○
奥野(総)
委員 そういう答弁になるんですが、高市
大臣もそういう答弁をされていましたけれども、なぜこういうことが言われ出したか。これまでは日本について、言論の自由とか報道の自由、余り言われてきたことはなかったんですね。
〔
委員長退席、原田(憲)
委員長代理着席〕
いつもこれも引き合いに出されますけれども、報道の自由度ランキングというのがあって、これは二〇一〇年、民主党政権のときなんですが、このときは十一位だったわけです。それが安倍政権になってから現在七十二位まで下がってしまっていまして、具体的な国名を挙げるのもどうかと
思いますが、モンゴルとか韓国とかよりも下ということでありまして、先進民主主義国としては非常に低い
評価をされているということなんですね。これは、
政府はしっかりやっておられる、そういう答弁をされていますが、やはり海外から見て、あるいは我々から見ても、安倍政権になって何かが変わったんではないかということを感じざるを得ません。
具体的に、アメリカ
政府も放送法四条の話をしています。放送法四条の解釈は、これは私が
予算委員会で取り上げて
電波停止問題として話題になりましたけれども、変わったと、安倍政権になって変わったということであります。
お手元の
資料を紙でお配りしていますけれども、
資料一は法律ですね。これは
電波法と放送法のたてつけになっていますが、
電波法七十六条で、放送法または関連の法律に違反したときは、無線局の
運用の停止を命じる、あるいは期間を定めて時間を制限することができる、こういう命令規定が備わっています。当然放送局は無線局の一種ですから、放送法違反あるいは
電波法違反をしたときにはこの規定が適用になる、ここまではいいんですが、では、その放送法違反というのはどういうものがあるのかということですね。
放送法は三条で放送番組について、「何人からも干渉され、又は規律されることがない。」ということで、一応、
政府との距離感、報道の自由というのが、放送番組の中身の自由というのがこれで保障されているんですが、ただし、「法律に定める権限に基づく場合でなければ、」とあって、逆に、法律に定められていれば、放送番組について、中身について、言葉の上では、規律、干渉ができる、裏読みすればそういうことになるわけですね。
では、「法律に定める権限」というと何か。何が法律違反かということが問題になります。
四条というのがあって、放送事業者は、次の各号の定めるところによって放送番組の編集に当たるとなっていまして、当たり前のことが書いてありますね。公序良俗を害しない、あるいは、報道は事実を曲げない、
意見が対立している問題についてはできるだけ多くの角度から論点を明らかにする、あるいは政治的に公平であること。一見常識的なことが書いてあります。
従前は、この規定は努力義務であって遵守義務ではなかった。放送番組はこれを守りなさい、努力義務がかかっていて、これに違反しても七十六条の適用がないんだ、法律違反ではないんだ、こういう解釈がずっと、昭和五十年代ぐらいかな、なされてきたはずであります。ですから、番組に対する
行政指導も行われなかった、この規定に基づく
行政指導も行われなかったし、もちろん停波の根拠となるということも言われてこなかったんですね。
これが、時代の流れとともにだんだん変わって、いろいろな、事実に反するような過剰な脚色があったり、そういうちょっとどうかというような番組が問題になってきたところで、この四条については法規範性があるんだ、こういう流れになってきたわけです。
しかし、それでもなお、この「政治的に公平であること。」ということについては慎重な
運用がとられてきたというふうに理解しております。それは、主観によって変わりますから。事実に反するということは、誰が見ても事実に反するというようなことはあり得ますが、政治的に公平かどうかというのは多分に主観が入りますし、時の政権によって恣意的に解釈されると、これを根拠に放送番組に介入されると、例えば反対党あるいは反対
意見について制限され得る、根拠になるということで、これまでも非常に慎重に
運用されてきた。
では、どういう解釈だったかというと、裏をごらんいただきたいと
思いますが、
資料二、裏面にありますけれども、スイスのマークみたいに、足し算になっていますが、一番左の端が従来の解釈でありまして、「「政治的に公平であること」の解釈は、」とあって、下に、下線が引いてありますけれども、「一つの番組ではなく、放送事業者の「番組全体を見て判断する」」、これが従来の解釈だったんですね。
これは非常によくできていて、例えば、一つの番組で特集番組をやります、ある特定の政治家の特集番組をしても、それは別に政治的公平性は問われない、その放送局全体でバランスがとれていればいい。例えば安保法制について安倍総理の
意見を、特集番組をつくっても、反対派の
意見を取り上げてバランスがとれていれば、政治的に公平である、こういうふうになる。全体として、一つの放送局の番組全体の中で見ていくんだ、こういう解釈になっていたわけですね。だから、事実上、政治的公平性について法令違反を問われたことはないという
運用は続けてきたわけですね。
ところが、これが変わったのが高市
大臣のときの、真ん中のところですが、
平成二十七年五月の参議院の
総務委員会ですね。これは、余り当時は目立たなかった、ひっそりこういう答弁が行われていたんですが、その中で、
総務大臣の見解として、これまでは、一つの番組では判断しない、政治的公平かどうかは一つの番組では判断しないと言われていたんですが、一つの番組のみであっても、「例えば、」ということで例示が挙がっていて、「
選挙期間中又はそれに近接する期間において、殊更に特定の候補者や候補予定者のみを相当の時間にわたり取り上げる特別番組を放送した場合」。これは十分あり得るんですよね、こういうことは。それから、あるいは「国論を二分するような政治
課題について、放送事業者が、一方の政治的見解を取り上げず、殊更に、他の政治的見解のみを取り上げて、それを支持する内容を相当の時間にわたり繰り返す番組を放送した場合」。こういう場合は、「一般論として「政治的に公平であること」を
確保しているとは認められない」。
こういう番組については、放送法四条違反として
行政指導の対象になったり、あるいはさっきの例でいえば、まあ、これは極端な場合でしょうけれども、
電波法の七十六条違反で処分を受ける、停波であったり免許の取り消しの根拠となり得る、こういう解釈を生む余地が出てきたんですね。
それを私が
予算委員会で取り上げ、
予算委員会の中で統一見解がこのように出されたんですが、これは昨年ですかね、二〇一六年の
予算委員会で統一見解が出され、それが一番右端ですね。「「番組全体」を見て判断するとしても、「番組全体」は「一つ一つの番組の集合体」であり、一つ一つの番組を見て、全体を判断することは当然のことである。」という、これが今の
政府の見解だと
思います。
これを見比べると、左の端は、一つの番組ではなく、全体を見て判断すると言っている。右端は、一つ一つの番組を見て、全体を判断することは当然のことであると。明らかに解釈が変わっているんですね。全体を見て判断するところから、場合によっては、一つ一つの番組を見て政治的公平かどうかを判断することもあるんだと解釈が変わっているわけです。
これが問題なのは、例えば報道番組にしても、ニュース番組の中で偏り過ぎている、一つの番組について、この番組は偏っているんだといって、処分の対象となり得る余地が出てきたということですね。これは非常に私は報道の萎縮を生むと
思います。特に今のような政権の
もとでは、総理みずから報道についていろいろ口を差し挟まれるような政権の
もとでは、報道の自由について萎縮を生むと
思います。
そこで、もう一回、
大臣がかわったところで、これは高市
大臣のときにこういう解釈になって、高市
大臣の
もとで停波についてまで踏み込んでいったということなんですね。これは明らかにそうなんですが、
大臣がかわったところで、もう一回、リベラルな、私はリベラルだと思っている、リベラルっていろいろな意味があるんですよ、社民リベラルとかいろいろな意味があるんだけれども、
意見の多様性を
受け入れるという意味のリベラルという意味なんですが、と思っている
野田大臣に
伺いたいんですけれども、この高市さんの
もとの放送法の解釈を踏襲されますか、ちょっと長くなりましたけれども、これを引き継がれますか、あるいは
もとに戻されますか、
伺いたいと
思います。
〔原田(憲)
委員長代理退席、
委員長着席〕