○国務大臣(
鈴木義男君) 今回
神戸、
大阪に発生いたしました
朝鮮人の
騒擾事件は、誠に遺憾な
事件であります。私は二十七日、八日の両日に亘りまして、
現地について具さに
調査をいたして参つた次第であります。これを詳細に申述べまするには長時間を要しまするので、ここでは極く簡略に
概要を御
報告申上げまして、他は御
質問等に應じて申述べたいと存じます。
今回の
事件は、
山口、
岡山等の場合と同じく、
政府の
方針に基きまして、
大阪府、
兵庫縣知事が、
朝鮮人だけで経営をし、
朝鮮語を以て
朝鮮人の
子弟だけを
教育する
学校、
日本の
学校を借りて
使つておるのでありまするが、
初等教育、
義務教育でありますが、その
教育をその
府縣内に許しておくことは適当でないというので、すべて
日本の
教育基本法に則る
教育に改めまするために、
朝鮮人の
学校に
閉鎖を命じ、それぞれの校舎の
管理をそれぞれの自治体に委ね、
朝鮮人も入学せしめ、
朝鮮語による
教育を欲するならば、課外においてそれをなすべきことを要請いたしましたところ、
朝鮮人諸君はこれを不当として、この
命令に服することを拒み、多衆の威力によ
つて、各
知事らをしてこの
命令を
撤回せしめようとして起つたことであります。
そもそも終戦後、
朝鮮人は第三
國人とな
つたのでありますから、
政府はしばしば声明を発して
占領軍最高司令官の指令に基き、
朝鮮に帰るものは喜んで
便宜を供與する。帰
つて頂きたい。併しいろいろの事情で帰ることができない、又は帰ることを欲せざるために
日本に残るものは、
日本國法に
從つてその
義務を盡すことを
條件として、健全なる
生活を営むことを許しておるわけであります。然るに
朝鮮人諸君の中には、必ずしも
日本の法律に服從する
義務はない、というような考え方を持
つておる人が少くないようでありまして、今回のようなことが起りましたことは、誠に
政府としては遺憾に存じておる次第であります。
現地についていろいろ承りましたところが、可なりその
運動というものが組織的であり計画的であつたことに、実は驚いたのであります。相当の別意を以ちまして、そうしてそれぞれ
神戸において
大阪において或いはその他の地域におきましても、継続的に同一種の
運動が行われる
予定であ
つたのであります。
大阪の
方面におきましては、夙にそういう
方面の
情報を入手いたしておりましたので、
警察その他が万全の策を講じましたために、比較的不都合な結果に到達しないで済んだのありますが、
神戸におきましては
当局者に若干の油断があつたことと相俟ちまして、御承知のような
知事、検事正、
市長その他が数時間に亘りまして監禁をせられ、遂に
閉鎖命令の
撤回をし、
拘留中の
被疑者を
釈放するの止むなきに
至つたというような
不祥事件が発生いたしたわけであります。
便宜神戸の
状況を先に申上げまして、
大阪の
状況を後にいたしたいと思います。四月十日……その前にいろいろな経緯があるのでありますが、どうしても任意に
学校を明渡さないので、遂に
兵庫縣知事は四月十日に至りまして、十二日を
限つて学校の
閉鎖を命じ、
学校の返還を命じたのであります。然るに
朝鮮人の
諸君はこの
命令に服さずして、四月十五日にこの
命令を
撤回すべく迫りまして、
沢山の
朝鮮人が大挙して
縣廳を訪れ、
知事室副
知事室を占拠いたしまして、いわゆる
強談威迫を加えたのであります。
知事も副
知事もおらなかつたために、七十名程の
朝鮮人は副
知事の
部屋に留まりまして、夜を徹して
退去しなか
つたのであります。そこで
検察当局は
住居侵入である、
要求せられて
退去しないのであるから不
退去であるということで七十名を検挙いたしまして、そのうち六十五名を勾留に付したのであります。それで返して呉れません
学校は、これを強制的に
神戸市の
管理に移さなければなりませんのに求めました結果、
裁判所の許容するところとなりまして、執達吏がこの占有を移轉せしむべく四月二十三日
二宮、
稗田、神楽の三
小学校に赴いたのであります。いずれの
学校でも
朝鮮が占拠いたしておりまして容易に
執行ができないであろうということを予想いたしましたために、
二宮、
稗田の両
小学校に参りますときには、
警官を百五十人ほど連れて参りまして、これは幸い
執行を完了することができたのであります。
神樂小学校に参りました時には、すでに
沢山の
朝鮮人が占拠しておるという
情報を得ておりましたので、
警官を特に二百人に増員いたしまして、これを
伴つて、
執行に
参つたのでありまするが、千二百人からの
朝鮮人がおりまして中に入れさせないということから、遂に
執行をすることができずして
帰つて参つたわけであります。尚ここに不幸なことは、
山口、
岡山においても同じようなことがありまして、
山口でも十時間ほど
坐り込み戰術をやり、
岡山におきましても六時間ほど
坐り込み戰術をやつた結果、實際は
撤回したのではないのでありますが、暫く猶予するというような結果が得られましたために、
山口や
岡山では成功したという流説が
朝鮮人諸君の間に傳わ
つてお
つたようであるのであります。そこで十分に粘るならば成功するという予想の下に、
大阪、
神戸等においては計画がなされたのではないかと思われるのであります。相当
物情騒然としておりまして、なにかあるという氣配にあ
つたのでありますから、
警察といたしましては十分にこれらについて
対策なり、用意なりがあるべきであつたと思うのでありますが、
神戸におきましてはその点について十分の
準備がなかつたということは、今日から考えて遺憾に考えられるのであります。尚
執行が不能に終りましたので、今後の
対策をどうしようかということで、四月二十四日午前九時半から
縣廳の三階
西南隅の
知事室において、
岸田兵庫縣知事、
吉川副
知事、
井手國家警察の
警察長、
三宅警備部長、
堀教育部長、
中田視学、
小寺市長、
関助役、
古山市警察局長、
安田秘書課長、
小山保安部長、
村上警備課長、
田村公安委員、
田中渉外局の
事務局長、それから
檢察廳から
市丸檢事正、
田辺次席檢事、この十六名が集まりまして、この仮処分が
執行不能に終つたことについて、更に強行すべきであるか、或いは若干延期して
形勢を見るべきであるかというようなことについて
協議をいたし、尚二十六日には数万人の
デモンストレーションを行うという噂でありますから、それに対してどういう
対策を講ずべきかというような
協議をいたしたのであります。これは正確な証拠はまだ挙らないのでありますが、これらの
兵庫縣の要人は、
縣廳内の一室に集まりましたことを、内部から通報した者があるかの如く、午前十時中頃から三々五々
朝鮮人諸君が段々
縣廳の周りに集ま
つて参りまして、二、三百名に達しまするや、一度にこの三階の
知事室を目掛けて上
つて参りまして、
先進部隊は
知事室に入る、それからその他の
諸君は皆廊下に坐り込むというような
行動に出たわけであります。尚入口を
朝鮮人諸君が塞ぎまして外の者を入れさせないようにいたしたのであります。
最初知事室におきましては、戸を閉めてこれらの
群衆を入れないように努力いたしてお
つたのでありまするが、体当りを以て
ドアーを蹴る、破るというようなことで、暫くの間は揉み
合つてお
つたのでありますが、遂に中に入
つて來ることに
なつた。
知事室と
控えの間と二つありまして、
控えの間との間に又戸があるのでありますが、その戸を破り同時に壁が比較的脆弱にできておりましたために、その壁を破壊いたしまして穴をあけ、そして皆その穴を
通つて知事室になだれ込んだのであります。先ず
問答等を始めまする前に、電話機を……、三台ありましたが、線を切断してこれを床の上に投げる。それから
知事の机はガラスが張
つてありましたが、これを滅茶苦茶に壊す、それから机、椅子すべてそういうものを乱暴に壊しまして、そうして然る後
命令の
撤回の談判を始めたわけであります。その間
縣廳の
外部には刻々
朝鮮人諸君が集
つて参りまして、数千の
朝鮮人諸君が
縣廳を取巻いて示威をするということになり、中ではそれらの人々が
知事、その他と
交渉を進めておる、こういうことにな
つたのでありまして、要するに
要求は簡單でありまして、
命令を
撤回せよということであります。
日本は三十数年前に
朝鮮を併合し、あらゆる圧迫を我々に加えた、そうして今や戰爭に負けて、我々が
独立國となり、第三
國人として
自分の欲する
生活を営もうとしておるときに、再び
帝國主義を復活せしめて、
日本の
教育の下に我々の
子弟を復せしめんとするがごときは、到底許すことができないのだというのが主たる論拠でありまして、繰返し、繰返しそういうことを申して
撤回を
迫つたそうであります。それで事の急なるを聞きまして、
神戸憲兵隊の
クルップ大尉が
下士官二名を伴いまして、
日本人の
警察官はどうしても入ろうとしましたが入れなか
つたのでありまして。止むを得ず
進駐軍のMPならば入ることができようというので入
つて参りまして
知事の
救援に來て呉れたのであります。数時間を経た後だそうであります。その
部屋の中におりまする
朝鮮人諸君に
退去すべきことを命じたのであるが、聞かない。それで
クルップ大尉及び
下士官は
ピストルを向けて撃つぞということを申して威嚇いたしました。ところが
朝鮮人諸君は、胸を拡げて、撃て、撃つならば撃て、我々は
生命などを惜んで來ておるのじやないのだ。初めから
生命を投げ出して來ておるのだから、撃つならば撃てというので、こういうことで迫られました爲に、
クルップ大尉もそこで僅かの
彈丸を発射いたしましても問題は解決しない、より大きな力を借りなければ相成らんということで、一度そこを
退去されたそうであります。
神戸地区の
憲兵司令官は
メノファーという
准将が
神戸地区の
最高司令官であるのでありますが、丁度京都に出張して留守であ
つたのだそうであります。そのために臨機の
処置を取ることができなかつた。それが
一つは不幸なる
事態を起すに
至つた理由でもあるのでありまするが、次に
外部からは急援が來ない。どうも非常に
形勢が險悪である。このまま継続して行くならば、どういう乱暴を働くかもわからないという、この窮状に恐れられたと思うのでありますが、遂に午後五時頃になりまして、
知事はそれじや
撤回するということを申すことに相成
つたのであります。それならば、それを認めろというようなことから書面に認めてこれを手交する、
命令を
撤回した以上はこの
犠牲とな
つて刑務所に勾留せられている我々の
同志は、当然
釈放せられるものと信ずるから
釈放せよということを
檢事正に
迫つたわけであります。
檢事正は
知事と
協議の結果、すでに
閉鎖命令が
撤回せられました以上は、彼らを勾留した起訴事実がなく
なつたわけでありますから、そこで
釈放することも止むを得ないであろう。こういう
趣旨の下に
釈放指揮に署名するということになりまして、席におりました
田辺檢事がその
指揮書を持
つて、
朝鮮人に護衛せられて
裁判所に参りまして、
釈放の
指揮を終り六十五名が
釈放されたのであります。その
報告を
朝鮮人諸君が受けまするや、次いで本日ここでやつた
暴行については一切処罰しないという
一札を入れろということで、これも大分長い間押
問答した末でありまするが、
事態止むを得ざるものと考えてその
一札を渡しまして、それで
朝鮮人諸君が
引揚げて行つた。こういうこととにな
つたのであります。
もつと当時の
状況を写実的に申上げなければ御了解を頂くことはむずかしいと思うのでありまするが、私も
傳聞でありまするから、間違いがあ
つては恐縮でありますから、それは申しませんが、要するに非常に急迫した状態にあつた。何人をあの地位に置いても、どうもあれは
外部から急速に
救援が來るということが
予定されない以上は、どうも止むを得ない。
部屋も非常に悪いのでありまして、
大阪の副
知事は、
会談三時間半の後裏の
ドアーの方から抜けて脱出したのであります。それでこういうことに至らずに済んだのすでありまするが、
兵庫縣知事の
部屋は丁度行き止りで袋の鼠のようなものでありまして、脱出するのに窓から路上に梯子か何かで下りるより
外方法がないのでありまして、結局
かくのごとき結果は、いろいろ後から申しますれば残念に思える点もありまするが止むをなかつたと了解されるのであります。それで
メノファー司令官は夕刻遅くお帰りになりまして、それでこの
事件の
概要を知られて、非常に驚いて第八
軍司令部と
連絡の上断乎たる
処置をとるということに相成りまして、
知事、
檢事正等を夜十一時頃招集をされまして、
事態かくのごとく
なつた以上
非常事態の宣言を行う、一種の戒厳に近い
態度をとる。そうして本日
暴行をした者、
デモを
行つた者は一齊に檢挙するから助力せよ、こういう御
命令で、それと前後して
知事及び
檢事正は、
自分が先に行な
つた意思表示は強迫に基くものであるから、当然無効なものであ
つて、
閉鎖は存続しているものである。
拘留も解かれたものではない、出た者は
引戻すからしてさよう心得よということを宣言いたしたのであります。尚翌日文書に認めてこのことを明かにいたしておるのであります。この件につきましてはいろいろ遺憾な点がありましたが、事前に
警備が不十分であつたという点はこれを認めざるを得ないと思うのでありまして、又当日騒ぎが起りまして
朝鮮人諸君がスクラムを組んで、非常な厳重な
交通遮断で中に入ることができなかつたとはいえ、何らかの
方法を盡しまするならば、市の
警察幹部は皆監禁された方に入
つてお
つたのでありますから、市の
警察区の分は來なかつたといたしましても、
國家地方警察は筋向いにあるのでありまして、その
警察長等はもう少し何らかの
手段を講ずることができたのではないかということを感ずるのであります。尚
知事のとりました
態度も決して褒めるわけにいかんと思いまするが、事情止むを得なかつた。多少非難すべきものがありましても、これは
政府といたしましては、
政府の
命令に服せざる
知事に対して
罷免権を行使することができまするけれども、懲戒を加えるという権限は
現行法にはないのであります。これは
兵庫縣における問題としてお取扱を願うよりほかにないのであります。又
檢事正が
かくのごとき
指揮をいたしましたことにつきましては、これ亦十分に批判せらるべき余地がありまするので、
政府としては適当な
処置をとるつもりであります。
その後私がおりまする時までには千百何名かを檢挙いたしまして、その中、
デモに参加しなかつたというような者は帰しまして、八百余名を留置いたしてお
つたのでありまするが、その後全部で檢挙した者千六百余名ということに相成
つております。
現地司令官のお話によりますると、
事態の
重き者は軍で直接に
軍事裁判に付して裁く、事案の軽き者は、
言葉の関係もあり数も非常に多いのであるから、
日本の
裁判所に引渡すからして、
日本の
檢察廳並に
裁判所において敏速に処理すべきことを命ぜられておるのであります。
判事檢事等を増員いたしまして適当に
裁判を促進する
予定であります。
それから
大阪の方は、同じ
要求によりまして、二十三日に零時三十分頃から
知事室において、
知事が不在でありましたために、大塚副
知事が
濱田学務課長と、
朝鮮人代表者三十数名と会見することになりまして、激しい論争が続けられたのでありますが、これは
外部におけるいろいろな
アジ演説、或いはいろいろ
行動と
混乱に陥
つたのでありまして、結局数時間
議論を続けましたが、解決に至らないで
交渉は物別れと相成りましたので、四時半頃副
知事は裏の
ドアーから脱出いたしまして、そうしてずつと別な
方面から密かに、
縣廳を脱出したのであります。そのことが分りまして、副
知事を逃がしたということから、仲間の間に紛争が起りまして、いろいろ
混乱を惹き起したのでありまするが、結局
警察が善処いたしましたために、この日は大体多少の
怪我人を出したという程度で、約二千名程集ま
つておりました
群衆を解散せしむることに成功したのであります。然るに二十五日に再び同一の
要求を提げて、
坐り込み戰術をやるということに相成りまして、今度は三ケ所に
大会を開いて、そうしてそれぞれ
激励演説等がありまして、総数約二万名が大
手前の
公園に集まることにな
つたのであります。これは……無論二、三日前からそれぞれ
準備に着手して、
戸別訪問のようなことをやりまして狩出しを行な
つて、できるだけこの
デモに参加するように勧誘したらしいのでありまするが、或いは米、
金等を供出せしめまして、遠くから来た
同志に対する食糧とし、旅費とするというようなことも行われたということであります。半分以上は学童、婦女子であつたということでありまするから、それぞれ狩出しによ
つて出て來たということが想像されるのであります。それで
警察が得た
情報によりますると、前の
晩朝鮮人連盟大阪支部において、翌日の
運動方針についてはできるだけ合法的にへたり
込み戰術だけでやれという
一派と、
警察或いは
進駐軍と雖も若し
彈圧を加えるならば。敢然これに抵抗して、死を賭して斗うべしという
一派とがありまして、相当夜を徹して
議論は紛糾したようでありまするが、結局結論に到達せずして
大会に臨んだというふうに
報告されておるのであります。各会場におきまして、それぞれ
激励の
演説等がありまして、ここにその傍聽した者の記録がありまするが、一々申上げることは如何かと思いまするので、
一つ二つだけ代表的なものを読み上げることにいたしまするが、
日本共産党の
河上貫一君は、これは大
手前公園における
激励演説の
一節でありまするが、「
朝鮮人教育問題は、
朝鮮人を奴隷化するものであり、働く
人民大衆を無知に追込まんとする
支配階級の陰謀である。これが
芦田内閣の性格である。この
鬪爭に負けたら、更に大なる
彈圧が続くであろう。
学校閉鎖は、單に
教育問題ではなく、
民族鬪爭であり、
階級鬪爭である。この
重大意義を認識して、強力に
鬪爭して貰いたい」。というような
演説をいたしましたり、或いは、まあ大体
朝鮮人学校閉鎖は、
日本帝國主義の再現であるという
演説が繰返し行われたのであります。
生野支部の
大会――大
手前に来る前の
大会でありますが――においては、
日本共産党関西地方委員柳田春夫氏という人から、次のごときメッセージを読み上げたというのであります。
「私は
日本共産党を代表して
朝鮮の
皆様に
激励の
言葉を申上げる。今回の
日本政府が行いたる
朝鮮学校閉鎖命令に対しては、
日本共産党は、
朝鮮の
皆様と同じく絶対に反対し、
皆様と一緒に
共同鬪爭を展開しております。
朝鮮独立と
朝鮮教育自主は絶対死守しなければならん事項であるということは、
朝鮮の
皆様は心肝に徹せなくてはならん。
朝鮮学校閉鎖命令反対闘争は、
朝鮮皆様の同胞が、下関や
岡山や
神戸において
活發に展開せられ、多数の
犠牲者を出しておられるのである。本日
皆様が行われる
鬪爭が若し敗北せられた
一節は、これら多くの
犠牲者が浮ぶことができないのであります故、本日の
鬪爭は、
皆様が死しても
目的達成に奮鬪せられなければならん。我が
共産党においても、
皆様の必死の雄叫びに対し、全面的に支持して、共に
共同鬪爭を開始したのである。現に
大阪府廳前には、我らの
同志が
皆様の來るのを待
つておるのである。
皆様、本日の
鬪爭は
朝鮮人の死活問題であるから、大なる奮鬪の程お折りいたします」。とい
つたような、大体同じような
趣旨の
激励の
演説が至る所に展開をされたわけでありまして、これによ
つて大分勇氣を附けられたということは、どうも否定することができないようであります。尚
大阪におきましては、後に数百人を檢挙いたしまして、そのうち三十五名程を勾留いたしました。尚身柄を
釈放しております者の中からも、結局起訴することに相成るであろうと思われるのでありまするが、その勾留しておりまする
諸君の中には、九名が
日本人でありまして、その大部分が全逓の人であり、その他の
共産党員であるということに
報告せられておるのであります。尚この日は
知事が
会談をいたしまして、やはり前と同じ
問答が繰返されておりましたが、結局午後四時に至りまして、いつまで話をしても
撤回はできないという以上は同じことであるというので、
連絡によりまして、
大阪の
軍政部長クレーグ大佐が
サリバン中佐という方を伴いましてや
つて参りまして、
大阪の場合は初めから
警察官を中に入れて置きましたから、それで余程、ドアも破壊され、机なども傷けられておりましたけれども、
神戸のような惨憺たる光景ではなか
つたのであります。併し
警官はなかなか中に入れなか
つたのでありますが、この
大佐と
中佐の方は入
つて参まりして、そうして
会談はこれ以上継続しても無意味であるからして止めよということを命ぜられたのであります。尚この
群集を
退去せしめるためには、強力なるあらゆる
手段を
使つてもよろしい、武器を使用してもよろしいという
命令を出されまして、尚
鈴木警察局長に対して、
解散命令をこの
交渉委員長から
群集に傳えさせよという御注意がありました結果、
解散命令を
警察局長が出したのであります、
委員長は元何某という人であると記憶いたしまするが、メガホンで放送をいたしたのであります。併しながら興奮してしておりまする
群集は、なかなか服從しない。そこで止むを得ず先ず第一にポンプの
ホースを以て水を掛けることによ
つて退去させることにいたしまして、
縣廳前から
ホースで水を掛けて
退去を
迫つたのです。それで余程崩れたのでありまするが、それでも尚どうしても頑張る者が相当おりましたので、止むを得ず小競り合いが行われ、遂に
ピストルを発射するというようなことにも相成
つたのでありまして、これは非常に遺憾なことでありまするが、或いは
警官の方も、「とうがらし」を卵の中に入れて目潰しを食わされた結果、眼が見えなく
なつた。それで捕まえられて、散々に袋叩きに相なりまして、非常な打撲傷を負うたというようなのを初め、三十数名の
負傷警官を出した次第であります。又
朝鮮人側にも多少の
負傷者を生じたようでありまして、殊にその
彈丸が十六歳の少年にあたりまして、遂に、死亡するに
至つたという
報告を聞いておるのであります。尚
朝鮮人側の
負傷者につきましては、引續いて取調べを命じてありまするが、まだ正確な
報告は受けておらないのであります。先程
共産党代表の方々から伺つたところによりますと、相当数の
怪我人があり、
犠牲があるということであります。そういうふうなことで結局解散をいたしまして、
大阪の
警察局長並びに國家
警察の管区本部長その他の
処置は、事前の予防策におきましても、当日の
行動におきましても、臨機の
処置を得まして、これらの、
犠牲がありましたけれども、とも
かくもこれだけの大衆を無事に解散せしめることができたということは、これは多としなければならないと思
つておるのでありまして、第二十五師團長から文書に認められたお褒めの
言葉を頂いておるというような実情にあるのであります。
そういうことが
現地における
状況でありまして、この問題に絡みまして、
朝鮮人諸君の將来の遵法精神を如何にすべきかというような問題、更に
警察が
かくのごとき大衆
運動に対して、今日の機構が十分に安心できるかという疑問が投げ出されるわけでありまして、この点につきまして制度なり組織なりの上に、若干の改革なり修正なりを加える必要があるのではないか。殊にこういう場合に
警官が武器を持
つておらないことは、どうしても威力を示すことができないために、十分に取締の任務を全うすることかできないという欠点があるのではないか。又自治体
警察と他の自治体
警察との
連絡関係、及び自治体
警察と
國家地方警察との
連絡が、どうも十分に密接に行
つておらなか
つたのではないかというような節も見受けられるのでありまして、こういう点を如何にせば強化することができるかということが
一つの問題として出るわけであります。
大阪の場合には、非常に予備隊、予備
警察と申しますか、
警察学校の学生千四百人がおりましたために、これが繰出して來たので非常に騒動を鎮圧するに役立
つたのであります。これは
大阪の場合も、卒業すれば正式の
警官にな
つていなくな
つてしもうのであります。平素この程度の予備隊がありますならば非常に心強いことであるということを、
警察局長は申してお
つたのであります。東京の場合でもその他の場合でも、これからも同じように問題になり得べきものではないかと考えるのであります。その他本件に絡んで提供せられたる問題は数多いと思うのでありまするが、只今一々ここで申上げることは
報告の範囲を逸脱いたすと思いますから省略さして頂きまするが、全体として
警察の
警備につきましては、兵庫においては若干の遺憾があり、
大阪においてはよく努力した。こういうふうに申述べられることができるかと思うのであります。