○
委員外議員(
川上嘉市君)
國字國語問題研究機關設置に關する
請願が出てありまするが、その
説明を私が
帆足君に代りまして申上げます。御
承知の
通り一國の
國語というものは、その國の
文化の
程度、それから
國民の
教育、或いは
能率、或いは延いては待遇にまで影響する大問題でありまして、恐らくは
日本語のごさくに非常に複雑化しておる
國語は他に例がないようなふうに私は
感じます。私の友人でオーストリーの
統計局長をや
つておられた人が、曾てオーストリヤで私が會いましたところが、
自分は
八ケ國の
言葉をや
つておる。それで今
日本語を習いかけて見たところが、
考え方が
根本において違
つておるからして、到頭これはまあ斷念してしまつたというような話がありましたが、實際に餘りに複雑し過ぎておるということは、誰でもが感ずるところだと思います。殊に
國字が
假名があり、或いは
漢字があるというようなことで以て、非常にその
國字の
學習だけにも時間を取りまして、私は曾て
國字問題竝びにその歸趨という
國字改良問題の本を書いたことがあります。その當時に私調べたところが、小
學校で兒童の授業の半分以上がその
國字或いは
國語に關する時間に費やしておりまして、
外國に比べますと、その
國字、
國語を覺えるだけに一年半、どうかすると二年ぐらい餘計費やさなければならんような
状態であります。而もその結果どうかというと、例えば尋常六年頃までやられた人達が、完全に
新聞が讀めるかといいますと、これも讀めない。非常に讀めないということは、最近にその筋の意向がありまして、
カナ文字協會が
工場の勞働者千五百人の人にいろいろな
文字を出しまして、それで試驗をした。で假に百點を
滿點にして、何人おるかという例ですが、提携という
文字が五十點、確執というのが五十五點、富裕という字が三十七點、憎惡というのが三十三點、軋轢という字が二十二點、これらは皆
終戰後に決められました千八百五十字という
漢字制限の中に入
つておる
文字であります。その
文字が或ものによ
つては二二%しか讀めない。こういうのであります。即ち
外國の
學校では大
抵小學校に行く前、殆ど大抵の
子供が
新聞が讀めるというのに比べると非常な差であります。私は
昭和八年に
西洋に參りました時に、各國の
國民性とかいろいろのことを調べようと
思つて、小
學校の
生徒に對する
質問書を書いたのであります。その
質問書が約四十
ケ條ばかり。それから
中等學校の
生徒に對するものが四十
ケ條。それから世の中に出た、成人に對するもの四十
ケ條。これを
英獨佛伊、
四ケ國語に譯して持
つて行つて、これに對して
答辯を書いてくれとい
つて書いて
貰つたのです。
新聞がいつから讀めた、こういうようなことを書いて見て、その
調査によ
つても、大低
學校へ行く前に半分くらい
新聞が讀めるということにな
つております。それは何かというと、結局
國字が昔の
通り、話す
通りに
文字が、文章が成
つておりますために、非常に讀むことが容易である。で
國語のために
日本の
子供が苦しむのに比べて、殆ど問題にならんくらいに樂々とできる。そういつた
意味から
日本の
國字というものは、どうしても何とか工夫をしなければならんというふうな
状態にな
つておると私は考えます。それで一方に
教育のみならず、
文化の
方面からも今のように讀めないからして、ここに
國民に本當にいろいろな
文化的の
學問、
科學なり或いはその外の
學問を教え込むのに非常な不便を來す。而もその
文字が分
つてもそうですが、非常に複雑しておるためにいろいろ分らない
文字を澤山使わなければならん。例えば數學の方で正しい數と書いた正數という字と、それから又コンマの付いておらない數、
整數、こういうふうなものも音が同じでありますから、これを區別することが、非常にむずかしい。而も多くの普通の大人の人でも正數という字を本當に
兩方共區別のつかない人が
大分あるじやないか。こういうような
感じを持
つておるのであります。動物とか植物、或は
化學というような
方面にわたりまして皆調べて見ると、同樣に普通の人が理解し得ないような專門語を澤山使わねばならんというような
状態であります。
從つて國民の
文化をずつと普及する上において、非常な障碍になるのであります。
それからもう
一つ國民の
能率の問題であります。これが又非常にすべての
方面において、
文字のために影響されるのであります。實は
國字改良問題というものを
自分で
研究しかか
つたのは大正三年、四年と
西洋に留學しておりまして、その
時分に各國をずつと歩いて見て、そうして最後に
アメリカの
フイラデルフイアに參りまして、テーラー・マニフアクチユア・カンパニー、これはテーラー・システムという
科學的管理法をや
つておる
工場でありまして、小さな
工場であるが理想的にや
つておる有名な
工場、そこを見ましたところが、
工場で使
つておりますいろいろな
書類、例えば倉庫或いは
會計、購買等いろいろな
方面で使
つておる
書類が、ものを書きますときにみな頭
文字だけで
略字を使
つておる。丁度今日進駐軍がRTOと書いて、レールウエー・トランスポーテーシヨン・オフイスということを表しているように殆どみな
略字でや
つておる。これを一々
傳表に原價計算のことも、
會計のことも、注文書なども購買の
方面にしても、すべてのものをみな一々全體の長々しい
文字で書くのと
略字を使うのとは非常な差がある。これを
日本のようにや
つていてはやりきれんという
感じを持
つておる。
もう
一つは
方々の
工場なんかを見學に行くのに、
紹介状をくれ、こうい
つて頼むときに、
支配人なり社長なりがすぐステノグラフアー、速記のできるタイピストを呼んで、その人がメモを持
つて來る。これに口述して綺麗にタイプライターに打
つて、
コツピーまで取
つて、宛名まで書いて、
支配人は
ただサインさえすればよいというようなものを持
つて來るのであります。それを
日本人が
紹介状を書くときには、手紙を出し墨を磨
つて書くというのと比べると、手数から考えて問題にならん。又それでは
一つの
コツピーも取れん。こういつたようなことを見ますと、これは今の会社の
事務の
整理の上から申しましても、その外の
事務から申しましても、
日本の
文字では到底いかんというような
感じを強く持
つたのであります。そこで私は
フイラデルフイアからワシントンへ行く途中汽車の中で考えた。どうしたらいいんだろう、
たださえ
文化の遅れている
日本が、こんな非
能率的な
仕事をや
つてお
つては仕方がない。
新聞などの
印刷におきましても、ライノタイプというタイプを打つと
活字がすぐ出て竝ぶ、こういうふうなものと比べて、
日本のあの面倒臭い
活字を
一つ一つ拾
つてやるのと比べて見て問題にならない。これはどうしたらいいかということを考えたときに、
日本には
アルフアベツトと同じような
假名があるのだ、これをうまく利用すれば、
西洋の
アルフアベツトに代えることができはしないか、
假名を
國字にしたらどうだろうかということを考えたのであります。併しこれは一足飛びに實行できるというのではありません。これを實行し、或形に
改良して、
日本の
國字として使い得りためには、もつと
根本的な
調査をしなければいけないのであります。第一
言葉から
改良しなければならぬ。
言葉を鍛えないと今のままで
假名で書いても分らないものが澤山あります。非常に
日本の字が複雑な、
一つの例としてお話申しますれば、私、あなた、という「私」の字が、これは私の著書の中に載せてあるのですが、英語であればアイ、ユーというそれだけで済むものが、
日本語では、私、吾、我、己れ、予……これは余という字もあります。僕、妾……これは女の
言葉であります。我輩、余輩、
我曹、予輩、
吾人、
自分、拙身、
身共、小生、小子、迂生、愚生、愚老、拙老、不肖、わし、俺、おら等こういつたように二十も三十も同じ語に對して言い表わし方がある。このままで以て
假名にして見たところが、到底行くものでない。これをもつと
根本的に調べ上げて、どういうものを以て
標準語にしようということを権威ある
機關によ
つて調査して、これならばいいというものを決めて、
日本人の
子々孫々に對して、本當に
國字というものを定めるような
一つの
機關を要すると私は考えるのであります。
それでこれは今の
能率などに關する問題でありますが、今度は
體格の問題もそうである。これは
日本人は御
承知の
通り西洋人に較べるというと、
子供の
時分の
死亡率が多いというような關係で以て、
平均年齢を調べて見ますというと、十五年程短い。これは無論
子供の
時分の
死亡率が多いために
平均が下
つているのでありますけれども、これまでは
西歐の
新聞を御覧になると、八十以上で死ぬという人が非常に多いのですが、
日本では七十くらいで死ぬ人が、向うならば八十で死ぬ。そのくらいの差があると思います。
體格は
惡いし身體は小さいし、何とかして同じような
立場において
西洋人と競爭して、
將來同じような
文字を持
つて行くためには、
日本人に
體格をもつとずつと良くせんというと、遅れている方が
荷物を餘計背負
つて行くというようにな
つては、到底いけない、そういう
意味はらして
日本人の
荷物を輕くしてやりたいという
感じを私つくづく持つのであります。その點から先程申しましたように、小
學校なら小
學校をやるのに、一年半乃至二年も餘計苦しんだ結果、本當に讀めるならいいけれども、まだ本も讀めないし、
新聞も讀めないというふうであるならば、
日本人は
ただでさえ字が餘計あるところへ、
荷物を餘計背負わせて競爭するようなもので、走
つて勝つはずがないと思うのであります。そういつた
意味からして、いろいろな、他の
方面からいいましても、
日本の今の
國字のままでいいといい人はどなたもないだろうと考えるのであります。
將來どんなふうに行けばいいかということになると、これはいろいろな意見がある。例えば
ローマ字論者、
假名文字論者、
漢字制限論者もあります。いろいろありますけれども、我々は今かるがるしく一部の論者の説によ
つて、こういうものがいいと決めるわけに行かないのでありまして、これ程重大な、
子々孫々に關する、
日本民族に關する大問題は本格的な
調査機關があ
つて、本當に
愼重に調べて、そうしてやるべきものだと私は考えるのであります。そういつた
意味において、今囘
國字國語問題の
研究機關というものを
政府は
設置されんことを希望するのであります。
皆さん方の御
賛成を得まして、若しこういうことができまするならば、
將來の
日本のために、非常な貢献をすることになるのではないかと考えるのであります。どうぞ御
賛成をお願いいたします。