○小沢
雅仁君 立憲民主・社民の小沢
雅仁でございます。
お忙しい中、
梶山経産
大臣にお越しいただきました。後ほど原発
処理水についてお伺いをしたいと思います。
私は日本郵政グループの出身でございまして、あの大震災からちょうど十年が経過したわけでありますけれど、当時、日本郵政グループも非常に大きな被害が出ました。私たちの仲間も多く失いました。そのことを少し触れさせていただきたいというふうに思います。
まず、お亡くなりになられました
皆様に心から哀悼の誠をささげ、まだ多くの方が行方不明になっておりますけれど、一日も早い発見を祈り、被災された
皆様に改めてお見舞いを申し上げたいと思います。
私が所属しておりました日本郵政グループでも六十二名の社員が津波等の犠牲となりまして、現在行方不明となっている社員もおります。被災地沿岸では郵便局も多くございまして、大きな被害を受けました。七十六の郵便局が全壊、半壊、浸水、原発の
影響などで営業休止となりました。現在も三十四局が営業休止中で、四局が仮設の郵便局でいまだ営業をしております。また、日本郵政グループで所有しておりますかんぽの宿も、千葉の旭、
福島のいわきも津波の
影響を受け、とりわけ、かんぽの宿松島は二階まで津波が押し寄せまして、営業再開を断念をし、取り壊して今は更地になっております。
亡くなった社員の中には、配達途中に津波に巻き込まれた社員、郵便局の中に浸水した津波に巻き込まれた社員、避難指示が出されず郵便局に残ったため、局舎ごと津波に破壊され犠牲になった社員もおります。現在も行方不明のまま帰りを待つ遺族の皆さん、避難せずに犠牲になったことを納得できていない遺族の存在など、深い悲しみと癒えない心の傷を負った御遺族、仲間、家族を失った社員の心情を察すると、今でも本当に心が痛みます。
私は労働組合の出身でありますけれど、とりわけ甚大な被害を受けた陸前高田市、この陸前高田郵便局でも、当時の現職の組合の支
部長が津波に流されて、いまだに行方不明となっております。聞くところによると、仲間を郵便局舎の上に避難させるように自分が最後まで残っていたようでありまして、津波に流されていったというふうにお聞きをしておりますが、組合員が、支
部長が今でも行方不明ということで非常に心を痛めて、現在でも心を痛めているところでございます。
当時、私はJP労組の組合役員として会社との交渉を担当する任務に就いておりました。当然にして、組合員、社員、御家族の安否
確認を被災地三県の役員の皆さんにお願いをしつつ、私は、期間雇用社員を始め社員の雇用をどう守るのか、そして、津波に破壊されてしまって住まいを失っているわけでありますので、新しい住まいの確保や、そして職場も流されてしまっていますので、働く職場の確保をどうするのか、
福島第一
原発事故による避難先の住居と職場の
異動を組合員、社員から希望を取って会社との交渉に当たりました。
また、放射線量による郵便局の業務再開の判断は、これは本当に大変でございました。やはり
地域で営業を再開するには郵便局にいち早く営業を再開してほしいという当時の
政府の
要請もありましたけれど、ただ、そこの郵便局がどのぐらいの放射線量にあるのか全く分からない中で、そして、その
地域がどれだけの放射線量がある中で郵便配達の外務員を赤いバイクで配達させるわけにいかないということで、最終的には、放射線量を測るガイガーカウンターを会社に用意をさせていただいて、安全な放射線量を
確認しながら外務員、郵便外務の皆さんに配達をしていただいたと、営業再開をさせたということもございます。
当然にして、日本郵政グループでも、労使でまさに経験したことのない交渉や協議となりました。本当に現地の仲間の安否を本当に気にしつつ、しかし、私の立場としては、組合員の雇用を守る、そして家族との生活を守る、新たな住まいをどうする、新たな職場をどういうふうに確保しなければならないのか、そういった交渉に全力で当たったところでございます。
そして、何よりも大事なことは、やはり命を守るということが社員一人一人に徹底されていなければいけないということで、この十年間、そういったことも、何よりも社員の命が大事だということを日本郵政グループの中でも徹底をしていただいたところでございます。
私が被災地を訪れたのは二〇一一年十一月上旬でした。震災のあった年、雪が降る前にどうしても一度被災地を
訪問したいということで、当時大学一年生の私の娘と一緒に、一関市でレンタカーを借りて、南三陸町から気仙沼市、陸前高田市、大船渡市の沿岸
地域を娘と涙を流しながら運転したことを今でも強く覚えております。その後、被災地を幾度となく
訪問し、
福島第一
原発事故による帰宅困難
地域を始め、
福島、宮城、岩手の津波被災の沿岸
地域をほぼ全て
訪問させていただきました。建立された慰霊碑や震災遺構に献花をささげ、犠牲になられた御霊に哀悼の祈りをこの間ささげてきたところでございます。
そういう思いを込めて、この
東日本大震災復興特別委員会の
委員に
是非ならせていただきたいという思いで、今日また改めて、初めてでありますけど、このように質問の時間をいただいたことに感謝したいと思います。
いずれにしても、東日本大震災を絶対に風化させてはならない、その教訓を後世にしっかり引き継いでいくことを胸に刻んで取り組んでまいりたい、そんな
決意でございます。
まず、
総務省にお伺いをしたいと思いますが、東日本大震災発災時以降、当時、皆さんも記憶にあるかもしれませんが、あのときニュースの映像にもよく映っておりました、
瓦れきの中を縫うように赤いバイクが、郵便局の赤いバイクが走っている映像でございます。社員自らも被災者として避難生活を強いられている、また大切な家族や仲間を失っている立場でも、被災者の皆さんに救援物資が入った郵便物などを早く届けたい気持ちで、どこの避難所にどなたが避難されているのか一つ一つ
確認しながら配達をしておりました。
郵政
事業は今年創業百五十年を迎えました。日本郵政グループは二〇〇七年に民営化となりましたが、公共の使命という精神はしっかりと今も社員に引き継がれております。
そこで、
総務省に伺いたいんですが、社員の安全確保は当然として、震災や災害時の郵便局の役割と期待について所見をお伺いしたいと思います。