○井出
委員 罪刑法定主義というものがいかに大切にされてきたかというところをお話しさせていただきますと、現行の刑法は明治四十年に始まっております。しかし、罪刑法定主義というものは、その一つ前、今から百三十五年前の旧刑法に明記をされております。旧刑法の二条に、「
法律ニ正条ナキ者ハ何等ノ所為ト雖モ之ヲ罰スルコトヲ得ス」と。旧刑法に大きな力を果たしたと言われているのは、ほかの日本の
法律の近代化にも貢献をしてくださったフランスのボアソナードであります。
ただ、そうはいっても、日本の刑法というもの、それまでの江戸時代それから幕末、王政復古、大政奉還の直後は、まだ、はりつけですとか首をはねるとか流刑というものが認められていた。それを大きく法典的に変えたのがこの旧刑法なんですが、そうはいっても、まだ日本には、むしろ罰を厳しくしようという
考え方が残っておりました。
それから、当初フランスのものを参考に刑法が整備され、すぐにほかの
法律と同様に、ドイツの
考え方、フランスのような共和制ではなくてドイツに見習おうということで、ドイツにあらずば法にあらずということで、刑法もいじられることになるんです。そのときは、ボアソナードの師に当たる方にオルトランという方がいて、その方に学んだ宮城浩蔵さんという方が、旧刑法から今度、
現行法の刑法の制定に
一定の力を果たすことになる。
明治四十年にできました刑法の一番の特徴と言われているのは、刑の執行猶予制度を設けたこと、それから正当防衛を殺傷罪だけではなくて広く
一般化したこと、そうしたさまざまなものがあって、参考にしたドイツの刑法よりも進んでいる、そういう評価をされている論文を幾つか見ております。
それが、例えば自由民権運動を取り締まる、済みません、名前はちょっと定かではありませんけれ
ども、
新聞何とか条例というものができたり治安維持法というものができて、戦争に近づくにつれて、やはりそうした罪刑法定主義、そういうものの大切さというものがだんだん失われていく。
では、戦後はどうだったのか。戦争が終わったからといって、必ずしも刑法が大きく変わったわけではありません。刑事訴訟法は確かに大きく変わりましたが、刑法そのものは、不敬罪であるとか姦通罪であるとか、そうしたものがなくなったにとどまった。大枠を維持したというのが主な刑法学者の言い方であります。
しかし、先ほどの
議論とも重なるんですが、それから絶えず、
社会の高度化によって、やはり
犯罪に対して厳しく
処罰をしなければいけないんだ、そういうことがいつの時代も言われてきたと言っても決して過言ではありません。
戦後で申し上げれば、一番端的なのは改正刑法草案の
議論があったときです。そのことについても、最終的には、口語化に絞った、書き方を変える改正へと縮小していくことになって、日本は、やはり罪刑法定主義ですとか謙抑主義の原則というものに対しては極めて厳格であった。
その一方で、
犯罪は高度化をしておりますから、今では当たり前ですけれ
ども、著作権法や証券取引法の改正は一九八六年、私が生まれてからのことであります。独禁法への刑事制裁の強化、それから、国際的なものでいえば、八〇年に国際
捜査の共助法などというものもできておりますが、日本の刑法にかかわるものをふやすということは、そうして
目的に応じて個別に対応してきているんですね。
共謀罪、今回、二百七十七だと思いますが、広く包括的なものを一気に刑法にふやすということは、私はその
意味においては、恐らく、戦前戦後を見ても、これは本当に大きな転換点ではないか。
テロ対策は確かに非常に大事だと思うんです。でも、私は、できるんだったら個別に手当てをした方がいいと。
今までの刑法の改正の中で一生懸命守ってきた大事な謙抑主義、罪刑法定主義の原則というものを、ここで一気にぐわっとふやしてしまって本当にいいのか、それだけの危機感はあるのか。このことは
国民にも
考えていただきたいことでありますが、それだけの大きなことに着手をしようとしている、そこに、
金田大臣がその任に当たっている、その危機感、緊張感というものがどれだけあるのかということを伺っておきたいと思います。