○青山(雅)
委員 無所属の青山
雅幸でございます。
本日も大変貴重な
質問の機会を与えていただきまして、大変ありがとうございます。感謝申し上げます。
さて、早速ですけれども、今回の法改正の基礎となる立法事実として、
早期健全化勘定に剰余金が出た、このこと自体は
財政の観点から大変喜ばしいことだと思っております。ただし、この陰に、この当時、
金融システムの安定のために次々と法案が成立し、法改正がなされ、それによって多くの
国民負担が出たことは忘れてはならないと思っております。
そういった
意味で、過去の歴史から学ぶというのは大変重要なことだと思っておりますので、歴史のおさらいといいますか、法改正並びに
国民負担、どういうふうになっていったのかということをきょうは少しお聞きしたいと思っております。
さて、私が申すまでもないわけですけれども、この
早期健全化法改正案がなされた前後において、
日本の
バブルが
崩壊して、地価
下落や
不良債権が大変多く出ました。一方、
銀行、
金融機関では、損失隠し、いわゆる飛ばしなど、非常に、
時代のうみといいますか、ゆがみが数多く見られ、これによって
金融機関が次々と
破綻したわけです。
私、当時弁護士をしておりましたけれども、ある優良中小
企業が取引先一社から不渡りを受けて、そのあおりで、手形
融資、クリアできない、しかし、そういう単発的な事象ですから、メーンバンクがジャンプさえしてくれれば助かったんですけれども、それを拒絶されて倒産した、こういう非常にかわいそうな事例を
経験したことがございます。当時、
銀行というのはかなり冷酷なこともするんだなと思ったんですけれども、今改めてこれを振り返ってみますと、一連の
金融破綻を受けて、
銀行が
自己資本を維持するために当時潮流となっていた貸し剥がしをやった、その一例だったんだなと思っております。
簡単に当時の
状況を振り返ってみます。
まず、一九九四年、これは
平成六年ですけれども、高度
経済成長、
バブルを経て、盤石と思われていた
日本の
金融機関が
破綻し始めた。このはしりとなったのが、
平成六年の東京協和信用組合、安全信用組合の二信組事件だったというふうに思われます。これは政治家絡みの不祥事で、後の整理回収機構となる東京共同
銀行がつくられたものでしたけれども、二十五年余りしかたっていない現在からしてみますと、政治家絡みの事件ということもありまして、非常に前近代的な事件だったんだなというような印象を覚えます。
続きまして、その翌年、九五年には、コスモ信用組合が
破綻しました。これは、
バブル崩壊による
株式や不動産
担保の暴落、それから
不良債権が相まってのもので、その後、戦後初の
銀行破綻となった兵庫
銀行、これも
不良債権と関連ノンバンク絡み、当時ノンバンクという
言葉が随分マスコミなどでも言われていたことを思い出します。このころから、
バブル崩壊が
金融機関に広く
影響を与えていることが表面化し始めたものと思われます。
そして、翌
平成八年になりますと、暴力団関連のフロント
企業や、最上恒産グループへの貸付けが問題となった太平洋
銀行の
破綻が起きまして、そして、
バブル崩壊による地価
下落で
不良債権の巣窟と化しました住専、この
処理のための住専
処理法が成立しております。このときに投入されました国費が六千八百五十億円、これが非常に多いというふうに、当時マスコミなどで盛んに取り上げられたことをよく覚えておりますけれども、その後の
破綻処理で一体幾らかかったのかというのをこの後お聞きしていくわけですけれども、その総額からすると、この六千八百五十億円が非常に小さく見えるということになろうかと思っております。
そして、いよいよ
平成九年、九七年に入りまして、記憶に残る幾つかの
破綻が起きてまいります。三洋証券、これもやはり関連の三洋ファイナンスの
債務保証から
破綻に至ったわけですけれども、北海道拓殖
銀行、地銀の雄と言われた北海道拓殖
銀行が、カブトデコムというところ、洞爺湖リゾートの
不良債権と損失隠しのための飛ばし、これで
破綻していくわけです。
そして、大変
バブルの
崩壊の象徴とも言えるような山一証券、これも
株価下落と損失補填と飛ばし、こういうことで
破綻して、本格化していくわけです。
そこで、まずお聞きしますけれども、この発端となったさっきの
平成六年、東京協和信用組合、安全信用組合、この
破綻処理はどういう枠組みで行われたのでしょうか。