○山岡
委員 一般
質疑の時間をいただきました山岡
達丸でございます。
委員長におかれましては、本当に日々、議事の進行に心から敬意を表させていただきます。
また、菅官房長官と櫻田
大臣におかれましては、国政の中でさまざまな
施策を進められていることに敬意を表しながら、きょうは、いわゆる
政府がお進めになっているアイヌ
施策、このことを中心に、私の立場からいろいろな
質疑をさせていただければということで、よろしくお願いいたします。
私も北海道から選出いただいているわけでありますけれども、北海道の地名はほぼ全てアイヌ語がもとになっている。札幌も含めて、いろいろな変わった、変わったというか、本土から比べたら変わった名称が多いという印象を受けるわけでありますけれども、それは全てアイヌ語がもとになっていると言われていることもあって、そういうこともあって、アイヌの皆様というのがまさに先住民族だということは、いろいろな事実関係からももう明らかなところといいますか、これは皆様も御
承知のことだと思っております。
ただ、一般に、アイヌの皆様に対する差別であったり厳しい仕打ちであったりということも非常に今伝えられているところであります。
この
状況というのは、そうであったらしいということを認知されている方は本州の方にも多くおられるのでありますけれども、具体的に少しその一端をお話しさせていただきますと、北海道の命名者とも言われる、アイヌの方とも交流がある中で、そういういろいろな言葉を、最終的に北海道という命名をしたのは松浦武四郎さんという方。生誕して二百年になられるんですけれども、この方はいわゆる一八一八年生まれですから、活躍されたのは明治時代でありますけれども、この方が冒険家として北海道に行かれたときも、和人という、日本の本州の皆さんを中心にですけれども、幕府のもとで商人
たちが非常にアイヌ民族の方にひどい仕打ちをしているということを
報告された記録も残っています。
この中で一端を紹介しますと、アイヌ民族は、十六歳、十七歳ぐらい、成人になると、
男女の区別なく、国後や利尻等へ強引に移動させて、そこで使役させる。
女性はめかけとして、男性は昼夜なく酷使されて、その苦しみに耐えずに病につく者は蔵に放置し、一服の薬も一切の食事も与えない。ただ、その身寄りの者が食事を運んできて、そして生き長らえて、そんな生活をさせているということを、この松浦さんという方は、非常にアイヌの皆様と、冒険するに当たって、地元でかなり交流をされて信頼関係を築いた人でありますけれども、その
実態を伝えているというのが、この一八〇〇年のことでも伝わってきています。
あわせて、その前にも、幕臣の最上徳内さんが「蝦夷草紙」という書物の中に、松前藩支配下の北海道のアイヌの、悲惨なものはない、これは地獄だ、本土の人
たちが喜ぶ錦や飾り玉は、いわゆる蝦夷の身を、つまりその人自身を、人身売買のことを書いているとされていますけれども、その身を異国に売りたる代金なり、実に身の塊なり、借金を責められ返すすべもなければ、よんどころなく一生の別れをして異国にとらわれ、また、残りたる妻子は草の根を掘りて食い、味気なき命を長らいても生きてがいなき風情なりと。
非常に幕府に対して、当時、松前藩のもとでやっていた商人、こうした
方々が、和人の商人というのがそういう取扱いをしていたということであるようでありますけれども、非常に厳しい取扱い、非人道的なことをやっていたということが記録に残っているという
状況でもあります。
一八九九年に明治
政府は、北海道旧土人保護法ということで、ここも、この
法律に基づいて農地を与えたのか奪ったのかということは、今、教科書等をめぐっても大きな議論があるところでありますけれども、いわゆるアイヌの
方々というのは、狩猟、漁業を中心にされているという中で、土地という概念が乏しい中に入っていって、農業を、本州側の立場からすれば、農地を与えてさせたと。しかし、それは、農地は個人の財産ではないということで、保護法二条、三条にも、他人への取引の譲渡を禁止とか、耕作放棄の場合は没収するとか、そういうような規定を設けて農地を渡して、そして、非常に、そもそも与えられた土地も、もともとが和人が占めている中で不利な土地を与えられた。
就学援助があっても、それは、いわゆる教えるのは日本語であるということでありますから、同化
政策の中でこういう
政策を進めてきて、これは私が北海道で地域を歩かせていただいても、今アイヌの
方々から伺う話でありますけれども、やはり、小学校、中学校のころ、自分は差別を受けたという方が多くおられます。アイヌという言葉をもじって、犬、犬ということを、においがするからこっち来るなということを言われたとか、そういうようなお話もある。
二〇〇七年に国連総会の中で、先住民族の権利に関する国連宣言の中で、非常に、こうした先住民族の位置づけというのが国際的にも認められ、日本でその間にアイヌ文化振興法もつくられたりした経過もありますが、二〇〇八年に、いわゆる国会決議で、日本でも衆参の中で、アイヌを先住民族とするという決議がなされた。こうした経過の中で、昨今になって非常にアイヌの皆様に対する
施策も見直されてきているというのは、この厳しい歴史の中の今の本当に始まりにすぎないところでもあるところであります。
アイヌ
政策推進会議というのが、二〇〇九年十二月ですから、これは民主党政権のときでありましたけれども、発足になって、このアイヌの、北海道でいえば、鳩山由紀夫元総理は、民族共生象徴空間ということを決定したのは鳩山元総理でありましたので、これも事実でありますからお伝えさせていただきますけれども、きょうは菅官房長官にお越しいただいているので、ぜひちょっとお伺いしたいと思います。
いわゆるここまでの歴史の後、アイヌ
政策推進会議というのを官房長官がお引継ぎになって、そして、私の立場からこんなことを申すのもなんですけれども、地元の話、いろいろな
状況の話で、一言で言えば、菅官房長官は非常にアイヌの皆様のことに対して理解を示してくださって力を入れてくださっているというのが、率直な皆様のおっしゃられる言葉でもあります。
この象徴空間をつくることは決まっていたわけですけれども、二〇二〇年四月というのも決定され、それは二〇一三の九月のロードマップのときでありますけれども、ここはどれぐらいの人数を、収容するのは五十万人かなんて言われていたところを、いや百万人だという規模感も官房長官が示され、ことしも北海道に足を運んでいただいたり、非常にアイヌの皆様に思いを寄せていただいているというお気持ちを
関係者の方は持っています。
もちろん、
政府として、このアイヌ
施策は力を入れていかなきゃいけないという
基本的な
認識もあられるんだと思いますけれども、きょうは、そのアイヌ
施策のことを伺うに当たって、菅官房長官として、個人的な思いも含めて、もしございましたら、アイヌの皆様に対してどういう思いを持って
施策に当たっていただいているのか、そのことをまず伺いたいと思います。