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鈴木國務大臣 今度の
朝鮮人騷擾問題に関しましては、私は二十七、八両日に跨
つて、現地でつぶさに調査をいたしてまい
つたのであります。要するに
学校問題の経緯は、すでに御
承知のことと存ずるのでありますが、
日本におりまする
朝鮮人諸君が、第三
國人のとして
自分たち独自の
学校をもちたい、独自の
民族文化を育成し、保存し、
独立朝鮮國の將來を担うべき
國民を養成するのであるから、
自分たちの計画に
從つて学校を経営し、教科書も編纂し、あるいは教師も選択し、
朝鮮語をも
つて教育したい、こういうことで今日までまい
つてきておるのでありますが、
政府は愼重考慮いたしました結果、國内における
義務教育は、すべて
教育基本法並びに
教育基準本等に則りまして、これをいたすことが適当である。そのほかに、もし特殊の
教育を施したければ、
課外としてやるべきである。そのほかに、もし特殊の
教育を施したければ、
課外としてやるべきである。こういう建前を堅持いたしまして、その
方針に基いて、着々
学校を整理していくことを決意いたしたわけであります。その
方針に則りまして、各
府縣知事がその
府縣内の
朝鮮人学校に対して
閉鎖命令を出したのでありますが、その例にならいまして、
大阪におきましては、四月十五日
閉鎖命令を出したのであります。また
兵庫縣におきましては、四月十日
閉鎖命令を出したのであります。しかるに
朝鮮人諸君はこれに應せずして、多数の威力を頼んで、
知事に
迫つてこの
命令を撤回せしめようと企てた次第であります。その結果
大阪におきましては、二十三日に、
朝鮮人教育問題対策人民大会というものを開催いたすことに相なりまして、主として
朝鮮人連盟の
幹部諸君が発起してや
つたのでありますが、
尾方面にそれぞれ狩出しのようなことを行いまして、そうして
大阪大手前公園、
府廳前の
廣場において
大会を開き、もつともその前に朝から三回も
大会を別に開きまして、それぞれ結集した上で、それがさらに大
手前公園に集結するという段取りにな
つてお
つたのであります。正午ごろ約七千の
朝鮮人諸君が大
手前公園に集まり、その中から
少数の
代表者が出て、そうして
府知事に
面会して撤回を迫るということにな
つてお
つたのであります。その
趣旨は、民族独自の
教育施設をもつべきであるということはもちろんでありますが、これらの
人々を集めますために、あるいは集ま
つた後
会場において、それぞれ述べておる
演説意見等によ
つて、ほぼ察知することができるのでありますが、それは大体こういうものであります。
朝鮮人学校に対して今般
閉鎖命令が発せられたことは、周知の事実である。
日本は
軍國主義の盛んなりし時期において、
朝鮮を
日本の領土となし、三十数年間筆舌に盡せない
侵略行為をなした。このたびの戰争において
日本は敗戰し、
祖國朝鮮は
独立國家として解放されたのである。このときにおいて、次代の
朝鮮を背負う学童の
教育機関である
朝鮮学校を閉鎖せしむることは、
日本帝國主義の再現である。
日本政府の反動的なこの
措置に対して、われわれはあくまでも対抗して、最後の勝利を獲得しなければならない。この意味において、本日の
デモ行進には全員参加することを希望する、というような
趣旨であるのであります。
なお多少背景を明らかにいたしますために、一、二の
会場において行われました
演説等を御紹介いたしますならば、
生野支部大会におきまして、
大手前に來る前にや
つてお
つた支部の
大会の席上で、
日本共産党関西地方委員柳田春夫君から、次のような
メツセージを発表したのであります。「私は
日本共産党を
代表して、
朝鮮の皆樣に
激励の
言葉を申し上げる。今回の
日本政府が行いたる
朝鮮人学閉鎖命令に対しては、
日本共産党は、
朝鮮の
皆さんと同じく絶対反対し、皆樣と一緒に
共同闘爭を展開しております。
朝鮮独立と
朝鮮教育自主は、絶対死守しなければならない事項であるということは、
朝鮮の皆樣は心肝に徹しなくてはらならい。
朝鮮人学校閉鎖命令反対闘爭は、
朝鮮皆樣の同胞が、下関や、
岡山や、
神戸において活発に展開せられ、多数の
犠牲者を出しておられるのである。本日皆樣が行われる
闘爭が、もし敗北せられた節は、これら多くの犠性者が浮ぶことができないのでありますゆえ、本日の
闘爭は、皆樣が死しても
目的達成に奮闘せられなければならぬ。わが
共産党においても、皆樣の必死の雄叫びに対し全面的に支持して、ともに
共同闘爭を開始したのである。現に
大阪府廳内には、われわれの同志が、皆樣の來るのを待
つているのである。
皆さん、本日の
闘爭は、
朝鮮人の死活問題であるから、大なる奮闘のほどお祈りいたします。」こういう
メツセージを送り、あるいは大
手前公園におきましては、
朝鮮人連盟の
幹部諸君が、代る代る
演説をしたことはもちろんでありますが、あるいは
岡山の
代表という婦人でありますが、
岡山では正々堂々と
闘たて、遂に
知事を屈服せしめて勝
つた。しかるにこちらではまだ解決していないというのは残念である。大いにや
つてもらいたいというようなことを
演説し、あるいは
日本共産党の
川上貫一君は、
朝鮮人教育問題は、
朝鮮を奴隷化するものであり、働く
人民大衆を無知に追いこまんとする
支配階級の隠謀であり、これが
芦田内閣の
性格である。この
闘爭に負けたら、さらに大なる彈圧が続くであろう。
学校閉鎖は單に
教育問題ではなく、
民族闘爭であり、
階級闘爭である、この
重大意義を認識して強力に
闘爭してもらいたいというような、
趣旨は大同小異でありますが、代る代る
激励の
演説をいたしておるのであります。そこで午後一時ごろ二千人ほどの群集がどつと
府廳の中になだれこみまして、五十人ほどの
警官が中を
護つてお
つたのでありますが、結局
知事室に殺到をする。そして
代表的な
行動部隊というような
人々が、
むりに府知事に
面会を求めました。
府知事が
留守でありましたために、副
知事が
面会をいたしたのでありますが、副
知事の室で会談数時間に及んだわけであります。結局同じような
問答が繰返され、議歩するわけにはいかぬのでありますから、そこで果しがないと見まして、副
知事は四時半ごろ裏のドアから脱出をいたし、
府廳外に出て
しまつたのでありもす。そのことがわかりますや、なぜ副
知事を逃したか、裏切
つたというようなことで騒動が起りまして、それが口々に傳わりまして、
一大混乱に陥
つたそうであります。そこで
警官が出動いたしまして、そのころまでには約四千五百ほどの
警官が
府廳の
周囲をとり巻いたのでありますが、多少のけが人を出しながら、さいわいに解散させることができたのであります。しかし
相当乱暴狼藉をいたしまして、
器物を破壊し、ドアーもけ破るというようなことがありましたので、あまり
暴行をいたしましたような者は
檢挙いたしまして、数百名
檢挙いたしたのでありますが、事案の軽い者は身柄を
釈放いたしまして、
起訴、不
起訴は追
つて決定することといたし、おもなる者三十五名だけは勾留いたしておるのであります。そのうち九名は
日本人でありまして、おおむね全逓の
幹部並びに
共産党員の
諸君であります。
それから二十四日の
神戸の問題でありますが、
神戸では四月十日に
閉鎖命令を出しまして、十二日を限り明け渡すべきことを求めたのでありますが、應じない。かえ
つて四月十五日には数百名の
朝鮮人諸君が
縣廳に押し寄せまして、そのうち七十名は副
知事室にがんばりまして、
面会を強要してやまなか
つたのであります。結局徹夜で室に
がんばつたというような状況であ
つたのであります。そこでいわゆる
住居侵入であり、求められて退去せざるものであるということで、その数百名のうちから七十名を
檢挙いたしまして、六十五名を勾留に処したのであります。
毎日釈放運動が
裁判所、
檢察廳に向
つて行われたことは、申すまでもないのであります。そこで
閉鎖命令を実行に移すべく、
神戸市長は
仮処分を
裁判所に申請をいたしまして、決定がありましたので、これを執行することになりまして、執達吏が
二宮、
稗田、
神樂の三校にまいることにな
つたのであります。しかしいずれも
朝鮮人が占拠いたしておりまして、たやすくは執行することができないであろうということから、
二宮、
稗田の両小
学校には百五十名ずつの
警官を連れてい
つて辛うじて執行することができたのであります。
神樂小学校は千二百名の
朝鮮人が占拠いたしておりまして、いろいろ努力いたしましたが、ついに執行不能に
終つたのであります。そこでこれは何とかしなければならぬ、その
対策を協議しなければならぬということになりまして、翌四月二十四日午前九時半から
兵庫縣廳三階西南隅の
知事室に、
岸田知事、吉川副
知事以下
縣廳側から数名、それから
小寺市長、
警察長その他数名、それから
渉外連絡局長市丸檢事正、
次席檢事というような
人合計十六名が集ま
つて、この
仮処分をさらに強行的にやるべきであるか、しばらく
延期すべきであるかというような問題と、さらに二十六日に予定されておりました数万人のデモンストレーシヨンに対して、どういう
対策をとるべきでるかということについて協議をいたしてお
つたのでありますが、内部に通報する者があ
つたもののごとく、これらの
人々がこの
部屋に集ま
つておるということが
朝鮮人側に知れまして、十時半ごろから二、三人あるいは五、六人ずつ、ぽつぽつと
縣廳に
周囲に集ま
つてまいりまして、十一時ごろ数百人に達しまするや、一挙になだれこんでまいりまして、
知事室の前に陣取
つて大多数はそこに坐りこむ、それから
少数の
人々は強引に中に入れろということで、怒号するというようなことに相な
つたのであります。しばらく戸を閉さして中から押おてお
つたそうでありますが、遂に体当りで戸を蹴破り、さらに
知事の控室から本室の方に壁でさえぎられておりますが、その壁は比較的弱くできておるために、これを破りまして、そうしてみな壁をくぐ
つてはい
つてくるというようなことに相なりまして、
知事室を数十人の
朝鮮人諸君が占拠して
しまつたのであります。そうしてまず卓上の
電話三台をたたき落して
電話線を切りますし、机の上の
ガラスは打破る。あるいはその他の
器物、
ガラス戸、机、
椅子すべてを相当こわしまして、しかる後談判に着手したのであります。同じような
問答が繰返されまして、
閉鎖命令を撤回せよ、撤回できないというようなことであ
つたのでありますが、午後の二時ごろこの
事態を聞きまして、
日本の警察官は外にみなおりますけれども、スクラムを組んで
朝鮮人が門から通路全体に充滿しておりまするために、どうしてもはいれないのであります。袋のねずみのように行き詰りのような
郡屋でありまして、窓を開けて
椅子か何かで街上に降りるよりほかに脱出する途のない
部屋でありますから、そこで危險であるということを感じまして、進駐軍の
憲兵隊クルツプ氏が、下士官二名を連れて、そうして救援すべく、この
朝鮮人の列をわけてはい
つてい
つて知事室に到達したのであります、それで
朝鮮人諸君に退去を命じたのでありますが、きかない。きかないので、ピストルを向けたそうでありますが、
朝鮮人諸君はみな胸を拡げて、撃て、われわれは命などを惜しんでここに來ておるのではない、撃つなら撃て、こう言
つて慫慂するというような態度でありましたがために、
クルツプ大尉も
少数の彈丸で解決し得る問題ではない。もつと強力なるものを動かすほかはないということから、一應その場を
引揚げまして、そうして他の
対策に出でようとしたようであります。
神戸における地区の
最高憲兵司令官は
メノハー准將でありまして、
ちようどこの
日京都に出張いたしておりまして
留守であ
つたのであります。この
司令官の指図を仰ぐことができなか
つた、それが
一つは
事態を不幸ならしめたのでありますが、対談数時間に及んで、どうしても
知事を殺せ、何をぐずぐずしているかというような
叫び喧々囂々たるものでありまして、たえず街上においても、廊下においても騒ぎが起
つている。それでこのまま放置するならば、いかなることになるかわからぬということから、遂に
吉田知事は意を決して撤回するということを宣言したそうでありまして、それならそれを書いて渡してもらいたいということから、書いて渡す。そういると、匂留せられいてる六十五名は、この
閉鎖命令に対して抵抗したために捕えられたのであるから、
閉鎖命令が撤回された伊上
釈放せらるべきものであるという主張をいたしまして、一應
知事が撤回いたしました以上は、
根拠を失うことになるわけでありますから、やむを得ず
檢事正も
釈放指揮に署名をしたということであります。
次席檢事がこの
指揮を持
つて裁判所に
朝鮮人に護られて参りまして、そして
釈放を完了して
帰つて來た。そうすると、今ここでや
つて乱暴に対しては一切処罰をしないという一札を付せ、こういうことになりまして、それも渡すのやむなきに至
つた。そこで
朝鮮人諸君は一斉に
引揚げて行
つた。こういうような
経過にな
つているのであります。そこで
引揚げたのが五時ころでありまして、その後一時間ほとして
メノハー准將はお帰りに
なつた。それでこの
経過を聽かれまして、これは容易ならぬことである。
地方政権に対する
一つのクーデターであるという御見解から、第八
軍司令部に連絡せられまして、ただちに
非常事態の宣言を行
つた。本日この
暴行その他に参加いたしました者、全部これを
檢挙する、こういう
方針を決せられまして、夜の十一時ころ
知事、
市長、
檢事正等を招集せられまして、
非常事態を宣言するとともに、これらの
檢挙について協力すべきことを命ぜられたのであります。その夜半から当日参加したと目すべき
人々は、続々
檢挙せられることにな
つたのでありまして、私の参りましたとき千百余名が
檢挙せられておりましたが、その後の報告によりますと、千六百余名に及んだようであります。比較的軽い者六百名は
釈放いたしまして、千余名が留置せられているわけであります。
メノハー准將が私に語られたところによりますと、大体
重き者は
軍事裁判で審議する、そして処罰した上で
朝鮮に送り還すというような御
方針のようであります。軽き者は
言葉その他の關係から、
日本の
裁判権に移讓するゆえに、
日本の
裁判所は、
檢察廳も人員を増加して、敏速果敢にこの
裁判を処理すべきことを要請せられているのであります。これが
神戸の二十四日の
騒擾の顛末でありまして、これもまた
日本人が七名参加いたしておりまして、
共産党員が主であります。
神戸の市
会議員の方も、今
ちよつと名前を失しましたが、これに参加いたしておられたわけであります。
それから二十六日の二回目の
大阪における
騒擾でありますが、これは第一回で成功しなか
つたからして、さらに二十六日を期して二万の大衆を動員して、そうしてその圧力のもとにぜひ
命令を撤回させよう、こういうようなことで、戸別訪問のようなことをし、あるいは米の供出をしお金を出させる。これは他府縣から應援に來たところの人の食糧とし、旅費とするもののように思われるのでありますが、そうして着々計画を進めてお
つたようであります。情報によりますと、前の晩、二十五日の晩に
朝鮮人連盟本部において、明日の
大会のやり方について議論がありまして、あくまで合法的に穏健にやるべしと言う者と、死を賭しても闘うべし、警察または進駐軍等が彈圧を加えた場合には、死力を盡してこれに抵抗して闘
つて勝つという態度でいかなければならぬという議論が二つにわかれまして、夜を徹して議論が交換されたが、結局結論を得るに至らずして、
大会に臨んだというふうに傳えられているのであります。この日も朝から三箇所に支部
大会を開きまして、そしてその支部
大会でそれぞれ人員を整えた上、正午ごろまでに大
手前公園、
縣廳前に集合いたしたのであります。集合したる人員約二万名であります。そうして
代表者を立てまして、このときは
代表者五名に限り
面会するという條件がついておりましために、
知事室の外までは二千人くらいの人が皆
縣廳内にはい
つてきたのでありますが、
部屋の中には五名だけ入れまして、そうしてしきりに交渉を継続いたしたのであります。結局同じことの
問答でありますから、午後一時くらいから午後四時ごろまでに及んで解決ができないで、
事態を憂慮いたしておりました
大阪軍政部長クレーグ大佐は、今一人の中佐を伴われて
知事室にはい
つてこられまして、はてしがないから、会談はこれで打切るべしということを命ぜられたのであります。同時にこの群集を平穏裡の解鶴させよ。こういうことを命ぜられまして、警察局長に命じて解散の手続をとらせたのであります。そのために
代表者玄何がしという人に、メガホンをも
つて警察局長の
命令を
公園の群集に傳えさせたのでありますが、容易に動く形勢が見えないで、か
つて騒ぎが大きくなる一方制ありましたので、余儀なくクレーグ大佐等の了解もありまして、強制手段を用いてよろしい。こういうことでありましたために、ポンプを持出してホースで水をかけるということで、大部分の群衆を散らしたのでありますが、なお青年
朝鮮連盟の
諸君などは、水に漏れましても、かえ
つて屈せずジグザグ行進を継続し、
縣廳の中にはい
つてこようとするような氣勢を示しました。あるいは石を投げて昔官に挑む、あるいは卵の中に唐辛子を入れてこれを目潰しにして、眼が見えなく
なつたときに袋たたきにするというようなことが行われましたために、余稿なくピストル等をも
つて威嚇するというようなことに相なりまして、ピストルも若干発射いたしたそうであります。その犠牲であるかと存じますが、十六才の少年がピストルに撃たれてけがをして、その晩日赤病院かで遅く死亡するにいた
つたということが傳えられておるのであります。その死因等については、解剖に附して詳細にあとで報告するということにな
つておるのでありますが、その点は未だ報告を受けておらないのであります。
警官の方でも打撲傷三週間以上の治療を要するような者を初めてとして、三十数名のけが人を出しておるのであります。しかしさいわいにしてそういう乱闘がありましたけれども、結局解散せしめることに成功いたしたのでありまして、
神戸のような撤回というような
事態に到達せずして済んだことは、不幸中の幸いであるわけであります。これが
神戸、
大阪における当時の実情でありまして、これについていろいろ感想のようなものもありますし、これに基づいていろいろ考えるべきことがあるのでありますが、それらは別に申し上げることとしまして、
経過の概要は以上の
通りであるということを申し上げて終る次第であります。