○
專門調査員(
柴田義彦君) では、これから
東宝爭議に関する
調査の前回の続きを御報告申上げることにいたします。前回には、
東宝の
労働運動史ともいうべき、
東宝の
会社側と
労働組合側との関係の沿革を申上げ、次いで
東宝株式会社の現在までの沿革、
事業内容等について御説明申上げました後、本論に入りまして、先ず、
会社側の
主張、見解を御報告申上げたのでございます。本日はその続きとして、日映
演労働組合側の
主張、見解を申上げまして、最後に第二
組合たる全映
演労働組合の
主張を申上げたいと存じます。
先ず最初に日映
演労働組合側の
主張、見解を申上げます。これから私が申上げますことは、
労働組合側の言い分でありまして、私の意見ではございませんから、念のために申添えて置きます。
東宝は果して首を切らなければ、
赤字克服は不可能であろうか。日映演は世のすべての人々に眞の実情を訴へ、公正にして妥当なる判断を仰ぐために、馘首問題、
経営の立て直し問題が
東宝の内部において、解決することができる問題であること、又そうすべきであることを御説明申上げたいと存じます。
組合の
分裂が、
経営不振の
理由となり得るか。
会社側がいうように、
組合が
一つあるために、
中央経営協議会が八十数回に及んだので、
経営本來の業務に專念することができなか
つたことが、
赤字の
原因であるというならば、それは余りにも
経営者の無能を暴露することになります。
経営協議会を開くことは、
経営本來の業務であります。
経営の円滑は、
経営協議会において初めて得られるのでありまして、
一つの
組合を操ることは、世界中の
資本家の最も好むところであります。
組合が
分裂していなか
つたならば、今回のような大胆な
首切りは
会社が絶対に考えなか
つたことでありまして、
組合の
分裂によ
つて、
配置轉換も困難となり、不
生産的な
人員の増加、能率が低下したことは認めるが、それは一昨年の秋のストライキを切りますために、多額の金を投じて
組合の
分裂工作に成功した
会社の
責任そのものであります。
会社は
團体協約を去る三月三十一日を以て無効と稱したその夜、
演劇從業員組合を作らせ、かねて準備したところの
クローズドシヨツプの
團体協約を翌朝までに調印を終るという、鮮やかな手並みを見せて、又
一つ組合をふやして置きながら、一方で
組合の併存が
経営を困難にしたなどというのは、余りにも得手勝手であります。
組合の
分裂によりまして、
却つて会社が莫大なる利益を得ているのであります。昨年を通じて、
賃金が
組合間で相互に牽制し
合つて、低いところに落ちついて
しまつたのであります。
新
東宝が
会社と示し合せて、第三
組合を
作つて、
分裂してから互いに、感情的に対立して結果、両方に激しい
競爭心がもえ上り、
作品の上で競爭し、新
東宝は量と
商業主義をねらい、
東宝は質と
文化的價値とをねら
つて、両者は懸命になり、漁夫の利を得ているのは
会社ばかりであります。
分裂の際に、
会社が
組合員の帰属について各自の放恣な行動に任せきりで、無爲無能に終始しました結果、
能力技術のアンバランスを生じたのは、
会社にと
つて痛手でありましたが、
責任は何ら手を施し得なか
つた会社にあるのであります。
又
会社は、
組合が
経営権の侵害をしばしばや
つたようにい
つているが、そういう事実は全然ないのであります。
中央経営協議会にかけられた事項の主なるものは、
会社が発表しているように、第一に、給與の問題で、第二に、
組合との
クローズドシヨツプについての解釈問題でありました。これらは
会社の
経営権の問題ではなくして、第二の問題は、
会社が二つの
組合と二重契約をしたことから生じた
会社に
責任のある問題であります。
部別協定で人事問題が長時日を要したということは、
営業部門に特に多か
つたが、これは
会社の
利益代表達が、優柔不断であ
つて、
経営能力に欠けていたか、職場の
民主化が遲れていて、不明朗な人事が多か
つたのが
原因であります。
撮影所の
企画審議会で
組合の力が強過ぎたというけれども、出
來上つた作品の結果を見れば解るように、公開された十数本の
作品は、いずれも最後的には
会社が十分の
見通しを以て
製作を決定したものであ
つて、むしろ
会社の一方的の意思に、
組合が妥協した
作品も二、三に止まらないのであります。「女優」が多少の日数と費用とを要して、
收入が挙がらなか
つたことは認めるが、昨年度の
優秀映画第三位を得たこと、
営業部が封切の時期その他の賣り方を誤
つたという大きな事実を見逃がしてはならないし、
経営者側がよく
見通しを立て、失敗すると思えば、断乎中止すれば、
組合も
藝術家も無理にそれを押し切ろうとは決して言わないのであります。
先ず
赤字の
原因はいずこにあるか。
東宝の
経営不振の
原因は、
会社がい
つているように、
組合が
分裂してるいためではなく、むしろその逆であるのであります。又
組合が
経営権を侵害したことは
理由にはならないし、又
経営の採算を無視して
組合が過大なる要求をしたからだというのも全く
理由にはならない。何故ならが
組合が
経営の
内容を知らされているわけでもなく、生活を守るための
賃金を要求するのは当然のことであ
つて、賃上げを要求しない
組合などは存在しないのであります。又
赤字の最大の
原因をなすものが、第一
撮影所であるというのも
会社の御都合主義なこじつけであります。
会社が発表しております第三十一期の
損益計算書によりますと、
赤字の根源が
演劇部門にあることを示しているのであります。そして
映画部門は殆んど
赤字にはならないのであります。
第三十一期
損益計算書
(自二二年八月 一 日)
(至二三年一月三十一日)
映画製作配給收入
益 四、六五五、九七九円
映画興行收入
損 六、九六六、九〇〇円
演劇收入 損一五、二三七、七四一円
合 計 一二、五五四、二四六円
右の数字は、所謂公正のものでありまして、実際には、
映画製作配給部門の損
四〇、一〇五、一八一円
映画興行部門の損
一五、七〇〇、八七一円
演劇部門の損
二二、三七三、三一三円
合算損 七八、一七九、九六六円
この方が本当だそうであります。
会社が所謂公的なものと、実際とを使い分けたのは、
赤字を千二百万円くらいにしておかないと、増資するのに具合が惡るか
つたのでありませう。数字などというものは、どんなにでもごまかしのきくものであるということが、これによ
つて暴露されているのである。八千万円の
赤字を千二百万円と発表することも出來るという実例であります。この七千八百万円の
赤字も同期の
東京会館も二千五百万円という馬鹿々々しい安い値で賣
つておるのであります。
東京マンシヨンを千五百万円で賣
つたものらしい雜
收入の二千八百万円を差し引けば、四千万円が実際の
不足分となるのであります。これで見ますと、
演劇は、昨年の
下半期に毎月四百万円近い
赤字を出したことになるのでありまして、又今年の二月、三月にな
つても同じ状態を続けており、
演劇部門の
赤字は、一昨年以來、恒久的なものであります。
又昨年の
上半期即ち第三十期における約千万円の
赤字は、殆んど金額が
演劇部門によ
つて生じたものでありまして、
東宝企業の中で、
赤字の根源をなすものは
演劇部門であるということは、これによ
つて明らかなことである。
東宝今日の不振がすべて
映画部門にあるかのごとき宣傳をしているとしたならば、正当な判断を下すのに甚だしい誤りを犯すことになるのであります。
映画部門も亦昨年
下判期以來の不振であ
つて、
赤字の
原因をなしていることは事実であるけれども、これが本年三月から徐々に回復しつつあるのであります。即ち與行はすでに三十万円の
黒字を出し、
配給は、二月に比べて千二百万円という多額の
増收を見せているのであります。これに反して、
演劇部門は三月も四百万円に近い
赤字であります。
要するに、
映画部門は、四月以降は、
赤字を脱却する
見通しが十分にあるのでありまして、かかるときに、
会社の強引な
休業宣言によ
つて製作が中止されてお
つて、後援続かずの憂いがあるのは誠に残念なことであります。
次に、
会社は、第一
撮影所のみが
赤字の
原因をなしているように宣傳し、
從つて首切りも第一
撮影所を第一番に行うとする不当の事実について説明することにいたします。
本年二月、三月の
損益表を見ますると、
二月 三月
製作配給
一一、一六六、一〇八損 五、七八二、二四六損
興行 一、六六〇、六五七損 二八九、○一五益
演劇 二、三〇二、四三三損 三、八四三、二三〇損
合計 一五、一二九、一九九損 九、三三六、四六〇損
即ち
製作配給部門は、二月に千万円、三月に約六百万円の
赤字を出しているが、これも新
東宝と
東宝の両方の
作品を
配給部門がセールした結果、三者で出した
赤字でありますから、決して第一
撮影所のみが出したものではないのであります。
ここで新
東宝のことに若干ふれる必要があります。一月から三月にかけての番組は、新
東宝が主に受持
つておりますが、一月の「
馬車物語」、「誰れがために金はある」、二月の「大学の門」、三月の「あの夢この歌」等の
作品は
内容的にも、
興行的にも実に惨澹たるものの連続であ
つた。これらの
作品は、いずれも、
上映收入が
製作原價をはるかに下廻るものでありまして一月から三月の
映画部門の
赤字は、新
東宝の独立するところとな
つているとい
つても過言ではないのであります。新
東宝が
企業分割によ
つて完全独立していなか
つたことが、幸いであ
つたと言はなければなりません。でなか
つたならば、新
東宝は今頃破産しているでせう。
他方において、一月から二月にかけて、第一
東宝が
封切つた作品は、「春の饗宴」、「第二の人生」、「
タヌキ紳士登場」の三本でありますが、いずれも予想以上の好成績を
收めているのでありまして、又
内容的にも到る
処好評を博しているのであります。又この二
作品の原價が格別に安か
つたということも注目すべきことであります。
第一
撮影所の最近の大作であります「面影」や、「我が愛は山の彼方に」の
製作原價が二千万円を起えるということを、
会社はとり立てて宣傳し、第一
撮影所が
赤字の元組であるような裏附けをしようとしているが、この
作品は、いずれも一年近くかか
つて完成したものでありまして、途中他の
作品の進行上の都合で、幾度も足踏みをさせられたもので、その間に、例えば「春の饗宴」、「第二の二生」、「醉いどれ天使」等の軽いものがあとで立てられ、先に完成しているのであります。日数が長ければ、
間接費もかさむし、諸雜費も多くなることは止むを得ないのであります。
作品にいくらかけるかは、すべて
経営者の
責任においてなされるものでありまして、この両
作品の場合も、
会社が承知の上で政策上又は無能によ
つて製作日数が延ばされたので、
責任の帰結は
会社にあるのであります。一方を安くあげるために、他方を犠牲にする場合もあり得るのでありまして、全体として見ないで、部分的に例をと
つて全体を律しようとすることは間違いの基であります。
以上で大体
赤字の
原因が、第一
撮影所だけにあるのではないことを説明したのであります。即ち、第一に、
演劇部門が
赤字の根源であること、
映画部門では、
興行、
配給、
製作(
東宝、新
東宝)の各部に
原因はあるが、これは徐々に克服されつつあるということである。それから新
東宝と第一
撮影所とは、別
会社と考えるので誤りで、
東宝株式会社内の
一つの
製作部門と考えることが至当でありまして、両方の
作品を
組合わせて、
会社は商賣をしているのでありますが、その取扱はできるだけ切り離して行をうとしているのが
会社のずるい良であります。
又新東宝が
完全独立を急いでいることを利用して、
企業の
分割を合理化しようとしていることと、新
東宝の独立もこの
分割のときに同時にしようと
会社が企図していることを附加えたいと思います。然らば
赤字の
責任は誰にあるか。
経営危機の前兆は、
会社側もい
つておるがごとく、昨年の
上半期の頃から現われ出したのであります。経費の面で安價な材料のストツクも使い果し、旧
作品の再版も大
部分種が盡き始めましたので、
インフレ上の高價な
原材料で、強力なる新
作品を多く作らねばならなくな
つたときに、危機がそろそろ始ま
つたのであります。その上に
物價統制によりまして、
入場料は常に
インフレに漏れてあげられ、加うるに高率の
入場税が
経営を致命的にしたのであります。その他無計画な
雇入れと八百名以上の
復員者の
職場復帰で、
從業員も数も殖え、
賃金も上昇しましたことが
経営を困難にしたことは事実でありますが、
経営者としては、早くこのことを知
つて具体的な手段を講ずべきであ
つたのであります。
会社は具体的な方策を詳細に示して
利益代表を通じて実行に移すべきであ
つたのであります。ところが、
経営の主
脳者達は全く無爲無策で見送り、今にな
つて、
組合が
分裂したためにひまをとられたとか、
労働攻勢が強過ぎて
賃金を取り過ぎたとか、
組合員が
製作費を多くかけすぎたとか、贅沢すぎるとか、又は能率が悪いとか、
経営権を侵害したとか、と、
理由にもならない些細な事柄を並べて、自分の無能を
責任を
労働省に轉嫁して、そのあげくには
人員整理という最も拙い、人道を無視した方法を採
つたのであります。
人員が松竹に比べて多いことは、事実であるが、そのことが冗員であるということではない。
東宝企業では
経営が割合に近代化されていて、合理的な
人員の配置がなされていたこと、
製作部門では、
教育映画、戰時中の
航空資料、特殊技術等多面的であ
つた上に、
製作工程が専門化され、高度化されていることの証拠であ
つて、決して不必要な
人員がいるということではない。又そのために
東宝は今日の大をなしたのでありまして、質的にもすぐれた
作品を作り得る基礎とな
つているのであります。支も現在尚
人員不足の現場が少なからずあるのであります。
興行部門では、
年次休暇は勿論
生理休暇も思うように取れず、又本社では
株式課などは年中
労働強化をしており、
撮影所の
スクリプター進行部が
人員不足に悩んでいるし、
現像場、大道具、
照明等も
人員は不十分であります。
会社は昨年九月に
経済白書を出して警告しておいたと、今頃にな
つていい出しているが、
祕密書類みたいにして、一部の
組合員には示されたが、全
組合員の注意を喚起するような運動として叫ばれるどころか、自信なげに、ちらりとのぞかせた程度であ
つた。
経済白書も出したきりでは何にもならない。具体的な積極的な対策は殆んど講ぜられてはいないのであります。むしろ
会社は
生産をサボリ、二つのステージを物置にしたまま放置し、
自家発電裝置のごとき、その設置を約束しながら、今尚手をつけていないのであります。
いわゆる第二
組合の
セールスマンを主とする一群のものが、昨年の八月に
会社危機の警鐘を鳴らしたといいますが、彼らも亦どのような方策を具体的に持
つていたでありませうか。第一
撮影所の
あり方を云々する声は聞いたが、
演劇の
あり方を放置し、新
東宝に対して、むやみに媚態をつくるだけが彼らのなし得たすべてではなか
つたでせうか。ここにどうしても不思議でならない
一つの事実がある。「戰爭と平和」は統計に入れられた
観客数だけでも、七百万人になんなんとし、
終戰後のあらゆる
映画を通じて、最高に
観客動員の利いた
作品であります。それにも拘わらず、
收支は償わないと
会社はい
つているのであります。七百万人と謂えば
標準作品の二倍の
観客数であるのでありまして、これと殆んど同数まで
行つた「
大江戸の鬼」が原價の二倍以上の
上映收入を挙げて、
大当りだ
つたというのです。統計には加算されない特別な公開の場合の多い「戰爭と平和」が
観客数において、「
大江戸の鬼」をしのぐとは、誰しも疑う余地がないのであります。それなのに、一方は
大当りで、他方は
收支償わないという不可思議な現象は、何故起
つたのでありませうか。
セールスマン達の商賣の仕方を疑わないわけにはいかないのであります。故意か、さもなければ恐ろしい
時代的感覺のズレであるといわねばなりません。このような人達にちやほやされながら、旧観念の中に惰眠をむさぼり、観客を甘く見くび
つた結果が、今日の新
東宝の失態とな
つたのであります。そうした彼等を無暗に甘やかし、徒らに思い上らせた、もう
一つ後にいた張本人は、それこそ今日の
東宝を不振に陷れた
会社に外ならないのであります。こんなところにも
会社の負うべき大きな
赤字の
責任が隱されているのであります。
又
会社は常に、原則として
撮影所の
製作原價が
上映收入に対して五〇%でなければならないとい
つております。然るに昨年の
下半期について見ますと、
月平均上映收入 四、七七四万円
月平均作品原價 三、七七三万円
この比率は八〇%に達するというのであります。
成る程その通りに違いないのでありますが、それだけのことが分
つていたならば、何故にそのようにしなか
つたのか。それこそ
経営権を持
つている
経営者の第一番になすべき義務であり
責任であります。
製作原價について、どの面でいくら切り詰めるか、
作品の長さを何フイートにするか等の具体的な指示は、
会社がなすべき最も大切な仕事でありまして、それを若し
組合にやれというのであるならば、
経営者は不用とな
つてしまうのであります。
製作原價と
上映收入の比率の原則などというものは、
会社が
自己反省の材料として、みずからを改めて行けばよいのでありまして、外部に対して自分が犯した過誤を説明する必要はないのであります。
会社は、
組合が言うことを聽かないと言
つておりますが、具体的に示さないでは聽こうにも聽きようがないのでありまして、又
從業員は浪費が甚だしいとか、贅沢だとか、今頃にな
つて難くせを付けて見ても、それは愚痴にしか過ぎないのであります。
浪費問題に関しましては、特に問題になる
撮影所の場合について言うと、それは今まで
撮影所の仕事が夜間の時間外の
労働や
ロケーシヨンの過激な
労働が多か
つたので、
労働者を
金錢又は物でごまかす習慣がありまして、そうすることが
差引勘定から言
つて莫大な利益があ
つたので、
会社はこの手を用いて來たのであります。もともと
会社の政策から生れたことであります。今日の食糧難のもとでは、時間
外労働によ
つて消耗したカロリーを補うためには、時間
外賃金をいくら
貰つても引合わないのであります。それも或る程度まで引くと税金にな
つてしまうのでありまして、我々の出した今度の二十八本計画とは、そうした雜給與さえ、或る程度に切り下げるとともに、過激な
労働である
ロケーシヨンの場合の
出張人員を減らすことまでを含めた案なのであります。
それから高價な煙草を吸うとか、酒を飲んでばかりいるというようなことまでを、今度の重役はでかでかしく問題にしておるが、
高給者の一部にそれ位のことがあるかも知れない。併し
東宝の
一流監督といわれる人で自分の家に住んでいるものが三人もおらないのであります。
会社はその程度の待遇しか與えておらないのであります。こん
なつまらないことを問題にする暇があるならば、
演劇部の
部長あたりがや
つている
私利私腹をこやす大がかりな不
正行爲でも調べて貰いたい。或いは本社の
上役達の
個人傳票で出される使途不明の会の見張りでもしていて貰いたいのであります。
併し問題はもつと大きいところにあるのであ
つて、
経営者が最も留意すべきことは、どんなものをいくらでどれだけ作るかということにあるのであります。前に述べましたように、
経営上の困難は、昨年七月頃に始ま
つたところの
原材料や税の問題にあるので、これに対処して
生産と営業との一貫した方策を立てるために優れた
経営能力を発揮することこそ、我々は切望するのでありまして、
産業そのものの衰弱を意味する
企業の
分割や、その他の
人員整理は絶対に反対するものでありまして、
企業の
分割や
人員整理なら誰でも出來るが、今日の
東宝は決してそれを必要とするような状態にな
つておらないし、又社会もかかる暴挙を許さないでありませう。
東宝の今日の不振は、昨年七月以降の方針において、
経営者がやりそこな
つたという一語につきるのでありまして、
組合はそのために迷惑を被
つていこそすれ、
責任はない。松竹、大映にしても、この期間の
対処方針が誤
つていれば、
東宝と同じ結果にな
つていたに相違ないのであります。それだけのことであります。
東宝の
経営が、右に申上げました幾つかの誤ま
つた考え方を排除し、
経営本來の立場を見失わず、
組合とのよき
協力関係に立つならば、
人員整理のごとき
会社不安を起すことなく、十分に立ち直すことが可能であると信ずるものであります。
演劇部門が四月に、三年振りに
黒字にな
つたと報告した
渡辺社長の言葉が本当であるとしましたら、
映画部門は更に余裕綽々たる
黒字を生むに相違ないのでありまして、何のための
分割でありますか。又何のための
首切りでありますか。
又
東宝が、他社よりも
撮影の仕方が贅沢だという風評もあるが、
東宝從業員が
製作上のすべての面で
作品の質を高めるために、経済の許す
最大限度まで良心的なやり方をすることに対する一般の誤解から生じたものであります。
第に第三十二期の
計画生産プラン(昭和二十三年二月より四月まで)は、昨年十月より具体化され、
営業関係との打合せのもとに、「醉どれ天使」、「白い野獸」、「女の一生」、「じやこ万と鉄」、「青い山脈前後篇」等の
作品が着手されまして、すでに定められた予算と
製作日数のもとに進行しまして、
黒字経営の実体が証明されていることは
会社も認めているところであります。
会社は、この
計画生産はすでに遅すぎるというか、
映画製作の特殊な條件として、
最初プランが立てられてから、
作品が出來上るまでには、
企画準備、
脚本執筆、
撮影準備、
撮影、仕上等六ケ月の日時を要することはいずれに
会社でも同じことであります。
今度の
企業整備が、
赤字克服という
会社の
理由であるのに、
黒字経営の実体が上
つている現在、時期が遅すぎるというのは一体何故であるか。然も「面影」、「我が愛は山の彼方に」の
製作費が多過ぎるということが、いずれも第三十一期前期(昭和二十二年七月より九月まで)の
作品でありまして、
撮影にかか
つてから、
内容或いは大きさの変更ができないのが当然のことであります。
次に、第一
撮影所は果して
低能率であるか、
人員過剰であるか、について申上げることにいたします。
会社は第一
撮影所の
撮影能力が他社に比較して、三分の一以下であると宣傳しております。そしてそのことが、第一
撮影所の
人員整理を眞先にやる
理由であるというのであります。若しこれが事実だといたしますれば、誰しも
首切りに賛成しないものはないでありませう。
組合員だ
つて承認せざるを得ないでせう。然らば
一体会社側のいう
理由はどこにあるかと申ますと、
会社はそれを次の表によ
つて説明しているのであります。
会社別映画製作能率及び
製作比較表
撮影所名
東 宝 新
東宝 松竹 大映
(第一)
従業員数
一、二〇〇人 六〇〇人 一、○二〇人 一、○三〇人
製作本数
一三本 一六本 四二本 四二本又は四四本
一本
当り従業員数
一、二一人 四五一人 二九一人 二八二人
一本当り原價
一、〇〇○万円 七五〇万円 六〇〇万円 五〇〇万円
右の表が如何に誤
つた数字であるかをここに説明して見ませう。先ず
製作本数でありますが、実際の
封切日を追
つて数えて見ますると、昨年の一月から十二末までに、
東宝第一の出した本数は、十四本、新
東宝が十三本、松竹が三十三本、大映が三十三本であります。これだけはどんなことがあ
つても間違いはないのであります。
会社は全部嘘を発表しているのであります。これほど明白な事実についてさえ、自部の都合のいいように虚僞の発表をするとなると、
会社が出している統計表などは、全く信頼が置けなくなるのであります。期間の区切り方によ
つて、
作品の多く出る月とか少い月とがあ
つて、一本や二本のズレが出てくることはいたし方がないとしても、この表は余りにもひど過ぎるのであります。而もその本数に基いて一本当りの
從業員数を割り出して見せるなどに至
つては、悪意を通り越して邪気も甚だしいのであります。
映画製作において、一本当り
從業員数とい
つた無意味な統計を作
つた経営者は、世界廣しと誰も
渡辺社長を以て嚆矢とするのであります。
松竹、大映の本数は、東西の
撮影所を併せたものであ
つて、松竹は大船で十九本、下加茂で十四本作
つた。大映は東西が約半分ずつでありませう。
東宝の場合も両
撮影所を
一つに考えて、
東宝企業内の
製作部門と見るのが正しい考え方であるのに、
会社は故意に別々に取扱
つているのであります。今正当な考え方に基いて比較して見ますると、
東宝二十七に対して、松竹、大映三十三ということにな
つて、
東宝の方がいくらか少いということになるのであります。これは去年一年だけのことではなくて、毎年
東宝の
製作本数は他の二社よりも少いのであります。その点が
東宝の長所であり、永年の
製作方針であり、日本
映画の革新を希う先駆的な傳統的政策でもあるのであります。
東宝は單實制度(フリー・ブッキング)を根本方針として他社の全プロ制(ブロック・ブッキングと呼ばれ、五〇〇なり六〇〇なりの
映画館に対して年五十二週を自社品で保証する。各館主はみずてんでこれと契約を取り交す制度)に対して鎬をけず
つて來たのであります。
東宝は一本一本で勝負をしようとするから、
作品の質を重んじて、本数は問題になるとしても、松竹、大映ほどではなか
つたのであります。松竹、大映の
作品の長さの平均は七千フイート弱であるのに対して、
東宝の平均は八千フイートであります。量だけについて考えて見ましても、二十七本で二万七千フイートだけ長いことにな
つて、松竹、大映の四本分に当るのであります。して見ますると、三社は
製作能率において大差はないということになるのであります。
そもそも
映画は本数だけを問題にするのは愚の骨頂であ
つて、米國では同じ一本でも五十万ドル
映画から五百万ドル
映画の中がありまして、四時間の上映時間を要する「風と共に去りぬ」と、最近日本へ來ているプログラム。ピクチユアとを同じ一本と考えることの愚かさは、誰にでも理解されることと信じます。
上映收入について見ましても、松竹、大映が三十三本
製作して得た金額と、
東宝が二十七本で得た金額とを比較して見ますと、
東宝が何%多い。これを見ましても、本数だけを問題にすることが如何に馬鹿げているかが分るのであります。本数を多くすれば、それだけ金もかかる。そこでどんなものをどれだけ作るかということが
経営上の最も重要な問題とな
つてくるのであります。
渡辺社長を初めとする新重役には、残念ながらこのようなことが全然理解出來ないのであります。
最後に、最も重大なる問題として第一
東宝と新
東宝とを切り離して比較することの不当なることは前に申述べた通りでありますが、
会社は別の目的でこの表を作成していますので、この欺瞞を暴露する必要があるのであります。
会社が出しました比較表によりますと、
從業員は第一
東宝が二倍で、
作品は三本少いことにな
つているのでありますが、これでは誰が見ましても、第一
東宝が
低能率のそしりを免れられないのであります。ところが、事実は宝くこれと正反対でありまして、先ず本数から見ますと、
東宝が十四本を封切り、新
東宝作品は十三本しか封切られない。而もこの十三本の中にはいくつかの旧
作品のいい場面をぬいてきて、若干の
撮影を加えて、一本作り上げた「
東宝千一夜」という安易
作品も混じ
つているのであります。平均一本のフイート数を見ますと、第一
東宝が八千五百フイート、新
東宝が七千五百フィートでありますから、十四本について一万四千フイート多いことになりまして、新
東宝作品の二本分に当りますから、
会社の前の表の十六対十三は、第一
東宝と新
東宝の欄を間違えたのでありませう。
又
撮影能率について考えて見ますると、監督によ
つて差はありますが、松竹、大映、
東宝共に平均一時間一・五カツトに達しない程度でありまして、能率上の大差はありません。
東宝作品には、九千フイートから、一万フイートのものが多く、カツト数においても、八百から九百カツトのものが多か
つたのであります。他社の
作品では、平均五、六百カツトというところで、
労働時間について見ましても、一本の
作品が二百時間以上の
労働力をより多く含んでいることになります。渡邊社長等はこのようなことも全然分らないのであります。
次に、比較表によりますと、
從業員数は第一
東宝が新
東宝の二倍ということにな
つております。新
東宝の六百人の中には、大道具は一人も含まれていない。その他、正式入社を
会社が押えていつまでも臨時雇で使用している
人員が大道具を含めて二百名程あ
つて、
会社との間に目下紛爭を起しているのであります。新
東宝の
從業員は実際には約八百五十名おるのであります。第一
東宝は千百四十名でありますが、この中どこの
撮影所にもない部門として、
教育映画と、動画部門の約五十名、技術研究所の五十五名があります。それから新
東宝には、現像部門や最後の仕上のとき音樂を入れる設備がないから、第一
東宝と共通に使
つている。その他特殊技術、合成、資料
調査、フイルムライポラリーの部門が第一
東宝にだけあ
つて、必要に應じ新
東宝もこれを利用する。こうした共通の作業をする
人員も百名以上第一
東宝の
人員の中に含まれている。純粹に
人員を比較すれば、九百対八百五十というところでありませう。これを二倍だと宣傳する
会社の悪意は何と形容したらよいか分らないのであります。
会社が発表した比較表が、以上述べたような悪意と虚僞とに満ちているということは重大問題であります。而も
会社はこの表を以て、第一
撮影所の大量
首切りの有力なる
理由としている以上、その欺瞞性が明瞭とな
つた今日、
首切りの魂胆は全面的にぐらつき、一先ず、撤回せざるを得ないということは誰も否定することのできない事実とな
つたのであります。
会社が
製作部門の
組合分裂を利用して、漁夫の利を占めていたことを隠蔽して、
低能率を喧傳する惡辣なやり方は、見逃すことのできないことであります。両者の猛烈なる
競爭心によ
つてカバーされなか
つたならば、
分裂による技術上のアンバランスは、これほど速かに克服することはできなか
つたであろうし、他社との競爭で劣らぬ成績を
收めることもできなか
つたでありませう。両
撮影所が技術的アンバランスを克服するために、若干の新規採用を余儀なくされ、そのための
人員の増加があ
つたとしても、これは全く
会社の負うべき
責任であります。又
人員の過剩を問題にするならば、新
東宝も同時に同じ取扱いをするのが当然であるのに、
会社は新
東宝には一指も触れず、そつとしておいて、第一
東宝だけを問題にするということは、
組合に対する差別待遇の歴然たる証拠と言わなければならないのであります。
次に、
会社の
労働組合法第十一條違反の事実に関しまして申上げることにいたします。
会社は速やかに
赤字を克服し、
経営を立て直すために、全般的に、全映演、日映演、
演劇從組等の区別なく、
人員の整理も行うものであると公言しているのであります。併し実際には、組資別の露骨な差別的取扱いをや
つているのでありまして、新
東宝については、前述の通りの甘やかし振りであり、その結果が最近の恐るべき
経営上の失敗とな
つて現われたのであります。
又新東宝の場合に、
経営が
民主化に程遠く、
組合が非常に遲れている結果、必要以上に甘やかされた一部権力者の浪費となり、專横となり、そのために
製作費が不必要な面に使われ、質的には作家の創作態度が安易となりまして、微温的な現実ばなれのした
作品しか生れてこない結果とな
つているのであります。
会社が眞に
赤字克服だけを目的として、
企業の全般に亘
つて人員の整理をしようとするならば、第一
東宝と比べて
人員的に大差なく、能率的にはむしろ劣
つている新
東宝には手を触れず、第一
東宝のみ二百七十名の馘首を無理押しに断行せんとするところに矛盾があ
つて、これは明らかに
会社が
組合別の差別的取扱いをしようとしているのであります。
会社は新
東宝が独立
会社であるという言い逃れをしているが、資本的に百%
東宝の一部であ
つて、独立とは名目のみのことであります。
会社は又第一
東宝が近く分離独立せねばならない。そのために今の内に
人員の整理をやるのだといいますが、新
東宝はより近く独立する筈でありますから、第一
東宝に先んじて
人員の整理をして置かなくてよろしいのでせうか、この点が不可解であります。
次に
演劇部門については、一層明らかな日映演
組合員であるがために被
つている不利益の証拠が歴然とあるのであります。
演劇部門は
会社もい
つておりますように、
終戰後五千万円の
赤字を出しましたが、
映画部門は昨年
下半期と、今年二月、三月に初めて
赤字を出したのみであります。金額にいたしますと、
製作配給と
興行とを合せて七千万円でありまして、
興行は三月すでに
黒字を回復し、
製作配給部門も四月、五月には相当な
黒字を回復する筈でありますから、
映画部門の
赤字は昨年八月から今年三月までの一時的な現象であります。
又現在市場に流れつつある十数本の
作品が稼ぎ出すところの
上映收入が約七千万円と見込まれるのでありますが、損益計算の中には、これらの
作品の原價は支出として入れられているが、当然入
つてくる未
收入の方は計算されていないのであります。又本年度においても、昨年度の
作品を再プリントしていわゆる新版ものとして少くとも十本は上映さらることになるでせう。その場合にそれらの
作品は、
製作原價が零でありますから、プリント費、
配給費、本社費等を除きましても、
上映收入において八千万円以上の純利益を生み出すことができるのであります。
このように
演劇部門の
赤字は、正眞正銘のものでありますが、
映画部門の
赤字は、多くの含みを持
つたものであります。
映画部門は
経営上馘首などしなくても十分に希望の持てるものであることは明らかなことであります。
演劇部門を完全雇傭で如何にして成立させて行くかは、我々の今後の課題であるが、
会社の言うように
人員の整理を仮に行うとすれば、採算のとれる
映画部門に手を著ける前に、先ず
演劇部門について実行し、何ケ月かや
つて見た上で、尚且つ
経営がうまく行かなか
つたならば、その時に初めて
映画部門に手を著けるのが至当であると考えるのであります。
昨年度渡邊社長が
東宝に來てから、保証附きの
赤字であるこの部門を放置していたばかりか、現在も尚手を著けておらないのであります。
会社みずからが「
演劇部における人件費は、他部門それと違
つて、
経営費の主体とな
つていて、これを抑制しなければ
收支のバランスは望めない。」と公言しながら、そのままにしておる点に重役陣の正体が見えるとともに、
組合を御用化し、御用化しておらない
組合から先きに首を切ろうとする意図があることも分るのであります。新重役達は、逆に
從業員のボスと結託して、再建同志会を作らせ、去る三月三十一日映演との交渉が一應決裂したのに乘じて、無協約にな
つたと稱して、ボス達と示し合わせて、クーデターを行わせたのであります。彼らは直ちに日映演を脱退、
演劇從組を結成し、翌朝
会社と僅か三時間で
團体協約を締結したのであります。而もこの
團体協約では、
演劇で働くものはすべて演從の
組合員でなければならないという、クローズド・シヨツプを
会社側の申出でによ
つて結んだのであります。演從の
組合規約には、
組合加盟者に対する資格審査の機関を設けて、共産党員その他
会社に都合の悪い者は加入させない。日劇ダンシングチームや音樂團は、
会社が短期の契約に切り替えたり、好ましからざる者を自由に契約破棄をするために、
組合に席があ
つては邪魔であるとい
つて、審査委員会はそれらが全体として演從に入ることを拒否したのであります。
ダンジングチームでは五人の
組合員の
組合活動のために首にな
つたのであります。残りの全員には、
会社の用紙で、予め用意された人名簿に拇印の捺印を強制的に求め、課長自身が脱退声明書を添付して、無理やりに日映演を脱退させて
しまつたのであります。一般
從業員で演從に入らなか
つた者、即ち日映演に残
つているもの二十数名は一名を残して全部馘首を発表されたのであります。又演從の審査員に
組合加入を申入れて、拒否された者が日映演に復帰したが、その途端に馘首を発表されたという事実があります。日映演の
組合員であるということの
理由で不利益を被
つた事実は、
演劇部門で行われた以上の経過を見れば、何人も否定することのできないことであります。この事実は日本のあらゆる
組合運動における十一條違反の中でも最も顯著な事例となるでせう。
次に本社で、最近課長に任命された者が四名あ
つた。この四名に対して
会社は早速日映演を脱退して
会社側從業員になることを要求しましたが、その中の二名は
組合に留ま
つたのであります。すると
会社はこの二名から課長の椅子を奪
つてしまつたのであります。ところが他方において
演劇從組では反対のことが行われているのでありまして、日映演から脱退するためにクーデターを
行つたものは、演從結成とともに、その役員に收まり、功によ
つて課長にな
つたのであります。併し
会社は彼らに
会社側從業員になれといわないばかりか、むしろ
組合に留まることを求めているのであります。この場合本社の二名も亦日映演
組合員であるということによ
つて明瞭な差別待遇を受けていることになるのであります。
又
営業部門では、
会社は日映演
組合員のみに関しまして、五月十日を以て整理を完了すること、及び全映演に関しては迫
つて通知する旨の指令を全國の各支社に発したのであります。関西支社はこの指令に基いて五月八日午前十時までに申出でたものは依願退職扱いとし、そのときまでに申出でなか
つた者は、解雇辞令を発送すると言明したのであります。これは明らかに日映演
組合員に対して不利益な取扱いをした事実であります。
要するに、
赤字克服と
経営の立て直しを名目として行われようとしている
東宝の
人員整理が、実は
組合の彈圧、
興行資本の温存と、そのための
企業分割などを目的としていることが明らかでありますが、
会社は右の目的を達成するに急なるの余り、
労働組合法第十一條を各部門、各地域で違反している事実は以上申述べましたことで歴然たるものがあるのでありまして、而も今度は
組合員の個人についての違反と、全体としての特定の
組合員たることの違反と、両方の十一條違反が成立するのであります。
次に、
会社と
組合との
團体協約は今尚有効であるということについて一言したいと思います。
東宝は、渡邊社長以下若干名の重役によ
つて左右さるべきものではないのでありまして、むしろこれらの人達は
東宝とは最も縁遠い人達で、單に
首切りの專門家として、間接には小林一三、直接にはその実弟田邊加多丸によ
つて雇われた使用人に過ぎない。然らば
東宝は小林一三、田邊知多丸、その他若干の
資本家によ
つて、思うままにされてよい筈はなく、現在の
東宝株が六百万株として、その株主は二万有余名に達し、最高の株主と雖も、全体の二%程度の保有者であ
つて、特定の大株主によ
つて支配されるべきものではないのであります。
東宝は飽くまで、二万余名の株主のものであ
つて、株主がその事業の運営を
從業員に一任しているものと見なければならないのであります。
從業員全体が全株主から依託を受けて、その
責任において、最も有能な重役を選び、それに有力なマネージング・スタツフをつけ、全株主の期待に副うように、正しい発展性のある運営をして行かねばならないのであります。
さて、
團体協約は、
東宝企業を平和に、発展的に運営するために、
企業に対して最も大いい
責任を負うところの
從業員と、その
責任を
経営の立場から分け持つところの
会社との間の契約であります以上は、昨年度のものが改訂に今少し時日を要する場合に、もとのままの契約を生かして行くことは当然過ぎる程であります。
会社が強いて無契約時代をつくり、戰いをいどむ態度に出てくるところに、今度の臨時雇重役の最初からの目的が那辺にあ
つたかを暴露しているのであります。
会社が何といおうと、
團体協約は條文的にも、実際的にも生きているものであります。
以上申上げました
理由によりまして、
会社の
主張は全く誤
つているのでありますが、最後に我々が最も公平、妥当な解決方法として考えることは、
会社が一方的に押しまく
つて又態度を改めて、不法行爲であり、派閥悪用であり、思いつきである不用意な
首切りを一旦撤回して、最初から、
團体協約、
企業再建、
人員整理の問題を、
東宝企業の本質的な部分であります
從業員と平和裡にすべてを初めからやり直すことが唯一の方法であると考えるのでありまして、我々
從業員としては、
東宝の再建を眞劍に考えて日本
映画に対して
責任と義務とを最も多く感ずるものであります。
最後に、
人員の整理に直面する
東宝第一
撮影所と
教育映画のことに関しまして少しく申上げたいと思います。
東宝映画は、劇
映画ばかりではなく、昭和七年の創立当時から、文化
映画の
製作に輝かしい歴史を持
つており、多くの優秀
作品を発表しましたが、昭和十六年秋の
映画界の新体制によ
つて世間的には一時止んだかに見られたのであります。併しその傳統的精神は堅く護られて、
終戰後教育映画の
製作に乘り出したのであります。
全國には約千七百万から八百万に近い学童がおります。これらの学童に健全な娯樂性と同時に教育的効果を持
つた映画を提供することが私達の願望であります。
インフレに喘ぐ親達には構
つて貰えず、政府にさえも見放されている学童達が放恣な大人の生活の模倣から惡に馴染んで行くのを防ぐとともに、正しい民主主義とは如何なるものであるかということを理解させて、將來社会の一員として人類の幸福に奉仕するように彼らを導くことが私達の希望でありますが、この希望は
映画という文化的な、そして大衆に対する浸透性の極めて大きい
作品の
製作に從事する者の誇りであり、又使命であります。
昭和二十二年一月、
教育映画部は、戰爭中命を賭けて守り拔いた第三
撮影所の建物を新
東宝に明け渡して、第一
撮影所に合体したのであります。その意味では
教育映画部こそは、新
東宝による最大の被害者と言えるのでありますが、その合体は決して敗北的な意味ではなくて、將來の発展のためと、すでに
撮影機構を殆んど解体していたので、
撮影所において一体的に運営されることを便宜としたからであります。而して所内に独立した一部門は持たず、部員はそれぞれ企画課、演出課等に所属することとなり、動画関係のみは一職区をなすこととな
つたのであります。併し
教育映画の
製作に生涯を賭ける十二名(他に
会社側從業員の一名)の者は一集團とな
つて、活動を継続して來たのであります。特に「こども議会」が万人必見の
映画とCIEの激賞を受け、特に希望せられてプリントを一本納入し、最近には又文部大臣賞、民主政治教育連盟賞を受けておりまして、又
教育映画の業績に対して
映画世界社が特別賞を以て表彰としている事実等は特記さるべきことであります。これらの事実は私達の目標が決して間違
つていないことと、現在の日本において
教育映画というものが如何に要望されているかということを雄弁に証明しているのであります。不必要どころか、その重要性が漸やく世間一般に浸透、認識されて、まさにこれからというとき、突如として出現した渡邊社長以下の現重役は、
映画に対する認識の不足から、無
責任な、一方的の言葉を鵜呑みにして、儲からないから廃止すると言い出しているのでありますが、その迷妄は何としても打破しなければならないのであります。
去る三月二十七日午後、私達は初めて北岡所長と会
つて教育映画の問題を話したのでありますが、その際も
製作継続については善処すると約束して置きながら、その後何の話もなく、突如四月十六日関係全員の馘首を発表したのであります。何たる暴挙でありませう。全く非人道な所業と言わざるを得ないのであります。
教育映画の現在員は、一本契約を除けば、僅かに九名に過ぎない。加うるに
教育映画と最も密接な関係にある動画職区の四十二名も亦不要不急の烙印の下に全員解雇を通告しているのであります。此の部門は、漫画
映画の
製作の外に、劇
映画に新らしい分野と新技巧を開拓し、又全劇映
映画作品のタイトルを受持
つているのであります。この人々の中には十数年の勤続者が何人もおりまして、
会社に対する功労者も少くないのであります。殊に
会社業務上の殉職者の未亡人も含まれておりまして、故人が
会社に盡しました功績を考えて見ますならば、断じてかくのごとき暴挙は許さるべきではないのであります。
渡邊社長は、
教育映画が
企業として採算が取れないから廃止すると言
つておりますが、それは必ず
收支の償う事業であり、將來の発展性を確実に予想し得る、むしろ有益な
企業であるのであります。
日本において、人口は五万人以上の百十七都内の内、
東宝系
映画館の存在する土地は、九十七であり、そこに存在する学童数は約二百九十四万人に達するが、これを現在東京及びその他の土地において行われているような、朝の
映画教室の組織を作ることによ
つて、その半数である約百五十万人は確実に動員することができるのであります。実際東京の六十万人の学童中の約三十二万人はすでに終織化されており、昨年十一月から継続して本年七月まで、た
つた二種類のプリントで映写が行われ、それに対して五十余万円の收益を挙けているのであります。一回の観覽料を五円とし、その中
製作費として回收し得る金額を一人当り二円とすれば、三百万円、三円とすれば四百五十万円に達する。ただそのためには少くとも学童の
教育映画観覽に対する税金は免除されねばならないのであります。現実には現地交渉で税務関係と折衝されているのでありますが、この問題は中央において予め解決して置く必要があるのであります。この
收入予想は、私達の事業計画の基礎をなる最も確実なる、又最も低い数字であります。即ち全國の都市中二館以上の
映画館のある土地に住んでいる学童数は約五百万人であ
つて、この運動には当然他社の
映画館も利用されるべきものであり、決して
東宝のみが
映画教室を独占するものと考えてはならないのであります。併し差当
つて便宜上前に申上げました三百万人を目標としたに過ぎないのであります。
他方において、非劇場運動の対象としては、右の範員外の千二百万人の学童があ
つて、電気、建物等の関係から、その半数を組織動員し得るとして、六百万人に達するのであります。昨年初春以來、この六百万人の組織化は、日本
映画教育協会、日教組等との提携によ
つて、著々と推進され、
映画教室とは別個に、併し相並行しまして、顯著な成績を
收めているのであります。このように全く確実で有力な基礎の上に立
つている
教育映画は、むしろ有利且つ安全な
企業であると言い得るのでありまして、それは同時に、今や行き詰りを示している
映画観客組織動員の前駆ともなりまして、文化普遍化の役割を果すことにもなるのであります。
渡邊社長や北岡所長はいち早くCIEを訪ねまして、
教育映画の
製作中止を報告し、現在の
赤字から脱却すれば、数ケ月後には再開したい意向であると明白な嘘を言うているのであります。それが何故に嘘かと申しますと、問題は
製作の一時的な中止ではなくして、廃止だということであります。今日
教育映画関係と動画の全員を首馘
つておいて、如何して再開しようというのですか。これらの特殊の技能を必要とする
製作陣は、一朝一夕にして整え得るものではないからであります。
又
会社は、
教育映画再開の曉には、何人かの人々は復職して貰うとも言
つているが、誠に勝手な言葉であります。今の世に首を切られるということは、生活の破滅であります。而も
会社を守るためには、個人の生活を犠牲に供し、
労働者の血を以て償うという考え方であります。二ケ月にしろ、三ケ月にしろ、職を失
つた人間の、その間の苦悩は予想も出來ないのであります。そんな非人道的な得手勝手を強要する権利は何人にもある筈がないのであります。
又
会社が
赤字だから
教育映画はやれないと言うが、四月初旬以來の紛爭による
会社の損失は、すでに四、五千万円に達しませう。
会社にしましても、今回の馘首案が何の紛爭もなくすらすらと片付くとは考えていなか
つたと思います。
会社には十分にその余裕があるのであります。
教育映画が成り立
つためには、千五百万円の金が要りますが、その余裕がないもと
会社側が言
つておりますが、そこにも重役等の誤解か、又は欺瞞があるのであります。
教育映画が儲からないと言うのは、昨年公開した四
作品の
興行成績の表面的な数字から來ているのでありますが、これら四
作品の
製作費は合計二百五十九万九千八百八十三円であります。これに最高五十%の
間接費を加算しましても、三百八十九万九千八百二十四円でありまして、宣傳費及びプリント費等を加算して
作品原價は、四百五十五万七千四百六十七円となります。これに対する
收入は、昨年九月、十月、十一月の三ケ月間に、百六十二万七百五十七円でありまして、これは明らかに
赤字とな
つている。併し私達はその結果をそのままに受取ることはできないのであります。何故かと申しますと、その
興行の実際を綿密に檢討して見るならば、その
赤字の
原因なり、
理由なりが、余りにも明瞭とな
つて、それを改善すべき対策も方法もおのずから明からとな
つているからでありまして、私達にはすでに具体案され用意されているのであります。
殊に昨年度の四
作品は、
收入を目的とした公開ではなく、
会社の方針として、
東宝の文化政策を社会に紹介し、
教育映画に対する反響を打診するという建て前でありました。その意味では予想以上の成果を
收めましたことは、
会社側も確認している事実であります。然るに何らその間の事情に考慮を拂わず、あたかも不良分子のごとく、追放の挙に出ていますことを、私達は暴挙と叫んでいるのであります。
又
教育映画の関係だけで、毎月百万円ずつ
赤字でありますから、廃止するものであるということも聞きますが、その出所は本社の経理部あたりであると思います。併しその根拠を伺いたいのであります。
間接費として考えられるのは、
教育映画関係の九名と動画の四十二名、約五十名に対して、一人当り平均八千円として、四十万円であります。これに
製作費における他部門の
間接費を含めても、せいぜい五十万円前後のものであります。そしてこれらの
間接費は作業を継続することによ
つて、消化されるものであ
つて、決して
赤字ではないのであります。
製作のために直接支出しました費用は決して
赤字と言うことが出來ないのであります。それはやがて回收される性質のものであります。昨年末から今年にかけて、新
作品二本が完成しておりまして、仕掛け中の
作品は四本、脚本に至
つては十五本をストツクしているのであります。それらに対する愛著というものは現在の重役等には理解できないのであります。すでに完成している二本の
作品を死藏して公開しようともしない
会社が、
赤字を宣傳しても納得される筈がないのであります。
教育映画はそんな
赤字を出してはいないのでありまして、
赤字の
原因はよそにあるのであります。
九州から北海道に至る
東宝の五支社に対して、七組、二種類の
教育映画番組が
配給されたが、その使用日数は、九月、十月、十一月の三ケ月間に合計二百七十五日、つまり九十日間に一相当り平均僅か十八日間使用したに過ぎないのであります。この期間に動員した学童の数は三十一万九千七百七十人でありまして、私達の予想の五分の一であります。
ところが、東京の実情は、三十二万余が組織的に動員されて、現在でもその運動は続いておりますし、北海道においては、上映された都市の学童数の半分に達する十五万四千七百五十八人が動員され、金額にして八十三万四千九百十円を挙げております。これは東京を除いた全國の成績の半ばを達成していることを示しておりまして、私庁が最初に立てました数字が決して空想ではなくして、現実に即していることを証明しているのであります。從
つて動員三十二万人、
收入百六十二万円という昨年度の数字をともに二倍に引上げる可能性は十分にあるのであります。何故にかかる結果を示しているかというに、そこに劇
映画の場合にも明らかに指摘されますように、
組合の
分裂による結果が現われておりまして、事に携わる者の文化的意識の問題と、文化
企業に対する認識と熱意の程度が問題にされるのであります。
以上は昨年度三ケ月間の実績でありますが、それ以後今年に入
つても
映画教室運動は継続されているのでありますから、
收入は上昇しているのであります。私達の二ケ年に亙る努力が漸く実を結んで、今や軌道に乘りかか
つて來た
教育映画を、
会社は如何なる計算の下に廃止すると言うのであるか、社会の輿論がそれを許す筈がない。現重役は何らこれらの事実を檢討せずに、不見識な
営業部のボスの言を取入れて利益万能主義を露出しているのであります。公開実施以來僅か半年余、而も初期の目的は十分以上に達成されているにも拘わらず、これを廃止して、その
從業員を全員解雇せんとしているのであります。これをして文化反動を言わずして何をか言わんやと言うことになるのであります。
去る五月十四日、都労委における第二回小委員会の席上で、
会社側の関口氏は昨年秋の
教育映画独立問題に言及して、それが
組合によ
つて阻止されたかに説明されているが、それはあの場合の一般に與えた印象から言
つて組合を誣いるものであります。
昨年六月末、
会社側の一部から
教育映画を独立させて別
会社を創立する案が提示されたのであります。当時すでに二年近く
会社のあやふやな態度に業をにやし、一面完成に間近い
作品を以て、自信を深めつつあ
つた関係者は十分論議を
行つた結果、これに賛成しまして、新
会社研究の会合が昨年七月八日以來数回重ねられて來たのであります。その会合には
組合員である
教育映画関係からも出席しているのであります。併しその計画は重役会の決定によるものではなく、森田
製作担当以下の線において研究され、大体
会社としても容認するであろうという
見通しの上に立
つて、設けられた独立案檢討のための準備委員会とも言うべきものでありまして、
組合機関において確認されたものでもなか
つたのであります。八月中旬ほぼ構想が縛りましたので、
会社側、
組合側の双方から
経営協議会に提案するという運びにまでな
つたのであります。その前提として
組合の確認を求めることとな
つたのでありますが、そのとき
組合の一部から異議が出たのでありまして、
教育映画の部分は
人員も少く、活動もはなばなしくないので、当時
撮影所内において余り問題にならなか
つたという不利を克服するために若干の運動が試みられたのでありますが、
会社、
組合のいずれも劇
映画の
製作に大きく関心を奪われてしま
つて、その理解を得ることは困難であ
つたのであります。又当時すでに
企業整理の問題がぽつぽつ話題に上
つていましたので、
会社の巧妙な分離策謀に乘るのではないかという疑念のあ
つたことも事実であります。併し
組合の決定しましたことは分離独立案に対する否認ではなくして、
組合の認めた正式機関において、果して
撮影所内における
製作活動は困難であるか否かを再檢討して結論を出すということであ
つたのであります。その結果設けられたのが
教育映画対策委員会でありまして、その得たところの結論は、
撮影所内において続行し得るということでありました。この結論に対しましては、
会社も
組合も賛成しているのでありまして、
組合が独立を拒否したという事実はないのであります。実際に
教育映画は現在でも独立してや
つて行けるのでありまして、差当
つての資金さえ解決すれば、十分に可能性があり、客観的情勢はむしろ当時よりも有利に展開しつつあるともいえるのであります。米國が自國製の
教育映画を数百本輸入し、これを日本語版にしてどんどん公開しているとき、日本の
映画企業家はその
製作を廃止するというのであります。その文化に対する観念の距り、民族の文化に対する認識の低さには、憤りを禁じ得ないものがあります。
教育映画の部分には、仮に
製作を一時中止するにしても、CIEの米國
教育映画の編輯、録音の仕方が與えられる。現在手すきの者に片手間に作業させて、不名誉な不評を被
つている事実を解消する最良の手段がそこにあるのであります。CIEの壁面にグラフとな
つて揚げられている
東宝の不名譽を重役達は何と見るのであろうか。その他にも
配置轉換の手はいくらでも考えられるのであります。
製作者として、演出又は演出助手として、脚本家として、それから又企画、編輯の方面に、
教育映画の僅か六名のごときは、それぞれの所属する現在の部分において、簡單に片附くのであります。私達は敢てそれを希望するのではなく、
会社側に一片の誠意があれば、解決の方法に幾らでもあるということが言いたいのであります。
渡邊社長は、
会社の発表した馘首の通告を見るや、
組合はあわてて二十八本
製作案を出して來たけれども、そんなものはすでに遅過ぎるし、信用が出來ないと言
つておりますが、二十八本案は断じて
組合の出したものではないのであります。四月四日、首馘りの空気が大分濃くな
つてきたとき、北岡所長を囲んで、
組合員は馘首案撤回を叫びましたが、そのとき
撮影所のマネージング・スタツフから出されたので二十八本案であります。この案によりまして、一名の解雇者も出さずにや
つて行きたいというのがマネージング・スタツフの誠意の披瀝だ
つたのであります。
組合員はその
内容については何も知らないのであります。併し一名の馘首者も出さないということで、できるだけその案の実行に協力しようと申出ただけでありまして、無批判に鵜呑みにしたわけでもないのであります。
撮影所が毎月二本の
作品を完成させなければならないということは、昨年中から
組合員の耳にはタコの出來るほどしみこんでいるのであります。そして年末の拡大
生産復興会議において、二本
製作の大方針が確認されまして、その実行のために、
生産復興準備委員会が設けられたのであります。年間二十四本の
計画生産は私達の目標であります。何故に昨年中はそれが達成することができなか
つたかと申しますと、能率も低下もありましたし、電力の不足の影響もありましたが、根本的には、ミス・マネージメントが最も大きな
原因であります。それを
組合が強か
つたからとか、
経営権の侵害とかいう言葉で
責任を
組合に押し付けようとするのは卑怯未練というの外はない。
組合が強か
つたのなら
会社もそれに劣らない立派な手を打てばよいのであります。道理の前には
組合と雖も我意を押し通す筈はないのであります。
團体協約の範囲内での
組合の
経営参加は合法的な行動であります。今日それを非難するのは当らないのであります。
東宝の日本
映画界における重要性は労資双方において深く考えなければならないのであります。
教育映画の関係におきましても、今
東宝がこれを廃止することの影響は
東宝のみに止まるものではないのであります。折角芽を出しかけましたこの花の芯を摘み取
つてしまうことであり、少くとも
製作に関しまして、日映に與える打撃は少くないし、又漸く纏まりつつある全國の動員組織網は崩れて行くのでありまして、その
責任は当然
東宝が負わなければならないのであります。
私達は
会社に対して不可能を強いるものではないのであります。
團体協約の精神に則
つて、平和的に今回の問題を処理して頂きたい。
人員の整理が不可欠の要点であるならば、昨年七月から八ケ月に三百五十名乃至四百名の自然減少を示している現実と、この際退職希望者を募ることによ
つて相当数が見込まれるし、停年を六十歳としても八十余名が包含されるのであります。この際その企図を強引に押し切ろうとして徒らに紛爭を長引かせることなく、大乘的見地に立
つて、
組合と協調して
東宝の再建に進んで頂きたいと切に希望する次第であります。
以上で大体日映
演労働組合側の
主張見解を相当徹に入り細に互
つて御説明申上げました。