○伊波洋一君 沖縄の風の伊波洋一です。
ハイサイ、グスーヨーチューウガナビラ、沖縄の挨拶で、こんにちは、皆様お目にかかりますの意味です。
私たち参議院
会派沖縄の風は、代表の糸数慶子参議院議員とともに、沖縄の未来と県民の尊厳、日本の民主主義を守ることを強く訴えています。今回の
議論に小
会派の沖縄の風も参加させていただいたことに対し、
衆参両正副
議長のお取り計らいに心から
感謝申し上げます。
天皇退位等に関する
皇室典範特例法案について、沖縄の風として
意見を述べ、
質疑を行います。
昨年八月八日の
今上天皇のお言葉は、生前
退位の
制度創設と
象徴天皇の
天皇制の安定的な
継承の確保に向けた
対応を強く示唆するものでした。
日本国憲法は第一条で、「
天皇は、
日本国の
象徴であり
日本国民統合の
象徴であつて、この
地位は、主権の存する
日本国民の
総意に基く。」と
象徴天皇制を
規定しています。
今上天皇が熱心に取り組んでこられた
象徴的
行為は、沖縄戦も含め、かつて日本が行った戦争に対する歴史的反省の表れでもあり、
日本国憲法に定められた平和主義の具体化です。
憲法尊重擁護義務を誰よりもよく遵守し、
公的行為、とりわけ
象徴的
行為において積極的に
憲法の三原則を始めとする
憲法理念の体現に努めてこられたことこそが今日の多くの
国民の支持につながっていると考えます。
沖縄県民の間には、四百五十年間続いた琉球王国が併合された明治
政府の琉球処分と、その後の皇民化教育、沖縄戦と米軍統治などをもたらした
天皇制下の
政府に対して、戦前
政府に対して複雑な思いが存在しています。特に
昭和の時代、一九四五年、本土防衛の捨て石にされた沖縄戦では、
天皇の名の下に県民を巻き込んだ激しい地上戦が行われ、住民の四人に一人、十二万人を超える沖縄県民が犠牲になりました。
私の生まれ育った沖縄本島中部の宜野湾市嘉数も沖縄戦最初の激戦の地であり、祖父母やおじ、おばたち多くが亡くなり、最後の戦場となった本島南部の摩文仁の平和の礎には、当時の嘉数地区の住民の半数を超える名前が刻まれております。
戦後も沖縄は米軍統治とされ、困難は続きました。四七年九月、米側に対し、二十五年から五十年、あるいはそれ以上、沖縄を米国に貸し出す方針が示された
天皇メッセージの問題もあります。サンフランシスコ講和条約で日本の再独立と引換えに米軍統治にされた結果、新たに日本本土に駐留していた米海兵隊を移転させるために、ハーグ陸戦法規やポツダム宣言に違反する米軍による私有地の強制接収が行われ、基地が建設、拡大されました。
沖縄の施政返還後もこれらの基地の多くは返還されず、沖縄戦から七十年以上経て、あるいはサンフランシスコ条約から六十年以上経ても、今日の基地返還にあっても代替施設を県内に建設することが求められ、新たな基地
負担が押し付けられ、辺野古新基地問題を始めとする米軍基地問題が現在まで続いています。
昭和天皇は、施政権返還後の沖縄を
訪問し、沖縄戦の
戦没者の霊を慰め、長年の県民の労苦をねぎらいたいとの御希望を持っておられましたが、病によりかないませんでした。戦後、
昭和天皇は人間
天皇として
日本国憲法の定める新しい
象徴天皇としての役割を橋渡しされ、
昭和の時代を終わられました。
今上天皇は、常々、忘れてはならない四つの日として、終戦記念日、広島と長崎の原爆忌と並び、六月二十三日の沖縄慰霊の日を挙げてこられ、毎年その日は御家族で祈りをささげておられます。また、人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うため、
象徴的
行為として国内外の戦争犠牲者を悼む慰霊の旅に取り組まれ、中でも沖縄
訪問は既に十回に及んでいます。過去を清算するという姿勢ではなく、あくまで沖縄県民の悲しみに寄り添い、共にあろうと努めてこられた姿は、保守、革新、独立論など、
立場の違いを超えて多くの沖縄県民にも受け止められていると思います。
沖縄の風の
意見は参議院ホームページに掲載されておりますが、
立法府の
対応に当たって、
天皇の生前
退位の
制度を創設するため、
皇室典範の改正が必要であり、女性・女系
天皇を容認し、女性宮家の
制度創設に向けて
議論すべきと訴えてまいりました。その点、本
法案に懸念がないとは言えません。
沖縄の風は、一、
今上天皇以降の生前
退位にも恒久的に適用される一般法の制定が望ましいこと、二、一般法は
皇室典範の改正で
対応すべきことを訴えてまいりましたが、本
法案においてどのように扱われているか、お聞きいたします。