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麻生国務大臣 衆議院の任期は残り一年ということで、当時、
福田康夫内閣で、私はそれまで、二〇〇一年からおまわりさんがついているという
保護観察みたいな生活をずっとやらされておりましたのですが、
福田内閣のときはちょっと趣旨が合いませんでしたので、いろいろな御要請をいただきましたけれ
ども、お断りを申し上げますと言って無役でいた一年間だったと記憶をするんですが、最後に
幹事長という
お話をいただいたときには、
解散をなさるおつもりなら、私を
幹事長にされるよりは別の方をなさった方がよろしいんじゃないですかと言ってお断りしたんですけれ
ども、
解散はしないという
お話だったのでそのままやられるのかと思ったら、まさか御本人が辞職をされるという予定は全く私の頭になかったものですから、
政治判断を間違えた
一つの例だと思いますが、ちょうど一月で
辞任をされました。
その前、
安倍内閣も、
安倍内閣が参議院で負けた後、うまくいかなくなって、
外務大臣から
幹事長ですか、あのときも一月。私は二回
幹事長をやらせていただきましたけれ
ども、両方とも一月ずつという、
最短記録の
保持者なんです。
そういう
時代だったんだと思いますが、
リーマン・ブラザーズの
破綻というのが起きましたのが二〇〇八年の九月なんですが、これが、私らが
総裁選挙が終わって、なります直前に起きまして、正直申し上げて、これは
世界じゅうで大
金融収縮が起きるなというのだけは予想がつきました。
金融収縮が起きるということは、市場にドルがなくなるということを
意味しますので、非常に
世界経済に与える影響がでかいという
感じがしました。
当時、
最初に
国連総会に行っていろいろな人とばたばた、
外務大臣をしていましたので知り合いがべたべたおりましたので、続いて
G7だか何かの会合に行ったら、みんなが
解散するのかと言うから、あんたらに差し込まれる覚えはない、自国の
解散を一々他国に差し挟まれるつもりはないという話をしていたんですけれ
ども、深刻な話で、このまま
日本に
解散されると
金融収縮は、
アメリカの場合はもう既に大統領がかわることに決まっていましたので、十一月になるともう
アメリカは事実上動かなくなるというのが通常ですので、半年間ぐらい動かなくなると
世界じゅうえらいことになるという
お話でしたので、それは確かだという
感じはしました。
そのまま、
G7でその話をした後、私
どもで考えて、一九九七年に
日本では、
アジア通貨危機というのが起きまして、韓国、台湾、
インドネシア等々が
財政破綻に突っ込むという騒ぎになったときに、最終的に
IMFが金を貸すということをしながらも、現実問題、あれは
日本政府が救済をしたという例がありました。あれをもう一回やるのが
日本の役としてはしんどいという気がありましたので、当時、
IMFに一千億ドル、約十兆円の資金を貸与します、貸しますという話をして、
アジアのいわゆる
中小新興国を
金融的に助ける
仕事を
IMFでという話を、ストロスカーンという当時
余り評判のよくない
専務理事がいたんですけれ
ども、この人に頼んでやってもらって、時の
中川昭一財務大臣と二人で当時いろいろやらせていただいたのですけれ
ども、そのすぐ後に
中国で
アジア欧州会議が開かれて、時の
胡錦濤という主席が、
中国との交渉というのは、御存じのように、朗読の時間みたいに決められたことを言わされることになっておるので、それが終わった後いきなり、これから
世界経済がどうなるという
質問が来ました。全然紙に書いていなかったので、みんなを見たらざわざわしているから、ああこれは全然紙に書いていないものが来たんだなと思ったので、それは
世界経済は悪くなる。なかんずく
中国が悪くなる。なぜなら、
中国は
アメリカに対する対
米輸出比率が高い。
日本の場合は対
米輸出比率はそんなに高くないから、
世界経済の中で最もひどい目に遭う
確率が高いのは
中国だろうと、誰が見てもはっきりしているんじゃないかという話をしたら、次に、どうすればいい。
どうすればいいって、
中国の
経済政策を俺に聞いているのかと言ったらそうだと言うから、それは少なくともおたくは内需が極端に不足しているんだから、
外貨準備高はあるんだから、その金を使って、
内部のいわゆる
インフラ等々整備がかなりおくれているんだから、それに金を回していく以外に
中国の
経済はもたなくなる、はっきりしているんじゃないですかということで、四兆元だか何かやることになられたと記憶します。
そういった形で、少なくともあの
時代の急場をしのぐということをやらせていただいたんですけれ
ども、とにかく
日本の場合は、全くそういう
状況で周りの
状況は最悪ですから、そのときに
日本は、
解散してこちらも
政治情勢が不安定になるというのはこれはとてもじゃないと思いましたので、私は正直、トタで
解散するつもりにしていましたから、そういう
選挙に落ちない方だけ閣僚にしようと思っていましたので、事実、私の
選挙で、あれだけ厳しい
選挙でしたけれ
ども、落選された
大臣はおられなかったと記憶します。
それをやらせていただいて、結果として私
どもの場合、ぼろ負けしましたのでああいう形になりましたけれ
ども、
補正予算を三回組むとか、余りやったことのないようなことを大幅にやったおかげで、そこそこのものでやりましたし、
経済対策としては当たったものが随分多かったと今でもそう思っていますけれ
ども、やはり
選挙は結果という面でいきますと、百十九まで落としましたので、私
どもとしては残念ながら
政権を去らざるを得ないということになりました。
その点に関しましては、私の決断がお国のためにはなったかもしれませんけれ
ども、落選された方々にとりましては、あの段階で
解散をしてくれたら俺は落ちずに済んだと思っておられる方は三十数名いらっしゃる、私の計算ではそれぐらいいらっしゃるはずですから、少々申しわけなかったなという
感じが正直ないわけではありません。
いずれにしても、
世界経済のためには、あの
リーマン・ブラザーズの
金融収縮が極端に行くところを防いだという点においては、まあそれなりの
仕事はできたかなとは思ってはいますけれ
ども、さあ、それが
自由民主党にとってよかったかどうかといえば、これはまた全然別の話であって、残念ながら、その後三年半
政権を離れざるを得ませんでしたので、その点に関しましては、
功罪相半ばしているかなという
感じはします。