○莊野證人 特に
日野原氏が取締役に
就任しましたのは、
日野原氏の前
社長長澤氏から私聞いた話であります。私が水素の重役に
なつたときには、
日野原氏はもうすでに重役でありました。二十年の五月だと思いますが、
日野原氏が重役にな
つておる。私よりは半年か一年前に重役にな
つております。その事情はこういうふうに聞いております。前に戦争のためにメタノールに硫安がかわりましたとき、メタノールをやるということは肥料に
関係がないのではないか、肥料に
関係がないのならば、肥料の
会社である日本肥料が何も半分以上の株を持
つておる必要がない。だからその株を放出してしまえということが
昭和十何年かにあ
つた。
從つてその当時の長澤
社長も退陣すべしというので、これはその当時海軍省――これには興業銀行も一枚加わ
つてお
つたと聞いておりますが、海軍省や興業銀行その他の台湾化学、台拓化学という
会社がありましたが、それらの
会社をしてかわらしめたらよいだろうというので長澤
社長の退陣が
問題に
なつたことがあります。そのときに長澤氏の祕書をしておりまして、長澤氏が非常に信用してお
つた志摩英一という人があるのです。その志摩英一君が
社長の秘書として非常に心配をいたして、家へ帰
つて、たまたま志摩君の義兄である
日野原氏に、こういうことで今
会社が
問題にな
つておる、
社長の身辺はおかしいのだという話をしたら、
日野原氏がそれは氣の毒だ、自分は興業銀行に
知つた人もあるから、そういうむちやなことをさせないようにおれが骨を折ろうとこう言
つて、先生がその志摩という祕書を通じて長澤
社長に会
つたのであります。そうして長澤
社長もその好意を大いに多として、しからば一骨折ろう、そんなむちやなことをさせぬようにしよう、こういう話であ
つたので、ただ普通ではやりにくいだろう、うちの重役にしようというので重役にしたのだ、こう聞きました。但し結果は
日野原氏の何らの霊力というのでなく、その当時の農林次官であ
つたか大臣であ
つたか井野碵哉氏や重政氏が海軍省と話合
つて、そういうことをしなくて済んだ。何もメタノールをや
つておるからとい
つて日本肥料が株を持つことはないじやないかということで話が解決して、結局においては
日野原氏の何らの盡力を得なか
つたが、霊力を得た目的も加わ
つて取締役にしたのだ、こういう話であります。私はその当時は全然局外の人間でありましたから存じません。こういうことでありました。それから日本肥料が戰後にな
つて株を持
つてお
つても何だから、これはいいかげんに放したらどうかということを勧められておるために、株を放す氣に
なつお
つた。たまたま
日野原氏にや
つてくれという話が興銀の側から日本肥料へ出た。それで賣る氣にな
つてお
つたので、
日野原氏だからやらないということもできないから、これを
日野原氏に護ることにしたというのが、
日野原氏が
社長に
就任された後に、重政
理事長から株を賣り渡した申し開きとして私にそういう話がありました。そういうふうに思
つております。また
日野原氏の前
社長である長澤氏は、自分ももういつまでも
社長でもあるまい。いつか後継者を求めて自分は退陣したいと思
つておる。だからまあ今度は若い人でもあるし、自分より元素もあるから、
日野原氏は自分の後継者として適当な人間と自分は考える、こういうことに
なつたからという説明が私にありました。