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説明員(
萩原徹君)
千島の問題と、
千島の脇にございます
ハボマイ群島、及び色丹島のことについて
簡單に御
説明いたします。話が混合いたさないように、別々に御
説明申上げます。
千島につきましては、御
承知のように
北海道の端からカムチヤツカに亙る約二十五ばかりの島が弧状を描いて竝んでいる、この全體を
千島列島と總稱いたしておるわけであります。
千島の
歴史は、先程申しました
琉球の
歴史などと異りまして、古い昔のことは全然分りません。どうやら
千島のことが
日本の書物に出て參りますのは、
徳川時代にあるようでございまして、
徳川將軍がでてからこの
松前藩があそこの有力なる豪族であ
つたのでありますが、それが大名になりました。その時分は
蝦夷を
松前藩が管轄していたわけであります。この
蝦夷という
言葉は、
當時どこか、
北海道だけなのであるか、漠然と
千島樺太方面を含んで
言つたのであるか、どうもはつきりいたしませんが、やはり何か漠然と
北海道周邊の、今でいえば
千島、
樺太邊りを含んでいたようでございます。
それで
幕府に
松前藩から、
郷帳というのでございますが、自分の藩内のどの村には
幾ら米ができるかということを詳しく書いたものについて、
地圖を附けて出しておるのでありますが、承應年間に出ていたものが、現在殘
つているものでは一番古い
松前藩の
作つた地圖であります。それには勿論
測量が今程正確ではございませんが、とにかく
千島が現れておる。で、燒けてしま
つて現在ないのですが、
松前の藩の
記録によりますれば、
徳川の極く初めの頃、
西暦で申しませば一六〇〇年代の初め頃にすでに
地圖ができていたようでありますが、今申上げましたように、現在殘
つておる
地圖としては一六四四年ぐらいに
正保年間にできた
地圖が一番古い
地圖であります。その
地圖には
おぼろげながら明らかに
千島が載
つておる。
從つて松前藩の人々はその
地圖の
千島の
存在を勿論
知つてお
つたわけでございます。
それで
ロシヤが
千島に參りましたのは、むしろ
西暦で申しませば一七〇〇年代に入
つてからでございまして、大體一七一一年頃に
ロシヤの探
險隊が初めて
千島の方へ參りました。その頃以後にできた
ヨーロツパの
地圖には
千島がやはり……現在のような正確な
測量ではありませんが、とにかく載
つておる。併し一六〇〇年代にできました
ヨーロツパの
地圖には、あそこのところは何もなくて、島の
存在を
ヨーロツパでは知られていなか
つたのではないかと思う。それで一方
ロシヤの方はこの探險の目的もあり、又
ラツコを取るために
ラツコ船が
樺太から段々
千島に傳わ
つて南の方へ下
つて來る。それから
徳川幕府の方でも
ロシヤが此邊に來るというのでしばしば探
險隊を出したりいたしております。そうして
千島の國後あたりには
松前藩の役人がお
つたのでありますし、
幕府でも
ロシヤが下
つて來るので
松前藩に委して置かない方がいいというような考えから、途中で一度
幕府の直轄にいたしまして、
幕府の役人をあちらの方へ派遣して駐在さしたり、漁場を開いたりしたことがありまして、結局一七〇〇年代の終りから一八〇〇年代にかけまして、つまり十九
世紀におきましては南の方は大體
日本の漁民が住み、
幕府若しくは
松前藩の役人もいた。それから
北の方から
ロシヤの
ラツコ船や探
險隊が來る。そうして一部分
ロシヤ人も住む者ができて來るというような
状況であ
つたのであります。
それでいろいろその間に政府と
ロシヤ側との
交渉がありまして、
幕府の方で
ロシヤ人に或る島を立退いて呉れということがあ
つたり、又
幕府の方が或る島から引揚げたりしたいろいろな
經緯がございましたが、結局安政年間、
西暦で申しますれば一八五五年に日露間に友好條約ができまして、この條約で
ロシヤと
日本の間の
千島における國境を確定して、それで
北海道に一番近いのは國後で、その次は擇捉という島なのでありますが、その二つを
日本領土とし、それから三番目の得撫から北を
ロシヤ領とする。つまり
ロシヤと
日本との國境は、二番目の擇捉と三番目の得撫の間にある擇捉海峽を以て境とするということを約束いたしたのであります。それから申しまして、まあ大體ずつと昔から南の方は何處が境ということは餘りはつきりした観念なしに、南の方は元々
日本のものであ
つた。そうして
ロシヤと
日本との間で
當時は其處を境にして國境を確定したというわけであります。
ちよつと餘談になりますが、
當時樺太も同じように
北の方には
ロシヤ人が段々住んでおる。南の方は
松前藩方面から行
つた日本人が住んでおるというような
状況で、これも又はつきり國境はなくて、
樺太は
日本と
ロシヤと兩方のものであるというような形にな
つてお
つたのでありますが、安政の日露條約、一八五五年の日露友好條約の際に、
樺太の國境を決めようとしたのでありますが、これは話がつきませんで條約には
樺太等については
從來通り日露間に分割しないで置く。つまりぼんやり兩方のものであるままにして置くということを安政の條約では規定しておるわけであります。そうしてその後、
樺太の國境をそれじや困るので、何とか決めようというので、
日本と
ロシヤの間に
明治政府にな
つてから、引續き
樺太の國境確定問題が論議されたのでありまして、或る時は五十度を主張し、或いは五十度よりもう少し南の方の線ではどうかという案が出て見たり、
當時日本側ではあの島は持
つていても仕様がないから、あれをや
つてしま
つて、その代り
ロシヤから軍艦を貰おうという話が出て見たり、いろいろの
經緯がありまて、
樺太の圀境確定問題が長い間懸案にな
つていたのでありますが、それが結局一八七五年にペテルスブルグで調印されました
樺太千島交換條約というので話が纒ま
つたのであります。つまり
日本は
樺太は全部
ロシヤにや
つてしまう、その代り
千島を全部
日本が貰うという條約ができまして、その結果
千島は先程申しました
北海道に近い二つの島は、元々
日本のものであ
つたのでありますが、三番目からカムチヤツカの所まで、いわゆる北
千島をその時に
樺太と交換して
日本のものにな
つた。それから御
承知のように日露戰爭の後で、
樺太の南半分を
日本が取
つたということにな
つておるわけであります。
千島の
歴史と申しますれば大體そういうようなことでございます。この
千島につきましてもいろいろ經濟上その他の問題もございますが、これは一應省略さして頂きます。
それからもう
一つ、
千島の極く傍に齒舞及び色丹という島があるわけであります。(以上圖示)これはいい
地圖がないのでお分りになるかどうかと思いますが、これが
北海道の端の所でございまして、これがいわゆる根室半島で、根室の町が、この半島の北側に、ここにあります。そうして、ここに
一つのこういう灣がありまして、ここにもう
一つ岬があ
つてこうな
つております。この灣の眞ん中の所に、これが國後島の南半分でございまして、ここに國後があり、ここに擇捉、ずうつと
千島がこれから一列をなしておるわけであります。それと違いまして、この根室半島の先に、ここに幾つかの島がございまして、これが齒舞
諸島といわれている島でありまして、水晶島とも申します。それから、これから離れて
一つ先に、
一つ大きい色丹という島があるわけでございます。
それでこの島の方は、もともと昔は根室の國と申してお
つたのでありますが、根室郡に屬しておる島であ
つたのでありまして、先程申しました安政年間の
千島についての日露國境確定の條約にもこの島のことは、勿論何にも書いてございませんで、當然まあ
日本のものだという考えでや
つていたもののようであります。ただ北
千島を
日本が
樺太と交換して、
日本のものにな
つてから、
行政區畫としては
千島を
北海道の
千島支廳という形にして、南
千島、北
千島というように分けたのでありますが、その際にこの色丹島だけを
北海道廳の
千島支廳の管下に入れて、こつちを根室郡に入れたという形にな
つて、
行政區畫という
意味からいいますと、或る時期以後この島が
千島支廳の管下に入
つていたという
事實はあるわけでございますが、地理
學者のいろいろな話を聽いて見ましても、詳しいことは忘れましたけれども、地質のでき方からいいまして、
北海道と同じ地質でできてお
つて、
千島とは地質的にも違
つておるというような話であります。それで外國の水路誌とかいろいろな地理の本などにも、やはりこの島は餘り
千島として取扱
つていない著書の方が大部分のようでありまして、これはやはり
千島ではなくて
北海道の附屬島嶼として考えるべきもののように思うのであります。
これにつきましては、
歴史と申しましても、
只今申しましたように、
樺太、
千島の國境確定にも何にも書いてないので、平穩に昔から
日本の
北海道の一部として
日本が持
つていた島なのでございますが、終戰の
當時にこの島におりました旅團が、
千島にいた師團の隷下にあ
つたことが原因にな
つたのだろうと思いますが、この島にいた軍隊がロシア軍に降服いたしましたために、現在の島がロシア軍の占領下にある
状態にな
つております。