には張治中の
部隊がおることにな
つておるのでありますが、この
兵力量ははつきりはわからないのでありますけれども、きわめて古い
ニユースでありますが、約二十万の
兵力があるということにな
つておるのであります。今日なお二十万の
兵力をも
つておるかどうかよくわかりませんが、少し古い
ニユースでありまするが、そういうふうにな
つておるのであります。それから漢口には、
白崇禧が
がんばつておるわけでありますが、その
部隊は約二十万
程度じやないか、か
ように思うのであります。徐州には
劉峙將軍が約二十万ないし二十五万の
兵力を持
つてお
つた。最近の
新聞でも、二十五万の
兵力が徐州脱出して南方に下
つておるという
ような報道があるのであります。それから最近まで鄭州、
開封方面に約十万の
政府軍がお
つたのでありますが、これらの
地域を撤退いたしまして、その十万の
兵力が大体
蚌埠方面に出ておるのではないかと思うのであります。
南支那では
廣東に
宋子文廣東省首席が、河南の
綏靖総司令に同時に任命にな
つておりまして、その配下は
保安軍十五箇師、約十五万の
兵力かと考えられるのであります。そういたしますと、これらの
兵力をいろいろ差引いて見ますると、残る
兵力が三十万内外になるわけなのでありまするが、もちろんこれもきわめて乱暴な計算でありますので間違
つておるかと思うのでありますが、大体この
兵力が
南京、
上海方面の
防衞に当
つておる、また当るのでないか、か
ように考えられるのであります。これを一口に言うならば、案外上海、
南京方面の
防衞軍は手薄であるということが言えるかと思うのであります。
次には
政府側の
財政状況であります。これは
政府側の
財政は、最近の
幣制改革並びにその後の
幣制改革の
状況によ
つて最も端的に現われておる、か
ように思うのであります。御
承知の
ように法幣はほとんど
天文学的数字のインフレを示してお
つたわけでありますが、これに対しまして
政府は八月の十九日、大英断をも
つてこれを一挙に三百万分の一に切下げて、新しい金円制度というのをつく
つたのでありますが、この制度に対しまして、
政府側は一連の
経済財政の戰時的な、きわめて消極的なる
財政経済政策をと
つて、力でも
つてこの
政策の強行をして來たわけであります。この
政府の
財政は、これも一般に廣く
新聞に出ております
ように、大体七割ないし八割まで軍事費に使われているものであります。しかもその七割、八割の軍事費というものは、結局赤字でも
つて、從來は法幣の増発によ
つてこれをまかなうという方針をと
つて來たのであります。そこに法幣インフレの最大の原因があ
つたのでありますが、新金円に切りかえましても、この根本の点については何ら手が打たれておらないのであります。すなわちその後
財政部長の
報告によりましても、新金円になりましてから二個月間に
政府財政の赤字が五億金円出た。こういうふうに
報告をしているのでありますが、結局軍費というものは紙幣の発行によ
つてまかなわれて來る。こういう方法なのでありまして、そこに幣制を改革いたしましたけれども、結局うまく行かなか
つたという原因がひそんでお
つたわけであります。これに対しまして先ほども申しまする
ように、
政府側は非常に強硬な
政策でこれを維持し
ようという一連の
経済財政政策を立てたわけでありまするが、これまた
新聞をにぎわしました
ように、上海においては蒋経國が武力をも
つて非常に強硬な
経済取締りをや
つた。しかしながらこの
経済原則に反した取締りというものは結局失敗いたしまして、蒋経國も十一月の初めに謝罪文を公表して辞職をした。同時にこの
経済政策の失敗を理由に、オウブンコウ行政部長も辞職をした。これが大体の
状況でありまして、この辺からも危機が傳えられている。ある人にいわせるならば、
満州の失陷よりもむしろ
上海方面における
経済財政政策の失敗の方がより大きな影響を
政府側に與えているのではないか、か
ように言う向きもあるのであります。これに対しまして一つ問題になりますのは、米國の対
華援助であります。毎日の
新聞が報道しております
ように、中國側は米國の対
華援助をしきりに懇願しているのでありますが、この米國の対
華援助の
現状について簡單に御
説明をしてみたいと思うのであります。
御
承知の
ように今年の初めに、現
アメリカ政府は五億七千万ドルの対
華援助法案を議会に上程したのでありまして、結局議会の削減を受けまして、四億ドルの対
華援助法案がきま
つたのであります。この四億ドルの対
華援助は、二億七千五百万ドルが
経済援助であり、残りの一億二千五百万ドルが軍事
援助にな
つておるのであります。最近までのこの
援助の
状況を見てみますと、きわめて大ざつぱに見まして、二億七千五百万ドルの
経済援助の約半分は米國内における物資の買付が済んだというのが大体最近の
状況の
ようであります。しかしこれらの物資は、まだ中國にはほとんど到着しておらないという実情の
ようであります。軍事
援助の一億二千五百万ドルについてはほとんど全額の買付が済んだ、そうしてその第一船が十一月の二十九日に上海に到着する、こういうふうな報道が最近
新聞紙上に載
つたのであります。か
ような
状況の
ようであります。すなわち
経済援助については約半額の物資の買付は済んだけれども、まだ中國には到着しておらない。軍事
援助については全額の買付を終
つて、第一船が最近上海に着いて、続々あとの分も到着するであろうと思うのでありまするが、か
ような
状況の
ようであります。これに対しまして中國側はさらに多額の、しかも早急の
援助というものをいろいろ要求しておる
ようでありまして、最近も宋美齢夫人が渡米をいたして、トルーマン大統領あるいはマーシヤル國務長官に会見をしておる
ように傳えられております。これに対しまして一体
アメリカ側はどういう方針をとるのであろうか。これはいろいろの臆測が行われておるのでありまして、また共和党
方面では從來からそうなのでありまするが、対
華援助をさらに積極化しろというふうな意見も出ておるのでありまするが、しかしどうも從來のトルーマン大統領並びにマーシヤル國務長官の態度、方針から見ますると、この際多額の
援助が新たに行われるかどうかということは、一般に疑問に見られておる
ようであります。
以上をもちまして大体中國側の
状況の
説明を終らしていただきたいと思うのでありまするが、そこでも
つて中國の内戰の將來というのはどういうふうにな
つて行くだろうか、これは非常に大きな問題であり、われわれごとき者が一國の運命を占うという
ような大胆なことはできないのでありまするが、
ちようど最近の
ニユーヨーク・タイムスにコロンビヤ大学のペツフアー教授が——非常に
アメリカにおいても有名な中國通でありまするが、ペツフアー教授が
ニユーヨーク・タイムスに中國問題について論文を寄稿いたしておるのであります。そのごく大要を披露いたしまして私の御
説明を終らしていただきたいと思うのであります。ペツフアー教授のこの論文によりますると——これは要点だけをごく簡單に御紹介したいと思いますが、ペツフアー教授によると、中國の事情にいささかでも通じておる者にと
つては、
満州が失われ、
華北が
満州と同じ
ような運命に陷るだろうということは、もう久しい前からよくわか
つてお
つたことだということを言い、現在非常にはつきりしている一つの事柄は、
蒋介石政権がよろめいておるということだ。しかしこれが將來どういうふうになるかというふうなことは、もちろんこれはだれにも予言のできないことだが、しかしあるいはこれによ
つてこの
政府は倒れるかもしれないし、あるいはうまく行くならば、一
地方政権として
残つて行くというふうなことになるかもしれない。この点においてペツフアー教授は、今後
國民政府、
中共の
政府が、たとえば
揚子江を境にして南北の両政権の対立という
ようなことは予想をいたしておらないのであります。むしろ崩壊するか、あるいは
地方政権になるか、どちらかであろうというふうなことを申しております。この次に來るものとして、それは連立政権か、連合
政府というのが予想せられる。しかしこの連合
政府はもちろん
共産党が指導権を握るのであ
つて、ただお飾り的にいろいろの中立分子を並べ立てるであろうが、結局それは
共産党の指導する政権である。か
つてマーシヤル元帥が二年前中國において
國共妥協に努力した当時ならば、純粹の
意味の連合
政府、連立政権というのができたであろうけれども、今日ではもはやそういう形の連立政権というのは考えられない。か
ように言
つて、結局現在の
國民政府と
中共側の妥協という
ようなことは見込みがないという
意味を述べております。さらに
中共の
政策といたしまして、
共産党は常に公言しておるがごとく、結局マルキシズムを信奉し、またマルクス主義的な社会を実現し
ようというのが、彼らが日ごろから口に唱えておるところであ
つて、
アメリカの一部で行われておる
ような、
共産党は單なる農業改革者であるというふうなものとは違うということを言
つておるのであります。さらに
中共が今後とるであろう
政策について、対内
政策と対外
政策とにわけて、対内
政策については、
中共側は中國の工業技術というものは非常に遅れておる。また余剩資本というものもほとんど欠いておる。か
ようなきわめて工業化の
程度の低い國であるので、ただちに共産化をやるという
ようなことはできないということを中
國共産党はよく知
つておるので、おそらくはさ
ような純粹の共産主義的
政策をとるに至るまでは、まだ数段の過渡期を経ることになるだろう。この過渡期においてはかなり高度の私有財産制というものや、個人企業制というものを認めて行くであろうし、また政治的には代議的民主政治という
ようなものもつく
つて行くであろう、か
ようにペツフアー教授は言
つておるのであります。対外
政策については、これは最近のユーゴスラビアのチトー問題と関連いたしまして、このチトーの問題というのは、中
國共産党と関連していろいろな
意味において興味があるという
ようなことを
説明いたしまして、まず中
國人というのは、ユーゴスラビア人がスラブ族に対して感ずる
ような血統的な近しさというふうなものを、中
國人はロシヤ人に対しては持
つておらない。のみならず中
國人は、一般的に言
つて本能的に白人というものに対して猜疑心を持
つておる、か
ような民族であるということ。さらに中國の
共産党というのは、過去ほとんど三十年間にわた
つて独自の歩み方をや
つて來た、きわめて自主性の強い
共産党である。こう言うのであります。それから第三点として、中國において
共産党が成功するためには、國内の工業化ということが必要である。そうして中國における工業化を実現するためには、どうしても海外から資本財を獲得して來なければいけない。これはクレジツトによ
つて資本財というものを手に入れなければ、中國の工業化ということはできない。か
ようなクレジツトによ
つて資本財を供給し得るのは、結局米國以外にない。そうするならば、結局米國の
援助がなければ工業化はできず、工業化ができなければ
共産党は成功しない、か
ようなことも考えられる。さ
ような
意味において中國の
共産党はあまりにロシヤに接近をして、そうして米國側と疎遠になるというふうなことはしないかもしれない、こういういろいろなことが考えられるのであるけれども、しかしこういういろいろな事実があるにかかわらず、最近の中
國共産党の過去二箇年の動きというものを見ておると、結局米ソ関係というものを如実に反映して來ておる。こういう
ような
意味において、米ソの関係が今後対立惡化するという
ようなときには、中
國共産党は当然にソ連側に属することになるだろう、か
ようなことを言
つておるのであります。最後に米國のとるべき方法として、ともかくも中國の
共産党が今後かりに米國との関係を断つという
ような場合を考えてみましても、さ
ような場合には國内の工業化なり、あるいは行政機構の整備なり、あるいは一般の組織化という
ような点に多年を要するのであ
つて、その間には米ソの今日の
ような対立ということもどう動くか、これは予測がつかないので、場合によれば、米ソの両方の妥協によ
つて、中國問題等についても新たな解決の方法があるということも考えられるかもしれない、かりにそれが考えられない
ようなことが起るとしても、ともかく米國としては、その際における行動の自由というものを保留しておくのが賢明な方法だ、か
ように言
つて、米國が今後中國に対してとるべき道は三つある、一つは現在の
援助を継続することだ、しかしこれはきわめて無
意味なことで、ただいたずらに金をまきちらすだけだ。第二には強力な干渉を行
つて、中國をテーク・オーバーするということだ。第三は全然放任して手を離すということだ。これら三つにはいろいろの危險がそれぞれ伴うのだけれども、いろいろ考慮して見るならば、結局放任をして、そうして米國側としては行動の自由をこの際保留すべきだ、か
ような結論を出しておるのであります。この結論は別といたしまして、このペツフアーの論文は、中國の將來のいろいろの問題について、いろいろな
意味において示唆に富んでおる
ように思いますので、ちよつと御紹介を申し上げたわけであります。
以上をもちまして私の
説明を終らしていただきたいと思います。