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参考人(
浜田寿美男君) 浜田です。
今日は刑訴法の改正ということで、
通信傍受がお三方のテーマのようですけど、私は、先週行われました
委員会での可視化の問題にむしろ焦点が当たりますので、少し
議論が重なるところが少なくなるかと思いますけれども、よろしくお願いいたします。
私は、法の人間でもなくて、どちらかというと一般の方たちに近い形で刑事
事件の問題に関わってきました。専門は心理学です。
元々が、甲山
事件という、一九七四年に起こりました、兵庫県で
知的障害児の入所
施設で二人の子供が行方不明になって、後に学園内で浄化槽で見付かったというこの
事件で、当時職員をしていました、保母をしていました方が疑われて逮捕されるという中で、自白も出たんですけれども、証拠が十分じゃないということで一旦不起訴になった。ところが、亡くなったお子さんの親御さんが諦められないということで検察
審査会にかけて、不起訴が不相当じゃないかということで改めて検察側の方で再
捜査を行って、元々疑われたのが、
知的障害の子供がその先生が連れていくところを見たというそういう目撃供述があって最初疑われ、一旦十分じゃないということで不起訴になったんですが、三年後開始されました再
捜査では、同じく学園で住んでいました
知的障害の子供たちに事情聴取をしたところ、私も見た、僕も見たということで更に三人の子供たちが目撃者として登場するということで、その子供たちの証言が果たして信用できるかどうかということで、私、元々は子供の心理学を専門にしておりましたので、
知的障害の子供の目撃供述をどう見たらいいのかということで、刑事裁判に初めて関与することになりました。それが一九七八年、七四年の
事件で七八年から裁判が始まりましたので。いろんな因縁がありまして、特別弁護人という形でこの裁判に弁護人の一人として関与することになりました。
以来四十年近く、
弁護士さんとの付き合いの中でいろんな冤罪主張の
事件に出会うことになって、外からは全然見えなかったんですが、中に入ってみますと、
被疑者、被告人の自白の問題がすごく大きなテーマになっているということに改めて気付かされ、心理学の視点から、虚偽自白というのは一体どうして起こるのかということを私なりに勉強させていただきました。その中で、本当にたくさんの冤罪
被害の方たちと出会い、また文献的にもいろんな形で調べていった結果として、世間の人たちが思う以上に虚偽自白は頻繁に起こっている、しかも、世間の人たちが思う形ではなくて予想外のところで虚偽自白が起こっているという現実を突き付けられました。
ということで、例えば刑事訴訟法の中では、今回の刑訴法の改正による可視化問題については、可視化によって取調べ室の中で行われている供述についての任意性を
チェックするというのが本来の筋のようですけれども、その任意性の
チェックということで、可視化が全面的になされなければ十分それが
機能するのかどうかということをすごく
懸念をしているわけです。
刑事訴訟法の中には、強制、拷問又は
脅迫による自白、あるいは不当に長く抑留された、勾留された後の自白は任意性がないという形になっていますけれども、私が出会ってきた
事件の多くは、形の上だけ見ますと刑訴法の上でのこの任意性
チェックをクリアしているというふうに見えるものが多いんですね。つまり、一般の方たちは拷問とか
暴力とかそういうものでやむなく自白してしまうんじゃないかというふうに思っている方が多い。これは、
弁護士さんの中にもそういう方も多いし、
裁判官もまたそういう形で考えられる方が多いと思うんですけれども、実際には、むしろ、もちろん言わせられるという点では一緒なんですけれども、自ら
犯人として語らざるを得ない
状況に心理的に追い込まれるという現実があるんですね。ですから、一見自発的に自分からしゃべっているように見えます。ですから、録音テープでその外形だけ捉えたときに、果たして一般の方たち、あるいは
裁判官も含めて、これを任意性がないという形で
チェックできるかどうかということについてすごく
懸念を持っております。
実際にどういう形で、じゃ、虚偽自白が起こっているのかということですけれども、これを十五分という僅かな時間で語ることはほとんど不可能ですので、お手元に、これは警察学校で私がしゃべったときのレジュメなんですけれども、これをまた読んでいただいたらいいかと思うんですけれども。
無実の人が虚偽自白をする、どうしてそんなことになるのかということなんですけれども、任意性が一見あるかのように見えるような取調べ
状況でも起こる。非常に簡単に言うと、今の日本の刑事取調べの基本的な形は謝罪追求型になっているんですね。ある
事件が起こって、とんでもない
事件だ、ひどいやつだということで
一定の容疑があって取調べ室にやってきたときに、謝れというところから始まるケースが非常に多いように見えます。諸外国から日本の警察研究をしている研究もありますけれども、その中でも、日本の刑事取調べというのは謝罪追求型になっていないかと。
例えば足利
事件の菅家さんという、これはDNA鑑定で再審が認められ、物証上無実だということが明らかになった方ですけれども、彼の自白なんかも、任意同行の一日目で落ちているわけですけれども、その中で、
暴力的なことがというか、ちょっと肘鉄を食らうような形になったということはありましたけれども、基本的には、外から見ますと直接的な
暴力はないし、ただ問題は、謝罪追求型ということを言いましたけれども、任意同行で連れていくときに、
被害者の女の子の、四歳の女の子が
被害者なんですけれども、写真を用意しておいて、それを見せて、これに謝れというところから始まっているわけです。
世間の常識でも、とんでもない
事件を起こした
犯人に対しては当然ながら憎しみが湧いてきますし、許されないという思いが付きまといますから、謝れという気持ち、
捜査官の気持ちもよく分かるんですけれども、しかし、謝罪追求型ということは、実は有罪
前提なんですね。有罪
前提だから謝罪追求ができるわけで、
捜査官の心理の中にしばしばその謝罪追求、有罪
前提での謝罪追求に走りやすい。ですから、
捜査官が分かっていて無実の人間を自白に追い込んでいるわけじゃなくて、ある
意味で職務上の熱意で、あるいは善意でもって本人に謝罪を求めている。
有罪
前提で迫りますとどういうことが起こるかというと、
被疑者が幾ら弁明しても、有罪
前提ですから聞いてくれないんですね。ほとんど聞く耳持たないという形で対応されることになる。それぐらいで落ちるのかと皆さん思われるかもしれませんけれども、朝から晩まで、やっただろう、やっていません、やっただろう、やっていませんが続いたときに、どれだけの無力感を味わうことになるのかということ、これは想像ではなかなか考えることが難しいんですが、それこそ、実際にそれを体験した人は、これはこういうことを体験した人にしか分からないということをしばしばおっしゃいます。
その中で、つまりそういう無力感で落ちるという、これは、それだけ聞いたら、そんなことでは普通の根性を持っているやつだったらそんなことはないだろうと思われるかもしれませんけれども、多くの冤罪
事件でその無力感の中で落ちているということを知ってほしいと私は思っているわけです。
逆に言うと、真
犯人の方が落ちにくい。何でかというと、真
犯人がやっただろうと言われて否認している場合は、自分がうそで否認をしているということが分かっていますから、やっていないということを言って相手が納得しないのは当然なんですね。ですから、開き直って否認をしても相手が納得しないということで無力感を感じることがないわけです。
一般には、無実の人を落とすのはよほどのことがないと落ちないだろうと思っている。真
犯人は反省の気持ちとかなんとかがあって落ちることがあるかもしれませんけれども、無実の人が落ちることはあるまいと思っていらっしゃる方たちにとっては非常に分かりにくいことかもしれませんけれども、しかし、実はその無力感でさえ人は落ちるんだということなんです。幾ら言っても聞いてくれないというその無力感で落ちるという、そのことをまず
一つ知ってほしい。
しかも、落ちた後、私がやりましたと認めてしまった後は、当然、
捜査官はますます
犯人としての確信を深めますから、それじゃどうやったんだというふうに
犯行のストーリーを語ることを求めることになります。もちろん、やっていない人間は分からないわけです。だから、分からないから分かりませんと言えるかというと、分かりませんと言うと、また否認するのかということに戻ります。また元のつらさに戻ることになってしまいます。したがって、分かりませんでは通らないということになります。そこでどうするかというと、結局、自分が
犯人として振る舞う以外にないということになるんです。その中で、突き付けられた
事件について自分だったらどうしただろうかということを自分の側から想像して語るということが起こるわけです。
一般に虚偽自白というのは、
捜査官がストーリーを考えておいて、でっち上げてのみ込ませるみたいなイメージが強いので、
犯行筋書を語らされてしまうというふうに思われるかもしれませんけど、実は、
犯行を自分から考えて、自分がやったとしたらどうなっただろうかということを想像して自分の側から語るという側面があるんだということを知っていなければ、録音テープを聞いても任意性で
チェックすることはできないと私は思うんですね。
今市の
事件が前回の
委員会の中で話題になっておりましたけれども、
被疑者が身ぶり手ぶりで
犯行の過程を語った、それを見て任意だ、しかも迫真性があるという形で有罪判決が出たわけですけど、非常に危ないと私は思うんですね。虚偽自白は、実は本人が引き受けて語らざるを得ない部分がある。実際にそういう形で
捜査官が
犯人だと思い、自分
自身、
被疑者本人は
犯人だと振る舞わざるを得ないという中で、ある種の人間
関係ができるんですね。これも非常に奇妙ですけれども、
被疑者と
捜査官との間で、
犯人と振る舞う
被疑者を
犯人として処遇するという非常に奇妙な人間
関係ができ上がってしまいます。
足利
事件の菅家さんのケースなんかは典型的でしたけれども、そういう人間
関係ができ上がったところで起訴されて、法廷に出てきたときも、自分の自白を取った
捜査官が傍聴席に来ているんじゃないかという思いだけで、そのときに否認に転じることができなかったわけですね。彼の場合は一年余り法廷で自白を維持したわけです。
そういうことが現実の刑事
事件の中で起こる。これは、彼に根性がないからとか彼
自身の個性の問題みたいな形で言われることもありますけど、実はそうじゃなくて、誰でも同じ
立場に置かれれば同じことが起こるんじゃないかと私は思いますし、虚偽自白が一体どういうものかということを十分に知っておかなければ任意性判断も信用性判断も正確にできないということを、私
自身、この自白に付き合う中で痛感させられてきました。
その
意味で、録音テープを取るということで
一定程度、
捜査の外部から見て何が起こっているかということを見ることができるようになる第一歩だという
考え方はありますけれども、一方で、非常に危険だという部分を感じるんですね。少なくとも、身柄を取られて以降、つまり逮捕以降の取調べを可視化するということになっていますけど、現実の
事件を見ますと、かなりが任意の段階で自白に落ちて、それから逮捕されているケースが多いんですね。
そういうものになりますと、もう言わば
捜査官と
被疑者との間で、おまえが
犯人だ、私たちはおまえを今後の更生も含めて
関係をつくって面倒を見てやるんだという中で、人間
関係ができ上がってしまったところで録音テープが取られてしまったときに、それを誰が見抜くことができるのかということになる。したがって、それは逮捕以前の任意の段階も含めて、あるいは別件で逮捕されて起訴されて以降の形の上で任意になった段階も含めて可視化をしておかないと虚偽自白は防げないというふうに私
自身思います。
これは、よく私
自身は比喩で言っているんですけれども、虚偽自白を見抜こうと思えば虚偽自白がどういうものかを知っておかなきゃいかぬ。例えば、きらきら光る金属があったときに、そのきらきら光る金属が本物の金なのかどうかということを判別しようと思えば、本物の金がどういう物理的特性を持っていて、偽物のきらきら光る金属の中にどういうものがあるかということを正確に知っておかなければ本物の金とまがいものの金の区別ができないわけですね。それと同じように、自白があったときに、その自白が虚偽のものであるか、それとも本物の真
犯人の自白であるのかということを判別するためには、虚偽自白がどういうものであるかを知っておかなきゃいけない。
私
自身は、虚偽自白を曲がりなりにも四十年近く具体的な例を通して学ぶ中で本物の、本物の虚偽自白って変ですが、虚偽自白が一体どういうものかということについて一般の方たちが本当に知らない、そのことをしっかり認識してもらわないと可視化は怖いというふうに、部分的な可視化は怖い、例外を設けるような形のものは非常に怖いというふうに思っております。
言わば編集された形で目の前に登場するわけですね。その編集されたもので実際の実態を見抜けるかどうかということを私たちは慎重に判断しなきゃいけないと思いますし、是非とも、この可視化の問題に関しては、虚偽自白が一体どういう形で起こるのかを認識していただいた上で決定していただきたいと思います。
僅かな時間ですので十分なことはできません。お手元に資料を用意していますので、それをまた読んでいただく、あるいは文献も幾つか用意しておりますので是非読んでいただいて、認識を深めて判断に生かしていただけたら有り難いというふうに思っています。
どうもありがとうございました。