○玉城
委員 自由党の
玉城デニーです。
きょうの
質問、
天皇の
退位等に関する
皇室典範特例法案について
質問をさせていただきます前に、私から
一つぜひお伝えしておきたい
陛下に関するエピソードを皆さんと共有させていただきたいと
思います。
一九七五年七月十七日、沖縄海洋博覧会開会式
出席のために初めて沖縄を訪れた当時の
皇太子殿下と妃殿下が向かわれたのが、戦後最も早く住民の手でつくられ、約三万五千柱の遺骨が納められた魂魄の塔という慰霊塔です。
そこは、日本人、アメリカ、韓国、朝鮮人、さらには、軍人、民間人の区別なく、身元不明の戦没者を弔った場所であり、魂(こん)は魂(たましい)を、魄は漂うみたまをあらわしていると言われています。
その沖縄訪問から帰京された
皇太子は、日ごろから、沖縄学の第一人者でいらっしゃる故外間守善法政大学名誉教授から、いわゆる琉球の歌の形式、八八八六の三十音から成る琉歌の手ほどきを受けられるなど、沖縄に対して造詣深いそのお
気持ちから、沖縄の
言葉で歌をお詠みになられました。
紹介いたします。
花よおしやげゆん人知らぬ魂戦ないらぬ世よ肝に願て
意味は、花をささげます、人知れず亡くなった多くの魂に、戦争のないよう心から願って。
この琉歌は、ふだん私たちの生活では一般的な標準語で詠むことも普通になっておりますが、当時
皇太子であった殿下は、あえて沖縄の
言葉で、沖縄の人々の
思いを受けとめて、このような琉歌を詠まれていらっしゃいます。
筆舌に尽くしがたい戦争の体験を背景にした県民の複雑な感情が渦巻いていた当時に来県され、住民が戦後の窮乏、極限の
状況にありながらも国や人種の別なくみたまを弔った慰霊の塔の前にお立ちになられた
思いが、若き日の両殿下の胸に深く刻まれたのではないかと私は思料いたします。
天皇皇后陛下となられた後も、国の内外を問わず、戦没者への慰霊、被爆による犠牲者への慰霊、あるいはまた、災害で被災された方々、施設に長く暮らす方々、元気に遊ぶ子供たちなどを訪ねられ、励ましていただき、平和を希求する
象徴天皇としてのあるべき姿を広く
国民にお示しいただいてまいりました。
戦後からしばらくの時代は
天皇という存在に複雑な感情を抱いていた沖縄県民も、今や、両
陛下の御心とつながる、
国民との信頼と敬愛を、沖縄の
言葉で言うチムグクルから、心の奥深くからともに抱いているということをもはや疑う余地はありません。
ですから、先般の
陛下の
象徴としてのお務めについてのお
言葉の中にはさまざまな
思いが込められておりますが、
陛下御自身が
象徴という
言葉を八回述べられております。
この
象徴天皇として
陛下が歩んでこられた道のりは、例えば、
即位以来、私は
国事行為を行うとともに、
日本国憲法下で
象徴と位置づけられた
天皇の望ましい
あり方を、日々模索しつつ過ごしてきました、伝統の
継承者として、これを守り続ける責任に深く
思いをいたし、さらに日々新たなる日本と世界の中にあって、日本の
皇室が、いかに伝統を現代に生かし、生き生きとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っていますと述べられています。
そして、その前の文章では、
天皇という立場上、
現行の
皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えてきたことを話したいと
思いますと述べられております。つまり、
国事行為以外に政治的な発言をすることはできないという立場から、個人としてこのお
言葉を述べられた。
それは、私が
思いますに、
象徴天皇としての
あり方を今日まで
国民に示しつつ、それは日本国内のみならず、広く海外においても、例えばサイパン、パラオなどの慰霊の訪問もそうですが、そのお
気持ちとお姿が、広く世界の方々に、日本の平和的
象徴たる
天皇陛下のお姿をしっかりお伝えしていただいていることと私は
思います。
では、随時
質問させていただきます。
官房長官にお伺いいたします。
この
天皇の
退位等に関する
皇室典範特例法案ですが、
平成二十八年十月十七日から
平成二十九年一月二十三日にわたる九回、
天皇の
公務の負担軽減等に関する
有識者会議で話し合いが持たれています。
昨年八月、
陛下のお
言葉を受けてではありますが、当初は、
公務の負担軽減等に関する
あり方、御
公務の
あり方について、
憲法の
規定を踏まえた上で引き続き考えていくべきものだという
認識という発言をされていたやに伺っておりますが、御
公務の
あり方ではなく、
退位についての
特例法に変わったその経緯とは何でしょうか。
理由をお聞かせください。