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花村委員 そこで
法務総裁の
氣持もよくわかるのでありますが、やはりそういう新
制度が打立てられてまいりました場合において、この新
制度に即応して、やはり
裁判官等も進んでいくというような
建前にならなければ、
ほんとうに
りつぱな裁判権の
行使はできぬと思うのであります。そこで從來閉じこめられてお
つた裁判官を、ひとつ何らかの
方法でもう少し解放する必要があるのじやないか。精神的の解放と申しますか、こういう
意味において、
裁判官に対する再
教育を
考えておらぬか。今日までの
裁判官というものは、何だか孤島の中に一人で住んでおるような、少くとも
共同生活とかけ離れたような
氣持をも
つておるように私は思う。なるべく
世間の風にふれまいとしておる。
從つてそういう
氣持が隣り近所の人にも顔を合わせるのがいやだ、あるいは
友人知己にもなるべく合わぬようにしよう、あるいはか
つて懇意にしてお
つた辯護士にすらも、なるべく会
つたり、話をしたりすることを避けようというような
氣持が身体に満ちておることが、われわれはよく
存野法曹としてわかる。またそういうことを何人も認める。また上官もそうした下の方の
裁判官の
態度を容認するというか、許すというか、あるいはそういう
態度を望むというか、上の方の人も一向そういう
態度に対して是正しようとも
考えず、いなむしろそういう
態度を慫慂するがごとき
風潮も一面においてあるように感ぜられる。こういう
共同生活をしておる
社会というもの、
世相というものから離れておるという
氣持では、また離れんとしようというような
氣持では、とうてい
りつぱな裁判のできぬことは明瞭であります。そうすると
裁判官は
神経過敏過ぎる、小さいことでも非常に
神経が大きく動いておる。そういうことが、結局
裁判権の
行使に
妥当性を欠くような結果をもたらすのでありまして、今日は
司法権も
國民の前においては、あらゆる
観点から
調査批判をされなければならぬということに
なつてきて、
裁判権そのものもこれはやはり
官吏やお上が握
つておる
裁判権じやない。
國民みずからが握
つておる
裁判権である。
裁判は
自分みずからがやるのだというような
氣持に相
なつてこなければならぬことは当然であり、また
主権在民の見地から
考えても、
國民がそう
考えるべきであろうと思うのでありまするけれ
ども、こういう
考え方に移り変
つてきた民主的のこの
世相に対して、
裁判官の
氣持というものは、今日もなおまだ改められておらない。でありますから、現にたとえば
尾津の
保釈問題のごときが、その
是非を
参議院において取上げられて論ぜられるということになりますると、すぐにやはり
神経が過敏に
なつて、まず
保釈などをうかうか許して
物議をかもすよりも、なるべく事なかれ主義で、まあ
保釈などは許さぬでおこう、まあ許さぬということも、これもよくないことではありまするけれ
ども、許すことよりも、むしろ許さないでおくことの方が、
物議をかもすことが少い。でありますから、最近はこんな
事件は
当為保釈をしてよろしい。また旧來も
保釈をしてお
つたと認められる
事件について、最近においては
保釈もなかなか許さぬように
なつてきた。そこでいろいろ聞いてみると、
尾津の問題などで
保釈を許したことがいかぬというので、
参議院で取上げられておるというような
関係から、最近はよほど手控えるようなことに
なつてきたという話も、私は聞いたのであります。なるほどそう思うる。すぐにもこういうところへ、よくそれが響いてくるならばいいのでありますけれ
ども、悪い
意味で響いてくる。
参議院でや
つておるのが悪いというのではありません。もちろん結構である。響いてもよろしいが、その響いてくる響きに
裁判官が麻痺さそぬようにすることこそ肝要である。それにはやはり
裁判官に関してあらゆる面から再
教育をして、そうしてこの
時代の
風潮に副うようにも
つていかなければいかないのじやないかと私は思う。なるほど
裁判官は今回は相当に優遇せられて、普通の
官吏とは違うようなことに
なつてまいりました。また
裁判官には相当優秀な者もあり、頭のよい者もあり、
判断力の強い者もあります。まことに
りつぱな人ばかりであります。しかしながら、
裁判官という型にはめられてしまうと、優秀な
人物でも、ついにいわゆる
裁判官らしい
一つの型にはま
つてしま
つて、一面においてはそこに個性的な
意味における
欠陷が、だんだん腫物のような大きく
なつていくというようなことにもなり、そうして
裁判官というものが
世間から離れておるがごとき
氣持態度に相
なつておりますことは、疑う余地がないと思うのであります。でありますから、こういう点から、もう少し
裁判官も民主化して、
公私の別を
はつきりする。私的においては、何人と話そうと、また何人と飲もうと、何人と遊ぼうと、そんなことは決して意とするに足らぬ。否むしろ普通の
社会人のごときことをや
つてい
つていい。
芸者買いをするのもいいでしよう。カフエーに行くのもいいでしよう。
裁判官であるから、普通の人のやることをや
つてはいかぬというような、そんな偏屈な
考えを
もつ必要はない。そうして人の正面も裏面も、世の中の表の裏も、すべてを
知つて、そうして人の
機徴をうかがい知るところまでい
つて、初めて
りつぱな裁判ができようと思うのであります。それには今日の
裁判官を、やはりある
程度まで再
教育をして、時世に副うところの、また新
憲法の
趣旨に副うところの、また新刑法に副うところの、
ほんとうの生きた使えるところの
裁判官を仕立てる必要があろうと思いますが、この点はいかがでしよう。何か
方途がありましたらおもらしを願いたいと思います。