○
参考人(
山田健太君) 専修大学の
山田健太です。
今般の
著作権改正案については、
国会等の
議論を拝見する中で気に掛かる点がありました。そうした中で、当
委員会におきまして
意見陳述の
機会をいただきましたことについて、大変感謝申し上げます。
本日は、言論法、
情報法の研究者の
立場からのお話をさせていただきたいと思っておりますが、あわせて、表現者の集まりであります
日本ペンクラブの会員としての経験についても御披露させていただけることで、高階
委員長を始めといたしまして、
委員各位の今後の御
議論の素材にしていただければ大変幸いに存じます。
さて、
著作権法は
法律の中でも非常に頻繁に
改正が行われる
法律でございます。ただし、今回の
法律改正は極めて
著作権法の基本的な
考え方を変更するものでありまして、それだけに大きな転換点になるものであります。したがいまして、是非とも慎重な、いつも以上に慎重な御
議論がいただければと思っているところであります。
委員の
皆様に初めにお伝えしたいことは、みんなのためとはどういうことかということであります。言うまでも、
著作権法とは、
著作者が自らの創造物を我が子のようにいとおしく思う気持ち、これを
権利化したものであります。同時に、その気持ちを大事に保護することが次の創造物を生み出す原動力にもなるわけです。これは豊かな表現活動そのものであります。そして同時に、この表現物が同
時代あるいは後世の人々の創造的活動を刺激することで更に新しい創造物が生まれていくことになります。あるいは、こうした表現物を見る、聞く、触れることによってその人の人格的成長が実現するのでありまして、これもまた表現の自由の大切な大きな理由であります。こうした
社会全体の、あるいは人類全体の自由闊達な表現活動の実現のために、いとおしく思う気持ちはあるにせよ、少しだけ我慢してもらうということで
権利制限がなされているということになります。それが人類全体の進歩に貢献すると考えられるからであります。
いずれにせよ、このように
著作権というのは、もうかる、もうからないという
ビジネスの話である前に表現の自由の問題であり、それがベースになって考えられる必要があるということをまず御
理解いただければと思います。そして、そこからおのずと最初の問いであるみんなのための落としどころが見えてくることになると思います。
それからすると、今般の
著作権法改正は表現の自由の
立場から大きな疑問が残る点があります。
繰り返しになりますが、
著作権法は表現者の人格権を保護する一方、文化の継承を図るための知恵であります。また、市民の知る
権利や表現活動を守るという
意味で、表現の自由のための法
制度というふうに言っても構いません。そして、この表現の自由はガラスの城であり、一度壊れたら復元不可能であるというのが大きな特徴であります。とりわけ、私たち
日本の
社会におきましては、いわゆる
日本型表現の自由
モデルなるものが確立しておりまして、そのルール、
原則にのっとって各種の法
制度は基本構造、枠組みを維持しているという
現状がございます。
では、この
日本型表現の自由
モデルとはどういうものか、ごく簡単にお示ししたいと思います。
一つ目には、ただし書がない絶対的な自由の保障であります。
よくアリの一穴を認めないという言い方をしますが、先般の戦争の教訓から包括的な例外を一切設けていないというのが
日本の憲法の大きな特徴でございます。その中で、内在的な制約を業界自主規制によって実現し、
バランスを取っているというのが一般的な方法であります。同時にまた、公権力の謙抑性が非常に良き伝統として利いているということもあります。
こうした表現の自由の大
原則を大切にする、この
原則にのっとりながら個別の法
制度を構築していくことが必要であるということになります。それからすると、この
著作権法改正を考える場合にも、いわゆるよく
議論されているような
米国型の
著作権制度が唯一の選択肢ではないことが見えてきます。
そして、もう
一つ重要なのは、文化政策としての
著作権法制度を貫徹させる必要があるという点であります。
さて、これらを考えていく上で、少し具体的な話をさせていただきます。時計の針を十五年ほど戻していただくことになると思います。
二〇〇四年、
グーグルが図書館プロジェクトを開始いたしました。いわゆる全ての人が自宅にいながらにして全ての本を読むことができるというプロジェクトであります。このプロジェクトを
サービスするに当たりまして、ブックサーチ、すなわち図書
検索サービスが始まります。この始まった中で、
著作物を著者に無断で全文スキャニングをし、それをテキスト
データと化して検索できるようにすることとともに検索結果の該当箇所を表示することが問題視され、訴訟になりました。まさに、現在
議論されている
フェアユースがどこまで許されるのか、
著作物を自由にスキャニングして、
企業がそれを自らの
企業活動のために
利活用することが許されるのかの問題の原点があるわけです。
そして、二〇一〇年二月十八日、少し大げさに言えば、私は
日本を代表し、
米国連邦裁判所のニューヨーク地裁におりました。そこで私たちは幾つかの教訓を得ることができました。まず
一つ目には、このようにいわゆるスキャニングをし、それを
利活用するという
行為が問題であると考えるのは
日本だけではないということであります。この法廷の場にはフランスやドイツの政府代表がいまして、
意見陳述をしていました。まさに自国の文化を守るために闘っていたということであります。あるいは、アメリカの裁判所は、ペンクラブの
意見書をほぼ全面的に採用し、
グーグルの事業にストップが掛かりました。
よく無理が通れば道理が引っ込むということわざがありますが、実際はきちんと道理が通るということも証明されたわけであります。こうして考えると、いわゆる大きな恐竜に対するアリのような存在であったと思いますけれども、きちんと、文化にとって利便性、効率性が全てではない、あるいは一旦立ち止まって考えることが重要であるということが分かったわけであります。
その裁判を通じまして幾つかの確認がされました。
一つは、やはりオプトイン
原則が大事だと。すなわち、
著作物に関しては、
著作者の
許諾なしに勝手にスキャニングをする、あるいは勝手にそれを
利用するというのはよくないんだということの再確認であります。そしてまた、どう使うかということではなくて、そもそもスキャニングすること自体が問題であるということになりました。その延長線上として、もしそのコピー、
複製を使う場合には極めて限定的に
許諾をしていきましょうということになったわけでありまして、この
考え方はこの
著作権法改正の前回の
改正に生かされているということになります。
その上で、今回の
改正法案について考えてみたいと思います。
非常に分かりやすく考えると、今回は一層、二層、三層という形でレイヤーに分けて
議論を進めています。
日本型
フェアユースというふうに呼ぶのか呼ばないのかということも含めていろんな
議論がありますが、ごく分かりやすく考えれば、第一層目に関しては、
フェアユースを導入をすると。これに比べて、第三層に関しては、
フェアユースを導入するのではなくて、これまでの
著作権法で定められた限定列挙の例外を拡大していくんだという
考え方、そして第二層に関しては、いわゆる
フェアユース風の
規定を作ろうということであろうというふうに
理解できます。
そう考えた場合に、一体この
著作権の保護と文化の継承の
バランスの取り方がいいのであるかということが問題になるわけであります。全体に考えた場合に、お手元の紙にもありますとおり、結果としては、少し言い方は乱暴ではありますが、こっそりとスキャニングをして
利活用するのはいいけれども、大っぴらにそれを堂々と使うのは駄目ですよということになっているわけであります。
本当にその方法がいいのかどうか、これによっていわゆる先ほど言ったようなオプトインの
原則が事実上空洞化するのではないかという問題性であります。現在は極めて限定的に
複製を認めているということになりますが、そのいわゆる
現状が、業界ルールが置き去りになり、事実上その政令の委任によって包括的な除外というものも起きますし、同時に公権力の謙抑性というものも薄まっていくのではないかということを心配するわけであります。
あるいは、全
データが集積、集中化する中で、自分の
著作物が、誰が一体保持しているのか、どういうふうに使っているのかという問題についても分からないという
状況が生まれがちになります。これは
著作権者の人格権を毀損する
可能性すらあるというふうに言えると思います。
それからすると、例えば第一層でいうならば包括
規定、あるいは
利用方法の無限定化ということについてはより一層の御
議論をしていただく必要があるのではないかというふうに思いますし、これはまさに一番最初にお話ししました、いわゆる
日本型表現の自由でいう
原則と例外というものが逆転する
可能性すらあるのではないかということであります。
更に言いますと、とりわけ第二層について大きな問題があると考えております。すなわち、現在認められていない
サービスとしまして
所在検索サービスや
情報解析サービスが挙げられ、このような書籍検索や論文剽窃検証をできるようにしましょうというのが今回の分かりやすい具体的な
解決策として示されております。
すなわちこれは、先ほどの
グーグルブック検索訴訟の話からしますと、
米国型の
フェアユースは導入しないと言いながら事実上の
フェアユース規定を導入するということに近いのではないかというふうに思うわけであります。
すなわち、まず第一に、いずれにせよ
著作物を全文スキャニングする、しかもそのスキャニングは
著作者に無断ですることについて許容する、
許諾をするという問題性が残ります。さらに、スナペットの表示に関しても、どこまでそのスナペットの表示にするかについては
法律上の明記がなくて、事実上政令若しくは運用によって決まっていくという
状況があり、なし崩しで多くの表示がなされる、やはり重要な検索表示が自由にできるということにつながりかねません。更に言うならば、
情報解析の
サービスにおいては、事実上の
内容チェックというものが
AI技術との関連の中でできていくだろうということも考えられます。それからすると、今我々が大事にしてきた
日本型表現の自由の
モデルというものが事実上崩れていくという
可能性があるんではないかということであります。
最後に、文化政策の点でも一言だけお話をしておきたいと思います。
この今回の
議論の中では、幾度か
著作権の保護と
著作物の公正な
利用の
バランスで文化の
発展を図るというふうな文言が出てまいります。ただ、実際は、大事なのは
著作権の保護と文化の継承の
バランスの結果としてその
著作物の公正
利用を図るというのが大事なポイントでありまして、この二つは似たような文章でありますけれども、微妙に違うんではないかというふうに考えております。
あくまでも、今日お話をしましたように、大事なのは表現の自由という基本的な
考え方に基づいてどういう形でするのが一番人類全体の表現活動が活発化できるかということであって、その上で
イノベーションの創造や経済的な活動の
利活用ということが考えられてしかるべきだろうと思いますので、それからすると、
著作権の保護と経済的な利便性というものをバランシングするというその
バランスの立て方は、どうも今回の表現の自由の
考え方からすると違うのではないかということを思うわけであります。
その中で、このペーパーにありますように、公正な
利用というものは実際上はこの
フェアユース、事実上パブリックユース、みんなのための
利用というふうになっておりますけれども、このみんなのための
利用というのが事実上は国家繁栄というか、あるいは経済の成長という形の国の
利益というものにつながりかねないというふうに思うわけで、本当であれば、この
フェアユースという
考え方はいかに多様性を維持するか、多様性を確保するかというものでなくてはいけない、そのための豊かなコンテンツの実現がなくてはいけない。そのためには、やはり自由な表現活動の基盤であるとか多様な
情報流通の維持であるとか、そういう数字で表れないものを大切にしていくような形での
議論をより一層深めていただきたいというふうに思い、私の話を閉じさせていただきたいと思います。
どうもありがとうございました。