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1948-07-19 第2回国会 参議院 司法委員会眞木事件に関する小委員会 閉会後第3号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十三年七月十九日(月曜日)    午前十一時二十五分開会   ―――――――――――――   本日の会議に付した事件眞木事件に関する調査の件   ―――――――――――――
  2. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 裁判官の刑事事件不当処理等に関する調査の小委員会を開会いたします。証人としてお呼びしておつた太田爲吉さん、稻垣源四郎さん、今お尋ねすることについて、眞実の供述をするということの宣誓を命じますから、その宣誓書を朗読して、署名捺印して下さい。    〔総員起立証人は次のように宣誓行つた〕    宣誓書  良心從つて眞実を述べ、何事もかくさず、又何事もつけ加えないことを誓います。    証人        太田爲吉    宣誓書  良心從つて眞実を述べ、何事もかくさず、又何事もつけ加えないことを誓います。    証人       稻垣源四郎
  3. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 稻垣さんはちよつと控室の方へ。  それではお尋ねいたします。姓名は太田爲吉さんとおつしやいますね。
  4. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) そうです。
  5. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 年令は。
  6. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) 明治二十五年十一月二日生れ、五十六才。
  7. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 今の住所は。
  8. 太田爲吉

  9. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 今の職業に就かれる前は何でしたか。
  10. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) 戰災者更生会の前ですか。
  11. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 戰災者更生会の何でしたか。
  12. 太田爲吉

  13. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) その現場係を辞めてから今度は。
  14. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) それをやめてからは、あそこの一般の取締みたいになつた。閑職ですね、有名無実のごとき、何かやはりこまごま氣の附く者がいなければいかんから……
  15. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 戰災者更生会会長眞木康年とは、どういう関係がありますか。
  16. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) 眞木康年との関係か。眞木康年とは、昭和二十年十二月三十一日、前産報会会長中井勝太から、その引継の時に初めて初対面をした。その後眞木会長は、現在あれも不正事件で何しておるか、浅草千束國民学校戰災者救濟会佐々木松雄昭和二十一年一月十五日頃まで一時会長として、その当時これはずつと私は知つていますが、それから会長眞木と、その時初めて初対面をした。産報会以來、向うでも私が精勤していたということは認めて、君も古くからいるから、便利だから、一つ何とか皆のために骨を折つて呉れと言われたから、やはり人生意氣に感ずるつもりで、眞面目にやると思つたから、本当にやるのだと思つたから、救濟事業は刻下の急務だから……。その時に初めて私が知つたのです。
  17. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) そうして眞木会長になつたのはいつですか。
  18. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) 眞木会長になつたのは、彼はいろいろと責任回避、轉嫁のために、いろいろの口実を設けておるけれども、佐々木松雄が二十一年の十一月五六日頃までやつたです。それで辞めまして、それからその当時医專学生で、あそこへただ病人ができるから、ちよつと見に來ていた医專学生野口章臨時会長にした。眞木康年は、その当時、俺は会長になつた都合惡い代表者になつて都合惡いという。どういう魂胆か知らないが、眞木は、俺は顧問だと言つて顧問だかバツクだか知らないが、一時医專の二十五六の学生臨時会長にした。野口章は、昭和二十一年四月の初旬だと思つたが、上野地下道チブス発疹チブスなんかの注射に行つた時に感染して殉職、やはり殉職です。五日のうちに死んでしまつた。その後会長になる者がないから、愈々眞木が本格的に会長になつたのが四月だと思つた
  19. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 二十一年の四月ですか、その時は。
  20. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) 二十一年の、そうです。
  21. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) あなたはどういう事務を執つたのですか。
  22. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) そのときはやはり收容者係收容者係というのは、つまり雜務です。そうかと言つて小使じやない。雜役でもない。いろいろ出たり入つたりする人の世話燒きで、現場係です。
  23. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 收容者世話をしているのですか。
  24. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) そうです。
  25. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) その当時眞木というのはどういう人だと見えましたか。
  26. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) 眞木は、昭和二十年の十二月三十一日の晩初対面印象は、彼は別に暴力團とは思わないけれども、とにかく一癖ある男である。俺は近松三次の二代目である。子分は千五百人くらいある。そうして中井勝太産報会救濟事業は失敗したから、俺が万事引受けて、皆を安心させるようにすると言つて、非常に意氣軒昂なところがある。その当時の印象としては、暴力團とは思わないが、相当この人間も一癖あるなとは思つた
  27. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 近松三次子分だというのですか。
  28. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) 近松三次の二代目だと、その時は自称した。後で取消しちやつた都合惡いから。
  29. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 当時眞木生活状態は。
  30. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) 当時の眞木生活状態、その当時と言つても、彼は二年間、全盛時代は一年半だが、檢挙されるまで満二年間なんだから、その当時と言ふとどの当時か。二年間を通じてか。
  31. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 眞木会長になつた時の状態
  32. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) その時はどうも家庭生活状態まで、こつちは一々関心を持つてないから、漠然たるものだが顏が廣いから方々からやはり收入があつたでありましよう。相当にやつていたらしい。あの家も、会長になる前に三万五千円で今の家に建てた。今だつたら八万も十万すかかる。うまい金融はあつたらしいです。そんな貧乏世帶を張つていたことはない。
  33. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 相当金融はあつたわけですね。
  34. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) 何かこういう、つまりてき屋の親分みたいな、早く言えば顏役みたいな……
  35. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 眞木の常に持つている思想はどんなものですか。
  36. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) 思想なんかゼロだ、イデオロギーも何もありはしない。藝者買いすることばかり考えている。
  37. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 特に取立てていうことはないですか。
  38. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) まあ附燒刄で、新聞を発行しても、人に書かせて、演説するにしても、人にばかり原稿を書かせて、書くのは藝者のごとくらいなものだ。
  39. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 近所の眞木に対する評判というものはどうですか。
  40. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) 私は偉い人に調べられると思つて話しません。そうすると非常に意思の疎通を欠くし、又何となく因循姑息になるから、甚だ失礼ですが、ザツクバランに十年の知己、マイ・フレンドと思つて話します。だから敬語は使いませんが、その点は惡しからず初めお断りして置きます。
  41. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 眞木のその当時の浅草ではどんな評判をしておりましたか。
  42. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) 評判か。評判惡いです。どこへ行つて評判惡いです。別に暴力團とか何とかいう意味じやないが、評判惡いです。世間の附合いも惡かつた。いばつているから。
  43. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 眞木新鋭大衆党党首をしておりましたね。
  44. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) 私が眞木康年行状記というものを書いて、櫻井檢事と、法務廳池田事務官、それからもう一人は警視廳の係の警部に、よくその顛末を書いたものを、原稿用紙十七枚に書いたものを出したが、あなた方のお手許に入つておりませんか。
  45. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) それは私の方には來ておりません。
  46. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) 今その原稿の草案がありますから、ちよつと約四五分かかるが、読んで見ましようか。
  47. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) なるべく要点を摘んで言うて下さい。
  48. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) 眞木康年行状記。よく参考にお聽き下さい。 「今回勅令百一号に牴触して解散された新鋭大衆党党首眞木康年とは、昭和二十年一月一日より東京台東浅草東本願寺地下室内に二百名乃至四百名を收容せる東京都の委託事業たる戰災者更生会会長として、以來約二ケ年に及ぶ。その眞木康年更生会会長となりし所以のものは、更生会の前身たる中井勝太氏の委託事業たる戰災者救濟産報会の後継にして、その当初にありては、眞木は極度に紊乱せる産報会職員指導員数名を威嚇して改善刷新に努力せしが、同年三月頃、收容者室の第一期工事終了後、実費なりと称して收容者一名より金三円を徴收することになれり。而して同年六月頃まで上野地下道の二回の狩込みと、個人の使用申込み等によつて、約三百名くらいなりしが、現員異動頻繁なるを奇貨として、幽霊人口百名以上を作り、常に四百二、三十名くらいと発表し、都より委託主食は勿論一切の配給物資を詐取し、去る二十二年五月頃まで継続せり。その後当局調査嚴重となりしために、二十二年十二月下旬まで五十名くらいの幽霊人口を作つた。彼はその間、同年三月頃、総選挙にあたり、自由党公認なりと称して、代議士立候補として運動をなし、何ら政治的思慮もなく援助もなく、戰災者更生会事務員等應援演説をさせ、尚栄養失調收容者をビラ貼りその他の雜役に強制的に酷使せり。又彼は收容者栄養失調なれば、副食物に魚肉を與えよと浅草区役所に強請して、同公園瓢箪池の鯉を一網打盡的に漁り、揚水ポンプを使用し、十数名の收容者を酷使動員し相当の收穫ありしが、收容者には鰌一匹も與えず。彼は戰災者栄養失調口実に己の口腹を滿さんがためにしたるものなり。当時非難の声收容者一同に挙る。  又彼眞木戰災者福利増進ため露店経営附帶事業なりと称して、同公園前金龍館、現ロキシー座前の空地を、土地の顔役甲州屋芝山等に強談して借用し、目拔露店十数軒の揚錢掃除代權利金等を毎月相当額搾取し、現今にも及び、私腹を肥し、何ら戰災者には一顧も與えず、日夜酒色浪費せり。  当時彼眞木妻女都度こぼして言う。眞木公園或いは向島等に於て藝者買をなし、一夜に六七千円を費消せりと、二十一年六月頃、彼眞木新鋭大衆党を結成して反共運動に熱中し、都より更生会に貸與されしトラツク、配給ガソリン等を濫用し、都内各所に乘廻り、賣名的選挙事前運動ために拙劣なる打倒共産党街頭演説をなせり。  彼眞木は、二十一年七月頃、一人金四百円の生業資金本会收容者に給與されし当時、彼は当局に対し、收容者家内工業をさせ、或いは露店をさせ、マーケットを經営すると称して幽霊人口を含み約二百十数名の生業資金八万四五千円を横領し、收容者に一錢も與えず、何らの事業も起さず、酒色と賣名的反共運動に費消したり。その後四五名の者区役所に出頭し、右資金を申請せしところ、係員は更生会会長眞木に一括して既に渡し濟みなりとのこと、これを眞木に問わんか、彼の横暴は他に住家なき收容者の弱点につけ込んで退去を命ず、追放すべしと威嚇することは必定なれば、收容者一同は彼眞木生業資金を着服されて遂に泣き寢入りするに至れり。  又彼眞木は去る二十一年四月頃より、都の委託費のみにては経営至難赤字なりとの口実の下に、收容者一名に対し前記のごとく更生福利資金なりと称して一日金三円、月九十円、三十一日の場合は九九三円、同年十月頃一円値上して一日金四円、月百二十円、大の月は百二十四円を全收容者より徴收せり。  二十二年三月頃より自治能力ある者は委託費解消打切なりと称して、当初実費一名十五円より又値上して一級二十円、二級十五円となし、彼が逮捕されし昨二十二年十二月三十一まで徴收せり。即ち彼は都より幽霊人口を含む委託費を受領し、尚その上、右実費なるものを詐取せしものなり。その金額は数十万円に及ぶ。又彼眞木主食白米は勿論、調味料、酒、煙草、菓子、罐詰等多量に瞞着し、或いは配給軍衣、地下足袋、飛行服、タオル、その他ララ物資等、種々なる物を出し吝みなし、又都より無償で受けし物を保証金なりと称して二十円乃至五十円を多数の收容者より徴收し、不正の利を貧り、あの手この手を以て搾取せり。  その間彼は長期に亘り遲配欠配なりとの口実の下に、白米及進駐軍メリケン粉等を多量にストックし、收容者には高梁の粥、蜀黍のすいとん、蒸芋等を給食し、己が家族親戚までも白米及び上質メリケン粉等を常食とし口腹を滿たし、その上委託費実費の二重取りをしながら、副食物のごときは皆目つけず、自由販賣と称して千野菜、魚等は愚か、菜葉の漬物、新香まで收容者に賣りつけ、或いはうどん、パン等も販賣して不正の利を食りたり。  彼眞木は常に安田商事会社の重役なりと称し、多額の月收あるごとく吹聽し、その実更生会不正利得より毎月五人家族、彼の兄と称する堀切康煕家族十八人にて食生活のみにて五万円以上要す贅を盡し、尚その上一夜に六七千円を藝者買に費消し、常に十万円を改造費に要したりという乘用車を乘り廻し、闇ガソリンを入手して新鋭大衆党党首として得意滿面鼻息荒く、或いは何らのイデオロギーもなくジヤーナリストの素質もなき彼は、他人原稿を書かせ、自己宣傳欺瞞的の大衆新聞を発行して廣告料を強請し、或いは産別議長聽濤氏傷害事件に関しては、彼眞木は密かに大塚佐久間の二青年を教唆し実行せしめ、当時彼は警視廳に四五日拘留取調べられしが、証拠不十分なるか放免されるところとなる。  実は彼眞木はその後大塚佐久間両名が保釈となり、眞木の自宅に來訪せしとき、金五千円ずつ計一万円を両名に謝礼か、骨折賃か知らざれども與えたりとの事実ありと、彼眞木大衆党幹部に洩したることありという。  又彼眞木新鋭大衆党宣傳ビラ反共運動及び選挙運動に使用せしものは少くとも五万枚以上なり。その他はがき一万枚以上、闇ガソリン人夫賃銀酒肴料、一切の運動資金出所奈辺にありや、最早説明を要するまでもなし。  彼は又自己の身辺にある大衆党幹部及び從來親分子分のごとき関係ある者に対して、常に俺に裏切りする奴は、不利益な行爲ある者は、俺の手でねむらさずとも、俺に関係なき者の手でねむらしてしまうと威嚇し、殺人的脅迫せりために彼の身邊にある者は少からず恐怖心を懐きて、眞木惡行不正を知ると雖も、今日まで默して言わざる所以なり。  又彼眞木は昨二十二年五月以來浅草吉原附近に許可なくして連込專門京町旅館を経営し、その寢具及び窓硝子等戰災者更生会に都より給與したるものを濫用し、而も冬季來るも硝子数十枚持行きて收容者の寒さに一顧も與えず。又小石川春日町にも許可なくして本会授産事業なりと称して洋裁所を経営せしが、営業不振なるため現在廃業状態となれり。  彼は又私生活においても乱倫好色悖徳漢にして、商賣女は勿論、自家の女中その他の婦女と強引或いは金力を以て情交し、殊に現在眞木妻女きよの連れ子である啓子二十一才にも情交あり。而も姙娠出産し、家庭紊乱は極度に達す。いわゆる義理の親子の色情関係あるは、近隣はもとよりすでに淺草署の刑事も熟知のところなり。  又彼眞木酒氣に乘ずれば、俺は前科八犯なりと威嚇的に豪語す。彼が前科何犯なるや知らざれども、彼の旧知の者の言によれば、彼の前科は窃盗、強姦未遂、暴行、傷害、恐喝、脅迫詐僞横領文書僞造印紙法違犯なりと言えり。又彼は今回の取調中、図らずも拳銃を所持せしと本人の自供及び証人現れしとのことなれど、小生は本件については、眞木が持つておるだろう程度の噂を仄聞せしのみにて、もとより現物を一暼せしこともなければ、本件については殆んど白紙のことし。彼眞木はもとより上述のごとき作爲犯なりと雖も、若し彼に共犯從犯ありとせば、当時会計を担任せる彼の妻女きよ及び事件発生直後今日まで行方不明逃亡のごとき、昨年十二月十二日まで戰災者更生会内務係をせし眞木の兄と称する堀切康煕こと眞木大助の三名なり。その他は眞木に屡々接近せし者ありと雖も、更生会不正事件に関しては派生的にして直結するものにあらず。  以上は小生が彼眞木康年の日頃の行跡について約二ヶ年の間、大賢は愚なるがごとく、大石の畫行燈のごとく、而も烱眼以て常に細心の注意を拂い、彼の行動を檢討したる眞実の結晶なり。  小生は彼眞木個人に対しては多少の厚意を受けしと雖も、彼の惡行を見るときは、義を見てせざるは勇なきなり、社会正義ため彼の罪状を明かにせざるべからず。いわゆる一殺多生は大悲の心、維摩経にあるごとく、惡人を殺すことは蟻を殺すよりその罪軽しの義憤に燃えて、その全貌を暴露せずんば止ます。如何に終戰混乱時代なりと雖も、かくのごとき不徳漢が一政党党首として、又社会事業家の一人として横行濶歩したることは甚だ慨歎の次第である。天網恢々疎にして洩さず、遂に彼の罪状が天日の下に暴露するときが來た。彼がこの期に及んでいまだ図太く詭辯捏造を以て法網を潜らんとすることあれば、その犯意において、動機において、手段において、因果関係においても何ら酌量の値なし、斷乎社会より隔離すべし。社会より完全に葬るべし。何とぞ司直峻嚴なる裁断を仰ぐ。  会長眞木は、今や囹圄の裡にあり。我らは過日彼の保釈歎願書を提出せしと雖も、そは形式的のものにして、事実は本会二百十数名の職員及び、但し齋藤正久氏は除く、收容者は彼眞木に一片の同情を寄せる者一人もなく、却つて会心の笑みを洩らす次第なり。  故に今後司直本件内容について彼眞木に尋問するときは、いわゆる盗人猛々しく、彌縫粉飾遁辞詭辯を弄して全面的に否認ずることは必定なりと雖も、本件は彼の行状については長期に亘り多角的に檢討したる眞相なれば、何ら疑うところなく、義人の声、天の声、彼に一大天刑を異える神の声なれば、賢明なり司直はたとえ証拠湮滅ため不十分なりと雖も、十目の見るところ十指の指すところ、それ嚴なるか、いわゆる科学的推定判断によつて判決されんことを乞う。  因に今回小生が、自発的に眞木行状記なるものを当該諮官に提出したる所以のものは、專ら公益を図る目的と、若し眞木の犯行が漠然たる場合は、老婆心なれど捜査上の指針のため、且つ捜査權の発動を促す意味で提出したるものなれば、この記述に当りては、沈著冷靜、細心の注意を拂い、他人容喙指示を絶対に受けず、窺知檢討せる実情を全面的に発表したるものなり。  一顧せよ、今新鋭大衆党幹部更生会職員、その他收容者二百三十余名ありと雖も、暴力性を多分に有する眞木に挑戰して彼の行状記なるものを極めて冒険、極めて忠実に提出したる勇氣と誠意あるもの一人たりともありや。  本件陳述内容は、小生が彼眞木康年罪状を徹底的に暴露せるものなれば、彼が耳関するときは、彼の陰險なる暴力行爲は、若し最惡なる場合は小生の身命に係わることなきにしもあらずと豫感して、彼らに無抵抗にて殺傷されることは遺憾と思い、機によつて正当防衞の過剰なりとも決行せんと、約一週間程就寢中も夜具の下に短刀を隱し置きし次第なり。」  とにかくこういうわけなんです。
  49. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) そこでもう一つお尋ねしたいのは、眞木眞木事件があつて勾留になつてから大衆党は解散され、戰災者更生会も解散になつた。それで東京都の方でその財産調査に、眞木自身がいなければ、その調査ができないような事情がありましたか。眞木がおらなければその大衆党なり、更生会財産関係調査することができないような状態でしたか。
  50. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) 財務の調査眞木がいなければ調べることが非常に困難だつた。なぜかというと、一番の原簿、こういうものは鼠が小便を掛けたとか、風呂場で燃してしまつたとか、何とか言つている、書類は悉く金庫へしまつたが、眞木の兄の眞木大助こと、堀切康煕という人物が、自分が逃げる前に、何か知らないが、皆破いて炊事場の竈の中にくべてしまつた。それがためにとにかく非常に至難であるということは事実だ。
  51. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) それは眞木が全部そういうふうにして燒いたり、隱してしまつたりしたので、そのため調査ができないのですか。
  52. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) そのために非常に困難なんだ。東京都の人が行つて三日ぐらい掛つて、あつちから、こつちから集めて、非常に苦心して只今あるようなものを拵えたらしいけれども、それは肝腎の原簿がないのだから正確なものと言うことはできない。
  53. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 眞木政党日本自由党に入党しておつたということはありますか。
  54. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) そういうことはよく私は知らない。彼は、自由党院外團だと言つたり、自由党だと言つたり、分らない、だけれども、吉田総裁のところへ行つたとか、吉田茂から花環が來たとか、とにかく自由党関係があるということは言つている。ちよいちよい往復はしていたようなことを言つていたが、果して彼の言うように自由党公認であるかないか、そこまでは分らない。
  55. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 自由党幹部の人のところへ出入をしておつたようなことはありますか。
  56. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) そこまでは、私の範囲外だから知らない。
  57. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) そういうような多額の金を使つているのですが、その金は更生会の方の金を使つたというようなことは、今あなたの言うところですが、その事業財閥が蔭についておつて眞木の仕事に應援をしたというようなことはありませんか。
  58. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) それは分らない、眞木財閥秘密会議みたいなことは、彼はそんなことは一々説明もしないし、こつちも尾行するわけでなし、それはわしに質問するのは無理だ。
  59. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) あなたはそういうことはあると思いますかね。
  60. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) それくらいのことは今日の場合だから、こういう情勢だからまあ、ないとは言えないね。
  61. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 昨年の石炭の國管問題について、眞木はどういう態度をとつたか知つていますか。
  62. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) 眞木は今申す通り、彼はインチキのカモフラージユだから、そんなことは大して関心は持つていない。大学生や何かが大衆党に入党に來て、眞木に質問すると、眞木はいつでも、忙しいとか、ちよつと僕は用事があるとか言つて逃げてしまう。
  63. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) それではどうもありがとうございました。
  64. 大野幸一

    大野幸一君 あなたが眞木行状記を出した先は。
  65. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) 檢察廳の櫻井檢事と、法務廳池田事務官、それから警視廳の第二捜査課長と三通書いて出した。
  66. 大野幸一

    大野幸一君 それであなたに呼出しがありましたか。
  67. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) 法務廳へはちよいちよい四、五回行きましたね。
  68. 大野幸一

    大野幸一君 あなたの上申書によつて詳しいことを聽きましたか。
  69. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) 聽きました。
  70. 大野幸一

    大野幸一君 それによりますと、進駐軍から提供の小麥粉その他ふとん、夜具等自己ために使用しておつたというようなことを書いてありますね。そういうことに対して取調をしようとしなかつたのですか。
  71. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) それはどこか、法務廳か警察か。
  72. 大野幸一

    大野幸一君 え……
  73. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) しなかつた
  74. 大野幸一

    大野幸一君 そうですが、あなたにその事情をよく聽きましたか。
  75. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) ただ私が書いただけです。
  76. 大野幸一

    大野幸一君 その行状記に書いてある内容については、宣誓されたのだから間違いないと思いますが、それを証拠立てるようなものがありますか。
  77. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) それは彼は証拠を湮滅するのがなかなか常套手段だからね。証拠不十分なら無罪だとなれば、或いは三百や大勢集めてそういう工作をするだろう。そういうのを默視する。都合よく行けば知らんで通す。併しながら、そういうことをやはりやつたという事実は、皆んな衆目の見るところ推定判断で大抵分る筈だ。これは殺人犯証拠不十分でも何でも、科学的推定判断殺人罪になつたじやないですか。そういうものは、すつたもんだ、すつたもんだすることはない。
  78. 大野幸一

    大野幸一君 その次、聽濤を刺した事件は、当時から見て眞木は常に暴力を肯定するとか、共産党打倒ためには暴力使つていいという素振りが見えていたか。
  79. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) 素振りか、まあその傾向はあつたですね。
  80. 大野幸一

    大野幸一君 その傾向は……。二人の若い青年聽濤を刺したのも、あなたの考えでは確かに眞木との意思の連絡があつたと思うですか、あなたの考えは……
  81. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) 私の考えといつて個人の考えですか。そんな薄弱なものではない。そんな個人の考えで重大事件をやたらに喋れるか、発表できるものではない。これはアカハタ新聞に出ておつたが、金品五千円とか一万円云々……。アカハタはまあ共産党関係新聞ですが、そのアカハタにも出ておつた。それから新鋭大衆党幹部でも、こつちは大衆党関心がないから、当然あんなものはインチキ政党だと思つてつたから……
  82. 大野幸一

    大野幸一君 堀切は厚生会の会計には全部責任者であるが、事実を知つてつた眞木と堀切は意志の連絡をどうしてやつてつたか。
  83. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) 眞木と連絡を誰が……
  84. 大野幸一

    大野幸一君 堀切という会計課の……
  85. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) あれは堀切は眞木の兄貴だから、当然一つ穴の貉だから……
  86. 松井道夫

    ○松井道夫君 ちよつとこちらも聽きますが、眞木は何ですか、やはり街の親分だつたわけなんですか。
  87. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) あれはね、彼の経歴は警視廳でも知つているから調べたらいいと思うが、その当時戰災者更生会会長になる前から、その前からちよつと浅草では顔を賣出した。まあ博打親分というのでなく、むしろテキ屋の親分、香具師の親分でしよう。だからあの邊の露店の所場代とか、そういうものから幾らか上げておつた、それから土木の請負とか、燒跡整理とかいうことも引受けて、素人でもそういう方面には顔が利くから、中間搾取みたいなことはしておつた。それで近松三次の、御承知かも知れないが、彼が惡いことをして小菅か、府中の刑務所へ入つた。それで近松三次と同じ監房へ入つた。そのとき若けいのどつから來たか、という話になつて、近松親分と意氣が投合して、出たら俺の処に尋ねて來いよということを監房で約束している。それから眞木もそうして見込まれた。ところが幸か不幸か、近松三次がぼつくり死んでしまつた眞木か可愛がられたから、俺がないときは代用品でもいいわ、俺の跡目を継げくらいのことで、近松三次の二代目とか言い出した、そういうような因果関係を持つてつた
  88. 松井道夫

    ○松井道夫君 それでまあそういつたようなものはですね、自分自身が暴力を振うかどうか分らんか、やはりそういうものの言うことを聽かないと、何か暴力に訴えられるかも知らんといつたような一つの怖れ、そういうふうなものを一般が持つておるというようなところまで行つてつたわけですか。
  89. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) え、そう。だから俺を裏切ろうとする者は、俺に不利益を與える者は、俺の手で眠らさなくても、俺の関係の者の手で眠らせる……
  90. 松井道夫

    ○松井道夫君 子分なんかも相当つたようですか。
  91. 太田爲吉

    証人太田爲吉君) あれはね。非常に人扱いが惡いから、子分があつたつて、いざというときは眞劍になる者はないですよ、大体が人心收攬の繰縦がまずいのだ。織田信長とか、何とか言つたつて、丸で金のあるうちは藝者のようにじやらぢやらと寄り付くが、なくなつたら來ない。そのうち二、三の者は特別彼にお蔭を被むつた者があつたかも知れないが、多くの子分は景氣がいいときはわつとついておつても、景氣の惡いときは散つてしまう。從つて親分といつても、親分の貫祿は殆んどないのだ。幾ら惡いやつでも親分ともなれば、多少とも人格の反映がなければ駄目だ、ところが彼には人格の反映なんかない。
  92. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) それでは終ります。有難うございました。    〔証人稻垣源四郎君着席〕
  93. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 稻垣源四郎さんですね。
  94. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) はあ。
  95. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 年齢は。
  96. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) 三十六歳でございます。
  97. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 住居は。
  98. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) 住居は、川口市飯塚町一丁目八百七十に自宅はございます。
  99. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 職業は。
  100. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) 現在工場を経営しております。
  101. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 何の工場ですか。
  102. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) 機械工場です。
  103. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 眞木康年というのを知つておりますか。
  104. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) はあ、知つております。
  105. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) どういう事情で覺えておりますか。
  106. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) 私の隣組におりました者から、一昨年の選挙の頃ですかに、眞木氏のお話を聞きまして、それ以後全然交渉がなかつたのでありますが、私の工場に爭議が起きました際に、反主共義者であるということから、産別の組合であつたのと、そういう事情から、眞木氏に話したらば、解決が或いは早くて、双方に宜いんじやないかという話を聞きましたので、隣組のその人を通じて知つたわけでございます。
  107. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) そうしてそのことを頼みに行つたんですか。
  108. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) 隣組の者が行つて連絡を取つてくれたわけですが……
  109. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) そうして……
  110. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) それより少し前に、私は終戰少し前まで殆んど軍に関係しておりました関係から、眞木氏に対してどういう人かそういうことは知つておりませんので、隣組の不断口をきいていた者の言をすべて信じまして、そういう労働運動に理解のある者ならば、労働攻勢の盛んになるだろうと予想される時期に、相談役になつてつたならば宜いじやないかという考から、相談役になつてつておりました。
  111. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) それはあなたの工場の労働爭議の起らない前ですか。
  112. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) さようでございます。これが、じやそういうふうにしよう、頼もうというだけで、報酬とか、その他決めもしなかつたから、期日ははつきりしておりません。
  113. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 爭議の起つたのはいつですか。
  114. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) 昨年の十月一日に、初まりのは……
  115. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) その時には眞木は相談役になつたのですか。
  116. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) なつて貰うことになつておりました。
  117. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) なつて貰おうという話にはなつてつたけれども、まだ直接には話はしていなかつたのですね。
  118. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) 私の所では届いていたと解釈しております。
  119. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) その爭議には眞木関係したのですか。
  120. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) いたしました。
  121. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) どういうことで……
  122. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) それは爭議に、眞木はすでに経驗があると私は解釈しておりましたもんですから、いろいろ交渉の推移に当つて相談をして、最も賢明な方向に進もうという考でおりました。その程度でまあ相談いたしまして、十月三日に從業員側が私を、五時から翌日の正午までぶつ続けて、向うは二十余名で私一名に対しまして、團体協約を強要したことに対して、これを破棄しようと思うがどうかという相談をして、破棄した方が宜いという意見を眞木氏が言われたので、それに私も同意いたし、破棄しました。それだけで、お互いの交渉が進行するに從つて眞木氏のバツクとして新鋭大衆党があるために、却つて解決がまずいということに、地勞委の委員諸公の意見も行きましたし、私自身もそう考えましたので、途中で手を引いて貰いました。
  123. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) そうしてその爭議の結果はどうなつておるのですか。
  124. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) 結末は、結局非は工員側にあるということになりまして、一切工員側のいうことが通らずに、元通り就業するということになりました。ただ三ヶ月、丁度十二月一杯掛かりましたので、工員が三ヶ月遊んだから費用を出して貰いたい、幾分なりとも出して貰いたいという地勞委の申出で、当時私共も余裕がありませんので、一万五千圓ですか、これは日本機器の川口支部から從業員が借りた費用の一部か全部か知りませんが、費用と、あとは交通費その他というような意味で支給しました。
  125. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) あなたの工場の從業員はその当時何名でした。
  126. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) 二十名しかおりませんでした。
  127. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) そのことについて眞木康年の方へ礼を出したのですか。
  128. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) 全然物質的な要求はされませんので、又最初に眞木氏から、我々が川口へ來たのは、現在ある小工場まで産別派が攻撃をするということは、將來小工場の破滅である、というのは、川口に非常に工場がありまして、約二百軒以上あると思いますが、この交渉がすべてそういう工場まで爭議という形で攻撃を受けるならば、えらい問題でま在から、これは一稻垣工場でなく、全川口工場のために相談に乘るんだという意味で來たんだから、物質的な援助を一切受けないということで、金錢の贈與は一切いたしませんでした。
  129. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) それは新鋭大衆党党首としてそのことに関係したのですか。眞木個人として関係したのですか。
  130. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) 私はそのときまで、バツクというようなことも考えておりませんので、大体個人として考えておりました。
  131. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 新鋭大衆党には、何か埼玉縣に支部がありませんか。
  132. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) 私の聞いておりますところでは、ありませんです。
  133. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 金錢では別に礼はいないけけども、何か物で礼をしたことはありませんか。
  134. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) 一回、手を引いて頂くということになつたときに、塩鮭を一匹下げて行つたと思います。それから私が乘つておりましたオートバイを、眞木氏の乘用車がこわれたという話を聞きまして、ただ修理を終るまで一ヶ月ぐらいだということを聞きましたので、それまで乘つたらいいでしよう、眞木さんは新聞をやつておられるそうだから、ガソリンの配給もあるだろうから、お使い下さい、現在は乘用車は禁止されておりますからと言つて、大体一ヶ月くらいの予定で、無償で貸しました。
  135. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) オートバイですか。
  136. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) そうでございます。
  137. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 價格はどんなものですか。
  138. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) 入手したときに、細かい金額は忘れましたが、一万二三千円じやなかつたかと思います。
  139. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) それはもう返しましたか。
  140. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) それを返して貰わないうちに、解散命令が新鋭大衆党にありまして、これは眞木のものだというので、沒收の形になつております。それで、あれは貸したものだから返して貰いたいと言つて東京都の特殊件何とかという、あれに私自身は行きませんが、人をやつて、返して貰いたいということを言つたのですが、現在法務廳にこの事件行つておるから分らんということになつておりまして、その後法務廳から、この件につきまして聽きたいことがあるというので行つたときにも、現在そのことは分らん、事件の解決がついていないからという話で、そのままになつております。
  141. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) あなたが貸したのは、新鋭大衆党で用いるという意味で貸したのですか。
  142. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) いいえ、それは眞木個人が、自分の乘用車がないというので、それではお乘り下さい、丁度私の持つておりました車が、眞木が前に乘つたことがあるというので、それでは運轉もお分りでしようから貸しましようと言つて個人に貸しました。
  143. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) それを運轉するに要するガソリンのようなものは、眞木個人にでなく、大衆党の方へ來るのじやないですか。
  144. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) その点ははつきり考えないで貸しました。
  145. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 眞木個人では運轉ができないけれども、新鋭大衆党なり或いはその新聞社へガソリンが配給されるから、それによつて運轉ができるというような意味で、あなたの方では貸してやつたのでしよう。
  146. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) そうです。ガソリンはそういう考えで貸しましたけれども、車は要するに乘用車がないというために貸したのです。
  147. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 大衆党の方へは、何か資金のようなものを、あなたの方で援出したことはありませんか。
  148. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) 大衆党とは全然交渉を持つておりませんでした。
  149. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 党員でもない。
  150. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) 党員ではありません。
  151. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 眞木という人は、相当政治的方面に活動しておるので、政党の方からも援助を受けておるというようなことを聞きませんか。
  152. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) それは要するに間接的に知り合つた方なので、党というようなことは存じておりませんでした。
  153. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) あなたを紹介した隣組の人は、何という人ですか。
  154. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) 村山貞男といいます。
  155. 大野幸一

    大野幸一君 その村山という人は、何をしておる人ですか。
  156. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) 鑄物の工場をやつております。工場というか、自分自身でやつております。
  157. 大野幸一

    大野幸一君 その人から、眞木の人物がどういう人だという説明を受けましたか。
  158. 稻垣源四郎

    証人稻垣源四郎君) 要するに、勞働運動に詳しい人であるということを聞きました。
  159. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) それでは用濟みです。御苦勞樣でした。   ―――――――――――――    〔証人本多武雄君著席〕
  160. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 本多武雄さんですね。
  161. 本多武雄

    証人(本多武雄君) そうでございます。
  162. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 当委員会証人としてお尋ねいたしますから、宣誓をして頂きます。    〔総員起立証人は次のように宣誓を行なつた〕    宣誓書  良心從つて眞実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。    証人       本多 武雄
  163. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 先に内務省に奉職になつたようでごいますね。
  164. 本多武雄

    証人(本多武雄君) そうでございます。
  165. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 現在は。
  166. 本多武雄

    証人(本多武雄君) 現在は警察大学校の教授をいたしております。
  167. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 年令は。
  168. 本多武雄

    証人(本多武雄君) 三十三才であります。
  169. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 住所は。
  170. 本多武雄

    証人(本多武雄君) 住所ですか。品川区大井出石町五千五十七番地。
  171. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 内務省におられますときに、眞木康年党首である新鋭大衆党の解散のことについてお取扱いになつたそうですね。
  172. 本多武雄

    証人(本多武雄君) 関與いたしました。
  173. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) その解散になる顛末……
  174. 本多武雄

    証人(本多武雄君) 顛末でございますか。
  175. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) その顛末をお話し願いたいと思います。
  176. 本多武雄

    証人(本多武雄君) これは、解散の理由となりましたことが数点あるのでございますが、第一の点は、昨年の一月でございましたか、新鋭大衆党の党員の佐久間大塚、この両名の者が、いわゆる二・一攻勢の際に、産別の議長の聽濤を刺した事件がございます。それでこの点がこの團体の性格を現わすものとして採り上げられたのでございますが、何故その当時これを解散させずに、その後十二月になつてこれを解散さしたかということが先ず第一点であります。その二月の当時も、一度解散のことが議に上つたのでございます。当時私はまだ調査局に在任をいたしておりませんで、前任者の時代でございますが、課長は代つておりませんでした。その当時の全般的な國内の風潮から、これを解散させる程の暴力行爲とは認定せられなかつたのであります。それで、その後新鋭大衆党はそれによつて一躍有名になつて、我々の調査局におきましても、これをよく注意して見なければならない團体ということになつたのでございまして、その後の情勢を段々見ておつたわけであります。そうすると、その直後でございましたか、新鋭大衆党の機関新聞のような「大衆新聞に」に、聽濤を刺しました行爲を、非常に英雄的行為なるがごとくこれを賞揚するような記事が載つてつたのであります。それからその後、時期ははつきりと今記憶にございませんが、新鋭大衆党の党籍にあつた者……、党籍と申しましても、極めて雜役に從つてつたような者でありますが、それが自動車強盗を働いたのであります。それはたしか、その雜役夫が自動車を途中でかつぱらつて、その運轉手を殺して、そうしてその自動車を新鋭大衆党の本部へ持つて行つて、党の幹部であつた平原という名前の者であつたと思いますが、その平原に、この自動車を賣却して貰いたいというようなことを頼んだ。ところが、それには平原は應じなかつた。この点、ちよつと私記憶にありませんで、タイヤだけだつとか何とかということを、今ちよつと漠然たる記憶にあるのでありますが、そういつたような事件が一つあつたのであります。それから浅草で、大した事件じやありませんけれども、眞木及びその子分による恐喝類似の行爲が相当つたということです。これらの点を綜合いたしまして、新鋭大衆党なる團体は、勅令第百一号、これは進駐軍の指令に基きまして、昭和二十一年の二月二十三日でしたかに出ましたところの政党結社等に関する勅令でありますが、この勅令の第一條の第一項の第七号、一番末項でありますが、たしか暴力主義的性格により政策の變更云々という事項であります。それの後段に照して、これを解散せねばならないと決定いたしました。これが解散の一番大きな理由でありますが、その他にも新鋭大衆党は、その勅令違反行爲を若干犯しております。それは主として屆出違反に関する事項であります。その屆出違反の一つは、党員の数に関する屆出の違反であります。新鋭大衆党は、確かその創立当初と、その後一回、合計二回屆出をしておると記憶しておるのでありますが、その両方の屆出によると、党員が百五十何名かになつたと思いますが、新鋭大衆党をその後調査する意味で、十二月の初めでしたが、眞木に出頭を命じたわけであります。当時の調査局長西村直己が出頭を命じたのであります。そのときに彼が持つて参りました党員名簿、これは正式に屆出の形にしたものではありません、ずらつと名簿式に書いたものでありますが、それによりますと、正式に屆出をしておりますものよりも、数十名多くなつておる。この党員屆出に関する違反が一つ。それから財政に関する屆出の違反があつたのであります。それは新鋭大衆党の党費の屆出、これは一万円という屆出が一回あつたのであります。ところが進駐軍の方で直接調べたものであるらしいのでありますが、進駐軍のG・Sの方に出ております党費の屆出には、たしか数万円の記載があつたと思います。大体政党というものは、一千円以上の政党に対する献金は、これを所属の市区町村長に屆出なければならないが、その正式な屆出がない。この財政に関する違反が一つ。それからもう一つは、新鋭大衆党には支部があつたわけであります。その支部は、確か青森に一つ、それから仙台に一つ、それから三多摩。青森の分はどうも不確実であります。併し仙台の支部は結成せられたという確かな情報があつたように記憶しております。それから三多摩の支部も現実に存在して、一種の党活動をやつてつたわけであります。この三つの支部に関する屆出がない。これらの屆出違反が新鋭大衆党にありました。それでこの一つは、團体の性格を現わすところの、いわゆる暴力主義的な性格、これが勅令百一号の第一條に関するもの。それから屆出違反の点がある。その両者を合せて、これを解散するという結論に達したわけでありますが、その当時、これをどうしても解散させなければならないところのいろいろな事情がその外にも、ちよつとそれは申上げにくい点もあるのでありますが……
  177. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) ちよつと速記を止めて。    〔速記中止〕
  178. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) それでは速記を取つて下さい。この昭和二十二年十二月二十二日の内務省当局談として発表されたのは、これはこの通りのことであなたがた御承知でしようね。
  179. 本多武雄

    証人(本多武雄君) これは私が起案をしまして、それで上司の決裁を得て発表したのです。
  180. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) そうすると第一の理由は、暴力を以て制度の変革を企図しておるというようなことと、それから後には党員の中には相当犯罪者もあり、一方その党としても政令を守らずに、党員の屆をしないで、支部を設けても支部設置の屆出もせず、屆出を怠つている。そういうような違反行爲もあつたからして、それを理由にして解散を命ぜられたというわけですね。
  181. 本多武雄

    証人(本多武雄君) そうでございます。
  182. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 当時は内務省としては眞木というのはそう偉い党首だと思つておられたのですか。
  183. 本多武雄

    証人(本多武雄君) それほど大したものだとは実は思つておらないのですね。反共産党として彼が相当有名な存在……その数日後に反共國民大会というのを上野公園かどこかでやることになつておりました。事実眞木がいなくてもやつたのですが、反共産党としては有名な團体でした。
  184. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 党の資金のようなものは、どこから出たかというようなことについてはお調べになりませんでしたか。
  185. 本多武雄

    証人(本多武雄君) それがどうもよく調べて見たのですが、なかなか分らないのです。或る情報によると、何とか新聞、これもちよつとはつきり知らないのですが、何とか新聞の社長から五十万円出たとか言いますし、眞木は、自分の家内の方から出ておるというようなことを言つてつたのです。どうもこいつは捕捉し難かつたのです、資金の出所につきましては。
  186. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 政党として、自由党なり、民主党なり、そういう政党眞木政党との関係は、何か連絡があると思つておられたのですか。
  187. 本多武雄

    証人(本多武雄君) あるという推測は付いておりました。大体あるだろうという推測を付けましたけれども、そこまで深く、誰と実際に関係しておつたとか、誰から金を貰つたとか、そこまで深く突込むだけの能力は我々警察ではございません。又そういう政党捜査するというようなことは、昔の特高警察の時代ならばともかく、そういうことは我々余りしたくないことで、勅令百一号の違反を捜査するという義務はありますけれども、そう深く突込んで行く權限もないし、そこまで行きませんでした。
  188. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 石炭の國管問題について眞木運動しておつたというようなことはお聞きになりませんでしたか。
  189. 本多武雄

    証人(本多武雄君) 石炭問題、それは私は聞いておりませんです。そう言われれば、何かそういうビラを見たような記憶もありますが。
  190. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 眞木子分がビラを各方面に貼りつけたというようなことを聞きませんでしたか。
  191. 本多武雄

    証人(本多武雄君) 國管問題につきましてはね。何か片山内閣打倒のようなビラを貼つておりましたが、当時。その中に石炭國管問題に触れておつたかどうか、ちよつと記憶にありません。
  192. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 反共國民大会、それと眞木との関係はどうですか。
  193. 本多武雄

    証人(本多武雄君) これは反共國民大会というのは、眞木はその前の年に、そうですね、去年の四月に一回やつているのです。四月の二十九日に宮城前で。それから十二月の十四日にやろうとして、相当全國の反共團体に対して招待状を出しておりましたが、当日集まりましたのは、これが解主後でありましたので、非常に少かつたようでございます。確かに反共國民大会を、新鋭党が主催で十二月一四日に開催しようとしておつたことは事実です。
  194. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) 四月のときはどんなところまで進んだのですか。
  195. 本多武雄

    証人(本多武雄君) 四月のときは、あれは何でございましようね、宮城前で大勢の反共團体が集まりまして、交々その代表者が反共演説をやつたという程度でございましようね。私はそのとき別にそれを見に行つてもおりませんし、よく存じないわけです。
  196. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) それは眞木新鋭大衆党が主としてですか。
  197. 本多武雄

    証人(本多武雄君) たしか指導したのだろうと記憶しております。
  198. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) その費用は、大衆党反共運動をしたについての経費というものは、どこから出たのですか。
  199. 本多武雄

    証人(本多武雄君) 経費ですか。これも私よく調べておりませんから分りません。その当時からの新鋭大衆党に関する書類は、私は特別審査局の調査課に、新鋭大衆党解散当時の書類を全部置いてあります。それにこまごまとメモして置きましたから、それを見れば詳しいお話もできたと思いますが、今日突然でありましたので、詳しいお話もできません。
  200. 鈴木安孝

    委員長鈴木安孝君) どうも御苦勞でした。それでは今日の会はこれで散会いたしまして、明日又午前十時から開会いたします。    午後零時五十四分散会  出席者は左の通り。    委員長     鈴木 安孝君    委員            鬼丸 義齊君            大野 幸一君            松井 道夫君   証人    戰災者更生会事    務員      太田 爲吉君    機械工場主   稻垣源四郎君    警察大学教授  本多 武雄君