○屋良
委員 最近議員になった一年生が、何か当たり前のようなことを聞いているなと、もしかしたら思われているかもしれませんけれども。
実は、この間、勉強会がありまして、
防衛省の方がいらっしゃって、
我が国の
安全保障環境について
説明なさると、プリントを持って来ていただいて、中身を見たら、中国とロシアと北朝鮮の軍事情勢だったわけですね。これは軍事情勢じゃないですかということを聞いたら、そうですと。だけれども、軍事情勢というのは
安全保障の一要因でしかない、今
大臣が
お話しになったように、一要因でしかないんだけれども、どうも
日本では
安全保障とイコール軍事という概念が一般化しているんじゃないのかなというふうな問題意識で、この
質問をさせていただいたんです。
この
安全保障環境という言葉が果たしていつごろ
日本で使われるようになったのかということを国会図書館にちょっと問い合わせて聞いてみたら、例えば、
防衛白書においては一九九二年に初めて登場した。「冷戦後の
安全保障環境」という節のタイトルとして使われたということでございます。
国会
会議録検索システムを使っていただいて、国会では、じゃ、いつごろからこの
安全保障環境という言葉が使われたのかということを調べていただいたら、一九七二年五月三十日の内閣
委員会だったそうです。この年の五月十五日というのは、
沖縄の復帰の年なんですね、五・一五で。
そんな昔に、福田赳夫
外務大臣が、国際情勢の変化を
説明する文脈で使って、こう述べました。私は、今
米軍が
日本に駐留しているこの形は、
我が国として好ましい形じゃないと思います、自衛力を増強して、
米軍はできる限り引き下がってもらいたいというふうなことをおっしゃっています。すぐに引き下がれということではなくて、それは、自衛力の増強と
米軍駐留の関連性を
説明されながら、こうおっしゃっています。我々をめぐる
安全保障環境の変化、そういうものに応じながらこの条約の運営というものを
考えていく、これが私は当面の課題じゃあるまいかというふうに
考えているというふうに
説明されました。
その後、この言葉が国会の中で登場するのは一九八七年まで待ったんですね、十五年間。
会議録で散見されるようになったのは一九九〇年代後半になってからなので、それほど古いものではない。
国会図書館、蔵書とか、電子データベース、インターネット資料で
安全保障環境の定義について
説明する資料を探してもらったんですけれども、それは見当たらなかったということなんですよ。なので、
安全保障って、どうもその定義が曖昧なんだなというふうな気がしております。
これは、
防衛省の中では、多分、一般化というか、当然のことだ、当然の
認識だというふうに思っているのは、
防衛大学校の教科書に「
安全保障学入門」という本があります。その第一章、「
安全保障の概念」、第一項、「普遍的定義の欠如」とあるんですね。全く定義がない、普遍的な定義はありませんよと。それはなぜかというと、その
安全保障という言葉を使う人の価値観、世界観に寄与するからであると。しかも、時代や
状況によって、
状況が違ってくるので
安全保障という言葉が持つ意味が変わってくるよというふうなことを書いてあります。
私は、個人的に何でこれにこだわっているかというと、それは、
基地問題を
考える上でも重要なポイントになるからじゃないかなというふうに思っているんですね。
一般的に
安全保障というと
日米安保体制がすぐに想定されますけれども、これは体制であってシステムであると。
基地をどこに置くかというのは違う態勢。英語で言うと、
日米安保体制はシステムであって、
基地をどこに置くかというのはポスチャー、態勢。だから、
米軍再編のことをディフェンス・ポスチャー・レビューというふうに言っているわけですね。
今回、
米軍再編で
沖縄の海兵隊をどさっと太平洋地域に分散配備する、それはポスチャーの変化であってシステムの変化ではないと。だから、
日米安保体制というのは維持しながら、ポスチャーは変えることができるということを今回の
米軍再編は証明してくれているのではないかというふうに
考えております。
なので、
沖縄に
基地を置くかどうかということと
日米安保体制を維持するかどうかということは分けて
考えた方が私はいいというふうに思っておりますし、その方が合理的であるというふうに思います。
例えば、海兵隊が
沖縄に一番多いですけれども、海兵隊が、
沖縄に
基地がなければ私たち仕事ができませんよなんて弱気を吐くはずがないんですね。世界一、展開力、即応力があって、緊急展開を旨とするというか、おはことする部隊が、特定の場所に
基地がないと私たち仕事ができませんなんということは言うはずもないというふうな気がしております。
そこで、先ほど
照屋委員が
建白書のことをおっしゃっておりました。
照屋委員も、
河野大臣の
英断によって
国立公文書館に所蔵されることの運びになったというふうに大変高い評価をされておりましたけれども、これは
歴史文書、
歴史的な公
文書という位置づけがなされるであろうと。しかし、問題は、まだ
歴史になっていないと。
お配りした資料の一なんですけれども、これは、つい最近私が撮影した、
普天間飛行場のすぐ近くにある普天間第二小学校の運動場です。この木々の向こう側、写真の一番上の方、これが
普天間飛行場です。これはクリーム色ですかね、これがシェルターということです。何でそれがあったかというのは、もう多くの方が御
承知だと思いますけれども、ヘリコプターの窓枠がこの小学校のグラウンドに落ちた、だから、小学生たちはヘリコプターの機影、オスプレイの機影を見たときにこのシェルターに駆け込まないといけないという、そんな
状況がまだ続いている。だから、
歴史にはできないということなんですね。
それで、去年の暮れに
防衛省が発表した、普天間代替
施設、辺野古埋立てが今後十二年間続きますということを明らかにしたんですけれども、この十二年間の危険性の除去というのは果たしてどのようにお
考えなのかということを御
説明ください、
お願いします。