○
小川淳也君
立憲民主党・
無所属フォーラムの
小川淳也です。
私は、
立憲民主党・
無所属フォーラム、
国民民主党・
無所属クラブ、
日本共産党、
社会保障を立て直す
国民会議、
社会民主党・
市民連合を代表して、ただいま議題となりました
根本厚生労働大臣の
不信任決議案について、その趣旨の弁明を行います。(拍手)
まず、
決議文を朗読いたします。
本院は、
厚生労働大臣根本匠君を信任せず。
右決議する。
〔拍手〕
以上であります。
以下、その
理由を申し上げます。
不景気も
統計一つで
好景気
上がるならつくってしまえにせ
統計
合わぬならつくってしまえにせ
統計
統計は答えを先に決めてから
アベノミクス全ての
統計自由自在
おかしいなそれでもいいやホッ
トウケイ
その
数値ホントウケイ
お上から鶴の
一声好景気
官邸の意のままになす数のわざ
統計の操作がつくる
独裁者
成長率どれだけ盛れるか腕次第
統計は今や出世の一里塚
改ざんを隠蔽するため奮闘中
今
国会最大の争点となった
統計不正について、まさに事の本質を射抜いた
国民の皆様の力作です。その
表現力の豊かさに感嘆しつつ、何とも情けなく、申しわけない思いでいっぱいになる
標語の数々でした。
毎年十月十八日は
統計の日。この
標語は、この日に向けて、二月一日、
総務省が公募した
標語募集に対するインターネット上の書き込みです。
この二月一日は、まさに、
総務省自身がみずから所管する
小売統計についての不適切な
調査を公表した、その当日でありました。
ちなみに、ことし二〇一八年、選ばれた
標語は、「活かせ
統計、未来の指針。」気恥ずかしく感じるほど、ことし、この
標語は、かつてなく泣いているのではないでしょうか。
これほど
政府統計に
国民の不信の目が集まり、そして、これが単なる
官僚機構、
官僚組織の問題か、それとも、その背後に政治的な力学、政治的な思惑があってこそのことではなかったか、この点に重大な関心を寄せつつ、
国会審議を進めてまいりました。
予算審議においては、与野党問わず、
委員から厳しい声が相次ぎ、
政府統計、いや、
政府、
国家そのものに対する
国民の信任をかけて、論戦を進めてまいりました。
しかし、
勤労統計を始め多くの
統計不正に関する
一連の
真相究明、また
再発防止、そして、まさに直接の
被害者たる
国民の救済において
根本厚生労働大臣が本来果たすべき
指導力は甚だ不十分、不適切だったと言わざるを得ず、これが本
不信任案提出の根本的な
理由であります。
以下、何点か具体的に申し上げます。
まず、
理由の第一は、
勤労統計不正が明らかとなった
一連の
経過において、
根本厚生労働大臣が十分な
危機管理能力を発揮し得なかった点についてであります。
勤労統計の不正は二〇〇三年ごろから始まったと言われており、昨年十二月二十日になって、ようやく
根本大臣に一報が入っています。しかし、残念ながら
根本大臣は、この極めて重要な
初動段階において事の
重大性を見誤り、翌十二月二十一日の
勤労統計の
数値公表を漫然と許し、同時に、同じ日に行われた二〇一九年度の
予算案の
閣議決定も、これまたそのまま許すことになってしまいました。後に
予算案を修正し、再度
閣議決定し直すという前代未聞の失態に発展した
一連の
責任は、ほかならぬ
根本厚生労働大臣の
危機管理能力の欠如にあるのであります。
加えて、
一連の過程において、
政府の
最高責任者たる
内閣総理大臣、また
危機管理の
最前線に立つ
内閣官房長官への
報告は、最初の一報から実に一週間以上たった十二月二十八日でした。しかも、このとき、一部
先行メディアによってこの
勤労統計の不正が
スクープ報道されており、見方によっては、この
スクープ報道がなければ、発表や
報告そのものをする気がなく、むしろ
組織的に隠蔽を図る意思があったのではないか。疑われても仕方のない
経過であります。
以上、この
初動段階において、
根本厚生労働大臣が本来果たすべき
危機管理能力が全くもって欠如していたことは明らかであり、今後の適切な
職務執行、また、
厚生労働省という
巨大組織を統括し、指導する任にはあたわないことは明らかであります。
理由の第二は、
さきに述べた初動のおくれに加え、
真相究明に向けた
調査の進め方において誤った
判断、不十分な
判断を繰り返した結果、
一連の
調査がその内容及び
過程ともに不手際が極めて目立ち、
真相究明をおくらせたばかりか、
調査そのものへの信頼を大きく損ねたのです。
急ぎ
調査を進めようとしたことがかえって拙速となり、なおかつ、内部の
お手盛り調査との批判を免れない結果となったことで、
監察委員会の
調査は完全に最初からやり直さざるを得ないところまで追い込まれました。この
経過についても、やはり
根本厚生労働大臣の
判断ミスによるところが大きいと言わざるを得ません。
また、
報告書の中身も、
中間報告にせよ、先日の
最終報告にせよ、残念ながら、
組織的関与、
組織的隠蔽をはなから否定する前提でつくられたのではないか、そう疑わざるを得ないものであります。
うそはついたけれども隠蔽の意図はない。
本当ですか。うそとは、隠蔽するためにつくものです。
グレーだけれども白ではない。
樋口監察委員長のしどろもどろの苦しい
答弁が、この矛盾を端的に示しています。
調査の過程においても、
監察委員会による
調査に、
厚生労働省定塚官房長始め、省内において
人事権を有する、まさに
組織防衛の
最前線に立つべき人が職員のヒアリングに当たっていたことが明るみに出ています。
一体、誰が、どんな人間が、みずからに対する
人事権者を前に、
組織にとって不都合な真実を語り、
真相究明に本気で協力できるのでしょうか。極めて不適切な
調査過程であり、
組織にとって都合の悪い証言を封殺し、結論ありき、
アリバイづくりのような
調査が行われたと疑われても仕方ありません。
さらに、この
調査を総括する
監察委員会委員長は、
根本大臣みずからが所管する
独立行政法人労働政策研究・
研修機構の
樋口理事長であり、
樋口理事長を任命したのも
根本厚生労働大臣です。この機構は、
年間予算約二十七億円のうち、
厚生労働省からの
補助金や委託料が二十六億円、実に九六%を占めており、同時に、樋口氏は、
厚生労働省労働政策審議会の会長を務めるなど、いわば
厚生労働省丸抱えの人物なのではありませんか。
この方をもってして、そもそも、中立、公平、客観、かつ厳正なる
真相究明を期待したこと自体が誤った
判断であり、これもまた
初動段階における
根本厚生労働大臣の重大な失策の
一つであります。
現に、このことは今でも、
最終報告書を含め、
信頼感を大きく損ねる
理由となっており、当初からいえば、
調査をやり直さざるを得なかった
最大の
理由でもあります。
いずれにしても、この
調査報告は、中身においても
経過においても到底
国民が納得するものとは言えず、断じて容認できません。身内による
お手盛り、結論ありきの不適切な
調査、そして、この
調査報告の生みの親が最終的にはやはりほかならぬ
根本厚生労働大臣であること、これが
二つ目の
理由であります。
理由の第三は、実際に、
雇用保険等の給付の不足を通して
国民に多大なる実損害を与えたことです。
二〇一八年に至るまで
賃金データがでたらめだったことで、これまで支給されてきた
雇用保険、
労災保険を始めとして、総額にして七百九十五億円、総勢二千十五万人に対する
追加支給が必要となることが明らかとなりました。かつての消えた年金にまさるとも劣らない大変な不祥事であり、
国民生活に重大な
影響を与えるものであります。
既に述べた
根本厚生労働大臣の
指導力、
統率力で、この困難をきわめるであろう
受給者への
追加給付という課題に果たして適正かつ迅速に
対応できるのでしょうか。大いに疑問であると言わざるを得ません。
また、救済されるべき
受給者の気持ちを考えても、
一連のずさんな
経過に
責任を負う
根本大臣御
自身の通知を受け取り、また、給付を受けることを果たして望むのでしょうか。むしろ、この
経過を一旦清算し、新たな
指導者のもと、心機一転、本格的な
救済措置に乗り出すことが、
受給者、
国民との
関係においても適切な
対応だと思いますが、いかがでしょうか。
理由の第四は、
根本厚生労働大臣が、
国民生活の実態をあらわす重要な指標たる二〇一八年の
実質賃金を速やかに公表しないことです。
部分入れかえへの移行、長
妻委員が再三指摘している
ベンチマーク更新の
影響を無視した過去の
数値との直結、
日雇労働者の
調査対象からの除外、そして、こっそり施そうとした
東京都大企業分の三倍補正、以上四つのげたを履かされたことで、二〇一八年の
賃金数値は、表面上、プラス一・四%と、驚異的な
伸び率になっています。
二〇一二年から一七年まで、
アベノミクス開始以降、五年の歳月をもってして、
賃金の
伸び率はわずかに一・四%であり、これを一年で達成した二〇一八年の
数値は、
統計にお詳しい
明石先生の言葉をかりれば、別人に差しかえ、シークレットブーツを履かせ、更に頭にシリコンまで乗せているとの指摘まであるのです。
根本大臣、
賃金は、与党の
議員も言うとおり、バーチャルで上がっても何の意味もありません。
数値だけ上乗せされても、
国民生活は全く改善しないのです。一刻も早く、
統計委員会が重視をし、
連続性の観点からも
景況判断の決め手となる
サンプル入れかえ前の
継続事業所の
賃金動向、すなわち
参考値をベースとした
実質賃金の水準を明らかにすることを求めるものであります。
明石先生によれば、いや、よるまでもなく、私
ども素人が考えても、単に
名目賃金から物価の
影響を引けばわかる
数値ですから、数分もあればできると思います。改めて、二〇一九年度
予算案の採決の前に、
継続事業所の
実質賃金を速やかに公表することを求めるものであります。
理由の第五は、
不正統計問題を
審議する上で重要な議論の場となる
国会において、適切な
答弁能力を発揮せず、むしろ
審議の妨げとなる場面も多く、かえって
審議を混乱させた
責任です。
今後も、参議院も含めて、
根本厚生労働大臣が同じありさまで
国会答弁に立つことは、
国民のためにも許されないと言わざるを得ず、的確な
審議を進めるためにも、一刻も早い
けじめを求めるものであります。
実際に、
根本大臣の御
答弁ですが、
一つ一つの
質問に対し、聞かれたこととはほど遠い
背景説明に終始したり、直接
関係ないことも含めて長々と
答弁されたり、持論とも事実
関係ともつかぬ、率直に申し上げて、何を御
答弁されたのか、後から首をかしげざるを得ない場面も多かったのです。
あげく、
安倍総理からは、
答弁に立とうとした
根本大臣が制止されるという場面まで飛び出し、既に
所管大臣としての
答弁能力は、内閣の内部においてもその信任が崩れていると言わざるを得ません。
改めて、みずから
けじめをつけられることを望むものであります。
万一、これが、
質疑者の
質問時間を意味なく浪費し、結果として野党の追及をかわす意図があるものであるとすれば、それは看過できない悪意、故意であり、断じて容認できないことを申し添えておきます。
以上、
初動段階における
指導力、
真相究明に至る
判断力、
被害者救済に向けた取組、
実質賃金公表への
消極姿勢、そして
国会における
答弁能力、この五点を述べただけでも、本院は
根本厚生労働大臣を信任すべきではないのであります。
しかし、この
根本厚生労働大臣の
任命責任は、言うまでもなく
安倍総理にあります。
そして、
根本厚生労働大臣以外にも、この際、苦言を呈し、また、事と次第によっては
不信任案の
提出を受けてもおかしくない
閣僚が複数存在することは指摘しなければなりません。
まず、
櫻田大臣。
東京オリンピック競技大会、
パラリンピック大会、そして
サイバーテロ対策等を含め、重責を担っておられる
櫻田大臣ですが、本
予算案審議期間中、みずから、
審議日程の運びに対する目測を
誤り定刻におくれるという、あるまじき失態を演じました。当然、野党はこれを看過しません。この日の
審議は五時間にわたって中断し、貴重な
国会の
審議時間を失わしめたのであります。
報道によれば、
英国議会には、
答弁に少しおくれただけで、
質疑者に対する敬意を欠いたとして、みずから辞任を申し出た
大臣もいると聞きます。
櫻田大臣御
自身でこのことも含めお考えいただくよう、強く促すものであります。
また、
予算審議中、大変残念なことに、あえて深刻な病状を告白されたアスリートの女性に対し、あたかも
オリンピックに向けた
メダル獲得の道具であるかのように誤解されかねない
発言がありました。極めて心ないものと言わざるを得ず、人道的な意味からも、深く反省を求めるものであります。
次に、
片山大臣。
就任以来、
国税当局への重大な
口きき疑惑、
収支報告等のたび重なる訂正、また、これらに関連する訴訟をみずから抱えながらの公務と聞いております。いずれも、
政治家として、また
閣僚として根本的な資質にかかわる問題であり、
国民の命運を預かる国務
大臣として極めて不適格と言わざるを得ません。
まずは、みずから職を辞し、
裁判闘争に専念されるなど、身辺を整理した上で、今後の公務とのかかわりをお考えいただくのが適切ではないでしょうか。
そして、本
予算案提出の
責任者は
麻生財務大臣です。今に始まったことではないとはいえ、やはり
審議期間中も過激であり、また、心ないと言わざるを得ない
発言がありました。
今、
日本社会を覆う
最大の構造問題は、
人口減少であり、
少子高齢化です。これに、産まないやつが悪いとの
発言は、現在の若者が置かれている雇用や
生活条件の厳しさ、重圧としてのしかかっている
教育費や子育ての負担、産みたくても産めない、安心して
希望どおりの子供をもうけられない、このためらい、これはむしろ、彼ら
自身の
責任というより、
社会の側の
責任ではありませんか。この
社会のありようを預かる政治の側の
責任であり、今を生きる若い世代の
自己責任に帰すような事柄ではありません。猛省を求めるものであります。
河野外務大臣。
かつては、歯にきぬ着せぬ見識と御
発言、お
父様譲りの
近隣諸国に対する温かいまなざしを感じる、自民党内でも希有な
政治家とお見受けしておりました。
しかしながら、
大臣御就任後の
河野大臣の
発言の歯切れの悪さ、これは他の
閣僚に比べても際立つものであり、
外交交渉等の機微を割り引くとしても、質疑への
対応は極めて誠意を欠くものであります。
記者会見では、
北方領土交渉に関する
記者からの
質問そのものを無視するなど、大きく問題視されたことは記憶に新しいところです。
国会答弁においても、それにまさるとも劣らず、木で鼻をくくったような
答弁が多く、
国会論戦を生産的なものにしようとの意思は全く見られず、大変残念であります。
今般の
米朝会談もありました。現在の
米国大統領は、
北朝鮮情勢のみをもって、果たして
世界的権威たる
ノーベル平和賞に本当にふさわしいのでしょうか。今、そう言い切ってしまって、本当に大丈夫でしょうか。
中距離核戦力全廃条約からの離脱、イランの
核合意からの離脱、そして、今後恐らく人類にとって
最大の脅威となる
地球温暖化を防止するための
パリ協定からの離脱。次々としかける
貿易戦争、自国第一主義、
排外主義に壁の建設。むしろ、こうした
合衆国大統領の危険な傾向に警鐘を鳴らし、その
姿勢をいさめ、苦言を呈してこその
日本外交なのではないでしょうか。
政権のかなめとも言える
菅官房長官にも申し上げたいことがあります。
率直に申し上げて、日々の
政権運営、
危機対応等について、私も、一目、二目置く立場であります。しかしながら、昨今の、特定の
記者を念頭に置いたと思われる
質問権の制限、そして、嫌がらせとも思える、
記者会見時における
広報室職員の
対応、これらを容認する
姿勢は大いに問題です。
あえて申し上げたいと思います。
事実に基づかない
質問をしてはならないと
内閣記者会に要請したようでありますが、事実とは一体何ですか。事実とは、はなからそこにあるものですか。どこかに確固として存在しているのが事実ですか。むしろ、事実とは、人々の
共通認識にかかわるものではありませんか。
事実とは
共通認識そのもの、つまり、さまざまな情報、さまざまな理解、さまざまな
認識をもとに、言葉を闘わせ、対話を重ね、
共通認識を確立していく中でこそ、事実は紡がれていくものです。
したがって、
記者会見の場は、
国会審議にまさるとも劣らない、
国民の知る権利にとって極めて重要な場であり、言葉と言葉を闘わせ、
認識と
認識をぶつけ合い、
記者との
真剣勝負の中で事実を固め、つくり上げていく場ではないでしょうか。
これを、頭ごなしに、事実に基づいて
質問せよ、事実に基づかない
質問はするなというこの
要請自体が、事実上、
質問自体をするなと言うに等しく、日本の
民主主義社会を守るために、決して看過できないのであります。
私は、百歩譲って申し上げます。
日本国の
総理大臣や
官房長官に対して、あるいは他の
閣僚に対してもです、ある種の敬意なり、又は礼節を持って
質問せよということであれば、これは一考に値すると考えています。これは、
記者にも、そして我々
野党議員にも、場合によっては求められる
姿勢です。
しかし、
政権の側が、事実上、
質問するなと言うに等しい要請、これは圧力でありますが、言語道断であり、
記者の
質問権を封殺し、報道の自由、ひいては
国民の知る権利という
民主主義社会における
最大の価値をないがしろにするものと言わざるを得ません。
菅官房長官には、この撤回を求めると同時に、
内閣広報室幹部に対し、
記者会見時における厳重なる公平公正な取扱いを、
官房長官として
業務指導、
改善命令を施すことを求めるものであります。
さて、これら
閣僚全ての
任命権者であり、
政府の
業務遂行に一切の
責任を負う
内閣総理大臣についても、この際、問わざるを得ません。
まずは、本
不信任案のそもそもの原因である
不正統計についてです。
さきに、
根本厚生労働大臣のこの問題をめぐる
危機管理能力等について疑義を呈しました。
この
統計不正は、
根本大臣の
危機管理や
指導力だけの問題か。はたまた、長年にわたる
厚生労働省統計部局の官僚だけの問題か。いや、むしろ、それにとどまることなく、もっと大きな
政治的背景はないのか。より深い
問題意識を持って、私どもは
国会審議に当たってまいりました。
今回の
勤労統計について、問題の
一つは、まさに事務的に、こっそり不正な
サンプル調査を補正し、
数値が高どまりしたことにあります。しかし、これ以外にも、
さきに申し上げたとおり、
ウエート更新の無視や
サンプル入れかえ方法の変更など、七十年来同じ手法で
調査、集計が行われていた
統計手法が、どう考えても不自然な経緯の中で、
政治的圧力、そして
官邸関与のもとに変更された疑いがあるのです。
さかのぼること四年前、二〇一五年に行われた
勤労統計の
サンプルがえにおいて、過去にさかのぼって
賃金水準が下落するという、
政権にとっては望ましくない事態に直面しました。折しも、前年、二〇一四年ごろから、
国民の
購買力の源泉となる
実質賃金の低下が
国会等において厳しく追及されており、まさに
実質賃金は
アベノミクスのアキレス腱、
アベノミクスの泣きどころとなってきたのです。
恐らく、この
数値が過去にさかのぼって下落するという
報告に慌てた
総理官邸、特に
中江秘書官は、
厚労省からの
報告に際し、むしろ
統計手法に問題があるのではないか、
専門家の意見を聞いてみてはどうかとの
問題意識を当時の
姉崎厚生労働省統計部長に示唆したことが事の発端であります。
数カ月後の二〇一五年六月、事態は急展開を見せます。
厚生労働省は、実に七十年の歳月を経て初めて、
勤労統計の
統計手法の
見直し論議を進めるよう、その重たい腰を上げ、異例の形で
有識者検討会を立ち上げたのです。
まさに、この
総理秘書官から示唆された
問題意識のとおり、
専門家による意見、
専門家の間でさまざまな討議が闘わされ、結果として、一五年八月七日、第五回
研究会において、さまざまなメリット、デメリットを比較考量した結果として、やはり現行の
調査方式である全数入れかえが適当との結論に一旦到達したのでした。
しかし、翌月、九月十四日、事態は再び急展開を見せます。当時の
姉崎統計部長の証言によれば、
中江首相補佐官と再びこの日面会し、いま一度、コストの
問題等によらず、
調査方法の変更に関する
問題意識が再度示唆されたものと思われます。
残念ながらと言うべきか、事もあろうにと言うべきか、当の
中江秘書官は、この九月十四日の重要な姉崎氏との
面会自体、記憶がないと
答弁しており、まさに
無責任そのものであります。
これは、どこかで何度も見聞きした風景と重なります。何度も何度も見てきた
答弁ぶりです。
総理秘書官は本当に記憶がないのでしょうか。それほど、みずからにとってはその
影響力の大きさを顧みない、軽い面会だったのでしょうか。軽い
発言だったのでしょうか。はたまた、
官邸関与をあくまで否定しなければ
政権中枢に追及の手が及ぶため、どうしてもそれを避ける思惑があったのでしょうか。誰が見ても、答えは明らかだと思います。
姉崎氏の証言によれば、
中江秘書官との面談は九月十四日午後早目の時間であり、同日午後二時の時点では、
厚労省に残されたファイルに、いまだ
研究会の結論は全数入れかえを継続との内容のまま書きかわってはいないことが確認されています。
その後、午後四時、
厚労省職員から
研究会の阿部座長に対し、
委員以外との意見調整で急に結論を変更しなければならないとのおわびとともに、最終取りまとめを中間整理とし、さらに、官邸側が主張したと思われる
調査サンプルの部分入れかえ方式と結論を両論併記にし、引き続き検討を続ける旨、慌ててメールが送られています。
そして、確認できる限りにおいて、その後、午後十時三十分ごろ、
厚労省のファイルで、担当職員のメールのとおり、
報告書の結論が書きかわっているのです。
二日後の九月十六日、何事もなかったかのように第六回
研究会が開催され、当時の姉崎部長は、両論併記どころか、その
発言録によれば、次回からは部分入れかえ方式に移行したいと、突如、方針転換を明言、断言しています。
報告書の両論併記の記載自体が、突然の方針変更をカモフラージュするためのものではなかったのでしょうか。既に鶴の一声で結論は決まっていたと言わざるを得ないのではないでしょうか。
ちなみに、この不都合な経緯を記載した
研究会議事録の公開は、実に
研究会開催から四年もたったことし二月になってからであることを申し添えておきます。
一連の経緯に鑑みれば、明らかに九月十四日の
委員外の意見とは官邸幹部たる中江
総理秘書官であり、
総理官邸の意向を受けて結論を突如変更、一夜にして方針転換がなされたと言わざるを得ません。
この点について、中江元秘書官は、
問題意識は個人的なものであったと強弁しています。これもこれでまた別の意味で大問題であり、この点は後に述べたいと思います。
いずれにしても、中江氏は、九月十四日、姉崎氏と面会した記憶すらないとの
発言は極めて信憑性に欠ける、都合のよい
答弁であり、当の姉崎部長も、突如の方針転換を部下に指示したのは
中江首相補佐官と面会する前だったと口裏合わせのような主張を展開しています。こんな都合のよい説明に誰が納得するのでしょうか。
国民に通用すると思っているのでしょうか。まさに、つじつま合わせの言い逃れ。
もう一点、私には許しがたいことがあります。
厚労省担当職員から
研究会座長に宛てられたメールの内容が正確に姉崎部長の意向を捉えていないものであるとの説明を幹部たちが事後的に行い始めた点です。
私が当該メールの文面を見る限り、極めて真面目に、上司の指示に忠実に、正確に、勤務に精励している様子がよく伝わってきます。にもかかわらず、不条理を抱えながらも一生懸命に働く部下に対して、まるでつじつま合わせの、
責任を転嫁したかのような
発言は許されません。
部下の方の名誉と将来にかけて、強く抗議し、大きな怒りと憤りを表明するものであります。
一体いつから霞が関はそんな
組織、集団になってしまったのでしょうか。本来、実務の負担は下へ行くほど重いものです。そして、負うべき
責任は上へ行くほど重いものです。これが
組織の当然の倫理であり、モラルであります。そのモラルをこの
日本社会において最も具体的に体現すべき、
国民に範たるべき日本
政府、霞が関内部において崩壊が見え始めていることは、本当に残念な、ゆゆしき事態だと思います。やがてこうした風潮は
日本社会の隅々にまで及びかねない。その状況は、今、既に起きつつあるのではないでしょうか。
総理や
官房長官を始めとした
政権中枢は、霞が関の
人事権を全権掌握した史上初の
政権です。その
政権が、
人事権を振りかざし、官僚に真実を隠させ、事実をゆがませ、事態を隠蔽させることをよしとするのであれば、まさにこれこそ国家的な危機であります。
先日、ある出版社の若い社員と、トップの資質と
組織の文化について意見を交換する機会がありました。トップがどういう人物かによって
組織の文化は大きく変わってくるのではないかと私が指摘したときのことです。その若い社員は、しばらく考え込んで、こう言いました。確かにそうですね、トップがどういう人かによって、部下は怒られるところと褒められるところが随分変わってきますからね。私は、その
発言にはっとしましたし、極めてシンプルに事の本質を言い当ててくれていると感じました。同時に、私
自身も、小さな事務所ではありますが、よく気をつけなければならないと思ったものです。
まさにそのとおりなんです。
組織のトップが何を望むのか、何をとうとび、何を認め、何を褒め、何を好むのか、そして、
組織のトップが何を否定し、何を拒否し、何を叱り、何に怒るのか、この日々の小さな積み重ねこそが
組織の体質を決め、職員の行動倫理を変えていくのです。この自覚がないままに、現在のように
人事権を振りかざす状況が続けば、事態は更に深刻化し、やがては
日本社会の隅々、末端にまでモラルの崩壊が押し寄せる、そして、看過しがたいあしき文化が
日本社会全体に蔓延、感染していく。大きな危機感を持っています。
今回、
厚労省は、重要なメールを捜し出し、
国会に
提出しました。私は、これ自体は率直に評価しています。まだまだ
国会が機能していると思ったものです。同時に、これを捜し出し、
提出せざるを得なかった、将来ある若い担当職員の心痛にも思いが及びました。
しかし、こうした不都合な事実をさらけ出し、真理を追求することで、一時的に
組織は揺らぐかもしれません。しかし、こうしたことを積み重ねることで、
社会が揺るぎないものになっていきます。
誰しも、真に仕えているのは、所属の
組織ではなく、ひいてはその先にある
社会であり、この国の未来であるはずです。改めて、立場ある人間、
責任ある人間の自覚と自制を強く求めたいと思います。
現在の
政権にはびこる、何が正しいかが基準ではなく、何が都合がよいか悪いかの行動、言動の先には一体何が待っているのでしょうか。
何が正しいかを問い続けた
社会は、透明性の高い、信頼に足る、まさにみんなのための
社会へと発展するのではないでしょうか。
何が都合がよいか悪いかを問い続けた
社会は、やがて、その都合のよしあしは、誰にとって都合がよいか悪いかという問題と切り離すことができません。したがって、
社会は、やがてその特定の誰かのための
社会になっていかざるを得ない。これが、今、既に
日本社会で起き始めている、極めて危険な兆候ではないでしょうか。
今回の
統計不正もさることながら、かねてから大きな問題となっている国有地の処分、学校法人の認可、全てに同じ構図が見てとれるのではないでしょうか。
過去、財務省も内閣府も、結局、最後まで不都合な文書の
提出を拒み続けました。そして、
提出したものは、事もあろうか、書きかえたのです。まさに、
組織をゆるがせにしないために
社会を大きく揺るがせた事件でした。
そして、この矛盾に耐えかねた、恐らくは正義感の強かった職員は、みずから命を絶つ道を選びました。痛恨の出来事です。しかし、その後、これを主導したと思われる佐川氏は、国税のトップに上り詰めました。適材適所なんだそうです。彼は
政権によって褒められたわけです。そして、その後も、麻生
大臣は何事もなかったかのように今も財務
大臣の椅子に座り続け、そして、それを許容、容認しているのは、
安倍総理御
自身ということになります。
この
政権は、部下の何をよしとし、何をあしきとするのか。
政権が求めるのは、正しい情報か、それとも都合のよい情報か。極めて重大な岐路が毎日のように
政権には踏み絵として与えられ続けています。
不都合な情報を出し、真相に迫る官僚を褒めるか、
政権の都合を優先し、隠蔽や改ざんもいとわない人を褒めるか。この差は、きょうたとえ一ミリでも、あすには一センチ、あさってには数センチ、やがては、数週間、数カ月、数年と歳月が積み重なることで、恐ろしいほどの差につながっていくのではないでしょうか。
最終的にこの国は一体どこへ行ってしまうのか。
国民はどこに連れていかれてしまうのか。そら恐ろしい気さえするのであります。そのことに対する
責任意識を深く自覚し、共有して、
政権運営、特に
人事権の行使に当たっていただきたい。強く要請すると同時に、我々野党は、この点を含め、厳しい
姿勢で
政権側と対峙をし、
日本社会の健全さを保ってまいります。
さきに述べた
総理秘書官の行動、言動についてです。
中江氏は、御本人によれば、個人的な見解を述べたのだそうです。森友、加計問題における柳瀬秘書官、そして、恐らく現在彼ら全てを統括しているであろう今井政務秘書官、こうした官邸、総理周りの人物は、全て法的な職務権限を持たない人たちばかりです。しかし、実際にその権力と
影響力は絶大です。その職責はひとえに総理を補佐することにあるにもかかわらず、霞が関に向かっては、総理の威をかさに着て、事実上、絶大な権力を行使しているのです。
この国の民主主義、法治国家の基本原則は、全ての権力が
国民の信託に由来するところから始まります。同時に、全ての権限は、
国民の信託に由来する
国会において認められた法律に基づき、具体的な職務権限として規定され、行使されています。同時に、この法律に基づく職務権限は、それに対する説明
責任と結果
責任をセットとしてあわせ持っています。つまり、権限には
責任が伴い、
責任のないところには権限はなく、
責任なくして権限なし、権限なくして
責任なし。これが原則である。当たり前のことです。
しかるに、このところの
総理秘書官の言動は、法律に基づく職務権限、処分権限に基づかず、しかし、事実上有している絶大な
影響力を陰で行使している疑いが強く、大変ゆゆしき事態と言わざるを得ません。
もちろん、
総理秘書官としての意見を言うことは結構です。これを妨げるものではありません。しかし、政策決定過程やその内容、行政処分の具体的な内容に直接踏み込んだと疑われる行為、圧力をかけたと疑われる行為、あるいは、少なくとも外形上そうだと疑われる行為すら、絶対にあってはならないのです。説明
責任と結果
責任から解放された人々だからです。
そして、その人たちの一言一言は、
総理大臣の威をかりたものであるだけに、本人が思う以上に
影響力が大きく、これがまさに霞が関全体のそんたくの源泉となってまいります。
まして、この
政権は、重ねて申し上げます、各省幹部の
人事権を全権掌握した史上初の
政権です。この危険性は、幾ら指摘してもし過ぎることはありません。
総理は、
国会でこの点について、秘書官は夜遅くまで仕事をし、
責任ある立場である、民主党
政権の
総理秘書官はそうではなかったのか云々とおっしゃいました。まるでお門違いの指摘です。
総理秘書官の職責や重荷を軽んじているのではなく、むしろ十分理解しているつもりであるからこそ申し上げております。職務権限がなく、
国民への説明
責任、結果
責任を負わないことへの強い自覚と自制がなければ。
現に、
中江秘書官は、極めて重大な九月十四日の面会について、記憶がないで済まそうとしているではありませんか。
厚労省の担当局長や担当課長であれば、これに対する説明
責任や結果
責任を負う人たちですから、こうした
答弁が許されるはずはないのです。
記録も残さず、決裁も要らず、記憶も適宜消去できる、
国会に呼ばれ説明を求められることもない。こうした権力がばっこすること自体、まさに
政権内部において権力の私物化が深く進行しているのではないでしょうか。
まさに、秘書官の目は総理の目、秘書官の耳は総理の耳、秘書官の口は総理の口。総理、秘書官双方に、この自覚と自制を求めたいと思います。
さて、GDP
統計についてです。
勤労統計に端を発した今回の
統計不正について、まさに
アベノミクスの成果の偽装ではないかとの疑いは拭えていません。そして、この疑惑の本丸はGDP
統計です。
政権交代後、二〇一三年から具体的な検討に入ったGDPの推計手法の見直しにより、二〇一五年のGDPは、それまでの五百兆円から五百三十二兆円と、一夜にして三十一兆円ものかさ上げが行われ、名目六%以上もの成長がなし遂げられました。
この点、
政府は、金科玉条のごとく、国際基準に合わせたものだと言い張ります。しかし、実際に中身をよく見ると、国際基準への適合は全部で二十九項目、そのほとんど全てがGDPの押し上げ要因であり、少なくとも減少要因にはならないものばかりです。
一方、
一つだけ、政策
判断により国際基準への適合を見送ったものがあります。私立学校法人の位置づけです。
もし私立学校の位置づけを国際基準に従って見直していれば、GDPは、
最大約二兆円、〇・四%押し下げられることが既に推計されていました。
統計委員会の議事録を見ると、今、
成長率が低下し、ゼロ%を挟んで緊迫した状況にある、たとえ〇・四%でも、GDPを押し下げる効果を持つ要因を適用することには反対ないし慎重である、赤裸々な意見が語られています。
つまり、国際基準に適合するという名目のもと、内実においては、やはり、GDPを上げるのか下げるのか、この皮算用をしていたことが透けて見えるのです。
かつて、欧州諸国も、国際基準に適合させたことでGDPが上がりました。しかし、それはおおむね二%から三%程度で、日本の六%は実に異常です。
この国際基準によるかさ上げが約二十兆円、そして、残りの七兆円から八兆は、これとは全く別の、その他の項目です。
そして、実に奇妙なことに、このその他の項目は、安倍
政権以前のGDPを極端に押し下げ、安倍
政権以降のGDPを、まさにウナギ登りで、極端に上昇させているのです。こんなことがあり得るのか。その結果において、極めて不自然であると言わざるを得ません。
さらに、
政府統計の見直しは、GDP推計の基礎となる一次
統計にも及んでいます。
統計委員会が承認した見直しは、第二次安倍
政権になって、実に七十四項目、民主党
政権時代からははるかに激増しています。
見直しの対象となった家計
調査、木材
調査、作物
統計、個人企業
統計、鉄道車両生産
統計、その多くに、
統計委員会は、
調査手法変更の
影響を注視すべきである、出てくる
数値の段差に留意が必要との注書きを付しています。異様なものです。
総理は、よく、GDPが過去最高になったとおっしゃいます。しかし、旧基準と比較できる最も新しい
数値、二〇一五年の
数値は、実は、かつて、史上十三番目でしかありませんでした。これが、計算方法の変更により、一気に過去最高水準にかさ上げされたのです。その後の二〇一六年、一七年に至っては、旧基準で算出していないため、比較をすることすらできません。
計算方法を幾ら変えても、それでGDPが幾らふえても、たとえ過去最高になろうとも、
国民が豊かになるわけでは決してありません。七割、八割もの
国民が景気回復を実感できていないのは、このあたりにあるのではないでしょうか。これこそが、唯一信頼に足る、
国民の実感値なのではないでしょうか。
統計は、過去との
連続性が命です。
統計手法を変えるのであれば、客観的、専門的見地から議論を重ねなければなりません。同時に、
統計に手を入れたのであれば、なぜ手を入れたのか、どこにどのような
影響が出るのか、十分な説明
責任を果たさなければなりません。
ましてや、
統計の変更による
数値のかさ上げを、あたかもみずからの政策の成果であるかのように宣伝し、誇張することは許されず、政策的にも道徳的にも間違った
対応であることを強く申し上げておきます。
一連の
統計不正の背景には、二〇一五年ごろを境とする、
統計をめぐる政治的なうごめきが見え隠れしています。
一五年六月、
さきに申し上げた
勤労統計の見直しが始まりました。一五年十月、経済財政諮問
会議で
麻生財務大臣が、家計
調査と
勤労統計を名指しして、見直すよう圧力をかけました。二〇一六年六月、何と、当時の骨太方針、
統計改革が成長戦略の一環として位置づけられたのです。同年十二月、当時の山本行革担当
大臣が臨時
委員として経済財政諮問
会議に乗り込み、政治主導の
統計改革を訴えました。一七年二月、今度は、
菅官房長官を
議長とする
統計改革推進
会議なるものが立ち上がり、この一五年から一七年にかけて、大幅に各省の
統計が見直されたのです。まさに、この三年間が、
統計が政治化し、
統計に政治の手が入った季節だと言わざるを得ません。
ここまで
統計に対する
国民の信頼を損ね、政治介入の疑いが出た以上、これを払拭するには方法は
一つしかありません。過去にさかのぼり、そして、この先しばらくの間、新基準と旧基準と二重に
統計を算出し、
影響が本来どの程度あったのか、
数値の段差はどのように生じたのか、真摯に、誠実に
国民に説明する以外にないのであります。
さて、本
予算案における
根本厚生労働大臣が所管する
社会保障財源として、重要論点は消費増税です。
過去の増税の際には、総理は、有識者を交えて慎重に景況感を
判断し、増税の可否を丁寧に議論しました。しかし、今回は、米中貿易摩擦など、世界経済の減速も言われる中、これを検討した兆候はなく、
国民に重大な負担を課すに当たっては、余りにやすやすと決めようとしているように見えてなりません。
さきには
衆議院を解散してまで消費増税を先送ったこともあるにもかかわらず、今回の
対応には本当に首をかしげざるを得ない。これほどまでに
国民生活に重大な
影響を与える消費増税とは、それほどまでに、総理の胸先三寸、政治の駆け引きの材料でしかないのでしょうか。
私は、この消費増税に関して、これに関する
国民の思いについて、重く受けとめている事実があります。
昨年暮れから少しずつ減りつつあるとはいえ、今なお三割から四割の
国民が消費増税に賛成しているという余りにも重い事実についてです。