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清澤俊英君 本日の
食糧問題の討論会が、はからずも供米
問題に一致してしまつたのであります。私は、初め
食糧問題というからには、少くとも生産から
消費にわた
つていろいろの議論が出ることと考えておつたのであります。それが
供出の一点に集まるということは、とりもなおさず今日の社会
情勢を中心にしまして、期せずして
供出の
問題にそれが帰したということを考えまするとともに、その
供出の
問題をいろいろの点で討論せられましたが、結局しますると、
農民に安心感を與える、これでなくてはだめだという点が、共通的に議論せられたのであります。多聞に漏れず、私もこの
供出問題に対しましては、結局
農民に安心感を與えて、ほんとうに
供出ができるような体制を整えてやることが、
供出の
根本策であると考えると同時に、またすぐにもとらねばならぬ緊急の策であると考えざるを得ないのであります。
そこで、いろいろのことを申されまするが、私が第一番に考えたいのは、一体今の
農民がどんな感情でこの
供出をしておるのだろうか。これは何か
自由党の方も言われておつたようでありまするが、私もそういう感じがする。大体今日の
供出というものは、戰爭当時に米が
不足したから、勝つために
供出しろ、いわゆるお上に奉る米としまして、そして戰爭に勝つための
供出として、ずいぶんむりな
統制の中に、むりな取上げられ方を心持よくや
つてきたのであります。それが今日なお続いて、しかもその
統制は、最近はいろいろの
配給公團というようなものに、形をかえようとしておりまするが、現在なお多くのものが残
つておる。だから今の
統制会社の
問題が出る。平野さんは、当分の間と言われておるが、肥料の
統制会社も残
つておる。そして八円で自分がつくつた種子が、三十何円で自分の目の前に來るようなことで、それを買わねばならぬ。そんなことで何で安心するか、何で納得して
供出できようかと私は考えるのであります。
それどころでなく、まだ根底に横たわりますものは、今の
農民が何を考えておるか、
農民の氣持はどこにあるだろうかと考えてみまするならば、私は、
農民ほど今かわいそうな立場におかれているものはないと思う。先ほども申します
通り、戰爭に勝つまでちよつとの間供米するのだと思
つて、一生懸命や
つてきた、戰爭に負けた、やはりずつと
食糧が
不足だから供米せんければならぬ、しかもその
食糧事情は千三百万石足らないのだ、これが足らないうちは、この供米というものは孫末代まで続くんだという、そういうかつこうにな
つている。
この不合理なことが孫末代続くんだとして、たまたま
食糧問題が
解決できるならば、それは
輸入米のできる自由貿易の時代だ。自由貿易の時代になれば、南洋方面あるいはカナダからどんどん安い米が來て、
農業恐慌は目の前にぶら下が
つている。これで不安動搖におののく
農民が、何で安心して供米に
協力する本当に意思が出るかということも、考えてもらわなければならぬ。
少くとも供米という
制度は、これは日本の
食糧制度におけるところの今までの観点で見まするならば、これは過渡的な措置であつたに違いないのであります。しからばこの過渡的な措置は、三年で片づくとか五年で片づくとか、少くとも見境のつく考え方をしたらいいじやないか。それを考えて、もしその種子を與えることができないとしたならば、國家は終戰と同時に、少くとも去年くらいのうちに、調査研究機関ができていてしかるべきだと考えているのであります。しかるに、いつまでも経ちましても千三百万石をもらうことだけ考えておりますが、これもまた別の面から考えてみますと、せつかくつくつた種苗をみなくそにして、それで大体日本の國のこれからの戰後の
経済などを考えるのに、満足な考え方であるかどうかということも、第二段に考えなければならぬが、これは余分であります。
私は、そうした立場におりまする
農民をして安心をして立たしむるには、まづきようからでも遅くないから、この大調査機関をつく
つて、日本の國の
食糧事情はこうだから、いま五年間、
農民諸君よ、血みちを吐いて一生懸命にかせいでくれ、ひとつ辛抱してくれ、こういう話になれば、また考え方がおのずから違うと思う。いつまで経ちましても、いつに
なつたら
解決がつくかわからぬような
状態において、一方にこの
解決がつく時分には、
農業恐慌でお前らは困るだろうから、その
農業恐慌に備えて
農村工業
組合を興せというが、その
農村工業
組合を興す品物がどこにあるか、どこでそれを具体的に與えてくれるか、たまたま
農村工業
組合を興そうとしますと、それを興すどころか、それよりひとつ
供出制度を
解決したらどうかということで、興すどころじやない。それには至
つて不熱心千万である。しからば
食糧を一反でもよけいつくろうとして、牛や馬でも、豚の子でも、何とかして飼おうじやないかといえば、その豚の子一つせわもせずして、ただ出せ出せと言つた
つて、それが出せるかどうか、これはほんとうに考えてもらわなければならぬと思う。私は、かかる意味合におきまして、いろいろこまかい点はもう議論が盡くされたようでありますから、ごく大ざつぱな点で、
農民が納得して出せる一つの点といたしまして、こういうことを議論したいのであります。
その次には、
農民は決して出せない、出したくないと
言つているのではない。われわれは出したいから出せるようにしてくださいと頭を下げて頼んでいるのに、出せるようにしない。それはいろいろな事情もありましようから、無理もないと
思いますが、私どもがこう申しますと、お前は百姓のことばかり
言つているというようなことを言う人もあるのでありますが、
農民自身も、私がほんとうにまわ
つて相談をしますると、実際貧農の小作人の子弟というものは、大都会に行
つても一番難儀な仕事をしているのであります。暮しのせつない仕事をしているのでありますから、年に三回や五回家庭へ帰
つてきて、子供の三人も五人も連れて、きて、そうして村の実家にがんば
つて米をもら
つている。それがために家庭爭議が起きる。こういう実例もあるのでありますから、町の人が、どんなに困
つておるかくらいのことは、
農民はよく知
つておるのであります。
だから、われわれが出しいいようにしてくれぬかという叫びをいくら上げましても、前の討論者が言わ通れるり、一つもそれが行われていないところに今日の
欠陷があるのであります。この点に対しましては、いろいろ物價の面も生産の面もありましようから、これはむりなことを言うてもしかたがないのでありますが、少くとも
農民に納得のいくような
方法を考えなければならない。その納得ということは、もう
供出制度という
制度でなく、買上
制度にな
つているのでありますが、買上
制度ということは、旧の
制度が、いわゆる翼賛議会から國会に変つたごとく、民主的の
制度でなければならない。しかるに、やり方はあくまでも昔
通りの、頭からおつかぶせのやり方であ
つて、買上米と名前をかえても、その
制度が十分できていないところに、私は大きな間違いがあると考えるのであります。
これは
生産者の面でありますが、私はいま一つの面から、供米
問題に対しまして、
食糧問題として申し上げたいのであります。それは
消費者の面の方に、少し
生産者として文句があるのであります。お前らは
やみで賣
つてもうけておる、何だかんだといろいろ理窟をわれわれ
農民は聞くのでありますが、しからば買
つていく人が、どれだけ買
つていく受入体制を完備しているかと申しますと、何ら完備がない。賣りますものは、ゴムたびでも、農機具でも、皆
やみから
やみへと自分勝手に賣つたり
物交でも
つていくが、しかし
農民だけに、
やみの米を賣るのは惡いのだ惡いのだという話をして、これを攻撃だけしてお
つて、米を買う方は、決してこれに対する体制を整えておらない。
少くとも私は、日本の
政治が民主的に行われておりますならば、出す方も民主的に出すと同時に、これを
消費する
消費面も、ほんとうに命がけの体制を整えて、
消費する者と
供出するいわゆる
生産者側とが、ほんとうに納得ずくで、腹の底からの相談をいたしますならば、同じ日本人じやないか、同じ兄弟じやないか、今日の
情勢がわからぬとだれ一人
言つておるか、話はきつとわかるのでありますが、それが昔ながらの
統制によ
つて、いろいろ
統制会社というようなものが中に介在して——それも必要でないとは私は申しませんが、そういうものにとらわれた一つのやり方でや
つておりますことが、とりもなおさず、
消費する面でも生産する面でも、そこに大きなギヤツプができて來て、何か変なことをするのではないかと思われる。