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1948-09-10 第2回国会 参議院 司法委員会資格審査不実記載に関する小委員会 閉会後第5号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十三年九月十日(金曜日)    午前十時二十分開会   —————————————   本日の会議に付した事件資格審査表不実記載に関する調査の  件   —————————————
  2. 伊藤修

    委員長伊藤修君) それではこれより裁判官の刑事事件不当処理事件等に関する調査の小委員会を開会いたします。本委員会は、不実記載に関する事件の小委員会でありますから、それを御承知願います。本日は忙しいところを御出頭願いまして恐れ入ります。お体はよろしうございますか。
  3. 平野力三

    証人平野力三君) 病氣が完全には治つておりませんが、大分よくなりまして、裁判所の方もまだ事実審理はやつておりませんが、証人申請のほうは一週一回或いは二回の程度で現在継続しているわけであります。大体本日の何におきましては、できるだけ一つの陳述をいたしたいとこう思つております。
  4. 伊藤修

    委員長伊藤修君) ではあなたに関することにつきまして御供述を願いますから、供述を願う前に、まず宣誓をお願い致します。宣誓文を朗読して御署名を願います。    〔総員起立証人は次のように宣誓を行なつた〕     宣誓書  良心に從つて眞実を述べ、何事もかくさず、又何事もつけ加えないことを誓います。     証人      平野力三
  5. 伊藤修

    委員長伊藤修君) それではお尋ねいたします。あなたのこのたびの刑事事件経過一つ簡單にお述べ願いたいと思います。
  6. 平野力三

    証人平野力三君) 坐つていて宜しうございますか。
  7. 伊藤修

    委員長伊藤修君) どうぞそのままで。
  8. 平野力三

    証人平野力三君) 月日等については必ずしも正確には記憶ありませんが、大体今年の二月資格申請書に対する記載漏れという意味において、東京地方裁判所において起訴せられたのであります。私といたしましては、自分資格審査については、嘗て民事裁判において資格保全仮処分が許されておつて、その仮処分日本裁判権なしという理由で取消されたのであつたので、本件刑事起訴事件の起こりました当時、裁判所に対して民事について裁判権がなければ、刑事についても裁判権がない。從つて我々は新しい憲法のしたに裁判を受けるのであるから、憲法には民事刑事という区別はない。基本的には國民の人権ということになつているから、刑事裁判権があるならば民事にも裁判権があるとして自分資格を保全して貰いたい。若し民事について裁判権がないならば、刑事についても裁判権は同様ないのであるから、裁判権なきものの裁判は受けられない、こういう主張を三月四月五月上旬くらいまでに亘つて、延々裁判長に愬えたのえあります。然るところ裁判長は、自分刑事裁判だけをやるのだ、民事民事刑事刑事であるからとにかくやる、強引に裁判進行を強制せられたのであります。そこで私は弁護人と相談をいたしました結果、かような重大な裁判については、まず裁判権問題が明確に裁判長から説明せられないのに、ただ裁判を受けるということは、單に平野一個の問題ではないから應ぜられないということを主張いたしたのでありますが、或る裁判長は、それにも拘らず強引にやる。こういう宣告があつたので、それでは裁判長を忌避しますということで、裁判長を忌避したのであります。爾来六月一杯この裁判長を忌避いたしました忌避いたししました忌避裁判か、文書によつておこなわれておりまして、この問題は地方裁判處最高裁判所共にこちらが忌避いたしましたことは棄却せられまして、六月三十日から、改めて裁判が継続せられることになつたのであります。元來一回忌避した裁判でありますので、裁判長の変更を願い、又裁判権問題についても、最高裁判所等において民事刑事矛盾を解いた上に、裁判を受くべきものであるという考え方を持つてつたのでありますが、併し六月三十日から又裁判を継続するということになつて事件進行したのであります。時たまたま丁度私は四月下旬から抑鬱病に悩まされておりまして、丁度新たにかような裁判を受けるに当たつては健康の診断をいたしたいと思いまして、それぞれ専門の診断を受けたところ。抑鬱病であつて、大体二ヶ月くらいの靜養をようするという診断書貰つたのでありますが、併しそれにも拘わらず裁判所の方においては、裁判はあくまで継続をしたいう御趣意でありまして、そこでいろいろ折衝いたしたら、平野個人に対する審理は後廻しとして、証人だけを先に調べるということに相成りまして、現在といたしましては、健康を見計らいながら、大体一週一回ぐらい証人申請を、大体去る六日までで五回程進行いたしまして……現在總云う進行状況でございます。
  9. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 刑事事件を御進行なさる上において、弁護人を御選定になりましたのですね。
  10. 平野力三

    証人平野力三君) はあ。
  11. 伊藤修

    委員長伊藤修君) その選定方法とか理由はどういうふうなものですか。
  12. 平野力三

    証人平野力三君) 弁護人は三人でありますが、二人の弁護人民事の私の資格に関する地位保全仮処分当時の弁護人を二人と、一人は刑事について非常に專門の知識を持つておる弁護士であります。こういう形で弁護人選定をいたしました。
  13. 伊藤修

    委員長伊藤修君) その民事関係しておつた方は誰方と誰方ですか。
  14. 平野力三

    証人平野力三君) 岡本二郎さんと丁野暁春さん。刑事の方は山崎佐さん。三人であります。
  15. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 弁護人との間に公判の進行状態について何かあなたから特に御註文があつて、お打合せになつたことがありますか。
  16. 平野力三

    証人平野力三君) は、初は先刻申しましたように、裁判権問題について、先ず裁判権ありや否やということを、憲法上明確にしてから裁判を受けたい。これは私の意見であり、弁護士諸君意見も大体同様でありました。それから事実審理はやはり本人の完全なる健康を待つてやるべきであるいう意見は、私の意見でもあり、弁護士意見でもありました。それで現在は証拠申請、これは裁判所の方もそういう希望で、檢事もそういう希望であり、弁護士もそういう希望であつて、大体証拠申請を現在やつておる。こういう状況です。
  17. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 巷間傳えるところによりますと、あなたが特に法廷闘争を繰り返しているというようによく傳えておりますが、それは眞実と合致するのでしようか。
  18. 平野力三

    証人平野力三君) 事件延期しなければならんというようなことから、特に延期等をいたしておることは絶対ありません。問題は先刻申上げたように、民事裁判権なしというものなのか、刑事裁判権ありということは、今でも実は率直に申しますと、これはよく一つのこの司法委員会等においても御検討願えば結構と思うのですが、実はこれは疑問のままに、まあ弁護士の方でもこの点は保留して、事件を進めておるのでありまして、この問題を明らかにするために、事件最初二ヶ月ほどの間毎回裁判所において、裁判長に向かつてこの矛盾を明らかにしてから裁判を受けたいと思うということは言いました。併しこれは決して裁判延期する趣意からではなく、苟しくも堂々と裁判を受けるという本人の心境から行けば、質すべきは飽くまで質す、如何に被告人であつても罰を受けない間は別に何ら臆するところもない。立派な國民の権利である。裁判長に向かつても、理不盡なことはあくまで我々はこれを質して行く。その間に相当時間を取つた。これは決して延期ではありません。もう一つ御了解を得たいのは、裁判長を忌避しました。これは判事も忌避したのであります。それは裁判というものは予断を持つて裁判すべきものではないのであつて被告人にどうしてもこの裁判長は公平にやる裁判長であるという印象を與えるのは裁判所の義務であつて、これ亦当然の処置である。而もこれは本当は最高裁判所まで行きたかつたのであるが、実は二回で打ち切つたのは、余り世間に理窟ばかり言うておるようにおもわれては惡いというので、むしろこれらの点においては幾らか一歩退却したくらいでありまして、決して延期論ではありません。病氣の問題でありまするが、本件はお調べを願つても分かりますように、私の経歴の二十年、三十年に遡つて経歴でありまして、殊に農民運動の歴史というものは、委員長もよく御承知でありましようが、非常に年月日、そのときの状況といふものは複雑であつて、これが普通の演説会座談会であるならばともかく、裁判所というようなものが刑事事件になるかならないかということを調べるその事件においては、少なくとも事件記憶頭腦が明確なときでないと、これは裁判を軽々に受くべきもんでない。そこで健康の回復を持つてと言うたので、これも決して延長主義ではない。正当な主張である。現に診断書も、虎ノ門病院龍博士慶應植松博士帝大内村教授等診断書いずれ揃つてのことでありますから、裁判の受け方については極めて自分は良心的に堂々と受けておる、こういう自信を持つておる。
  19. 伊藤修

    委員長伊藤修君) あなた当面の事件についております前後二回に亘る資格申請に関し、どんなような運動というて宜いかどうか、運動をなされたか。
  20. 平野力三

    証人平野力三君) ちよつと分からんですが……
  21. 伊藤修

    委員長伊藤修君) あなたの問題になつておる資格審査は前後二回に亘りましたね。
  22. 平野力三

    証人平野力三君) 前後二回というと……
  23. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 資格審査の問題が……
  24. 平野力三

    証人平野力三君) は。
  25. 伊藤修

    委員長伊藤修君) それに対してどういうような運動、と言つて宜いか惡いか、言葉は適当でないかもしれませんが……
  26. 平野力三

    証人平野力三君) 私の資格審査は嚴密に申しますと、四回受けたのであります。第一回は二十一年の衆議院の総選挙、このときは資格はパスでした。第二回は二十二年の総選挙であります。このときも資格はパスしております。第三回は國務大臣になるときの資格審査、これも完全にパスしております。第四回は農林大臣を罷免せられまして、政府が追放の枠を拡め資格審査にかけたときであります。このときは新聞で御覧の通り、非常な紛糾を來し、十二月二十六日の第一回においては非該当となり、越えて一月十三日には該当となるという、非常に複雑なこととなつて、それで裁判所に訴えて、裁判所は私の地位を保持し、それが通らず、刑事問題になつた、こういう経過であります。大体四回であります。
  27. 伊藤修

    委員長伊藤修君) その間に関係方面に連絡なさつたようなことはありますか。
  28. 平野力三

    証人平野力三君) それは資格審査委員会から、弁明書というか、それに対する反証というか、そういう書類を提出せよというときには、極めて丁寧に書類を提出いたしました。
  29. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 別に口頭で何かお述べになつたことはないですか。
  30. 平野力三

    証人平野力三君) 委員会へ呼び出されて、口頭で述べたことはありません。総て書面です。
  31. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 関係方面は?
  32. 平野力三

    証人平野力三君) 関係方面も総て……勿論それは個々の委員に、時に非公式にのべたことはありますが、正式の問題は総て資格審査委員会へは文書で出してあるのです。
  33. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 貴方が農民運動政治運動に入られた動機というものを、まずお伺いしたいと思います。
  34. 平野力三

    証人平野力三君) 私は大正十一年に早稻田大学を卒業いたしたのでありますが、丁度私が在学中は、早稻田大学には大山郁夫佐野学猪俣津南雄安部磯雄北澤新次郎、こういうような社会主義共産主義を奉ずる学者、教授がありまして、学生時代これらの教授思想の影響を受けたことは、大体私が社会主義者としてのスタートの第一歩であります。私はこれらの教授の中、佐野猪俣等共産主義教授意見は、私としては賛成し得ざるところでありまして、安部磯雄北澤新次郎等の穏健な社会主義自分信條として学窓を出たのであります。当時帝大には新人会という吉野作造氏を中心とするデモクラシーの團体がありまして、これらの諸君は、例えば麻生君、赤松君、高橋君等は労働運動に身を投じ、私共早稲田を出たものは、三宅正一君、川俣清音君、淺沼稻次郎君等、不肖私もそうでありますが、大体農民運動に投じた。これが大体当時の思想の動向であります。
  35. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 大正十年日本農民組合加盟当時、あなたの活動状況地位並びに交際せられた主なる人ですね。
  36. 平野力三

    証人平野力三君) 学校を卒業いたしまして、その年直ぐ日本農民組合宣傳部長つたと思います。それに就任いたしまして、当時日本農民組合関西本部がありまして、賀川豊彦杉山元治郎氏が関西方面の担当である。関東方面鈴木文治氏が関東方面会長であり、私は関東関係鈴木文治氏の下に新潟縣群馬縣山梨縣千葉縣等農民運動に参加しておつたこういう状況であつた
  37. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 大正十五年の全日本農民組合同盟ですが、その当時はどうですか。
  38. 平野力三

    証人平野力三君) かようにして農民運動をやつておりまするうちに大正十五年になりますと、日本農民組合本部及び連合会の主要府縣に共産党めフラクションができて参りまして、いわゆる反共の思想をもつておる指導者排撃運動が非常に猛烈になつた。それに加えて共産党の戦術は徒らに過激になる闘争を展開して、小作人を無理に刑務所に留置し、無理に農民犠牲者ができることをもつて快とするというような方針が実際の組合運動にとられたので、私としては農民運動責任のある立場から、常に農民現実利害というものを無視した農民運動というものは容認できん。敢然起こつて日本農民組合における共産党フラクション排撃運動を起こしのであります。從つて大正十五年京都における日本農民組合、第四回大会においては分裂いたしまして、私の率いる山梨縣福岡縣等主要連合会日本農民組合等、実際に脱退いたしたものが只今御指摘のたしか全農民組合という称呼と相成りましたが、非常に長い名前でありますがそういう團体を作つた
  39. 伊藤修

    委員長伊藤修君) その当時のあなたの地位は。
  40. 平野力三

    証人平野力三君) たしか主事でなかつたかと思います。
  41. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 当時の主なるお名前は。
  42. 平野力三

    証人平野力三君) 会長早稲田北澤新次郎君だつたと思います。同僚は稲富タカトあるいは北山一藏という諸君つた
  43. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 同年ですが日本農民党関係なさつたようですね。
  44. 平野力三

    証人平野力三君) はい、たしかその年の秋だつたと思いますが、その組合中心として日本農民党を作りました。
  45. 伊藤修

    委員長伊藤修君) それはどういうような考えですか。
  46. 平野力三

    証人平野力三君) これは大体農民農民党へというスローガンだと覺えておりますが、まあそのときの一々の要綱記憶いたしませんが。私は中央無産政党内における主として農民中心した政党、たしか私はその政党幹事長つたと思います。その会長はたしか高橋亀吉君だつたと思います。
  47. 伊藤修

    委員長伊藤修君) その他の同士の方は。
  48. 平野力三

    証人平野力三君) 大体農民組合の幹部と同じです。
  49. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 越えて昭和三年ですが、日本大衆党当時のあなたの御関係理由は。
  50. 平野力三

    証人平野力三君) 当時無産政党は四分五裂いたしまして、麻生君のやつておる全國労農民党と思いましたが、麻生久君、浅原健三君の九州民憲党或いは岐阜においては中部農民組合ですか、各地の沢山の無産政党が或いは中央地方を通じてできまして、かような状況であつて勤労階級の意欲を満足することができないということから全線統一運動が起こつて、私の関係しておる日本農民組合もこれらの全線統一加つて、たしか昭和三年と記憶いたしますが、日本大衆党ができました。この政党麻生君が委員長で、私が書記長河野密君が副書記長で今の河上丈太郎君とかその所属代議士である浅原健三君もその所属代議士であつた記憶します。
  51. 伊藤修

    委員長伊藤修君) その政党理念はどうですか。
  52. 平野力三

    証人平野力三君) 当時大体共産党にあらざる無産政党要綱というものは、大体大同小異でありまして、まあ勤労階級利害対象として搾取なき社会を建設するとういような点に重点があつたと思います。
  53. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 越えて翌年の四年ですが、山梨縣農民労働党というものをお作りになつたことがありますか。
  54. 平野力三

    証人平野力三君) 私共はそこで大衆党が又分裂をいたしまして、私は一時余りに離合集散が激しいので、自分運動基盤である山梨縣に帰りまして、一年二年か、二年か三年でありましたか、中央政党関係なく地方に蟄居したことがあります。その時代が今御指摘状況であつたのです。
  55. 伊藤修

    委員長伊藤修君) それは山梨縣だけですか。
  56. 平野力三

    証人平野力三君) はい、山梨縣だけです。
  57. 伊藤修

    委員長伊藤修君) では地方政党ですか。
  58. 平野力三

    証人平野力三君) 地方政党です。
  59. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 考え方は。
  60. 平野力三

    証人平野力三君) 考え方は前の大衆党と特に違つたというところはありません。大体やはり勤労大衆利害対象とする点にあつたと思います。
  61. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 昭和六年に日本農民組合に御関係になりましたか。
  62. 平野力三

    証人平野力三君) そういう政党離合集散の間に農民組合も亦離合集散が行なわれまして、実はこの農民組合がその後後々名前が変わつたのでありますが、これが又全日本農民組合とか又戻つて農民組合となり、御指摘昭和六年くらいに又農民組合と戻つたかとおもいます。
  63. 伊藤修

    委員長伊藤修君) そのときはどういう御関係ですか。
  64. 平野力三

    証人平野力三君) 日本農民組合においては中央委員であつたことは間違いないと思います。或いは私が主事であるという記録もありまして、これは少し健康が回復しましたら一つ私も当時の記録を調べて、果たしてどういう中央委員であつたか、主事であつたかという点を明らかにして裁判所に陳述したいと思います。唯関係つたことは間違いありません。
  65. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 以上私の方で指摘いたしました各御関係團体ですね、関係されたあなたの農民運動労働運動に対する思想的の地位ですね、どういう考え方が一貫してなされたのですか。
  66. 平野力三

    証人平野力三君) こういうように考えておるのです。学校を出ますときは、大きな意味において社会主義、それは資本主義に対抗するものとして社会主義、これは今も当時も変わりないのですが私は、併し実際運動方面に入つて見て特に日本共産党といつたら一番当たるんだと思いますが、大正の末期頃からとにかく日本の國内において日本労働組合民組合は指導した日本共産党諸君、私は敢て日本共産党といたしておきたいと思います。それらの諸君の行動は私は言わしむるならば無責任である或いは一定の自分考え方以つて日本現実に合わないものを押しつける、この点については私も正義感と言いまするか責任感から深く私は反対の意思を以つて闘つたのであります。そこで我々としてはイデオロギー的にどう分解したかというと、そこで共産主義というものと社会主義というものを区別した、從つて私の一貫せる農民運動というものは、これは組合の名称がどういう名前に変わろうと何であろうと民主主義の見地において、共産党と対抗する一貫した私は社会民主主義を奉じて農民運動を今日までやつて來た者である。終戦後の今日においても私はその点においても変わるものでありません。こう信じておる。民主主義であります。
  67. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 今のお話でありまするが当時の社会民主主義という理念と当時の社会民主主義という理念とは今日の唱えられているところのものと一致しておつたのでありますか。
  68. 平野力三

    証人平野力三君) 民主主義というものにもいろいろ学術上の意味がありましようがあるがままの実体、この実体の上に正しく認識して運動を展開する。或る特定のものを以つて押付けるのではないのだ。つまり本当の底から大衆組合として組織されたものの上に、自己の基盤を置くということが正しい責任ある運動であるという意味から、その点においては学窓を出て飛び込んだときも今もそういう形において私の思想は変わらない。責任なきものは私は嫌いなので、民主主義というものは理解と納得と忠義であるという私の解釈から言えば、私は一貫して民主主義に変わりはない、こう信じている。
  69. 伊藤修

    委員長伊藤修君) そうすると今日の考え方と変わりないという信念でありますね。
  70. 平野力三

    証人平野力三君) 左様。
  71. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 昭和十一年國家社会党というものが結成されましたですね。
  72. 平野力三

    証人平野力三君) はあ。
  73. 伊藤修

    委員長伊藤修君) そいつに御関係になりましたか。
  74. 平野力三

    証人平野力三君) 私は当時これも無産政党離合集散になるのでありますか、社会民主党を脱退して赤松克麿君の日本國家社会党準備会というものが確かできたと思います。その準備会には若干関係したと思います。日本國家社会党が結成せられる前にその準備会を脱退いたしておりまして、厳密な意味においては日本國家社会党には関係はない、こう考えております。
  75. 伊藤修

    委員長伊藤修君) その國家社会党とその社会民主党ですか、当時あつたですね。その関係はどういうものですか。
  76. 平野力三

    証人平野力三君) 当時社会民主党國家社会党分裂をするときには、党を解党して届く大志に同志を求めて新しい政党を立てようという意見と、それから社会民主党は飽くまで社会民主党で残しておくのだ、その上で政党の合同を図るんだという方法論が確かこれは昭和七年の春だと思いますが、今の片山哲君と赤松克麿君との代表的な意味において社会民主党内において意見対立を來たし、それか分裂をしたのであります。社会民主主義國家社会主義対立というような記事がよく当時の新聞等に出ておるやうでありますが、社会民主主義というような主義はないので、つまりその当時の対立は当時の記録に徴しても明らかなようにむしろイデオロギーの対立というよりも運動方法論対立解こう解釈している。
  77. 伊藤修

    委員長伊藤修君) そうすると國家社会主義とか國家社会党とかいずれにしてもその政党の考えることは、國家社会主義というのはどういう考え方ですか。
  78. 平野力三

    証人平野力三君) 國家社会主義というのは当時私が自分の認識として承知いたしておつたのは、一國が一國の中に社会主義を行なうのを國家社会主義という、つまり日本日本だけで社会主義をやる、ドイツドイツだけで行なう。イギリスイギリスの中だけで社会主義をやる。一國が一國だけで社会主義國家を建設させるのを一國社会主義、或いは國家社会主義という。共産主義は或るは、第三インターナショナルで、國際共産党で、國際共産党で、國際的な連盟の下に初めて万國の労働者連盟せよと言つた、つまり共産主義理念から言うと國境を超越した國際共産党、或いはこれを國際社会主義とも呼んでいるのでありますが、その区別であつたと思います。経濟の実態から言えばその一國一國に行なうところの社会主義であるから、別にこれは國家社会主義というものが侵略とか軍國とかいう意味を含んだものではない一國の社会主義である。こういう理念であつたと思います。
  79. 伊藤修

    委員長伊藤修君) そうするとその國家社会主義という理念の中には侵略という意味は含まれていないわけですか。
  80. 平野力三

    証人平野力三君) そうです。ちよつとお断りしますが当時國家社会主義解釈にも千差万別があつて、例えば社会民主主義言つて高畠素之林癸巳夫、石川準十郎の説くところ、今書物をひもとけばいろいろ書いてあると思いますが農民運動者である私の解釈國家社会主義というものは一國が一國内に行なうところの社会主義である。
  81. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 私のお尋ねするのも、あなたが國家社会党に多少とも関係なさつた当時の國家社会主義とか國家社会党考え方というものをお尋ねしたわけです。ほかの学説は別に……。
  82. 平野力三

    証人平野力三君) ですから私の解釈はその解釈です。
  83. 伊藤修

    委員長伊藤修君) その國家社会党農民組合とは何か関係があるのですか。
  84. 平野力三

    証人平野力三君) これは組合政党というものは一人の農民がその党員であり組合員であるので、國家社会党というものに私が入つたとすればそれは農民組合國家社会党を支持したということに完全になると思いますが、先刻申上げました通りにその日本國家社会党というものが結成する前に党共が離脱をいたしておるので、明確に私の所属する農民組合大会を開いてはつきり日本國家社会党をつくつたという記憶は現在明確に頭にありません。
  85. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 当時國家社会党というものを結成されたわけですか。
  86. 平野力三

    証人平野力三君) 結成されたわけであります。
  87. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 結成されたときにはあなたは入つていらついやつたか、いらしやいませんか。
  88. 平野力三

    証人平野力三君) いなかつた
  89. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 從つて農民組合には関係ないわけですね。
  90. 平野力三

    証人平野力三君) はあ。
  91. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 越えて昭和八年に皇道会というのができましたですね、これを一つ御説明願いたい。
  92. 平野力三

    証人平野力三君) 滿洲事変が勃発した昭和六年でありますが日本の無産党政党及び労働組合農民組合等についての政府の態度と言いますか、急激な変化を招來したのです。当時私の頭には、かような政治情勢のしたに負いで、自己が生命としてやつて來農民組合というものをどうして存続し、如何にして農民利害を代表として所信を遂行するかということについては、多大の苦心をしたのであります。そこで若し農民雲合いを尊重しないような政党に発展するということであれば、自分の十数年來の運動を放棄しなければならんということになりますので、いろいろな苦心をいたしました結果、皇道会なる團体に所属して、農民運動を展開することが最后まで農民運動を継続し得る唯一の最も正しい途であると考えたのであります。そこで、皇道会の組織メンバーには在郷軍人の人達が相当おつたのでありますが、これらの軍人の人達は、当時宇垣大將が粛軍をだんこうして、五・一五事件とか血盟團事件とかいうような、ああいう事件日本に起こさないように軍を中道に導いていくということが正しい日本を指導する所以である。こういう固き思想を持つてつたことを私は良くしつておるのであります。在郷軍人の中にも二派ありまして、当時の軍主流に便乗して急激な日本を戰争体制に持つて行こうという一派と、そういう運動を開くと言えば、ブレーキを掛けて中道に持つて行こうという軍人との二大大潮流がありました。もとよりその実力においては、穏健なる軍人は遥に負けたのでありますが、考え方としては、そういう穏健なる考え方があつてこれらの人達は私共が当時考えておる農民運動日本農民地位を向上する、日本の農地制度を改革する、土地と人口の問題を只滿洲へ滿洲移民をしてそれで片附けるという考え方ではない。日本の國内の農民経濟を安定し、土地問題を解決し、農民文化を解決して、農産物價を解決するということによつて堅実なる農村を作るという意見と一致を見たので、私はそこで皇道会を組織し、皇道会に関係して、その皇道会の中で農民組合運動というものを展開したわけであります。これが大体の皇道会創立の極くあらましの思想であります。
  93. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 創立のメンバーは。
  94. 平野力三

    証人平野力三君) 軍人側といたしましては、等々力森藏、黒澤五一郎、山下巍八郎、高田豊吉これらの人達が大体代表的な方であります。農民組合側は私、稲富タカト、北山一藏、等でありました。
  95. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 皇道という名前を選ばれた理由は。
  96. 平野力三

    証人平野力三君) 私は明確にどうもはつきり説明を、当時理論的に聞いたわけではないのでありますがつけられた当時の模様を聞いて見ますと、品那の言葉に、覇道、王道という言葉がある。覇道というのは、これは権力主義に基いての圧迫政治である。当時の軍の考え方は覇道である。王道というのは、徳政を以つて臨む、民を愛する。民を本位にやるというのが王道である。皇道というのは、覇道、王道から比べれば、非常に王道に近い。併しその王道よりも、もつと純化されたものであつて、單に王様が良い政治を行つてやるというような意味より、もつと意味は中道、眞直ぐな道を行く。そうして日本の在り方というのは、この眞直ぐな中道をあゆむということが日本の國を長く存続し、日本の國が正しく行ける意味だと言う意味から皇道という字を取つたのであります。もつと端的に言えば、覇道に対する王道、王道よりもつと進んだ言葉がよいだろうという意味つたと聞いておるのであります。世間ややもすれば皇道という字が單に超國家主義のように考えられるのは非常に研究が足らんのでありまして、当時つけた人の意味は覇道に対する対立的な言葉だある、こう説明されておるのであります。
  97. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 今日の一般社会の通用から考えると、皇道というものが何だか超國家主義のように考えられる。多少そういう点を誤解しておる。その当時の考え方と今日の考え方との違いがあるが。
  98. 平野力三

    証人平野力三君) それは当時の客観的情勢から言いまして、別に皇道という名前を使つて政治運動をやしましても、それが極端なテロであるとか、軍國主義であるとか、侵略主義という意味はなかつたと思います。当時の國民一般常識から言えばそういう程度の名前をもつてやれば、それ程脱線してやるということでなくどういうことをやるかということが問題であつて、例えばそういう名前で旅行の團体もあれば、趣味の團体もある。いろいろの團体があります。
  99. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 当時としてそういう名前がよいのでありますが、今日としては、そういう名前が超國家主義のように考えられるのですが。
  100. 平野力三

    証人平野力三君) それはそういう言葉らか受ける印象から言えば、どうも強そうな名前であれば、強そうな名前を付ければ強そうに見えると同じで、何をやつたかということが問題で対して氣にはしておりません。
  101. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 皇道会はどういう仕事をなさつたのですか。
  102. 平野力三

    証人平野力三君) それは今申上げましたように目的は大体二つ、一つは急激なる軍人の政治運動にブレーキを掛ける粛軍、一つ農民問題。併し実際は粛軍とかいうようなことは会を作る始にそういう志を持つてつたのでありますが、憲兵隊の圧迫や、或いは時の情勢上こと志と違つて、例えば宇垣内閣も大命は降下したが流産するというような形で、宇垣さんの志も達せられない。自然從つて皇道会は農民運動一本槍、農民組合基盤として農民地位を向上することが皇道会の主目的になつております。從つて昭和十七年東條内閣が翼賛選舉をいたしますときに、皇道会の山梨支部は解散を命ぜられて、私は非推薦として弾圧を受け、遂に皇道会は時の権力からは國家総力体制を紊すもとであるという、湯澤内務大臣からの禁止命令によつて解散をしたということになつております。
  103. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 粛軍については何か表面に謳つてつたのですか。
  104. 平野力三

    証人平野力三君) それは当時粛軍をやるということを文書に書けば弾圧を受けるので文書に書きませんでした。
  105. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 幹部間の、……
  106. 平野力三

    証人平野力三君) 個々の会員の持つておる思想です。
  107. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 考え方ですか。
  108. 平野力三

    証人平野力三君) はい。
  109. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 表現されたということはないのですか。
  110. 平野力三

    証人平野力三君) 併しそういうことは表現しました。五・一五事件、二・二六事件等の、軍人が直接行動に出ずるがごときことは、いかん。それから常に極右極左は排するということを常に提唱したわけです。粛軍という文字を使つては宣傳できませんでした。
  111. 伊藤修

    委員長伊藤修君) そうすると極右的な考え方というものは常に排撃するというのは、会の性格としてはつきりしておつたわけですか。
  112. 平野力三

    証人平野力三君) 極右極左を排するということははつきりしておりまして、当時の愛國團体、たとえば國際連合会であるとか、或いは天皇機關説撲滅運動というような、そういういろいろの会がありましたが、そういうものには皇道会としては一回も参加しなかつたのみならずそれには反対しました。それから一方共産党には勿論反対する。極右極左排撃ということは事実やつたのであります。
  113. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 何か雑誌を発行なさつておるが、この雑誌でそういうことをお書きになつたことがあるのですか。
  114. 平野力三

    証人平野力三君) 雑誌は私が自分では殆ど關係はいたさなかつたのでありまして、雑誌に載せたものは土地改革であるとか、或いは当時議会へ提案された農村關係法案の解説ぐらいのものよりいたしておりませんが、雑誌全体を通じては非常に穏健な、今言つた極右極左を排するというような論法は常に用いておつたわけであります。
  115. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 雑誌のほかの、あなたの記事以外のものに、そういうような極右的な記事が載つているわけではなかつたのですか。
  116. 平野力三

    証人平野力三君) 端的にいえば、当時の雑誌の通弊として、米英打倒、日独伊三國同盟推進というようなことが載らない右翼の雑誌というものはなかつたのであります。皇道会の雑誌には、そういうものは一つも載せてありません。ただ特に粛軍とか反軍とか反戰というような言葉は、これは載せられないので、消極的な意味においては、こういうことはしなかつた。おおいうことはなさなかつた。進んでやつたということは農村問題である。こういうことになつております。
  117. 伊藤修

    委員長伊藤修君) さつき皇道会解散の事情をちよつとお話がありましたが、もう一遍……
  118. 平野力三

    証人平野力三君) 東條内閣が昭和十六年にできまして、言論集会結社等臨時取締法という戰事立法を作つたのであります。そのときあらゆる團体は一應当局の了解を得なければ團体が在立しないということになつたのであります。そのときにその言論集会結社臨時取締法に触れて皇道会は昭和十七年四月と覺えておりますが、和菓子が内務大臣から受け書を貰つたのですが四月二日と思つておりますが、先ず皇道会山梨支部の結社禁止をするというので禁止命令を受けた。その理由は当時の新聞も持参いたしておりますが、國家総力体制を乱すかどである。こういう見出しであります。ではなぜ國家総力体制を乱すかというと、皇道会は依然として名前は、皇道会という名前をつけておつても、軍人がおつても、やつておることは農民運動である。農民運動というものは小作争議をやる。で、それは一党一派の利害を代表するもので、戰時体制を乱す。こういう理由をつけられた。結局農民運動を皇道会がやつたというかどで、解散命令を出されたということであります。
  119. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 今お聽きするような事情の皇道会ならば、そうあの法令にかかるような追放團体というふうにも考えられないのですが、どういう点がかかつたのですか。
  120. 平野力三

    証人平野力三君) これは昨年十二月二十六日に、資格審査委員会において七対二を以つて私は非該当になつたのです。この非該当の判定文は東大教授の大川内一男君が起草せられ、牧野委員長これに筆を入れられまして、委員会は七対二を以つて私を非該当にした。私は今尚この十二月二十六日に行なわれた私の資格審査委員会に関する判定文は正当なものであると深く信じております。その正当なものであるということは、今ここに私がこの小委員会において述べました通り、例えば皇道会解散のときの理由書、又雑誌或いは私の大体の行動というものは、非常な大部な資料といたしまして、資格審査委員会に提出し、委員会はこれを仔細に検討せられた結果、非該当の判定文をつけられた。從つて私は皇道会は追放になると思つておりません。先刻法廷において宇垣一成氏も皇道会が追放になるとは自分も信じなかつたという言葉を言われましたが、むしろ譽められて、お前たちこそ最も正しい行動をとつたのだというお褒めをうけてもよいのであつた、これが追放になるなどということは、夜と晝とが変わつたぐらいに私は思つたのであります。併し一月の始めから一月十三日の間、資格審査委員会というものが全く事実を事実として見ない。どうしても平野を追放するのだと、追放ということを決めてやつたのであります。これを私から言えばどうも全く心外千万であり、理解に苦しんでいるのであります。御質問の皇道会は今日褒められこそあれ、追放になるものであるということは信じておりません。これは法廷では私は一つの承認を舉げて同道と弁明をして行くつもりであります。
  121. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 昭和十七年に翼賛政治会に入られましたね。それはどういう關係です。
  122. 平野力三

    証人平野力三君) 当時非推薦で出たのありますが、苟くも議会に議席を持つておる者は全部強制的に加盟をせられたので、一会員として入つたのでありますが、これは誰も、一人殘らず入つたのです。その役員とか幹部たることについては、絶対承知をしなかつたのであります。
  123. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 今の皇道会に戻りますが、皇道会の要領に、軍備を充実し以て國防の完備を期すとという第四の項目ですが、第五に、國際主義の貫徹を図り、世界資源の公平を期す。こうありますが、いわゆる資源の公平を期すとか、或いは軍備を充実しということが皇道会の要領に入つておるのですが、これはどうですか。
  124. 平野力三

    証人平野力三君) 当時の皇道会の諸君の言いました國防論というのは、物量とか資源を増すことを以て國防とは考えない。軍事自体の整備、又は軍自体の科学的研究というものを以て國防であるおいう思想でありました。そういう文字があるからといつて、それが侵略であるとか、或いは特にいわゆる帝國主義戰争を行なうための軍備であるという意味ではないのであります。
  125. 伊藤修

    委員長伊藤修君) この綱領は誰が起草したのですか。
  126. 平野力三

    証人平野力三君) 誰がという個人の記憶はないのでありますが……
  127. 伊藤修

    委員長伊藤修君) あなたじやないのですか。
  128. 平野力三

    証人平野力三君) 私じやありません。
  129. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 誰か軍人の方の人が……
  130. 平野力三

    証人平野力三君) まあそうですね。
  131. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 勿論その綱領は御存じだつたのですね。
  132. 平野力三

    証人平野力三君) 無論知つています。重点をおいたのは一と二であります。既成政党の積弊打破と、資本主義経濟制度開発という点にこの綱領の重点であつたと思います。
  133. 伊藤修

    委員長伊藤修君) いま一つ。先程の日本國家社会党ですね。それの準備委員会だけの関係で、中央執行委員委員になつておいでにならなかつたのですか。
  134. 平野力三

    証人平野力三君) なつておりません。
  135. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 外の文書には中央執行委員会になつているやうですが、
  136. 平野力三

    証人平野力三君) 私は大会にも出席しておりません。併しよくある例でありますが、本人は出席せず、何もしないが名前だけ役員に列して、何時脱会したとも、怪しいからんから削つておくともいわないで、余りよくないことでありますが、ずるずるべつたりに押附けられておつたということであります。私自信から言えば、承諾したことも大会にも出ておらない。
  137. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 今お尋ね致しましたことに関連しまして、要するに昭和六年以降の日華事変における軍國主義、帝國主義、國家主義というような思想に対して、貴方のお考え方はどうですか、滿洲事変の始まるころから今貴方にお尋ねした範囲において軍國主義、帝國主義、國家主義というものに対する貴方の御立場なり、お考えなりというものはどうですか。
  138. 平野力三

    証人平野力三君) これは人間の思想というものはなかなかそう何と言いますか、私から言えば変わるもの出ないのですが、大体社会主義を奉じ、農民運動を継続した私としては思想の根底に侵略とか、軍國とか言うものはないのです、問題は私は現実政治家でありますので、この農民運動というものを継続する途上において、そのときそのときによつて多少のそこにいろいろな書き物とか、或いは宣言とかいうものの綾はこれは一々檢討して見れば、今になつて見てどうかと思う点はないとも言えぬと思いますが、併し一貫して、私が終戰後も、当時農民組合を建設する、東條内閣のときも農民組合を皆自発的に解散する人があつても最后まで禁止を受けるまでは農民組合をやる。この私の思想的根底というものは、或いは民主主義である。こういう点においては自分思想には一点疑うべからざるものがあると確信いたいております。
  139. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 貴方の御考え方が表現されているところの、過去において、著述というものはどういうものがありますか。
  140. 平野力三

    証人平野力三君) 著述は一冊だけでありますが、「日本農政と農地問題」という本があります。これだけです。これは私の農政に関する自己の信念を書いたものであります。
  141. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 勿論演説は澤山ありますね。
  142. 平野力三

    証人平野力三君) あります。
  143. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 貴方の御交際の人物の重なる人は勿論社会党はすでに十分分つておりますが、その外の方は、
  144. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 今お尋ねした間におけるところの……
  145. 平野力三

    証人平野力三君) そうですね。先刻申上げたように安部磯雄北澤新次郎等を最初の先生として、出てからは、高橋亀吉麻生久鈴木文治、無論今の片山、水谷、西尾、從來も同僚であり、運動を多少見解では差があるかも知れんが或いは長谷川如是閑とか、ああいう人達、軍人では宇垣大將今の黒澤主一郎、等々力森藏というところですが、政界方面においては、まだ澤山、知り合いがありますけれども、これは知合いです。
  146. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 又思想的に右翼の方とお近づきはありませんか、右翼といつても極右のことですが。
  147. 平野力三

    証人平野力三君) それは特に同志として、どうということは、大体においてありません。それは大体多少の知り合はありますけれども、それから杉山元治郎なんかですね。河上丈太郎河野密そういう諸君も非常に運動の係累であります。それから賀川豊彦
  148. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 今度の事件に対しまして、貴方が、最初の話にもどるようですが、それだけの理由があれば何故裁判が遅れるか、いろいろ仔細に理由を伺いましたが、尚進んで理論で堂々とお話になつたらよいように考えられますが、如何にも事件が遅々としておるように思えますが、
  149. 平野力三

    証人平野力三君) それは一番最初二、三ケ月の間述べたのは裁判権問題です。これは非常に正当なる理由があると思います。寧ろ裁判所側が裁判権という問題について被告人たる私に、明確に日本裁判権があるということを明らかにしてやることが正しい。それが不明瞭であるということが正しくないと思つて、今そう思つております。併し私は百歩譲つてこれを眞理であると思つております。それから現在は七、八月頃は抑鬱症でありまして、今だんだん委員長の御質問に答えておりながらもそうでありますが、政党運動費、組合運動費というものは余程専門家でも物の順序と、時間的な問題が間違うものですが、それからこつちの書物は昭和十五年に書いた、これは大正十五年、こちらは昭和二年というふうに書いておるというふうに、私は苟くもこれによつて有罪か、無罪かという政治家が一身上の判決を受けるという場合、少なくとも自分の頭というものは健康たるを要する。一遍しやべつちやつて、どうもそのときはということは男子としてできないのである。やはり健康回復まで二ヶ月の猶予を與えられたいということは、当然の出張であると思つて出張して來た。從して延ばすために延ばしたのではない。裁判所でも相当解せられて、本人は後廻しにして、証人だけを先に呼ぶと言う訳です。これも裁判の技術から言えば、証人だけでは困るのだと思う、ここは私相当譲つておるのです。証人証人がしやべるのですから、私はそれに対して補足訊問をしておる位だから、自分が陳述するのではないが……証人申請は進んでおる。裁判所のおつしやる通り証人にはやはり……
  150. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 補足訊問をなすつてつておるのですか、
  151. 平野力三

    証人平野力三君) いや幾らかします。
  152. 伊藤修

    委員長伊藤修君) それはあなたがやつておる、
  153. 平野力三

    証人平野力三君) 私もします。
  154. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 今の裁判進行状態はあなたと裁判所が円滿に行つていないように考えられますし、他の見方からいたしますればあなたが法廷闘争を繰返して司法権の威信が少なくとも害せられるというふうにも見られるし、いろいろの批判がございますが、ですからこの点ははつきり今申された三つの理由でそういうわけだとおつしやるわけですね。
  155. 平野力三

    証人平野力三君) そうです。從つてこれは私は法廷の威信も客観的に第三者が見ていかんと思つておられる点はあろうと思いますが、その点は私が負うべき罪ではない、その裁判が上手くいかんで遅れたということはそれは裁く方においても大体においても正当を欠いておる。例えばまあこういうところでもはつきり申上げた方がいいと思いますが、例えば鈴木法務総裁は院内において高瀬代議士に平野は懲役一年だと言つている。苟くも法を司る最高の司法大臣である法務総裁というものが自分の友人の代議士に裁判進行途上において一年とか半年とか予断を以つて放送せられるというようなことは、立場を替えて受ける本人になつて見れば法務総裁であろうと高瀬代議士であろうと法廷に呼んでそういうことがあつたかなかつたか質したのちに、裁判長は訊問するべきが当然なのであります。だから私の關係弁護人は、先ずこういうところから先に明かにして……裁判所はこういうことから許さない。許せば一回で済ことなんでし。許さない。これは当然こういうことによつて延びることは……。私は私の欲望を決して押すのではなくして裁く方が大岡裁判ではまい、被告人に理解させない。例えば今法廷で裁判になつておりますが、私を告発した告発人は高知縣の安藝郡の非常に辺鄙なところの長野一之というひとなんです。この間法廷で檢事に対してこの僕を告発した人間を呼んで貰いたいという、証人申請をしたらまだこれは許されない、許されないのみならず檢事は長野一之というものを呼んで調べておらんのです。僕を告発した人間です。一体何のことかと私から言いますと告発になつたの農林大臣になつて四日目なんですから六月でした、起訴のなつたのは二月なんですからこの間においても苟くも私も失礼だけれども一回大臣をやつた人間ですから、自分を起訴せられるかせられないかというときに、僕を告発した人間ぐらい何のために告発したかということを檢事が調べないで告発したということはあなたも相当司法関係は御存知だが、それを告発せられた人間から見れば非常に了解に苦しみますね。而も資格審査表というのはあなた方もお書きになつておられましようが、この原簿というのは実際余白はどれくらいあるとかいうことは原物を見ませんと本当の感覺は出ないのですね。檢事は原簿を見ていないで告発状によつてつている。それでようやく我々が強引に言つて原簿を取つて自分の自筆のを見たのはつい最近です。檢事も判事も弁護人もその問題は重大だ重大だと言いながら、やる方は、僕を処罰する方は杜撰、ルーズなことをやつて僕のみ法廷で頑張るということは苟くも民主主義憲法下において私は人権蹂躙だと思う、而も被告人たりと雖も私は卑屈であつてはならん、被告人であつても法廷においては何も判事に恩惠的な判決を貰おうとか或いは檢事に少し色よい顔を使つて反対をやらない、そんなことを考えるならば三十年の運動はやらない。不正だと思えば如何に自分一個に不利益でも敢えて主張する、これが民主主義なんです。これがあつてはじめて祖國再建というものはできる。これあつて日本が軍にいじめられたああいう馬鹿げた戰争をしない正しい日本が出きる。これは私の信念なんです。僕が無理に事件を延ばしたのではなく、やり方を公明にやると言う、裁判が公明かされ、自分は自己の不利益、利益というよりも公平な裁判だこれが信條であるということは一つ当参議院の委員の方々においても十分一つの御了解を願いたい。幸い最近裁判所の間においてもよく了承せられる点もありまして現在のところは事件は割合に順調に進んでおります。
  156. 伊藤修

    委員長伊藤修君) あなたの告発は二月の幾日ですか。
  157. 平野力三

    証人平野力三君) 告発は去年の六月です。
  158. 伊藤修

    委員長伊藤修君) それから起訴になつたのはいつです。
  159. 平野力三

    証人平野力三君) 今年の二月です。
  160. 伊藤修

    委員長伊藤修君) その間に檢事がお調べになつたのは何回です。
  161. 平野力三

    証人平野力三君) 六月に一回しらべられてあとは農林大臣が罷免になつてからです。
  162. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 二月の初ですか。
  163. 平野力三

    証人平野力三君) そうです。
  164. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 罷免になつてから調べられてそれから起訴になつた……
  165. 平野力三

    証人平野力三君) そうです。
  166. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 鈴木法相が刑期を放送したのはいつですか。
  167. 平野力三

    証人平野力三君) ちよつと間違いました。告発になつたのは六月の初でした農相就任四日目ぐらいです。それからその間六月に一回ちよつと調べがあつたのですが、その当時は議会も忙しいし食糧問題も非常に重大であるからまあそう急がんでもよかろう……。ところが新潟へ農林大臣として最後の旅行に出るその前日ですね、初めて調べられた。それは十月の二十八日です。それから罷免になつた。それから細かく調べられて、それから起訴になつたのです。
  168. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 何回ぐらい調べたのですか。
  169. 平野力三

    証人平野力三君) 二回調べられました。
  170. 伊藤修

    委員長伊藤修君) それから法相が高瀬君に公表したというのはいつ頃ですか。
  171. 平野力三

    証人平野力三君) それは裁判中です。
  172. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 裁判中とは……
  173. 平野力三

    証人平野力三君) 四・五月頃です。
  174. 伊藤修

    委員長伊藤修君) それはどこで話したのですか。
  175. 平野力三

    証人平野力三君) 院内の廊下です。
  176. 伊藤修

    委員長伊藤修君) それは高瀬君から聞いたのですか。
  177. 平野力三

    証人平野力三君) 高瀬君が鈴木君らか聞いたと言つて私並びに私の關係弁護人に法務相からこういうことを聞いているが事件は余程重大でなかろうかという話をした。そういう予断を以つてやられる裁判なら裁判長も忌避しなければならない。それでも初から向こうで一年と待ち受けているところへどんな証言を出しても問題にならん。又これ私ばかりでなく弁護人も実に憤慨した。
  178. 伊藤修

    委員長伊藤修君) そうするとそれは忌避申請をする前ですか。
  179. 平野力三

    証人平野力三君) 無論そうです。
  180. 伊藤修

    委員長伊藤修君) まだいわゆる権限があるかないかということを争つているその時代ですね。
  181. 平野力三

    証人平野力三君) その時代です。
  182. 伊藤修

    委員長伊藤修君) それは確かですな。
  183. 平野力三

    証人平野力三君) 確かです。二回聞き最初は有罪ということであつた。高瀬君が有罪とは何かと言つたら懲役一年だということであつたから、一年に決つているがまあ二番目はどうかしてやろうというような話だつたからそういうことは怪からん……
  184. 伊藤修

    委員長伊藤修君) どうかなるだろうということですか。
  185. 平野力三

    証人平野力三君) それはちよつと言葉尻はよく分かりませんが一審において有罪、二審に行けば何とかなるだとうということでした。
  186. 伊藤修

    委員長伊藤修君) それは一年とはつきり言つたのですか。
  187. 平野力三

    証人平野力三君) 第二回のときは一年とはつきり言つた
  188. 伊藤修

    委員長伊藤修君) それはちよつと不都合ですね。
  189. 平野力三

    証人平野力三君) 不都合です。これは私は法廷でも裁判長にも言つたのです。立場を替えて考えてみたら誰でもそう言うことを言われておつてずるずるべつた裁判を受けるというにはどうにも割切れない。先ずこのことを明らかにして……
  190. 伊藤修

    委員長伊藤修君) それでは他に御質疑がありませんか。
  191. 來馬琢道

    ○來馬琢道君 皇道の解釈について伺つておきたいのであります。王道と言うことと皇道ということは私共支那の文字の使い方においては王道、覇道はあるが皇道の皇の字を書いて王道に使つたということは只今初めて承つたような氣がする、それは当時カムフラージするために皇道、こういうまぎらわしいような皇道という文字を使つたのでしようか、そうではないのでしようか。
  192. 平野力三

    証人平野力三君) これは皇道会の会長でありました黒澤主一郎陸軍少將史ですか、この案の意見を正式に求めたのですが、一般的には覇道、王道、王道は皇道に通ずるというように考えておるのですがね。まだその王道というのは王様が治めるような思想で、覇道に対立するのだから、その皇道の皇道はもつと違うのだ、つまり王様が治めるということよりも……つまり言い換えれば治めるとか治められるという意味ではない、これは道を説いたものですね、そういう説明なんです。
  193. 來馬琢道

    ○來馬琢道君 自分の見聞では支那には「皇」という皇帝の「皇」の字もあれば、「帝」という字も独立して使われておるのでありまして、日本においてはエムペラーという字を直ぐ皇帝と訳しておりますけれども、輝宗の言葉には「三皇五帝是れ何者ぞ」といつた位で普通に皇と帝とは続いて使つておりますが、皇帝の「皇」の字は別の意義がある、その次に又「帝」というものがあるということであります。それから「王」という方は小さな意味のいはば独立の聯邦の君主というようなものを王と考えておるように思つておる。特に皇道会において皇帝の「皇」の字を使われたのは軍國主義に迎合するような氣持と解釈されるのでありますけれども、それはあなた方のお考えでこの方がカムフラージするにいいと、こういうように私も今御説明を聞いて感じたことです。判断する上においては只今のお話のように或いは皇の字を使う方が軽い意味にということになると申しますが、それには一つの御議論として何つて置く外はないと思います。それが皇道会の皇道という名前を使われた趣意であると言えば我々はそれをそうですかと言うだけのことですから宜しうございますがね。
  194. 伊藤修

    委員長伊藤修君) 他に御質問ありませんか、ではお忙しいところご迷惑でした。では本日はこれをもつて散会たします。    午前十一時四十四分散会  出席者は左の通り。    委員長     伊藤  修君    委員            來馬 琢道君            星野 芳樹君            松村眞一郎君            小川 友三君    委員委員            岡部  常君            宮城タマヨ君   証人            平野 力三君