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井上(貴)
委員 自由民主党の
井上貴博であります。
本日はこういう機会を与えていただきまして、本当にありがとうございます。師匠に直接
質問をさせていただくので非常に緊張しておりますけれ
ども、
アベノミクスに対する
認識と
考え方についての
質問をさせていただきたいというふうに思います。
私は、一九八〇年代に大学を卒業しまして、銀座の
田中貴金属というところに
就職をいたしました。当時、
バブルに向かう
時代でもありまして、本当に金や
金製品が飛ぶように売れて、土曜日、日曜日は、
ジュエリー製品なんというのは、一階、二階のフロアは満杯でありまして、わあ、
東京の人というのはお金持ちですごいなというふうなのが第一
印象でありました。それが
バブルに向かっていくという
状況だったということというのは、みじんにも感じたことはありませんでした。
そういう
時代に、先人、先達、
先輩たちの
おかげで本当に
経済が
右上がりで、頑張れば
給料も上がりましたし、
ボーナスもたくさんいただいた
時代でもありました。
おもしろいものとしては、
相続税がかからない仏具は
金製品でつくって、それで、十八金のおりんとか線香立て、
線香差しなんかは大体五百ぐらい僕一人で売ったことがあります。それから、二千二百万ぐらいの純金の位牌をつくって売ったこともございました。
当時、三越の外商なんかもすごくて、何かいい
製品があったら持ってきてよと言われて、銀の
パターをつくって、
ワンロット五百本持ってこいと言われて、たった十五分で全部完売。それを二十ロット売ったこともありますし、それから、もっといいものはないのかと言われて、一本二十二万の金の
パターを
ワンロット千持ってこいと言われて、恐る恐る千持っていって、約三十分で売れてしまいました。そういう
時代でありました。
そういう中、本当に
右上がりの
時代が続いていき、
麻生先生がよく
講演の中でも言われますけれ
ども、一九八九年の十二月二十九日を迎えることになります。
日経平均が三万八千九百十五円、
最高値をつけたときでもありました。それを境に
バブルが崩壊し、二十五年の
デフレ状況下が続いていくことになります。
右下がりの
経済状況下になっていくわけです。
ここの中にも約四十五歳以下の
方々がいらっしゃると思いますけれ
ども、僕
たちの
時代は
先輩たちから、頑張れ、頑張れば報われると教わってまいりました。確かに、頑張れば報われましたし、
ボーナスも
給料も先ほど言ったように上がっていきました。
ですけれ
ども、
デフレ状況下の中では、頑張れば報われるというのが通用しない
時代が二十五年続いたと言ってもおかしくないというふうに思っています。今の若い
人たちに、頑張れ、気合いや、そんなことが通用する
時代ではなくなったということです。それだけ、頑張っても実感がない。頑張ったとしても、
ボーナスが減り、
給料が減るという
時代が続いたことがあります。
それが、ある
意味では、しみついた個人での
デフレマインドだというふうに思っています。
そういう中から
デフレを
脱却し、今回の
アベノミクスは、一言で言うならば、そういう若い
人たちに、頑張ったら報われる社会をもう一度構築させたい、見せてやりたいというのが私の率直な思いであります。
今回の
アベノミクスと言われているものが本当に成功するかどうかということというのが今は岐路に立っているわけですけれ
ども、そういう中で、二%かもしれないけれ
ども成長していくという
状況というのをつくり上げることが、今の若い
人たちが、本当に気持ちが前向きになり、頑張る意欲を持って、そして新しい
起業家も生まれていくでしょうし、サラ
リーマンも頑張ってくれるんだというふうに思っています。
私
たちの
時代は、
中間管理職の
人たちがちょうど
団塊の
世代の
人たちでして、
団塊の
世代の
人たちの数が多いので、切磋琢磨して
企業を守り立てていった
時代でもあったというふうに、振り返ってみるとそう思います。
それで、私は、一九九〇年に入りまして、ちょうど時を同じくして
福岡に戻ってくることになります。そして、博多に戻って父の経営している
会社で働くようになりまして、
経営者の道に進んでまいります。
ですけれ
ども、この二十五年間は、
不良債権処理に追われた二十五年間でもありました。毎日、
不良債権処理に追われて、それを何とか返さなければいけないというような
状況を
銀行と打ち合わせをした二十五年間でもあったというふうに思います。そういう中で
会社の
売却や
MアンドAも
経験しました。さらには、
会社の存続や
雇用を守るために、残念ながら、当時の
経営者であった父と訴訟を起こした
経験すらあります。結果的には、父から亡くなる前に、おお、おまえよくやったということを言っていただいて涙を流したこともありました。
売却するというのも、簡単に言いますけれ
ども、
会社を
売却するということは、どこかで
従業員との
会社説明会をしなければいけません。そのときに社長と
従業員という間柄は、ある
意味では敬語で話していただけていたわけですけれ
ども、その
説明会を機に
タメ口になります。これを
経験したことというのは非常に大きかった。僕にとっては非常に大きかった
経験だったというふうに思います。
あの
説明会で、一人一人の本当にそれでも
雇用を守るために、同業者に
売却をし、そして
雇用を守るということというのをやった
経験というのは、今の現在にも生きているというふうに思っています。結果としては、一人の
失業者も出すことなく終わらせることができました。
デフレ状況下というのは本当に苦しい
時代でありまして、そういう
不良債権処理を抱えた
会社というのもたくさんあったわけです。
そういう中、
バブルが崩壊して五年、十年ぐらいたったときだったと思いますけれ
ども、
不良債権処理をそのくらいの時期にやった方がよかったのではないかと振り返ったときに、いろいろな論客の方が言っていることを耳にしました。
ですけれ
ども、あの五年、十年の
状況下の中で
不良債権処理を、今の
デフレ対策を、特に
アベノミクスの
デフレ対策をやっていたら、大
企業だけではなくて、
中小零細企業はひとたまりもなく、ほとんどの
企業が潰れていった
状況になっていたのではないかというふうに思っています。
ですからこそ、僕は、ある
意味では、
日銀の
デフレ政策と言われているものというのは、ソフトランディングさせるためにはあの当時は残念ながら必要だったんだというふうに思っています。そういう中で助かった
企業もあります。ですけれ
ども、そういう中、
中小零細企業は貸し渋りや貸し剥がしが実際にあり、その
言葉が今でも残っています。
今、
不良債権処理が一段落したよい
タイミングに今の
アベノミクスというのは始められたというふうに思っていますし、もしあの
リーマン・
ショックさえなければ、
麻生政権のときにやるのが一番いい
タイミングだったのではないかと、今振り返ったらそう思います。
二十年前、
麻生先生から私が三十代半ばのときに言われた
言葉があります。人に対する
説得力は客観的な過去の
歴史観と一桁まで言える数字だ、覚えておけと言われたことがあります。よく怒られもいたしました。
そんな中、ここまでの、
高度成長の
時代から
バブル期、そして
バブルが崩壊し、
不良債権処理に追われ、
デフレからの
脱却の
流れを話してきましたけれ
ども、こういう
経緯をどのように振り返られるか。今の
安倍政権の中では
リーマン・
ショック後の話しか出てきませんけれ
ども、それ以前からの全体の
流れを、
麻生大臣の御
認識と
考え方をお聞かせいただければありがたいというふうに思っています。