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アントニオ猪木君 またオリンピックも来ますし、いろいろな今回の制裁も解けたことで
イラン人あるいは
日本の交流も高まっていくと思いますが、その辺のやはり
理解度というのは大変難しいと思いますけれども、是非またいろんな問題について研究していただきたいと思います。
次に、
イランの受刑者について
質問をしたいと思いますが。
私が、イラクの人質解放ということで、一九九〇年ですか、解放になってその翌年、九一年二月でしたが、とにかく戦争をやるべきじゃないという提言をしようということで新聞
記者何人かと行くことになりましたが、通信網が全く切れてしまって、
イラン、イラクとも連絡が付かなくなって、ローマ経由でテヘランを通って、テヘランから車で国境を越えてということになりまして、そのとき、ローマに立ち寄ったときにちょうどバチカンに案内されまして、バチカンの法王もそのときはおられなかったので、ソダノという、どういう
立場になるんですかね、一番格の高い方なんですが、ソダノさんが対応してくれまして、バチカンのメッセージをということで預かってイラクに入りました。
そのときに、入る前に町に出ていろいろな買物をしたんですが、これからイラクに行くんだよと言ったら、そこのレストランのおやじさんが豚肉からソーセージからいっぱい
用意してくれたんです。ところが、これもイスラムの世界では全く御法度の食品というか。でも、国境もそういう厳しいあれもなかったんで、当時は夏だったんですが、最初は、二月に行ったときは雪が降っていまして、そこを、草原みたいなところを歩き渡りまして向こうのイラク内に入りました。何とか平和を訴えようと思って行ったら、ホテルも当時とは見る影もない、ガラスは割れて、そういう中で当時の要
人たちはもう誰もいなくなって、そのメッセージも送ることはできませんでした。
本当に、そういう行く途中にイラク・
イラン戦争の、コスラビというところがありましたが、草原というかちょっとした丘があって、非常に戦争の跡だなと。でも、人は余り住んでおりませんでしたから、ここが戦争の傷痕が残るところだなという思いで新聞
記者の皆さんとも話しながら入りましたが。そんな中で、本当に、私も向こうの要人とそのときに会えなくて、二月二十日が私の誕生日だったんですが、コックさんたちが気を遣ってくれて、誕生祝いをやってくれました。
そんなことからもう二十五年がたちまして、今現在、
イランにはまだ四人の邦人の受刑者がいると聞いています。その四人について、それぞれの罪状、刑期について、
先ほどもちょっと
質問がありましたが、可能な範囲で教えていただければと思います。