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榊原(千)
委員 ただいま新憲法によりまして、世の中がすつかり
變ろうとしておるときであいります。この
扶養の
義務というものが、
從來の
家族制度の一つの大きな柱であ
つたことは、疑いのないところでありまして、
義務としての
扶養がかえ
つて家庭生活を非常に暗くしていたということは、私が先の御
質問の際にも申上げたことであります。ここの第六章、
扶養の章において書かれてありますことは、みんな
扶養すべき者の
順序についてとか、あるいは
扶養を受ける權利ある者の
順序についてとか、
扶養の
程度あるいはまた
方法などについて、すべてが
家事裁判所によ
つて行われることにな
つております。と申しますのは、これは
鍛冶委員も指摘されたように、貧しか
つたりいたしました場合に非常に困難があり、あるいは怠けていて貧乏であ
つたものは
扶養する
義務がなく、一生懸命勤儉力行働いて産をなし、餘裕のある
生活をしておる者は
扶養すべき
義務があるというようなことにな
つて、
お互いの間に不滿があ
つたりいたします。そして老後の親だけが、そういうような
家事審判所によ
つて強制されたところの
親族の
義務的な
扶養を受けるということは、非常に氣の毒なことでもありまして、
鍛冶委員は昨日いかなる貧乏人でも親を
扶養して、今までは
扶養の順位も定められていたために、
扶養されることができたのだけれ
ども、ということを
お話になりましたが、それがいかに貧弱なあわれな
扶養であるかということを
考えますときに、これはどうしても
社會保障法のようなものに轉嫁されなくてはならないことであり、すでにそういうような準備が、
日本においてさえも著々と整備されようとしつつあるときであります。そこで私はこの
扶養の
義務というのもは、むしろ第七百三十條の「
直系血族及び同居の
親族は、互に扶けあわなければならない。」というここに集中してしま
つてよいのではないかと思うのです。
家事審判所においてさえも、この
條文によ
つて適當に
處置をとることができると思うのであります。いやいやながら
扶養しているような
家庭に育つ
子供というものは、決して幸福ではありません。私はむしろ
法律は
家庭の幸福を守り、
家庭がいかにも朗らかでありますときには、
お互いこういうことを
義務として強制いたしませんでも、
兄弟は相扶け合い
親子は
協力し合うことを學ぶと思います。このような
義務としての
扶養があるために、かえ
つて日本人のへん
ぱな思を養成するようなもとになりはしないかということをも
考えるのでります。たとえば電車に乗りましても、
自分のうちの老人であるときは席を
譲つても、よその人であるときには知らぬ顔をしておるというような現象も、こういうような狹い思想に基く
規定から、かえ
つて生れ出るのではないかと思いますので、私はそれを第七百三十條に
譲つた方がいいと思いますけれど、どうお
考えでございましようか。