○羽仁五郎君 この問題は實に重大な問題でありまして、新
憲法が何故に
國家が
宗教教育を行な
つてはならないということを規定しておるかという點については、單なる誤解というふうなものは問題にならないと思うのでありまして、我々が新
憲法のその
精神を積極的に支持するか、それとも新
憲法のこの規定をなんとなく邪魔なものに扱うかという非常に重大な問題を含んでおると思うのであります。新
憲法が
國家が
宗教教育を行
つてはならないというふうに規定したその
精神は、實に深いものがあるであります。御承知のようにこれは單に我が國のみに限らず、
世界人類の
歴史の上でこの
教育と
宗教というものをはつきり分けなければならないということは、實に慘憺たる人類の體驗を經て到達した結論でありまして、決して我々の一朝の
態度の燮更によ
つて左右されるべきものでないと私は確信する者であります。これは實に人類の長い間の涙と血とを以
つて到達した結論であ
つて、
教育と
宗教とははつきり分けるということが、
教育のためにも
宗教のためにも非常に重要なことである。
只今お話がございました、例えば
他力本願というような
言葉は、なぜ世間において濫用せられるか、或いは
日本においてなぜ非常に低級な機械的な無神論、つまり哲學的な
意味を持
つた、或いは思想的な
意味を持
つた無神論ではない、全然
宗教に理解のない機械的な無神論が非常に横行している、或いは全然敬虔の
精神というものが缺如している、この原困は何にあるかということを、我々は深く反省しなければならないと思います。これは全く
日本の
宗教に對する非常に低級な理解というものは、
日本においてはこの
國家權力と
宗教とが非常に密接に結び付いていたということの原因に外ならないということは、我々の
歴史的な
研究が示すところであるのであります。どうしても
宗教の問題は、良心の自由の問題である。これに對してはいかなる權力も、いかなる金力もこれをここへ交えるべきものではない、全く良心の自由に從
つて、信仰の自由というものをはつきりするのでなければ、
國民が
宗教の眞に高い性質というものを理解することはできないのであります。でありますから、一見
國民の
宗教情操を養うためには、
國家權力を以てこれを命ずるのは近道のように見えるのであります。そのために過去の
政治家はしばしばそういう誤りを犯したのであります。現に徳川時代の場合のごときは、全く
佛教が徳川政治權力というものと密接に結び付いて、御承知のように宗門改め制度というものをや
つた。その結果
國民は
宗教というものの深い
内容を全く否定して、
宗教というものは一種の警察政治に外ならない。その結果
宗教を侮蔑し、
宗教を
批判し、
他力本願というような
言葉を濫用するようなことにな
つた。この原因はどこにあるかといえば、つまり
宗教を政治の下に置いたために、
國民が
宗教を政治よりもずつと低級なものと理解するに至
つたので、これは我々としては特に
國民を責めることはできないのであ
つて、こういう
宗教政策が間違
つていたということを反省しなければならないのではないかと思います。今日においてもやはり我々は
國民が
宗教的な
情操を高めるということを非常に熱望します。殊に
宗教に對する無理解が
國民の間に非常に慘憺たる
弊害を生んでおるということは、今まで各委員諸士の仰しや
つた通り、私も實に青少年の間に
宗教に對する完全なる無理解というものは、多くの悲しむべき現象を生んでおることを實に歎く者でありまして、その
意味においてはさつきも
お話がございましたように、諸外國、クリスト教國と違
つて日本が特に
宗教的な點について理解が非常に低い。それを私は歎けば歎く程この
宗教の
教育を
國家權力と結び付けるということは、やはりこれこそ反對しなければならないのではないかということを眞率に考えるものであります。我々は
國民の
宗教情操を高めようというふうに考えるならば、完全に良心の問題として、信仰の自由の問題として、
教育にこれを結び付けることなく、
宗教家自體の自主的な活動により、そして
國民が
公立學校において好むと好まざるとに拘わらず
宗教の講義を聽かされる。そういう強制を伴うことなく、
國民が
宗教を
希望するときに、自主的に
宗教について
國民が
研究する。
國民が
宗教を
希望しないときに
公立學校において強制的に
宗教の講義をするその結果は、必ず
國民が
宗教に對して形式的な理解を持つ。實に
國家によ
つて宗教教育を奬勵するという
方法程、
宗教に對する
國民の理解を低級ならしめるものはない。こういう
意味において新
憲法は
宗教的情操を尊重すればする程
國家による
教育と
宗教というものをはつきり分けなければならないというふうに規定しておると私は確信しております。そういう
意味において、私は新
憲法のこの
精神を積極的に我々は守る全責任がある。それは我が
國民の
宗教情操を高めるためにその全責任がある。從
つて私立
學校において、
宗教教育が自由に行われるということは非常に結構であり、又
公立學校においても
公立學校の
生徒、或いは
學生、或いはその教授會、或いはそこにおいて
宗教研究會というものが自主的に持たれることは實に
贊成する者でありますけれども、これは
國家の法律或いは制度によ
つて宗教教育が行われることは、徳川時代における宗門改制度なり、或いは最近の戰爭の期間中における
神道の強制、その他
宗教的儀式の強制ということが、却て
國民の
宗教的情操を非常に低くし、そうして
國民の
宗教に對する謂われのない侮辱というものを増大したという、そういう實に危險な例に顧みて、私としてはもう少し慎重にこの問題を御協議あらんことを切望する次第であります。これは繰り返して申し上げますが、
國民の
宗教的情操を高めるためには、全く
宗教の自主的な活動、又
宗教に對する我々の良心の自由という點において原則を求めるべきであ
つて、
國家或いは權力或いは制度というものによ
つてこれを奬勵しようとする場合には、その結果が逆になり、そういう悲慘な問題が
歴史上に實證されておりますので、どうかこの點を十分お考え願いたいというふうに切願する次第であります。