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伊藤(忠)
委員 おはようございます。自由民主党の
伊藤忠彦でございます。
それでは、質疑に入らせていただきます。
私たちが六月の五日に訪問させていただきました三菱重工の壁に、「世界に飛ばすぞ! 国産ジェット」という横断幕がかかっていたのを思い出します。
私は、
国会議員に初当選をさせていただきましたとき、当時、県営名古屋空港への、JAXAの試験をさせていただく施設をぜひ立地をさせてもらいたいものだということで、その調整にも加わった経験を思い出しますと、本当に隔世の感があり、今度の質疑に立たせていただくこと自体、非常に大事な場面に立ち会っているんだなという自覚を持って、きょうは質疑をさせていただきたいと思います。
今回の
航空法の改正は、一九七一年に我が国がYS11の製造を断念して以来、四十八年ぶりの国産旅客機の製造、また、その海外への輸出のために必要な改正を行うものであり、まさに
時代を画する非常に重要なものと考えております。この国産機の将来にわたる安全性を確保することは、我が国の
航空産業においても、諸外国から信頼をかち得る上でも、本当に大切な課題だと
承知しております。
少しここで、戦後の我が国の
航空機開発の歴史をひもといてみたいと思います。
一九四五年のGHQによる
航空機の研究、設計、製造の全面禁止、それが、一九五一年、サンフランシスコ講和条約による独立回復に伴う
航空禁止解除、そしてその後に、
空域を使うということについて、まず、佐賀県出身で、
航空行政に詳しかった松尾静磨さんという人が、先頭に立って
日本の
空域についてさまざまな交渉をしながら、
飛行機を飛ばすということについて一生懸命やられたという歴史があります。
あわせて、一九五六年、国産機開発に着手をし、翌五七年、輸送機設計研究会が発足をし、一九五九年に
日本航空機製造株式会社が設立をされ、一九六二年に名古屋空港における試作機初
飛行、そしてその三年後の一九六五年に運用を開始したということであります。これが国産旅客機YS11の就航に至る歴史であります。
YS11はその後、海上保安庁、自衛隊で運用されたほか、民間でも広く使用され、
日本国民に親しまれましたけれども、一九七一年をもって製造が中止をされました。それ以来、実に半世紀を経て、我が国は再び国産旅客機の設計国とならんとしているわけであります。
この間、一九九四年に、ICAO、
国際民間航空機関締結国間の
議論を踏まえまして
国際民間航空条約の附属書が改正をされて、各国の国内法において
航空機設計国の責務について新たに明記すべしとされたことから、我が国としても、いよいよ、
航空機設計国としての責務を果たすべく、今般の法改正になったということであります。
そこでまず、我が国の技術の結晶ともいうべき国産旅客機が世界に羽ばたこうとしている今、今後、将来にわたって空の安全を守り抜いていかなければなりません。その決意を、
国土交通省として決意をお聞かせいただきたいと存じます。
〔
委員長退席、松本(文)
委員長代理着席〕