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長谷川證人 先ほど申し上げたような事情をもちまして飯村氏と知り合いまして、その後二、三度お会いしたこともございます。昨年の十月半ばと思いますが、突然私の神田の家へ見えまして、その時私不在でございましたので、その翌る日飯村さんの仮
事務所にな
つておりました京橋銀座の池田産業という所で飯村さんのお会いしたのであります。その時の飯村さんの
お話でございましたが、実は君には縣の引揚げの時も世話にな
つているし、また僕の選挙の時もいろいろとお骨折り願
つた。ついては今度恩返しとい
つては何だけれども、君の引揚者としての更生資金もこれによ
つて出ると思うから……。実はこの仕事によ
つて百万円の選挙費用といいますか、
政治資金がこちらで必要なのだ。この仕事というのは
自分と油の方の業界の第一人者であり、党の重鎭である某氏がはい
つておられるので、協力してくれることにな
つておるから、ぜひや
つてもらいたい、ついては五十万円この仕事の前渡金としてぼくに渡してもらたいたい、仕事の
内容は英國大使館からペニシリンの試驗材料として
日本政府の
担当者である農林省へ魚油三百本の要求書を出す、農林省は帝國油糧へ指令して、それからその輸送切符というものが出るのだということで、その三百本の品物は北海道にある。北海道からこちらへ持
つてきて、それを賣買すれば、それは公定でとれるから相当の開きがある。その開きの中から百万円
政治資金としてと
つてもらいたい。このような
お話でございましたので、私はあまりこの事業がわかりませんので、告訴人であるところの
奈良教一氏と相談いたしまして、両方協力いたしまして、この五十万円をまず前渡金としてお渡しすることに約束したのであります。ところが長年——
奈良君も三十数年北京におりましたし、私も二十年近くでございましたので、
日本に帰りましてからも
連絡も少なうございますし、なかなか思うようにこの五十万円が手にはいりません。今年の二月——たしか十七、八日ごろだ
つたと思いましたが、私の知
つている北京時代の三井におられる友だちから、その先を通じて五十万円、今年にな
つてやつと渡すことができたのであります。その時は実際感激して飯村氏を信じておりましたので、また同時にその後ろにおられるいわゆる重鎭、私どもの考えといたしまして、飯村さんは口には出して言われませんでしたけれども、実は
苫米地先生ではないかと想像してお
つたのであります。さようなわけでやつと五十万円を飯村氏に二月十八日に渡すことができた。そうしまして大体金を受取
つてから一週間以後には必ず一件
書類を君に渡すことができるから、そうしたならばすぐ北海道に行くような仕度をしておいてくれないかということでありましたが、ときたまたま政府が変りますときで、選挙か何かのことで二、三日遲れたように記憶しております。そうして十日に催促いたしましたら、もう二、三日、二、三日というのが、その後とうとう誠意もなく、また議会へもお見えにならず、私ども先方から矢のやうな催促を受けまして、飯村さんをあちらこちらと探しましたけれども、自宅へも寄りつかず、議員であるにもかかわらず議会にも出ておらない。ところが四月になりましてから、新聞で茨城縣の晴嵐荘の
事件とかいうのがございまして、それに松谷さんと一緒に行かれるということを、ちよつと新聞の記事で見ましたので、今まで菱しあぐんでおりましたので、当日私とその友達の仲氏と茨城縣の現地まで参りましたところ、飯村さんに会いましたら、ここは仕事で來たのであるから、水戸へ行
つて自分の定宿で、カバンも外套もみな置いてあるので、必ずそこへ帰るから待
つていてくれということで、水戸へ参りましたら、とうとう五日間も姿が見えない。遂にそのまま帰りましたところ、四月二十日飯村さんから電報がまいりまして、必ず築地の会社へ二十日に日に行くから、そのときに金を持
つて行く、こういう電報でございました。その間
民主党の栗田さん、
長谷川さんの
お話も聽きまして、
自分たちも詐取されたということが大体わか
つたのであります。しかし当人から電報で四月二十日に金を持
つて行くと言いますから、一應その二十日を待
つたのでありまして、その間奥さんにもお会いいたしまして御主人の
所在、居住等を追及いたしましたが、おわかりになりませんし、債鬼という鬼に責められておりましても、奥さんの顔を見ると鬼にもなりきれずにいたのであります。二十日に日に今まで何遍が電報がきましても一遍も実行したことがないにもかかわらず、その日は來てくれました。ところが金は一銭も持
つてきておりません。実は総裁にお願いしたけれども、來月にならなくてはいけないとい
つたふうなこともその間話がありました。二十一日に全國油糧協議会の專務
理事をしておられます武田さんという方が飯村さんと一緒に見えまして、飯村さんだけの言訳ではもう信用なさらないでしようから、実は今日はぼくが一緒に來たのですけれども、金は幾分か入れることができるから、明日高島屋の八階に來てくれ、こういうことでありました。その翌日高島屋でお待ちしておりましたら、なるほど目の前のテーブルに二十万円の金があ
つたのであります。ところが肝腎の飯村さんが見えません。お畫まで待ちましたが來ませんので、その金を尋ねて見ますと帝國油糧の西川副総裁を通じて
苫米地さんの方から出していただいた、かように承りました。しかし、とうとうお畫まで待
つても飯村先生が見えませんので、その日は私ども
事務所に引揚げましたら、その日の夕方五時ごろ、今の全油連の武田さんが見えまして、もう一遍明日九時までに高島屋の八階に出てくれ、全油連に出てくれということでございましたので、私は
奈良君と二人で参りましたところ、実はこの二十万円の金についてだけれども、とにかく
苫米地さんの御子息に会
つてくれないか、銀座のこうこういう所に
事務所があるから、そこで一切
連絡してあるから
お話を願いたい、かような話でございましたので、その足ですぐ銀座の
苫米地さんの御子息の
事務所を訪ねまして、御子息にお会いいたしたのであります。そうしてこちらの先方から責められております窮状を申しましたところ、御子息さんの言われますには、あなた方だけの
問題だと思
つておりましたが、他にもいろいろ相当の額面に達しているのでどうにもいたし方がない。しかし飯村さんとお父さんとの御
連絡があるように言われることは非常に御迷惑だ、全然そういうことはない、かように言うておられました。そこで私どもも万やむを得ず告訴をいたさなければならないというようなことも
お話申し上げまして、その後正規の
手続をいたしまして今日に
なつた次第でございます。