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証人(黒川義雄君)
戰災者更生会に貸しました
自動車「くろがね」号という小型の乘用車、丁度ジープの中型のようなもので、それから今一台は貨物
自動車、二台であります。最初の「くろがね」号の方を貸しました顛末からお話いたしたいと思うのです。終戰の年の
昭和二十年十月二十七日に浮浪者対策のために初めて民生局の厚生課に保護係というものが新設されまして、私は係長にな
つたのであります。その当時都内に行路病人或いは行路死亡人が非常に殖えて参りました。私の記憶では二十年の十一月頃だと思いますが、GHQのPHWのモルトン少佐という方が主として行路病人及び死亡人
関係の仕事を担当しておられました。その人の提唱によりまして、都の、現在は衛生課にな
つておりますが、当時民生局の医務課長或いは私、或いはそれから
東京都の
医師会長、その他医療
関係の人が十五、六名、神田の日本
医師会館に呼ばれまして、私はアメリカの
事情はよく存じませんが、向うでは行路病人或いは死亡人が出ました場合には、その死因を
調査して、これを公表する。そうして都民に対して伝染病その他についての不安を持たせないようにするということが行われているようであります。それを日本において実施したいというようなお話がありました。趣旨は非常に結構でありますが、それで決まりましたのは先ず第一に榮養失調或いは伝染病の疑によ
つて死亡した死分につきましては
從來警察医がただ檢証するだけで、あと処置をしたのでありますが、これを死体解剖に付してそうして死因を究明するということが決まりました。で、もうすぐに、その会見から、殆んど一週間も余裕がなか
つたと思います。十一月二十三日からそれを実施するように申されました。私共はそれが非常に困難であることは承知してお
つたのでありますが、当時進駐軍のそうい
つた注意といいますか、勧告というものは、一種の命令的に我々取
つておりましたが、万難を排して実行するということを決意したわけであります。ただ実際問題としまして、我々が死体を運搬すべき
自動車等の搬送用具等も持ち合わしておりません。それでそのとき
警視廳の方へお願いしたわけであります。
警視廳の保安部長が西村さん、その後どつかの知事になりましたが、西村さんでありました。話しましたところ、
警視廳の方で救急車があるだろう、それを貸して呉れと言いましたところ十二台あ
つたが全部燒けて一台しかないから、それじや外の方の車を廻そうということで、当時目黒の十七部隊に車或いはトラックが何十台か置いてありました。そのうち「くろがね」号同型のものを三台貸すからということで私共も引取りに強
つたのであります。引取を指定されました日にこちらの牽引車が故障しましたために、翌日当時の保護係の沢田という主事が現地に行きましたところ、二台は全然修理不能で、使用不可能の
状態でありましたので、一台だけ引取
つた。しかし、これも修理しなければ使用に堪えないということで直ちに……、現在十七部隊の跡には目黒厚生寮という浮浪者の收容施設にな
つておりますが、そこに菅沼という今
自動車の修理工場をや
つている人に修理を頼んで、一方私共は止むを得ませんので荷車或いは牛車等を使
つてそういう死体を東大の医学部の法医学の教室の死体解剖室に運んだのであります。その車が翌年の二月頃に漸く修理できたのでありますが、試運転というような形で民生局で使
つておりました。そのうちこの仕事が四月一日から、新年度から厚生課でやるものでなく、医務課でやることになりまして、仕事が移管になりましたので、同時に都の方でも本格的に予算が決まりまして、そうい
つたいろいろな準備が整
つて参りましたので、この車がそうい
つた仕事のために不用にな
つたのであります。ただ当時、大体終戰の年の十月二十五日に第一回の上野駅の一斎收容を始めましてから、頻繁にや
つてお
つたのでありますが、一応大きな收容をや
つてお
つても、上野附近には尚多数の浮浪者がありまして、常時そういう人を搬送するために必要であるということから、実は私共の方が直接倉庫でもあればそういうものをそこへ置いたのでありますが、止むを得ません。下谷区役所に保管させようと思いましたが、向うでは適当な場所がないということだ
つたのです。できるだけ上野に近い施設だということで、東本願寺の地下室に
戰災者厚生会がありましたので、そこへ備え付けて、半ば強要というくらいの
意味合で、正式に貨したということでなく、強要という
意味合を以て当初は配置したのであります。
戰災者更生会は浮浪者の收容については非常に協力的であ
つたということと、いま一つは施設として不完全でありまして、その前年の何月頃でありましたか、冬の眞つ最中でも鉄筋コンクリートの上に莚を敷いている
状態でありました。芦田総理大臣も、当時厚生大臣であすこにお見えになりまして、この世に地獄と言われて、都下の新聞に大きく書かれたこともあ
つたのであります。そういう
状態でありまして、一時あすこに保護する病人その他の処置をあすこでしまして、恒久的施設に移すというようなわけで、恒久的施設の外に、一時的な保護所という
意味も含ましたわけでありましたから、特に車が必要だというわけで、あすこに配置したのであります。ところがこの車は非常に故障度が多くてあまり活用できませんし、又多数の人員の食糧運搬或いは病人の搬送等につきまして、到底不十分であるので、その後重ねて
警視廳に依頼しまして貨物
自動車の貨付を受けて、これを配置したわけであります。小型
自動車は事実上使えないような
状態にありましたので、実は私共昨年これを送還して貰おうということを、内部で話合
つてお
つた状態であります。そういうわけでこの車を配置しましたので、外にも貨物
自動車につきましては、他の施設にも大体一台ずつ貸してあります。ただそういうわけがありましたので、あすこだけ小型の
自動車が一台余分に貸出されたようなことにな
つておりますが、他にも上野近辺には忍ヶ岡の
更生会館というものがありまして、あすこには公園前の霊柩車を借りまして、これも一台余分に、そうい
つた搬送用のために常備しておいたのであります。これは公園課の方で必要が生じましたので、返還して貰いまして、現在は公園課の方に私共の方から更に返却したようなわけであります。そうい
つたわけで車を貸したようなわけであります。