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鍛冶委員 だんだん進んでいきますが、この
規定からいくならば、私はこの
規定はどこまでも
財産的負擔を書いてあるものだと思います。順序というのはだれが先に金を出してやるか、物を出してやるかという
財産的負擔にほかならない。
財産がある場合はそれでよろしゆうございますが、
財産がなかつたら、これはだれも引受手はありませんよ。親の
めんどうだけをみるということは
ーー。しかし今日は
財産がなくても
めんどうをみなければならぬという
考えで、
めんどうをみておるものが、
實際にはあるのであります。どこまでもこの
規定は
財産的
規定であります。
財産のない場合でも、どうしてもおれはこの家に生まれた以上は、この家の
めんどうをみなければならぬということはきま
つております。先ほど家督相續ということを言われたが、家督相續ということは、なるほどそういうことは現れておらぬかもしれませんが、今までの
日本では、家督相續人になる以上は、親の
めんどうをみなければならぬということを、ちやんと覚悟しております、世間もそう
認めておる。それがなくな
つてお互いが
五分五分である。そして
お互いが協議せよ。協議が調わなければ審判所でやれ。
財産も何もない親を、しかも私先ほども言う通り、中風にな
つているものを食わせるだけでも手がかかるのに、協議が調う道理がありません。五分々々の観念では
財産がなかつた場合にどうするか。そういう場合に、わが
日本としてはちやんと引受けて、だれか
めんどうをみるかきめておかなければならぬ。だからそういうことではなくて、
實際の
日本のあり方を
もとにして
考えてもらいたい。
理屈を先にしないで、
事實を
もとにして見てもらいたい。すべて私の先ほどからの
議論は、全部それから出てきておる。
事實を離れて理論的に言うということは、私はあらゆる
法律においていかぬ、殊に
日常生活を
規定する
民法においては、はなはだおもしろくないと思う。その結論から出ておるのであります。
財産がなかつた場合、一體協議が調いましようか。そのときでも、だれかが世話してやらなければいかぬのだが、そういうものはどういうところできまるのです。
舊來の
民法ではそこまでは書いてないが、家督相續人という者でおのずからそれがきま
つておりました。その家督相續を今まであつたような家督相續には弊害があると言われるが、弊害のあるものはと
つてよろしい。家督相續人というものが惡かつたら、何とでもせられたらよろしいでしよう。その家に座る者とせられてもよろしい、親の
めんどうをみる者とせられてもよろしいが、とにかく
實際の
生活の上からそういうことをきめる必要がある。それともどこまでもいかぬおつしやるのか、その點を伺いたいと思います。