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参考人(
大西健丞君) では、時間も押していますので、早速始めたいと思いますが、
大西健丞と申します。
今日いただきましたタイトルで考えますと、多分、それぞれの
社会の領域において、その領域を超えまして、お互いに
協力してこういったグローバルな公益
活動や
国内の公益
活動にどう当たれるのか、どういう仕組みをつくれるのかということだと思いましたので、卑近ではございますが、二十二、三年前に私がこの小さな業界に入っていろいろと体験してきたことを、物語風で大変失礼ではございますが、ちょっと二十年少々の歩みを御説明しながら、どこに障壁があり、どこで助けられ、どういったことが達成でき、どういったことが達成できなかったかということをお話ししたいと思います。では始めます。
二十六歳のときに、学校を卒業させていただいた後に、こういった小さな
日本の
NGOでイラクで人道支援をされていましたところに見習として入れていただきました。当時、郵政省のボランティア貯金から二千万円ほど
予算が付いておりましたが、紛争が激しくなりまして、イラクの中で、多くの人道支援家が撃ち殺されるという事態が発生しましたので、
予算を返上するということになりました、その
団体は。そのときに、私は経験ございませんでしたが、たまたま英国の大学院で
現地を
調査しておりましたので、返すぐらいなら素人でもやらさせていただけませんかということで、その
団体に飛び入らさせていただきまして、給与はあるのかないのか怖くて聞けなかったんですが、やはりありませんでしたが、二
年間、随分その二
年間食うのに苦労いたしましたが、非常に有意義な経験を、紛争地帯、イラク中心にさせていただきました。
その写真が、左の写真でございますが、小学校を建てるためになけなしの
寄附金で地下を基礎を造るために掘ったところ、大量の遺体が出てまいりまして、サダム・フセイン政権が一九八八年に北部クルディスタンでエスニッククレンジングを行っておりましたので、その日、夜に連れていかれて射殺されて埋められた死体だということが、たった一人、ラミネートに包まれた身分証明書を持っておりましたのでそこから判明しまして、実はこの写真、
左側に遺族が来て生前の写真を並べております。
右側に実はBBCがおりまして、ちょうど安全地帯になりましたクルディスタンでそのサダムの非道をBBCに訴えかけているシーンです。
左下が、これが私の事務所を襲いに来られましたゲリラの方々でして、実はたまたま覚えたてのクルド語で、しかも彼らの大ボスを存じ上げていましたので、クルド語で丁寧に、問題を起こすからやめた方がいいということで、実は三軒隣も襲った後に火を付けてこられた後だったんですけれ
ども、何とかクルド語が通じましてお帰りいただいて、その後、その大ボスはイラク共和国大統領まで上り詰めましたけれ
ども、そういった紛争地帯ならではの、夜盗同然の方が大統領まで上り詰めるという戦国時代みたいな状況でありました。
さらに、二十万人の飲料水を賄う給水施設でございますが、そういった状況でしたので、アメリカ合衆国
援助庁が余りに危険だということで資材を実質放り投げて撤退されましたので、それを全てかき集めまして計画中の上水道施設を完成させました。もちろん、この時期も銃撃戦とか砲撃とか、もちろん地雷はいつでもありましたが、いろんなものの危険に囲まれて、今考えると死んでいてもおかしくないケースはたくさんありましたけれ
ども、幸いにして生き残ることができました。
最後に、
最初のページのこの立派な病院は、
日本政府の御支持を得まして、化学兵器で一九八八年に五千人がたった一日で殺されました、特にサリンとマスタードのカクテルを落とされた町でして、我々が行った頃は土壌汚染のために、特にマスタードの被害で遺伝子障害を持った子供がたくさん生まれておりまして、母子の病院がなかったというか、診療所すらまともに機能していなかったんですが、そこに
日本政府の御支援をいただき、初めて、国連経由ではありましたけれ
ども、WHO経由で随分中抜きされてしまいましたが、後で申し上げますけれ
ども、こういった形で病院を建てられました。これは単体ではまず無理だった話です。
次、
お願いします。
そうこうするうちに、コソボ、東ティモールで九九年に緊急人道支援が必要な大
規模な難民が発生する事態が起こりました。我々、何とか一億円ほどの
団体に成長しつつあったんですが、普通の一般の方々からの
寄附でして、ただ、それを二つに分けると大したことができませんでした。
お願いしましたのは、まず神戸市に仮設が、ちょうど神戸の被災をされてから四、五年たっておりましたので、それを無償でいただきまして、五百一戸を高速コンテナ船で冬が来る前にコソボに運ばせていただきました。それを、ネズミ返しとか、それから、雪が降って重くなったときのための強化とかいろんなことをしまして設置をしました。
ティモールでは、国連の難民高等弁務官事務所と契約を初めてさせていただきまして、これはイラクでの
活動が評価されていたのでスムーズに契約をさせていただきました。当時、
日本の
NGOで国連と普通に契約を取れるというケースはほとんどなかったので、まだ画期的な話でありました。
ですが、我々はこのとき焼け石に水だというふうに非常にじくじたる思いを持っておりました。当時、
日本は世界で
ODAが一番だというふうに外務省はおっしゃっておられましたけれ
ども、紛争地帯に直接投入できる緊急
援助用の
資金が実質存在しませんでした。国連等には
資金を提供するということはありましたけれ
ども、やはり自国の
NGO、それから海外の
NGO、
現地の
NGO含めて、当時は一銭も
資金が
緊急事態で
NGO側に回るということはございませんでしたし、企業
社会に
緊急事態で回るということも全くございませんでした。
三十になるかならないかの青年が、いい家に生まれついたわけでもございませんでしたのでコネクションもなく資産もなく、どうやって
日本として紛争地帯の中でより良きコミットメントを行う仕組みがつくれるのかという自問が現場で常に起こりました。砂をかむような思いも何回もいたしましたが、ついに、そういった中で、まず企業
社会の方々に訴えかけ、有名な企業のオーナーの方々がちょうど戦中派の方々でして、九十九里でざんごうを掘っていて、もし米軍が上陸していたら俺はそこで戦死していたとか、グラマンに掃射されて死にかけたとか、そういった経験をお持ちの企業経営者の方、創業者の方が多かったので、紛争地の話を、私
どもがうそをついていないということをすぐ見抜いていただきまして、ならば支援しようということでいろいろ御支援をいただき、御紹介をいただき、コネクションがなかった若造が経団連
会長も含めていろんなところを御紹介いただいて、まず企業
社会に御説明をし、納得していただくということで成功しました。
その次に、財務省主計官がお電話をされてこられまして、外務省ではなくて財務省、当時大蔵省と申しましたけど、が、この話面白いのでどうにかならないかということを逆に主計局から御提案をいただきました。これはもう非常にチャンスだということで、日経新聞にもお手伝いをいただきつつ、外務省、それから当時通産省も実は交渉しましたけれ
ども、
政府の方々との交渉を経て、
市民社会である
NGOを企業
社会、
政府のクロスセクター、つまり、
社会的領域を超えて
協力し合って、マネープールを保持しつつ、緊急のときには即効で対応できるようにする、なおかつ、
資金切れが起こらないように
政府も企業
社会も一般の方々からも御支援をいただくという仕組みを、いわゆるコレクティブで、集団安全保障ではございませんが、単体では不可能なことは集団でやるということで二〇〇〇年に訴えかけまして、たった半年ほどで了解を取り付けることができまして、一年以内に発足させることができました。これは本当に、当時の行政の方々、それから企業
社会の方々、
NGOの熱意、さらに政治でもたくさん応援していただいた方がおられましたのでこんなに短い期間の間にこういうものができたと思います。その後、十五
年間で四百億円以上、現在はもう五百億円に近づいておりますが、官民の
資金がここを流れて
日本の
NGOが
現地で使うということが起こります。
次のページ、
お願いします。
実は、九・一一の二か月前にこういった仕組みをつくっていただきましたので、今まで不可能だった難事にチャレンジしようではないかということで、タリバーン政権下のアフガニスタンを選びます。当時、人道危機も実は併発しておりまして、余り戦争前は外に
情報が出てこなかったんですが、基本的に国連も欧米の
NGOもたたき出されておりましたので、非常に避難民の方々、難民の方々、困窮されておられました。この写真は、その地域のタリバーンが管理していた避難民、難民のキャンプです。アップはテントのズームアップですけれ
ども、基本的にぼろぼろになったじゅうたんとかでテントを作っていて、これは夏の風景ですけれ
ども、冬はブリザードコンディションになりますのでたくさん子供から先に死んでいくという状況で、夏でも汚染された水で赤痢とかその他の鞭毛虫とか、単純な病気でも脱水症状を起こして子供から先に亡くなっていくという状況がたくさんありました。タリバーンも座視していたわけではなくて、彼らなりに真剣に取り組んではいたんですが、ああいう状態でしたので非常に孤立をしておりました。
もっといろいろ大変だったのは、写真撮るのも禁止だったんですけれ
ども、実はこれ、ひそかにこのタリバーンの将校と交渉して、撮らせてくれ、でないと
日本で
理解されないということを言ったら、俺は許可は出せないけれ
ども、向こうを向いている間に撮れということになりまして撮った写真になります。
その後、
援助が始まらんとしているときに、我々も余り想定しておりませんでしたが、次のページの米同時テロが起こってしまいまして、しばらくの間、一か月ほどはフリーズではございましたが、できるだけ早くその人道危機に対応するために、ジャパン・プラットフォームとして九つの
日本の
NGOに助成を決めました。
そのうちの
一つ、私が責任者をやっておりましたピースウィンズ・ジャパンは、ヒンドゥークシュ山脈という、六千メーター、もうほぼ七千メーターの山々を越えていくロジスティクスを担いまして、テントから始まって、毛布、食料その他を、約四割をパキスタンから、ウクライナからチャーターしてきた当時
最大だった輸送機を借りましてトルクメニスタンまで飛ばし、そこから北部のアフガニスタンまでトラック輸送しました。さらに、六割はサラン峠というアレキサンダー大王が越えられなかった峠を冬に越えるという命題をいただきまして、何台かトラックを失いましたが、崖から落ちたり、まあ我々の場合は対戦車地雷ではなくて対人地雷を踏んだので軽い破損で済みましたけれ
ども、対戦車地雷を踏むと運転手ごとばらばらになりますので非常に幸運ではありましたけれ
ども、何台か失ったことはありましたが、人命を失うことはなく軽傷で済んだので、何とかその四千二百メーターのサラン峠を何百台というトラックを通しまして、北部の人道
援助に駆け付けることができました。それが次の写真で、さっきの同じ場所、ぼろぼろのテントがあった場所が新品のテントと食料と医薬品とその他必要なものをほぼ全て満たした形で、たった一か月で非常に難しいミッションが完了しました。
これは単体であります我々
NGOではまず不可能でした。こういったジャパン・プラットフォームという基盤があってこそ我々を応援していただきまして、それはもう
市民社会からも企業
社会からも
政府からも応援していただきまして、こういったことが短期間でなし得た。これは一年前にはなし得ませんでした。コソボのときには我々を含めて数
団体しか、隣にお座りの
団体ぐらいしか見受けられずに、しかも我々を含めて不完全な支援しかできなかった。焼け石に水という状態でした、先ほど御説明したように。でも、国際的に見て余り劣らない
援助を欧米の
援助より早く展開しておりましたので、そういった意味では、こういったイノベーションが非常に役立ったケースだというふうに思います。
次のページを
お願いします。
最近のプログラムですが、先ほど御説明しましたように、もう五百億円に近づいておりますが、千二百事業を既に人道支援として展開をしておりまして、
日本の
NGOも
最初十五
団体、本当は十
団体ぐらいでスタートだったんですが、本当にできるのかいなというお話もあってなかなか信じていただけなかったんですが、今は四十六
団体加盟しておりまして、こういった形で
日本の内部の大
規模災害にも対応するという形でいろいろと動いております。
次、
お願いします。
ちょっとこれは
課題でございますが、実は私、創業のときから四年ほど代表を務めさせていただきましたが、残念ながら、ほとんどの政治家の方には御
理解をいただきましたが、一部御
理解をいただけなかった方がおられまして衝突してしまいましたので、私も責任を取って第一期で辞めることになりました。その結果といってはおこがましいですが、我々が目的にしておりました企業
社会、一般の方の巻き込みというのが非常に不足しております。ですので、東
日本の頃には自発的に七十一億円という大金を短期間に一般の方々から御支援をいただいたんですけれ
ども、まだまだここは改善の余地があるかなと。
政府は比較的頑張って拠出をしていただいていますが、ただ先進国の例から見ると、他の、先ほど長さんの御説明にもありましたように、今
日本の無償
資金一千六百億円ありますが、それの百億円程度が
NGOというのは少し少ないかなというふうに、あえて僣越ながら申し上げたいと思います。
さらに、次の話は、同時に
国内の大
規模災害への対応です。
実は、ジャパン・プラットフォーム、定款ではこういった
日本の大
規模災害もできるということになっていたんですけれ
ども、元々海外のという話が多かったので、私
ども参加
NGOとしては、ジャパン・プラットフォームが確実に
国内の大
規模災害に対応するかどうかということは分かりませんでしたので、あえて少し小さいバージョンの
国内版プラットフォームをシビックフォースという
名前を付けてつくらせていただいておりました。二〇〇九年にできます。ヘリ会社と優先契約を結びまして、陸の孤島化した場所にいち早く
調査と必要物資と人員を送れるようにということで、四機、五機動員できる体制に実は二〇〇九年からしておりました。
それが多少ワークしまして、あと企業
社会も
国内ということで別々にアライアンスを結ばせていただきまして、大手の輸送会社さんは
最初はやると言っていただいていたんですけれ
ども、国交省さんに押さえられてしまいましたので、泣く泣く社長さんからできないという涙の電話をいただきましたが、我々も紛争地帯でバックアッププランというものを常に持ちますので、引っ越し屋さんは経産省のマンデートということは承知しておりましたので、引っ越し屋さんにもお話をしておりました。このとき、東
日本のときに四トントラック百六十台分と書いてある、もう少し多かったんですが、これを毎日十台以上提供していただきまして、計、企業千社以上の方々から無償で物資を提供していただきました。さらに、
資金も三十六億円ほど、短期間で一般の方々、企業の方々から提供されまして、コンビニエンスストアも含めて募金をしていただき、奨学金も含めて支援が可能になりました。さらに、気仙沼湾でトモダチ作戦の後に大型の物資を輸送できずにいた離島、大島に対して、瀬戸内海からモスボールされておりましたフェリーを一
年間の燃料と運航費と保険代と船検費を付けて無償貸与いたしまして、地元の船会社に、で、一
年間こちらの費用で運航させていただきました。それも全て一般の方々の
寄附です。一〇〇%一般の方々の
寄附です。
そういったものを、もう終わりますが、クロスセクターでそういった非常事態に対応する仕組みを今ジャパン・プラットフォームモデルとして海外に御紹介をいたしておりまして、韓国、フィリピン、
インドネシア、スリランカ、
バングラデシュが正式加盟国として、新しい形の国際的な構築物として、英語で申しますと、インターナショナルアーキテクチャーとして今、
日本のイニシアチブの中でつくろうとして、外務省からも拠出金をいただいております。
実はもう韓国の企業、最近話題のサムソンも含めて、サムソングループからも実は
寄附をいただいていたりしておりまして、あと
インドネシアの企業からも
寄附をいただいていますし、スリランカの商工
会議所は、商工
会議所四つありますが、全て参加してくださっていて、
寄附もいただいているし、物資の提供もいただいております。
アジア中にこういったクロスセクターの仕組みを広げていくことをやっておりまして、
日本発の、十九世紀型でない、国連のようでない、ビューロクラシーに頼らない新しいインターナショナルアーキテクチャーの構築のイニシアチブに貢献できたらというふうに思って、残りの人生を懸けたいというふうに思っております。
ありがとうございました。