○仲里
委員 ハイサイ グスーヨー ウクタンデーネーミソーラニ。沖縄の方言で、
皆さん、お疲れございませんかという
意味でございます。
私は一回生ではありますけれ
ども、入った途端に最長老になったそうでございまして、また、議席の順序も一番であります。何から何まで非常に幸せに思っております。総理の指名のときも、私に一票入れた方がおられまして、大変光栄に思っておりました。
余談は抜きにいたしまして、このたびは農水
委員会の
皆さんの御好意によりまして、無所属でありますが、
質問の機会をいただきまして、心から感謝を申し上げます。
本日は、沖縄のかりゆしウエアを着用してまいりました。沖縄では年じゅうこれで許されております。寒い人はまた長いのをつけてもいいというふうになっておりますが、これは、私の地元であります沖縄県の南風原町というところの、かすりの里、そこのいわゆる特産品であります。ちょっと値段は高うございますが、ぜひ先生方にも着用いただけたらと
思います。
きょうは、実は、本旨であります
TPPの関係で
質問をしたいなと思っておりましたけれ
ども、これまでも林農林
大臣には
質問主意書という形で
質問を何度かさせていただいておりますので、あくまで、例の水産に関係いたします辺野古の埋め立てにかかわる件を
質問させていただきたいと思っております。
辺野古の海は、沖縄県が自然環境の保全に関する指針でランクAとして保存すべきだとした立派な海でございます。この海を
政府みずから
国民の血税を使って潰して、そして
アメリカ政府に無
条件で
提供することに対し、県民は、七十年前と同じように、またこの沖縄を要塞化して、
日本本土を守るための捨て石として利用していると考えるようになっております。
それでは、通告の順序は違いますけれ
ども、
質問を行います。
まず第一番目の
質問は、
農林水産大臣が知事の指示の執行停止を命じるに当たって挙げた理由の根底には、沖縄への差別と蔑視、国益のための県民の民意無視、これまでの琉球処分のように沖縄を切り捨てても構わないという考えがあるのではないかと懸念をいたします。
答弁をいただく前に、辺野古への新基地建設強行に見られますように、これまでの沖縄県民に対する
日本政府の
対応等、歴史的な変遷と密接な関係があると
思いますので、沖縄の歴史
認識についてしばらく述べさせていただきたいと
思います。
まず最初は、十五世紀から十九世紀までにかけまして、沖縄、つまり琉球王国は曲がりなりにも独立国でありました。
一六〇九年、幕命を受けた薩摩藩は琉球に侵攻し、武力で琉球王国を薩摩藩の附属国といたします。その一方で、幕府と薩摩藩は、琉球に朝貢貿易を仲介させるため、日清両属関係を継続させます。つまり、表向きは独立国ですが、実際には植民地だったからであります。その間、幕府と薩摩藩は、琉球に対し、徹底的な差別と弾圧で臨みました。
日本による植民地支配の構図の始まりだったと考えられます。
次が、一八七九年の廃藩置県です。
明治維新により、急速に近代化の設立に邁進していた
日本は、朝貢貿易をこれまでどおり行うとともに諸
外国との修好条約をいち早く進めていた琉球に対し、
日本への併合と廃藩置県を進めようといたします。
ところが、明の代から続いている冊封関係から、いきなり
日本の一部とすることはさすがにできません。まず最初は、勅命により琉球を琉球藩とし、薩摩藩の附属国を廃して
日本国
政府直属とし、次に、琉球藩を解体して沖縄県を設置するという段階的な方法で臨みます。
もちろん、その手続に当たっては全く民意を問いませんし、むしろ、琉球処分官と軍隊の武力を背景に、強権的に廃藩置県を布告して
日本に編入いたします。このため、県民はこれを第一次琉球処分と称し、県民の胸に深く刻んでまいりました。
次が、一九四五年の敗戦に伴う米軍統治と、一九五二年のサンフランシスコ講和条約による屈辱的な信託統治です。
アメリカは、沖縄を東アジアのかなめ石と位置づけて、最前線の基地を確保するため、銃剣とブルドーザーによる土地接収を行います。もちろん住民は、島ぐるみ闘争と呼ばれる抵抗運動を展開し、徹底的に反抗いたしました。
また、米軍は、基地の安定運用を図るため、高等弁務官による直接統治を行い、沖縄の政治、
経済、司法等、あらゆる面で住民を抑圧します。それを県民はキャラウェー旋風と呼んでやゆしました。つまり、県民にとって米軍統治は植民地支配以外の何物でもなかったのです。
次に、サンフランシスコ講和条約による信託統治であります。
県民にとって、この日は屈辱の日であります。沖縄が
日本から切り離され、異民族の米軍の施政権下に置かれた日だからです。
日本本体の維持、防衛のため、沖縄が見捨てられた、捨て石にされたからであります。だから、県民はこれを第二次の琉球処分と位置づけて、その非道さを長く語り継ぎました。
次が、一九七二年の祖国復帰であります。
我々沖縄県民の多くは、異民族支配から脱し、
日本に戻るべきであると考え、保守、革新の垣根を越えて祖国復帰運動に
取り組みました。しかし、結果は、統治者が米軍から
日本政府にかわっただけで、それ以外は米軍統治下と何ら変わっておりません。
米軍基地は相も変わらずそのまま残り、過重な基地負担は続き、基地から派生する事件や事故は、減少するどころか、むしろ増加、悪質の一途をたどっております。
確かに、空港や道路、港湾等のインフラ整備は進みましたが、
経済の自立化に結びつく産業の育成に
日本は手をかそうとしませんでした。沖縄振興費と呼ばれる多額の資金は投入されましたが、県内には残らず本土に吸い上げられる、いわゆるざる
経済であります。そのため、県民はこれを第三次の琉球処分と位置づけて、現在に至っても復帰の是非を自問自答しております。
ところで、沖縄振興について、東京新聞は、沖縄振興予算の中に国直轄事業分や県と関係の薄い予算が含まれており、いわばまやかし、見せかけの沖縄振興予算であると厳しく糾弾し、そのからくりを暴きました。
また、国からもらった交付額と国に納めた税額を見比べると、沖縄は国に多く納めていることも明らかとなっております。
さらに、沖縄は、基地があるがゆえに、辺野古に新たな基地を受け入れる見返りのゆえに、通常の予算とは別枠で多額の予算が配分されているという声がちまたにはあるようですが、そんなことは決してございません。むしろ、沖縄は、先ほどの国直轄事業分等を含めても、全国の十七位にしかすぎません。
次が、一九九六年の辺野古への新基地建設
条件つきの普天間基地の返還です。
普天間基地は市街地の真ん中にあり、世界一危険な飛行場と称されております。加えて、一九九五年に米海兵隊らによる少女暴行事件が発生したことから、うっせきした県民の怒りが爆発し、基地撤去を求める動きが加速いたしました。
これに慌てた
日米両
政府は、普天間基地の返還を合意しますが、普天間基地の代替施設は県内という
条件をつけます。
これは、沖縄に最新の機能を持った基地を
日本政府の負担で確保したい米軍の考えと、
日本、とりわけ尖閣諸島の防衛に
アメリカを巻き込みたい、新基地を
日本の負担でつくっても防衛予算全体のコストからすれば安上がりで済む、尖閣諸島や東南アジアをにらんだ前線基地を沖縄につくり沖縄を要塞化したい、去る大戦と同様に、また沖縄を本土防衛のための捨て石にしても構わない、危険なものは全部沖縄に閉じ込めておけばよいという
日本政府の思惑が一致した結果だと思っております。
ところで、普天間基地の返還合意から既に十九年が過ぎました。
日米両
政府が目に見える形で沖縄の基地負担を軽減すると華々しく打ち上げました嘉手納基地より南の米軍施設・区域の返還にしても九年が過ぎております。なぜ基地返還は進まないのか。その最大の原因は、返還の
条件とされた県内への代替施設の建設であることは明白です。
また、辺野古基地建設を受け入れるとした稲嶺知事や岸本名護市長の苦渋の選択の
前提条件である撤去可能な構造物、そして十五年共同使用について、
政府は一言も触れようとしません。あたかも了解だけがあったかのように振る舞っております。
だから、県民はもはや
日米両
政府の言うことは信用しませんし、納得もしません。基地負担を軽減するといいながら、実は県内で新たな基地をつくることが
条件だということは明らかに不条理であり、誰も
承知できません。むしろ、そのような考えを持つこと自体が県民に対する差別であり、蔑視でしかありません。
したがって、今のように沖縄が自決権を奪われ、基本的人権と民主主義も適用されないのであれば、行き着く先は、主権の回復を目指す機運が生じてくるだろうと思料いたします。
以上で、沖縄に関する歴史的な変遷と歴史
認識についての
説明は終了いたします。
なお、答弁をいただく前に、あえて沖縄県と
政府のやりとりを
説明させていただきます。
まず最初に、沖縄県が沖縄防衛局に対し、ボーリング作業の停止を指示します。これに対し、沖縄防衛局は、上位省である
農林水産大臣に県指示の執行停止申し立てと審査請求を行ったというのが一連の流れであると
理解をしております。
それでは、早速でございますが、
農林水産大臣の御答弁をお願いいたします。