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参考人(
水島朝穂君) 私は、二〇〇三年だったと思いますが、
参議院の
憲法調査会で
緊急事態法制の問題について
お話をさせていただいて以来でございますので、本
委員会にお呼びいただきましてありがとうございました。
とはいえ、バンクーバーの
ブリティッシュコロンビア大学で実は二日の日の午後、講演をしておりまして、
集団的自衛権と
憲法九条という
テーマでございました。
大変向こうの
学者や市民も
安倍政権のそういうことに関心が高かったんですけれども、ここに間に合うために早めに出まして、ぎりぎり今日の五時に着きました。したがいまして、ここにもしかしたらいなかったかもしれないという
状態が実は起こりまして、そういう
意味では、無事に今日
お話ができることを大変うれしく思っております。
さて、お
手元に
資料、私の
資料は三十七ページから始まっておりますけれども、
憲法とは何かというのをこの時期、このタイミングで、この本院が行うことについて
一言申し上げます。
報道によれば、来年、
参議院選後に
最初の
憲法改正国民投票を行うというような言説が
政府・
与党筋から聞こえてまいりますけれども、
参議院があえてこのような抽象的な
テーマで
議論することは、
憲法改正の重さ、その
重要性を政局的にではなく大局的に捉えようとするもので、私は敬意を表したいというふうに思います。
参議院は、
文字どおり熟議の府あるいは良識の府と言われると同時に、私は国権の
再考機関であると、こういうふうに随分昔からしゃれで言ってまいりました。
つまり、リシンキング、再び考える、
再考機関。
つまり、
衆議院と同じように急いで決めたり、
衆議院と同じことではなく、
参議院は
参議院らしくやっていただきたい。その
意味で、私の、
憲法とは何かという今回の
テーマをお引き受けをした、こういう無理な日程でお引き受けした理由は、まさに
参議院のその
再考機関性、再び考える性に共感したからであります。
では、
憲法とは何かを考えることからまず始めたいと思います。
今、百
地参考人から一年生の一学期、まあ前期の二回目の講義でやる、私もやる
お話をしていただきました。
立場や
内容は微妙に違いますし、反対するところもありますけれども、この論点で深めていきたいとは私は思いません。と申しますのは、この
議論がもう少し次の段階で絡んでくる問題、これを、ここに書きました自明なことの自明でない確認から始めたいと、こういう
意味でございます。
自明でないことは何か。それは、今述べられた
議論を含めて、政党から出ている
改正案を含めて、
憲法はこういうものじゃないかというのはそれぞれ
意見が出ます。しかし、それが
改正案となって出てきたとき、それは実は
憲法という
本質の
議論からいってどういう問題があるのか。
つまり、
憲法とは何かを理解する上で、そうではないいろんな言説を逆に
議論することによってそこから
憲法とは何かに逆照射、光を当てたい、これが今日の手法でございます。そうしますと、実は、素材としまして自民党の改憲草案を素材にさせていただいておるわけですけれども、これは非常によく分かりやすいという
意味でそういう
意味でございます。
一点目。まず、この
憲法とは何かという
議論で、先ほどもありましたけれども、縛るとかそういう
意味で
議論もありましたけれども、私の
資料の四十二ページから四十五ページのところで随分昔の
議論を書いてあります。
これは、実は小林節
教授と私とでフジテレビの番組に出まして、
一般市民が
議論をして最後フジテレビで放映されたんですが、
改正について賛成か反対かでやったんですが、最後、その六人は全員一致で保留という結論を出したんです。その理由は、
憲法は
国民が守るものでなく、自分たちの政治を担当させる
権力者に対してそれを縛る、統制するものだと、そういう結論に彼らは到達しました。それに至るプロセスは私と小林節
教授は全く
意見がほとんどの論点で違いましたけれども、
唯一、
憲法の
本質論においては
近代立憲主義の
立場に立つ、小林先生も先ほどの百
地参考人の
国民共同体論には立たない、
つまり伝統的な多数派
憲法学の、
近代立憲主義に立った場合こうだということを私と同じことを言ったために、市民がそこでは
憲法の
本質論を理解していただいてこういう結論になりました。これは後でお読みください。
そして、私が十一年前、朝日新聞社で、当時幹事長だった安倍現総理が
憲法改正をこう論議しようといった「論座」に書いた論文に対して、編集部から
批判してほしいというので書いた論文が
資料の四十九ページ辺りからございます。
そこで私が述べた
内容は、
つまり、
権力抑制原理としての
憲法の意義というものの認識をめぐって違いがあると。
つまり、
憲法に与えられた機能の
役割の第一義的なものというのは、
権力担当者に対して政策選択肢の幅を限定させる。この考え方が
立憲主義の基本にあって、基本的に
主権者国民が時々の
権力担当者の言わば政治を授権、与えるわけですけれども、それが暴走しない
一つの障害として設けたものである。だから、
立憲主義というのは、その
意味では歴史的に培われてきた人類の英知の
一つであると、こういうふうに述べまして、だからそのハードルを下げることには問題があるのだという趣旨のことなどを論じておりますので、そこは昔のものですけれども、現総理との
議論のやり取りということでお読みいただければと思います。
したがいまして、安易な
憲法改正というのは、実はこの
憲法とは何かの
本質に関わるところの
議論が不十分なままに変える、変えないの
議論に移行してしまっている、そこに問題があるということを私は指摘したのであります。
そこで、
内容に入りたいと思います。まず二番目。
憲法前文に歴史、伝統、
文化、先ほどでいえば
国柄、そういうものを書き込むことの
意味であります。
そういうことを書き込むべきだという説がございます。しかし、
近代立憲主義の伝統的な
憲法の
立場、現在私は全国
憲法研究会の
憲法学者五百人の代表を務めておりますけれども、昔のように護憲か改憲かで対立したんじゃなくて、今日は余りにも
立場の違う人間を呼び過ぎていますけれども、私の全国
憲法研究会には私を
批判するような若い
憲法学者がいっぱいおりまして、それでも全員が一致して学問の選択の中で
立憲主義の基本には立っています。ですから、先ほどのような
立憲主義の
立場を取らないで、五百人の
憲法学者は基本的にそれぞれの研究をやっておりますから、研究の自由は、昔のようなやや、某
教授の圧力とか、そういうのはもう
存在しません、私がトップですから。その
意味では、自由にしよう。そういう観点からすれば、
憲法の理解も多様ですけれども、
唯一、一点一致しているのは、
国柄とか伝統とか歴史を過剰に
憲法の中に書き込むことに対しては抑制的であるという点では、これはほぼ五百人一致をしております。
なぜかというのは、これは是非
資料を見ていただきたい。二枚目でございます。
つまり、中華人民共和国
憲法には、中国は世界で歴史の最も古い
国家の
一つであるとか、輝かしい伝統とか、そういうことが書いてある。あるいは韓国
憲法にも、悠久なる歴史と伝統に基づく、こういう形の前文に入れている
憲法は、韓国、北朝鮮、中国などそう多くなくて、英米独仏、一連のそういう
近代立憲主義の正統的な西欧の
憲法にはこういう文章はありません。
つまり、
国柄を入れろというのは、一見すると何か非常にいいように聞こえますけれども、実はあえて入れないことによって
立憲主義の基本、
つまり多様な
意見がそれぞれ共生し合って、いわゆる比較不能な価値の共存関係と言う人もいますけれども、そういうものが
立憲主義なんだから、そういう中身に踏み込むようなことについてはできる限り
憲法は抑制的である、こういう
立場がほぼ共通の理解になっているわけです。ですから、その
意味で、伝統、
国柄等を書き込む
憲法の事例に見られるように、これは決して
一般的ではなく、かなり特殊だとあえて言いたいと思います。
それから三つ目、
人権規定も、
我が国の歴史、
文化、伝統を踏まえるべきだという
意見がありますが、これは別に東大の権威主義じゃありませんが、東大の宮沢俊義
教授が述べているように、明治
憲法が実は近代諸国の
憲法をモデルにしながら手本にして作ったんだと。ところが、明治
憲法の解説者の中には、安易な国粋主義や愛国心に動かされて、明治
憲法に対するヨーロッパ諸国の
憲法の影響をできるだけ無視しようとする声が出てきたと、こういうことを述べていらっしゃいまして、決して明治
憲法も
国柄や伝統ではなくて、
近代立憲主義の西欧的なものをモデルにしながら作ってあります。臣民の権利その他にも
限界がありますけれども、
立憲主義を取る以上、それが
立憲主義の基本であるということを申し上げたいと思うのであります。
ですから、
人権規定についても伝統を踏まえるべきだという主張に対しましては、
つまり基本的には
近代立憲主義の原点からすれば、これはそういうものではないということを申し上げたいと思います。
それから、四のところで書きました、
立憲主義は
国民の義務
規定を
憲法に設けることは否定しないという
議論でございます。
これは基本的に、ごめんなさい、今の三番目で追加させてください。例えば、
憲法九十七条と十一条があります、
基本的人権です。これを九十七条は削除するという御主張が与党の中にあります。現に草案になっております。
しかし、これは全く
意味が違う。十一条は
人権の総論でありますから、位置関係からすれば
人権の総論として
存在する。九十七条は
人権の場所ではなく、最高法規の章にあって、九十七、九十八、九十九の三か条で
憲法は最高法規としています。
つまり、九十七条は目的。
憲法の目的、すなわち九十八条が最高法規とする目的は九十七条の
人権の保障にあるんだと、だから公務員は
憲法を尊重し擁護する義務があるのだという、こういう立て付けになっておりまして、この
憲法の立て付けは、確かにダブった
表現が十一条と九十七条であるんですけれども、決して位置関係からすれば無
意味なものであるどころか、
日本国憲法の先ほどの
言葉を借りればアイデンティティーの
本質が九十七条の最高法規のトップ条項にある、そのことを強調しておきたいと思います。
つまり、九十七条を削除する
憲法草案というのは、
人権を基本的に最高法規で確保しない
憲法を考えているのかという悪口が出てきてしまうような
内容であると思います。
それから四のところで、
立憲主義は、
国民の義務
規定を
憲法に設けることを否定しないということにつきましては、これは
資料を見ていただければ分かりますけれども、実は欧米の自由主義
国家では義務
規定はオンパレードではございません。義務
規定がたくさん出てくるのは旧社会主義国の
憲法と中国の
憲法でございまして、今日、全部並べてございませんけれども、下の方にたくさん義務が出てまいります。
つまり、
憲法があえて権利と義務両方を
バランスよく入れるんだというのは、これは極めて不正確でありまして、そもそも
憲法は、
バランスよく入れるんだったら要らないんです。法律は
バランスが必要です。民法でもそうです。でも、
憲法は
最初から
バランスは決まっています。なぜならば、
個人と
国家、
権力担当者、
国家の言わば
統治機構では圧倒的に力の差がある。だから、
憲法はあらかじめ
個人が侵害されないように様々な自由を定めたり、その自由も
権力の侵害の度合いに応じて厳しくしたり緩めたりしているわけであります。
そこから見られるように、まさに義務を強調するという
言い方、例えば
国家学会の中にもあったとか、そういうのはあるんですが、昔のあの
限界のある教科書をもってして証明にはなっておりません。
つまり、端的に言いまして、
憲法はあえて義務を書き込まないと言ってもよいくらいでありまして、二十七条の勤労の義務も、基本は勤労の権利に重点がありますし、もちろん納税とか教育の義務もそれぞれありますが、教育の義務の主体は子供ではありません。そういう
意味からいっても、明治
憲法下の教育の義務とは明らかに違う。
そういう観点から、
立憲主義の問題からすれば、
近代立憲主義に立った
日本国憲法は、あえて言えば、義務はゼロでもいいとは言いませんけれども、義務を限りなく抑制した現在の制度設計というのが最もそれに照応したものであると言いたいと思います。
そして、更にございますけれども、次の
憲法尊重擁護義務に行きたいんですが、
憲法尊重擁護義務でいいますと、
つまり、そこに
国民が入っておりません。代わりに天皇と摂政が入っております。なぜ摂政まで入っているか。それは、摂政は皇太子が摂政宮になって何かを行うことも含めて、実は皇室が天皇という形で国事行為を行うときに
憲法尊重擁護義務を課しています。
憲法尊重擁護義務をあえて課したことによって、例えば即位後朝見の儀で現天皇は、皆さんとともに
日本国憲法を守り、とはっきりと言いました。そのときの皆さんは
国民を含んでおりません。その前にいた最高裁長官から始まる総理大臣竹下登さん、それから議会の長ですね、そういう人たちを含めたいわゆる
国会議員、裁判官、その他の公務員を指していたはずと私は解しておりまして、当時それを高橋和之
教授が雑誌「世界」で論じたことを今も記憶しております。皆さんの相手は誰か。あの天皇が述べた皆さんは、皆さんとともに私も
日本国憲法を守るということであったのではないか。
もちろん、天皇は政治的行為をできない、内閣の助言と承認ですから、内閣がそう言わせたとか、そういう
議論はここでは立ち入りません。しかし、
言葉だけを取って、歴史に残ったあの瞬間の
言葉が皆さんとともにと言った
意味は、九十九条を私は素直におっしゃったのではないかと考えております。
したがって、
国民に
憲法尊重擁護義務を殊更に課すという
議論は、先ほどの
資料を見ていただくと分かりますが、諸
外国の
憲法には尊重擁護義務、特に中国とかそういう国がありまして、ドイツはちょっと
意味が違うので、また質問があれば答えますけれども、中国などの尊重擁護義務は非常にリジッドでございます。
そして、現行
憲法の占領下だったからという
議論については今回は省略させていただきまして、あっ、省略の点で一点言いますと、例えば
憲法二十四条、そこに女性の権利が書いてあります。女性の権利について、スターリン
憲法やソ連
憲法をまねしたからこれは共産主義の価値が入っているというようなことをおっしゃる議員の方もいらっしゃいますけれども、これは間違いでございまして、私、それを弁証するために、一番最後に私のホームページの直言というのを、ちょっと
特定の議員の方に
批判のように聞こえますが、これそのとき書いたものですからお許しください。
それを書くことによって、実はその六十一ページから六十二ページにかけて、美智子皇后が指摘されたいわゆる五日市
憲法や
近代立憲主義の熱い思い、そして何よりもベアテ・シロタ・ゴードンさんへのメンションを誕生日のこの挨拶の中でされておりまして、この中にも見られるように、共産主義でも何でもなく、リベラルなアメリカの女性の考え方というのが
日本国憲法の中にも入っているということがここで主張をされているわけでございます。
そういう観点から、まさに、押し付けだ、全てはアメリカの価値のものだということは当たらない。
つまり、伝統的な様々な日本の中にあった様々な価値、明治
憲法以来、自由民権運動以来のものと、外から女性の権利に対する熱い思いを持った、占領軍にいたたまたまそういった女性たちのまさに合作が
日本国憲法である。
憲法は、シンプルに、簡単にこっちとこっちでできるものじゃなくて、複雑なプロセスを経たモザイクのような
一つの芸術品です。だから、弱点だらけであるし、その解釈も多様であるし、様々な問題を持っています。どこにも
憲法が一〇〇%いいなどとは言いません。全国
憲法研究会の代表として、
憲法を
改正してはならないなどという
憲法学者は一人もおりません、九十六条がありますから。
ですから、
憲法を
改正する場合にはどういう
議論の仕方が重要かというのが最後のポイントでございます。それが私の
言葉で言う
憲法改正の三つの作法でございます。
作法などという、茶の湯やそういう世界のものをあえてここで持ち出したのは、誤解を承知で私が述べたのは、いわゆる
ルールであるとか法則であるとか原則というよりは、もっと私は強調したかった。
つまり、あえて法律にも書いていない、そういう手続法にもないけれども、誰もが当然の条理として知っておくべきものが
憲法改正には普通の法律と違って求められるんだと。なぜか。それは、先ほども
議論があったように、
憲法は基本的に国の基本的な構造を
規定しているものです。ですから、その時々の
政権の事情によって変えられてはならない。その
意味では、
政権が替わっても引き継がなきゃいけない継続性と一貫性と、何よりも安定性が必要です。
そうしますと、それを変える場合、三つの考慮事由が必要である。
一つは高い
説明責任です。この
説明責任というのは、基本的に変える側に高い
説明責任が課せられていると私は考えております。それは、民事訴訟でいえば、原告、被告はフラットでございますから、
バランス論や対等の
議論が成立します。しかし、刑事訴訟では絶対にそれは成立しません。なぜならば、疑わしいだけでは有罪にはなりません。検察が有罪を立証できなければ無罪でございます。これが無罪推定です。
したがって、
憲法については法律と違って
バランス論ではなく、変える側が
憲法改正をしなければどうしようもないんだということが証明できて初めて
憲法改正の
議論に入っていく。これは法律と違うところであります。法律は、それぞれ草案を出して、闘わせて、
政権が取ればそれで変わることは我々目撃していきますけれども、
憲法は違う。
憲法の場合は、基本的にそういう
意味でいえば長期的な国のそういう安定性や定着性、そういうものを定めますから、時々の
政権では変えられないように作る。だから、変える側は高い
説明責任が証明できなければ変えないという結果ができる。
つまり、変えない側がなぜ変えないのかを
説明する必要は私はないというふうに思っております。なぜならば、変える側が
説明に失敗をすれば
憲法は残るということでございまして、その
意味では、九十六条を先行して変えようと一時期総理が、二〇一二年の総選挙後言いましたが、近年では先行
改正論は影を潜めたのがそうであります。
つまり、九十六条を早く変えることに
説明に成功しなかった。
国民が支持しなかっただけではなくて、恐らく皆さんの、
委員の中でもこれはちょっと筋が良くないと思った方もいらしたはずであります。こういうことですから、九十六条は変わらなくて今もあるわけです。そういう
意味からいっても、私は、そういう
意味で高い
説明責任はする側に高い
説明責任がある。
二つ目は、情報の公開と自由な討論です。
どうして
憲法を変えなきゃ駄目なのかということが十分に
議論されないで、取りあえず環境権が
合意を得やすいからというのは、これは全くもって
憲法をなりわいとする者からすれば許せないことです。
環境というものは、環境権と環境の責務という国の義務とは全く質が違います。権利というのは裁判所に訴求できる権利なのか、客観的な法秩序の中における責務条項なのか、この
区別もしないで環境権を
憲法に入れましょうという
議論は極めて不誠実な
議論の仕方であります。そういう方に限って、代替エネルギーの問題や福島の原発の復興の問題について必ずしも熱心ではないような方も見受けられるのは、私は偶然ではありませんと思います。
そういう
意味からいいましても、環境権を入れるよりもっと環境が、究極の環境破壊である福島を何とかしてほしいという被災者の人々の気持ちの方にむしろ、福島の人は環境権の
改正には賛成するかどうかは疑問ですが、そういう点が言えます。
三つ目、それは熟議の期間であります。
情報の公開と、きちっとしたそういうものがなされた上で熟議の期間が必要だ。一体、
憲法を変える
権力の担当者の側から、
参議院選後にまず第一回をやろうなどということがなぜ出てくるのか、私は理解できません。
国民の側から
憲法を変えようという声があります、したがって、そういう声が大きくなってきた、どうしても
憲法改正をしなきゃならない、そういう段取りであるはずです。
後でお読みいただきたいこの小林節
教授とやったフジテレビの番組、是非この
委員会で、フジテレビから提供すれば、二〇〇五年三月に放映したものです、一切再放送してくれませんけど、それを是非皆さんで御覧ください。普通の市民が見てみて、改憲、護憲、三対三が最後全員一致で、
憲法はそういうものだから、
権力担当者の問題だから、我々は一回下から
憲法改正の
議論が上がるまで保留しようと、あるいは
憲法の
本質を理解できる場にしようと、こういうことで保留にする結論をフジテレビの番組でしました。
そういう観点からも、私はこの三つの作法というのをその番組の体験から持ってきたことを今も記憶しております。
最後になりますけれども、このような、
つまり憲法改正の仕方からすれば、この
審査会がまず
憲法とは何かというところから始めたということは、
政権側のように期限を切ってやるせわしい
議論とは違って、やはり根本的な
議論をしたいということが与野党皆さん御一致したということで、
参議院に対して非常に敬意を表したいという冒頭の
言葉に戻るということを最後に申し上げて、私の
意見を終わりたいと思います。
ありがとうございました。