○一柳
参考人 ただいま御紹介にあずかりました菊池製作所の副
社長の一柳と申します。
私は、今日のお話は、どういうお話をしたらいいかと考えたんですけれども、簡単な自己紹介から始まりまして、私どもの菊池製作所というのは、
最初は中小
企業から、中堅
企業といいますか大
企業へ変貌したわけでございますが、どういうふうにして変貌していったか、私は実はそういう経過についてお話ししまして、その過程でどういう問題点があって、どんなふうに我々は克服しようとしたかということをお話ししたいと思います。
私どもの会社の内容につきましては、お手元に配っております菊池製作所のパンフレットを御覧いただければ幸いでございます。
私は、
最初は日立製作所に入りまして、機械システムの
開発ということをやりまして、次いで日立建機という建設機械の会社へ入りまして、建設機械の電子化というようなことの研究
開発をやってまいりました。そして退職後、今を去る大体二十五年前になるんですけれども、十年間にわたりまして、八王子にあります
大学で、工業
大学でございますが、工科
大学で機械制御、ロボット工学を教えまして、そして学生といろいろやってきたということでございます。
この過程で、
企業を経験したものですから、そこでも
企業の人的又は資金的な
支援を得まして、実物に近いもので学生を教育するということをやりまして、簡単なものは自分でつくる、大きいもの、難しいものはできないから
企業さんにお願いしてつくるというようなことで、実践的な物づくり教育をいたしました。また、その過程で、
企業のOBの方に
先生になっていただきまして、実学、実際の学問を教えていただきました。そうしますと、今まで何もできないというような学生さんが目の色を変えまして、自信を獲得して、本当に難しい勉強もし出すという経験もいたしております。
やはり手足を使った物づくりということをやっていかないと駄目で、これはやはり学生さんから教育しないといけないというふうに思っておりますけれども、そういう経験をしたものですから、その経験を生かすべく、菊池製作所に実は十五年前にまた再就職したわけでございます。
それで、今、それから十五年たったわけでございますけれども、その時期を五年、五年、五年と三期に分けて、どんなふうになっていたかというのを説明させていただきたいと思います。
最初の第一期は、私にとっては
大学延長時代というものでございまして、メカトロ研究所というものを菊池製作所につくりました。そして、多くの
大学と共同研究を始めました。
当時、菊池製作所は、お手元、御覧になっていただきますと分かりますが、従業員三百五十人の典型的な物づくり中小
企業でございまして、当時は
情報家電メーカー、また、携帯の量産とか、時計、カメラの全盛時代でございまして工場は繁忙を極めておったというときに私めが入ったわけでございますが、私は、そこで初めて研究所というのをつくりまして、
大学の装置を持ち込みまして、これからやってやるぞ、学生さんをもう一回、そこでいた者を
企業に就職させて、やってやるぞという気持ちで入りまして、いろいろなロボットを作って、やったわけでございます。
そこで、例えば、後からちょっと出しますが、東京消防庁のレスキューロボット、そういうものとか、新しいカメラの筐体を作るプレスとかというようなものもそこでやりまして、そういうおかげかどうか分かりませんが、この中小
企業に、メカトロ研究所という全く新しい人間集団を受け入れていただきました。
多分、その当時でも、研究所は役に立たないという陰口があちこちで言われた時代でございますが、何とか十五年間潰れずに、むしろ研究所はぐっと
成長してやってきたという、ちょっと手前みそになりますが、希有な実例ができたのではないだろうかと思っております。
次いで、第二期でございます。二〇一一年からの五年でございますが、それを私は産学連携時代と。
産業界と一緒に、学校と一緒にやるという産学連携時代でございますが、その年に我々の
企業はジャスダックに上場いたしました。
そして、我々は、後から御説明いたしますが、南相馬といって福島の浜通りですけれども、そこにロボット工場というのを造りまして、同時に、生産設備も、いろいろ御
支援いただきまして、最新鋭のものを入れました。
そしてまた、そこにございますが、自律研、ドローンをやっている自律研、千葉
大学から始めました、これが上場に入った。それから、続きまして、イノフィスという会社がございまして、マッスルスーツ、これはしょっちゅう宣伝しておるんですけれども、そういう約十社のベンチャーをつくっていただきました。
ジャスダック上場で会社も一段飛躍という感じで、従業員も頑張って、私どもは、幸いにして、うちの
社長はロボット革命
委員会、安倍総理のときでございますが、その
委員にしていただきまして、
ベンチャー企業が南相馬工場に来ていただいて、いろいろな試作とか加工というのをやりました。そして、いろいろな、マッスルスーツの量産とかドローンの組立てをそこでやったということでございます。
その次が、過ぎまして、今を去る五年前になるんですけれども、二〇一六年は、私から名前を言いますと、スタートアップ
支援時代と。いわゆる
ベンチャー企業でございますが、そういう名前になるんじゃないかと思いますが、やはり従来の大
企業からの部品発注、それから物づくりの
成長が全然もう停止しまして、むしろ下降ぎみに現在なっておるんですね。コロナがあって余計そうでございますが。そして、それでは駄目だ、
企業が潰れちゃうということで、我々はロボット
ファンドの設立をしていただきました。約三十億のロボット
ファンドでございます。そして、メカトロ研究所が稼ぐ時代に
転換していこうということで、そういうことが実績として出てまいりました。
我々、中小
企業時代の延長でいきますと、従来の試作、物づくり事業は、
日本の経営者が安さばかり求めまして、そして全部
海外に行ってしまったということで、
日本では、つくるものがだんだん減ってきちゃっているんですね、現状もそうだと思います。そういうことなので、もう雇用が維持できないということで危機になってまいったのですが、私どもは、それを、スタートアップを
支援しつつそれを事業化するということでカバーいたしまして、現状、従業員のキープもちゃんと、きちっとしておるという状態になっております。
スタートアップの
支援だけでそんなことができるかということになるんですが、IPOをしてもらえば一番話が早いんですけれども、要するに、我々は、スタートアップを
支援することによりまして新しい
技術を会社に持ってこられる。それから、スタートアップは新しいものをつくりたいわけです。いろいろなものをつくるんですね。例えば、水中深く潜る水中ロボットを作りたいとか、そういうことをやりますので、その試作をうちの
製造部門が請け負うわけです。これによって循環ができるんですね。
スタートアップを
支援することで循環ができるということで、相乗効果が、やっとこの五年後、今現在になりまして、徐々にいい循環に入ってきまして、ある程度の収益を上げられるようになってまいりました。やはり、ただ研究所が潤うんじゃなくて、研究部門が頑張ると
製造部門も一緒に潤うという循環ですね。そういう形になってきたんじゃないかと思います。
それで、我々も、このアクティブなスタートアップ
支援と同時に、もちろん、社内の固有な
技術もやはりきちっとやっていかないといかぬという、二つの両輪でやってまいっております。
その過程で、私は三つぐらいちょっと感じたことがございますので、ここで述べさせていただきたいと思います。
まず
最初は、
大学との交流でございます。
私どもの
資料にございますように、私たちと
大学は、四十七
大学、六十一研究室と交流していると書いてあります。事実、そのとおりでございまして、全国津々浦々から、ずっと九州から北海道まで、私どもはいろいろな
大学とつき合っております。
それで、
大学さんは、
技術、人材に乏しい我々にとりましてはまさに金鉱山、ダイヤモンド鉱山であると認識しております。
私は、何でそんな経験を特にしたかというと、かつて人命救助用の新しいロボットの
開発を東京消防庁さんから言われたことがあるんですが、倒れた人をどうやって救うんだと。それで、どうしても人を傷つけない方策が見つからなかった、私の頭の中では。そして、諏訪の知人に相談しましたら、そんなのを見たことがあるよと。どこですかと言ったら、それが神戸
大学の当時の大須賀教授のところにあるよと、見たことあるよと言うんですね。えっ、そんなものは聞いたことがないと言ったんですが、即日そこへ私が訪ねていきましたら、まさに我々が求めているものがそこにございました。私は本当に目が覚めまして、自分の浅はかさを反省した次第でございますが、その
先生の御指導で、我々は、世界に誇れるロボットができました。
だから私は、本当に探れば、
日本の
大学には金やダイヤモンドが埋まっておるよ、掘らないだけですよという感じでございます。そういう経験をしまして、今でも
大学巡りを暇があったらしているということでございます。
それから二番目は、産学連携についてでございますけれども、産学連携にはどうしても過渡期、いわゆる、今の世の中で言っております、要するに死の谷、デッドバレーがあるということも、まさに私どもは経験いたしました。
というのは、前期、
大学との研究をしますときは、
大学は
企業の軍資金を待っているんですね、資金を。だから、
最初は蜜月時代です。ハネムーンでございます。いいよいいよと、こうなっていくんですね。そういたしますと、研究が進んでいきますと、
大学から
企業への主導権の移動が起こります。後期になったら、
企業は、ああこれはいいな、市場に出したいなということを思いますので、市場
開発と販売が主体となってまいります。
大学はバックアップになりますね。そうすると、
先生は、俺の研究は金のために使うのかとか、そういうような気持ちになられまして、必ずそこで、大きな大きな、口で言うのは簡単ですが、本当に、
大学人が大きな大きな反発をされることになるんですね。
そういうことでございますので、ということは、
大学人と
企業は全く違う時間軸で進む、
大学というのはゆっくりテンポがいって、我々は毎日毎日、あくせくあくせくやっておる、全然時間軸が違うものですから、当然、あるときにぶつかるということになるのでございますが、このデッドバレーを、普通の中小
企業とか、あるいは中堅
企業の方はなかなか乗り切れない。ギブアップしちゃう。
大学というのはどうも駄目なところだなということになっちゃって、そこで止まっちゃうんです、全て。
幸いにして、私どもは何回もそのパターンを学習いたしまして、何とか乗り切ってやってきましたので、そういう知恵を私どもは提供していけるのかなというように感じております。
その次でございますけれども、サポイン、公的資金の問題でございます。
私たち、工業研究、製品
開発にはお金がかかります。まさに研究費の大小が
企業成長の鍵を握ります。研究費の捻出ができて初めて、産学連携もできるし、新製品、新
技術も
開発できるということになります。
ということで、私どもは
最初から、中小
企業庁にも大変お世話になって、いろいろな研究をやらせていただいたのでございますけれども、私どもはちょうど、第一期の終わりに、大型のアルミの鋳造機械を
開発しようということで着手したんですね。たまたまサポインに受かった。当時でいくと大きなお金で、約八千万ぐらいのお金だったんですけれども、ああ、やっと来たかというので、うれしくなって、みんな始めたんですね。
そうしたら、ちょうど我々が中堅
企業、大
企業ですね、当時で、になっちゃった。ジャスダックに上場した途端に、もうストップ、もうまかりならぬと。中小
企業のサポートのためにサポインはあるんだ、おまえらは一切
関係ないよということで、私どももびっくりして、ある程度分かっておったんですけれども、関東経済局に何回も、何とかなりませんかと言ったんですけれども、これはならぬ、
法律は
法律であるということを言われまして終わりました。
非常に残念でございましたし、たまたまそのとき、我々は、うちには川内工場というのがあるんですけれども、そこに、
経済産業省と村が資金を出していただいて、大きなそういう工場を造って、操業して、これからやろうという時期でございましたので、ちょっとその
開発がダメージを受けたという経験がございますので、その辺の今回の施策は特に、これはいいなというふうに私は感じた次第でございます。
最後のトピックスとして、私どもの
ベンチャー企業さんで、東工大でおやりになっている、そこにもございますが、ちょっと難しい名前の、ウォークメイトラボラトリーというのがあるんですね。これは、パーキンソンの患者に対して、リズムを与えて歩行できるようにしようという画期的なデバイスをやっておられる
先生なのでございますが、それに対して、ドイツのウェストファーレン州は福島の方にも緊密な
関係を持っておりまして、ドイツのエッセン
大学ですね、ウェストファーレン州の、それが共同研究の提案を申し込まれました。
それで、我々もうれしいなということで、実際の装置をそっちに持ち込んで、いろいろなテストをしてまいりました。しかし、ドイツにおきましても治験はやはり相当に費用がかかるということで、途中で、まあ断念ということはないんですけれども、順調には進まなくなってしまったということがございまして、他にもそういう例を多々、私ども経験しております。
だから、我々程度の
企業では、やはり
海外進出、
海外の人たちとどうやって組んでいくかというノウハウも乏しい、その資金力も乏しいということになっておりますので、今回、もしこういう機会が、新しいのができたら非常にうれしいなと思っております。
最後でございますが、我々菊池製作所は、本社は八王子でございますけれども、主力生産工場は、物づくりは福島の浜通りでやっております。そこに、飯舘村にある福島工場というのと、南相馬にあります先ほど説明したロボット工場、それからもう一人、川内工場というのが三つ展開しておるわけでございます。
特に、南相馬工場というのは、ロボットテストフィールドというのは経産省が百五十億の資金を出してお造りになられまして、それに近いということもございまして、多くのベンチャーが集まっておりますが、私どもの方にも十を超すベンチャーの方が集まっていただきまして、ドローンであるとかモーターであるとかロボット、そういうものをそこで
開発して一生懸命やっているという状態でございます。
我々は、将来は更にいろいろな新製品をそこでもっと展開したいというふうに考えてございます。だけれども、まだ、考えてみますと、浜通りには、これから本格的に人が戻り復興すべき地域、相双地域が残っております。双葉、大熊、浪江、あの辺でございます。
我々も、かつて、うちの飯舘工場も物すごくダメージを受けて疲弊して、人も大分かなり離散したんですけれども、それでも操業は続けたのでございますが、そのときに、陛下を始め多くの
政府関係者、それから
経済産業省を含め、その方々からの温かい御
支援を賜りまして何とか残りまして、今も操業を続けるようになっております。
今度は、私どもが、双葉地域に非常に近い、南相馬から双葉まで十分か十五、六分で行きますので、非常に近い距離にありますので、我々は今度、微力ながらそちらの復興にも寄与できればというふうに念じている次第でございます。
以上、私は、簡単でございますが話をさせていただきました。どうもありがとうございました。(拍手)